第47回 「日本製品=高品質」の原型を作った138年前の製糸工場

未だに創業当初の雰囲気を伝える繰糸場138年の歴史
 
2007年に世界遺産の暫定リストに登録された富岡製糸場(群馬県富岡市)を先日、見学した。日本初の官営工場として1872年(明治5年)に創業。その後民間に払い下げられ、1987年まで115年間操業を続けた、明治期の「殖産興業」政策を体現した工場である。

富岡製糸場の経営者は三井家、原合名会社を経たあと、1938年からは片倉工業になった。同社は1987年に操業停止した後も、富岡製糸場の建造物をそのまま維持し続け、2005年に富岡市に建造物を寄贈。現在は富岡市が管理し、100人弱の地元民が務めるボランティアガイドが見学者に解説をしている。
 
片倉工業の管理がよかったこともあり、建造物は今も創業当初のままだ。5万平方メートル強の敷地に繭の倉庫や、フランス人指導者のための住居などさまざまな建物があるが、中心は繭から生糸を繰る作業を担った繰糸場(そうしじょう)だ。
 
繰糸場の建物は幅12メートルで長さは140メートル。多くの繰糸器を置き、工員が働きやすくするため、柱がなくても屋根を支えられる「トラス構造」を採用した。電気がない時代に工場内を明るく保つため、採光のためのガラス窓を約200カ所、またサナギなどの臭いがこもらないよう屋根に蒸気抜きも設けた。
 
繰糸場には創業当初、フランス製の繰糸器(釜)を300台設置した。「当時、欧州で一番大きな製糸場でも繰糸器の数は150台だったので、世界で最大の繰糸場だった」(ガイドの神戸修身さん)という。できたばかりの明治政府の殖産興業への意気込みが伝わってくる話だ。


アーネスト・サトウが記した日本製生糸の質の低下
 
この富岡製糸場。大人500円の入館料を払えば、場内を自由に歩き回って見学できる。だがより深く知る、楽しむためには1時間置きに正門を出発するガイドツアー(無料)に参加するのがよい。今回、ツアーに参加して個人的に発見があったのは、明治政府が富岡製糸場を設けた目的についての説明を聞いたときだ。
 
生糸や蚕種が日本の最大の輸出品となったのは、1859年(安政6年)の横浜開港がきっかけだ。当時、欧州では蚕の伝染病である微粒子病がはやり、繭や生糸、蚕種までが極端に不足していた。
 
また生糸の大量輸出国だった清国はアヘン戦争などで、生糸の生産を大幅に減らし、需要国の要望に応えられない状態だった。そんな状況の中で、日本の品質が高い生糸や蚕種が注目を集めたわけだ。
 
横浜開港後の輸出総額に占める蚕糸類の比率を見ると、開港翌年の1860年には早くも蚕糸類が65.6%を占めている。5年後の1865年には、88.5%に達するまでになった。ところが蚕糸類の貿易が爆発的に広がる中で、国内では生糸や蚕種の粗製濫造、偽造が横行するようになってしまった。
 
「生糸には砂が混じっていたり、重い紙ひもで結わえてあったりするので(中略)良質品と信用するわけにはいかなかった。(中略)そんなわけで外国人の間に、『日本人と不正直な取引ものとは同意義である』との確信がきわめて強くなった」。幕末から明治にかけて日本に滞在した英国の外交官、アーネスト・サトウは『一外交官の見た明治維新(上)』の中で、当時の生糸貿易の実態についてこう記している。
 
ガイドの説明を聞いて意外に思ったのは、日本の生糸など蚕糸類の品質が一度は大きく低下したという事実だ。歴史の教科書では富岡製糸場の建設の目的は「輸出品の要であった生糸の品質改良と大量生産を可能とするため」などと書かれている。これを読んだだけでは、品質低下の事実はわからない。


製糸産業が作った自動車ニッポンの意味
 
明治政府は1870年(明治3年)に「官営製糸場設立の議」を決し、生糸の粗製濫造問題を解決し、良質な生糸を大量に生産するために、政府資本による模範工場を設立することを決めた。つまり富岡製糸場の目的の1つは、日本の輸出の要でありながら一度は評判が地に墜ち日本製生糸について、大量生産が可能な器械(きかい)製糸を導入することで再び品質を高め、世界からの信頼を取り戻すことにあったのだ。
 
こうした経緯で1872年にできた富岡製糸場は当初、10人のフランス人を雇い入れ、日本人に器械製糸技術を指導した。技術伝習生として15~25歳の若い女性が全国各地から集まり、彼女たちは器械製糸の技術を取得した後、それぞれの地元に戻り、指導者として活躍した。
 
品質の低下から明治初期にいったんは落ち込んだ蚕糸類の輸出は、富岡製糸場設立後に再び盛り返し、1909年(明治38年)には日本が中国を抜いて、世界一の生糸輸出国になる。そして大正、昭和初期まで、蚕糸類や絹織物は日本の輸出の大黒柱であり続けた。
 
製糸産業が繊維産業に広がり、さらにその繊維産業の技術を応用する中で、今の日本の柱である自動車産業が興ったことを考えると、製糸産業の勃興期に品質問題をいち早く解決した「富岡製糸場の意味」が見えてくる。
 
いま、「日本製品=高品質」というイメージは世界中に広く流布している。だが明治期に富岡製糸場がなければ、アーネスト・サトウが記したように、世界の日本製品に対するイメージは著しく低いままだったかもしれない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・8・3)


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