第36回 ネットの世界でいち早く日本発の世界標準を世に出した経営者がいた

「世界をめざした起業家」のあまりにも早い死
 
東京都千代田区のJR水道駅近くに本社を置く、そのベンチャー企業を初めて訪ねたのは1998年の春ごろだったと思う。本社のある小さなオフィスビルの場所はわかりにくく、何度か通行人に場所を聞いてたどり着いたときには、約束の時間を少し過ぎてしまっていた。

90年代半ばごろから銀行がベンチャーに積極融資するなどして、「第3次ベンチャーブーム」が盛り上がっていた。だが97年には、山一証券が自主廃業し、ベンチャーの倒産件数も72件と前年より8割も増えた(帝国データバンク調べ)。98年といえば、ベンチャーに対する向かい風が強まり、ブームが急速にしぼみつつあったときだ。
 
だが、その会社にはそんな「逆風」を全く感じさせない元気さと明るさがあった。そして何よりも印象的だったのは、取材の間、社長が「日本発のオリジナルで、世界に通用するソフトをつくる」という言葉を、何度も口にしていたことだ。
 
実力以上の「大言壮語」をはく起業家は多い。だがその言葉は、不思議と大言壮語のようには聞こえなかった。起業家として、会社として必ず目指さなければならない「理想」。あえて表現すると、そんな響きが、この言葉にはあった。
 
この会社とはソフト開発のACCESS(当時は「アクセス」)。そのACCESSの創業者で当時社長だったのが、10月23日に亡くなった荒川亨氏である。
 
ベンチャー全体に対する逆風だけでなく、当時の日本のソフト開発業界には、米国に対する劣等感も漂っていた。


いち早く日本発の世界標準を開発
 
1970年代のマイクロプロセッサー(MPU)の開発、パソコンの登場にともない、多くのベンチャー企業が誕生したのは米国も日本も同じだった。西和彦氏らがアスキーを創業したのは77年、孫正義氏がソフトバンクを起こしたのは81年のことだ。
 
だがパソコンの世界で基本ソフト(OS)を握ったのは米マイクロソフト。インターネットの興隆と共にキラーアプリケーションとなったブラウザ(閲覧ソフト)の分野でも、日本勢は太刀打ちできなかった。
 
日本語という参入障壁のあるワープロの世界ですら、「一太郎」を開発したジャストシステムは既に劣勢となり、「パソコンの世界で日本のソフト開発会社がデファクトスタンダード(事実上の業界標準)を握るのは無理だ」という空気が濃くなっていた。
 
荒川氏が個人事務所「荒川設計事務所」を創業したのは79年で弱冠20歳のとき。「有限会社アクセス」として会社組織にしたのが84年のことだ。
 
最初はマイコン関連の開発から始め、プログラミング言語の開発なども手掛けた荒川氏は、パソコンの世界でマイクロソフトはじめとした米国勢が覇権を握ったことに、悔しさをかみしめた1人だった。
 
荒川氏やACCESSがほかのソフト会社と違ったのは、「それならば日本の会社が勝てる分野は何か」を考え、「日本のメーカーが強い家電分野に集中する」ことを、早くも80年代に決めていた点だ。まずは当時、日本ではほとんど注目されなかった、インターネットの通信方式である「TCP/IP」に対応した通信ソフトを手掛けた。そして95年には、インターネットテレビのための接続・閲覧ソフト「ネットフロント」の開発にこぎ着けた。


会うたびに青臭く理想を説く経営者の凄み
 
私が初めて会社を訪れた98年春には、ネットフロントは既に各社家電メーカーのテレビのほかワープロなどにも搭載され、搭載機器数は累計100万台を超えていた。そしてACCESSのさらなる飛躍のきっかけになったのが、NTTドコモが99年2月に始めた「iモード」サービスだ。
 
当時の携帯電話の限られた環境でも実用的にインターネットを利用できるようにするためのネット記述言語「コンパクトHTML」や、コンパクトHTMLで記述されたホームページを閲覧する「コンパクトネットフロント」を開発し、NTTドコモを通してNECや松下電器産業(現パナソニック)など大手端末メーカーに供給したのがACCESSだ。
 
これをきっかけにACCESSのソフト供給先は一気に拡大。今や世界で同社製ソフトを搭載した機器の数は8億台を超すという。
 
98年春に荒川氏に会って以来、折に触れて荒川氏のもとを訪ねるようになった。今でも思い出すのは、そのたびに、最初に会ったときと同じような「理想」を聞かされたことだ。「ネット閲覧ソフトのデファクトスタンダードをとりたい」「最高のソフトウエアを世界に送り出したい」......。起業家は理想を掲げれば成功するわけではないが、たとい「青臭い」と言われようとも、社内外で理想を唱え続ける荒川氏がいなかったら、今のACCESSはなかっただろう。
 
最後に荒川氏に会ったのは、再び長期入院する前の2008年夏。このときは日本と米国の社会では起業家やベンチャーの扱い方が違うという話しをした後で、「今の目標はR&D(研究開発)企業で世界一になること。その道はまだ1合目に達したぐらいだけれど」と話していた。
 
それから1年あまり、荒川氏は帰らぬ人となってしまった。享年50歳。いつまでも理想を追い続けた起業家の、あまりにも早すぎる死である。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・12・1)


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