【第48回・前編】素人発想で奇跡的な製品開発をした老舗企業の未来

山本化学工業株式会社

ウチの素材ならレーザーレーサーに負けない
 
2008年の北京オリンピックの前、ちょうど各種目で代表選手が決まっていた頃、水泳選手の間では水着問題が持ち上がっていたのを覚えている人は多いだろう。俗にいう「レーザーレーサー」問題である。英スピード社のレーザーレーサーという水着を着て泳いだ選手が、軒並み世界新記録を出し、世間を賑わしたことに端を発した問題だ。ところが日本選手は当時日本水連がスピード社とオフィシャルサプライヤー契約を結んでいず、契約を結ぶ国内メーカーにレーザーレーサーと同等以上の水着の開発を求めた。結論からいうと国内メーカーは開発を行なったが、結局水連はレーザーレーサーの着用を認め、多くの選手はそれを着て泳いだ。

この騒動のなかで、大阪にある山本化学工業という会社が自社の開発した素材なら絶対にレーザーレーサーに負けない結果が得られると主張し、国内メーカーに無料で提供するといって話題となった。これも多くの人の記憶に残っているところだろう。今回取り上げるのはその山本化学工業である。
 
まず結論からいっておこう。結局同社製の水着素材は北京五輪では国内メーカーには採用されなかった。その詳しい話は後に譲るが、実は今年になって様相ががらりと変わっていたのである。


江戸時代から続く老舗企業の大転進
 
今年ローマで行なわれた世界水泳2009では、山本化学工業社製の素材を使った水着を着用した競泳選手が、全体の80%近くにもおよんだのである。その結果かどうかはもちろん断言できないが、北京五輪で出た世界新記録の数が23であるのに対して、今年のローマでは通算43もの世界新記録が生まれ、その半数以上が同社製素材の水着を着ていた。ちなみにレーザーレーサーの着用はごく僅かだった。
 
ではなぜ多くの選手が同社製素材の水着を着用するに至ったのか。
「世界の多くのメーカーが、選手にレーザーレーサーとウチの素材のどちらがいいか着用して泳いでもらいました。その結果ウチの方がいいとなった」と同社社長の山本富造は語る。
 
ではそもそも、なぜ同社はこのような画期的な製品を開発できたのか。それを知るには同社の歴史を紐解かなくてはならない。
 同社の創業は1964年となっているが、その歴史はさらに古く、遠く江戸時代までさかのぼる。石川県小松出身の山本家は、当時北前船屋を生業としていた。北前船屋とは北陸の日本海沿岸から北海道に遡り、太平洋岸を南下し、各地に寄港しながら大阪を終着とした航路を運行した回船問屋である。
 
しかし、明治維新以降近代化が進み、北陸では商売が難しくなった山本家は大阪に出てくる。当時石川県人が多く集っていた東成村(現在の大阪市東成区)に拠点を構えた。海運業は第一次大戦の後の企業統合で飯野海運の傘下に入ることになったが、本家はその傘下入りを拒んで家業を続け、大正時代に山本の三代前(曾祖父)の社長が画期的な製品を開発した。
 
それは脱脂粉乳から作った合成ボタンだった。まだプラスチックがなかった時代である。当時の洋服はボタンが高く、鳩目ホックで留めるのが主流の時代。
「飛ぶように売れ、一世を風靡した(山本)」という。


海女さん用のウェットスーツが始まり
 
同社の歴史は新しい発明の歴史である。1948年には先々代(祖父)の時代には消しゴム付き鉛筆で特許を取り、これもまた世界中で売れた。こうして、ゴムの技術を高めていった同社は、現社長の父山本敬一の時代に水を吸わないゴムの技術を確立した。
 
昭和30年代半ばには、防衛庁から自衛隊員用のウェットスールを作るよう要請があり、これが現在のビジネスの契機となった。
 
ところが官庁の発注は3月と9月に決まっており、これだけでは商売が安定しないため、海女さん用のウェットスーツを開発した。
 
さて、現社長の山本が社長に就任したのは25歳のときだ。父である先代が60歳になっていきなり、定年なので社長を辞めると言い出し、息子である富造にお鉢が回ってきたのである。1984年のことで、当時山本は25歳だった。
 
当時は1ドル=240円の時代。日本企業の米国への輸出には、特に風当たりが強くなっていた。社長交代して2ヵ月後に、同社もアンチダンピング訴訟で米商務省から追訴された。本来の税にさらに3.09%上乗せされて決着したが、この課税は2000年の9月まで続くことになる。
 
さらに翌年9月には、プラザ合意が先進主要5ヵ国の間で開かれ、円ドルレートはいきなり1ドル120円となる。輸出比率が95%だった同社はいきなり屋台骨を揺るがされるような事態となる。しかし父親は、社長を譲ったのだからと何もアドバイスをしない。
「内部留保を食いつぶすような形で何とかしのぎましたが、この自転車操業的なやりくりは90年まで続きました」と山本は回顧する。
 
しかし、若くして社長になった強みか、あるいは開き直りか、自分の好きにさせてもらうと逆に宣言し、以後、高機能の製品作りに励むようになる。


素人発想ならではのユーザーに優しい開発
「父と違い文系だったのでユーザーサイドに立って考え、高機能のものに変えようとしました(山本)」
 
薄くて暖かいもの、軽くて柔らかいものと理想を求めて社内で開発した。ゴムにチタン合金を張って熱反射させ暖かくした。しかし、いい物を作っても中国などの製品に価格で負ける。それならと、ゴムの両面に張っている繊維が日本のは高いことに目をつけ、片面だけで済ますことはできないかと工夫した。さらにはゴム自体のすべりがよければ繊維を張る必要はないと、今度はすべるゴムを考えた。この開発は難しかったが何とかやり遂げた。ウェットスーツは、濡れたものをもう一度着ると気持ちが悪い。ところがすべるゴムなら何度着てもそれがない。
 
このウェットスーツが2000年ころから売れ始めた。そこで同社はトライアスロン用のスーツに目をつけた。トライアスロンはスピードを競う競技なので早く泳ぐ必要がある。すべるゴムを外側にもってくると早くなるのではないかと考え、試してみるとこれがうまくいった。そこから、さらに水の抵抗を少なくする技術を開発していったのだ。これが同社をして、スピード水着の開発に至らせた経緯である。
 
だが、水着の話はこれだけでは終わらない。

(2009・11・11)


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