第1回 事業は「運」と「勘」、そして「人材」。 例え損をしても、粘ってやれば形ができてくる。(前編)

澤田ホールディングス株式会社 代表取締役社長澤田秀雄 氏澤田ホールディングス株式会社 代表取締役社長
澤田秀雄 氏

聞き手 松室哲生(おもろい会社研究所主幹)

ベンチャーの雄と評された澤田秀雄氏が海外旅行会社エイチ・アイ・エスを起業したのは30年近く前。その同社も、今では海外旅行で第2位の大手旅行会社に成長した。
 
ところが澤田氏の挑戦は海外旅行分野だけに終わらなかった。ホテル経営、飛行機の就航。さらにまるで畑違いの証券、銀行などの金融業にも手を広げ、実績を積み上げた。そのチャレンジ精神と行動力は健在である。
 
泰然自若とした風貌とその成功の影には、人知れぬ苦労と努力、またいくつかの成功の秘策があるに違いない


――澤田さんとは10年ほど前に、私が『週刊ダイヤモンド』の編集長のときにお目にかかりました。当時とは、想像もできないほど大きな事業規模になりましたが、その頃から現在のようなイメージを持っていましたか。

【澤田】その時分にはありませんでした。その後1996年に、今から思えば無謀にもオーストラリアに土地を買い、400室ほどのホテルを建てました(ザ・ウォーターマーク・ホテル・ゴールドコースト)。マネージメントの経験もないのに自社でやりまして、数年間赤字でした。そのホテルの目処が立つか立たないうちに、今度は航空会社(現スカイマーク株式会社)を作ろうと手を上げたわけです。

――失敗する不安を持ちつつ新事業に挑戦されたということですか。

【澤田】いや失敗すると思って事業を始める人はいませんね。若さとパワー、それに驕りでしょうか(笑)。
 
持論ですが、起業した会社が100社あったとしても、3年後に残るのはそのうち20社くらいです。生き残れた会社は元々成長産業のはずですから、その後10年から15年くらいは好調を維持して業績を上げ、経験を積み、経営者には自信も生まれてきます。
 
その頃がまた一つの分岐点でして、それまでの好調による自信が「自分には何でもできるんだ」などという驕りに変わってしまい、実力以上のことをしようとするのです。ところが、思惑通りにはいかず失敗し、最後に残るのはほんの数社となるわけです。
 
私がホテル業と航空業に進出したのがちょうどそんな時機でしたね。資金力は現在の10分の1くらいでしたから、あの時一つ間違えていれば潰れていたと思います。

――航空事業では、当時の大手3社の風当たりが強かったですね。

【澤田】最初の年こそ稼働率80%でしたが、翌年から大手の会社もスカイマークと同じ価格帯に揃えてきました。すると、それまで利用してくれたお客さんはよそに行ってしまいました。お客様は冷たいですね(笑)。
 
それで稼働率が一挙に30%に落ち込みました。飛行機を運行させるのに月に5億円かかりましたから、毎月数億円の赤字。年間で何十億円もの赤字が出ました。

――危ない時期を乗り越えられた最大のポイントは何ですか。

【澤田】7割が運だと思いますね。それと私の場合、役員たちが新事業に参入するのには猛反対しましたから、そのせいで元々10あった若さのエネルギーが6くらいに抑えられました。そのことが却ってよかったのかも知れません。ですが、航空事業が赤字に陥ったときは、役員たちから滅茶苦茶に言われました。「半分は賛成したはずじゃないか」と思いましたがね(笑) その後スカイマークは4、5年かけ、ようやく黒字になりました。

――多少危ないとわかっていても、ベンチャー企業にはチャレンジ精神は欠かせません。

【澤田】ベンチャーに限らず、どんな会社であっても企業がチャレンジを忘れれば、新しいものなど何もできません。ただし、若い頃はそのチャレンジが行き過ぎてしまう。何もしないでいるのは駄目ですが、やり過ぎて潰してしまうのはもっと駄目です。

――航空会社経営の第一線から退かれた後、現在の金融業に進出しました。

【澤田】金融業のときも、役員たち全員から反対されましたね。ホテルと飛行機は旅行関連だからまだしも、証券会社は全くの畑違い。絶対止めろ、もってのほかだ、なんてね(笑)。  実は当初は、投資銀行を買おうと思っていたのです。銀行を買うのには、何百億、何千億かかります。しかもその投資が吉と出るか凶と出るかはわからない。反対しますよね。で、証券会社にしたのですが、あのとき銀行にしていたら今よりずっと大規模になっていたか、反対になくなっていたかもしれません(笑)。
 
山一證券の子会社だった協立証券を引き受けてくれないかという打診は、まだスカイマークが軌道に乗る前にあったので最初は断わったのです。ところが、話を持ってきた方が熱心な人で、「あなたにしかできない」などと説得されて(笑)。けれども役員は全員反対。「やればできるかもわからないけど、やっぱり反対」。
 
ですから、最初は個人で引き受けました。なので澤田ホールディングスにはエイチ・アイ・エスの株は入っていないのです。

――全くの畑違いですから相当な苦労があったでしょう。

【澤田】旅行代理業のエイチ・アイ・エスについては私自身がゼロから立ち上げたので、隅から隅までわかっていました。ところが金融についてはズブの素人、旅行業とは土壌も文化も全く違う。まるでゴルフのプロ・ゴルフツアーに、シングルでもないアマチュアが参戦したようなもので、大変にきつく、辛い思いをしました。

――それでもやる以上、何らかの勝算があったわけですよね。

【澤田】とにかく、よその証券会社がやっていないことをやろうと考えました。当時はインターネットが広まってきたときだったので、インターネットでの信用取引を一番安い値段で出しました。
 
すると今ではとても信じられないことですが、毎月何万という単位で口座が増えていきました。わずか5カ月で先行する証券会社の口座数を抜きそうになったのです。ところがそんなときに、なんとコンピューターのシステムがダウンしてしまったのです。それからが悲惨でした。何万件もの売買がストップし、行政処分で営業停止を受けました。
 
巨額の損害ですから、システムを導入した会社に対して訴訟を起こさざるを得ませんでした。しかし、そんなことよりもインターネットを利用して口座を増やす証券会社としては、致命傷を負ってしまい、インターネットの世界で何年も遅れをとってしまうと、後からはもう追いつけません。

――致命傷を負った会社をどのような方法で立て直したのでしょう。

【澤田】まず儲からない部門を削りました。そして、3億から4億円かかっていた経費を、思い切って1億5000万円くらいに減らしました。
 
また、当時はベンチャー企業花盛りの頃で新興企業のIPO(Initial Public Offering:株式公開)の時代が来ていましたから、主幹事をやって29社のIPOをやりました。それらの成果によって売上げが上がり、利益も10数億、20数億、30数億と増やすことができ、04年に上場を果たすことができたわけです。
 
と、まあそこまではよかったのですが、今度はライブドア事件に巻き込まれて......。


2008年5月 月刊『エマージング・カンパニー』誌の取材に


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