【第8回】24時間年中無休で、人で溢れさせる「すしざんまい」の超前向き経営

株式会社 喜代村

築地場外を復活させた男
 
世の中に前向きな経営者は数多いが、常に前を見ている経営者という意味で図抜けているのが(株)喜代村社長の木村清だろう。木村と会うと、いつもその攻めの姿勢に驚かされる。それも、自ら楽しんで行なっているから、周囲もついその気にさせられるのだ。

この会社は喜代村というより「すしざんまい」と店名で言ったほうが通りがいい。築地場外に本店があり、24時間年中無休のこの寿司店にはいつも行列が出来ている。しかも本店だけでなく、その横には別館があり、新大橋通りをはさんだ反対側には本陣に奥の院、そして新館など築地だけでなんと9店舗(回転寿司2店含む)、を展開、都内で銀座、有楽町、六本木、渋谷、秋葉原、錦糸町などを含め24店舗で営業している。
 
実は、現在の築地の賑わいからは想像できないが、同社の「すしざんまい」本店が出来る2001年までの築地場外は、来客数が年間150万人を切り、深刻な状況にあったのである。ところが、この24時間年中無休の「すしざんまい」が出来た効果で活気づき、現在は再び600万人を超えるほど築地に客が戻ってきた。まさに、すしざんまい効果である。
 
いや、効果だけではない。現実に売上高は120億円、経常利益も10億円(連結:2007年9月期)を上げている。僅か20数店舗の会社にしては、大きな数字である。


既存のビジネスでやってないことを次から次へと考えた
 
社長の木村は、1968年、15歳の時に航空自衛隊に入隊した。「F104に乗れる」と聞いて喜んで入った少年に、現実は厳しかった。厳しい訓練が待ち受けており、しかも航空自衛隊の場合、なれるのは通信兵であることが分かった。
 
しかし、木村少年はへこたれず前向きに道を模索する。入隊後、2年9ヶ月で第四術課学校を卒業し、自衛隊にいるまま18歳で大検に合格した。前代未聞のことで、これにより操縦学生になれる資格が出来たのである。しかし、運悪く事故で目を悪くしてその道は閉ざされる。
 
それで一転弁護士になろうと、通信教育で中央大学に入り、司法試験は2年で択一式試験までは受かったが、カネが続かずに、アルバイトにも精を出さざるを得なかった。そんな中で、結局、大洋漁業(現マルハ)の子会社で冷凍食品の販売会社に入り、魚の勉強をするのである。これがその後の木村の運命を変えた。
 
木村がそこで見たものは何か。既存の会社は、自分の価値観と違う判断でビジネスを行なっていたのである。例えば当時、小さい切り身は捨てていた。木村はそれを見て変に思う。なぜ捨てるのか。もっと使えるのではないか。そう考えるとすぐに実行するのが木村の真骨頂。小さい切り身を集めて、寿司ネタとすることを思いつく。スライスし、1枚あたりの原価が分かるようにして売っていった。また、当時考えられなかった「あったかい弁当」の材料に出来るのではないかと考え、自分でやってみた。それが現在のほっかほか弁当の原型である。自分で「ほか弁」まで作ってしまったのだ。
 
残ったものを集めて、土日だけのスーパーのようにして販売もした。これもあたった。
「どうしたら売れるか、どうしたら人が喜ぶか、こんなものがあったら喜んでもらえるんじゃないか。そんなことばかり考えていた(木村)」
 
考えただけではない。すぐさま実行に移していったのだ。
 
こうして、マルハの子会社では社員となったが、2年9ヶ月で独立した。出るくいは打たれるの例え通り、やりすぎたゆえに独立せざるを得なかったのである。マルハのお客さんは持ってこないことで、次の会社に移ったがここで交通事故にあう。


思いついたことはすべて実行してみる
 
木村商店を創業したのは、そんな経験をした後の1979年のことである。
「あらゆることをやった」と木村は簡単に言うが、実際に勘定できるだけで90以上の業種業態を経験し、そのうち多くの新業態開発を行なっている。食材開発、弁当屋は前述の通りだが、コンビニ、カラオケ、レンタルビデオなどはまだ誰も手を染めていない時に開発しているのだ。
「今あるものより、いいものを作る。しかも自社で開発する(木村)」がモットーだった。空いている倉庫があれば、夜だけの居酒屋を始めた。廃車になったバスを改良して、カラオケボックスとした。漬物や、この期に影響を及ぼす本マグロの取り扱いを始めたのもこの頃である。
 
当時、柴漬けはキロ当たり800円したが、さくら大根がいちばん安いと見るやそれを仕入れ、キロ200円で作った。中国でも水産加工をやった。きゅうりがキロ当たり10円しないのを知り、彼の地で原料を漬け込んで生産すれば、いいものを安く作ることが出来ると考え実行した。マグロの大トロは日本人の好むところだが、海外では食べない。そこで、海外に行き、大トロを持ってきた。このようにして、思いついたことはすべてやってみた。
「やってみないと出来るか出来ないかは分からないじゃないですか。製品化するにはなんでも問題は出る。しかし、あきらめずにやり通せば出来るのです(木村)」
 
余談だが、すし屋のネタにある「炙りトロ」は木村の発明である。これも、考えて、実行してみたことの一つというわけだ。


客回転率1日23.5回転のすし屋が誕生した
 
ある築地場外の店舗オーナーから相談を受けたのは2000年の頃である。築地が陳腐化してきた。訪問客数は150万人を割り込んだ。場外の店がこのままでは廃れていくので何とか活性化できないかというものだった。
 
ここで木村は考えた。訪れる客の立場で考えた。築地のセールスポイントは、やはり「寿司」である。いつ行っても食べられる、定休日も、ネタの売り切れも、閉まっている時間もない店が作れないかと。幸いにして新鮮なネタをいつでも供給できるルートを持っていた。自分なら78品目のネタをいつでも出し続けられる。そこで初めて、24時間年中無休の店構想が具体化したのである。やる以上は一人たりとも不満足では帰さない、そんな気持ちで一杯だった。
 
この店は結果として大成功した。35坪、40数席の店で年間10億円を売り上げた。客単価3000円として、客回転率は1日23.5回転である。驚異的な実績と言う以外にない。ここから、同社の快進撃が始まる。築地を中心にドミナントを形成し、そして少しずつ、その輪をほかへ広げていった。現在の店舗数になるまで6年を要しているのを見ると、意外に遅いと感じるかもしれない。しかし木村は慎重である。この店なら成功するかどうか、じっくり見極める。そして出店するとなると、一気に開店に持っていく。
 
2007年11月。同社でも始めての5店舗同時期オープンが開始した。僅か1ヶ月の間に古くなっていた別館のリニューアル、回転寿司の築地2号店、東新宿店、それに加えて初のふぐ専門店の「ふぐざんまい」、そして魚の小売店である「フィッシュマーケット」の5店舗をオープンするというのだ。東新宿店以外は、すべて築地に立地するとはいえ、相当の集中力を持って全社挙げてやらなければ、成功は望めない。
 
しかし、これをやりきった。「ふぐざんまい」などは開店の1週間前には何も出来ていないような状況だったのに、である。
「3日で店が出来なきゃ商売じゃない」とは木村の口癖だが、まさにこれを地でいったことになる。この集中力が会社を強くするのである。実は、木村は一度事業を辞めようと思ったことがある。20年以上事業を続け、借り入れが20数億円あったが、金融危機のさなか、旧北海道拓殖銀行が一括返済を要求してきたのである。一度も返済が滞ったことがない、優良貸出先であったはずなのに、難題を突きつけられ、挙句の果てにだまし討ちのようにして、返済させられた。何のために働いているのだという気持ちで一杯だった。会社は利益が出ていたが、整理して撤退しようと考えたのだ。
 
しかし、友人たちがそれを見て、止めるなと言ってくれた。カネを出してくれ、小さな一軒の寿司屋を作った。これが、後の「すしざんまい」の原型になるのである。
 
そんな木村の将来の夢が、楽しい。山と川を育てることだという。60歳以上の人たちがゆっくり休みながら働ける場所を山に作る。ニワトリを育て、山菜を取り、その食材は店で使う。また、子供たちを集め食育を行なう。老人はそこで収入を得て、老後を送れる。山が活性化すれば、山崩れなどを防げて、川がきれいになる。すると海も藻などの繁殖がなくきれいな海になる。そこで海洋牧場を作る。魚を増やす。その一部は獲って食べればよい。そんな夢が実現するのも、木村のバイタリティを考えれば、そう遠くないような気がする。

(2008・1・29)


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