第4回 鉄道の遅れに見る日本社会の変質

私鉄の遅れが目立ってきた
 
その日は朝のラッシュピークが過ぎたころ、ホームに滑り込んできた西武池袋線の「急行」に駆け込んだ。異変に気づいたのは、急行電車が駅を出発してすぐ。急行の停車駅でもないのに、電車は停車と発車を繰り返す。「今朝方、清瀬駅付近で人身事故がありましたため、ただいまダイヤが大幅に乱れております」のアナウンスで、合点が行った。

終点の池袋駅に着くまでには、いつもの倍以上の時間がかかっただろうか。妙に気になったのは、乗客が終始、落ち着いていたことだ。
 
携帯電話で勤務先などに連絡する人はいたものの、ほとんどの乗客は「ああ、またか」とあきらめたかのような表情で、じっと到着を待っている。日本人はほんの数年前まで、電車がほんのちょっと遅れただけでも、目をつり上げていたはずなのに。
 
2004年から2007年にかけて、私は東京を離れていた。その後、3年ぶりに東京へ戻って最初におやっと首をひねったのが「電車の遅れの急増」である。
 
関東地方でいえば、東京を離れる以前からJR中央線は人身事故と、それに伴う遅延が多いことが知られていた。だが多くの私鉄はそれほどではなかったし、私の利用する西武池袋線はほとんど遅れることがなかった。
 
ところが再び東京へ戻ってくると、西武池袋線は頻繁に遅れるようになっていた。感覚的には、週に1回から10日に1回程度は、遅延に遭遇する。そして、その多くが「人身事故により」と説明されている。
 
国土交通省によると、列車に運休または30分以上の遅延が生じた「輸送障害」の2006年度の件数(全国ペース)は4421件で、10年前より48%増えている。「輸送障害」に計上されることのない30分未満の遅延は、さらに多いはずだ。


遅延を生む3つの原因
 
遅延が増えている原因は何か。1つにはJRや私鉄、あるいは私鉄同士の相互乗り入れが増え、鉄道の運行形態が複雑さを増したことだ。
 
西武池袋線について言えば、以前は西武線の中だけでダイヤが完結していた。だが今や西武線のダイヤには、メトロ有楽町線、副都心線、メトロが乗り入れる東武東上線も関係する。
 
冒頭の人身事故の時でも、メトロ有楽町線・副都心線は西武池袋線との直通運転を中止しなければならなかった。さらに2012年に副都心線が東急東横線と乗り入れるようになると、例えば東横線の横浜付近での事故が、東京都西部と埼玉県を走る西武線にも影響を与えるようになるだろう。
 
2つめの理由は、鉄道事業者以外による「部外原因」の増加だ。先の国交省による調査では、鉄道事業者の「部内原因」による輸送障害が10年間で19%増にとどまるのに対し、「部外原因」による輸送障害は79%も増え、06年には1477件になった。
 
さらに06年度の場合、この部外原因のうち534件(36%)を「自殺」が占めるのだ。この統計からは、自殺による遅延がどれだけ増えているかはわからないが、部外原因の増加率と同程度には、自殺による遅延も増えているとみていいだろう。
 
今や鉄道で人身事故が起こり遅れが出ても、事故が朝夕のラッシュ時などに起こり、よほどの数の乗降客に影響が出ない限り、新聞やテレビは報道せず、一般人にはその原因を知る術はない。だが国交省の調査からは、飛び込み自殺の増加によって列車の遅延が増えていることが、透けて見えてくる。
 
3つめの理由。それは推測の域を出ないが、107人の死者を出した、2005年4月25日のJR西日本福知山線脱線事故の影響だ。国交省の航空・鉄道事故調査委員会は07年6月にまとめた最終報告書で、事故の背景には余裕のない運行ダイヤなどJR西日本の企業体質全般があるとした。
 
JRをはじめとした日本の鉄道は、単に遅れないだけでなく、遅れてもすぐに回復できるシステムの柔軟性に特徴があった。ダイヤの工夫や運転士の技能などにより、遅れている電車を元に戻す。だがJR西日本の事故を境に、鉄道事業者側には定時運転に対するこだわりが薄れ、乗客側にも「遅れを取り戻すために無理をされるよりも安全を」という気持ちが生まれたのではないか。


遅延の先に見えるもの
 
経済ジャーナリストの三戸祐子は鉄道本の名著『定刻発車 
日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか?』(新潮文庫)で、日本の鉄道が「定刻発車」を実現できるもとを探ると、江戸時代の参勤交代や「時の鐘」などにまでさかのぼれると指摘している。遅れない電車はある意味、鉄道会社の努力だけでなく、国民性とも分かち難く結びついていた。
 
この本は皮肉にも、福知山線の事故が起こったのとほぼ同時期の2005年4月末に文庫化された。そしてそれからわずか3年の間に、日本人は電車が遅れることに「慣れてしまった」ように見える。
 
飛び込み自殺の増加、鉄道の遅延の常態化、そしてそれに慣れつつある日本人。これらはごくごく短い間に、日本社会の「変質」が進んだことを示している。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。


トップページ -> 地方経済の視点 -> 第4回 鉄道の遅れに見る日本社会の変質