【第40回】地方の花屋を東京に進出させた経営者の異色キャリア

株式会社ビューティ花壇

自衛隊のキャリアから一転、起業家を目指す
 
九州、熊本にあるまったく無名の花屋さんが東京に出てきて、大成功を収めた、といったら人はどう反応するだろうか。曰く、運がよかった。頑張った。真似のできない技術を持っていた。他社と発想が違った――。

恐らくその全部を実行して、この一介の花屋さんは会社組織となり、上場するに至る。会社名はビューティ花壇。葬儀用生花祭壇のトップ企業だ。
 
どんな創業者にもドラマがある。創業時の苦労は並大抵ではないからだ。だが、(株)ビューティ花壇の場合、その役割を中途入社の専務が担った、という点で他社とは違う趣を持っている。
 
同社社長の小田敬史は、防衛大学校出身の元自衛隊キャリアである。ところが、ビジネスを始めたい一心で、30歳のときに自衛隊を辞めた。
 
しかし、何か当てがあるわけではなかった。おまけにカネがない。
 
郷里の熊本に帰ると、先輩の紹介でビューティ花壇という大きな花屋を経営している三島美佐夫(現会長)と会う。葬儀専門の店だった。誘われたが、勤める気はないので断った。
 
2ヵ月ほど経つと、また三島から電話があった。「もう一つ会社を興すから一緒にやらないか」という誘いだった。それなら、と小田はその話に乗った。
 
そして5年が経った。ある日、また三島から相談があった。20数人いる社員のナンバー2からナンバー5までの4人が辞めたので、こちらの面倒を見てほしいという話だった。自衛隊出身だから組織作りは上手いだろうと思われていたのだ。5年間、新会社自体がビューティ花壇に世話になってもいたので、決断した。1996年のことだ。


会社がガタガタの状態から組織を作った
 
ここからが、小田のドラマの始まりである。そもそも葬儀用の生花祭壇作りには技術が必要だ。ところが「来てみたら、会社はガタガタになっていた。人はいても技術者がいない。どこから手を付けていいのか分からない状態でした」と、小田は当時を振り返る。
 
法人化していない個人商店だったので、発展させようにもカネがないし、個人商店には何千万円も銀行は貸さない。決算書を3期分持っていかないと融資の対象にもならないが、個人商店では望むべくもなかった。
 
仕方がないので技術者養成から始めようと考え、技能給制度を導入した。
「給与が上がる人は4、5万円。そうでない人は1000円と思い切って差をつけました(小田)」社員から不満も出たが、とにかくやり通した。
 
しかし、やはり3年も融資を待てない現実があった。辞めた人間たちが福岡で同じビジネスを始めていたし、熊本より大きな市場であることは間違いない。だが、進出にはカネがかかる。
「後輩の銀行の支店長代理に相談したら、年度計画を作り、きちんと月次報告をしろといわれました(笑)」
 
それを1年続けたら、なんと3000万円を融資してくれたのだ。
ところが、福岡進出は失敗に終わった。損益分岐点辺りまでは行くものの、後発でそれ以上の成果が出るほど甘いビジネスではなかったのだ。


東京に進出するも成果が上がらず地獄の日々
 
ここで、同社は東京に進出する。
何とかしたいと考えていた小田は、東京に行く用事を利用して調査をした。
 
ところが東京の葬儀は、白木の祭壇が主流。生花祭壇などないに等しい。
それでも進出すべきかどうか、小田は必死になって考えた。生花祭壇が普及できない理由がない。芸能人の葬儀や社葬は生花を使っている。消費者に聞くと、花がいいという。途中の葬儀社の段階に阻害要因があることが分かった。白木の祭壇は使い回しができる。しかし生花は1回ごとにカネがかかる。ならば葬儀社を説得すればいいと考え、進出を決めた。2001年のことだった。
 
東京に進出して、大田区に拠点を設けたがそれからが地獄のような日々だった。エリアの60数件に電話すると、ほとんどが来なくていいという。成果はほぼゼロだった。あまりに結果が出ない現実が、事務所のスタッフにも伝わった。
「そろそろ撤退ですか」とスタッフからいわれもした。小田は、みんなの士気を萎えさせてはいけないと、電話アプローチを事務所からではなく公衆電話からに変えたという。
 
考えてみれば、公衆電話にはエリアごとの電話帳がある。葬儀社に電話するのに便利で、以後この方法に徹したという。転んでもただでは起きないという格言があるが、まさにそれを地で行くようなしぶとさが小田にはある。
 
そんなもがき苦しんでいたある夜中、当たった葬儀社のリストを見ていたら、ふと気がついた。
 
小さな葬儀社には、差別化するものがない。大きなところではなく小さなところを当たってみようと考え、そこにターゲットを絞った。


小さな葬儀社から口コミで評判が広がった

「差別化できていますか? 騙されたと思ってやってみませんか」と小田は訴えた。ここから注文が取れだした。
一回50人程度の葬儀だったが、こんな葬儀は見たことがないといってくれた。徐々に評判となり、一度付き合ってくれた葬儀社が次も使ってくれた。半年後には売上げも出始め、落ち着いてきた。
 
そこで、次の段階での普及を考えた。ある出版社から、ビデオを作らないかと持ちかけられた。技術者は自分たちの技術が盗まれると、猛烈に反対したが、「任せてくれ」と最後は説得し、至る所に社名を出すことを前提に制作させた。そのビデオが売れ、次に講習会を開いた。こうして同社は全国区で認知されていった。
 
2003年にストックオプション制度を導入しようと熊本法務局に行ったら、誰もその制度を知らなかった。このままでは上場の手続きに失敗する可能性があると懸念し、本社を東京に移した。
 
マザーズへの上場は06年。07年には大阪に拠点を作った。今後は100万人都市に拠点を築いていく予定である。
 
それ以下の都市は、東京進出時に始めた卸売り事業を利用し、地域の花屋に卸すことを前提にネットワークを作っていく。今後の需要については増えることは間違いない。同社のこれからが注目される所以である。

(2009・2・24)


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