第29回 世界経済危機への対処方法は80年前の国内産業に学べ

1929年恐慌時の生糸産業は今の自動車と電機を合わせた規模
 
2007年の米国の住宅バブル崩壊をきっかけに始まり、昨秋の米証券大手リーマン・ブラザーズの破綻をきっかけに、世界に広まった世界経済危機。その衝撃の大きさなどから、1929年に始まった世界大恐慌と対比して語られることが多い。

各国が採用している危機対策は、大恐慌時の政策を反面教師にしたもの。日本政府が7月に出した2009年度経済財政白書も、足元の経済危機を世界大恐慌などと比較・検証した。
 
日本の産業を巡る状況は経済危機の前と後ではで一変し、自動車や電機といった輸出型製造業が苦境に陥った。産業や企業の採るべき戦略を考えるときにも、同じように短い間に状況ががらりと変わった大恐慌時の産業の状況が参考になる。
 
財務省の貿易統計によると、経済危機が深刻化する前の07年、輸出に占める比率は輸送用機器が25.1%、電気機器が19.7%で計44.8%だった。いわゆる自動車・電機産業が日本の輸出の屋台骨だったことが一目でわかる。
それでは世界大恐慌のころ、日本の輸出を支えていた産業は何だったのか。江戸時代の末期から明治・大正にかけて、日本の輸出の大黒柱だったのは蚕糸や絹織物だ。日本が中国を抜いて、世界一の生糸の輸出国になるのは1909年(明治38年)のことだ。
 
富沢一弘・高崎経済大学教授の『生糸直輸出奨励法の研究 星野長太郎と同法制定運動の展開』によると、世界大恐慌があった1929年(昭和4年)、輸出全体に占める蚕糸類・絹織物の割合は44.0%だった。
 
その比率は07年の輸出に占める輸送用機器・電気機器の比率とほぼ同じ。当時の蚕糸産業は、現在の自動車と電機を合わせた巨大な産業だったことが分かる。
 
今回の経済危機では、日本の自動車・電機産業が米国の消費に過度に依存していたことが、欧米以上に日本経済の落ち込み方が大きかった理由だ。大恐慌時、日本の生糸の輸出先は90%以上が米国だった。いま以上に、日本の経済は「米国が風邪を引けば日本も」の構造だったわけだ。
ところが大恐慌の影響などで、31年には生糸の価格が29年比で53%も暴落する。生糸の輸出額も47%も減ってしまった。輸出に占める蚕糸類・絹織物の比率も35%にまで落ち込んだ。


「53%も輸出が落ち込んだ生糸産業の実直な内需拡大策
 
こんな状況の中で、日本の蚕糸や絹織物の事業者はどのように対処したのか。興味深い動きをしたのが、当時から京都の西陣と並ぶ絹織物の産地だった群馬県桐生市の織物事業者たちだ。
 
当時、桐生織物同業組合(現在の桐生織物協同組合)の組長を勤めたのは、彦部駒雄という人物。桐生織物が全盛を誇った大正末期から昭和初期にかけて、桐生だけでなく同じ群馬県の伊勢崎、栃木県の足利など両毛地域の織物業界の指導者だった人物だ。
 
この時期に、彦部が先頭に立って採った戦略が、今に照らし合わせても示唆に富んでいる。桐生市在住で、桐生織物の歴史に詳しい亀田光三氏によると、彦部は空前の織物不況に打ち勝つため、東京や大阪を中心に、全国的な宣伝活動を展開。大阪で開いた大会では、高島屋など6大デパートに審査を依頼し、賞品授与式には群馬県知事まで担ぎ出した。
 
宣伝大会の会場では、彦部は自ら売り場に立ち、招待客に購入をお願いして回ったという。組長在任中の宣伝大会は30回近くにもなった。こうして輸出が落ち込む中で、国内向けの生産量を増やしていった。今でいう「内需拡大策」である。
 
彦部は新市場の開拓にも辣腕をふるった。29年には東南アジア市場を、当時としては常識はずれともいえる約3カ月間の長期にわたって視察した。
その後、上海やインドのコルカタ(旧カルカッタ)、インドネシアのジャワ島などに駐在員を派遣、輸出事業者と協議して規格統一や商取引方法の改善などを進めた。


現在の製造業が取るべき道がそこにある
 
こうした施策が実を結び、桐生織物の32年の輸出点数は29年の約4倍に膨らんだ。織物不況の中で国内の他の産地が衰退するなか、桐生織物の生産額はほぼ横ばいを維持した。「彦部の強力な指導で内外の販路を拡大し、恐慌を克服した」(亀田氏)のである。
 
桐生市の中心にある桐生織物会館の前庭には、彦部の業績をたたえた碑がある。戦前には一時期、同じ場所に彦部の銅像が建てられていた時期もあるが、43年には軍事用資材として拠出してしまったため、今あるのは文章のみを記した頌徳碑のみで、地元の人でもその存在を知る人は少ない。
 
彦部は生前、国際的には「産業に国境なし」を信条として、当時のグローバリゼーションを拒むのではなく、正面から立ち向かうことで活路を開いた。その後、桐生に限らず日本の織物業界は第2次世界大戦で大きな打撃を受けるのだが、大恐慌後の桐生織物の戦略は、今でも賞賛に値する。
米国発の経済危機で自動車・電機の輸出が激減し、輸出型製造業が苦しむ現在の日本の状況は、80年前とダブって見える。彦部がいま生きていれば、受注を待つのに慣れた下請けメーカーに営業や販売促進の強化を促し、輸出については欧米一本やりから転換して、アジアなど新興市場の開拓に向けて先頭を切るに違いない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・9・1)


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