第11回 民俗学者ゆかりの地で聞こえてきた「サザン」の情けなさ

この夏、瀬戸内海に浮かぶ周防大島(山口県周防大島町)を訪れた。周防大島は民俗学者、宮本常一が1907年(明治40年)に生まれ、1981年(昭和56年)に73歳で没した場所である。彼はその生涯で、民俗調査のために計16万キロを歩いたといわれるが、その旅と学問の原点となったのが故郷の周防大島だ。

戦後の高度成長期、宮本は既に中央との格差が広がりつつあった地域の復活を願って、日本中を歩き続けた。田中角栄流の高速道路ではなく、村と村を周回道路で結びつけることを主張した彼の視点は、現在の「東京と地域」「中央と地方」の問題を考えるためにも欠かせないものだ。その宮本が生まれた島を、一目見たいと思ったからだ。
 
まずは松山の三津浜港からフェリーで山口県の柳内港へと渡る。柳井駅から山陽本線に少し乗り大畠駅でおりる。そこからバスで本土と島をつなぐ橋を通って、島の中央部にあり、宮本の著書、2万点の蔵書、10万点を超す写真などを収蔵する「周防大島文化交流センター」を目指した。
 
ところが、その日は休館日。自分の下調べ不足をのろいながら、とりあえず、その日の宿に決めていた、島の東側、片添ヶ浜海岸にある民宿に向かって、とぼとぼと歩き始めた。


失ったものの大きさ
 
周防大島は、江戸時代から明治、大正の頃にかけて四国や九州などで、高度な細工技術の伝統工法により寺社などを建てた「長州大工」の拠点だ。宮本の祖父やその弟も大工をしていたという。それだけに普通の民家でも、風情のある木造建築が多い。
 
そんなことを感じつつ、周囲を見渡しながら民家や畑の中を数キロ歩いて小さな峠を越えると、急に景色と雰囲気が一変した。小高い峠からは椰子の木が並び、白い砂浜の「ビーチ」が見下ろせた。かすかに音楽も聞こえる。近づくにつれ、それがサザンオールスターズの曲であることがわかった。
 
民宿も、想像とは大違いだった。これも事前にちゃんと調べればわかったことだが、明らかにその民宿は、大学のサークルなどの合宿などで海に遊びに来る若者のグループを主な対象としており、宮本につながるようなものは何一つない。
 
夕食まで時間があったので、しばらく海外を歩いた。白い砂浜や椰子の木以外にも会員制のホテルやテニスコートや海の家もそろい、ビーチの体裁は整っている。施設を説明した看板は、このビーチがバブル経済真っ盛りの1988年に認可を受け、90年代初めにオープンしたリゾート施設であることを示している。民宿の人によると「白い砂浜は島外からわざわざ運んできたものだ」そうだ。
 
ビーチが観光客で賑わっていればまだいい。だが8月の上旬、まさに海水浴に絶好に季節だというのに、白い砂浜には人がまばらだった。そんな風景の中、サザンだけがずっと流れ続けている。
 
サザンが嫌いなわけではない。だが元から瀬戸内の穏やかな海に面した風光明媚だった場所を、いかにも今風のビーチに改造して、湘南風のサザンを朝から晩まで流し続ける必要があるのだろうか、という苦い思いがよぎった。「海といえばサザン」という発想は、いかにも薄っぺらではないか。その海岸で聞く「TSUNAMI」は、歌詞とは別の意味でわびしかった。


写真が語るあるべき姿
 
それでも翌朝は気を持ち直して、島の方々を見て回った。宮本がよく上ったという白木山の中腹からは、島の中心部がすっと見渡せた。彼の父が普及に力を注いだみかんの畑が、山から続くなだらかな斜面に広がる。
 
宮本がよく遊んだという神社の森も規模は小さくなったとはいえ、昔の雰囲気を十分に残している。片添ヶ浜とは反対側の入り江では、小さな男の子たちが魚を捕るための網を持って走り回っていた。
 
前日には空振りした周防大島文化交流センターを、開館時間の少し前に訪ねてみた。20代の男性係員が「熱心ですね。いま準備しますから少し待っててくださいね」とすぐに用意をして、展示室に通してくれた。
 
センターには、宮本の呼びかけに応じて地元有志が集めた生産用具が展示されているほか、その日は「宮本常一の目 
昭和30年代の日本」と題した写真展も開かれていた。
 
だが既にその写真展を東京でも見ていた私にとって何よりも嬉しかったのは、宮本が日本各地で撮影した写真のほぼすべて(約8万9000枚)を、パソコンで地域や年代を自由に検索しながらつぶさに見られることだった。
 
「いい写真」を残すことにこだわらなかった彼の写真は、それこそ宮本の視点そのものだ。時には山並みの写真ばかり、またある時には鰹節の生産現場と思われる写真が続く。展示会では選ばれないような何の変哲もない写真だからこそ、彼が何を見ようとしていたのかを感じることができた。
 
代表作『忘れられた日本人』(岩波文庫)だけを読んでいると、彼を、忘れられた日本を懐かしむ伝統主義者のように捉えてしまいがちだ。だが彼は地域固有の文化を守ろうとする一方で、広い道路や橋などの文明の利器を地域にどう取り入れるかも考え続けていた。センターの展示室の入口には、彼がふるさとの東和町(現・周防大島町)の町史に寄せた文章が掲げられている。

 
「それぞれのふるさとの文化は、そこに住んでいるものが守らねば守りようのないものである。新しいものをどううけとめるかの姿勢の検討が大事になる。古い誇るべき文化を守ることによって、新しい文化を迎え入れる力を生じるのが真の文化的発展ではなかろうかと考える。外部からの政治的、経済的な力の導入がふるさとの喪失への道につながるものであってはならないと思う。」
   
(東和町誌 はじめに 昭和57年)

 
少なくともサザンが流れるビーチが、彼の目指した方向ではないだろう。彼のふるさとですら、画一化と衰退は進んでいる。地域の力をいかに取り戻すかがいまの日本の課題となる中で、改めて宮本常一を読む必要を感じている。

(2008・11・18)


トップページ -> 地方経済の視点 -> 第11回 民俗学者ゆかりの地で聞こえてきた「サザン」の情けなさ