【来た!見た!書いた!】世界文化遺産となった日本の「殖産興業」の起点

東京から車で1時間の場所にある「世界文化遺産」

 町の中を行き来するにも時には「渡し船」を使う。しかもそこには世界文化遺産候補の建物もある。こんな場所が、鉄道や車で東京からわずか1時間程度のところであるのをご存じだろうか。
 利根川の北岸と南岸に分かれた群馬県伊勢崎市境島村。埼玉県深谷市や本庄市に接する飛び地の南岸側には、4月末に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関から世界文化遺産の登録勧告を受けた「富岡製糸場と絹産業遺産群」を構成する4資産の1つ、田島弥平(1822~98)旧宅がある。そしてこの島村周辺は、明治初期に養蚕業や製糸業などの「絹産業」を通して日本が「殖産興業」を進めていく起点となった場所でもあるのだ。
 1955年までは「島村」として独立した市町村だったこの地区。今は地区の真ん中を利根川が流れ、その両岸をつなぐために「島村渡船」という渡し船が運航されている。その渡船の航路は群馬県の県道297号だ。この渡し船ができたのは、「暴れ川」と呼ばれた利根川の長い歴史が関係している。
 利根川は明治期まで、流れがいくつにも分かれたり、曲がりくねったりする複雑な形をした川だった。それだけではない。洪水のたびにその流れが変わってしまう。島村地域の利根川は、寛永期(1624~44年)から1883年のおよそ250年のうちに、11回も流れが変化したという。

日本の養蚕業はすべて大きな川のほとりにあった

 明治期の地図を見ると、島村の中を3本の利根川が流れ、北岸側と南岸側だけでなく中州にも分かれたいたことがわかる。
 政府は利根川の洪水を防ごうと度重なる改修を実施。島村付近は1914年の工事で両岸に堤防が設けられ、ほぼ現在の流路が定まった。島村は北側と、埼玉県側に飛び地としてある南側に、完全に二分されることになった。この二分された島村の間を行き来するのが島村渡船だ。
 しかし利根川の洪水と流れの変化は、島村の人たちに飛躍の好機も与えた。
 洪水のたびに流されてくる山の枯れ木や落ち葉が積もってできた土地は肥沃だ。稲や麦などは洪水が来れば流されてしまうが、桑の木は土の中に深く根を張るため、洪水にも流されにくく、水が引けばまた芽を吹いた。
 河川の沿岸で育つ桑には、きょうそ病という蚕の寄生虫病の原因となるカイコノウジバエの産卵が少ないという利点もあった。日本の三大蚕種(蚕の卵)地といわれた島村、信州(長野県)南佐久、奥州(福島県)伊達はそれぞれ利根川、千曲川(信濃川)、阿武隈川という大きな川のほとりにある。
 こうした地域の特性により、江戸期から既に島村では養蚕業が盛んだった。だがそれだけで島村が殖産興業の起点となり得たわけではない。島村を日本の絹産業をひっぱる地としたきっかけは、田島弥平(1822~98年)だ。


富岡製糸工場と渋沢栄一の関係

 田島弥平は幕末から明治にかけて、優良な蚕種を生産するには「清涼な空気=換気が大切」とする「清涼育」を体系的に完成させた。それだけではなく、1階に住居、2階に多くの窓を配した蚕室を置き、さらにその上に換気のための引き戸がある「やぐら」を設けた養蚕用の建物を考案し、自宅とした。世界文化遺産候補の田島弥平宅の母屋は江戸末期の文久3年に上棟されたものだ。
 弥平はこれの技法を『養蚕新論』などの著書にまとめ、普及に務めた。明治期に全国で養蚕を学ぶ人たちは、富岡製糸場で最新の製糸技術を学び、田島弥平宅にも訪れて清涼育の研修を受けたという。群馬県や埼玉県などの山あいに多い、やぐら付きの養蚕農家建築は、島村から広がっていったものなのだ。
 絹産業を近代化させた島村を考えるとき、もう1つ注目すべきなのは田島弥平と渋沢栄一(1840~1931)のつながりだ。
 渋沢栄一の生家は島村の田島弥平旧宅から2キロばかり南東の深谷市血洗島にある。群馬県伊勢崎市と埼玉県深谷市と、行政区は分かれているとはいえ、現地を少し歩いてみれば、その風土も経済圏も同じであることがわかる。しかも両者は遠縁の関係で、栄一の生家も養蚕農家だった。
 明治維新直後に政府の役人になった渋沢栄一は「富岡製糸場主任」として製糸場の創設を主導した。また機械製糸場の誕生による繭の大量消費を予想して、田島弥平ら優れた技術を持つ人達を「養蚕教師」として養蚕を学ぶ者の指導に当たらせる仕組みを整えたのも栄一だ。


日本の殖産の香りを残す富岡の建築物

 田島弥平らは1872年、島村でできた蚕種を直に海外へ輸出するため、日本で最初の蚕種業の株式会社「島村勧業会社」を設立した。この当時としては珍しい「株式会社」という仕組みを使い、しかも鎖国解除から間もないこの時期に直輸出を行う取り組みを指導したのも渋沢栄一だった。明治初期、島村産の蚕種は、当時欧州では病気で蚕種が激減していたこともあり、世界中でひっぱりだこになる。
 富岡製糸場の初代場長に就いたは、渋沢栄一より10歳年上の栄一のいとこで、『論語』の師でもあった尾高純忠(1830~1901)。惇忠の長女、尾高勇(1858~1923)は富岡製糸工場の製糸伝習工女の第1号になった。
 こうして見ていくと、明治初期の絹産業の近代化が、島村の田島弥平らと、そのすぐ近くで生まれた渋沢栄一の人脈で主導されたことがわかる。
 明治から昭和にかけて生糸や絹織物が、日本の輸出の5割前後を占めていたことを考え合わせると、島村周辺を日本の殖産興業の起点の1つと捉えても大げさではないだろう。
 現在の島村周辺。強固な堤防によって凶暴さを抑えられた現在の利根川は「暴れ川」の印象は薄い。また既に養蚕をやめて久しい島村では、ネギや麦の畑が広がり、桑を見つけるのは難しい。
 だが付近には、田島弥平旧宅だけでなく、立派なやぐらを備えた養蚕農家建築が密集して残っている。少しずつ改修を施しながらも、江戸期や明治初期の建築物を壊さずに使い続ける島村の人たち。その姿勢に、日本の絹産業をひっぱった往時の島村の人たちの心意気を見たような気がした。


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