2011年11月29日

第61回 海外旅行だけじゃない! 日本にいても円高を満喫する方法

会員制ディスカウント店、超満員の理由
 
米国発の会員制ディスカウント店、コストコの前橋倉庫店が8月末、北関東自動車道の前橋南インターチェンジにオープンした。1998年に日本へ進出した米コストコは前橋倉庫店が10店目。既に目新しさは薄れているはずだが、前橋倉庫店の開店前に事前登録を済ませた会員(個人会員の年会費は4200円)は他店舗を大きく上回る5万人超にもなった。

9月のある平日のお昼時、新店舗を訪れてみた。休日の混雑を避け平日を選んだのに、駐車場はほぼ満杯。1つだけ商品を買うのにも、30分ほどレジに並ばなければならなかった。
 
もう1つ長蛇の列ができていたのが、フードコートだ。中でも人気を集めるのがホットドッグ。ボリュームのあるホットドッグに、ケチャップやマスタード、オニオンなどを好きなだけトッピングできる。しかもソーダなどの飲み物類がおかわり自由で、価格は180円。
「180円でおなかいっぱい」というのが人気の理由だ。
 
実はこのホットドッグ、以前は250円で提供していた。しばらく前に200円に引き下げ、前橋倉庫店のオープンと同時に全店でさらに180円に値下げした。コストコで販売している商品は、かなりの割合で輸入品が占めており、値付けは為替の動きをみて随時見直している。180円という安さは、1ドル=80円を割る「歴史的な円高」の恩恵も受けているのだ。


7月半ばから続く超円高の影響が年末には顕在化
 
1ドル=80円台を推移していた為替相場が、80円を割るようになったのは、7月半ばから。欧米を中心に各国の政府債務や銀行経営に対する不安が高まったため、東日本大震災からの復興需要が見込め、銀行の経営不安が少ない円が買われ、円高が進んだのだ。
2008年9月のリーマン・ショックから3年。各国の金融緩和や積極財政で世界景気は回復しつつあったが、急速な財政悪化でこれ以上の財政出動が難しくなり「世界景気は長期低迷に陥る」との見方が強まったことも、円買いを後押する結果となった。8月19日にはニューヨーク市場で1ドル=75円95銭と戦後最高値を更新。現在も1ドル=76~78円といった「超円高」の状態が続いている。
 
自動車など輸出型製造業にとっては、弱くなった外需と超円高の定着は二重の足かせになる。直近では自動車関連企業を中心に、震災の影響で積み上がった需要に対処するためフル生産の企業が多いが、たまった需要が解消する年末にかけて、弱い外需と超円高の影響が顕在化するだろう。


米国のブランド衣料品が日本の半額!
 
輸出依存度の高い日本では、急速な円高が進むと企業からの悲鳴があふれるが、消費者にとって円高はむしろメリットだ。
 
個人が円高を生かそうとするとき、まず思いつくのが海外旅行。日本政府観光局によると、日本人の8月の出国者数は179万2000人と、前年同月に比べ9.1%増え、過去最高の水準になった。まだ大震災の影響も消えてはいないだけに、震災がなければ、もっと出国者は増えただろう。
 
2つめは、コストコのような円高還元度の高いお店で買い物をすることだ。コストコでは店舗の多くのスペースを占める食料品や日用品に目がいきがちだが、意外と盲点なのが、米国ブランドの衣料品が安いことだ。種類は限られるが、ラルフローレンやパタゴニアなど米国のブランドものの服がスポットで入り、しかも価格は日本の希望小売価格の半額程度と、とても安い。
 
3つめはインターネットを使って海外通信販売や個人輸入を利用する方法だ。海外製品で日本での販売量が多くないものは、商社などが輸入代理店になっている。この代理店制度をとる商品の場合、もともと日本での値付けが高めだったり、為替レートが動いても値段は変わらなかったりする。


英国の通販サイトなら日本で買うより2~5割安
 
特に最近はドルより、ユーロや英ポンドの方などの方が円に対して安くなっている。欧州勢が強いブランド品をほしい場合、海外通販や個人輸入を検討する価値がある。
例えば、最近は女性の愛好者も増えつつある自転車。自転車の本体や部品、関連製品は欧州製が多く、日欧の価格差が大きい。
 
英国にはWiggleという有名な通信販売サイトがある。
 
最近は日本からの顧客が多く、日本語表示も可能だ。このサイトで購入すると日本で買うより2割から、場合によっては半額ぐらいで買えるものもある。購入価格7000円以上で送料も無料になるので、日本の通販サイトを利用するのとほとんど使い勝手は変わらない。
 
自転車に限らず、ブランドもののバッグ、服、アクセサリーなどでも同じような方法で買い物できる。欧米を中心とした金融危機はなかなか沈静化せず、しばらくは1ドル=80円を割る円高が続く可能性が高い。消費者は、円高のデメリットだけに目を奪われず、メリットをしっかりと受け取る姿勢が必要だ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・10・4)

第60回 分かってない!風力発電はエネルギーにも雇用にも地域経済にも寄与

自然エネルギーブームでも見落とされる風力発電
 
鹿島臨海工業地帯の一画を形成する茨城県神栖市。東日本大震災の後、この神栖市の海岸沿いに国や自治体の関係者がひっきりなしに訪れる場所がある。
 
護岸から約50メートル離れた海の上に、7基の風車が並ぶ。日立製作所製の発電機の出力は1基当たり2000キロワットで、合計1万4000キロワット。7基で年間7000世帯分の電力がまかなえる。ベンチャー企業のウィンド・パワー・いばらき(水戸市)が運営する、国内初の本格的な「洋上風力発電所」だ。

福島第1原子力発電所の事故を受け、にわかに注目を集める自然エネルギー。ソフトバンクの孫正義社長が全国の35道府県と「自然エネルギー協議会」を設立し大規模太陽光発電所(メガソーラー)の建設を目指したり、退陣前の菅直人前首相が「日本中で1000万戸の屋根に太陽光パネルを設置する」と表明したりするなど、太陽光にからむ動きが活発だ。
 
それに比べると、世の中の関心度が今ひとつ落ちるのが風力発電だ。1つの要因は有力な風車メーカーが、日本にはないことだ。国内最大手の三菱重工業でも世界のトップ10に入れない。


今の日本でも1億4000万キロワットまで導入可能
 
もう1つの理由は、風力発電には騒音や振動などの問題があり、国土が狭く人口が多い日本では設置場所がある程度、限られることだ。だが洋上に風車を設置すれば、こうした課題を解決できる。一見、洋上での建設は地震や津波に対して弱そうに思えるが、今回の地震と津波でも被害は全くなかった。国や自治体の関係者がこの洋上風力発電所に注目するのは、このためだ。
 
同社は来年1月には、現在の発電所の北側に第2の発電所で、風車8基からなる「ウィンド・パワー・かしま」の建設を始める。これまでは洋上といっても陸上からクレーンなどを使って建設していたが、次の風車は船を使って建設する。さらにその先には、風車を100基設置するメガサイトの構想も持つ。
 
実は日本でも、風力発電の普及余地は小さくない。
環境省が今年4月にまとめた「再生可能エネルギー導入ポテンシャル調査」によれば、風力発電の導入ポテンシャルは最大で、陸上が出力2億4000万キロワット、洋上が16億キロワットと、巨大な数字だ。
ただしこれは現在審議中の、発電した電力を全量買い取ってもらえる「固定価格買い取り制度(FIT)」が導入され、しかも事業費の3分の1の補助金がつくこと、技術革新があることなどを仮定した数字だ。
 
より現実的なFITのみが導入された場合は、2400万~1億4000万キロワットが導入可能と試算した。


風力発電事業は自動車産業に似ている

一般に、風は不安定なため、風力発電の稼働率は25%程度とされる。震災後は原発の稼働率も低下しているため、原発の稼働率を50%と仮定しよう。するとこの「2400万~1億4000万キロワット」という数字は、出力100万キロワットの原発12~70基分に当たるのだ。
 
風力発電のもう1つの魅力は雇用創出能力だ。
 
自動車の部品点数は2万~3万点。この部品点数の多さが、企業の層が厚く、雇用創出能力がきわめて高い自動車産業を形成する源になっている。
部品点数の多い自動車は親会社と下請け企業など会社同士の「擦り合わせ」が重要で、海外への移転が難しい。製品の電子化が進み、擦り合わせなしでも組み立てることが可能になった電機業界に比べ、国内に自動車関連産業が多く残るのはそのためだ。
 
大型の風車も自動車に似て、部品数は1万~1万5000点と多い。しかも風車は長期間、できるだけ保守の必要を少なく動かしたいため、高い信頼性のある部品が必要だ。自動車と同じく、典型的な擦り合わせ型の産業なのだ。


100万キロワットの発電で1万4000人の雇用が生まれる

実際、現在でも自動車と風力発電の分野では、プレーヤーが重なる。ベアリングは両分野で欠かせない部品だが、プレーヤーは日本精工やジェイテクト、NTNなど共通だ。富士重工業は自動車メーカーであると同時に、風車の国内トップメーカーでもある。
 
日本にはトヨタを中心とした中部地方、富士重工業や日産自動車を中心とした北関東など、層の厚い自動車産業がある。こうした地域で風車産業を大きくすれば「これまでの企業群も活かせるし、雇用も増やせる」と、風力発電に詳しい足利工業大学の牛山泉学長は強調する。
 
みずほコーポレート銀行産業調査部の試算によれば、毎年出力100万キロワットのペースで風力発電を導入すれば、製造業だけで1万2500人の雇用が創出されるほか、風力発電所建設に1200人、運営管理に毎年300人の雇用増が期待できる。
 
大震災後の復興を考えるとき、原発に代わるエネルギーを確保しつつ、同時に国内に雇用を増やす妙策はなかなか見当たらない。しかし「風力」には少なくとも、どちらも両立できる可能性がある。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・9・6)

第59回 地方の宏大な名門工場が象徴する電機業界の未来像

この数週間で大きく動き始めた電機産業
 
7月末から8月上旬にかけて、日本の製造業、特に電機産業が歴史的な転換点にあることを示す大ニュースが相次いだ。
7月28日には、パナソニックの完全子会社になった三洋電機が洗濯機や冷蔵庫などの白物家電部門を中国の家電最大手ハイアールグループ(海爾集団)に売却することを発表した。
8月に入ると、日立製作所がテレビの自社生産から撤退する方針を固めた。その直後には、日立製作所と三菱重工業が将来の経営統合も視野に入れ、社会インフラなど主力事業統合の協議に入ったことが明らかになった。

韓国や台湾、中国などアジア企業の台頭で、グローバルな競争がますます激しくなる製造業。その中で日本の産業界は長年、プレーヤーの数が多すぎると言われてきた。電機は8社(準大手を含めれば12社)。三菱重工業など重工・重電専業は5社ある。
ここ最近、次々と明らかになったニュースはいずれも、これまで幅広い製品を水平展開してきた日本企業が赤字の続く事業から撤退したり、売却したり、ライバル会社と統合したりする動きだ。


東京ドーム20個分の広さの工場こそが電気産業の象徴
 
かつては日本の屋台骨を支えた電機産業。経済産業省が発表する工業統計調査によると、2000年の日本の製造品出荷額は288兆円で、その中で電気機器の比率が19.6%を占め、業種別の1位だった。ちなみに自動車などの輸送機器は14.6%で、業種別の2位である。
 
ところがそれからほぼ10年。2009年には製造品出荷額(258兆円)に占める電気機器(2002年に分類が変更されたため、それ以降の電気機器には情報機器、電子部品も含む)の比率は14.3%にまで低下。逆に輸送機器は18.2%にまで高まった。電気機器は2002年に輸送機器に逆転されて以来、差は広がっている。
 
日本の「電機不振」を象徴するような巨大工場が、群馬県大泉町にある。白物家電部門を中国企業に売ることを決めた三洋電機の東京製作所だ。
 
前身は戦前に中島飛行機が戦闘機などを生産していた工場で、戦後はしばらく米軍が駐留。1959年に三洋電機が東日本の製造拠点として取得した。
その広さは約96万平方メートルと東京ドーム20個分。三洋の創業者、井植歳男の長男で長年、三洋の社長を務めた井植敏は初めて工場の土地を見たときを「とにかく広い。どこまでが敷地か見当もつかない」(日本経済新聞連載の「私の履歴書」)と述懐している。


昔の名門工場は今や雑居ビル化
 
三洋は大泉に東京三洋電機(現在の東京製作所)を設立し、冷蔵庫や洗濯機などの生産を始めた。従業員は400人から始め、最盛期には1万5000人近くにまで増えたという。
 
だが円高や国内の人件費の上昇に対応するため冷蔵庫やエアコンの生産はほとんど中国へ移転。現在、東京製作所の敷地内で働く人の数は約6000人に減った。さらに2009年にパナソニック傘下に入ってからの三洋は、パナソニック主導で主力事業を次々と売却した。
 
その結果、敷地内で働く6000人のうち、約2000人は1月に米国の会社に売却された半導体部門の従業員だ。また燃料電池の開発などをするENEOSセルテックという会社も同居。洗濯機子会社の150人も今年度中には、ハイアールの従業員になる見通しだ。
 
かつての名門工場は、まるで雑居ビルのように、いろいろな会社が同居する「まだら模様」になってしまったのだ。


単体商品ではなくパッケージ商品化で勝負
 
三洋電機に代表される電機産業衰退の原因は明白だ。あらゆる製品の電子化が進み、組み立てのノウハウなどがなくても、簡単に組み立てられる「コモディティ商品(価格が重要視される日用的な商品)」になった。
韓国、台湾に加え中国の企業も台頭し、日本の電機メーカーのライバルは増えるばかり。これに歴史的な超円高が加われば、コモディティ商品の主戦場が、よりコストの安いアジア各国に移るのは当然といえよう。
 
一方、この間、日本で自動車産業の比率が高まったのは、自動車は1台当たりの部品数が2万~3万点と多く、コモディティにはなりにくい性格があるためだ。
 
三洋のリストラをほぼ終えたパナソニックは今後、広いニーズにまるごと応えられる製品やサービスのラインアップ作りを進めるという。テレビや照明など電気製品を単品で売れば価格競争に巻き込まれるが、設計や施工、保守点検も含めて売れば、消費者も便利になり、グループ全体で収益を増やす効果もある。
 
日本の電機業界がコモディティ商品をそれだけで売り続けるならば、未来はない。だがコモディティになりにくい商品やサービスを開発したり、より総合的なパッケージ商品にしたりするならば、日本企業の勝ち目もあるはずだ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・8・10)

第58回 「絶対安全」を求めることの安心感が新たな危さを生む

市内と海岸側とでは様相が異なる仙台市

3月11日の東日本大震災。首都圏に住む人たちが最初に「津波」の恐ろしさ、すさまじさを知ったのは、NHKテレビが上空から映した仙台平野の映像だったのではないか。

そのとき、高層ビルの7階で会議に出席していた私は地震後、まずは地上階におり、あたりの様子をうかがってみた。だが交通機関は止まり、情報は錯綜し、何が何だかわからない。そのためまずはオフィスに戻り、テレビからの情報を注視することにした。そのときにNHKが流したのが、ヘリコプターから映した、仙台平野をゆったりと、しかし衰えずに進む津波の姿だった。

津波が田んぼを、イチゴのハウスを、飲み込んでいく。画面の端にはその津波を知っているのか知らないのか、車が走っている。そのまま走れば、確実に飲み込まれてしまう。思わず、「危ない、逃げろ」と声を出してしまうが、その声はもちろん届かない。

6月、その仙台平野を仙台市、亘理町、山本町と、宮城県庁の職員に案内してもらいながら歩いた。既に大震災から3カ月がたったその時期、仙台市内の道路の混み方はかなりのものだった。自衛隊や警察関連の車両が目立つが、一方で復興需要に応えるためと思われるトラックや工事関係車両も多い。

ところがもう少し海岸側に近づくと、光景が一変する。きれいに土台だけになった家々、ひしゃげて、折り重なっているイチゴハウスの鉄骨、ペシャンコになった車の数々。いまだに自衛隊の隊員が捜索作業をしている場所もあった。


もっと高い防潮堤をつくらなければならない

ちょうどその日の朝は、海からの冷たい風が内陸に入り込んだせいで、津波をかぶった大地からもやのような湯気が立ち上っていた。もやが太陽の光を反射し、色のない白黒の世界に見える。その光景と、原爆を受けた直後の広島や長崎の町の映像とがかぶって見えた。

海岸沿いの堤防にも足を伸ばした。「田老万里の長城」として有名な岩手県宮古市田老地区の防潮堤ほどではないものの、堅固な防潮堤が無残に破壊されている。引き波に持っていかれたのか、防潮堤の上部だけ残し、中がすっぽりと空洞になってしまった部分がいくつもあった。

東日本大震災後、日本中に「絶対的な安全」を求める声が強まっている。
「命を大事にするために、すべての原子力発電所をすぐに止めるべきだ」
「放射性物質に汚染されていないことが確認できない食品は買わない」――。
防潮堤についても、「明治三陸津波を想定した設計で大きな被害が出たのだから、さらに安全性を高めた、もっと高い防潮堤をつくらなければならない」といった議論が各地で多く出ている。

もちろん原子力発電所の津波対策を強化するために、防潮堤を新たに建設したり、より高くしたりすることは必要だろう。


高さ10メートルの巨大防潮堤は安全だったか

だが東日本大震災を受けて、日本の沿岸部にすべて防潮堤を設け、巨大なコンクリートで囲むようなことが対策の本質なのか。財政難の日本に、どこにそれだけの資金があるのかというコスト面の問題だけでなく、防災面から見ても大きな問題があるのだ。

明治三陸沖地震で住民の4割が亡くなった宮古市田老地区は1982年までに高さ10メートル、延長約2.5キロの防潮堤を完成させた。住民は「日本一の防潮堤」と信頼を寄せていたが、今回の大震災では「防潮堤があるから」と、安心して逃げ遅れた人が多かった。

津波で大きな被害を出した岩手県の大槌湾(大槌町と釜石市鵜住居町にまたがる)。死者・行方不明者の居住地を分析すると、ハザードマップで「想定浸水区域」とされた地区の人たちがほとんど逃げたのに対し、区域外の人たちが逃げ遅れ、多数の人が死亡した。

つまり安全な防災施設を整備したり、防災対策を講じたりすることで、逆に住民は「ここまでは安全」と油断する可能性が高まるのだ。


「ここまでの対策をしたから安全」という思い込みの危険

災害社会工学が専門の片田敏孝・群馬大学大学院工学研究科教授は「今回の大震災はよく『想定が甘かった』といわれるが、むしろ『想定にとらわれすぎた防災』の方が問題だった」と指摘する。

田老地区で逃げ遅れた人や、大槌湾でハザードマップを信じすぎて逃げなかった人たちと正反対の行動をとったのが、片田教授が防災教育を担当していた岩手県釜石市の小中学生約3000人。津波が来たときに学校の管理下にあった児童・生徒は全員無事だった。

片田教授は子どもたちに①想定にとらわれるな②最善を尽くせ③率先避難者たれ――という避難の3原則をたたきこんでいた。
「想定にとらわれるな」とは、ハザードマップが示す浸水想定区域はあくまでも防災施設を建設するなどのための「想定」であり、「それ以上の災害が起こる可能性があると思え」という意味である。
大地震の直後、釜石市の小中学生はあらかじめ決められた避難場所よりもより高い場所を目指し続け、全員が助かった。彼らの姿を見て、一緒に逃げた住民も多かったという。

「ここまでの設備をつくったから、もう大丈夫」。「ここまでの対策をしたから、もう安全」。いつの時代もこうした思い込み、油断こそが、最も危険なのだ。

(2011・7・13)

第57回 尾瀬を歩き、電力のこれからを考える

東京電力が所有する尾瀬の自然
 
今年、群馬県や新潟県など4県にまたがる尾瀬の春は遅かった。5月24日の山開き直前まで尾瀬沼の氷が溶けず、各所に雪が多く残っていた。例年だったら5月中旬から始まりを迎えるミズバショウの開花時期もかなり遅め。6月中旬の今でも見ごろの場所がかなり多くある。

尾瀬を歩くとき、お世話になるのが「木道」だ。自然に与える影響を最小限に抑えながら、訪れた人たちが自然と触れあえるよう、尾瀬には山間部を含めほぼ全域に木道が整備されている。入山者がすれ違うときに湿地帯に降りてしまわぬよう、多くの場所は複線だ。
 
木道の材料は、折れにくく水に強い国産カラマツ。それでも尾瀬沼や尾瀬ケ原など湿原の中では10年前後で付け替えなければならない。計画的に更新工事をするため、木道の表面には設置者と、工事した年を表す焼印が押されている。
 
鳩待峠など群馬県側から尾瀬に入った場合、木道の焼き印で目立つのが、東京電力のマークだ。尾瀬の木道は総延長65キロに及ぶが、群馬県内を中心に約20キロの木道を敷設、維持管理するのが東京電力だからだ。
 
東京電力は尾瀬国立公園約3万7千ヘクタールの約4割、公園の中の特別保護地区の約7割を所有する。福島第1原子力発電所の放射能漏れ事故に伴う補償金を捻出するため、東京電力が保有する尾瀬の土地売却を検討しているとの報道が5月中旬にあった。この報道で初めて、尾瀬の主たる所有者が東京電力であることを知った人も多いだろう。


尾瀬のダム計画は何度も消えては浮上した
 
なぜ東京電力が尾瀬の土地をこれだけ持っているのか。その疑問に答えるためには、尾瀬の歴史を振り返らなければならない。
 
群馬県側の尾瀬の土地はもともと戸倉、土出、越本の3村の共有地だった。税金の重さや山の管理の煩雑さに悩まされていた3つの村は明治30年代の末に地元の有力者に「尾瀬」を売却。さらにその土地を1916年(大正5年)に買い取ったのが当時、水力発電事業を営んでいた利根発電だった。
その後、東京電燈、関東配電を経て、1951年(昭和26年)に電気事業再編政令により東京電力が設立されたときに、東電がこの土地を継承した。
 
電力の需要が急速に高まった明治から大正にかけて、発電の中心を担ったのは水力発電。尾瀬ヶ原に水力発電ダムを建設する計画が初めて持ち上がったのは、1903年(明治36年)のことだ。利根発電が1916年に尾瀬を買い取ったのも、もちろんダム建設を念頭に置いてのものだ。これ以降、ダム計画は形を変えて何度も浮上することになる。
 
最も規模が大きいものは、1948年に発表された計画。尾瀬ヶ原に高さ100メートルのダムを作り只見川をせき止め、広さ13万平方キロメートル(尾瀬沼の8倍)、貯水量7億2千万立方メートル、出力230万キロワットの水力発電ダムを造る計画だった。


尾瀬で水力発電を諦めたのはつい最近!?
 
この「幻の尾瀬発電所」の出力230万キロワットは、東電が群馬県内で現在稼働する41カ所、67基の水力発電所の合計最大出力(243万キロワット)や、大震災で止まった福島第1原発の2号基から4号基まで3基分の合計出力(235万キロワット)にほぼ相当する。単独の水力発電所としてはいかに巨大な計画だったか、わかるだろう。
 
ただ尾瀬をダムとする計画は元から無理があった。計画はいずれも、日本海側に流れる只見川をせき止めて尾瀬ヶ原を大貯水池にして、その水を太平洋側に流れる利根川へ放流する過程で発電を行なおうとするもの。太平洋側の関東にはメリットはあるが、日本海側の新潟県からは強い反発を生む。
 
加えて度重なる戦争や震災で大規模な開発が難しかったこと、また当時から尾瀬の自然は守るべきだという声も強く、計画はいずれも実現しなかった。
 
それでも東京電力は尾瀬を発電に利用する道を完全には閉ざさなかった。東電が自然保護の機運が高まったのを理由に、尾瀬地区のうち尾瀬ケ原の水利権について放棄したのは1996年3月のことだ。それ以降、東電は尾瀬の環境保護に一層、力を入れるようになる。


すべてはトレードオフの関係か
 
東京電力が発足した1951年。東電の発電出力に占める水力発電の比率は80%。だが1995年には水力の比率は15%に下がり、逆に原子力発電が29%を占めるまでになっていた。意地悪な味方をすれば、原子力発電が完全に軌道に乗り、水力発電の重要度が下がったからこそ、東電は尾瀬ケ原の水利権を放棄したと見ることもできる。
 
東京電力は5月下旬、尾瀬売却を懸念する群馬県に対して「尾瀬の土地は大切な事業用資産で、現時点では売却は考えていない」と回答した。ただ「責任を持って、最小限の維持を行なっていく」とも付け加えている。東電は尾瀬の湿原回復や木道の維持管理などのために年2億円を拠出してきたが、今後はこの費用が削られる可能性が高い。
 
原子力発電が順調に発展したからこそ、東京電力は尾瀬の自然を保護する余裕も持ち得た。福島第1原発の事故をきっかけに反原発を唱えるのは簡単だが、原発をやめれば日本の電力料金は大幅に上がり、尾瀬の保護のための資金が枯渇する可能性もある。
そういうトレードオフの関係の中で、どこに着地点を見いだすか。国民1人ひとりに突きつけられた問題だ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・6・15)

第56回 現場を歩いて見えてきた那珂湊おさかな市場復興の姿

県内外から詰めかけた客に威勢のよいかけ声
 
5月の半ば、茨城県水戸市に所用があったついでに、茨城県から福島県にかけての海岸沿いを訪れた。東日本大震災から2ヵ月あまり。地震や津波の被害と、そこからの復旧、復興をめざす地域の実情を、この目で確かめてみたかったからだ。

スタート地点の水戸市。JR水戸駅周辺の人通りはほぼ元通りになっているものの、少し目をこらすと、今も地震の爪あとがここかしこに残ることがわかる。
例えば駅近くの水戸市三の丸にある水戸藩の藩校、弘道館。建物の壁や建具などが損傷したほか、八卦堂(はっけどう)の弘道館記碑が崩落し、有料区域は今も閉鎖中だ。
 
弘道館記碑は、水戸藩のみならず日本の学問の魁(さきがけ)にしたいという第9代藩主、徳川斉昭の強い意志のもと藤田東湖が起草したものだ。
 
水戸駅前でレンタカーを借りて次に向かったのは、水戸駅から15キロ程度、ひたちなか市那珂湊(なかみなと)地区にある「那珂湊おさかな市場」だ。
「いらっしゃい、いらっしゃい、地物だよ」
「茨城産の干物だよ。1300円だけど、大きくまけて1000円にしておくよ」
「マグロ、半額だよ」
 
県内外から詰めかけたお客に、市場の売り子たちが威勢よく呼びかける。客たちは次々と、ケースごと鮮魚や干物を買い求めていく。こちらの予想に反して、市場は以前訪れたときと変わらないような活気にあふれていた。


これほど安くておいしい寿司はよそでは味わえない
 
魚の売り場とともに人気がある回転寿司の店に入る。時刻はまだ午前11時前だというのに、店の前には既に入れない人の行列ができている。
 
大半のネタが300円か200円の皿。ちょうど今が旬のカツオを頼むと新鮮でネタの大きい寿司が出てきたが、それでも1皿(2貫)200円だ。茨城の名物、アンコウの味噌汁などを含めて腹一杯食べても、3000円でお釣りが来た。
「いやあ、ここじゃないと、これほどおいしくて安い寿司は食べられない」と、隣にいた40代の男性客が話す。
 
売り子の元気のよさに注目していると気づかないが、少し見渡すと、市場にも残る津波の爪あとが見えてくる。元からある駐車場は被災して使えず、今は周辺に確保した臨時駐車場を利用する。
 
JR常磐線の勝田駅とおさかな市場のある那珂湊や、阿字ケ浦を結ぶ第3セクターのひたちなか海浜鉄道は路線と駅設備の多くが被災し、7月半ばまで全面復旧できない見通しだ。


津波の被害に原発の被害が重なった
 
那珂湊おさかな市場は那珂湊漁港に隣接し、鮮魚店や食堂など19店が立ち並ぶ。地元の漁港でとれる海産物以外にも、北海道産のウニやイクラ、ロシア産のカニなど、多くの商品が集まる「海産物のデパート」だ。
 
1995年11月にオープンし、それから15年あまりで年間140万人が訪れる関東有数の観光市場に育った。今年3月14日には北関東3県を結ぶ北関東自動車道が開通。群馬や長野など、これまでは馴染みの薄かった地域からの集客も期待されていた。その矢先におさかな市場を襲ったのが、東日本大震災による津波だった。
 
3月11日、那珂湊漁港を4メートル超の津波が襲う。市場にも2~3メートルの津波がやってきた。
 
鮮魚類はもちろん、ショーケース、冷凍機などすべてが流された。関係者が翌日、市場までくると、商品の生きたカニが泥の上を歩いていたという。
 
人的な被害はなかったものの、被害総額は約22億円。その上、福島第1原子力発電所の事故により大量の放射性物質を含む汚染水が海に流れ出し、茨城県北茨城市沖で採れたコウナゴからは国の暫定基準値を上回る放射性セシウムが検出された。


日を追うごとに戻りつつある客足
 
その結果、「茨城の魚は危ない」という、原発事故による風評被害にさらされることになる。被災当初、復旧は早くても3カ月先と見られていた。
 
だが津波が引いた震災翌日から関係者は復旧に動き出した。姉妹都市で、漁業仲間が多い宮城県石巻がはるかに深刻な被害を受けたことを知り、全店総出で泥をかき出したり、冷凍機を新たに購入したりした。そうして、わずか50日後、大型連休直前の4月末に営業再開を果たした。
 
営業再開の報せが行きわたってないこともあり、大型連休中の客足は5割程度だったが、日を追うごとに、客足は戻りつつある。
 
福島第1原発事故はいまだ冷温停止状態に持ち込めず、放射性物質の問題も完全に収まったわけではない。そんな中でもおさかな市場を訪れる消費者の胸中には「風評の中でも市場を応援したい」という気持ちがあるはずだ。
 
おさかな市場の素早い復旧と、そこに戻りつつある消費者の姿を見ると、これからの東北の復興の道筋にも、おぼろげながら希望がもてるのだ


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・5・18)

第55回 地震の損害ゼロでも操業できない自動車工場

地震の損害ゼロでも操業できない自動車工場
 
4月5日。群馬県伊勢崎市にある金属プレス加工の斎藤製作所(斎藤勲社長)が事業を停止した。負債総額は6億円。2008年秋のリーマン・ショック以降は赤字が続いていたとはいえ、3月11日の東日本大震災でも工場に被害を受けたわけではない。それなのに倒産に追い込まれたのはなぜか?

東北の太平洋側や関東各地に甚大な被害をもたらした東日本大震災。ただ群馬県内の被害は軽微で、製造ラインを何日も動かせなくなるような損害を受けたものづくりの会社はほとんどなかった。
 
それなのに群馬県内の製造業の操業再開の動きは鈍かった。代表的なのが、県内の太田市や大泉町に5つの工場を持つ富士重工業の群馬製作所だ。
完成車の工場が再開したのは、地震から3週間が経った3月31日。それも同社の中では生産量が少ない軽自動車のみだった。主力のレガシィやフォレスターなど登録車を生産する矢島工場(太田市)が一部、稼働したのは4月6日のことだ。


ピラミッドの下層を襲った震災

富士重の幹部は大震災後の操業停止について「リーマン・ショックは売れない危機だったが、今回はつくれない試練だ」と表現する。
 
富士重の製造ライン停止は地域に深刻な影響をもたらした。太田市の製造品出荷額は富士重群馬製作所とその下請け企業群のおかげで1兆7000億円(2009年)と、1市で長崎県や鹿児島県に匹敵する規模を持つ。その太田市では、中心となる富士重群馬製作所の操業が長期間止まったために、「市内のものづくり企業の稼働率は2~3割」(製造業関係者)というところまで落ち込んだ。
 
太田市の隣、伊勢崎市にある斎藤製作所は太田市内にある自動車部品メーカーの下請け企業で、富士重から見ると2次下請けに当たる。富士重をピラミッドの頂点とする「サプライチェーン(供給網)」が滞ったことで、ピラミッドの下層に位置し、資金繰りに余裕がない中小製造業が倒産することになってしまったのだ。


浮き彫りになった「サプライチェーン」というアキレス腱
 
当初、富士重が操業を再開できない大きな理由は、東京電力による計画停電の影響が大きいと見られていた。金属を溶かす電気炉を温めるのに時間がかかるなどのため、ラインを動かし始めるのには、3時間という計画停電の時間以上にかかるためだ。
 
関係者によると、停電とともに響いたのは、一部部品の調達難だ。被災した半導体大手、ルネサスエレクトロニクスの那珂工場(茨城県ひたちなか市)が生産する車載用のマイコン、東京電力福島第1原子力発電所の避難指示圏内にある福島県企業が生産するブレーキパッドなど、いくつかの代替不可能な部品の調達が滞っているとみられる。
 
自動車の部品点数は2万点を超え、その1つが欠けても製品をつくることができない。日本の自動車関連メーカーは部品の在庫を極限まで減らす「ジャストインタイム」によりコストを最小限に切り詰め、人件費の高い日本でも可能なものづくりを進めてきた。
 
ジャストインタイムを徹底的に進めたサプライチェーンは、滞りなく流れていれば美しいが、いったんどこかが止まってしまうと、その目詰まりが瞬く間に全体に及んでしまう。今回の震災で浮き彫りになったのは、こうしたサプライチェーンは、天災による広範な被害にはひどく脆弱であるという事実だ。


在庫における適正水準とは何かを問い直す
 
日本の素材や部品のメーカーが経営革新を進めたことが、裏目に出た面もある。素材・部品メーカーは近年、誰もが同じモノを作る横並び経営から、小さい市場でもいいから他社にない製品や技術を開発する「オンリーワン」経営にカジを切った。オンリーワンになって、その分野で高いシェアを占められれば素材・部品メーカーは高収益を得られる。半面、今回のような想定外の事態で操業が止まると、オンリーワン製品は代替が不可能なだけに、供給先の企業やサプライチェーンに多大な損害を与えてしまう。
 
心配なのは、今回の大震災をきっかけに、海外メーカーの間で日本の素材や部品企業外しが進んでしまうことだ。そうならないためにも、有力な素材・部品メーカーは一刻も早く供給体制を立て直す必要がある。
 
また今後は完成品メーカーと部品メーカーが部品や素材の情報共有を進め、両者がサプライチェーンの全体像をつかみやすくする必要がある。部品の調達先を1社ではなく2社以上にすることや、在庫についても「適正な水準とは何か」について考え直すことが欠かせない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・4・13)

第54回 内需産業が生き残るための唯一の処方箋は「外」とつながること

長引く不況の本当の原因
 
2月下旬、総務省は2010年国勢調査の人口速報値を発表した。同年10月1日時点での日本の総人口は1億2805万人と2005年の前回調査に比べ0.2%増(年率換算で0.05%)とわずかに増えた。
 
だが国勢調査は5年ごとのもの。厚生労働省の人口動態調査では2007年から出生数が死亡数を下回る「自然減」が起こっている。

都道府県別で見ると、人口が増えたのは東京都(4.7%増)、神奈川県(2.9%増)、千葉県(2.7%増)など9都府県にとどまり、秋田県(5.2%減)、青森県(4.4%減)、高知県(4%減)など38道府県で減っている。東名阪などの大都市、北海道や沖縄県などの一部を除けば、日本は「人口減社会」に突入しているわけだ。
総人口の動きももちろん重要だが、経済との関連でより重要なのは、今後発表される15歳以上64歳未満の「生産年齢人口」だ。
昨年の新書のベストセラー、『デフレの正体』(角川書店)で、著者の藻谷浩介・日本政策投資銀行地域企画部参事役が指摘するように、この世代は労働力を担い、消費の中核となる「現役世代」だからだ。そしてこの生産年齢人口の減少こそ、日本の長引く不況の根本的な原因だ。


見方によって違う業況判断
 
生産年齢人口の波が、日本や地域の経済にどんな影響を及ぼしているのか? 
例えば東京という大消費地に近い、群馬県を例に考えてみよう。
 
群馬県内の景気はいま、全国との比較の中で、それほど悪い状況ではない。日銀前橋支店が12月に発表した短期経済観測調査(短観)の業況判断指数は全産業でマイナス4と、1年9カ月ぶりに悪化した。
ただ9月段階の予想(マイナス16)よりも、全国の全産業の数値(マイナス11)より、かなり上の数字。地域別の短観を発表している日銀の33支店・事務所の中でも「上から2番目」(日銀前橋支店)の数値だ。
 
回復の主役は県東部の富士重工業を中心とした自動車産業。富士重は米国など海外への輸出が好調で、自動車大手の中でも、昨年9月のエコカー補助金制度終了の影響が最も小さかった。自動車産業に力点を置く人からは「明るい兆しが見えてきた」という声が聞かれる。
 
一方、小売りや卸、建設など国内需要に基づく非製造業を注目する人からは「一向に上向かない。政府はもっと景気対策に力を入れるべきだ」といった厳しい声が聞かれる。実際、日銀前橋支店の12月短観では、製造業の業況判断指数はプラス7だったのに対し、非製造業はマイナス18。その差は大きい。


生産年齢人口と小売業販売額は重なる
 
実は業況判断指数で、非製造業が製造業を下回る傾向は1990年代前半から続く傾向だ。IT(情報技術)バブルがあった1996年頃、円安傾向で輸出が好調だった2003年から2007年にかけて製造業は指数がプラス圏内を推移した。
 
一方、非製造業がプラス圏内に浮上したのはわずかな期間しかない。こうも不振が長く続くのは、景気の波だけでなく、より大きな要因があるからだ。
群馬の総人口は、ピークが2005年の203万人で、そこから直近の2009年まで1.2%減ったに過ぎない。だが生産年齢人口は1998年の136万人をピークに11年連続で減り続け、その減少率は7.3%にもなる。
県内小売業の年間販売額を、経済産業省の「商業統計」から調べてみると、ピークは1997年で、その後はずっと減り続け、最も新しい統計がある2007年は1997年比で9%減った。つまり生産年齢人口のカーブと小売業年間販売額のカーブはかなり重なるのだ。地価など同様のカーブで下がり続ける指標は多い。


外に出て成功したヤマダ電機

長引く低迷の原因は景気よりも「生産年齢人口の減少」。だとすれば、政府による景気対策があったとしても、大きな効果が期待しにくい。むしろ内需型産業でもいかに地域の外から、あるいはグローバルで稼ぐかが盛衰を左右する。
 
小売業の販売額が9%減った1997年から2007年の10年間。群馬に本社を置きながら県外に積極的に事業展開したヤマダ電機は同時期に売上高を10倍以上に伸ばした。人口減のもとでも業績を伸ばす小売業は、いずれも地域の枠にとどまらず、外に出る、あるいは海外進出も視野に置く会社だ。
 
人口増の時代であれば、地域の中にとどまっていても、それなりの成長が期待できる。だが今、座して景気回復を待っていれば、それは緩やかな衰退を意味する。内需型産業でも地域に外国人や域外の人を呼び込む、グループで海外に進出するなど、外とつながる工夫なしでは成長はあり得ない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・3・1)

第53回 TPP絶対反対ばかりじゃないだろう、農産物直売所大繁盛に見る農業の可能性

駅ナカならぬ道ナカが大繁盛
 
昨年12月1日、関越自動車道の三芳パーキングエリア(PA、埼玉県三芳町)上り線で、商業施設「パサール三芳」がグランドオープンした。1年前に開設した第1期分も合わせると、レストランやショッピングなど全部で24店舗となり、商業施設全体の広さは改良前と比べると約4倍の3400平方メートルに広がった。

関越道や上信越自動車道を使って新潟、長野、群馬県方面から東京方面へ向かうとき、三芳PAは「最後に立ち寄るPA」だ。東日本高速道路会社が管理するPAの中でも群を抜いて利用者が多い。
 
同社によると、パサール三芳ができる前でも三芳PA上り線の利用者は年間約460万人おり、グランドオープン後は約660万人を見込む。新施設はいわばJRグループが各地で力を入れる「駅ナカ」ならぬ「道ナカ」を狙った施設だ。
 
地域の名産である狭山茶の店や川越の菓子店など特徴ある店が多いが、中でも客を集めているのは農産物・農業資材販売のファームドゥ(前橋市)が出した農産物直売所「食の駅パサール三芳店」だ。観光地から東京へ帰る観光客らを狙い、群馬を中心に新潟や長野、埼玉など高速沿いの農家から直接仕入れた農産物や加工品を扱い、販売している。


入手困難の「ブランド品」が続々と登場
 
開店直後の12月に話題を呼んだのは、群馬と埼玉のブランドねぎである「下仁田ねぎ」と「深谷ねぎ」を並べたコーナー。ねぎの生産量が全国2位(2008年)である埼玉の主力ブランドである深谷ねぎは他でも手に入りやすいが、一方の群馬の下仁田ねぎはきわめて手に入りにくいブランドねぎだ。
 
白根の長さが15~20センチと短く、太く、煮ると独特の甘みが出る。下仁田ねぎという品種はあるものの、それを原産地である群馬県下仁田町以外で栽培しても、おいしいものはできない。下仁田町の農家は春と夏に2回の植え替えをするなど、栽培には膨大な手間をかけている。
 
本物の下仁田ねぎは贈答用や東京などの料亭に出荷されるため、店頭ではきわめて手に入りにくい。しかしファームドゥはこれまで農業生産者と直接の取引関係を築いてきたことを生かし、下仁田ねぎの本場である同町馬山地区の生産者から直接仕入れ、新店舗の店頭に並べられるようにした。
 
コメのコーナーも面白い。日本一高価と言われる新潟県南魚沼市産のコシヒカリと、国内最大規模のコメ審査会で2年連続金賞をとった群馬県川場村の「雪ほたか」を並べた。単に産地直送の農産物を並べるだけでなく、他の場所でも工夫を凝らし、東京方面へ向かう利用者が楽しみながらお土産などを選べるようになっている。


直売所は生産地で売っても駄目だ
 
同社がこうした売り方を行なえるのは、群馬や東京などで農産物直売所を手掛けてきたノウハウがあるためだ。
「すでに田舎で直売所が飽和状態で、これからは東京など大消費地に近づくことが必要」とファームドゥの岩井雅之社長は考える。直売所というと農産地周辺に集中しがちだが、同社は直売店のチェーン化を進めてきた。食の駅パサール三芳店は24番目の店舗になる。
 
同社の直売店は、生産者が農産物を店や産地近くの集荷場に持ち込み、自由に価格を設定する仕組み。同社が販売を担い、販売額から手数料を差し引く。
 
東京方面へは関越道を使い、群馬の主力店舗にからトラックで日に何度も配送するため、店頭に並ぶ農産物はほぼ24時間以内に採れたものばかりだ。
 
同社が取引のある生産者は群馬県内を中心に約5000人。JAなどを通して市場経由で販売すると商売にならないような小規模の生産者も、生産物の質がよければ食の駅の店舗で売れるため、それなりに現金収入を得ることができる。
 
さらに最近力を入れているのが、「安全・安心」の野菜の生産・販売。ミネラルを与えた土で育てる「ミネラル野菜」を生産者と連携して栽培している。農薬を減らせるほか、味が濃くておいしく、日持ちもするため、消費者から高い支持を得ている。
 
新鮮で味が良く、安全・安心な農産物を求める消費者と、そうした消費者とできるだけダイレクトにつながりたい生産者。ファームドゥの事業モデルは、両者をうまく結ぶことで成り立っている。


消費者が農業に求めるニーズは何か?
 
昨年10月の臨時国会の所信表明演説で、菅直人首相が「環太平洋パートナーシップ協定(TPP)交渉などへの参加を検討すると表明したことをきっかけに、日本の農業現場では、「TPP反対、農産物の自由化阻止」という声が渦巻く。ただ日本が何よりも工業立国であることを考えれば、遅かれ早かれ、農産物の自由化が進むのは確実だろう。
 
日本のTPP参加や、農産物自由化への対応策としてあがるのは、大規模化で生産効率を上げることだ。
 
大規模化による生産効率の向上はもちろん大切だが、消費者が農業に求めるニーズは効率性や価格の安さばかりではない。パサール三芳で食の駅が繁盛しているのを見ると、都市近郊のそれほど規模の大きくない農業でも、消費者との間をつなぐファームドゥのような存在があれば、そのニーズを満たす道があることがわかる。
 
TPP時代に都市近郊の小規模農家でもやっていける道。そのヒントがこの店には隠されている。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・2・2)

第52回 就活生が受かるために知っていなければならない「3つのこと」

100社以上エントリーしたけれど内定ゼロの実態」
 
文部科学省と厚生労働省の調査で、2011年春に卒業予定の大学生の昨年12月1日時点での就職内定率が、前年同期を4.3ポイント下回る68.8%であることがわかった。

この方法で調査し始めた1996年度以降では初めて7割を切り、過去最悪の水準になった。従来この時期に「就活生」といえば就職活動を始めた3年生を指すのが普通だったが、今年は4年生の3人に1人が内定を得られていない状況で、同じ就活生でも4年生と3年生とを区別して考えなければならない状況だ。
 
最近、こうした就活生向けに話をしたり、エントリーシート(ES)を添削したり、相談に乗ったりすることが多い。3年生の中にはいたずらに焦りを感じている人が多い。一方で4年生の中には、何十社、下手すると100社以上エントリーしたけれど内定を得られず「就活疲れ」になってしまった人もいる。こうした就活生向けに、ぜひとも伝えたい「3つのこと」がある。


(1)「会社を知らない」ことを自覚する
 
就活を始めたばかりの3年生と話していて最も強く感じるのは「会社を知らない」ということだ。
 
例えば大手自動車部品メーカートップのデンソーという会社がある。2011年3月期の売上高は3兆円を超し、1月18日時点での株式時価総額は2兆6000億円と三井物産をわずかに上回り、日本の19位に位置する超優良企業だ。
 
だが学生の集まりでこのデンソーを知っているかを聞くと、名前を聞いたことがある人で10人に1人、業種や仕事内容を知っている人は20人に1人もいない。就職情報会社のダイヤモンド・ビッグアンドリード(東京)がこのほど発表した2011年大学生が選んだ就職人気企業ランキング(文系・男子)でも、デンソーは150位の中にすらない。
 
この理由は1つ。デンソーが手掛けるのは自動車部品で、テレビコマーシャルを積極的に流したり、ブランド名が前面に出したりすることがほぼないためだ。
 
学生は結局、自分に身近な消費財メーカーや消費者と直接関わりのあるマスコミ、さらに商社などの超有名企業から「入りたい会社」を選んでいるに過ぎない。改めてこの種の人気ランキングを眺めてみると、その偏りぶりに驚かされる。
 
日本には、広くは知られていないが優良な会社がそれこそ何万もある。特に就職氷河期を上回る厳しさといわれるなかでも、従業員300人未満企業、いわゆる中小企業の大卒求人倍率は4.41倍(リクルートワークス研究所の2010年4月の調査)と売り手側の優位が続く。
 
自分の希望に合い、しかもランキングには乗らないような優良企業を見つけられれば、それだけ内定を得る確率も高くなる。そうした努力をするには、まずは自分たちが会社をあまりにも知らないことを自覚することが必要だ。


(2)100社のエントリーより、志望動機がきちんとかける数社へのエントリーを
 
就活において履歴書に代わってESの提出が一般的になり始めたのは2000年前後だろうか。当時は、手書きの履歴書ではなく、パソコンを使ってネット経由で提出可能なESが普及してきたことに、手書き履歴書時代に就職活動をした我々世代は羨ましい思いを抱いたものだ。
 
だが今ではこの仕組みの問題点がいろいろあらわになっている。個人から見れば、切り貼りが容易になったことで、1人で100社以上にESを送れるようになったことは一見、よいことのように思えるが、そうとばかりは言い切れない。
 
企業側から見れば、大量のES提出者の中からまずは筆記試験や面接に値する人たちを選び出すのに手間がかかるため、機械的にES提出者をふるいにかけることになる。その結果、就活生の多くは多くの企業でESを提出しても試験にすらたどり着くことができず、徒労感を募らせていくことになる。
 
そこで就活生に提案したいのは、業務内容もよくわからない会社も含めて100社にエントリーするより、仕事の内容をよく理解して志望動機をきちんと書ける会社に絞ることだ。
 
ES提出先の数だけを増やしてみても、たとえ面接にこぎ着けたとしても、志望動機をきちんと話せなければ、試験を通る確率は低い。それならば「本気」の会社に絞った方が、効率も高いし、何より無駄な徒労感を抱く可能性が減る。そして学生の多くがこのことを心がければ、企業側の労力も減るのだ。


(3)使えるコネは大事にしよう
 
こう書くと前時代的に聞こえてしまうが、この3番目の提言も2番目と関係している。いま企業側は大量のエントリーから、試験をするに値する人を選ぶのに苦労している。だが人的なつながりがある学生は、ESとは関係なく、試験を受けさせてもらえる確率が高くなるからだ。
 
こんなことを書くと、ほとんどの学生は「コネなんかない」というだろう。だが親戚、両親の知り合い、ゼミの先輩、体育会の先輩など、探せばコネにつながるものはある。こうした人たちに会って、きちんと仕事について、就職について話をする。そこからコネクションは始まるのだ。
「コネがあれば就職できる」というのは幻想にしても、コネをつくることで試験を受けさせてもらえることは可能。使えるコネは大切に。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・1・19)

第51回 東京モンには分からない北関東自動車道の隠された「効果」

田畑ばかりの土地にいきなり出現した「パワーセンター」
 
総合スーパーのベイシア(前橋市)などが北関東自動車道の前橋南インターチェンジ前で準備を進めてきた「パワーモール前橋みなみ」が12月、開業した。現在はホームセンターのカインズ(高崎市)などベイシアグループ各社と、米衣料専門店のギャップらが入居する。米会員制ディスカウントストアのコストコなどが入る来夏の第2期、生活雑貨専門店などが入る来冬の第3期を含めると、総敷地面積23万平米の巨大パワーセンターが誕生することになる。

総敷地面積23万平米とはどれくらの大きさか。この近辺にある代表的なショッピングモールであるイオンモール高崎(群馬県高崎市、12万平米)と、けやきウォーク前橋(前橋市、9万平米)を足したのとほぼ同等の面積。東京ドームでいえば、約5個分の広さといえば分かりが早いだろうか。ベイシアグループは来冬の完全開業後、このモール全体で年間で300億円を売り上げる計画だ。
 
ただパワーモールがあるのは、JR前橋駅から南に7~8キロ、高崎駅からは東に同程度の距離の場所。それぞれの中心市街地から遠く離れており、元は田畑ばかりだった土地だ。そんな地域にこれだけの規模の施設ができたのは、北関東自動車道が誕生したことと強く関係している。


群馬の店で栃木からも茨城からも客を集めやすくなる
 
政府は1980年代後半に「第4次全国総合開発計画」をまとめ、北関東自動車道の計画を打ち出した。群馬、栃木、茨城3県の主要都市と常陸那珂港などを結ぶ、全長150�の大動脈だ。
 
これまで「北関東」とひとくくりにされつつも、交通の便が悪いが故にまとまりのなかった3県の距離がぐっと近づく。前橋南インターチェンジは関越自動車道の高崎ジャンクションから北関東道に入って最初のインターチェンジだ。
 
現在、北関東道は群馬県の太田桐生インターと栃木県の佐野田沼インターの間(18.6キロ)の間が未開通だが、来年3月19日に全線開通することが決まった。この全通による追い風を受けるのが、来夏に開業するコストコだ。
 
付近にいくつも店舗のあるベイシアグループとは違い、コストコにとっては北関東では最初の店舗。未開通部分が残る現段階でも、群馬県の北西部、新潟県や長野県から前橋南インターへはスムースに来られる。全面開通すれば、さらに栃木県や茨城県からも客を集めやすくなる。


新たに建設された「マルちゃん」工場の規模と効果
 
北関東道の効果があるのは、流通や観光ばかりではない。東京外環自動車道、首都圏中央連絡自動車道と同じように北関東道は、東京を起点に放射状に延びるいくつもの高速道路を、環状に結ぶ役割がある。
 
地価が比較的安く広い土地を確保しやすい北関東道沿いに工場や配送センターを配置すれば、常にモノが集まり混雑しやすい東京を通らずに、東日本にも西日本にも物品を配送しやすい。
 
東北自動車道を東京から東北方面に向かうときに通る利根川橋。この橋を渡るとき、左前方を見ると「マルちゃん」マークのついた巨大な建物が見える。即席めん大手の東洋水産が今年1月に完成させた関東工場(群馬県館林市)だ。
 
東京ドーム2.7個分(13万平米弱)の敷地に、横の長さが340メートルもある工場・物流配送センターが構える。土地の取得と、建物の建設や設備に約150億円をかけた。
 
関東工場は同社の中では最大の即席めん工場。「赤いきつねうどん」や「緑のたぬきそば」を毎時2000ケース(1ケース12個入り)生産する能力があるラインを4つ持つ。原料をこねる段階から出荷までの工程をすべて1直線に並べたことなどで、人手を省いて高い生産性を実現した。


キリンビールが撤退した跡地も道路の開通で見直された
 
東洋水産は地域の好みに合わせて赤いきつねなどの味を変えているが、関東工場がカバーするのは北は青森、西は新潟、岐阜、三重までの「東日本」だ。
 
東北道の館林インターチェンジ近くにあるため、もともと首都圏や東北地方には配送しやすい。さらに3月中旬に北関東道が全通すれば「新潟や長野方面へ運ぶ時間も短縮できる」(同社)というわけだ。
 
東洋水産は関東工場の建設以前に、グループ会社を含めると即席めんの生産拠点を国内に9カ所持っていた。関東工場の稼働に合わせ、生産品目を入れ替えるなどして、生産の効率化を進めている。
 
北関東道の全線開通を背景に、森永製菓も高崎市の高崎ジャンクション近くに、キャンディーとチョコレートを製造する新工場を建設する。こちらは2013年に稼働予定。新鋭設備を導入して生産性を高め、主力の塚口工場(兵庫県尼崎市)から生産を移管し、塚口工場は13年度中に閉鎖する方針だ。
 
森永が工場を建設するのは、キリンビールが2000年夏に高崎工場を閉鎖した場所だ。18万平米に及ぶ跡地利用を巡り、高崎市などは7年にわたって頭を悩ませた経緯がある。一度は大手工場から見放された土地が、北関東道の全通によって他の企業を呼び寄せる。東京からの視点だけではわかりにくいが、実は北関東自動車道の「効果」は意外と大きい


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・12・8)

第50回 日本がロボット産業を育てなければならない2つの「理由」

自動車会社の海外移転加速で取り残される2次下請け
 
1ドル=80円台前半の円高が定着し、環太平洋経済連携協定(TPP)に参加するか否かの議論が巻き起こったここ数カ月。自動車をはじめとした日本メーカーが、海外に生産の軸足を移す動きが相次いだ。

自動車だけをとってみても、海外生産加速のニュースがいくつもある。日産自動車は今夏、タイの工場から新型マーチの対日輸出を始めた。海外で生産した車を日本に逆輸入し販売した例は過去にもいくつかあるが、マーチのような主力車では初めてのケースだ。日産はマーチを1982年の発売以来、追浜工場(神奈川県横須賀市)で作っていた。
 
スズキや三菱自動車もインドやタイに新しい工場を建設する。これまでは全販売台数の約4分の3を国内の群馬県太田市の群馬製作所で生産してきた富士重工業も、中国での現地生産を年内に決める計画だ。
 
1995年4月19日の史上最高値79円75銭に迫る円高。諸外国と比べて高い実効税率。各国との自由貿易協定(FTA)や経済連携協定(EPA)が進まないために、日本製品を輸出するときの関税が韓国などに比べて不利――。こうした状況を考えれば、FTAに積極的な国などに、日本企業が工場を新設しよう、移そうと考えるのは当然のことだ。
 
完成車メーカーが海外での現地生産を進めるとき、中核部品を生産する1次下請け企業は一緒に進出することも可能だろう。だが2次下請けより下のクラスの会社になると、企業の規模や資金面から見て、完成車メーカーとともに海外へ進出するのはかなり難しい。


構造が似ている自動車産業とロボット産業
 
日本の地域経済に占める自動車産業の存在感は大きい。2009年の工業統計調査(速報)によると、製造品出荷額(263兆円、前年比21.7%減)に占める輸送機器の比率は17.8%だ。08年秋のリーマン・ショックの影響で構成比は前年に比べ1.3ポイント下落したとはいえ、それでも2位の食料(9.2%)に大きな差を付けている。
 
都道府県別で見ると、輸送機器が1位なのは愛知県(48.4%)、群馬県(30.3%)、広島県(26.8%)など16県にもなる。自動車産業はすそ野が広く、完成車メーカーを筆頭に1次、2次、3次と下請け企業群のピラミッド構造ができている。地域の大黒柱である完成車メーカーが海外に生産を移したとき、仕事がなくなってしまった下請け企業群をどう維持するか、支えるのかは避けて通れない課題だ。
 
そこで提案したいのが、自動車産業に代わるものとしてロボット産業を育てること。第一の理由は、自動車の部品メーカーなどが移行しやすいためだ。
 
藤本隆宏・東京大学ものづくり経営研究センター長が指摘するように、製造業にはさまざまな会社が協力し合いながら部品を組み立てていく「すり合わせ(インテグラル)型」と、基幹部品を中心に簡単に組み立てられる「組み合わせ(モジュール)型」とに大別できる。
 
日本が得意とするのは前者のすり合わせ型で、自動車産業がまさにこの形。電気製品の生産が自動車に先だって中国などアジアに移転してしまったのは、電気製品の電子化が進み、ICひとつあれば、その製品の主要機能がカバーできるものが主流となり、産業の構造がすり合わせ型から組み合わせ型に変わったことが一因だ。
 
一方ロボット産業は自動車に似ている。部品点数が多く高度な組立技術が必要とする。素材を加工する会社、部品をつくる会社、組み立てる会社と、関係する会社がピラミッド構造なのも自動車と同じだ。


2020年からの労働力不足を補うための方策
 
ロボット産業を育てたいもう1つの理由は、介護支援、家事支援、清掃、点検、高齢者との交流など「サービスロボット」の開発が待たれている状況があることだ。
 
厚生労働省や国立社会保障・人口問題研究所などの推計によると、2005年から2025年の間に、日本の労働力人口(15~64歳)は470万人減り、高齢者人口(65歳以上)は933万人増える。そのギャップは1403万人。これだけの「労働力」が必要とされることになる。
 
現在(2008年)の日本のロボット産業の出荷額は約6500億円で、製造現場で組み立てのために使われる産業ロボットが主流。今年4月、経済産業省が「2035年に向けたロボット産業の将来市場予測」を発表したが、これによると2015年の市場規模は1兆6000億円、2035年には9兆7000億円という規模で、前述のようなサービス分野がけん引役となる。
 
ただこうした潜在市場があるとはいえ、順調にロボット市場が育つ保障はない。産業技術総合研究所の比留川博久・知能システム研究部門長は「2020年には日本は少子高齢化でどうしようもなくなる。その5年前の2015年までに使える生活支援ロボット、サービスロボットが開発できなければ、足りない労働力を外国人の若年労働者に頼るか、日本人の生活レベルを落とすかの選択を迫られることになる」と警告する。
 
続々と海外に生産機能が移転する自動車市場。一方で使えるサービスロボットが開発できなければ、もしかしたら市場そのものが幻に終わってしまうかもしれないロボット産業。2つの意味からロボット産業を早急に伸ばす必要があるのだ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・11・11)

第49回 政府支援のあり方を考えさせる日本の技術「金型産業」の未来

2、3位が合併、1位は買収された金型業界
 
自動車用金型で国内2位の富士テクニカ(ジャスダック上場、静岡県清水町)と同3位の宮津製作所(未上場、群馬県大泉町)が9月中旬、事業統合することを発表した。富士テクニカは政府系の企業再生支援機構から53億円の出資を受け、宮津製作所の事業を買収する。

企業再生支援機構が出資することから明らかなように、業界の2、3位とはいっても両社は苦境に陥っていた。富士テクニカの連結売上高は2005年3月期の287億円を境に減り始め、11年3月期には137億円とピーク時の半分以下になる見通し。宮津製作所にしても08年2月期に157億円だった売上高が10年2月期には71億円まで落ち込み、債務超過に陥っていた。
 
そのため2社統合による再生計画は、両社にとって厳しくて苦い内容だ。2社合わせて6つあった国内工場は3拠点に集約。従業員は1050人から680人に減らされる。現在の経営陣も総退陣し、社長にはスズキの和久田俊一氏が就く。
 
2位、3位の会社がこれだけの苦境にさらされているとき、業界トップの会社はどうなっているのか?
 
群馬県の太田市周辺を車で走らせると、側壁に「OGIHARA」とブルーの目立つ文字で描かれた工場に、いくつもでくわす。金型の最大手、オギハラ(未上場、群馬県太田市)の工場だ。工場の規模の大きさや新しさは、例えば3位の宮津とは大違い。そこだけを見ていると「さすが1位企業」と思ってしまうが、実はこの会社も安泰ではない。
 
2009年2月、タイの自動車部品大手タイ・サミットがオギハラに資本参加し、その後出資比率を高めて傘下に収めてしまった。また今年の3月には、中国の大手自動車メーカー比亜迪(BYD、広東省)がオギハラの4つの工場の1つ、館林工場(館林市)を買収した。つまり工場は健在だが、経営は創業家の手から離れ、タイや中国の会社のものになっているのだ。


グローバル化を進めてリーマンショックに沈む
 
金型とは、自動車のボディなど工業製品を大量生産するのに欠かせない「型」のこと。自動車や家電などほとんどの工業製品の生産に使われ、かつて金型産業は日本の「お家芸」とも言われていた。それが今や1位企業は外資の傘下に入り、2位と3位企業は業績不振の末に事業統合する。ここ10数年のうちに、金型業界には何が起こったのか?
 
金型の大手はかつて、日本の自動車メーカーの仕事が中心だった。オギハラと宮津の本社は、富士重工業の群馬製作所(太田市)のお膝元にある。
 
だが日本の自動車メーカーが金型を自社でつくる動きを進めたことから、米ゼネラル・モーターズ(GM)や英ロールスロイスなど海外メーカーに、受注先を広げていった。同じ自動車関連でも、親会社の系列色が濃い部品メーカーなどと比べると、より早くからグローバルな仕事をしていたわけだ。
 
ところがその分、07年から08年にかけての世界金融危機やリーマン・ショックの影響も強く受けることとなった。
 
世界中の自動車会社は在庫を抱え売り上げを急減させたため、「金型会社の受注も直近の半分程度にまで急減」(金型業界の関係者)。各国政府による自動車買い換え刺激策などで、自動車の売り上げが回復しだしたあとも、自動車会社はモデルチェンジの間隔を延ばすなどしたため、金型会社の受注の回復はなかなか進んでいない。
 
その中で仕事をとろうとすると、日本の技術をうまく後追いしながら力をつけてきた中国などアジアメーカーとの価格競争に巻き込まれ、富士テクニカや宮津などは原価割れの仕事を受ける状況になっていた。


政府が支援しても蘇るとは限らない
 
事業統合発表の記者会見では、2社から「内部要因としては原価管理がうまくできず、中国勢への対応が遅れてしまった」(宮津製作所の宮村哲人社長)、「金型業界は50年間変わらず、周囲の変化に追いついていなかった」(富士テクニカの糸川良平社長)と反省の弁が聞かれた。
 
金型業界の中では今回の再編劇を「ようやく政府が手をさしのべてくれた」と企業再生支援機構の出資を歓迎する声もあるが、一方で「大手が苦境に陥ったのは、技術を海外勢に教えてしまい、しかも最近は技術力を必要としない低価格の仕事の量を増やしていたため」(中堅金型会社の社長)として、"自業自得"と見る関係者もいる。
 
この中堅金型会社の社長は「ハイテン(高張力鋼板)用など難しい技術で日本の金型会社は中国などアジア勢に負けない。今は価格を追求する会社が多いためアジア勢に仕事が流れがちだが、技術を大事にしていればいずれ品質面で優れる日本に仕事が戻ってくる」とも話す。
 
今回の統合シナリオを描いたのは、09年のタイ・サミットによるオギハラの買収に始まった金型産業の地盤沈下に危機感を抱いた経済産業省だ。だが両社の低迷は原価管理の失敗など自ら招いた面もあり、統合して政府が支援すれば金型業界が甦るとは限らない。
 
先の中堅金型会社のように、規模は小さいが、オギハラ、富士テクニカや宮津に負けない技術を持った金型会社もある。こうした元気のある会社を支援することで新陳代謝を進め、結果的に金型産業を守ることも可能だろう。。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・10・13)

第48回 円高よりももっと深刻なのは内需の成長という現実

群馬県の経営者が見る景気の実態
 
米証券大手のリーマン・ブラザースが破綻した2008年9月15日の「リーマン・ショック」から丸2年。ショックをきっかけに起こった、世界の経済成長率が戦後初めてマイナスとなる世界経済危機を、日本をはじめ各国は金融緩和や財政の緊急出動による需要喚起策で一応は乗り切った。

だがその後の世界の風景は、ショック前とは大きく変わりつつある。米欧や日本が低成長やデフレに悩まされる一方で、中国やインドなどの新興国は高成長が続く「二極化」が定着しつつある。そして国内。世界の状況ほどわかりやすくはないものの、こちらでもじわり「二極化」が進み始めている。
 
最近、群馬県内のある農業高校のOB会の例会に講師として招かれた。その会はただのOB会ではなく、卒業生の中でも経営者の人たちが集まる会だ。農業高校ということで、卒業生の経営する会社は農業法人や食品、建設、造園など、ほとんどが内需関連の中小企業だ。出席者は30人あまり。
 
その場でふと思い立ち、即席の景況調査をしてみることにした。出席する経営者に現在の景況感をたずね、「良い」「さほど良くない」「悪い」という3つの選択肢から、どれか1つを選んでもらうのだ。
 
こういう聞き方をしたのは、日本銀行の企業短期経済観測調査(短観)の業況判断指数(DI)と同じにするためだ。「良い」と答えた企業の割合から「悪い」の割合を引くと、DIを求められる。日銀は3カ月ごとに短観を発表。全国の数字だけでなく、日銀の33の支店・事務所でもその管内の数値を個別に発表するため、地域の景況感を知るには最も信頼できる指標だ。


日銀調査と大幅に異なった業況判断
 
例えば群馬県の6月短観の業況判断DIは全産業でマイナス4。まだ「悪い」が「良い」を多少上回っているとはいえ、前回調査に比べ15ポイントも改善している。日銀前橋支店の業況判断DIはリーマン・ショック後に急落し、2009年3月にはマイナス61を記録。その後、今年の6月まで5期連続で改善している。
 
だが最近、短観のような経済指標と、実際の経営者の声との間に温度差を感じることが多い。短観、銀行の景況調査、鉱工業生産指数、有効求人倍率といった各種の指標は改善を示しているのに、経営者から聞く声は「このままだと日本経済はどうなるのか」「いい話はない」といった暗いものが多数を占める。それならば、中小企業の経営者が集まった場所で同じように質問をして景況判断DIを求めてみれば面白いと考えたのだ。
 
即席景況調査の結果はマイナス67。おそらく短観の数字よりは悪くなるとは考えていたが、まさか60ポイント以上の差が出るとは考えていなかった。
 
もちろん即席調査の数字は短観のような精緻なものではない。どう答えたかは他の出席者にわかるから「よい」とは答えにくかったかもしれない。


菅新政権に課せられた本当の課題
 
だが2つのDIに大きな差が出た最大の要因は、対象の業種と規模の違いだ。日銀の短観調査の対象は大企業・中堅企業・中小企業、そして31の業種を満遍なく含んでいる。一方で即席調査はほぼ内需関連ばかり、しかも中小企業である。
 
リーマン・ショック後の日本の景気回復の特徴は強く外需、特に新興国の需要に依存している点だ。人口減の時代に入り、デフレが続く日本では、新しい市場を創り出すことはかなり難しい。国内の市場はゼロサムゲームで、一方が伸びれば他方が市場を奪われる構造だ。
 
一方で輸出競争力の強い製品を持つ企業は、外需の恩恵を被っている。1ドル=83円に迫る15年ぶりの円高水準は輸出企業にとってはマイナスだが、既に大企業は生産の現地化を進め、そのときどきの為替水準によって、柔軟に世界の生産比率を変えられる態勢を築きつつある。つまり多くの大企業は既に「国境を越えている」のだ。
 
リーマン・ショック以前にも外需につながった企業と、内需だけに依存せざるを得ない企業との間には差があったが、ショック後の景気回復過程では日本経済の外需への依存度が強まり、両者のその差はさらに開き二極化しつつある。2つの調査のDIの差は、二極に開いた外需型と内需型の差ではないだろうか。
 
14日の民主党代表選では、菅直人首相(党代表)が小沢一郎前幹事長を破り、再選を決めた。新体制の第1の仕事は1ドル=80円割れも視野に入った円高に、どう対処するかだろう。法人税の実効税率引き下げなど、企業を日本にとどめる政策を打ち出さないと、外需企業の国境越え=国内空洞化はさらに進む。
 
ただし課題はそれだけではない。本当の問題は内需だけに頼る多くの企業に、どう成長の道筋つけるかだ。新体制に突きつけられた課題は重たい。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010.9.14)

第47回 「日本製品=高品質」の原型を作った138年前の製糸工場

未だに創業当初の雰囲気を伝える繰糸場138年の歴史
 
2007年に世界遺産の暫定リストに登録された富岡製糸場(群馬県富岡市)を先日、見学した。日本初の官営工場として1872年(明治5年)に創業。その後民間に払い下げられ、1987年まで115年間操業を続けた、明治期の「殖産興業」政策を体現した工場である。

富岡製糸場の経営者は三井家、原合名会社を経たあと、1938年からは片倉工業になった。同社は1987年に操業停止した後も、富岡製糸場の建造物をそのまま維持し続け、2005年に富岡市に建造物を寄贈。現在は富岡市が管理し、100人弱の地元民が務めるボランティアガイドが見学者に解説をしている。
 
片倉工業の管理がよかったこともあり、建造物は今も創業当初のままだ。5万平方メートル強の敷地に繭の倉庫や、フランス人指導者のための住居などさまざまな建物があるが、中心は繭から生糸を繰る作業を担った繰糸場(そうしじょう)だ。
 
繰糸場の建物は幅12メートルで長さは140メートル。多くの繰糸器を置き、工員が働きやすくするため、柱がなくても屋根を支えられる「トラス構造」を採用した。電気がない時代に工場内を明るく保つため、採光のためのガラス窓を約200カ所、またサナギなどの臭いがこもらないよう屋根に蒸気抜きも設けた。
 
繰糸場には創業当初、フランス製の繰糸器(釜)を300台設置した。「当時、欧州で一番大きな製糸場でも繰糸器の数は150台だったので、世界で最大の繰糸場だった」(ガイドの神戸修身さん)という。できたばかりの明治政府の殖産興業への意気込みが伝わってくる話だ。


アーネスト・サトウが記した日本製生糸の質の低下
 
この富岡製糸場。大人500円の入館料を払えば、場内を自由に歩き回って見学できる。だがより深く知る、楽しむためには1時間置きに正門を出発するガイドツアー(無料)に参加するのがよい。今回、ツアーに参加して個人的に発見があったのは、明治政府が富岡製糸場を設けた目的についての説明を聞いたときだ。
 
生糸や蚕種が日本の最大の輸出品となったのは、1859年(安政6年)の横浜開港がきっかけだ。当時、欧州では蚕の伝染病である微粒子病がはやり、繭や生糸、蚕種までが極端に不足していた。
 
また生糸の大量輸出国だった清国はアヘン戦争などで、生糸の生産を大幅に減らし、需要国の要望に応えられない状態だった。そんな状況の中で、日本の品質が高い生糸や蚕種が注目を集めたわけだ。
 
横浜開港後の輸出総額に占める蚕糸類の比率を見ると、開港翌年の1860年には早くも蚕糸類が65.6%を占めている。5年後の1865年には、88.5%に達するまでになった。ところが蚕糸類の貿易が爆発的に広がる中で、国内では生糸や蚕種の粗製濫造、偽造が横行するようになってしまった。
 
「生糸には砂が混じっていたり、重い紙ひもで結わえてあったりするので(中略)良質品と信用するわけにはいかなかった。(中略)そんなわけで外国人の間に、『日本人と不正直な取引ものとは同意義である』との確信がきわめて強くなった」。幕末から明治にかけて日本に滞在した英国の外交官、アーネスト・サトウは『一外交官の見た明治維新(上)』の中で、当時の生糸貿易の実態についてこう記している。
 
ガイドの説明を聞いて意外に思ったのは、日本の生糸など蚕糸類の品質が一度は大きく低下したという事実だ。歴史の教科書では富岡製糸場の建設の目的は「輸出品の要であった生糸の品質改良と大量生産を可能とするため」などと書かれている。これを読んだだけでは、品質低下の事実はわからない。


製糸産業が作った自動車ニッポンの意味
 
明治政府は1870年(明治3年)に「官営製糸場設立の議」を決し、生糸の粗製濫造問題を解決し、良質な生糸を大量に生産するために、政府資本による模範工場を設立することを決めた。つまり富岡製糸場の目的の1つは、日本の輸出の要でありながら一度は評判が地に墜ち日本製生糸について、大量生産が可能な器械(きかい)製糸を導入することで再び品質を高め、世界からの信頼を取り戻すことにあったのだ。
 
こうした経緯で1872年にできた富岡製糸場は当初、10人のフランス人を雇い入れ、日本人に器械製糸技術を指導した。技術伝習生として15~25歳の若い女性が全国各地から集まり、彼女たちは器械製糸の技術を取得した後、それぞれの地元に戻り、指導者として活躍した。
 
品質の低下から明治初期にいったんは落ち込んだ蚕糸類の輸出は、富岡製糸場設立後に再び盛り返し、1909年(明治38年)には日本が中国を抜いて、世界一の生糸輸出国になる。そして大正、昭和初期まで、蚕糸類や絹織物は日本の輸出の大黒柱であり続けた。
 
製糸産業が繊維産業に広がり、さらにその繊維産業の技術を応用する中で、今の日本の柱である自動車産業が興ったことを考えると、製糸産業の勃興期に品質問題をいち早く解決した「富岡製糸場の意味」が見えてくる。
 
いま、「日本製品=高品質」というイメージは世界中に広く流布している。だが明治期に富岡製糸場がなければ、アーネスト・サトウが記したように、世界の日本製品に対するイメージは著しく低いままだったかもしれない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・8・3)

第46回 その数1000万人以上!? 地方で始まっている「買い物難民」の深刻

首都圏の県庁所在地でも例外ではない

「買い物難民」「買い物弱者」という言葉を頻繁に聞くようになったのは2000年代前半のことだ。当初は地方都市の商店街が、郊外型の大規模店との競争や不況により衰退し、高齢者が食料品や生活用品の買い物に困る現象を指していた。だが今や個人商店の撤退だけでなく、商店街の衰退の原因となったスーパーや大型ショッピングセンター(SC)の撤退によっても、同じ現象が起こったり、問題が深刻化したりするようになった。

群馬県前橋市で今夏以降、大型スーパーとショッピングセンターが相次いで閉店する。JR前橋駅前にあるイトーヨーカドーが8月に。そしてイオン傘下のマイカルが運営し、国道17号沿いにあるSC「前橋サティ」が10月に、店を閉じる。
 
首都圏の、それも人口34万人を超える県庁所在地ですら、多くの住民が「買い物難民」になる日が近づいているのだ。
 
両社とも閉店の理由に挙げるのが「近隣の大型SCや郊外型専門店との競合が激化して、収益が悪化した」点だ。


より大きな跡地に立った店舗が強くなるという構図
 
前橋市近隣では、2006年にイオンが「イオンモール高崎」(開業当時は群馬町=現高崎市)を開業。2007年には前橋駅の南側にユニーが運営する大型SC「けやきウォーク前橋」がオープンした。さらに今年12月には、群馬を地盤とするスーパーのベイシアなどが市南部の前橋南インターチェンジ(IC)周辺に県内最大規模のSCを開設する計画だ。
 
イトーヨーカドーの前橋店は1987年の開業で、元々は地元の老舗製粉会社の本社兼工場だった土地だ。前橋サティは93年の開業。グンゼが製糸工場を営んでいた土地をSCとして再開発した。直営店のほか、ファッションを中心に59の専門店がテナントとして入居しており、この地域ではSCの先駆けだった。
 
一方のけやきウォーク前橋は、2004年に大分県中津市に本社・工場を移転させたダイハツ車体(現・ダイハツ九州)の工場跡地に、開店した。売り場面積は約5万1000平方メートルで、約150店がテナントとして入居する。
 
製粉や製糸は明治から昭和にかけて、群馬を牽引した産業。一方、自動車は今も県経済を引っ張る中心的な存在。群馬における大型店の主役交代は、製粉、製糸という古い産業の工場跡地を再開発した中規模のスーパー、SCが、自動車工場跡地にできたより大型の施設との競争に敗れたという構図でもある。


規模の小さい店舗を閉めれば「難民」はさらに増える
 
個人商店が衰退したり、古いスーパーやSCが撤退しても、より安い、より品ぞろえが豊富で、より便利なモールや大型SCができればそれでいい、という見方もある。だがこうした見方に欠けるのは、車を持たない人や一人暮らし高齢者にとっては、郊外型のモール、大型店は使えないという点だ。
 
経産省は買い物難民の増加など地域の新たな課題へ対応するため、「地域生活インフラを支える流通のあり方研究会」を設置。その研究会が5月、日本の流通のあり方や発展の方向性についての報告書をまとめた。この報告書では、高齢者に対するアンケート調査などから、現在の買い物難民の数を約600万人と推計している。
 
日本は人口減の時代に入り、地方を中心に、高齢化はますます進む。仮に流通がいまの状態を維持したとしても、車を使えない高齢者が増え、日頃の買い物が難しい人は増えるだろう。流通各社が採算の観点から、イトーヨーカドーのように規模の小さい店舗を閉店して大型化を進めれば、買い物難民の数はさらに上乗せされるだろう。


一人暮らしの高齢者向け「ご用聞き」サービスも始まった
 
この問題を解決するには官、企業、住民の3者がそれぞれの立場から努力をすることが必要だ。
 
まず地元自治体。既に人口減や高齢化に悩む地方自治体の場合は、街の中心部に機能を集めるコンパクトシティ(街の規模の縮小)政策が盛んだ。だが前橋市のような首都圏や大都市近郊の場合は、いまだに郊外開発のウエイトが重い都市が少なくない。こうした自治体は街づくりの方向性を郊外への拡散から、中心への集中に、かじを切るべきだ。
 
国がすべきは規制緩和だ。先の研究会の報告書は、郵便集配車が買い物客も運ぶ英国の「ポストバス」の実例などを紹介している。郵便や宅配、バスやタクシーなど、日常の買い物や生活サービスにまつわる参入規制などで緩和できるものは相当あるはずだ。
 
企業がすべきは、買い物難民に着目した新事業への取り組みだ。群馬県大泉町では、商店街の5店舗が2月、買い物に困る一人暮らしの高齢者らを対象に「ご用聞き」サービスを始めた。書店、食品店、酒屋、洋服店が連携して注文を受け、無料で配達する。こうした取り組みは商店街生き残りの方策にもなるだろう。
 
各地でネットスーパー事業も始まっているが、現状ではパソコンなど情報機器に慣れない高齢者にとっては、使いやすいシステムとはいえない。だが米アップルコンピュータのiPad(アイパッド)の登場で、高齢者にも使いやすいシステムを開発するハードルはかなり低くなった。ぜひこうしたシステム開発を望みたい。住民にとって必要なのは何よりも「商店や公共交通機関は自分たちが支える」という意識だ。
 
人口が減る中では、買い物難民の簡単な解決策はない。官・企業・住民がそれぞれの立場から力を合わせることが不可欠だ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・7・7)

第45回 日本の消費を上昇させたいなら中国人観光客をもっと呼び込め

新しい家電の聖地池袋には中国人がいっぱい
 
6月に入った最初の週末、東京・池袋に冷蔵庫を買いに行った。パソコン関連やAV(音響・映像)機器などはネット通販で買うことが多くなったが、冷蔵庫は配送や搬入にも手がかかる商品。配送体制やアフターサービスがしっかりとした家電量販店で、しかもできる限り安く買いたいと考え、池袋を選んだ。

池袋は今、家電製品の価格競争が最も激しい場所のひとつだ。家電量販店最大手のヤマダ電機が2009年10月末に、池袋駅前の三越の跡地に約2万3000平方メートルの売り場面積を誇る「日本総本店」を出店した。
 
同社は既に2007年7月、LABI池袋店をオープン。以前から池袋に店舗を持つビックカメラとの「池袋家電戦争」が始まっていたが、日本総本店によりその戦いはさらに激しくなった。その分、消費者としては、同じ商品を他の場所よりも安く購入しやすいと考えたのだ。
ヤマダ電機の日本総本店とビックカメラ池袋本店の間を往復すること数度。結局、価格比較サイト「価格コム」の最安価格よりさらに安い価格で冷蔵庫を購入できて満足したのだが、両店舗をくまなく回るうちに感じたのが、中国人観光客の買い物パワーだ。
両店のどの階でも、中国人観光客とおぼしき人たちの中国語が耳に入ってくる。両手に余るほどの荷物を抱えた人たちにも数多く出会った。店舗側も中国語の表記を増やすなど、その対応を強化している。


平均月収以上に買い物をする中国人観光客
 
中国人観光客が買い物パワーを発揮しているのは池袋だけではない。「電気の街」として知られる東京・秋葉原。同地区の年間売り上げは3000億~4000億円だが、既にそのうちの1割程度が中国人観光客によるものだという。百貨店にも中国人観光客が押し寄せ、日本人の消費不振を補う効果を発揮し始めている。
 
日本政府観光局が調査した、日本を訪れた外国人の消費額調査によると、中国本土から日本に観光に来た人はお土産に平均11万7000円を使っている。その額は欧米各国の2倍以上。会社勤めする中国人の平均月収が7万~8万円程度であることを考慮すれば、いかに中国人が日本で買い物に力を入れているかがわかる。
 
中国の経済発展とともに、日本へやってくる中国人観光客の数も増え続けている。2009年に訪日した観光客は前年比6%増の48万人。リーマン・ショック後の世界不況の影響で、ほとんどの国が観光客を減らしているにもかかわらずだ。国別では米国を抜き、韓国、台湾に次ぐ第3位になった。
中国人にとって「メード・イン・ジャパン」の信頼感は絶大だという。加えて、日本で買う場合は偽物が少ないというのも、中国人が日本で積極的に買い物をする理由だろう。


茨城空港に来る中国人観光客を狙う草津の湯
 
中国人観光客を呼び込もうとする動きは、観光地でも始まっている。
 
中国の格安航空会社、春秋航空(上海市)は6月初旬、7月末をメドに茨城空港(茨城県小美玉市)へチャーター便を就航させることを決めた。日中両国の認可を得れば早期に定期便に切り替える計画だ。茨城空港はターミナルビルを低コスト構造にし、格安航空会社に絞った路線誘致に力を入れおり、その活動が実った形だ。
 
春秋航空の就航によって増えるだろう中国人観光客に熱い視線を送るのが、群馬県の草津温泉だ。2011年春には茨城・栃木・群馬の各県を結ぶ北関東自動車道が全面開通し、群馬県からは茨城空港へのアクセスが飛躍的に向上する。
草津温泉旅館協同組合(草津町)は「健康に対する関心が高まっている中国人に泉質の良さを訴える」と、中国向けの営業を強化する。また群馬大学の重粒子線医学研究センター(前橋市)がこのほど「がんを切らずに治せる」治療法、重粒子線治療を始めたため、これと連携したツアーの開発も検討している。


ビザ緩和で中国人の1600万世帯が日本に来る?
 
東京など一部を除き人口が減る時代に突入したいま、地域の活力を維持・強化するには、今まで以上に地域外から訪れる人の数(交流人口)を増やすことが重要になる。
 
ただ国内で日本人だけを対象に競争していては、市場は広がらない。この不況の中、一人当たりの旅行支出額が急に増えることはないからだ。どこかの観光地が客数を増やせば、逆にどこかが減らすという「ゼロサムゲーム」が続く。
 
だが経済発展が続く中国人向けは別だ。中国人の日本観光は2000年から団体観光として実施。中国人への団体観光ビザの発給数は年々増えてきた。
 
さらに日本政府は2009年7月、年収25万元(約330万円)程度の富裕層を対象に個人観光ビザの発給を開始。今年7月からはビザの発給条件を大幅に緩和し、企業や政府などの中堅幹部ら中間層に対しても発給する。外務省はビザ緩和で、発行対象がこれまでの10倍に当たる1600万世帯に増えると見込む。
大幅に増える中国人向けに、いかに実のあるサービスを提供できるか。しばらくは日本の消費が上向きそうもない中で、このことが小売業や観光業の中で、重要なキーワードとなりそうだ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・6・9)

第44回 iPad発売を前に書類スキャナが売れる日本の電子書籍市場の不思議

1年以上前に売り出された商品が今になって売れ始めた
 
米アップルは5月28日、多機能情報端末「iPad(アイパッド)」を日本国内でも発売する。先行する米国では4月初旬に発売、4週間で100万台以上を販売した。日本でも10日の予約開始時には量販店に行列ができ、大ヒット間違いなしと言われている。

そして、このiPad発売を前に、ひそかに売れ行きが伸びている"旧商品"がある。PFUが2009年2月に発売したドキュメントスキャナ「ScanSnap (スキャンスナップ)S1500/1500M」である。両製品はハードウェアは同じで、S1500がウィンドウズ、同Mがマック向けだ。
 
ScanSnapはA4までの用紙の両面を連続でカラーで読み取ってPDFやJPEG形式でパソコンに保存するものだ。その最大の特徴は毎分20枚・40面の高速読み取り。実際に書類などを読み取ってみると、机の上にあふれた書類などを、さくさくと電子化できることが実感できる。
 
元はオフィスの文書の電子化を念頭にした製品だが、個人利用者の中には、書籍の電子化に利用する人も多い。通常の文庫本なら裁断後2~3分程度でPDFファイル化できる。付属のソフトでOCR(光学式文字読み取り)もかけられるので、できあがったPDFファイルは、自在に検索できる。これは紙の本にない利点だ。


読み取り機と一緒に売れる裁断機
 
さらにできあがったPDFファイルを、Dropboxのようなオンラインストレージサービスを利用して「クラウド」上に収めておけば、家のデスクトップでも、オフィスのノートでも、さらにiPhoneなどのスマートフォンでも閲覧可能だ。1冊の本をこのように使えるのは"電子書籍"ならではだ。
 
ScanSnapとともに、「裁断機」というニッチ商品もにわかに注目を浴びている。文庫本1冊程度ならカッターで切ることも可能だが、手持ちの本を片っ端から電子化しようとすると、荷が重い。そこで普通のコピー用紙などを160~180枚を、手軽くきれいに裁断できるプラスの裁断機「PK-513L」といった商品が急に売れ出した。
 
こうした自前で書籍を電子化する技術は「自炊」と呼ばれ、今になって確立されたものではない。ScanSnapの初代機が発売されたのは2001年7月。読み取りの速度など性能は格段に上がっているが、原理そのものは当時と変わらない。ScanSnapは昨年末までに累計100万台も売れた製品だ。それがここへ来て広く注目を集めるきっかけになったのが、iPadの発売なのだ。


日本で電子書籍販売サービスが実施されない理由

「大きなiPhone(アイフォン)」とも揶揄されるiPadだが、期待されている最大の機能は電子書籍だ。基本ソフト(OS)がiPhoneと同じなので、iPhoneのソフトやサービスがそのまま動き、操作方法もほとんど同じだ。一方で携帯電話網を使った通話はできず、680グラムという重さから携帯する音楽端末としても向かない。
 
ただし画面は大きい。9.7インチのLEDバックライトディスプレーを備え、解像度もXGA(1024×768ピクセル)と通常のノートパソコン並だ。9.7インチといえばA5版に近い大きさで、文庫本よりは重いものの、ネットブックや携帯電話、iPhoneなど、これまでの端末類よりは電子書籍を読むのにははるかに適している。
 
米国などでアップルは電子書籍販売サービス「iBookstore(アイブックストア)」を用意し、既に150万本以上の電子書籍がダウンロードされた。だがアップルは今のところ、日本ではiBookstoreを用意するとは表明していない。
 
背景には、出版業界が電子書籍の普及に慎重だったことがある。権利関係の複雑さもあり、アップルが音楽配信サービス「iTunesミュージックストア」のように、多くの書籍を配信するのには、さまざまな壁があると見られている。


新しい協会の役割は「いかに自分たちの権利を守るか」?
 
iPad発売を前に、講談社が京極夏彦氏の新作ミステリー小説をiPadで配信することを表明したように、多くの出版社が電子書籍を手掛けようとはしている。だが個々の会社がバラバラにさまざまなフォーマットで電子書籍を試行的に配信しても、利用者にはあまりメリットがない。
 
ScanSnapが売れ出したのは、こうした「日本では統一的な電子書籍の配信が容易には進まない」ということを見越した動きなのだ。確かに裁断やスキャンなどの手間はかかる。だがその手間さえ惜しまなければ、書籍が場所にとらわれず読める、検索できる、本で専用されていた部屋が片付く――――などさまざまな利点を享受できるのだ。
 
ただスキャナを使い自前で電子化した書籍は、違法コピーで元の書籍も持っていなかった人にも簡単に手渡せてしまう。実際にコミックなどは、アングラで、しかも規模の大きい違法コピー市場が存在している。
 
日本の出版業界は2月、電子書籍対応技術の標準化などを進める「日本電子書籍出版社協会」を設立した。ただ関係者の発言を読むと、いかに自分たちの利益を守るかにウェイトがあり、利用者に利点がある電子書籍流通の仕組みを作る方向性が感じられない。
 
今の書籍でも、出版社には元となる電子データが存在する。それなのに利用者がいったん紙の本になったものをスキャンして再び電子化しなければならない日本。そこに日本の出版業界の遅れが凝縮されている。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・5・25)

第43回 グローバル時代にこそ必要な「ローカル性」という名の視点

なぜ山間部の温泉地でマグロの刺身が出るのか
 
関東近郊の有名な温泉地に泊まったおり、ふと違和感を抱いてしまうことが多いのが、夕食のメニューについてだ。前菜から始まり、主菜はマグロのお造りやエビの天ぷら。最後はそばや御飯ものでしめる。

もちろん、そうではない、地元産品にこだわった食事を提供する旅館やホテルもあるのだが、主流は先に書いたような「海のもの」をメーンに据えた宴会料理である。
 
海沿いの温泉街だったら大いに海のものを食べたいが、どうして海から遠い山間部の温泉地でも、マグロの刺身など海のものを主菜扱いで出すのか。宿泊施設側に「温泉の宴会料理とはこういうもの」という概念が染みついているのではないか。なぜ「地産地消」をもっと進めないのか。そういった疑問を持ってしまうのだ。
 
群馬県内の温泉に宿泊したとき、「マグロの刺身など海のものに頼らず、もっと地産地消にこだわった料理を提供するつもりはないのですか」という問いを、温泉関係者にぶつけたことがある。
 
するとその関係者は「うーん」と少し考え込んだ後、「今日も、マグロの刺身は出しますよ。やはり、マグロがないとさびしいという声が多いですから」と答えてくれた。
 
関東の山間部の温泉地がマグロなど海のものにこだわる理由の1つは、宿泊客の一定割合を占める地元客が「海のものを求めるから」だという。


地元民には支持されていても観光客には不満
 
総務省統計局が、一般勤労者の生活状態を客観的に把握するために実施している「家計調査」。この家計調査で、食品別の1世帯当たり購入ランキング(2006年から2008年の平均)を見ると興味深いことがわかる。
 
鮮魚全体の購入量の上位5位に入るのは、青森市、鳥取市、金沢市など海沿いの町ばかりだ。
 
一方、マグロのみの購入量を見ると、1位こそ、マグロの産地である静岡市が入っているものの、上位5位には甲府市、前橋市、宇都宮市という海なし県の県庁所在地が3つも入っているのだ。
 
静岡県民が産地だからこそマグロの購入量が多いのに対し、山梨、群馬、栃木県民は「海から遠いからこそのマグロ好き」といえるだろう。温泉地の宿泊客に、同じ県民がいることを考えれば、先の温泉関係者の「マグロがないとさびしいという声があるからマグロを出す」という話はある程度、納得がいく。
 
ただ観光庁の宿泊旅行統計(2008年)を見ると、「観光目的宿泊者数に占める地元居住者比率」は群馬県も栃木県も2割弱だ。海のもの中心のメニューは、全体の2割弱の地元民には支持されていても、東京など他地域からやってきた人たちには、あまり支持されていない可能性が高い。
 
実際、東京など全国各地から宇都宮、前橋、高崎など関東の近郊都市に赴任した大企業の支店長クラスに話を聞くと「栃木や群馬の温泉地は、どこも同じような海のものを使った宴会料理を出している」と不満を漏らす人が多い。


地産地消は当然の結果
 
観光客の「地産地消」志向が急速に進んでいるのには、いくつかの背景がある。
 
1つには、食のグローバル化、均一化が進み続けていることだ。例えばマクドナルドの店舗は2009年6月現在、世界118の国と地域に約3万店舗ある。国内でもマクドナルドの店舗がない市を探すことは難しいだろう。
 
東京やニューヨークなどの大都市では、世界の主だった料理のほとんどを食べることができる。こうしたグローバル化、均一化が進んだ時代だからこそ、「ここの土地でしか食べられない」という地場食材やそれを使ったメニューの価値が上がっている。
 
もう1つは、国内の観光がバブル崩壊以降、団体客中心から個人客中心にに大きくシフトしたことだ。団体客ならば画一的な宴会料理でがまんできても、個人客はそれぞれが独自の料理を求める傾向が強い。
 
国内の観光・旅行事情に詳しい清水慎一JTB常務取締役は「国内の観光は大きく変わった。施設中心のやり方が通じなくなり、今はその土地の暮らしそのものが観光資源の時代になった。食については地産地消は当然のことで、観光客は土産物も地場産品以外のものは買わない時代になった」と指摘する。


グローバル化が進むからこそローカルが求められる
 
一般に、グローバルな競争は世界の市場や価値体系を均一化して、一握りの勝者と多くの敗者を生むといわれる。スマートフォン市場で、iPhoneのアップルが快走する一方で、日本の携帯電話メーカーが苦戦する現状は、グローバル競争の典型例だろう。
 
一方でグローバル化が進めば進むほど、ローカル性への要求が強くなる分野もある。グローバル競争の勝者が限られるのに対し、ローカル競争では「小さな勝者」がたくさん生まれる。「食」こそ、そうした分野の1つだ。
 
ただ「小さな勝者」になるには、自らの地域(ローカル)の強みをいかに活かすか、徹底して考える必要がある。画一的な宴会料理を出し続ける関東近郊の温泉旅館の多くは、まだその作業が欠けているように思える。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・4・14)

第42回 日本有数のイベント「おきゃく」という名の接待祭りに見るパワー

ふだんは閑散としたアーケードが人また人
 
その光景は壮観だった。普段は人通りもそれほど多くはない商店街のアーケードが人で埋め尽くされ、前に進もうとしてもなかなか真っすぐに歩けない。

あちこちでビールを飲み、杯を傾ける歓談の輪ができている。そして知り合いが通るとすぐに「よってき、よってき」といって、輪の中に引きこんでしまう。そうやっていつの間にか、知らない人たちとも、昔からの知り合いのように飲んでいる――。
 
これは3月13、14日の両日、高知市の中心商店街で行われた「日本一の大おきゃく」での光景だ。6日から14日まで行われた、高知の春を彩る音楽や飲食のイベント「土佐の『おきゃく』2010」のトリを飾る催しである。
アーケード約1キロを7つのエリアに分け、午前11時から午後10時まで、食や音楽にからんだテーマイベントを同時多発的に開催。ジャズの生ライブを聴きながら、地産料理を味わうことがもきれば、土佐のお座敷遊びを体験できる場所もある。夜遅い時間まで、アーケードには人が途切れることはなかった。
「おきゃく」とは、土佐でお祝い事や祭りなどで人を招いて家で開く宴会のこと。現在放映中のNHKの大河ドラマ『龍馬伝』の初回で、大森南朋が演ずる武市半平太が結婚式の祝宴で酔いつぶれる場面が出てきたが、この宴こそ、おきゃくだ。


昔からある接待文化を復活せよ
 
土佐のおきゃくが他の地域の人が自宅で開く宴会と趣が異なるのは「まあ、入ってきいや」といった感じで、参加者全体の知り合いでなくても、ときには見知らぬ人でも気軽に加わってしまうことだ。
 
見知らぬ人を客人としておきゃくに受け入れ楽しんでもらうことが、自分たちにとっても楽しみである、という文化が土佐人には根付いている。
 
土佐だけではなく四国にはもともと、四国八十八箇所を遍路している人に、食べ物やお賽銭を差し出しす「お接待文化」がある。土佐のおきゃく文化は、そうした風土のうえに、さらに土佐人の酒好きなところやオープンな気性が重なって、発達したものだろう。
かつては結婚式など祝い事のたびに開かれていたおきゃくだが、最近は自宅でこれらの催しを開く機会が少なくなり、土佐でも「おきゃく」という言葉を聞く機会が少なくなっていた時期もあった。
 
それが復活するきっかけとなったのは4年前、土佐経済同友会や特定非営利活動法人(NPO法人)など民間が主体となって「土佐のおきゃく2006」を始めたことにある。当時、土佐経済同友会の岡内啓明代表幹事は「昔のおきゃく同様、自分たちも楽しみながら、観光客にも楽しんでもらおう」と、その狙いについて話していた。
高知には、夏には全国的な知名度を誇るよさこい祭りがあり、桂浜や四万十川など春夏に向いた名所が多い。だが冬には目立った催しがなく、観光客数もほぼ春夏の半分にとどまっていた。もともと「土佐のおきゃく」はこの観光閑散期の目玉事業として育てたい、という狙いから始まったものだ。


製造品品出荷額全国最下位の現実もパワーに変える

高知の経済人達が当初「土佐のおきゃく」のモデルとしたのは、石川県で1985年に始まった、石川の食文化とそれを育てた風土を満喫できるイベント「フードピア金沢」だ。初期の土佐のおきゃくの中心イベントで、高知ゆかりの著名人を招きホテルや旅館で開くトークディナーショー「土佐の食談」は、フードピアで成功している形式をそのまま「輸入」したものだ。
 
だが土佐のおきゃくも回を重ねるにつれ、高知の独自性が色濃くなっている。冒頭の「日本一の大おきゃく」は2009年から始まったもの。高知市内には、テーブルが並ぶオープンな飲食エリアで真っ昼間から男女を問わず酒を飲んでいる「ひろめ市場」があるが、大おきゃくは、それを商店街全域に広め、さらにイベントの集中的な開催で、パワーアップしたような催しだ。
 
昨年は最終日1日だけの開催だったが、昨年の成功を受けて、今年は2日連続の開催。両日とも商店街は人があふれていた。県外からやってきた男性観光客は「だれとでも友達になってしまうような、この雰囲気がいい」と話す。
 
高知もイベントの喧噪から一歩離れれば、市内中心部にある高知西武百貨店跡地に計画中だった商業ビル建設の計画が頓挫し、結局はパチンコ店と商業施設が入る複合ビルが建設されることになるなど、あまり明るくない話が多い。経済指標の1つである「製造品出荷額」では全都道府県の中で最下位が続く。それだけ地域経済はせっぱ詰まっており、観光にかける意気込みは強い。
今年の人出は、大河ドラマ『龍馬伝』が放映中で、県内各地で「土佐・龍馬であい博」を開催中ということもあるだろう。ただ大おきゃくをはじめ「土佐のおきゃく2010」には、「来てくれた人たちにとことん楽しんでもらおう」という迫力さえ伴った「もてなしの心」を感じた。その精神は、どんな地域でも、人を呼び込もうとするときに参考になるものだ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・3・16)

第41回 「新興国への輸出増で回復」にひそむ死角

群馬県では残業や休日出勤も復活した
 
株式市場はここのところ、米オバマ政権の金融規制強化案や、ギリシャなど一部欧州諸国の債務問題への懸念から、弱含みの相場が続いている。ただ日本の実体経済を表す指標では、久々に明るい兆しが見え始めた。

内閣府が15日に発表した2009年10~12月期の国内総生産(GDP)の速報値は、その筆頭だろう。物価変動の影響を除いた実質GDPは前期比1.1%増、年率換算では4.6%増と、3四半期連続で増えた。輸出や個人消費が伸び、さらに設備投資も7四半期ぶりに増加に転じたからだ。
 
地方の現場を歩いていても、明るい話題をちらほらと耳にするようになった。
 
自動車大手、富士重工業が唯一の国内自動車製造拠点を置く群馬県太田市。ステーションワゴンを中心とした「レガシィ」シリーズ、小型の多目的スポーツ車(SUV)「フォレスター」など4車種を生産する群馬製作所の矢島工場(太田市)はいま、活気にあふれている。残業や休日出勤を伴った「フル稼働状態」に戻ったからだ。
 
2008年秋のリーマン・ショック後、急速に悪化する雇用問題の象徴となった自動車各社の非正規社員。富士重も08年12月初めの時点では期間従業員や派遣社員など非正規社員が1800人いたが、世界的な自動車販売不振により一時は400人にまで削減していた。
 
だが自動車販売が復調軌道に乗り、09年9月には期間従業員の採用を再開。今年1月以降は900人にまで増やした。「うちの場合は、北海道や東北から広く期間社員を集める仕組みができている。今回も、経験者など質の高い人材がすぐに集まった」と富士重の担当者は話す。


生産台数は横ばいでも販売先が変わった
 
太田市内で活気が感じられるのは、富士重だけではない。年初に行われた市内の機械金属中小企業の新年会には、これまでで最も多い人数が集まった。
「『コスト削減圧力が強い』といった不満を漏らす人は多かったが、1年前の『仕事がない』という状況に比べればはるかにまし。会に人が集まるのは、中小企業の元気が回復してきた証し」と出席者の1人はみる。
 
太田市の製造品出荷額に占める輸送機械の比率は約65%と、文字通り自動車産業が市を支える。
 
また坂本工業やしげる工業といった富士重の1次下請けだけでなく、市内の自動車関係中小企業のほとんどは何らかの形で、富士重と関係している。富士重の回復が、太田市周辺の中小製造業を元気にしているわけだ。

 
富士重がこのほど発表した09年4~12月期決算を検証すると、興味深いことに気づく。富士重の2009年3月期の販売台数は55万5300台、10年3月期の計画販売台数は56万台とほとんど変化しない。前期は下期が失速、今期は上期が低調だったため、通期ベースで見ると販売台数はほぼ同じとなる見通しだ。
 
変わったのは、販売先だ。前期に比べ今期は欧州・ロシアが約4万台も減る(51%減)見込みなのに対し、米国が3万7000台増(20%増)、中国が2万3000台増(88%増)となる見通しだ。
 
富士重の場合、生産拠点は群馬製作所と米国のインディアナ工場の2つ。レガシィなど北米向けの約半分はインディアナ工場で、残りは群馬製作所で生産している。
 
そのため群馬製作所の生産分で、最も伸びたのは「中国向け」。欧州・ロシア分が半減し、国内向けも8000台減(4%減)となっているので、相対的に中国向けの比率が高くなっているのだ。先ほど説明した太田市の産業構造を考えると、群馬製作所だけでなく、太田市の製造業全体も、中国への依存度がじわり高まっているわけだ。
 
富士重を含む日本の乗用車7社の2010年3月期の業績見通しを見ると、特に日産自動車やホンダの回復度合いが大きい。これも富士重同様、中国や新興国への輸出が伸びているからだ。日本の製造業全体でも、中国や新興国での需要開拓に成功した企業ほど、利益の伸びが大きい傾向がある。
 
上場企業の09年4~12月期決算でも、アジアなど新興国の事業をテコに収益を改善させた企業が相次いだ。3月期決算企業(金融、新興市場を除く)の10年3月期経常利益は2期ぶりに増益になりそうだ。


現在は知識集約型産業を立ち上げるための猶予期間
 
2007年秋以降の米国初の世界金融危機の後、中国など新興国の経済も同時に失速したため、新興国は先進国経済の落ち込みの影響を受けずに成長するという「デカップリング(非連動)論」は否定された。だが09年春を底にした景気回復過程では、新興国に比べて、日米や欧州など先進国は景気回復の勢いで見劣りし、再びデカップリング傾向が鮮明になりつつある。
 
ただ日本経済が中国など新興国の成長を取り込むことができれば、安心というわけではない。製造業は常に、相対的にコストが安い国に仕事が奪われる危険性を秘めており、いつまでも「中国・新興国への輸出」で稼ぎ続けられる保障はまるでないからだ。
 
いま太田市が元気を取り戻しつつあるのも、富士重の規模が他の自動車大手に比べ相対的に小さく、中国での現地生産を行わず、日本からの輸出のみで対応しているからという側面もある。富士重が中国で現地生産するようになれば、太田市の経済にはかなりのマイナス要因になるだろう。
 
今よりもさらにコスト競争力を高めること。自動車産業が海外に出ていったときに部品点数の多い産業構造を行かせる代替分野――ロボット産業――などを育成すること、ものづくり以外で日本が勝てる知識集約型の産業を早急に立ち上げることなど、日本経済が取り組むべき課題は山積している。「中国など新興国への輸出で急回復」している局面は、課題に取り組むべき「猶予期間」を与えられたと考えた方がいい。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・2・16)

第40回 地方を衰退させたのは「小泉・竹中の構造改革路線」か?

小泉政権下で減った公共事業費の実態
 
地方の現場を歩いていると、2001年4月から2006年9月まで5年半近く続いた「自民党の小泉(純一郎)政権が地方を衰退させた」という声をよく耳にする。1月に筆者が出席したある地域の経済団体の新年会でも、商工会連合会のトップがこんなあいさつをした。

「小泉・竹中(平蔵氏、小泉内閣で経済財政担当相などを務めた)ラインによる構造改革路線が、地方をめちゃくちゃにした。今は『地方の時代』といわれるが、その現状は惨憺たるものだ」
 
彼はこの話をまくらに、本題の商工会改革に話をつなげていった。だが地元選出の自民党議員が来賓として呼ばれている場所での発言だけに、本題より冒頭の小泉政権批判の方がインパクトが大きかった。
 
地方の経済団体首脳や地方企業のトップ、あるいは自治体首脳などからあがる小泉政権時代への怨嗟(えんさ)の声。確かに当時の状況を振り返ると、そうした声を上げたくなるのもわからなくはない。
 
最もヤリ玉に上がることが多いのは公共事業費の削減だ。
 
2001年度の当初予算案では、公共事業費は9兆4335億円。だが小泉政権下では初の予算編成となった02年度は10.7%減の8兆4239億円となり、過去最大の減少幅になった。以後、毎年数パーセントずつ減り続け、小泉政権では最後の予算編成となった06年度には、7兆2015億円にまで減った。5年間の減少率は24%。さらに補正予算後の公共事業費を見ると、01年度の11兆3000億円から06年度は7兆8000億円と31%も減っている。


地方にばらまいても地域経済への貢献は一時的
 
もう1つ不評なのが、小泉政権による構造改革の目玉となった「国と地方の税財政改革(三位一体改革)」。本来は、(1)国庫補助負担金の廃止・縮減(2)税財源の移譲(3)地方交付税見直し――の3つを一体的に行う予定だったが、(1)と(2)は遅々として進まず、交付税の削減が先行したため、04年度には予算が組めず、基金の取り崩しや管理職の給与カットなどでしのいだ地方自治体が相次いだ。
 
しかし詳しく検証すると、地方から上がる「小泉政権が地方を衰退させた」との主張のかなりの部分が的外れであることがわかる。
 
まず公共事業。問題はむしろ、小泉政権より前の公共事業の増加なのだ。
 
バブル経済の崩壊後、政府は景気刺激を目的に公共事業を主体とした財政支出を増やしてきた。特に小渕恵三内閣(98~2000年)は、98年11月に補正予算規模7.6兆円と、当時としては最大の「緊急経済対策」を実施した。この結果、98年の補正予算を含む公共事業費は14兆9000億円と空前の規模に膨らんだ。
 
もちろん必要度の高い道路やトンネルをつくる公共事業は必要だ。だがバブル崩壊後の公共事業は、むしろ「地方に一時的な雇用を生み出す」ことだけが目的の事業が多かった。
 
この当時、地方には公共の文化施設など立派な建物がいくつもできた。だがこれらは建設中のみ雇用が増えるだけで、建設が終わったあと、地域の経済活動をさらに促進するような効果はほとんどない。
 
小渕政権時の「緊急経済対策」のような大型景気対策と実質GDP(国内総生産)の変化を照らし合わせてみても、両者の間に明確な因果関係はない。2000年代に入り、日本経済が復活したのは、公共事業によってではなく、為替の円安基調をベースに、自動車や電機などの輸出産業が急速に回復したからだ。


地方交付税の仕組みにも問題
 
高度成長期のように、日本経済全体のパイが大きくなりつつあるときには、公共事業費を増やすこともできる。だが低成長経済の下では、公共事業費の増大は財政赤字を増やすだけだ。日本の債務残高が急速に増え出したのは、バブル経済崩壊以降のことだ。
 
小泉政権はこうした状況を解決するために、公共事業費の大幅な削減を実施した。そもそも公共事業を「注入」し続けないと維持できない地方経済が問題なのであり、公共事業削減を「衰退」の原因とするのは間違いだ。
 
地方交付税についても、制度そのものに大きな問題点がある。この制度は、地域の活性化を実現し生産・所得が増えても、その分だけ交付税は減らされる。逆に衰退が進めば進むほど、配分額が増える仕組みだ。
 
そのため土居丈朗・慶大経済学部教授は「交付税への依存が強い自治体では、地域経済を自発的に活性化する努力が報われず、結果的に地域経済を低迷させている」(日経ヴェリタス 
2009年6月14日号)と指摘する。


結局怨嗟の声を上げるのは既得権益者
 
地方分権を進めないまま交付税の削減を急いだ小泉政権に手法の問題はあったが、交付税に頼らない地域をつくるという方向性そのものが間違っているわけではない。
 
実は疲弊した地域経済を立て直したり、地方で新たな雇用を生み出したりした人たちを取材していると、冒頭のような小泉・竹中路線を非難する声は聞こえてこない。
 
徳島県上勝町で「葉っぱビジネス」を成功させた彩(いろどり)にしても、四万十川の中流域でさまざまな地域発商品を開発した四万十ドラマ(高知県四万十町)にしても、公共事業や補助金とは無縁のところから生まれた事業だ。国や自治体に「何かをしてもらう」という発想は、彼らにはない。
 
小泉政権が地方を衰退させた――。こうした声の中心にいるのは結局、構造改革でマイナスの影響を受けた既得権益者ではないだろうか。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・2・1)

第39回 2010年は新興市場への投資が始まる!?

1年でわずか19社しか上場がない新興市場
 
2009年末、十数年来の知り合いであるジャスダック上場企業の経営者に会って、話を聞いたときのことだ。
 
彼は最近の新興企業を取り巻く状況の厳しさに触れた後で、「日本でベンチャーを再び元気にするには、現在いくつもある新興企業向けの証券市場を統合するなどして、新興企業にリスクマネーを供給する仕組みを再び機能させないといけない」と訴えていた。

確かにこの社長が指摘するように、2009年は日本で新興企業に成長資金を供給するための仕組みが、半ば「機能不全」に陥ってしまった年だったかもしれない。
 
1年間で新規株式公開(IPO)した社数は、2008年より30社も少ない19社。これは新興企業向けの3市場(ジャスダック、東証マザーズ、ナスダック・ジャパン=現・大証ヘラクレス)が出そろい、過去最高の社数だった2000年の206社と比べると、実に10分の1以下の水準だ。
 
2009年に上場した19社が上場時の公募増資で調達した金額は合計で300億円あまり。「ネットバブル」と騒がれた2000年当時、仮想商店街を手掛ける楽天1社がジャスダックに上場したときの調達額(495億円)にすら届かない数字だ。
 
「2008年秋のリーマン・ショックをきっかけに、世界中の金融がまひしさまざまな需要が急減する『100年に1度の不況』があったのだから仕方がない」という見方もあるだろう。だが世界が同時不況に陥ったにもかかわらず、世界各国の市場でのIPOは年後半から回復し、日本よりずっと盛んだった。


リーマンショック後の回復から大きく出遅れた日本市場
 
トムソン・ロイターの調べによると香港、上海、深センの中国3市場のIPOによる資金調達額は700億ドル(約6兆3000億円)、ニューヨーク証券取引所が335億ドル(3兆150億円)、ナスダックが121億ドル(1兆890億円)といずれも日本より2ケタも多い。
 
日本のIPO市場だけが特に機能不全に陥ってしまったのはなぜか。
 
日本特有の理由の1つは、2006年1月のライブドア・ショック後、ライブドアをはじめとした新興企業を巡る不祥事や、上場直後の業績下方修正などが相次いだことだ。これに伴い、新興市場を運営する取引所などが上場審査を厳格にした。
 
ライブドア・ショックの2006年には188社だった新規株式公開の数は、121社(07年)、49社(08年)、19社(09年)と右方下がりで減り続けた。
 
上場前には無理をしてでも収益の右肩上がりを続け、上場直後に下方修正を繰り返すような質の悪い新規公開企業が、振るいにかけられたことは確かだ。だが成長資金を必要としていて、資金調達できれば成長が加速できそうな会社まで新規株式公開が難しくなっている面もある。
 
もう1つの理由は、2009年に限ってみれば、世界の多くの株式市場がリーマン・ショック後の底値から大きく回復したのに対し、日本市場は大きく出遅れたことだ。
 
さらに日本市場の2009年のエクイティファイナンス(新株発行を伴う資金調達)は総額5兆円超と、歴史的な高水準になった。既に上場している銀行や大手メーカーが立て続けに大型増資したことも、新規公開企業にとっては逆風だった。


そこそこ稼げればよしとするのか!
 
日本での新規株式公開がとても難しいものになってしまったことは、起業家にも強い影響を与えている。起業から上場への距離が遠くなってしまったことで、若手起業家の中では「目立たず、人を増やさず、そこそこ稼ぐことをよしとする人が増えている」(20代の企業経営者)ともいう。
 
冒頭のジャスダック上場企業の社長と会ったとき、社長は「十数年前(1990年代後半)にも『ベンチャーに成長資金を』という、同じような話をしていたよね」といって、ため息をついた。
 
1990年代後半といえば、新興企業向けの株式市場はジャスダックしかなく、しかも今よりも実質的な上場基準が厳しかったために、上場する会社は設立してから20年以上たった中堅企業がほとんどだった。
 
当時の日本は若い会社にリスクマネーを供給する担い手や仕組みを欠いていた。98年の通商白書は「新規産業を担うベンチャー企業に円滑にリスクマネーが供給されるべきだ」と主張。こうした認識が、その後の新興企業向け株式市場の整備につながっていった。
 
だがそれから10数年がたち、再び「ベンチャーに成長資金を」という主張をしなければならないのには、ある種の徒労感を伴う。
 
ただ10数年前と異なるのはリスクマネー供給のための「仕組み」は既に一通りあり、あとはその運用の仕方をどう工夫するかにかかっている点だ。
 
幸い2010年の日本の株式市場では、外国人投資家の見直し買いが続き、世界の株式市場における日本株の出遅れはかなり解消しつつある。目立つ起業家は減ったとはいえ、起業家そのものの層は厚みを増している。
 
2010年は新規株式公開をはじめとして、新興企業に成長資金が供給される仕組みが再び動き出す年となることを期待したい。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・1・19)

第38回 「口利き」は姿消せども「ばらまき」はやまない日本という国家

予算の決まり方が見えなくなった!
 
一時は「年内に決まるのだろうか?」と危ぶまれていた2010年度予算案は、政府が昨年12月25日に閣議決定した。結果をみれば、スケジュールはほぼ例年通り。だが自民党・公明党連立の自公政権から民主党連立政権へと交代したことで、その予算の決まり方は様変わりした。

常に、国の予算案の動向を注視している地方自治体。従来は、国が政府予算案が決まったその日に、都道府県は道路やダム、補助事業など、それぞれの地域に関係する政府予算案の状況をまとめ、地元マスコミなどに向けて詳細な資料を発表するのが常だった。自治体の財政部局が、それぞれの省庁の担当者と頻繁に連絡をとりあい、関係する予算がどうなるかを継続して把握しているためだ。
 
ところが今年は、資料を出してはみたものの決定額が抜け落ちていたり、大項目はわかっても「詳細については不明」だったりする自治体が多かった。予算編成が「政治主導」になった結果、省庁の担当者が把握できる部分が減り、「予算の決まり方が見えなくなってしまった」(ある県の幹部)からだ。
 
もう1つ、予算に関係するところで大きく姿を変えたのが「陳情」や「口利き」の風景である。
 
全国に500以上もある商工会議所。加盟する中小企業や大企業の事業所から意見や提案を吸い上げ、調整をした上で、自治体や国に「陳情」するのが主な仕事だ。陳情は、都道府県単位の商議所の集まりである商工会議所連合会が集約し、連合会単位で知事や、その都道府県選出の国会議員などに説明するのが一般的なやり方だ。


族議員の口利きによる陳情はなくなった
 
だが北関東のある商議所の場合、こうした「正式ルート」とは別に、その地域選出の国会議員に陳情を行うのが常だった。
 
商議所の会頭や専務理事が国会議員の事務所を訪れ、議員に直接、要望を伝える。すると議員は自らが大臣となった経験もある関係省庁の担当者に直接、電話を入れる。
 
その後、商議所の会頭や専務理事は議員の秘書とともに省庁の担当者を訪れ、要望を伝えたり、予算や補助金の情報などをもらったりする――という流れだ。いわゆる「族議員による口利き」といっていいだろう。
 
「口利き」というと贈収賄に結びつくようなイメージがあるが、大半は法に触れない範囲のものだ。それでも「予算や補助金の情報がほかよりも早くもらえたり、ときには補助金の採択などに有利に働くこともあり、ありがたかった」と商議所の担当者はもらす。
 
これは商議所の場合だが、自治体が地元に関係する公共事業などの獲得を狙い、地元選出の代議士の口利きで国土交通省などに働きかけることもあった。
 
族議員にとっては、口利きが、選挙のときの票集めにつながる。自民党政権時代は、こうしたそれぞれの議員が手掛ける「口利き」が党全体の集票の役割も果たしていたわけだ。
 
しかし政権交代で、自民党の族議員の多くが落選。たとえ落選を逃れたとしても、野党となったことで、自民党代議士が口利きすることはできなくなった。
 
口利きは従来、政治、行政(官僚)、企業の「政官業」癒着を生み、地方での公共事業など、予算のばらまきが起こる原因ともされてきた。


新しいシステムでも構造に変化なし
 
それでは、個々の口利きが減った結果として、2010年度予算案ではばらまきも減ったのか。
 
その答は「ノー」だ。確かに、これまでばらまきの象徴だった公共事業は前年度比1兆3000億円、18.3%も減り、減少の幅と率は小泉政権下の2002年度をしのぎ過去最大になった。5兆8000億円弱というその額は32年前の1978年の規模とほぼ同じである。
 
だが子ども手当には、公共事業の削減額を大きく上回る1兆7000億円を計上。ほかにも農家の個別所得補償(6000億円)、高校の無償化(4000億円)など、家計や農家に気前よく予算がばらまかれた。一方で、企業がグローバルに戦うための環境整備はないがしろにされた。
 
予算全体の規模を示す一般会計総額は4.2%増の92兆3000億円。財源をまかなうため、09年度当初予算より約11兆円多い44兆3030億円の新規国債を発行せざるを得ない状況に追い込まれている。
 
民主党政権は家計に安心感をもたらすことで成長を促すのだと主張するが、国債発行で後の世代にツケを回す形で予算をばらまくことが、本当に成長につながるのだろうか。
 
むしろ2010年度予算案から感じるのは、今夏の参院選対策だ。混迷した2010年度予算編成を方向付けたのは、民主党の小沢一郎幹事長だった。家計や農家を手厚く支援することで、参院選勝利を確実なものにする――。今回の予算からは、そうした小沢流の選挙戦略が透けて見える。
 
民主党は昨年末、新しい陳情システムの運用を始めた。都道府県の民主党県連が経済団体や自治体などからの陳情の窓口となり、民主党本部の幹事長室が吸い上げる。幹事長室が陳情を認めた場合は政府三役、大臣、副大臣などが対応するというシステムだ。
 
このシステムでは、自民党政権下のように個々の代議士が陳情を受け付けたり、口利きをしたりはできない。その代わり陳情や要望が党幹事長室に集中することで、ただでさえ強い小沢幹事長の権力がさらに強まる可能性が高い。
 
個々の代議士による口利きは姿を消した。しかし与党の政治家が予算を選挙に勝つための道具として利用する構造は、今も変わっていない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・1・7)

第37回 緩やかな回復でも雇用や設備投資が増えないミスマッチの意味

地方都市で単身者向けアパートの需要が復活!
 
日本銀行が14日に発表した12月の企業短期経済観測調査(短観)。最も重要視される指標で、企業の景況感を示す業況判断指数(DI)は、大企業製造業が前回調査から9ポイント改善してマイナス24となるなど、3期連続で改善した。

だが一方で非製造業を含む大企業の2010年度新卒採用計画も30.5%減と、過去2番目の落ち込みとなる見通し。また大企業製造業の2009年度の設備投資計画も前年度比28.2%減と、過去最大の減少率を記録した。緩やかとはいえ景気は回復傾向をたどっているのに、雇用や設備投資には急ブレーキがかかる。このちぐはぐさの原因は、何なのだろうか。
 
群馬県南部に伊勢崎市伊勢崎市。利根川をはさんで埼玉県側の向かいにある同市八斗島(やったじま)地区は、カーエアコン用のコンプレッサーで世界の約25%のシェアを握るサンデンの八斗島事業所など、いくつもの製造業の工場が集積している場所だ。
 
この周辺でアパートを数多く経営する土地所有者によると、今年の春ごろにはほとんど入居者がなくなってしまった単身者向けのアパートの需要がここのところ、急速に回復しているという。
 
単身者向けアパートを利用するのは、主にこの地域の工場で働く期間従業員や、製造業向け派遣会社の従業員だ。自動車をはじめとした輸出産業が好調だった昨秋までは、こうした単身者向けアパートはほぼ満室の状況だった。ところがリーマン・ショック以後の輸出産業の不振で、各社は期間従業員や派遣社員などを一気に削減した。


トヨタや日産も期間従業員の雇用を再開している
 
サンデンの八斗島事業所だけでも、ピーク時には1100人の正社員に加え500人の派遣社員がいたが、今年初めには500人の派遣社員はすべて雇い止めになってしまった。単身者向けアパートがほぼ空になってしまったのはこのころだ。
 
ところが日本のエコカー減税をはじめとした、世界各国の自動車の買い換え刺激策の効果もあり、世界の自動車需要は相当程度、回復した。サンデンも夏以降に以前ほどではないにしろ、工場向け派遣社員の採用を再開している。土地所有者によると、アパートの需要回復は、こうした企業からの需要によるものだという。
 
また工場関係者からは「期間従業員や製造業派遣で人を採用しようとしても、なかなか人が集まらない」という声も漏れてくる。
 
リーマン・ショック後ににこうした求人がなくなってしまったことで、そもそも期間従業員などとしての採用を望む人が伊勢崎地区からはいなくなってしまったり、製造業向け派遣会社も出先の拠点をたたんでしまったところが多いからだ。ごくごく局所的ではあるが、製造現場では「人手不足」が顕在化しているのだ。
 
期間従業員は工場向けの派遣社員の採用を再開する動きはここだけにとどまらない。中国向けに多目的スポーツ車、フォレスターなどの販売が好調な富士重工業の群馬製作所矢島工場(太田市)では9月末に400人だった期間従業員を1月初めまでに900人に増やす計画。トヨタ自動車や日産自動車など自動車大手もいっせいに期間従業員の採用を再開している。


製造業派遣を禁止しても求人増にはならない
 
だがこうした製造現場での非正社員の求人増は、産業界全体の正社員雇用の増加にはつながっていない。むしろ12月短観に表れたように、企業は新卒採用をより抑え始め、「雇用のミスマッチ」の度合いがより強まっている。
 
1つの理由は、全体として見ればまだ雇用の過剰感が強いためだ。12月短観の大企業製造業の雇用判断DIはプラス21で、雇用が「過剰」と考える企業が「不足」とみる企業よりもかなり多いことを示している。
 
雇用調整助成金の制度を拡充したことで、仕事がなくても従業員はそのまま雇い続ける「社内失業」が増えたことも、雇用の過剰感が消えない原因だ。
 
もう1つは鳩山政権下で円高とデフレが急速に進み、企業経営者の先行きに対する見通しがより悪化していること。「円高が進行し、富士重工業などがいつ中国に進出するかとの不安を抱える中では、いま程度に生産が回復しても設備を入れたり、正社員を増やすという気にならない」と、群馬県内のある自動車部品メーカーの社長は話す。
 
先行きの不透明感が晴れないため、結局目先の人手不足は期間従業員や製造業派遣でしのごうとする企業がほとんどだ。
 
民主党連立政権が進める「製造業派遣の禁止」を実施したところで、短期の求人需要は製造業請負会社などに回るだけで、正社員の求人増につながるわけではない。
 
重要なのは、企業が安定的に成長しやすくなるような環境をつくること。円相場安定に努め、製造業が国際競争しやすい環境をつくることや法人税の減税などが何よりも求められる。企業が太らない限り、雇用の本格回復はあり得ない。


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1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・12・15)

第36回 ネットの世界でいち早く日本発の世界標準を世に出した経営者がいた

「世界をめざした起業家」のあまりにも早い死
 
東京都千代田区のJR水道駅近くに本社を置く、そのベンチャー企業を初めて訪ねたのは1998年の春ごろだったと思う。本社のある小さなオフィスビルの場所はわかりにくく、何度か通行人に場所を聞いてたどり着いたときには、約束の時間を少し過ぎてしまっていた。

90年代半ばごろから銀行がベンチャーに積極融資するなどして、「第3次ベンチャーブーム」が盛り上がっていた。だが97年には、山一証券が自主廃業し、ベンチャーの倒産件数も72件と前年より8割も増えた(帝国データバンク調べ)。98年といえば、ベンチャーに対する向かい風が強まり、ブームが急速にしぼみつつあったときだ。
 
だが、その会社にはそんな「逆風」を全く感じさせない元気さと明るさがあった。そして何よりも印象的だったのは、取材の間、社長が「日本発のオリジナルで、世界に通用するソフトをつくる」という言葉を、何度も口にしていたことだ。
 
実力以上の「大言壮語」をはく起業家は多い。だがその言葉は、不思議と大言壮語のようには聞こえなかった。起業家として、会社として必ず目指さなければならない「理想」。あえて表現すると、そんな響きが、この言葉にはあった。
 
この会社とはソフト開発のACCESS(当時は「アクセス」)。そのACCESSの創業者で当時社長だったのが、10月23日に亡くなった荒川亨氏である。
 
ベンチャー全体に対する逆風だけでなく、当時の日本のソフト開発業界には、米国に対する劣等感も漂っていた。


いち早く日本発の世界標準を開発
 
1970年代のマイクロプロセッサー(MPU)の開発、パソコンの登場にともない、多くのベンチャー企業が誕生したのは米国も日本も同じだった。西和彦氏らがアスキーを創業したのは77年、孫正義氏がソフトバンクを起こしたのは81年のことだ。
 
だがパソコンの世界で基本ソフト(OS)を握ったのは米マイクロソフト。インターネットの興隆と共にキラーアプリケーションとなったブラウザ(閲覧ソフト)の分野でも、日本勢は太刀打ちできなかった。
 
日本語という参入障壁のあるワープロの世界ですら、「一太郎」を開発したジャストシステムは既に劣勢となり、「パソコンの世界で日本のソフト開発会社がデファクトスタンダード(事実上の業界標準)を握るのは無理だ」という空気が濃くなっていた。
 
荒川氏が個人事務所「荒川設計事務所」を創業したのは79年で弱冠20歳のとき。「有限会社アクセス」として会社組織にしたのが84年のことだ。
 
最初はマイコン関連の開発から始め、プログラミング言語の開発なども手掛けた荒川氏は、パソコンの世界でマイクロソフトはじめとした米国勢が覇権を握ったことに、悔しさをかみしめた1人だった。
 
荒川氏やACCESSがほかのソフト会社と違ったのは、「それならば日本の会社が勝てる分野は何か」を考え、「日本のメーカーが強い家電分野に集中する」ことを、早くも80年代に決めていた点だ。まずは当時、日本ではほとんど注目されなかった、インターネットの通信方式である「TCP/IP」に対応した通信ソフトを手掛けた。そして95年には、インターネットテレビのための接続・閲覧ソフト「ネットフロント」の開発にこぎ着けた。


会うたびに青臭く理想を説く経営者の凄み
 
私が初めて会社を訪れた98年春には、ネットフロントは既に各社家電メーカーのテレビのほかワープロなどにも搭載され、搭載機器数は累計100万台を超えていた。そしてACCESSのさらなる飛躍のきっかけになったのが、NTTドコモが99年2月に始めた「iモード」サービスだ。
 
当時の携帯電話の限られた環境でも実用的にインターネットを利用できるようにするためのネット記述言語「コンパクトHTML」や、コンパクトHTMLで記述されたホームページを閲覧する「コンパクトネットフロント」を開発し、NTTドコモを通してNECや松下電器産業(現パナソニック)など大手端末メーカーに供給したのがACCESSだ。
 
これをきっかけにACCESSのソフト供給先は一気に拡大。今や世界で同社製ソフトを搭載した機器の数は8億台を超すという。
 
98年春に荒川氏に会って以来、折に触れて荒川氏のもとを訪ねるようになった。今でも思い出すのは、そのたびに、最初に会ったときと同じような「理想」を聞かされたことだ。「ネット閲覧ソフトのデファクトスタンダードをとりたい」「最高のソフトウエアを世界に送り出したい」......。起業家は理想を掲げれば成功するわけではないが、たとい「青臭い」と言われようとも、社内外で理想を唱え続ける荒川氏がいなかったら、今のACCESSはなかっただろう。
 
最後に荒川氏に会ったのは、再び長期入院する前の2008年夏。このときは日本と米国の社会では起業家やベンチャーの扱い方が違うという話しをした後で、「今の目標はR&D(研究開発)企業で世界一になること。その道はまだ1合目に達したぐらいだけれど」と話していた。
 
それから1年あまり、荒川氏は帰らぬ人となってしまった。享年50歳。いつまでも理想を追い続けた起業家の、あまりにも早すぎる死である。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・12・1)

第35回 日本一の名湯が真剣に考える宇都宮方式「名産」の作り方

どこの店にも客が列をなす宇都宮の異様な光景
 
時間は午前11時。その店の開店時間は11時半なので、どこかで時間をつぶした方がよいかもしれない。そんなことを思いつつ、店の前まで来ると、既に数十人の行列ができていた――。11月のある週末、宇都宮市の中心にある老舗の餃子(ギョーザ)専門店、宇都宮『みんみん本店』でのできごとだ。

あわてて私も列の後ろに並ぶことにした。その後も店を目指す人の列はとぎれず、11時半の開店時には、列は50メートルほどの長さになっていた。
『みんみん本店』は、どこの町にもある中華料理店のような店構えだ。餃子はヤキ(焼餃子)、スイ(水餃子)、アゲ(揚餃子)の3種類。後はライスとビールのみという潔さだ。餃子はすべて1人前6個入りで240円。ヤキとアゲを1皿ずつ頼んでみる。
 
特に美味しかったのが焼き餃子。皮はぱりっと焼け、一口かじるとハクサイやニラ、豚肉の汁がじわっと口の中に広がる。思いのほか軽めで、2皿を食べ終える頃には、追加注文をする誘惑を抑えなければならなかった。
『みんみん本店』を出て宇都宮駅方面に向かおうとすると、さっきとは違う行列がまたできている。これも老舗の1つ、『正嗣(まさし)宮島店』に入るための列だ。
 
こちらはカウンターしかない、『みんみん』よりもさらに小さいお店。『みんみん』より回転が速くないため、小一時間並ぶことになった。
 
列に並ぶのは、主に20代から30代にかけての若者たち。後ろにいた5人組のギャルたちは、どうやら前日は近場の温泉に泊まり、今日は餃子屋巡りをする計画のようだ。デジカメやケータイで盛んに写真を撮り合っている。
 
彼女たちに限らず、ガイドブックや、宇都宮餃子会がつくったオフィシャルマップを持つ人が多い。


餃子5皿とご飯1膳、3軒の店で1240円
 
列を眺めていて、ディズニーランドやテーマパークのアトラクションに並ぶ人たちと似ていることに気づいた。ゆっくりと進む行列。恋人や友人達と、これから入る店についてああでもない、こうでもないと話す。マップを見ながら、次はどの店(アトラクション)に行こうかと考える――。
 
私はおいしいと思ったが、『みんみん』や『正嗣』のような老舗店でも、なかには「味は大したことはない」という意見もあるようだ。
 
ただこうして並んでいる人たちは、味だけが目当てではないのかもしれない。並んで、食べて、また巡る。そんなテーマパークのような楽しみ方をしているのだ。
 
その日、私は結局3つの餃子専門店をはしごして、餃子5皿とライスを1つ食べることになった。だがそれでも代金はしめて1240円。テーマパークのように楽しめて、それよりも安く、しかもうまい。まさに、今のようなデフレ時代にかなった楽しみ方だろう。
 
私が「宇都宮に行って餃子を食べてみようか」と考えたきっかけは、群馬県草津町の中沢敬町長が「これからは宇都宮の餃子や福岡の明太子のような発想で、名産をつくっていきたい」と話したのを聞いたからだ。
 
「天下の名湯」として、その名をはせてきた草津温泉。ピーク時からは少し減ったとはいえ、今でも年間270万人の人たちが、草津を訪れる。
 
1度、草津を訪ねてみれば、その観光地としての強みが何よりも「温泉」にあることがわかる。町の中心地にある「湯畑」では、毎分4000リットル以上という大量のお湯が噴出している。
 
湯畑を中心に、町にはホテルや旅館の他にも18の共同温泉浴場があり、どこへ行っても硫黄のにおいが漂う。その「温泉力」は強烈で、業界紙の温泉ランキングで、草津温泉は7年連続でトップになった。
 
ただそんな草津にも、1つ弱みはある。それは「食」についてだ。


目立った産品はなくても名産は作れる
 
草津の旅館やホテルでの料理は、刺身や鍋物といったいわゆる「ほかの温泉でもよく出るもの」が中心だ。だが最近は消費者の地産地消志向が強くなり、東京近辺から来る客の中には「草津に来て、わざわざ刺身など食べたくない。地場のものを食べたい」という人がいるという。
 
では草津にはどんな地場食材があるのか。草津は白根山の東麓、標高1200メートルの高地にある。標高が高いだけでなく、硫黄泉の影響で、「草津で採れる珍しいもの」というと、花インゲンぐらいしかない。「地場の食材による名産」というのが、ほとんど成立しない土地なのだ。
 
中沢町長が「宇都宮の餃子や福岡の明太子のような発想で」と話したのは、両地とも地場に圧倒的な強みを持つ食材があったわけではないのに、「名産」をつくることに成功したからだ。
 
宇都宮の餃子が全国区の名産になったのは、意外にも1990年以降のこと。宇都宮市役所の商業観光課にいた沼尾博行さんが「1世帯当たりの餃子消費額は宇都宮が日本一」という話を聞き、「これを名物にしよう」と考えたのが始まりだ。粘り強く餃子店を巡るなどして、メディアへのアピールを続けた。こうして店主らが宇都宮餃子会を設立したのは、1993年のことだ。
 
今や宇都宮には、餃子目当てに年間100万人近い観光客が訪れるという。ありふれた食材でも名産としうることを示した宇都宮の戦略は、草津だけでなく、目立った産品を持たない全国の自治体のお手本にもなっている。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・11・24)

第34回 東京モーターショーを見るとよく分かる、自動車「100年に1度」の大変革

相次ぐ上方修正で最悪の状態を脱した自動車産業
 
自動車産業の収益が最悪期を脱して、急速に回復している。ホンダは10月27日、2010年3月期の連結営業利益(米国会計基準)の予想を、前期比0.2%増の1900億円に上方修正した。従来予想の700億円と比べ1200億円の上積みで、減益予想から一転、増益予想となった。

注目されるトヨタ自動車の2009年4~9月期(中間期)決算発表は11月5日。日本経済新聞によれば、トヨタの4~9月期の連結営業利益(米国会計基準)も2500億円前後の赤字(前年同期は5820億円の黒字)と、従来予想の4000億円の赤字よりは、大幅な上方修正となりそうだ。
 
両社とも、日本国内の環境対応車への減税措置など世界各国の需要刺激策により、自動車販売が回復していることが「上方修正」の背景だ。
 
もちろん各国の需要刺激策頼みの側面がある以上、今後も需要が回復し続けるかは不透明な面もある。ただ、こと自動車産業の中では、昨年末から今年初めにかけて言われたような「100年に1度の危機」という言葉は、あまり聞かれなくなった。
 
しかし自動車産業の変革期が去ったかというと、そうではない。需要面での危機はとりあえず遠のいたものの、もっと根本的な技術面からの変革期を迎えているからだ。11月4日まで幕張メッセ(千葉市)で開催中の「第41回東京モーターショー2009」を見学すると、そのことがよくわかる。


各社が競って出展するエコ技術を駆使した車
 
既に多くの報道がされているように、今年のモーターショーは、環境技術(エコ)への対応が最大のキーワードだ。だが完成車メーカーの出展傾向を見ると、同じエコ対応でも、アプローチの仕方はかなり違う。
 
電気自動車(EV)を前面に打ち出しているのが、三菱自動車と日産自動車だ。今年7月に軽自動車「i(アイ)」をベースにした小型電気自動車「i―MiEV(アイ・ミーブ)」を発売した三菱自動車は、その商用車版や家庭の電気で充電可能なプラグインハイブリッド車(PHV)を展示。ほぼEV一辺倒といった感じだ。
 
カルロス・ゴーン社長が「EVは環境問題に対する解決策」と話す日産自動車も、2010年度後半に日米欧で販売する「リーフ」を大きく展示、「1回の充電で走行距離160キロ以上」をアピールしている。
 
一方、ガソリン車と電動の技術を組み合わせた「ハイブリッド車」で既に実績を積み重ねているトヨタやホンダはハイブリッド技術中心の展開だ。
 
トヨタは「車の走行性能を維持しながら、超低燃費とコストを両立させた車はハイブリッド車しかない」との立場。トヨタのこの分野の目玉は、プリウスベースのプラグインハイブリッド車。家庭用の200ボルト電源ならば、100分でフル充電が可能。もし電池が切れたとしてもガソリンエンジンで走行可能な点が、純粋なEVにない利点だ。
 
ホンダもハイブリッド重視の点はトヨタと同じだが、EVを街中の交通手段ととらえ、それに沿ったコンセプトカーを何種類も展示している。
 
4人乗りの小型EV「EV-N」はホンダが初めてつくった4人乗り乗用車「N360」をモチーフにしたもの。レトロで親しみやすいデザインが特徴的で、先進性をアピールする各社のEVとは方向性が異なる。


「ないからつくるんだ」という会社の画期的一輪車
 
ホンダの出展で、個人的に出色と思ったのは電動一輪車「U3-X」。二足歩行ロボットASIMOの研究で培ったバランス制御技術を応用し、人が乗っていなくても自立し、また一輪車に乗れない人でも乗れるという。複数の小径車輪を一列につなぎ合わせて構成した大径車輪を採用し、運転手の重心移動に伴い、前後にも左右にも動ける。
 
文字で書くと想像しにくいが、モーターショーではEV-NなどとともにU3-Xのデモも行われており、その「一輪車であって一輪車ではない」コンセプトの斬新さをこの目で確かめられる。ホンダの創業者、本田宗一郎と藤沢武夫は、かつて「ないからつくるんだ」といって「スーパーカブ」を開発したといわれるが、まさにU3-Xはホンダの既成概念にとらわれない精神が生み出した作品だ。
 
米国の自動車王、ヘンリー・フォードがミシガン州にフォード・モーター社を設立したのが1903年、何回かの失敗ののち有名な大衆車「T型フォード」を開発したのが1908年だ。この時期に、自動車においては電気モーターなど他の動力源と比べたガソリンエンジンの優位性が確立した。
 
しかしそれから100年がたった今、石油資源の枯渇や温暖化効果ガス削減の要請から、再びガソリン以外の動力への注目がかつてないほどに高まっている。
 
モーターショー2009での、メーカー各社のアプローチの仕方が違うのは、脱ガソリンがどれくらいの速さで進むかについて、各社の見解が一致していないことの表れでもある。
 
ただそれでも自動車産業が脱ガソリンに舵を切ったことは確か。数十年たった後で振り返ると、「2009年のモーターショーが100年に1度の転換点だった」と言われているかも知れない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・11・4)

第33回 「長く使える機械」が時代のトレンドになりつつある

今でも全国で走っている蒸気機関車
 
1976年、静岡県の大井川鉄道(現・大井川鐵道)で始まった蒸気機関車(SL)の保存運転。現在、国内の営業路線を走るSLは、大井川鐵道のC10、東日本旅客鉄道(JR東日本)のD51(通称デゴイチ)、JR北海道のC11など15台前後ある。

行楽シーズンに、臨時列車やイベント列車として全国各地を走るSLは、すっかり観光資源として定着したものになった。また最近は明治から昭和にかけての「産業遺産」としても、改めて注目されつつある。
 
そうした、実際に走り続けるSLの1つ、JR東日本が所有する「D51 
498号」を、間近で見る機会があった。
 
D51は、日本で最も多く製造された蒸気機関車だ。1936(昭和11)年から1945(昭和20年)までの10年間に、1115両も製造された。
 
戦前の鉄道省、旧国鉄のSLには主に「C」と「D」の系列がある。CやDは機関車を動かすための動輪の数を表しており、C系は片側に3つ、D系は4つの動輪がある。速度重視のC系は旅客用、牽引力重視のD系は貨物用の機関車だ。
 
D51は元は貨物専用だったが、勾配に強く、八王子~高崎間を結ぶ八高線クラスの、本線ではない路線でも走れる仕様場面の多さなどから、旅客用に使われることも多かった。
 
D51 
498号は1940年(昭和15年)、当時の鉄道省鷹取工場(神戸市)で誕生した。岡山機関区を皮切りに、全国各地で活躍。1972年10月の国鉄100周年記念運転で八高線を走った後、上越線の後閑駅構内に静態保存されていた。保存されるまでに、地球54周分に当たる216万キロ強を走ったことになる。


ボールベアリングが普及してないときに培われた技術
 
その498号が復活するのは、16年後の1988年のこと。JR東日本の大宮工場で復元工事を施され、12月にオリエント急行を牽引する形で復帰した。それからはJR東の臨時列車やイベント列車で活躍している。
 
今も12月半ばまでの土曜・休日は、上越線、高崎~水上間の臨時快速列車「SLみなかみ」を引っ張る498号の雄姿を見ることができる。
 
498号を普段、整備するのは、JR東の高崎車両センター高崎支所(高崎市)。498号は、1週間後に走行する予定のあるときは、石炭をくべる「火室」の中の火を、完全には落とさない。急激な温度変化によるボイラーの伸び縮みを抑え、できるだけボイラーの寿命を長くしようという工夫だ。
 
そのため498号は整備工場で停車中のときも、少量の煙が出続けていて、工場の中は、なんだか懐かしい煙のにおいがする。
 
だがそれ以上に印象的なのは、片側に4つある動輪、蒸気で動いたピストンの動きを動輪に伝える「主連棒」など可動部分の至る所に油を差してあり、工場の床も油まみれで、歩くたびにつるつると滑りやすいことだ。
 
現代の鉄道車両は、車輪など回転する部分を支える軸受には、ボールベアリングを使っている。
 
だがD51が設計・製造されたのはボールベアリングが普及していない時代。そこでD51は、回転する車軸と軸受の間に潤滑油を入れて、油膜で滑りやすくする「平軸受」という方式を採用している。
 
可動部の至る所に「油つぼ」があり、毛糸を使って、一定量の油が常に軸受に供給される仕組みだ。平軸受は軸受部分の金属が摩耗しやすいが、軸受部分のみ簡単に取り替えられるようにもなっている。


機関車を動かす仕組みがすべて見える
 
現代の鉄道車両は、軸受部分が故障などした場合、大きな塊ごと交換しないといけない。ところがD51は軸受けの摩耗部分のみ取り替えられる。同支所の松本幹男支所長は「D51は油を差すなどきちんと保守をして、摩耗部分は擦り減ったら交換すれば、ずっと使える」と説明する。
 
もう1つ、現代の鉄道車両と大きく異なるのは、機関車が動くメカニズムが、目で見ることができ、理解しやすいことだ。
 
(1)石炭を火室に投げ入れ燃焼させる(2)発生した熱ガスをボイラーで水に伝え高圧の蒸気をつくる(3)蒸気をシリンダーに送り圧力でピストンに往復運動を起こす(4)ピストンの一方をクランクに結合し、往復運動を車輪の回転運動に変える――。新しい鉄道車両や自動車のように電子的に動く部分がないだけに、こうした「機関車を動かす仕組み」がすべて目で見える。こうしたことが、保守のしやすさ、寿命の長さにつながっている。
 
498号は途中16年の"休憩期間"があったとはいえ、来年で誕生から70年になる。東海道新幹線が開業した1964年にデビューした初代新幹線、0系などが次々と引退していることを考えれば、驚きの長生きだ。
 
SLの全盛期後にやってきた戦後の大量生産時代には、顧客の持っている商品を短い期間のうちに陳腐化させて、新製品に買い換えさせる手法が、さまざまな分野で広がった。だが環境意識の高まりなどから、こうした「計画的陳腐化」の手法は消費者に敬遠されるようになり、iPhoneを展開するアップルのように、同じ商品を長く使ってもらうことを売りにする企業も増え始めた。
 
そうした時代に改めてSLを眺めてみると、その設計思想が今の時代にむしろ合っていることを感じる。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・10・27)

第32回 選挙に無視された「2009経済財政白書」が描く格差の真実

「格差」が叫ばれ始めたのは前の衆院選から
 
この夏の衆議院選挙の期間中、さまざまな候補者の主張を見聞きするなかで、気になることが多かったのが「非正規雇用」や「格差」に関する議論だ。

民主党を中心とした当時の野党候補の典型的な主張は「小泉純一郎政権(2001年4月~2006年9月)の規制緩和の行きすぎが、非正規雇用を増やし、格差社会をもたらした」というものだ。
 
確かに人々が、日本社会にも雇用や所得などの格差があることに気づき、それを問題にし始めたのは小泉政権の時代だった。
 
朝日、毎日、読売、日本経済という主要4新聞の記事データベースによると、「格差社会」という言葉を含む記事は10月5日までに4紙合計で4250本ある。
 
ただ2003年以前はわずか12本しかなく、日本社会のひずみを表す言葉として4紙が明確に用い始めたのは、2004年7月に朝日新聞が連載した「格差社会 
ゆがみの現場から」以降のこと。そして2005年9月の郵政選挙の前後から格差社会の記事も急増し、冒頭に挙げたような格差社会批判が広まるようになった。
 
だがこうした経済現象の「原因」と「結果」には、常にタイムラグがある。小泉政権時代に人々が気づいたのは確かとしても、それが即、小泉政権によるものと考えるのは論理的でない。
 
非正規雇用や格差の拡大と小泉改革との関連を考えるのに格好の材料を提供してくれるのが、内閣府が7月に発表した2009年版の経済財政白書だ。


実は小泉政権下では格差の進展は緩やかだった
 
日本の2009年1~3月平均の雇用者は約5086万人。このうち33.4%の1699万人が非正規雇用者だ。白書は、雇用者に占める非正規雇用者の比率(非正規比率)が1984年以来、最近まで一貫して上昇してきたことを示す。
 
俗説では、2004年3月に、人材派遣が製造業分野でも可能になった規制緩和を「格差社会の始まり」と見る向きが多い。
 
だが白書を読むと、非正規雇用の増加は小泉政権前から一貫して続いている傾向であることがわかる。そして白書は「(雇用の)非正規化は多様な就労ニーズの受け皿として機能した面がある」とも指摘している。
 
それでは「小泉改革が格差社会が拡大した」という批判は的を射たものなのか。
 
賃金や所得の格差を数量化して把握するための代表的な尺度として「ジニ係数」がある。所得が完全に平等な状態に比べ、現状の分配がどの程度偏っているかを示したもので、数値が1に近づくほど不平等度が高い。
 
白書によると、労働所得で計算したジニ係数は「1987年以降、緩やかではあるものの一貫して上昇している」。
 
もう1つの傾向は「97年から2002年にかけての急激な上昇に比べ、02年から07年にかけての上昇幅は比較的緩やかである」こと。ちょうど小泉政権のときの方が、格差社会の進展度合いはマイルドだったのだ。白書は緩やかになった理由を「景気回復が続くなかで、非正規雇用者の給与水準がある程度高まったため」と分析している。
 
こうやって検証していくと「小泉政権の規制緩和の行きすぎが非正規雇用を増やし、格差社会をもたらした」という批判は、きわめて表面的、情緒的なものだということが見えてくる。
 
白書でもう1つ興味深いのは、「むすび」で、「雇用の保護、所得再分配による格差是正が重要だ」という議論に対して、「景気後退によって失業が増加すれば、それを加味した賃金格差は拡大、貧困率は上昇する。したがって『景気の回復は最大の格差対策である』」と主張している点だ。
 
また「雇用保護規制の厳しい国ほど、平均失業期間が長くなる傾向がある」ことも指摘し、派遣法の改正などによる規制強化には、疑問を投げかけている。


民主党マニフェストは長期的成長を阻害するのか?
 
残念ながら白書が公表された7月末は、既に実質的な選挙戦に入っており、白書の分析をもとに、与野党の間で非正規雇用や格差の拡大の原因について、論理的、建設的な議論が交わされることはなかった。
 
むしろ民主党など当時の野党だけでなく、自民党の中でも、冒頭で挙げたような格差社会論を情緒的に展開する候補者が多かった。
 
「現在の自民党は小泉政権の延長線上にあるのか、そうでないのか」。有権者から見てこうした基本的なことすらはっきりしないことが、自民党の歴史的な大敗につながった一因だ。
 
選挙で大勝した民主党は新政権発足後、早速マニフェスト(政権公約)で約束した製造業派遣の禁止、最低賃金の引き上げなど、雇用分野での規制強化に乗り出した。だがこうした方策は白書も暗に指摘するように、長期的な成長を阻害し、失業を増やす可能性が高い。
 
10月1日には、日経平均株価が約2カ月振りに1万円を割り込んだ。日経新聞が4日に掲載した「社長100人アンケート」では、国内景気が本格回復する前に再び下降する「二番底」を警戒する経営者が、全体の38%もいることが明らかになった。
 
日本経済の復活、さらに格差拡大に歯止めをかけるには何が必要なのか。そのことを冷静に考えるには、まず経済財政白書を読むことから始めないといけない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・10・6)

第31回 鳩山政権が始動して明らかになってきた「マニフェスト至上主義」の危なさ

自民当時にはありえなかった政治主導の驚き
 
鳩山由紀夫政権がスタートして約2週間。民主党が先の衆議院選挙で掲げたマニフェスト(政権公約)に沿った新政策が、続々と動き始めた。

国連に出席した鳩山首相は、二酸化炭素(CO2)などの温室効果ガスを「2020年までに1990年比で25%削減する」と宣言した。また目玉政策の1つである「子ども手当」については、来年度からの実現に向けて予算編成作業が始まった。
「時代に合わない国の大型直轄事業は全面的に見直す」として実例に挙げた川辺川ダム(熊本県相良村)、八ツ場ダム(群馬県長野原町)についても、前原誠司国土交通相は就任早々に「中止」を宣言した。
 
いずれも、現実的な政策や議論を積み上げるよりも、先に理想(公約)を宣言してトップダウンで政策転換を図る手法だ。
 
こうした新政権の行動を見て、「政権交代とは、政治主導とはこういうものなのか」と改めて実感した人も多いだろう。
 
自民党政権下では、その分野に通じ、省庁とも一心同体の族議員が閣僚に選ばれるのが一般的だった。そうした状況下では、これまで続いていた政策がガラリと変わることはほとんどあり得なかった。
 
だが新政権の閣僚はその省庁にしがらみがないばかりか、長妻昭厚生労働相のように役所の嫌う人物を閣僚に据えたケースも多い。
 
政権が代わり、首相や閣僚がやる気になりさえすれば、これだけの政策転換に手を付けることが可能なのか――というのが、この2週間の偽らざる感想だ。
 
だが先に挙げた政策はいずれも、関係者や専門家の間では、賛成ばかりでなく、反発や批判などを多く抱える問題だ。
 
地球温暖化対策として、鳩山首相が温室効果ガスの25%削減を国連で表明したことには、所管する経済産業省の役人からも、企業経営者からも「どのような方法、道筋で達成をするのか」などといぶかる声が上がっている。
 
マニフェストに掲げたことを理由に、細かな議論を積み重ねることなく、先に"御旗"を掲げる手法は、必要以上に反発を強くし、問題の解決を難しくしたり、遅くしたりする事態を招きかねない。


99年「次の内閣」の社会資本整備担当相だった前原氏
 
例えば八ツ場ダムの問題。前原氏はなぜ就任早々と「八ツ場ダムの建設は、マニフェストに書いてあるから中止する」とぶちあげてしまったのだろう。
 
中止方針を最初に打ち出したのは、官邸で行われた新閣僚の就任記者会見の場ではない。その話をしたのは、会見前に記者に囲まれた場でのことだったという。
 
一般に外交・防衛関係が専門と見られている前原氏だが、民主党が1999年に初めて「次の内閣」を設けたとき、社会資本整備担当の閣僚に就任したのが前原氏だった。
 
当時から「公共事業を5年から10年で2~3割削減する計画をつくりたい」と語っていた。就任後にすぐ、八ツ場ダムの中止を掲げたのは「党のマニフェストに書いてあるから」という理由だけでなく、「公共事業削減は昔からの持論」という自負もあったのかもしれない。
 
だが、この前原氏のふるまいは、八ツ場ダムの地元住民の態度を一気に硬化させた。前原氏は中止を宣言した後で、八ツ場ダムの現地を視察すること、さらに地元住民らと意見交換会を開くことも決め、実際、9月23日に現地入りした。しかし住民側は「最初から中止ありきでは、話し合いのテーブルに着くことはできない」と交換会への出席をボイコットすることになってしまった。


マニフェストに掲げたすべてを是認したわけではない
 
八ツ場ダムの計画が浮上したのは今から57年前の1952年。長い反対闘争の末に、苦渋の決断で建設を受け入れた住民達はいずれも「自分の代だけでなく、親父やじいさんの時代から受け継いできた問題」という思いがある。
 
それだけに「国交相に就任して2~3時間しか経っていない人に、なぜ57年間かけて結論が出た問題を否定されなければいけないのか」などと、強い反感を買ってしまった。
 
前原氏は「地元の理解を得るまでは中止手続きを始めない」方針も打ち出しており、この問題は長期化する可能性が高くなってきた。
 
もし前原氏が中止を宣言する前に「まずは現地を視察する」といって、同じように現地を視察すれば、住民は喜んで意見交換の場に臨んだだろう。そのうえで建設続行と中止の双方の費用対効果を明らかにし、住民や流域自治体に対しては現状の計画に代わる補償や利水・治水の代替案を提示してから、中止方針を打ち出せば、今とは違った展開になっていたはずだ。
 
ある自治体のトップは「(八ツ場ダムの問題に限らず)今の民主党の、『マニフェストに書いてあるから、それをそのまま必ずやり遂げる』という姿勢はおかしい。私たちは公約に掲げた個々の政策すべてを是認したわけではないのだから」と指摘する。
説明なしに、マニフェストを反故にするのはもちろんおかしい。しかし細やかな議論を積み重ねることのない「マニフェスト至上主義」は、これもまた危なっかしい。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・9・29)

第30回 巨大ダム賛成で地元民が失わさせられた「未来を作り出していく力」

総貯水量1億立方メートルのプロジェクト
 
8月30日に投開票が行われた衆議院選挙の期間中、群馬県長野原町にある吾妻渓谷を何度か訪れた。民主党が衆院選のマニフェスト(政権公約)で、「時代に合わない国の大型直轄事業」の典型例として中止を掲げた「八ツ場(やんば)ダム」の建設予定地がある所である。

東京や高崎方面から建設予定地へと向かうには、JR渋川駅から草津方面へと通じるJR吾妻線に乗るか、JRと並走する国道145号線を車で進むかする。
 
渋川を過ぎたばかりの頃は、窓には吾妻川沿いにのんびりとした田園風景が広がる。しばらくすると、徐々に渓谷が険しくなり、やがてコンクリート製の巨大な橋が視界に飛び込んでくる。
 
ダムによってできる湖を回避するために、吾妻線や道路の付け替え工事、橋の建設が急ピッチで進んでいるのだ。このダムの事業主体である国土交通省は9月にダム本体工事の入札を行い、10月にも着工する予定だった。だが新内閣の発足を前に、国交省は民主党に配慮して、本体工事の入札延期を決めた。ダムの先行きが不透明となるなかで、訪れた人に最もその存在を強く感じさせるのが、この巨大な橋の姿だ。
「ダムに沈む温泉」として知られる川原湯温泉(長野原町)の近くで建設が進む県道用の橋は、今の国道より約40メートルも高いところを通る。青空に向かって伸びる橋脚を見上げ、橋げたのすぐ下まで水で満たされることを想像すると、総貯水容量1億立方メートルという、このプロジェクトの規模の大きさが実感できる。


ダムで食べてきた住民が恐れるもの
 
ダムといえば、山奥の水源池の近くにあるのが普通だ。水没する集落があったとしても、数は少なく、ダムより下流に集落ごと移転するケースが多い。
 
しかし八ツ場ダムが特異なのは、利根川の支流である吾妻川の「中流域」に計画された点だ。より上流には有数の観光地である草津や万座、キャベツで有名な嬬恋村もある。
 
それだけに、ダムの建設予定地とは思えないくらい人口も交通量も多い場所だ。移転する場合にも、集落ごと下流に移るのは不可能なため、水没する地域より高い場所の山を切り開いてダム湖畔に移転させる「現地ずり上がり方式」が取られた。
 
ダムが本当に完成した場合、水に沈む土地は316ヘクタール、世帯数は340戸。その広さは東京ドーム約68個分にもなる。吾妻渓谷の両岸にある川原湯地区と河原畑地区は全部、ほかの3地区も一部水没する。吾妻渓谷の貴重な自然も当然、損なわれることになる。
 
だがダムが奪ったり、損なったりするのは土地や故郷、景観ばかりではない。
 
水没地区の住民を取材する中で、ある住民からこんな話を聞いた。
「水没予定の川原湯温泉の人たちは、ダムができることを大前提に生きてきた人たち。確かに国に翻弄されてきた面もあるが、一方でさまざまな補助金をもらったり、工事関係者による特需もあるなど、"ダムで食べてきた"面もある。民主党政権が誕生し、ダムが中止になると、そうした恩恵がなくなることも恐れているのではないか」。


われわれは自民党と契約したのではない、国と契約したのだ
 
国が八ツ場ダムの計画を公表したのは1952年。1947年のカスリーン台風で利根川流域に大洪水が起こったため、治水を目的に計画されたものだった。
 
住民はかつて激しく反対運動を繰り広げたが、85年に群馬県と長野原町が住民の生活再建について合意。その後、1992年には住民が反対運動の旗を降ろし、2001年には水没地域の住民らが土地価格などの補償基準に合意した。こうして、ほとんどの住民は反対から賛成へと転じた。
 
当初、2000年度に完成予定だった基本計画は2度変更され、完成予定は2015年度に延び、総事業費も2110億円から4600億円に増額した。計画は遅れに遅れていたが、ここ数年は代替地や橋、トンネルなどの建設が目に見えて進み、あまりにも長すぎて疲れていた住民の間でも「一筋の光明が見えてきたところだった」(川原湯温泉の旅館経営者)という。
 
苦渋の選択で建設を受け入れ、50数年苦しんできた住民。こうした経緯があるだけに、住民は「八ツ場ダム中止」を公約としていた民主党が政権を握ったことに困惑。
「どうしてここまできて中止なのか」
「我々は国と契約したわけで、自民党と契約をしたわけではない。だからダム建設を計画通り進めてもらわないと困る」といった声がもれてくる。
 
ただ地域を歩いていると、先の住民が指摘するように、この地域が、ダム建設を前提に公共事業費や補助金、補償といった形で流れ込んでくる資金によって、徐々に「ダムなしではやっていけない」体質になっていたことも感じる。
 
こうした巨大なダム計画によって失われるものとは、土地や自然ばかりではない。実は自らの地域の未来は自らが創り出していくという「自助の精神」を損なってしまうことこそ、恐ろしいことなのではないか。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・9・8)

第29回 世界経済危機への対処方法は80年前の国内産業に学べ

1929年恐慌時の生糸産業は今の自動車と電機を合わせた規模
 
2007年の米国の住宅バブル崩壊をきっかけに始まり、昨秋の米証券大手リーマン・ブラザーズの破綻をきっかけに、世界に広まった世界経済危機。その衝撃の大きさなどから、1929年に始まった世界大恐慌と対比して語られることが多い。

各国が採用している危機対策は、大恐慌時の政策を反面教師にしたもの。日本政府が7月に出した2009年度経済財政白書も、足元の経済危機を世界大恐慌などと比較・検証した。
 
日本の産業を巡る状況は経済危機の前と後ではで一変し、自動車や電機といった輸出型製造業が苦境に陥った。産業や企業の採るべき戦略を考えるときにも、同じように短い間に状況ががらりと変わった大恐慌時の産業の状況が参考になる。
 
財務省の貿易統計によると、経済危機が深刻化する前の07年、輸出に占める比率は輸送用機器が25.1%、電気機器が19.7%で計44.8%だった。いわゆる自動車・電機産業が日本の輸出の屋台骨だったことが一目でわかる。
それでは世界大恐慌のころ、日本の輸出を支えていた産業は何だったのか。江戸時代の末期から明治・大正にかけて、日本の輸出の大黒柱だったのは蚕糸や絹織物だ。日本が中国を抜いて、世界一の生糸の輸出国になるのは1909年(明治38年)のことだ。
 
富沢一弘・高崎経済大学教授の『生糸直輸出奨励法の研究 星野長太郎と同法制定運動の展開』によると、世界大恐慌があった1929年(昭和4年)、輸出全体に占める蚕糸類・絹織物の割合は44.0%だった。
 
その比率は07年の輸出に占める輸送用機器・電気機器の比率とほぼ同じ。当時の蚕糸産業は、現在の自動車と電機を合わせた巨大な産業だったことが分かる。
 
今回の経済危機では、日本の自動車・電機産業が米国の消費に過度に依存していたことが、欧米以上に日本経済の落ち込み方が大きかった理由だ。大恐慌時、日本の生糸の輸出先は90%以上が米国だった。いま以上に、日本の経済は「米国が風邪を引けば日本も」の構造だったわけだ。
ところが大恐慌の影響などで、31年には生糸の価格が29年比で53%も暴落する。生糸の輸出額も47%も減ってしまった。輸出に占める蚕糸類・絹織物の比率も35%にまで落ち込んだ。


「53%も輸出が落ち込んだ生糸産業の実直な内需拡大策
 
こんな状況の中で、日本の蚕糸や絹織物の事業者はどのように対処したのか。興味深い動きをしたのが、当時から京都の西陣と並ぶ絹織物の産地だった群馬県桐生市の織物事業者たちだ。
 
当時、桐生織物同業組合(現在の桐生織物協同組合)の組長を勤めたのは、彦部駒雄という人物。桐生織物が全盛を誇った大正末期から昭和初期にかけて、桐生だけでなく同じ群馬県の伊勢崎、栃木県の足利など両毛地域の織物業界の指導者だった人物だ。
 
この時期に、彦部が先頭に立って採った戦略が、今に照らし合わせても示唆に富んでいる。桐生市在住で、桐生織物の歴史に詳しい亀田光三氏によると、彦部は空前の織物不況に打ち勝つため、東京や大阪を中心に、全国的な宣伝活動を展開。大阪で開いた大会では、高島屋など6大デパートに審査を依頼し、賞品授与式には群馬県知事まで担ぎ出した。
 
宣伝大会の会場では、彦部は自ら売り場に立ち、招待客に購入をお願いして回ったという。組長在任中の宣伝大会は30回近くにもなった。こうして輸出が落ち込む中で、国内向けの生産量を増やしていった。今でいう「内需拡大策」である。
 
彦部は新市場の開拓にも辣腕をふるった。29年には東南アジア市場を、当時としては常識はずれともいえる約3カ月間の長期にわたって視察した。
その後、上海やインドのコルカタ(旧カルカッタ)、インドネシアのジャワ島などに駐在員を派遣、輸出事業者と協議して規格統一や商取引方法の改善などを進めた。


現在の製造業が取るべき道がそこにある
 
こうした施策が実を結び、桐生織物の32年の輸出点数は29年の約4倍に膨らんだ。織物不況の中で国内の他の産地が衰退するなか、桐生織物の生産額はほぼ横ばいを維持した。「彦部の強力な指導で内外の販路を拡大し、恐慌を克服した」(亀田氏)のである。
 
桐生市の中心にある桐生織物会館の前庭には、彦部の業績をたたえた碑がある。戦前には一時期、同じ場所に彦部の銅像が建てられていた時期もあるが、43年には軍事用資材として拠出してしまったため、今あるのは文章のみを記した頌徳碑のみで、地元の人でもその存在を知る人は少ない。
 
彦部は生前、国際的には「産業に国境なし」を信条として、当時のグローバリゼーションを拒むのではなく、正面から立ち向かうことで活路を開いた。その後、桐生に限らず日本の織物業界は第2次世界大戦で大きな打撃を受けるのだが、大恐慌後の桐生織物の戦略は、今でも賞賛に値する。
米国発の経済危機で自動車・電機の輸出が激減し、輸出型製造業が苦しむ現在の日本の状況は、80年前とダブって見える。彦部がいま生きていれば、受注を待つのに慣れた下請けメーカーに営業や販売促進の強化を促し、輸出については欧米一本やりから転換して、アジアなど新興市場の開拓に向けて先頭を切るに違いない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・9・1)

第28回 フランスとは大違い、起業志向激減、起業が政策の争点にもならない現実

大学卒業後2年で会社を興した青年の今
   
1998年夏のことだ。インターネット関連の会社に勤める若手社員から「大学を卒業したばかりでネット系のベンチャーを興した人がいる」という話を聞き、興味を持ち、早速その若者に会いにいったことがある。

東京都港区の雑居ビルにある、その会社を訪ねてみると、オフィスにいたのは社長である若者本人と、もう1人だけ。オフィスはがらんとしてあまりにもできたばかりの感じがしたので最初は心許なかったが、話を聞き始めると印象が変わった。
 
当時25歳だったその若者は、大学卒業後に入社した人材サービス会社、インテリジェンスを1年で辞め、同社からの出資も受けて新会社を興した。大学卒業時から「起業」に興味を持ち、だからこそ人材系のベンチャーであるインテリジェンスを選んだのだという。
「今はインターネットの新しいサービスがどんどん出てきます。しかしどの会社も開発に人員を集中して配置するので、新しいサービスをきちっと営業して売ることができない。どんな分野でも足を使って売る仕事は大切ですが、ネットの会社って、意外とそれができないんですよね。そこで我々はネットに特化した営業代行をやっていきます」。
 
若者は新会社の狙いをこう説明した。実際、その会社はネット関連の営業の仕事をすぐに数社から受注した。
 
当時、既に私は新興企業やベンチャーの取材の経験がかなりあった方だが、大学卒業後2年しか経っていない「経営者」に会ったのはそのときが初めてだった。
 
そして単に若いだけでなく、会社のコンセプトもそれなりにしっかりしている。「若者の大企業志向が強い日本でも、こんな経営者が生まれる時代が来たのか」というのが、そのときの偽らざる感想だった。
この若者とは98年3月にサイバーエージェントを設立した藤田晋氏のこと。東京証券取引所が設立した新興企業向けの株式市場、マザーズにサイバーエージェントが上場するのは、それからわずか2年後のことだ。


「今の会社にずっといたい」が数年で倍増
 
藤田氏は73年生まれだが、同年生まれには、サイバーより一足先に東証マザーズに上場した、クレイフィッシュ(現・e-まちタウン)の創業社長だった松島庸氏がいる。ライブドア(オン・ザ・エッヂ)の創業者だった堀江貴文氏は1つ上の72年生まれだ。
 
少し下に目を転じれば、ミクシィ社長の笠原健治氏(75年生まれ)、はてな(京都市)社長の近藤淳也氏(76年)、グリー社長の田中良和氏(77年)など、いわゆる「ナナロク世代」がいる。
 
藤田氏が起業した90年代後半から2000年代の半ばまでは、日本でも若者の起業や、力のある若手起業家が目立った時期だったといえる。
 
ところが今は、これに続く世代が見えにくい。当然、ナナロク世代よりもさらに若い起業家もいるはずなのだが、塊としての存在感が薄いのだ。また若者の起業志向もしぼんでいるように見える。
 
日本生産性本部の「2009年度新入社員意識調査」によると、「今の会社に一生勤めようと思っている」とする回答が08年に比べ8.1ポイントも増え過去最高の55.2%となった。
 
この質問項目は、若者の起業志向そのものを聞いたものではないが、長年、新入社員に対して同じ質問を聞いているだけに、新入社員の気質の変化を測るには絶好のバロメーターになる。
 
「今の会社に一生勤めようと思っている」とする回答比率が、過去最も低かったのは2000年で20.5%。私が「力のある若手起業家」の存在を感じ始めたころと、時期的にほぼ一致している。
しかしそれ以降はほぼ一貫して「一生勤めようと思っている」が上昇し、09年度は半分を超えた。相当な勢いで新入社員の保守志向が進み、逆に起業志向は減退しているといえるだろう。


昨年の1.5倍、フランスで起業が増えている理由
 
若者の起業志向がしぼんだ理由はいくつか考えられる。理由の1つは、テクノロジーの動向。90年代後半のインターネット関連、2000年代前半の携帯ネットサービスのように、小資本のベンチャーでも参入が可能な分野が今はみつかりにくい。
 
2005年のライブドア事件以降、若手の起業家や新興企業に対する世間の目も厳しくなり、上場が難しくなったことも要因の1つだろう。さらに08年秋のリーマンショック以降の経済危機で、「何よりも職に就いていることが重要」という意識が、若者の間に広がったことも大きいかもしれない。
 
しかし経済危機だからといって、どの国の起業志向もしぼんでいるわけではない。
 
7月27日付の日本経済新聞朝刊によると、フランスでは現在、起業が急増しているのだという。09年前半の起業は27万社強で、通年では08年の32万7千件を50%強上回る50万社を超す勢いになりそう。社会保険料減免などの優遇策が効果を発揮したほか、厳しい雇用環境が影響しているとの見方もある。
 
仏経済は大企業中心で、もともと起業が盛んな米国より、日本の経済構造に近い。そのフランスでさえ、起業ブームが起こっているのだ。日本でも政策次第では、フランスのような起業数を増やすことも可能なはずだ。
 
だが今回の衆院選でも、マニフェストで起業や開業の増加に触れているのは民主党だけ。それも「中小企業の技術開発を促進する制度の導入など総合的な起業支援策を講じることによって、100万社起業を目指す」としただけで、具体的な方法には触れずじまいだ。
 
起業や開業の増加は、雇用の創出を通じて産業構造を転換させ、経済の中長期的な成長力を高める効果がある。にもかかわらず今の日本には、起業の勢いがしぼみ、さらにそれを変えようとする政治家もいない。これではあまりにも、さびしすぎるのではないか。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・8・4)

第27回 上場意欲がしぼむ中で迎えた、新興市場6年ぶりの好機

初値200万円の株価が現在135倍の2億7080万円に
 
今から12年前(1997年)の11月4日。当時の店頭市場(現在のジャスダック)に、設立から間もないあるベンチャー企業が上場した。
 
上場の直前期に当たる1997年3月期の売上高は4億1300万円、経常利益は5000万円。利益率こそ高いものの、売上高、利益の規模は、新興企業が多い店頭市場の中でも、きわめて小さい会社だった。それに比例するように、上場時の公募増資で調達した額はわずか6億4000万円にとどまった。

ところがこの会社は、インターネット分野の新しい分野を切り開いた会社として、上場時からほぼ右肩上がりで成長を続け、株式市場でも高い評価を受け続けてきた。そう、この会社とは日本でネット検索の先駆けとなり、その後、ニュースやネットオークション(競売)などを加えて総合的なポータル(玄関)サイトに成長したヤフーのことである。
 
ヤフーが上場した日の初値は200万円。このときに1株だけ購入して、今も持ち続けていたとすると、この株の価値は今、いくらになっているだろうか。
 
1996年1月の設立から、わずか1年9カ月で上場したヤフーは、上場時の株式数がわずか6775株しかなかった。おまけに上場後はすぐに人気株となったため、株価を引き下げ、市場に流通する株数を増やすため株式分割」を定期的に続けてきた。理論上は1対2の分割をすれば、発行済み株式数は2倍になる一方で、株価は半分になる。
 
ヤフーが最初に1対2の株式分割を実施したのが99年5月。それ以来、2006年4月まで、同様に1対2の分割を13回も続けてきた。
 
店頭公開時に1株を購入した株主はそのまま持ち続けていれば2の13乗、つまり1株が9192株に増えた計算だ。
 
7月17日のヤフーの終値は2万9460円。これに9192株をかけた2億7080万円が、現在の価値となる。つまり上場時に投資した200万円が、12年間でおよそ135倍に膨らんだ計算になる。


上場した時期のタイミングの良さがあるかどうか
 
日本の投資家はバイ・アンド・ホールドという長期保有する人の比率が低いため、上場時に初値で買い、そのまま今も保有し続けている株主が実際にどれだけいるかはわからない。ただヤフーは企業規模が小さい段階で上場してその後も成長を続けることで、長期的に見れば、おおむね株主の期待に応え続けてきた会社であることは確かだ。
 
2006年1月のライブドアショック以降、日本の新興企業というと、ビジネスモデルの崩壊や、放漫経営により株価が急落し、株主に損害を与える会社ばかりというイメージが強くなってしまった。だがヤフーのように、株主の長期的な利益を実現している会社もあるのだ。
 
ヤフーの上場以来の株価動向を眺めてみると、改めて気づくのは「上場した時期のタイミングのよさ」だ。中長期に見ると、日経ジャスダック平均株価(JQ平均)はほぼ5~6年ごとにピークをつける周期を描いている。
 
この10年あまりをみてみると、98年末に底入れした後、インターネットの勃興期を迎えて2000年まで上がり続けた。ネットバブルの崩壊で2003年までほぼ一貫して下がり続けた後、日本経済の復活で上昇基調をたどり2006年1月にピークを迎えた。
 
その後はライブドアショックで日経平均より先行する形で下げが続いたが、今年3月に大底を打ち、今は上昇過程にある。
 
ヤフーが上場したのは、ほぼJQ平均が大底のときで、業績の割には、上場前公募増資の価格(70万円)や上場時の初値(200万円)は抑え気味のものだった。
 
ヤフーが上場した当時は、インターネットが勃興期を迎え、ヤフーの成長力も際だっていた面はある。だが株式相場が大底の時に上場し、最初は抑え気味の株価がついたからこそ、その後の右肩上がりの株価上昇が可能になった側面もある。


5~6年の周期で上昇と下降を繰り返すジャスダック
 
上場を目指す新興企業の経営者にとって、そのタイミングは難しい判断を迫られるものだ。株式相場が過熱し高株価が狙える時期に上場すれば、公募増資による資金調達額も増えるし、自ら保有する株式を市場に売り出すなどで、多くの創業者利益も獲得できる。
 
設備投資を多く必要とする分野で、多額の成長資金を必要とする企業であれば、こうした時期に上場することも選択肢の1つだろう。
 
だが必要資金がそれほど多くなければ、むしろヤフーのように株式相場が低迷しているときや、大底を打ち上昇局面に入りかけた頃に上場する方が得策だ。その方が、調達資金は少なくなったとしても、上場後の株価は上昇しやすく、株主を味方に付けやすいからだ。
 
ライブドアショック以降の新興企業の株価低迷と、手間がかかる割に小規模の企業には利点が少ない「内部統制制度」の影響などで、未上場企業の経営者は、上場への意欲をしぼませているように見える。未上場企業の経営者の中には「上場はメリットがない」と公言する人も少なくない。
 
だがJQ平均がこれまでと同じようにほぼ5~6年の周期で上昇と下降を繰り返すと仮定すれば、今年は2003年からほぼ6年ぶりに巡ってきた、ジャスダックを中心とする中小型株市場が上昇過程を描く年だ。
 
実は新興企業が上場するタイミングとしては、今年はかなりよい時期であるのだ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・7・21)

第26回 「よそ者」の感覚を大切にして成功させた地域づくりの「発想」

新幹線の駅近くで繰り広げられる幻想的な光景
 
JR東京駅から上越新幹線に乗って1時間あまり。高崎駅を発車し、いくつかの長いトンネルを過ぎると、上毛高原駅(群馬県みなかみ町)に着く。目的地に向かってまっすぐなルートを描く新幹線の場合、在来線とは接続せず、自治体の庁舎や繁華街からも遠く離れた所に駅をつくることがある。上毛高原駅もそんな駅の1つだ。

駅の東側はロータリーやバスの発着所などがあり、それなりに開けている。しかし西側は里山に面し、新幹線の駅らしい開発はほとんど進んでいない。その西側の小道を上っていくと数分で「月夜野ホタルの里」(みなかみ町月夜野)に着く。
 
案内用の看板がある小高い場所からは、なだらかな斜面に広がる田んぼや雑木林、その間を縫うように流れる小川などが見下ろせる。大きく息を吸い込むと、田や草のかぐわしいにおいがする。振り返れば新幹線の近代的な駅舎が見える距離にあるのだが、全くそんなことを感じさせない里山の風景だ。
 
ここは関東地方でも有数のホタルの名所。里山の中、小川や田んぼに沿って2キロ弱の観賞コースが整備されている。
 
駅からコースの入口までは提灯などもあるが、コースに一歩踏み込むと、人工的な光はほとんどない。ホタルは懐中電灯の光も嫌うので、観賞者は月明かりをたよりに、小川沿いの道をのぼっていく。すると1匹のゲンジバタルが小川から道の方へ、スーッと横切った。
見所は南側と北側にそれぞれ1つずつある池の周辺だ。北側の池では、その奥の竹やぶをバッグに、数十匹のゲンジボタルが光を発しながら舞っていた。幻想的な光景を目の前にして、観賞者からは歓声があがる。


よそ者が作ったホタルの里の細やかな環境
 
ホタルの観賞期間は6月中旬から7月中旬。ホタルを見るだけのために、2008年の場合はその期間に約1万6000人もの人が訪れた。
 
周辺には猿ケ京温泉や水上温泉など温泉街が多くあり、ホテルや旅館は宿泊者を車でホタルの里へ案内している。温泉街にとっては閑散期に当たる梅雨の時期の観光客集めにも、ホタルは一役買っているわけだ。
 
一見したところでは、このホタルの里は昔からこの環境が保たれてきたかのように見える。だが月夜野ホタルを守る会の小林一義会長によると「月夜野でも昭和30~40年代、農薬の使用増や田畑の土地改良などでホタルが大きく減少した時期があった」という。
 
除草剤はカワニナやタニシなど、ホタルの幼虫のえさとなる水中生物も殺してしまう。土地改良で小川がコンクリート製になってしまえば、大雨が降るとカワニナやホタルの幼虫は流されてしまう。
 
この地区でホタルの復活に力を尽くしたのは、高崎市に住んでいた故・丸岡文夫さん。群馬県ホタル連絡協議会会長だった丸岡さんは月夜野に通い詰めて、この地区では清水がわき出し、水質がきれいなうえに、冬でも温度が低くなりすぎないことがホタルの生育に適していることを調査した。
 
さらに丸岡さんは地域の人たちと共に、地区の上流にホタルの保護地をつくり、保護地で育ったホタルが自然発生しやすいように、自然石を利用した水路や遊歩道を整備した。水路はカワニナが育ちやすいよう、段差や小さな蛇行がつくってある。
今は、春や秋の草刈り、カワニナを育て6月に放流する作業、観賞期間中の誘導・案内などは地域の住民が担っている。しかし小林会長は「丸岡さんがいなかったら、月夜野の環境は今のようにはならなかっただろう」と振り返る。ホタルの里づくりの中心にいたのは、「よそ者」の丸岡さんだったわけだ。


女子大生の一言が、妻物にモミジの葉を選ばせた
 
町づくりの中心にいる、あるいは中心となるべきなのは、その地域のことをよくわかった地元住民だと、我々は思いがちだ。だが成功した地域おこし、町づくりのケースを調べてみると、その中心にいるのは「よそ者」であることが少なくない。
 
例えば、山にある葉っぱを料理の妻物(つまもの)として売り出し大成功した徳島県上勝町。そのリーダーで第三セクター、いろどりの横石知二副社長は徳島市の出身で、上勝町農協に営農指導員として入社したときに、初めて上勝町にやってきた人だ。
 
横石さんの著書『そうだ、葉っぱを売ろう!』(2007年、ソフトバンククリエイティブ)によると、横石さんは農協に入った当初、農家の人たちに「今のやり方ではダメ」と改革を訴えると、「おまえはよそから来たんではないか。明日から、おまえはもう来んでいい」と言われ、町から追い出されそうになったこともあったという。
 
その横石さんが1986年に大阪の寿司屋で女子大生が妻物のモミジの赤い葉を「これ、かわいー、きれいねー」と喜んでいるのを見たのをきっかけに葉っぱを売ろうと考え、町の人々を変えていくのである。
 
もちろん、よそ者であっても地域の事情を知らずに、東京や他の地域の物差しを押しつけるばかりでは、住民からも嫌われるばかりだろう。だがむしろ丸岡さんや横石さんのように、よそ者でありつつもその地域のことを深く理解すれば、住民以上に地域の強みや個性を正確に判断できるようになる。
地域づくりに必要なもの。それは地元に慣れすぎていない「よそ者」の感覚だ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・7・14)

第25回 政府が唱える「賢い支出」は一体誰がやるのか

借金なれしてしまったか日本
「816兆円」という数字をみて、すぐに何の数字かわかる人はどれくらいいるだろう。これは2009年度末の「国及び地方の長期債務残高」。いわば日本国と地方自治体の借金の総額だ。
 
国内総生産(GDP)に対する比率は168.5%。債務残高のGDP比は財政健全化の目安となるが、日本の比率は先進国の中で最悪。先進国では2番目に悪いとされるイタリアでも117%(08年)だ。

仏、米、独、英、カナダといった先進国のGDP比(08年)はいずれも100%を大きく下回っている。各国とも世界経済危機に対応した財政の出動により、09年以降はこの比率が悪化する可能性は高いが、それでも日本の財政状況が突出して悪いかがよくわかる。
 
長期債務残高のGDP比が米国と同じ7割程度だった日本が、急激に債務を増やしたのは1990年代に入ってから。バブル経済崩壊後の不景気を克服するために打ち出した経済対策や、高齢化に伴う社会保障費の増加が災いして、GDP比は151%となった2005年まで一貫して高まっていった。
 
その後、政府は小泉政権時に債務残高の上限目標などを定め、財政健全化路線に舵を切った。経済財政運営の基本方針「骨太方針2006」では、公共事業や社会保障費などの削減を進め、11年度には国・地方合わせた基礎的財政収支の黒字化を掲げ、債務残高の削減を目指していた。
 
05年度から07年度にかけては景気の拡大期だったこともあり、債務残高の増加ペースは弱まり、GDP比はわずかながら改善に向かった。
 
しかし07年秋以降の世界経済危機で、再び長期債務残高は増加基調に転じる。政府が4月に取りまとめた追加経済対策では、財源として10兆8000億円の新規国債を増発。その結果、09度末の国と地方の長期債務残高は前年度末より29兆円増え、816兆円に達する見込みだ。
 
内閣府がGDPの成長率見通しを下方修正したこともあり、09年度のGDP比は前年度末と比べ、一挙に10.8ポイントも上昇することになった。
 
財務省がこの長期債務残高やそのGDP比の最新見通しを公表したのは4月30日。財政健全化路線を掲げた小泉政権時代だったら、トップ級のニュースになっただろう。しかし実際には、あまり大きな話題にはならなかった。


借金1人当たり640万円なり
 
国の借金に対して、国民の反応が鈍くなっている背景には「100年に1度の経済危機だから、財政赤字の拡大も仕方ない」という認識がある。
 
自由な市場経済の先頭を切っていた米国ですら、自動車最大手のゼネラル・モーターズ(GM)を実質国有化するなど、財政の大幅悪化を伴う「公的資本主義」に足を踏み入れた。世界経済危機を回避するため新興国を含め20カ国・地域(G20)がいっせいに財政刺激に動いたことも「財政悪化は日本だけではない」という意識に拍車をかけているかもしれない。
 
だが、他国も借金を増やしているという理由だけで、先進国で最悪の財政状況を正当化するわけにはいかない。816兆円といえば、国民1人当たり640万円という巨大な額だ。人口が先細りする中で、国民1人当たりの負担はさらに重くなる。そのような状況の中での経済対策は、文字通り、政府が唱えるような「賢い支出」(ワイズ・スペンディング)にしないといけない。
 
バブル経済崩壊後、地方では政府の経済対策に応じて大型のハコモノを建設する自治体が相次いだ。四国の真ん中にあり、65歳以上の割合が5割を超える高知県大豊町。町は90年代、政府の景気浮揚策に乗り、ハーブを集めた「ゆとりすとパーク」(総事業費23億円)などを相次いで建設した。
 
国主導とはいえ自治体にも応分の負担がある。大豊町の施設は利用が低迷。町には借金が重くのしかかり、一時は実質公債費比率が四国で最悪となった。
 
ハコモノの建設は、確かに土木建設事業を通して、その地域に雇用を生む。だがそれが地域の成長につながらなければ、ハコモノと借金だけが残る。2000年代の半ば、地方交付税の削減が続いたときには、日本中の至る所でこんな話があった。
 
こうした施策は「政府のバラマキ」として激しく批判を浴びた。そのため今回の経済対策では、以前のようなバラマキは影を潜めるはずと考えていたが、必ずしもそうではなさそうだ。
 
例えば、09年度補正予算の中には、日本の漫画やアニメ、ゲームソフトを収集、展示する「国立メディア芸術総合センター」(仮称)の建設計画がある。
 
その総工費は117億円。建設費の高さもさることながら、完成後も年間の入場料収入が運営費を大きく下回る見込みで、赤字を垂れ流すことにもなりかねない。国会では「バラマキの象徴」と集中砲火を浴び、野党ばかりか与党からも中止要求が出る事態になった。
 
このように、今回の経済対策は急ごしらえのものだっただけに、さまざまな穴がある。本当に「賢い支出」にするには、国会や国民の注視が欠かせない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・6・23)

第24回 「雇用調整助成金」の危険な側面

肌で感じた生産・輸出の落ち込み
 
この春、関東近辺の、ものづくりの中小企業を取材するようになって最初に驚いたのは、経営者や関係者のこんな言葉だった。
「いやあ、生産量や出荷額が前年比5割減なんてザラですよ。なかには9割減の会社もあるくらいです。だから今は4勤3休だけでなく、3勤4休、2勤5休なんて会社もたくさんありますよ」。

東京にいても、日本の製造業の現場で働く人たちの生の声を聞くことは、意外と少ない。
 
確かに各種の統計では、2008年9月のリーマンショック以降、日本の輸出や生産が激減していることを示してはいた。ただ製造業の惨状を身にしみて感じるようになったのは、こうした中小企業経営者の言葉をじかに聞いたり、機械の7~8割が稼働していない工場を自分の目で見るようになってからだ。
 
こうした製造業の状況に慣れてくると、また違ったことも気にかかるようになった。
 
製造業はそれ以前の需要が半減する"ハーフ・エコノミー"の状況に陥っている。しかしその割には、製造業の経営者も、地域の人たちも、追い詰められたような表情や必死さを感じないのはなぜだろうか――。
 
経営者は「大変だ、不景気だ」と言いつつも普通に生活している。街に雇用を失った人や浮浪者があふれているわけでもない。確かに不景気なのだが、人々も、街も、それなりに落ち着いているように見えるのだ。「100年に1度の危機」というのは、こんなものなのだろうか。


意外に緩い企業倒産・失業率
 
こうした製造業の惨状と、街の奇妙な安定感のギャップは、統計にも表れている。
 
鉱工業指数や日本銀行の短期経済観測(短観)の業況判断DIは昨年後半から今年にかけて記録的な落ち込みを示した。一方で、5月の企業倒産件数(東京商工リサーチ調べ)は前年同月比6.7%減の1203件。負債総額も1.8%減の5399億円で、2カ月連続減少した。中小製造業の倒産増加は続いているものの、各種生産統計やDIの落ち込みほどに、倒産は増えていないのだ。
 
完全失業率も4月は約5年ぶりに5%台に上昇したとはいえ、9.4%と約25年ぶりの水準にまで悪化した米国と比べれば、悪化テンポは相当に緩やかだ。
 
生産・輸出の落ち込みに比べて、悪化の程度が緩い企業倒産や失業率。このギャップを理解するカギの1つが、政府の「雇用調整助成金」(中小企業向けは「中小企業緊急雇用安定助成金」)の制度だ。
 
これらは企業が不況などで事業縮小を余儀なくされたとき、従業員を休業及び教育訓練、出向させることで雇用を維持した場合、国から賃金や教育訓練費に対する助成金が支給される制度。これまで条件が厳しく、事務手続きも煩雑で使い勝手がよくなかったが、2008年12月に支給要件を緩和して以降、申請企業が急増している。
 
3月の実施計画の申請件数は約4万8000事業所で、2月に比べ76%増と急拡大。2008年度合計では約9万4000事業所(前年度比148倍)、対象従業員数は約529万人(409倍)に達した。申請や事務手続きあるため2008年度に支給決定された対象者はまだ25万人強にとどまっているが、それでも前年度比22倍に増えた。
 
実際、中小企業などに取材するとこれら助成金の評判は悪くない。「仕事はよいときに比べて8~9割減ったが、正社員11人をなんとか切らずにいられるのは助成金のおかげ」と、群馬県太田市の中小歯車メーカーの社長は話す。
 
この会社の場合、1年前までの好調期に、将来を見越して4人の20代正社員を雇った。ようやく技術を身につけ出した社員の雇用を保つことができるのは、雇用調整助成金というわけだ。


制度を両刃の剣にしてはならない
 
しかし問題は、助成金の支給限度日数が「3年間で300日」で、限度が来るまでに、日本の輸出型製造業が数年前のような状況に復活する保証は全くない点だ。
 
助成金は、産業構造が大きく変わらず、一時的に景気が悪化した場合などには、確かに効果がある。助成金によって維持した雇用が、景気の回復局面で再び力を発揮するからだ。
 
だが今回のような大きな構造変化が伴う局面では、事業を維持する体力がなかったり、新しい分野に挑む力のない企業を生き残らせ、産業構造の転換を阻む可能性も高い。
 
不振企業の雇用を温存する助成金政策は、企業倒産や失業率の悪化を緩やかにする効果はあるとはいえ、その副作用も大きいのだ。
 
その中小歯車メーカーの場合、仕事があいた時間を利用して、これまでおろそかになっていた技術の習得や、下請け仕事ではできなかった新製品開発に充てていた。
 
助成金を適用されたすべての企業がこうした革新に挑んでいるのであれば、心配はいらない。だが現状はむしろ、「座して景気の回復を待つのみ」の会社が少なくはないことが気にかかる。

(2009・6・9)

第23回 「バイ地元製品運動」、「地産地消」の光と影

太田市の製造品出荷額は沖縄県の4倍規模
 
5月20日に行われた富士重工業の新型「レガシィ」の発表会を見にいった。
 
この日、富士重はレガシィの記者発表を東京都内と、自動車部門では国内唯一の生産拠点である群馬製作所(群馬県太田市)の2カ所で行っている。私が出席したのは、後者の方だ。

群馬県のほぼ東の端に位置する太田市は、中島知久平が1917年に日本初の民間航空会社、中島飛行機を設立した場所。その中島飛行機は第2次世界大戦後、財閥解体指令を受けて12社に分割。53年に、そのうちの5社が再び集まってできたのが富士重工業だ。富士重にとって太田市は、主力工場があるというだけでなく、前身の中島飛行機が創業したときからの歴史が深く刻み込まれている場所でもある。
 
自治体がどれくらいものづくりで稼いでるかを示す「製造品出荷額」。太田市の2007年の製造品出荷額は前年比3.8%増の2兆600億円だった。
 
都道府県の順位と比べてみると37番目に相当する。鹿児島県や佐賀県をやや上回り、最下位の沖縄県の4倍弱にもなる規模だ。
市町村としては巨大な、この製造品出荷額を可能にする原動力が、富士重工業をはじめとした自動車関連の企業群。太田市の製造品出荷額に占める輸送機器の比率は63%(07年)にもなる。


市長自ら音頭を取って「車を買おう!」
 
そうした経緯があるからだろう。矢島工場での発表会は、マスコミ向けというより、太田市や群馬県内の関係者向けという色彩の濃いものだった。群馬県知事こそ欠席したものの、茂原璋男・副知事や清水聖義・太田市長、地元の販売会社や協力会社のトップが続々とあいさつに立った。
 
中でも印象に残ったのは清水太田市長の言葉だ。
 
「レガシィが売れないと、富士重工業の赤字が膨らむ一方だ。新型レガシィの発売で(太田市に)税金を払っていただく体質に変わってほしい。我々はみんながスバルに乗るように、努力しなければならない。1回でも乗っていただければ、よさはわかってもらえる。そのために我々は"スバリスト"になり、スバルのよさを伝えていく」
 
市長が市の税収を支える大企業に向かって「赤字が膨らむ一方」とバッサリと表現するのも、一方で「スバリストになって」というほどに企業の側に立った発言をするのは珍しい。それだけ太田市民にとって富士重は大きな、そして愛憎が入り交じるような存在ということだろう。
 
実際、太田市は3月から市内在住の勤労者と中小企業を対象として、スバル車購入時に200万円までは利率1%で融資する低利融資制度「スバルローン」や、市内の農業協同組合員がスバルの軽トラックを購入する際の助成制度を始め、成果を上げている。
太田市のように、自治体が地元に事業所や工場のある企業の製品購入を勧めたり、そのための助成制度を設ける「バイ(Buy)地元製品」の動きは全国に広がっている。


バイ地元製品運動は保護貿易主義に陥りかねない
 
マツダのおひざ元、広島では広島県や広島市、呉市がそれぞれの予算でマツダ車を購入した。 
日産自動車の九州工場、トヨタ自動車九州の苅田(かんだ)・小倉工場が立地する福岡県苅田町は、町長が職員にマイカー買い替え時に両社の車の購入を呼びかけ、実際に10人近くが買った。
 
こうした動きは、岩手県の東芝、栃木県矢板市のシャープなど、自動車だけでなく電気製品にも広がっている。
 
太田市だけでなく、税収に占める法人市民税の割合が大きい企業城下町はいずれも大幅な税収減に見舞われている。トヨタ自動車のお膝元である愛知県の豊田市や田原市の2009年度の法人市民税は前年度より9割超も減少する見通しだ。
 
こうした状況の中で、自治体が「バイ地元製品」に走るのは、自治体自身が動くことのできる、数少ない対策の1つだからだろう。自治体関係者の中には、バイ地元製品運動を、地域の農業を活性化するために日本各地で広まった「地産地消」になぞらえる人もいる。
 
ただバイ地元製品運動は一歩間違えば、保護貿易主義にも陥りかねないことを、目に留めておくべきだ。
 
地元企業の製品の買いを推奨しているだけならばいいが、もし地元製品だけを買うことを義務づけるなどすれば、それは米国製品の購入を義務付ける「バイ・アメリカン条項」を盛り込もうとして、各国や経済界から批判された米国の景気刺激策と変わらない。
 
1929年の世界大恐慌後、世界には保護貿易主義、ブロック経済化の動きが強まり、それは第2次世界大戦の遠因となったとも見られる。
雨後のたけのこのように各地で始まったバイ○○運動。それは、これ以外の明快な打開策を見いだしにくいニッポン製造業、あるいは製造業に依存した自治体の苦悩の深さも示している。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・6・3)

第22回 「高速道路1000円」が変えた観光地の"遠近感"

アウトレットパークに追い風
 
5月の大型連休中、埼玉県入間市にある三井アウトレットパーク入間へ買い物に行った。その日はあいにくの雨だったが、どの店もセール期間中と同じくらい、人でごった返している。悪天候の影響もあるのだろうが、過去に訪れたどのときよりも、周辺の道路は車で大渋滞していた。

2008年4月、HOYA武蔵工場の跡地にオープンしたアウトレットパーク入間は、最寄りの西武池袋線入間市駅から遠く、公共交通機関で行くにはひどく不便な場所にある。
 
だが反対に、車の利用を前提とした場合は絶好の立地だ。中央自動車道と関越自動車道を結んでいる圏央道の入間インターチェンジ(IC)からわずか500メートル。そのおかげで、埼玉県内だけでなく、東京都の西部、あるいは山梨県や群馬県の南部からも来店しやすい場所なのだ。
 
入間ICは大都市近郊区間に含まれるため、土日祝日に自動車料金収受システム(ETC)を搭載した車を使った場合でも、1000円にはならない。だが、それでも休日の昼間に中央道の甲府昭和ICから入間ICまで利用した場合、従来の3200円が1650円に割り引かれる。実際、三井アウトレットパーク入間には山梨ナンバーの車も多い。
 
ETC搭載車が土日祝日に1000円で乗り放題になる今回の高速道路値下げ。大型連休中の個人消費や観光地、輸送量の実績を眺めてみると、「1000円乗り放題」が広範な影響を与えたことがわかる。
 
1000円乗り放題がプラスに出た分野の1つが、アウトレットパークだ。日本経済新聞によると、大型連休中、三菱地所系のチェルシージャパン(東京・千代田)が運営するプレミアム・アウトレットの既存6施設の売上高は10%増だったという。
 
アウトレットパークはほ広大な敷地が確保しやすい都市郊外や地方にほとんどあり、車でのアクセスが前提になる。高速道路1000円乗り放題の恩恵を受けやすいうえに、景気の急速な悪化による消費者の低価格志向に合致しているのが好調の要因のようだ。
 
シネマコンプレックスの観客動員もおおむね10%前後増えた。連休後半の天候不順が奏功した面もあるが、これも1000円乗り放題効果の追い風を受けただろう。


大幅に伸びた本州四国連絡橋の利用者
 
肝心の高速道路の交通量を見ると、全国で最も交通量が増えたのが本州四国連絡橋の西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道)で、移動台数は前年比73%増えた。本州四国連絡橋はしまなみ海道を含め3ルートあるが、残りの瀬戸中央自動車道が65%増、神戸淡路鳴門自動車道も32%増と軒並み、交通量が大幅に伸びている。
 
なぜ1000円乗り放題で、特に本州四国連絡橋の交通量の伸び方が大きかったのか。それはひとえに、従来はこのルートの料金が高すぎたからだ。
 
大型連休で最も交通量が増えた、しまなみ海道。広島県尾道市を起点に、瀬戸内海の向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島などを経て愛媛県今治市に到る全長60キロ弱のこの道は、本州四国連絡橋の中でも最も風景の変化に富み、走って楽しいルートだ。
 
ところが本州側の西瀬戸尾道ICと四国側今治ICとの間の割引前高速料金(普通車)は4700円。往復することを考えれば、とても気軽に楽しめるような料金ではなかった。
 
それが今回の割引によって、ETC搭載車が土日祝日に利用する場合には、前後の高速道路を使っても1000円で通行できるようになったのだから、人が集まらないわけがない。


割引き料金で生まれた"近さ"
 
高速道路の交通量増にともない、おおむねサービスエリアやパーキングエリアの売り上げも好調だった。だが観光地の場合は、必ずしも好調だったところばかりではない。
 
大型連休中、群馬県の主な観光地の観光客数は前年比で10.7%減った。首都圏に近い同じ北関東でも、茨城県の観光客数が22.4%増えたり、栃木県も総じて好調だったのは対照的だ。
 
2008年12月の北関東自動車道の開通で、東北自動車道と常磐自動車道がつながり、茨城県と栃木県は首都圏以外の観光客需要を取り込めたことが大きい。だが群馬県内の北関東道はまだ東北道につながっておらず、そうした恩恵を受けにくかった。群馬県の観光関係者からは「首都圏の観光客が群馬を通過して遠い地域に向かったのでは」という嘆きの声が聞こえてくる。
 
高速道路の1000円乗り放題は、しまなみ海道に見られるように、これまで距離的に、あるいはコスト的に「遠かった」地域を劇的に「近く」する。「近い」という理由で選ばれていた観光地が、より遠い観光地が近くなることで負けてしまうケースが、他の地域でも起こっているはずだ。
 
これまで観光地への「距離感」の劇的な変化は、鉄道や高速道路、トンネルなどが開通するなど交通網が大きく変化したときに起きた。だが今回は政策の結果として、全国的な変化が一気に訪れた。
 
高速道路の割引は時限的な政策とはいえ、今後は相対的に利用者を減らしたJRなど鉄道各社の逆襲も予想される。コスト面でより「近く」なることの変化をどう生かすか、観光地の知恵が問われている。

(2009・5・12)

第21回 学生諸君! いい会社は「グローバル」から「ローカル」へ移っているぞ

がらりと変わった学生の就職志望
 
毎年、4月になるとリクルートが発表する「大学生の就職志望企業ランキング」。広告代理店や出版社など俗にかっこよいと思われやすい業種が上位になりやすいという、大学生を対象にした調査特有の傾向はあるものの、継続的に見てみると、そのときどきの「大学生の就職観」が表れていて面白い。

今年のランキング(表を参照)で際だったのは、輸出で稼ぐ外需型企業が軒並み順位を下げたのに対し、内需型企業が上位に名を連ねた点だ。
 
東海旅客鉄道(JR東海)が初めて1位になったほか、2位は東日本旅客鉄道(JR東日本)、3位には全日本空輸が入った。上位20社を見ると運輸や電力、食品メーカーなど内需型と、銀行や保険などの金融機関が中心だ。
 
一方、上位20社の中で外需型といえるのは、2008年から6つ順位を下げたパナソニック1社(15位)のみになってしまった。
 
そのほかでもソニーは21順位を下げて29位、シャープは41下げて55位、キヤノンは57下落し77位だ。さらにトヨタ自動車は08年の6位から96位に急落し、08年は18位だった日立製作所は、100位圏外に沈んでしまった。
 
ランキングの情景がからりと変わった背景にあるのはもちろん、米国から始まった世界経済危機だ。


人気上位企業も経営安泰ではない
 
2000年代の景気回復局面で日本経済をリードしたのは、主に輸出で稼ぐ自動車や電機などの外需産業。これらのセクターが金融危機をきっかけに始まった米欧の不況で、大きな打撃を受けた。
 
日産自動車2650億円、トヨタ自動車3500億円、パナソニック3800億円、日立製作所7800億円――。いずれも各社が2009年3月期に計上する見通しの連結最終赤字額だ。いくら財務基盤が堅固な大企業とはいえ、これだけの赤字額が明らかになれば、大学生の人気度が下がるのも仕方がない。
 
ただ興味深いのは、それでは2009年度のランキング上位に入った会社が業績堅調かというと、必ずしもそうとは限らない点だ。
 
例えば1位のJR東海は東海道新幹線が稼ぎ頭。景気後退で東海道新幹線の利用者は大きく減っており、09年3月期の連結純利益は2割超の減益になったもようだ。2位のJR東日本、3位の全日空も、同様の影響を色濃く受けている。
 
さらに深刻なのは4位のみずほファイナンシャルグループなどメガバンク。3行とも10位以内に入っているが、株安と不良債権の増加で前期の連結最終損益はいずれも赤字に転落したようだ。
 
リクルートは今回の調査結果を「不況下で学生の安定志向が進んだ」とみている。「赤字や減益であっても、鉄道会社や銀行の方が輸出型製造業よりは安全」というのが、今の大学生の企業観なのだろう。
 
日本経済のリード役が外需型から内需型に移りつつあることは、企業が稼ぐための舞台が「グローバルからローカルに」変わりつつあるということでもある。グローバル化の流れそのものは止められないにせよ、ローカル(国内や地域・地方)で強みを持つ会社を探し出すことが、就職活動のために会社を選ぶ新たな評価軸となる。


各地でトップを占めるローカル企業
 
例えば埼玉県が地盤の食品スーパー、ヤオコー。2009年3月期の連結決算はなんと17期連続の増収増益になったもようだ。単体のみで比較すると20期連続の増収増益だ。生鮮品や総菜を豊富に品ぞろえし、メニュー提案を第一に考えた店舗づくりなどが奏功して、好調を維持している。
 
スーパーマーケットの世界は一般にイオンや西友、ダイエーなど大手のイメージが強い。だが群馬県を地盤とするスーパー、ベイシア(前橋市)の高山正雄社長によると「都道府県別に食品の売り上げを見ると、総合スーパーがトップの都道府県は47のうち7つしかない」という。
 
埼玉県はヤオコー、群馬県はベイシア、山梨県はオギノ(甲府市)、高知県はサニーマート(高知市)というように、各地で「ローカル」スーパーがトップを占める。食品の世界はそれだけ地域性が強く、ローカル企業が強みを持ちやすいということだろう。あらゆる分野でグローバル化は進んでいるとはいえ、ローカルこそ強みになるような分野は、他にも数多くある。
 
ただローカル企業は、トヨタやパナソニックといったグローバル企業と比べれば圧倒的に規模が小さい。元気のいい内需型企業の代表例、「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングですら2008年9月期の連結売上高は5864億円と、売上高の規模はトヨタやパナソニックに比べ1ケタから2ケタ小さい。ヤオコーの前期連結売上高も約2100億円だ。
 
企業の評価軸がグローバルからローカルに変わりつつあるのに、大学生の就職志望ランキングに業績堅調なローカル企業がほとんど出てこないのは、その規模が小さいからだ。
 
だが小さいが、ある分野で強みを持つローカル企業はたくさんある。そうした会社を見つけることが、これからの大学生の就職活動には重要になる。


(表)リクルートによる大学生の就職志望企業ランキング(2009年)
1(4) 東海旅客鉄道
2(9) 東日本旅客鉄道
3(1) 全日本空輸
4(3) みずほフィナンシャルグループ
5(20) 三菱UFJ信託銀行
6(2) 三菱東京UFJ銀行
7(17) 東京海上日動火災保険
8(29) NTTドコモ
8(5) 三井住友銀行
10(13) ベネッセコーポレーション
11(7) バンダイ
12(33) 三井物産
13(38) 三井住友海上火災保険
14(24) 日本航空インターナショナル
15(9) パナソニック
16(31) 日本放送協会
16(61) 明治製菓
18(30) オリエンタルランド
18(20) サントリー
20(26) 住友商事
20(11) 損害保険ジャパン
(注)カッコ内は2008年の順位

(2009・4・21)

第20回 山奥の養蚕農家にも及んだグローバル化の恩恵

明治中期に山奥に建てられた3階建ての豪邸
 
草津温泉の玄関口となるJR吾妻線の長野原草津口駅(群馬県長野原町)。ここから白砂川という川に沿って、草津へと向かう曲がりくねった国道を車で10分ほど上っていくと、急に視界が開け、川向こうの山裾に、六合村(くにむら)の赤岩地区が見えてくる。

約50軒の集落は山のなだらかな南斜面にあり、集落を横切る細い道の両脇に、築50年以上の養蚕農家が立ち並ぶ。その周りを農地が囲み、さらにその外縁には、神社や観音堂などが点在している。
 
中には、幕末から明治にかけて建ったという歴史のある建物も多い。実際に集落を歩いてみると、道が舗装されておらず、車や電柱がなければ、古い山村を再現した映画のセットかと思えるような場所だ。
 
この赤岩地区は2006年、国から「典型的な山村の家並みや景観を保持している」として「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれた。群馬県や国が世界遺産登録を目指している「富岡製糸場と絹産業遺産群」の1つでもある。
 
赤岩の中でも最も古い部類に入る養蚕農家に案内してもらった。母屋は間口10間(約18メートル)、奥行き4間半(約8メートル)の総3階建て。江戸末期に2階建てとして建てられ、明治の中頃に3階建てに改築されたものという。
 
養蚕のための場所をより広く取るために、2階と3階が、生活のための場所である1階より張り出している造りが特徴だ。
 
2階や3階の内部は間仕切りがなく約100畳の広さがある。その広さと、木造ながらがっしりとした頑丈な造りが印象的だ。「おかいこの現金収入があったからこそ、これだけの建物が建てられたのだろう」と、この家の持ち主は話す。
 
赤岩地区など六合村で養蚕が始まったのは、日本のほかの地域と同様、「幕末のころ」(六合村教育委員会)。そして赤岩をはじめ、日本での蚕糸業が飛躍的に成長するきっかけとなったのが、1859年の横浜港開港だ。


日本が世界一の生糸輸出国となった理由
 
江戸幕府や明治政府は外貨を獲得するために、生糸の生産・輸出を奨励した。六合村のような群馬県や長野県の各地から生糸が前橋に集まり、さらに横浜港を通して海外に輸出されていった。
 
富岡製糸場(群馬県富岡市)の建設、養蚕や製糸技術の進歩などもあり、明治時代末期の生糸輸出量は明治の初期に比べ、数量ベースで8倍弱、価格ベースでは約12倍にも増えた。そして明治の末期には、日本は中国を追い抜き、世界一の生糸輸出国になる。
 
明治から昭和の初期にかけて、蚕糸類・絹織物の輸出は、日本の全輸出品の中で、常に3~6割を占めている(価格ベース)。生糸や絹織物が生み出した外貨により、日本は「富国強兵」を進めていった。
 
横浜港開港直後から日本の生糸輸出が急増したのには、当時のグローバルな情勢も背景にある。
 
欧州では、1840年から蚕の微粒子病が流行し、フランスやイタリアを中心とした欧州の蚕種(さんしゅ、カイコの卵のこと)製造は大打撃を受け、ほぼ全滅してしまった。一方当時、生糸の最大の輸出国だった中国(清)は内乱で混乱していた。
 
こうしてフランスやイタリアは日本の蚕種に注目。欧州からの要請で日本はまず、蚕種の輸出を増やした。
 
その後フランスではパスツールが微粒子病を発見しその防除法が普及し、ヨーロッパの蚕種業は復活する。そのため日本の蚕種の輸出は下火になったものの、今度は価格競争力を武器に、生糸の輸出を増やしていったのである。


日本は明治以降グローバル化の恩恵を受けてきた
 
「グローバル化」「グローバリゼーション」とは最近起こり始めたことのように考える人も多いだろう。だがインターネットなどの通信技術こそ劣ってはいたものの、貿易や資本・人の移動の面では、19世紀から第1次世界大戦の時代は今と同じようにグローバル化が進んでいた。
 
こうしたグローバル化に対応して、外貨獲得の柱として蚕糸業を育てていったのが当時の日本だ。群馬の山深い六合村・赤岩地区にも現金をもたらし、当時の人たちが今でも残る立派な3階建ての家屋を建てることができたのは、その時代の日本がグローバル化に積極的に対応したからだろう。
 
日本では今、人々が「グローバル化」というときは、それによる価格競争や企業・産業の海外移転から逃れたい、異質なものと触れ合いたくないという感情に根ざしていることが多い。
 
だが日本は明治以降、グローバル化の恵みを十分に受けてきた。果実をおなかいっぱい食べた後で、グローバル化を呪うのであれば、他国から「いいとこどり」「自分勝手の都合の良い考え方」と思われても仕方ない。
 
明治の先人達はグローバリゼーションに敢然と立ち向かった。その気概に学ばなければならないのは、今の私たちだ。

(2009・4・7)

第19回 カネをかけずに高齢者の体力を向上させた自治体の意外な方法

予算100万円で高齢者の健康増進はできるか
 
もし、あなたがある地方自治体の保健関連部署に勤めているとしよう。この自治体の住民は高齢者の割合が高く、介護保険の費用や医療費が増加傾向にある。そのため、あなたは上司から、高齢者住民の体力を高め、介護を必要とする人たちを少なくするような施策の立案を命じられた。

ただし今は自治体の財政も極めて厳しい時代。使える予算は人件費を除けば、年間100万円程度。この中で、あなたはどんな施策を考えたらいいだろうか。
 
例えば、100万円で高齢者用のトレーニング器具を購入することは可能だ。ただしこうした器具を1台購入したところで、それを使ってトレーニングできるのは、常時1人。代わる代わる使ったとしても、日常的に利用できるのは一握りの住民に過ぎない。
 
こんな難しい条件の中で、広い範囲で高齢者住民の着実な体力・筋力の増強に成功しているのが高知市だ。
 
JR高知駅から歩いて約10分の住宅街にある集合タイプの市営住宅の集会室。その日は、午後1時を過ぎると、市営住宅や近くに住む高齢者が集合室に、ひとり、二人と集まってきた。市営住宅の住民らが週に2回、自発的に行っている「いきいき百歳体操」に参加するためだ。
 
この日集まったのは15人。
「さあ始めましょう」という世話役を務める男性の掛け声で体操が始まった。イスに座ってインストラクターが手本を示すビデオを見ながら、まずは声を出しながら口を動かし始める。


かみかみ・いきいき、後はお茶
 
口の周りや舌を動かしたり、発声練習などをしたりすることで、食べる力や飲み込む力を強化・維持する「かみかみ百歳体操」だ。
 
かみかみ百歳体操が終わると、いよいよ「いきいき百歳体操」だ。まずはイスの上で準備運動。最初のうちはごく簡単な動きだが、途中から、重りの入ったバンドを腕や足に巻いた運動に移る。
 
重りをつけてからの体操は、単純ながら意外ときつそうだ。重りを手に巻き、イスからの立ち座りをゆっくりと10回繰り返す運動の後は、思わず参加者から「ふー」とため息がもれた。
 
約1時間のかみかみ・いきいき百歳体操が終わると、参加者の高齢者達は全員で場所を作り直し、お茶の時間が始まった。
 
この市営住宅はマンション形式で、独り暮らしの老人が多い。
「老人は放っておくと家の中に閉じこもりがち。百歳体操に定期的に参加すれば、筋力がつくだけでなく、楽しい茶飲み話の時間にもなる」と世話役の男性高齢者は話す。
 
ある70代後半の常連の女性は「百歳体操に出るようになってからひざの痛みがなくなり、こけにくくもなった」と嬉しそうに話す。


杖なしで歩けなかった96歳が小走りできた
 
高知市は独り暮らしの高齢者の割合が全国平均の約2倍。高知県内では大きな病院が高知市周辺に集中しているため、若いときは市外に住んでいても、高齢になると、病院に通うのが比較的楽な高知市に移り住む人も少なくない。
 
こんな状況の中で、高知市は高齢者の体力を高めて介護保険の対象にならないようにしたり、既に介護保険の対象になっている人は要介護度を改善したりすることが課題になっていた。
 
この解決のために、高知市が2002年、米国立老化医学研究所の手引を参考に開発したのが「いきいき百歳体操」だ。220グラムの小さな重りを入れることで10段階の調節が可能なベルトを手や足につけて、ゆっくりと手足を動かす運動を5種類繰り返す。最初はごく軽い重りから始め、筋力がついてくれば、1段階ずつ重りを増やしていく。
 
最初に小規模で実施した3カ月の試験プログラムでは、当初は杖なしでは歩けなかった96歳の女性が小走りできるようになるなど、確実に実績が上がった。認知症を予防する効果もあるという。
 
高知市が百歳体操を広げるためにとったのが、地域のコミュニティーを活用する手法だ。百歳体操は続ければ確実に筋力はつくが、やめてしまえばまた元の状態に戻ってしまう。


市内200ヵ所、85歳老人の1割以上が参加
 
市内の広い範囲で高齢者の筋力アップを図るには、1カ所だけでなく、さまざまの場所で体操を続けないと意味がないわけだ。かといって職員が各地で指導を続けられるほど、予算にも人にも余裕はない。
 
そこで高知市は「3カ月以上続ける、だれでも参加できる」ということを条件に、指導用のDVDやビデオ、重りのセットを地域の集会所などに貸し出し、インストラクターが最初の数回は指導するほか、それぞれの拠点で世話役を決め、高齢者住民が自発的に体操に取り組めるように工夫をした。
 
百歳体操は、筋力強化だけでなく、地域で孤独になりがちな老人を結びつけ、コミュニケーションを増やす効用もあった。こうしたこ効用が口コミで伝わり、百歳体操はじわじわと市内外に広がり始めた。
 
現在は高知市内の200カ所以上で定期的に体操が行われ、65歳以上の市民の約1割は体操に参加した経験がある計算になる。それでいて高知市が年間に使う費用はインストラクターの派遣費用など約100万円のみで、貸し出し用の重りを大量購入した年ですら、数百万円の予算で間に合った。
 
現段階では高知市の介護費用や医療費が減少するなどのマクロの経済効果は確認できていないが、アンケート調査などから見ると、個々の参加者は確実に効果が出ている。
 
多くの自治体は医療や介護の費用増に頭を悩ませている。だがアイデアと、地域住民の自発的な力をうまく組み合わせることで、少ない予算でもやりようがあることを、高知市の取り組みは教えてくれる。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・3・24)

第18回 経営者の年代意識を取り除くことが地方の活性化につながる

果たして40代は若い経営者か
 
地方の中小企業の経営者と話をしているときに、ちょっとした違和感を抱くことがある。
 
それは「○○県の経済を活性化するために、我々40代の若手が、もっとがんばらないといけない」といった言葉が、彼らの口からふと出たときだ。中には「我々40代、50代の若手経営者が」と表現する人もいる。

果たして40代や50代の経営者は「若手」なのだろうか。そんな疑問が頭をもたげ、「若手」という言葉にひっかかってしまうからだ。
 
帝国データバンクが1978年から年1回実施している「全国社長分析」(2007年分までは「社長交代率調査」)という調査がある。全国の114万人あまりの社長(個人経営の代表者を含む)を対象にした2008年の調査では、社長の平均年齢は59歳4カ月だった。
 
日本経済新聞社が2008年上半期の社長・頭取交代を調べた調査でも、新社長の平均年齢は56.0歳だった。こうした数字と照らし合わせてみれば、50代はともかく、少なくとも40代の経営者は「若手」ということになるのだろう。
 
こんなことに違和感を持つのは、首都圏の、それもベンチャーや新興企業の経営者を取材する経験が長かったという、個人的な経験が関係しているからかもしれない。
 
取材対象が急激に若くなったのと実感したのは、インターネットの普及やIT(情報技術)の進展を背景に、IT関連のベンチャー企業が続々と誕生した2000年前後のころである。


30代の記者よりも取材対象が若い時代に突入
 
それまでは、ベンチャーや中小企業の世界でも、主な取材対象は40代、50代、60代で、30代だった自分にとっては、ほとんどが年上の人だった。
 
ところが2000年前後を境に、取材する相手に30代、20代の経営者が急速に増えた。
 
1965年生まれの筆者と同年生まれの経営者には、楽天の三木谷浩史社長、インテリジェンスの鎌田和彦相談役(前社長)、サイバードホールディングスの堀主知ロバート社長らがいる。
 
こうした同年代、2000年当時は30代半ばの経営者が目立ち始めたことを頼もしく思っていたら、サイバーエージェントの藤田晋社長やライブドアの堀江貴文氏など、さらに一回り若い20代の経営者も登場し始めた。
 
そうしてわずか数年が経った2002~2003年頃には「取材対象の半分以上は年下」という状況に変わっていた。
 
ところが2004年に地方に転勤してみると、状況はまた逆戻りしてしまった。経済でも行政でも、主役となる人はほぼ50代以上。取材対象となる人に、同年代より下の人がほとんどいない。
 
最初は、その地域の中に同年代や、年下の世代が単純に少ないせいかもしれないとと考えた。だが取材対象が少しずつ広がるにつれ、必ずしもそれだけが理由ではないことが見えてきた。
 
例えば青年会議所(JC)の会合に出席すれば、30代の元気な若手経済人に会える。地方でも、30代以下の若い世代が経営するベンチャー企業がないわけではない。それなのに全体として見ると、40代以下の世代はその上の世代の陰に隠れ、取材対象とはなりにくいのである。


自分たちが若いと思った時点が「年寄り」
 
その原因の1つは、特に地方では30代、40代の経営者が「年功をわきまえている」点にあるのではないか。
 
地方の若手経営者は、もちろん自分で起業をした人もいるが、大半は地場企業の2代目や3代目といった人たちだ。親が社長で自分は専務・常務クラス。あるいは既に社長には就いていても、商工会議所や経営者協会など経済団体の活動は親に任せているというケースもある。
 
そうした環境の中で、30代、40代の経営者は「自分の分」をわきまえ、50代、60代、70代の「親世代」が第一線を退いたときには自分たちが地域の経済の最前線に立とうと考えている。そして、第一線にいる高齢の経営者達は1つ下の世代の経営者について「まだまだ力が足りない」と考えたりしている。
 
「我々40代の若手が、もっとがんばらないと」という言葉は、確かに前向きの言葉だ。だがよく考えてみれば、自分たちを「若手」ととらえている時点で、年代の枠にしっかりと収まってしまっている。「自分たちはまだ40代、50代だから」というような「年功序列意識」が、その言葉の中には隠されていないだろうか。
 
経済が右肩上がりで順調に成長する時代ならば、「年功序列」も悪くはない。しかし世界金融危機のもとでこれまでの常識が通用しなくなった今の時代には、経営者の年功序列意識はじゃまだ。
 
日本や地方の経済が、今ほど「新しいもの」を必要としているときはない。経営者が年功序列意識を捨て、年齢に関係なくものを言い、よいものはよいと認め合うこと。まずはそこから始めてみては、どうだろう。

(2009・3・18)

第17回 ゲームやネット、ケータイに続く「塊」を欠く日本のベンチャー

iモードを牽引したネットベンチャー
 
この2月22日、始まったときにはほとんど注目されなかったが、この10年間で日本の社会を大きく変えることになったサービスが開始10周年を迎える。それはNTTドコモが1999年2月に始めた、携帯電話によるネット接続サービス「iモード」だ。

ドコモがiモードについて記者会見を開いたのは、その前年の98年11月。だが集まった記者はわずか7人だったという。
 
これはリクルートからスカウトされ、当時はiモードのコンテンツ開発を担当していた松永真理氏が著書『iモード事件』(角川書店、2000年)で明らかにしたエピソードだ。
 
発表会翌日の新聞記事もベタ扱いばかりで、中には「NTTドコモ、文字情報事業でカード会社などと提携」と、今から見ればピントが外れた見出しをつけた記事もある。そのくらい、当初はマスコミも新サービスの意味を測りかねていたのだ。
 
翌2月にiモードが始まったとき、ドコモの「公式サイト」には(1)モバイルバンキングなどの取引系(2)乗り換え案内などのデータベース系(3)ニュースや天気予報などの生活情報系(4)オンラインゲームや占いなどのエンターテインメント系――という4つのカテゴリーが並んだ。
 
ドコモは当初、モバイルバンキングなどお堅いビジネス系をメニューの目玉と考えていたようだ。取引系には都市銀行や地方銀行、証券会社などがずらっと並んでいたのに対し、エンタメ系を手掛けるのは、主に名の知れないベンチャー企業だった。
 
iモードが始まって間もない99年の春ごろ、ドコモなど通信事業者のサービスメニューに載っている社名を頼りにアポイントメントを取り、コンテンツを手掛けるベンチャーをいくつか集中的に取材したことがある。多くは20~30代の若者がつくったばかりの、小さな雑居ビルに入居する会社だったが、熱気だけはあふれていた。
 
実際にiモードなど「ケータイネット」のコンテンツづくりの担い手となるのはこれらのサイバード、インデックス、エムティーアイ、ジグノシステムジャパンといった新しい会社だった。そしてこれらの企業群は2000年以降、ジャスダック、東京証券取引所マザーズ、ナスダック・ジャパン(現・大阪証券取引所ヘラクレス)といった新興企業向け株式市場に続々と上場し、同市場の核とのなっていくのである。


上場時期が集中したITベンチャー
 
日本の新興市場の歴史をたどると、外食などの流通系企業はいつの時代も一定数の上場があるのに対し、情報技術(IT)関連は時代の趨勢や技術のトレンドによって、上場する時期が特定の時代に集中していることがわかる。
 
例えば1970年代のパソコンの登場とともに台頭したアスキーは89年に、ソフトバンクは94年にそれぞれ店頭市場(現ジャスダック)に株式を公開した。このころは店頭市場といえども上場基準が厳しく、上場までには長い時間がかかった。
 
任天堂のゲーム機の普及に乗って急成長したゲームソフト会社は、カプコンが90年、旧エニックス(現スクウェアエニックス)が91年、スクウェア(同)が94年に上場するなど、主に90年代前半に集中している。
 
インターネットの普及で登場したネット企業は、ヤフーが1997年に、楽天やサイバーエージェント、ライブドア(現LDH)は2000年、カカクコムは2003年と2000年前後に固まっている。
 
そしてiモードの開始とともに成長軌道に乗り始めたケータイネットベンチャーは、新興企業向け市場の整備という追い風も受けて、2000年から2005年ごろにかけて大量に上場することになる。
 
しかし今、ベンチャーの世界を見渡して気がかりなのは、こうした小さな会社が群がるような新しい事業分野が、日本では見当たらないことだ。ロボット、環境、エネルギー、ネットなどにそれぞれ個性際だつ未上場企業はある。だがiモードが始まった頃のケータイネットのような、新しい「塊」がないのだ。


ベンチャー育成に遅れる日本
 
経済産業省傘下のベンチャーエンタープレイズセンター(VEC)が1月末にまとめた08年度の「ベンチャーキャピタル等投資動向調査」によると、国内主要90ベンチャーキャピタル(VC)の08年度の新規投資額(見通し)は1000億円で、07年度から48%、ピークだった06年度からは65%も減った。
 
新規上場(IPO)の数も、上場時に市場から調達する額が激減しているのが主因だが、わかりやすい事業分野の塊がないことも、影響しているはずだ。
 
IPOが減り、VCの投資額が減っているのは日本だけでなく、世界的な傾向だ。全米ベンチャーキャピタル協会などの統計では、米国の08年のベンチャー投資額は07年より8%減の283億ドル(約2兆6000億円)だった。
 
ただ代替エネルギー技術など環境分野の投資額は52%増の41億ドル(約3800億円)。総額では減っているとはいえ、オバマ新政権が掲げる環境市場育成政策に沿いつつ、しっかりと次世代の「塊」に照準を定めている。
 
米国の後を追いながら、ベンチャーの育成を進めてきた日本。世界金融危機後は米国の経済をひとくくりに否定する論調があるが、こと新しい産業を生みだし、育てる仕組みについては、むしろ日本と米国の差は開くばかりだ。

(2009・2・17)

第16回 マンチェスター・ユナイテッドを率いる老将の「柔らかな頭」の意味

2005-06年は最悪の年だった
 
2008年末に日本で開催されたサッカーのクラブワールドカップで、エクアドルのリガ・デ・キトを1―0で破り、再び「世界一」の座についたイングランドのマンチェスター・ユナイテッド。このユナイテッドを監督として率いるのが、イギリス・スコットランド出身の"老将"アレックス・ファーガソンだ。

彼は1941年生まれの御年67歳。ユナイテッドの監督に就いたのは、23年前の1986年のことである。すさまじいプレッシャーにさらされ続けるサッカーの一流クラブの監督を、ファーガソンのように長きにわたって務める例はほかにない。
 
2007―08シーズンは、欧州チャンピオンズリーグ(CL)とイングランド・プレミアリーグの2冠を達成。続く今季もクラブワールドカップで優勝し、プレミアでも現在は首位を走るユナイテッド。このチームを率いるファーガソンに、ケチをつける人はほとんどいないだろう。だが少し前には、このファーガソンですら、マスコミや周囲から「そろそろ限界では」とささやかれていた時期がある。
 
2005―06シーズンの欧州CL。欧州各国からの32チームが4チームずつ8つのグループに分かれて戦うグループリーグの最終戦(05年12月7日)で、ユナイテッドはポルトガルのベンフィカに1-2で敗れ、最下位(4位)に沈んだ。
 
欧州のトップクラブかどうかを判断する1つの基準は、CLの本戦に出場する32チームに入れるかだ。さらにその32チームが超一流かどうかを判断する基準が、CLのグループリーグを勝ち抜きベスト16に残れるかどうかにある。
 
ユナイテッドは1998―99シーズンに優勝した後も毎年ベスト16に入り続けていたが、05―06シーズンには、ついにそこからも落ちてしまったのである。


ベッカムがいなくなり、C.ロナウドを育てた
 
そのベンフィカ戦を、私は日本で「スカパー!」の中継で見ていた。試合が終わると、解説者が「やはりあの人がいなくなってから、このチームは下り坂を歩むことになったのではないでしょうか」とつぶやいた。
 
「あの人」とは、ユナイテッドの生え抜きで、ファーガソンが育てたデビッド・ベッカムのことである。ベッカムは正確なクロスやフリーキックを武器に、1998―99シーズンに、ユナイテッドが欧州CLを制覇する原動力となった。
 
だがその後にファーガソンとベッカムの関係は次第にこじれ始め、ベッカムは2003―04シーズンには、スペインのレアル・マドリードに移籍してしまっていた。
 
代わりにポルトガルからやってきたクリスティアーノ・ロナウドはこの当時、まだ派手なフェイントを好む割にはチームにフィットしにくい、20歳になったばかりの若者に過ぎなかった。
 
自分の意に従わない中心選手を追い出し、代わりに大金をかけて獲得した若手は戦力になりきれず、チームの力も下降線をたどる――。こうしたチーム状況の中で、既に60代に入っていたファーガソンに対して、「限界」がささやかれるようになった。
 
どころがその若者(ロナウド)は次第にユナイテッドの「次なるキープレイヤー」に育っていく。さまざまなフェイントを駆使する高速ドリブルだけでなく、空中戦の能力も身につけ、さらに無回転フリーキックの名手にも育っていった。


常にチームのサッカーを変え続ける老将
 
ロナウドがウインガーとしては新記録となる42得点を挙げた2007―2008シーズン。ユナイテッドはプレミアリーグとともに、9シーズン振りに欧州CLを制すことになった。
 
長い目で見ると、ファーガソンはユナイテッドのサッカーを常に変え続けている。20年前はロングボール放り込む古典的なイングランドスタイルのチームだったという。
 
典型的な「10番」(ゲームメーカー)だったエリック・カントナの時代を経て、右サイドにベッカムが張るスタイルで98年の欧州CLを制した。その後はストライカーをルート・ファンニステルローイ1人だけという布陣にしたが大きな成功は収められず、やがてロナウドを中心に、特定のセンターフォワードを固定しない戦術の完成度を高め、昨季の大成功につなげた。そして今季もまた、新しい選手、布陣、戦術を試し続けている。
 
確かに2005年12月の時点では、ベッカムをレアルに放出したことはファーガソンの判断ミスに思えた。だがベッカムがその後もユナイテッドの中軸に居続けたとしたら、ユナイテッドに昨季のような大成功が再び巡ってきただろうか。
 
現代のトップクラブの監督の平均在籍期間は短い。プレミアリーグのチェルシーの監督として、2004―05シーズンからプレミアを3連覇したポルトガル人のジョゼ・モウリーニョ(現在はイタリアのインテルの監督)ですら、2007―08シーズン途中でチェルシーの監督を事実上、解任されている。監督を入れ替えることで、チームのスタイルや戦術を変えていくのが、現在のサッカー界のやり方だ。
 
その中でファーガソンは、自らの頭の中身を柔軟に変え続けることで、サッカー界の激しい変化に対応し続けている。
 
経営の世界でも一般に長期政権はマイナスの方が多いとされる。だがファーガソンのような「柔らかな頭」を持っていれば、長期政権でも「変わり続ける」ことが可能なのだ。

(2009・2・3)

第15回 こんな時代だからこそ必要な「大企業発ベンチャー」

スピンアウトではなくカーブアウト
 
ビジネスの世界にいる人でも、「カーブアウト」という言葉を聞いてピンと来る人は少ないかもしれない。大企業(主に製造業)が社内に眠る有望技術や事業のシーズ(種)を社外に切り出し、投資ファンドなどの支援を受けて事業化する経営手法のことだ。

カーブアウトという言葉が今ひとつ世の中に浸透しないのは、同じような言葉がほかにもあることが1つの要因だ。「スピンオフ」「スピンアウト」という言葉も、大企業から人材が飛び出し、独立して起業することを指す。
 
例えば半導体最大手のインテルは、米国の半導体産業の草分けであるフェアチャイルドセミコンダクターから「スピンオフ」した技術者がつくった会社だ。シリコンバレーの歴史は、成功したベンチャーから出た人材が新たな会社を興すという「スピンオフ」の連鎖といってもいい。
 
スピンオフやスピンアウトと、カーブアウトのニュアンスが異なるのは、前者は人材が自発的に飛び出し、元いた会社と対立していたり、関係が薄かったりするのに対し、カーブアウトは親となる大企業から出資などの一定の支援を受けつつ、連携しながら成長を目指す点だ。
 
任天堂に対抗してゲーム機「プレイステーション」を開発し、事業化に成功したソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)は、日本のカーブアウトの典型例だ。
 
ただ日本ではカーブアウトにせよ、スピンオフ・スピンアウトにせよ、大企業発ベンチャーの成功例が、米国などと比べると少ない。そのことが、関連する言葉の浸透具合にも表れている。


それでも成長率は台湾の20分の1
 
工場を持たずに、ディスプレー向けのLSI(大規模集積回路)を開発・販売するザインエレクトロニクスは、東芝の半導体技術研究所LSI開発部部長を務めた飯塚哲哉氏が1991年に設立した、日本では代表的な大企業発ベンチャーだ。だが飯塚氏は「(日本では)大企業から出た会社の数も足りないし、我々の成長速度も遅い。当社と同じ時期にスタートした台湾の半導体メーカー、メディアテックは当社の20倍規模の会社になってしまった」と、不満げに話す。
 
もともと大企業の力が強い日本で、「これからは大企業発ベンチャーが活躍する」と盛んに言われたのは、1990年代後半から2000年代前半にかけてのころだ。
 
90年代後半、産業界では雇用(人件費)、設備、債務の、いわゆるヒト・モノ・カネの「3つの過剰」を解決することが、最大の課題とされていた。雇用(ヒト)の過剰解消をめざす過程で、大企業が抱えていた優秀な人材は、外に出ざるを得なくなる。その人材をベンチャーに振り向けよう――というのが、関係者が描いたシナリオだったはずだ。
 
2000年以降、それ以前と比べれば、大企業を経験した起業家が増えたことは確かだ。
 
テックゲートインベストメント(東京都品川区)のようなカーブアウト専門のファンド運営会社がいくつかできるなど、金融面からもそれを支える担い手が育ち始めた。それでも、大企業発ベンチャーが、日本の産業界を変える大きな動きになるまでには到らなかった。


まだまだ人材の開放が足りない
 
大きな理由の1つは、2005年頃には「3つの過剰」の重しが解消されたとの認識が、産業界に広がったことだ。
 
日本の上場企業は2003年3月期から2008年3月期まで6期連続の経常増益を達成した。この原動力となったのが輸出型の製造業。製造業が"復活"するにつれ、製造業の雇用・人件費の過剰を問題視する声は薄れていった。
 
しかし08年の世界金融危機後に明らかになったのは、日本の製造業復活は2000年以降の円安に支えられたものだったということだ。
 
日本と貿易相手国の物価動向も加味した実質実効為替レートで見ると、2007年の半ばには、1985年のプラザ合意以前の水準にまで、円安が進行していた。08年秋の円高でも、2000年以降に進んだ円安幅の4割程度を戻したに過ぎない。円安のせいで「雇用の過剰」が見えにくくなっていた可能性が高い。
 
また人件費や労働分配率は2000年以降、下落傾向にあるが、これは企業が正社員の自然減を給与の低い非正規社員で補ってきたからだ。正社員のリストラは、言われているほどには進んでいない。飯塚氏は「日本の大手半導体メーカーはまだまだ人材の"解放"が足りない」と指摘する。
 
この厳しい時代、「是が非でも会社にしがみつこう」というのが、多くの会社員の偽らざる心境だろう。だが飯塚氏のいうように、大企業を辞めるとは、大企業からの解放でもある。未曾有の危機だからこそ、新しい会社や事業の萌芽が隠れていることを信じよう。

(2009・1・20)

第14回 時価総額ランキングを見るとよく分かる産業構造転換の遅れ

日本経済の隠れた問題点が見えてくる

「時価総額経営」という言葉を耳にしなくなって久しい。2006年のライブドア事件などをきっかけに「M&A(合併・買収)などで意図的に株価をつり上げる経営」というイメージが染みついてしまったためだろう。

だが企業の株価に発行済株式数をかけた「時価総額」は業績や資産、知名度、市場の期待値などを反映した総合的な尺度として役にたつ。時代の流れやその時ごとのブームなどにより、株価=時価総額は大きくぶれる傾向はあるものの、長い期間を通して見れば、企業の力をそれなりに表しているからだ。
 
上場企業の時価総額ランキングは、ヤフーファイナンスなどの金融情報サイトにアクセスすれば、直近のものが即座にわかる。また年末か年始には、日本経済新聞が東証1部などの時価総額ランキングを掲載する。このランキングの推移を眺めていると、日本経済の隠れた問題点が見えてくる。
 
下表は08年末の東証1部上場企業の時価総額1位から20位までを並べたものだ。そして順位の横にあるカッコ内には、10年前の98年末時点での時価総額順位を入れた。合併などで社名が変わっている場合には現社名(証券略称)の横に、旧社名を記してある。
 
一通りみてわかるのは、20社の顔ぶれがあまり変わらず、新陳代謝が進んでいないことだ。トップから4位までの会社は順位こそ入れ替わっているものの、トヨタ、NTTドコモ、NTT、三菱UFJ(東京三菱銀)で全く変わらない。
 
08年の上位20社で、98年も上位20社以内に入っていた会社は13社もある。また入っていない7社も、任天堂やキヤノンなど4社は、98年には50位以内には入っていた。


この10年でランキング上位の顔ぶれは激変
 
98年の51位以下から08年に20位以内にランク入りしたのは、KDDIとヤフー、三菱商事。この中でKDDIと三菱商事はいわゆる大企業だ。08年の上位20社の中で、この10年のうちに「時価総額が急増した=急成長した」といえるのは、96年設立の18位のヤフーだけといってもいい。
 
上位20位までにマイクロソフト、グーグル、シスコシステムズ、オラクル、インテル、アップルといった若いハイテク企業が数多く名を連ねる、米国の直近の時価総額ランキングとは対照的だ。
 
もちろんこの10年間、時価総額のランキングが、08年のような顔ぶれで、動きがなかったわけではない。
 
例えばインターネットブームがピークを迎えつつあった99年末のランキングでは、NTTドコモが1位となり、ソフトバンクが6位に入った。そして光通信、村田製作所、ロームといったネットやIT(情報技術)に強く、かつベンチャー色の濃い会社が20位以内に入っていた。また2005年末のように、不良債権処理をほぼ終え、収益回復への道筋をつけた大手都市銀行が上位4社中3社を占めたこともある。
 
10年前の98年といえば、日本経済がいまだバブル崩壊の痛手から立ち直ることができず、産業の構造転換が叫ばれていたころだ。
 
当時の日本は、ベンチャー企業に資金を供給する仕組みや担い手を欠いていた。98年の通商白書は「新規産業を担うベンチャー企業に円滑にリスクマネーが供給されるべきだ」と指摘した。
「ベンチャーにもっとリスクマネーを供給すべきだ」という官民そろっての認識に、ネットを利用した新産業への期待も加わり、翌99年にはソフトバンクの孫正義社長らが「ナスダック・ジャパン構想」を発表。そうして2000年には東証マザーズとナスダック・ジャパン(現・大証ヘラクレス)がそろい、ベンチャー企業が毎年100~200社上場する「大公開時代」へとつながっていった。


円安バブル崩壊で試される日本経済
 
だがそれから約10年。一時はネット・ITブームの追い風で新興企業が躍進したものの、10年後の時価総額ランキングに表れる日本の産業構造は新鮮味を欠く。任天堂やヤフーには新しさを感じるが、代表的な国産ベンチャーである楽天の時価総額は7457億円で、2兆円以上の上位20社には及ばない。10年間でぐるっと回り、また元の場所に戻ってきたような錯覚を覚える。
 
このような状況の責任の一端は新興企業そのものにある。せっかく新興企業向け株式市場の整備という後押しがありながら、それを生かせる企業が少なかったばかりか、悪用する企業も多かったからだ。
 
だがもう1つの要因は、2000年代の金融緩和と円安政策によって、日本の輸出型製造業が息を吹き返したことにある。自動車や電機などの産業が輸出を増やし、収益を回復させた。その復活が、ベンチャーを育てよう、産業構造を変えようという勢いをそいだともいえる。
 
だが世界金融危機をきっかけに、低金利の円を借入れて売り、金利の高い外国通貨で運用する「円キャリー取引」を解消する動きで円はあらゆる通貨に対して高くなり、輸出型製造業の「円安バブル」は崩壊しつつある。野口悠紀雄氏は08年末に出版した『世界経済危機 
日本の罪と罰』(ダイヤモンド社)で「2005年以降の企業収益の増加と株価の上昇は、基本的には円安バブルに支えられたものだった」と指摘している。
 
第2次世界大戦後から続いた「輸出立国モデル」が崩れた後に残るのは、98年のとき以上に、新しい産業の担い手を育てることが必要という認識だ。工場を持たないファブレスメーカーという経営スタイルで「家族」という新しい購買層を開拓し、営業利益率3割超という高収益を維持する任天堂のように、円高日本においても、企業の生き残る道はある。
 
これから5年後、10年後の日本の時価総額ランキングはどう変わるだろうか。昨年末と代わり映えのしない顔ぶれであったら、その時こそ、日本経済が衰退している証左となる。


2008年末の東証1部時価総額ランキング
順位   社名
1(2) トヨタ
2(3) NTTドコモ
3(1) NTT
4(4) 三菱UFJ(東京三菱銀)
5(31) 任天堂
6(8) 東電
7(6) 武田
8(22) キヤノン
9(10) ホンダ(本田技)
10(9) 三井住友FG(住友銀)
11(18) JT
12(25) みずほFG(第一勧銀)
13(-) KDDI
14(7) セブン&アイ(セブンイレブ)
15(15) JR東日本
16(5) パナソニック(松下)
17(16) 関西電
18(-) ヤフー
19(27) 中部電
20(-) 三菱商


(注)順位の後のカッコ内は1998年末の順位。-は51位以下を示す。社名の後のカッコ内は合併・統合や社名変更前の旧社名。合併・統合の場合は、98年末時点で最も時価総額が高かった1社のみ記してある。

(2009・1・7)

第13回 この時期に賃上げ? 組合が要求する格差拡大

定番を選ばなければならない理由
 
街に、リクルートスーツ姿の大学生を見かける季節になった。私がときどき講義を受け持つ大学の講座でも、3年生がスーツを着てくるようになった。
 
久しぶりの講義があった12月上旬。その日に2社の会社説明会に参加したという3年生の男子の話を聞いた。

「説明会の出席者が驚くほど同じ服装をしているんですよね。服装が特に決められていない会でも、男ならば紺かグレーのスーツに、ストライプのネクタイがほとんどなんです」と、彼は嘆く。
 
そういう彼もやはり紺のスーツ姿だ。「ネクタイだけはストライプではないものにしてみました」とおどけると、話を横で聞いていた同級生から「おまえだって全く同じように見えるよ」と突っ込まれるていた。
 
日本で「リクルートスーツ」という言葉は1980年代に定着したものらしい。就職を控えた大学3、4年生が紺やグレーのスーツで身を固めてOBを訪問したり、会社説明会に出席したりするのは、そのくらい前から当然のこととなっている。
 
しかし昔は、それでももっと自由度があったような気がする。説明会にはくだけた格好の学生も結構いたし、百貨店の売り場などでも、今ほどお仕着せのものはなかった。
 
今やスーツだけでなく、シャツや鞄、靴に至るまで就職活動用の定番が並ぶ。スーツなどを提供するメーカーや店舗の思惑もあるだろうが、それ以上に学生側が「就職できるかどうか」を不安に感じているが故に冒険をしにくく、定番を選ばざるをえないようになっているのだろう。


去年売り手市場が、もう氷河期
 
今の大学3、4年生ほど、新卒採用状況の急速な悪化にさらされている年代も珍しい。90年代も就職氷河期が続いたが、悪化のスピードはこれほど速くはなかった。
 
日本経済新聞社が4月に実施した調査では、主要企業の2009年春の新卒採用者数は08年度比6.3%増と、6年連続で前年を上回っていた。ところが急速な景気の落ち込みで、09年春卒業予定者で内定を取り消される人が増え始めた。また企業は2010年の新卒採用を抑制。リクルートが12月に発表した2010年春の大学生・大学院生の新卒採用見通しでは、「減る」と回答した企業が15.7%と、「増える」の8.3%のほぼ2倍になった。
08年春まで続いた採用の拡大傾向が一変したことがわかる。しかもこの調査は10月時点。現状はさらに採用意欲が減退しているはずだ。新卒採用戦線の景色は、春先までの売り手市場から、再び就職氷河期へとがらりと変わってしまった。
 
15日に日本銀行が発表した企業短期経済観測調査(短観)では、大企業製造業の景況判断は前回調査の9月より21ポイント悪化し、石油危機時の1975年2月と並ぶ過去2番目の大きな下げ幅だった。米国発の金融危機をきっかけに始まった世界景気の悪化が、新卒採用の景色を変えた主因であることはいうまでもない。
 
だが景気の落ち込みの度合い以上に、新卒採用の冷え込み具合は大きくなりやすい。90年代のバブル経済崩壊や2000年以降のIT(情報技術)バブル崩壊を経たあとも、日本企業では正社員の削減には時間がかかる。
 
リストラといっても多くの企業は経営側と組合側とが話し合い、転籍や早期退職など比較的時間のかかる手段をとるからだ。
 
そのため結局、正社員の数の調整は、新卒採用を増やしたり抑えたりすることでしかできない。こうした新卒採用の大きすぎる揺れがある時は超就職氷河期を生み、若者の間の所得格差を生むことにもなった。


組合にワークシェアリングの発想はないのか
 
もう1つ、ここ数年で雇用の調整弁の役割を果たすようになったのが派遣社員、期間社員、パート、アルバイトなどの非正社員だ。大規模な生産調整に見舞われている自動車業界は、完成車メーカーだけで派遣や期間従業員など約1万4000人の非正社員を09年3月末までに削減する見通しだ。
 
電機や機械などの業界でも同様の動きが続く。従来の景気後退期には同様の規模のヒトを減らすのに数年はかかっていたことを考えると、この削減の速さは際だっている。
 
こんな状況の中で、「おや」と思ったのが09年の春季労使交渉に向けて連合や、電機連合などの主要労組がベースアップを求めたことだ。確かにここ数年の日本企業の業績改善と最近の物価上昇を考えれば、「これまで抑えてきた賃金を上げ、労働者の所得を引き上げよう」という論理は理解できなくもない。
 
だが今は未曽有の速さで景気が悪化し、新卒採用減や非正社員の雇い止めなどが止まらない時だ。こんなときに正社員の賃上げが通れば、非正社員の雇用にどんな悪影響が出るか、組合幹部にはわからないのだろうか。
 
政府が将来への産業強化につながるような雇用対策を強化すべきなのはもちろんだが、企業にいま求められるのは、正社員の賃上げ原資を非正社員の雇用確保に充てるというような「ワークシェアリング」の発想だ。組合が正社員の「賃上げ」にあくまでもこだわれば、非正社員や新規学卒者と、正社員の対立がこれまで以上に進むことになる。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2008・12・16)

第12回「NPO法人ができて10年」で明らかになった数の多さと貧しさ

「民が担う公」NPOの可能性
 
先日、市民ボランティアが森林を間伐し、運搬や販売まで担う活動を四国でしている特定非営利活動法人(NPO法人)の話をうかがう機会があった。

このNPO法人は森林所有者などから委託を受けると、数十人のボランティアが人海戦術で森林を伐採する。使う機械は森林組合が持つプロセッサー(枝払い玉切り装置)などの大型機械ではなく、チェーンソーや小型木材運搬車など小規模なものだ。
 
収集した木材は高品質なものは市場で販売し、低いものは木質バイオマス(生物資源)発電施設や木質ペレット工場向けなどに持ち込んで売る。
 
ボランティアの参加者には作業量に応じて「地域通貨」を分配。地元の商店でも使えるようにすることで、森林環境の保全とともに、地域経済の振興にも役立つという仕組みだ。
 
面白かったのは、このNPO法人が活動を深めていくにつれ「県や森林組合などとぶつかる場面が増えてきた」(同法人の事務局長)という話だ。 
林野庁や自治体は現在、林業の大規模化を進めようとしている。間伐についていえば、小規模の森林所有者の土地をまとめ「団地」にして林道を整備し、大型機械を使って大規模に伐採する手法だ。
 
一方、このNPO法人が使う機械は小型のもので「地域に密着した小回りのきく小規模林業」を目指している。「我々の実践で小規模な自伐林家でも、ある程度の収入が得られることが見えてきた。それが大規模化を目指す森林組合などは気に入らない」のだという。
 
大規模化がいいのか、小回りのきく小規模林業がいいのかは、森林の特徴や地域の実情によっても違うので、一概には結論づけられないだろう。
 
ただNPO法人の活動によって、自治体など「官が担う公」だけではなく、NPO法人という「民が担う公」の可能性が見えてきた点が興味深い。NPO法人やボランティアの活動がなければ「日本の林業は大規模化なくして生き残れない」という考え方一辺倒になっていたはずだ。


雇用の担い手にならない日本のNPO
 
12月1日は、今は一般にNPO法人と呼ばれるようになった「特定非営利活動法人」の制度が、施行から10年を迎えた日だった。
 
同制度ができた背景には、1995年に起こった阪神・淡路大震災がある。震災発生後の緊急支援や震災復興の過程で、多くのボランティアや非営利組織(NPO)が活躍した。
 
これらの活動が契機になり、国会議員の間で、NPOが法人格を取得する手続きなどを定める法律などを、議員立法で制定しようとする動きが活発になった。こうして98年の3月に「特定非営利活動促進法(NPO法)」が成立し、12月に施行された。
 
内閣府によると、NPO法人の数は9月末現在で3万5659にもなる。法施行から110年が経った公益法人は約2万5000、社会福祉法人は約1万8000だから、その多さがわかる。
 
だがその活動は順調とは言い難い。冒頭のような例は、そう多くはないのだ。 
大阪大学NPO研究情報センター(大阪府豊中市)がまとめた『NPO白書2007』によると、事業収入が年間500万円未満のNPO法人が、全体の74%を占める。一方、NPO法人のスタッフが受け取る年間収入については、全体の38%が100万円未満で、300万円以上を得ている人たちは14%に過ぎない。
 
つまりほとんどのNPO法人は継続的に寄付金を集めたり、収入を得たりする手段が乏しいために、スタッフにきちんと給与を払うことができていない。「やりがい」を求めNPO法人で働きたいと考える若者は増加傾向にあるのに、日本のNPO法人は米国のような雇用の担い手には育っていない。
 
衆議院議員の市村浩一郎氏が最近出版した『日本のNPOはなぜ不幸なのか?』(ダイヤモンド社)を読むと、特に福祉分野などで、日本のNPO法人がいかに「報われない」状態にあるかがよくわかる。「事務局長の月給は3万円」といった話を聞けば、好んでこの世界に飛び込みたいと考える人はわずかだろう。


ネットワークで拡充するかNPOの将来
 
だが、こうした状況を改善しようとする動きも生まれつつある。議員インターンシッププログラムなどを手掛けた佐藤大吾氏らが設立したNPO法人のチャリティ・プラットフォーム(東京都港区)がそれだ。
 
同法人はまず(1)広く一般から寄付を集める意思がある(2)事業目的・目標・計画が明文化されている(3)決算報告書や事業報告書が公表されている――などを基準に、信頼のできるNPOを約100選び出し、それをウェブ上のデータベース 「CharityNAVI(チャリナビ)」として公開し始めた。担当者が直接面会したNPOは2000を超える。
 
同法人はNPO法人を自ら助成するだけでなく、個人や企業からの寄付金集めも支援する。「NPOに少しでもかかわりたいと考えている個人や企業と、資金を必要としているNPO法人を結びつけたい」と佐藤氏は話す。
 
NPOは利益を優先せず、社会的使命を第一の目的として活動する組織だ。だがそれだからといって、資金を集める仕組みがなければ、その活動は続かない。NPO法人に寄付する人が優遇される税制の拡大など税制面での課題はあるが、まずはチャリティ・プラットフォームのような活動が広がることを期待したい。

(2008・12・2)

第11回 民俗学者ゆかりの地で聞こえてきた「サザン」の情けなさ

この夏、瀬戸内海に浮かぶ周防大島(山口県周防大島町)を訪れた。周防大島は民俗学者、宮本常一が1907年(明治40年)に生まれ、1981年(昭和56年)に73歳で没した場所である。彼はその生涯で、民俗調査のために計16万キロを歩いたといわれるが、その旅と学問の原点となったのが故郷の周防大島だ。

戦後の高度成長期、宮本は既に中央との格差が広がりつつあった地域の復活を願って、日本中を歩き続けた。田中角栄流の高速道路ではなく、村と村を周回道路で結びつけることを主張した彼の視点は、現在の「東京と地域」「中央と地方」の問題を考えるためにも欠かせないものだ。その宮本が生まれた島を、一目見たいと思ったからだ。
 
まずは松山の三津浜港からフェリーで山口県の柳内港へと渡る。柳井駅から山陽本線に少し乗り大畠駅でおりる。そこからバスで本土と島をつなぐ橋を通って、島の中央部にあり、宮本の著書、2万点の蔵書、10万点を超す写真などを収蔵する「周防大島文化交流センター」を目指した。
 
ところが、その日は休館日。自分の下調べ不足をのろいながら、とりあえず、その日の宿に決めていた、島の東側、片添ヶ浜海岸にある民宿に向かって、とぼとぼと歩き始めた。


失ったものの大きさ
 
周防大島は、江戸時代から明治、大正の頃にかけて四国や九州などで、高度な細工技術の伝統工法により寺社などを建てた「長州大工」の拠点だ。宮本の祖父やその弟も大工をしていたという。それだけに普通の民家でも、風情のある木造建築が多い。
 
そんなことを感じつつ、周囲を見渡しながら民家や畑の中を数キロ歩いて小さな峠を越えると、急に景色と雰囲気が一変した。小高い峠からは椰子の木が並び、白い砂浜の「ビーチ」が見下ろせた。かすかに音楽も聞こえる。近づくにつれ、それがサザンオールスターズの曲であることがわかった。
 
民宿も、想像とは大違いだった。これも事前にちゃんと調べればわかったことだが、明らかにその民宿は、大学のサークルなどの合宿などで海に遊びに来る若者のグループを主な対象としており、宮本につながるようなものは何一つない。
 
夕食まで時間があったので、しばらく海外を歩いた。白い砂浜や椰子の木以外にも会員制のホテルやテニスコートや海の家もそろい、ビーチの体裁は整っている。施設を説明した看板は、このビーチがバブル経済真っ盛りの1988年に認可を受け、90年代初めにオープンしたリゾート施設であることを示している。民宿の人によると「白い砂浜は島外からわざわざ運んできたものだ」そうだ。
 
ビーチが観光客で賑わっていればまだいい。だが8月の上旬、まさに海水浴に絶好に季節だというのに、白い砂浜には人がまばらだった。そんな風景の中、サザンだけがずっと流れ続けている。
 
サザンが嫌いなわけではない。だが元から瀬戸内の穏やかな海に面した風光明媚だった場所を、いかにも今風のビーチに改造して、湘南風のサザンを朝から晩まで流し続ける必要があるのだろうか、という苦い思いがよぎった。「海といえばサザン」という発想は、いかにも薄っぺらではないか。その海岸で聞く「TSUNAMI」は、歌詞とは別の意味でわびしかった。


写真が語るあるべき姿
 
それでも翌朝は気を持ち直して、島の方々を見て回った。宮本がよく上ったという白木山の中腹からは、島の中心部がすっと見渡せた。彼の父が普及に力を注いだみかんの畑が、山から続くなだらかな斜面に広がる。
 
宮本がよく遊んだという神社の森も規模は小さくなったとはいえ、昔の雰囲気を十分に残している。片添ヶ浜とは反対側の入り江では、小さな男の子たちが魚を捕るための網を持って走り回っていた。
 
前日には空振りした周防大島文化交流センターを、開館時間の少し前に訪ねてみた。20代の男性係員が「熱心ですね。いま準備しますから少し待っててくださいね」とすぐに用意をして、展示室に通してくれた。
 
センターには、宮本の呼びかけに応じて地元有志が集めた生産用具が展示されているほか、その日は「宮本常一の目 
昭和30年代の日本」と題した写真展も開かれていた。
 
だが既にその写真展を東京でも見ていた私にとって何よりも嬉しかったのは、宮本が日本各地で撮影した写真のほぼすべて(約8万9000枚)を、パソコンで地域や年代を自由に検索しながらつぶさに見られることだった。
 
「いい写真」を残すことにこだわらなかった彼の写真は、それこそ宮本の視点そのものだ。時には山並みの写真ばかり、またある時には鰹節の生産現場と思われる写真が続く。展示会では選ばれないような何の変哲もない写真だからこそ、彼が何を見ようとしていたのかを感じることができた。
 
代表作『忘れられた日本人』(岩波文庫)だけを読んでいると、彼を、忘れられた日本を懐かしむ伝統主義者のように捉えてしまいがちだ。だが彼は地域固有の文化を守ろうとする一方で、広い道路や橋などの文明の利器を地域にどう取り入れるかも考え続けていた。センターの展示室の入口には、彼がふるさとの東和町(現・周防大島町)の町史に寄せた文章が掲げられている。

 
「それぞれのふるさとの文化は、そこに住んでいるものが守らねば守りようのないものである。新しいものをどううけとめるかの姿勢の検討が大事になる。古い誇るべき文化を守ることによって、新しい文化を迎え入れる力を生じるのが真の文化的発展ではなかろうかと考える。外部からの政治的、経済的な力の導入がふるさとの喪失への道につながるものであってはならないと思う。」
   
(東和町誌 はじめに 昭和57年)

 
少なくともサザンが流れるビーチが、彼の目指した方向ではないだろう。彼のふるさとですら、画一化と衰退は進んでいる。地域の力をいかに取り戻すかがいまの日本の課題となる中で、改めて宮本常一を読む必要を感じている。

(2008・11・18)

第10回 円高が、地方の産業政策を揺さぶるという現実

法人税収で潤う財政
 
最近、2006年3月の北九州空港の開港とともに就航したスターフライヤー(本社:北九州市)を初めて利用した。
 
乗ったのは、土曜日の夕方に羽田空港を発つ北九州空港行き。週末だというのにほぼ満席で、ほとんどがスーツ姿のビジネスマンだ。「会社関係の人がやけに多いな」というのが、座席に着いた時の第一印象だった。

北九州空港を降りると、知人の車で北九州の市内に向かい、また翌日は空港の近辺を案内してもらった。
 
新空港は九州本土から数キロ西に位置する海上空港で、北九州市と苅田町(かんだまち)にまたがる。本土への連絡橋を車で渡ると、すぐ左手にはトヨタ自動車九州(福岡県宮若市)の九州工場(苅田町)がある。町の南部には、1975年に九州としては初めて自動車の生産を始めた日産自動車の九州工場も広がる。
 
全国でトヨタも日産も工場を持つのは苅田町くらい。財政運営の自主性の大きさを表わす「財政力指数」は1.68(2007年)と福岡県内でトップだ。法人税収などに恵まれ、国が地方自治体の財源不足を補うために配分する「普通交付税」は75年以来、2008年まで34年連続で「不交付」を続けている。
 
空港を中心に少し範囲を広げれば、北米向けの大型車を中心に生産するトヨタ自動車九州の宮田工場(宮若市)や、ダイハツ九州の大分工場(中津市)もある。
 
1960年代、九州では石炭産業が斜陽化し、これからの雇用を支える基幹産業が必要になっていた。1965年、九州経済同友会は「自動車産業を戦略産業として九州に導入する」という「九州開発構想」まとめた。自動車は部品数が多いだけに、完成車工場の誘致による雇用創出や経済波及の効果は大きい。
 
九州の経済人は自動車会社巡りを始め、1973年には待望の日産による苅田町進出が決まった。それ以来、九州には自動車産業の集積が進み、今や九州の自動車産業は約3万8000人もの雇用を抱える。


好況を牽引した輸出企業
 
もちろん羽田―北九州路線には自動車産業以外の関係者もいるだろう。だが同路線にビジネスマンが多い背景には、ここ数年好調を続けてきた九州の自動車産業の存在がある。
 
東京と地方各地を結ぶ航空路線。その乗客数や客層には、各地域の産業構造や景況感が表れる。羽田―北九州線と対照的なのが、羽田―高知線だ。朝一番や最終の便を除けば、目立つのは観光客。乗客のスーツ比率は羽田―北九州線より、かなり低い。
 
その理由も、高知龍馬空港(南国市)周辺を巡ってみれば、なんとなくわかるはずだ。空港の周りに広がるのは田んぼ。隣には高知大学の農学部(同)があり、飼っている牛が、のんびりと草を食んでいる。
 
高知県の製造品出荷額は全国の下から2番目。今でも農地が多く残るのは、高知県が長年、農業重視の政策を続けてきたからだ。ある高知県の経営者は「空港の周りで牛が放牧されているのは高知くらい。もともと高知は山地が多く工場を建設可能な平野が限られるのに、空港近くの土地を有効に活用していない」と自嘲気味に語る。
 
自動車産業のような組立加工型の企業誘致については、もともと首都圏や関西圏からは遠いうえに、誘致政策では完全に出遅れた。電機・IT(情報技術)関係ではカシオ計算機などの工場があるが、自動車関連の工場はほとんどない。
 
2002年から始まった今回の景気回復。その回復を主導したのが、自動車や電機など輸出依存度の高い組立加工型の製造業だった。以前は「中央に遅れて回復する」といわれた地方景気も、組立加工型製造業の企業集積がどれだけあるかにより、明暗が分かれた。
 
地域ごとの雇用のバロメーターになる有効求人倍率で、自動車の一大生産地帯に変身した北九州地域は、今回の景気拡大期に1倍を超えることもあった。一方、高知県は0.5倍前後をうろうろするばかりで、一向に改善する気配がない。


円高に翻弄される地方財政
 
だが、この「組立加工型産業を誘致する」という、九州で大成功を収めた地方の産業政策も、2007年夏からのサブプライムローン(信用力の低い個人向け住宅融資)問題をきっかけとして始まった円高で、大きく揺さぶられている。消費の急減速と円高によって、米国向けを中心とした輸出が大幅に減少しているからだ。例えば米調査会社オートデータがまとめた10月の米新車販売台数(速報値)は前年同月比で32%減と、25年ぶりの低水準に落ち込んでいる。
 
1985年のプラザ合意以後たびたび起こった円高は、増加する日本の貿易黒字が米国から問題にされ、その解消を目指したものだった。
 
一方今回の円高は、ここ数年続いていた、低金利の円を借入れて売り、金利の高い外国の通貨で運用し「利ざや」を稼ぐ「円キャリー取引」の解消が主因だ。世界金融危機による信用収縮で各国の金利が低下したことで、ヘッジファンドなどは日本の低金利を用いた投資手法をとれなくなり、日本から借りた資金を返すために各国通貨を売っている。
 
あらゆる通貨に対して円が買われているため、円はドルに対して以上に、ユーロなど他通貨に対して高い。世界中からモノを買いまくることで世界の消費を引っ張ってきた米国の実体経済変調も重なり、日本の輸出型産業は一転、危機に瀕している。
 
九州でも、北米向けが出荷の約3分の2を占めるトヨタ九州は8月から減産に踏み切り、派遣社員800人を削減。日産自動車の九州工場も11月から減産に入った。
 
長期的に見て、今回の円高は長く続く可能性が高いが、日本の経済構造はそれに耐えられるような体質にはほど遠い。輸出型製造業を誘致する以外に、地方が生き残る道はないのか。地方の悩みもまた、深くなっている。

(2008・11・11)

第9回 世界金融危機でも、しっかり覚えておきたい「バブルの効用」

毎朝の通勤電車。ふと周りを見渡すと、若者も、大人も、携帯電話を手にしている人が多い。電車の中で新聞や雑誌、本を広げる人より、携帯をいじる人が多くなったのはいつからだろう。NTTドコモが携帯電話によるインターネット接続サービス「iモード」を始めたのが1999年2月。それから10年足らずで、日本の通勤電車の風景は、それ以前とはすっかり変わった。

こうした日本のモバイルインターネットの発展には、ドコモなどの通信会社、パナソニックやシャープといった端末メーカーだけでなく、日本生まれの多くのベンチャー企業が寄与している。
 
例えばニュース、株価情報、乗換情報などを見る時、我々は意識しなくてもブラウザー(閲覧ソフト)を使っている。メールソフトと同等、人によってはそれ以上に利用することの多いアプリケーションソフトだ。この閲覧ソフトをドコモやau、ソフトバンクモバイルなどの多くの端末に提供しているのが、東証マザーズに上場するACCESSだ。
 
そのACCESSが20日に開いた技術発表会「ACCESS DAY 2008」で、鎌田富久副社長は閲覧ソフト「ネットフロント」の搭載が2008年8月末で1552機種、6億3915万台に達したことを明らかにした。
 
しかもそのうちの約2億台は過去1年間に売ったものだ。この1年間をとると、世界中で1秒に6.3台のペースで、同社の閲覧ソフト搭載端末が出荷されている計算だ。過去に、これほど世界に広がった「日本製ソフト」はないだろう。

 
パソコンとは違い、メモリー容量などが限られる携帯電話は、ウィンドウズのような統一した基本ソフト(OS)がなかった。そのため同社はこれまで、各社や端末の仕様に合わせたソフトを用意していた。だが供給先が世界に広がった今も、そのやり方を続けていては、同社にとっても端末メーカーにとっても、手間やコストがかかりすぎる。
 
そこで現在、アクセス・リナックス・プラットフォーム(ALP)として、「どの通信会社でも共通の『共通プラットフォーム』と、通信会社ごとに異なる『オペレーターパックと』いう形に変える作業を進めている」(鎌田氏)。
 
共通プラットフォームは、リナックスを基盤にした携帯電話用のOS。そしてこの共通プラットフォーム部分の核になるのが、同社が2005年9月に約3億2000万ドル(当時で約358億円)で買収した、米パームソース(カリフォルニア州)の技術だ。
 
ACCESSの当時の連結売上高(2005年1月期)は113億円で、当然、自己資金だけでは買収はできない。そのため時価に応じて転換価格が見直される新株予約権付社債(MSCB)の発行(500億円)や、150億円規模の第三者割当増資などでまかなった。
 
ACCESSの現在の株価は14万円前後(10月21日)。開発途上のALPがまだ収益には寄与していないことや、世界的な株価急落もあって、最高値の時より9割近く下がっている。
 
ライブドアなどに強制捜査が入り、マザーズなどの新興市場に上場する銘柄を中心に株価が急落した、「ライブドアショック」は2006年1月のこと。その直前の2005年といえば、新興企業が高株価をテコに、積極的な資金調達が可能だった「新興市場バブル」のころだ。
 
ACCESSも、その新興市場バブルの渦中だったからこそ、百億円規模の資金を調達でき、米パームソースというモバイル関連の草分けで、最高級の技術を持った会社を、自社に取り込むことができたわけだ。

 
フランスの銀行最大手、BNPパリバが傘下のファンドを突然凍結し、サブプライムローン問題が表面化した「パリバ・ショック」から約1年2カ月。新聞や雑誌、書籍でも、サブプライム問題に端を発した世界金融危機についての言説があふれている。中には「強欲資本主義」などとして、ウォール街や米国の資本主義を否定する論調も少なくない。
 
確かに今回の金融危機をきっかけに、極度に発達しリスクの所在を不透明にしてしまう証券化の仕組み、リスクの拡大志向を助長した金融機関の報酬体系、「評価損」の連鎖をつくりだす時価会計制度など、見直すべき点は少なくない。
 
ただ今回の金融危機の原点となった米国の住宅価格上昇(住宅バブル)には、「功」の部分も多くあった。この価格上昇を背景に米国が世界経済の牽引役になっていたからこそ、日本の景気も回復し、2005年当時の新興市場ブームもあった。ふだん我々が何気なく使っている携帯の閲覧ソフトにも、当時の世界的なバブルが追い風になっていたのだ。
 
米国や日本でネットバブルがはじけた2001年6月、米インテルの会長だったアンディ・グローブが米Wired誌のインタビューで、こんなやりとりをしている。
「ネットバブル崩壊後の調整は健全なことですよね?」という質問に対して「ブームもまた健全だった。なぜならば企業価値の暴騰(ネットバブル)があったからこそ、ネットのインフラに膨大なカネがつぎ込まれたからだ」と答えている。グローブは「バブルの功」の部分も、しっかりと認識していたわけだ。
 
今回の金融危機をきっかけに、世界は低成長経済に移行するだろう。特に金融面ではさまざまな是正が進むだろうが、それとともに「バブルの功」もかなりの部分、失われるだろうことを、我々はしっかりと覚えておく必要がある。

(2008・10・21)

第8回 革命的新薬を発見しても、開発に遅れた日本企業社会の土壌と姿勢

今年もノーベル賞の季節が巡ってきた。6日に発表されたノーベル医学生理学賞で、惜しくも今年の受賞は逃したものの、有力候補の1人に挙げられていたのが、遠藤章・東京農工大名誉教授(バイオファーム研究所所長)だ。

遠藤氏は、米アルバート・アンド・メアリー・ラスカー財団が医学分野で画期的な成果を上げた研究者に贈る「ラスカー賞」に今年9月、選ばれた。1945年に設けられたラスカー賞は、医学分野で「米国のノーベル賞」ともいわれる。同財団によると、これまでに受賞者のうち75人もがノーベル賞を受賞しているという。
 
世界で毎日3000万もの人が使い、「世界で一番売れている薬」ともいわれる高コレステロール血症(高脂血症)治療薬スタチンを発見したのが、遠藤氏である。ラスカー賞では、「心臓血管疾患の予防と治療に革命を起こした」ことが評価された。
 
遠藤氏は1957年に東北大農学部を卒業後、大手製薬会社の三共(当時、現・第一三共)に入社。微生物やカビ約6400株を調べ、73年に青カビの一種から、血液中のコレステロールを劇的に下げる物質「ML-236B」(コンパクチン)を発見した。ヒトの体内のコレステロールの8割弱は、肝臓で何段階もの化学反応を経て合成される。コンパクチンは、この合成に必要な酵素の働きを強力に抑える。

 
だがスタチン系薬剤を世界で初めて商品化したのは、遠藤氏がいた三共ではない。先行したのは、早くから遠藤氏の研究に着目していた米製薬大手のメルクだ。
 
三共は1974年からコンパクチンの前臨床試験を始め、社内の反発などさまざまな障害を乗り越え、ヒトの臨床試験は順調に進んでいた。ところが三共は1980年8月に突如、第2相まで進んでいた臨床試験を中止してしまうのである。イヌを使った長期の毒性試験で「腸管にリンパ腫が認められた」というのが、その理由だ。
 
一方のメルクは三共からコンパクチンのサンプル提供を受けるなどして開発を進め、78年には第2のスタチン系薬剤、ロバスタチンを発見。87年に製品名「メバコール」として発売した。
 
三共もコンパクチンの開発中止後、コンパクチンの化学構造に水酸基を加えたプラバスタチン(商品名「メバロチン」)を発見。メルクの参入から2年遅れた89年には発売にこぎ着けた。
 
不思議なのは、コンパクチンの毒性試験で「リンパ腫が認められた」というのは、どうやら三共の誤判断だったらしいことだ。遠藤氏は著書『新薬スタチンの発見』(岩波書店)の中で、三共が誤判断と気付きながらコンパクチンの開発を再開しなかったのは、リンパ腫の話が世界中に広まり「挽回が無理だと判断したと思われる」と述べている。
 
メバロチンは発売初年度には国内で、144億円を売り上げ、ピーク時の2004年3月期には輸出分も加えた年間売上高が2000億円に達した、当時の日本の製薬会社にとっては珍しい「ピカ新(従来の治療体系を大幅に変えるような独創的医薬品)」だった。
 
ただコンパクチンの開発をやめずに予定通り進めていれば、メルクに先立つ84年に発売し、メバロチン発売までの5年間に5000億円程度を売り上げて、高脂血症治療薬で世界市場のシェアもさらに高めることができた可能性がある。だが実際には、メルクに先を越されてしまったのである。

 
当の遠藤氏はコンパクチンを発見した後の1978年末に「研究活動を続けたい」という理由で三共を退職し、東京農工大の農学部助教授に転身した。その時に手にした退職金は660万円あまりで、それ以外に三共からの報酬は1円も手にしていないという。
 
ちょうどメバロチンの発売前後の時期に製薬業界を担当していた私は、他の製薬会社幹部から「三共は遠藤さんが開発したもののすごさがわかっていなかった。メルクが開発に乗り出した後にそのことに気付き、メバロチンで追いつこうとした」という解説を何度か聞かされた。
 
三共がメバロチンの成功で業績が急拡大しようとしていた時期だっただけに、こうした見方は他社のやっかみから出たものかもしれない。ただ80年代末の日本の製薬業界では、欧米の製薬会社が開発した薬を導入し、日本向けの臨床試験をして日本で販売するという「欧米の技術追随型」の経営モデルが一般的だった。
 
ましてや、さらに10年前の三共が、自社の研究所から生まれた成果を正しく評価できなかったとしても、責められない。三共はメルクという追うべき先頭ランナーが現れたからこそ、メバロチンの開発に力を注ぐことができた。
 
スタチンの開発物語を振り返ると、日本発で新しいものが生まれても国内では評価されず、欧米で評価されると国内での評価も高まる――という日本の産業界で繰り返されたパターンに当てはまることに気づく。
「画期的な技術や開発成果は海外から」という固定観念が強い社会で、新しい成果を商品に結びつけるのは並大抵のことではない。それまでにない革新的な技術を社会に結びつけるためには、技術そのものと同時に、それを受け入れる社会の姿勢が不可欠なのだ。

(2008・10・7)

第7回 米アップル S・ジョブズに学ぶ「経営に飽きない」生き方

上場すると店を作りたがる
 
2004年の正月明けだったろうか。上場してしばらくたった企業の社長と、食事をしたことがある。1次会の店を出ると、その社長は六本木にある小洒落たバーに案内してくれた。「いい店ですね」と誉めると、「いやあ、最近、私個人で出した店なんですよ」と社長は語り出した。

その会社が上場した時は、新興市場の相場そのものが低迷していたこともあり、公募増資で調達した金額も、創業者である社長が自分の持ち株を売り出すなどして手にした創業者利益も、それほど多くはなかった。とはいえ六本木のビルを借り、店を出すくらいの資金は十分に得たのだろう。そのおカネで何をしようと、個人の勝手である。
 
店の装飾にはこんな材料を使い、店を任せるためにこんな人をつれてきて、酒はこんなものを輸入した......。最初は肯きながら感心して聴いていたのだが、途中から段々と気持ちが醒めてきた。
 
「あなたにとって余技であるはずの店の経営にそれほどの時間とカネを注ぐのだったら、本業の経営にもう少し情熱を注いでもいいのではないですか」。
 
その時はなんとなくもやもやするばかりで、何で醒めた気分になるのかがわからなかったが、結局そんなことを、その経営者にぶつけたかったのだと思う。
 
上場して経営や資金に少し余裕ができると「自分の店」を持ちたがるのは、その社長ばかりではないらしい。1999年に東京証券取引所がマザーズを創設して以降、上場基準が下がり、年間200社前後の会社が上場するようになった。
 
そうして上場した新興企業の社長が本業とは別に、ポケットマネーなどでレストランやバーなどの店を持つという話を、その後の数年、ここかしこで聞いた。しかもそうした会社の多くが、上場後数年経つと業績が急降下するケースが多いのである。
 
考えられる原因の1つは、経営者が経営に飽いていることだ。


日本とは正反対の米起業家たち
 
創業経営者にとって「上場」は大きな目標だ。上場は本来、さらなる成長を目指すための資金を調達するためのものだが、上場によって創業者利益を得て社会的にも認められる存在になると、さらに進むよりも、経営やこれまでの事業に飽き、他人の目を気にせずに自分が自由にできる店を持ちたがる。上場して自分の店を持つ経営者には、そんな共通した心理があるように思える。
 
だが、すぐに経営に飽いてしまう日本の新興企業経営者とは正反対の起業家もいる。米アップル最高経営責任者(CEO)のスティーブ・ジョブズ(53)だ。
 
そのアップルは8月13日、株価に発行済み株式数をかけ合わせた「時価総額」で、グーグルを初めて抜いた。
 
その日のアップルの株価は179.3ドルで、時価総額は1588億4000万ドル。一方のグーグルは株価が500.03ドル、時価総額は1572億3000万ドル。その後は両社とも、株価は下落傾向にあるが、9月8日現在でも、アップルの時価総額は1399億ドルで、グーグルを6%程度上回っている。
 
2004年8月に上場し、わずか3年後の2007年には一時、時価総額が2300億ドルを超したこともあるグーグルは、急成長企業が少なくない米国のベンチャー企業の中でも、化け物のような存在だ。


PCで負けて追い出されてもあきらめない
 
だがアップルも別の意味ですごい。アップル(当時はアップルコンピュータ)が上場したのは1980年。パーソナルコンピューターの意味を変えた「マッキントッシュ(マック)」を発売する2年前のことだ。
 
ただグーグルのように上場後、一本調子で株価が上がり続けたわけではない。マックの過剰在庫による赤字計上や1985年のジョブズの解任、携帯情報端末プロジェクトの失敗などで、株価は上がったり下がったりを続けた。株価が上昇基調をたどり出すのは、復帰したジョブズがCEOに就任し、iTunes(アイチューン)とiPod(アイポッド)で音楽産業に参入した2000年以降のこと。アップルの株価はこの4年で約4倍に上昇した。
 
こうした歴史を振り返って改めて驚くのは、1976年にワンボードマイコンの「Apple�」を発売した時から今現在まで、ジョブズが起業家であり続けている点だ。
 
ジョブズは上場した後に、よくこう語っていたという。「23歳のとき、資産価値は100万ドルだった。24歳で1000万ドルをこえ、25歳で1億ドルをこえてしまった」。
 
名声や資金目当ての並の起業家だったら、ここでやめて、好きなことを楽しむ道に進んだとしてもおかしくはない。そのほかにもアップルから解任された時、アップルを辞めた後で設立したネクストコンピュータがうまくいかなかった時、さらに2004年に膵臓がんが見つかった時など、ジョブズが経営から降りてもおかしくないタイミングはいくつもあった。
 
だが現実にはジョブズは初期のアップルではコンピューター、ピクサーでは映画、アップルに復帰してからは音楽の世界で大きな成功を収め、今はiPhone(アイフォーン)で通信の世界に挑みつつある。
 
日本の起業家が学ぶべきは、ジョブズが3つの違った分野で成功したという事実よりも、自分がつくった会社を追い出されても、ネクストが失敗しても経営に飽きず、いつまでも新しい何かを求める姿勢ではないだろうか。

(2008・9・9)

第6回 商店街や地場小売業の脅威、イオンとの付き合い方

南北を分かつ駅前ロータリー
 
この夏、久しぶりに高知市を訪れた。この1年ほどで最も大きな変化は、JR土讃線が高架になり、古びた駅が橋上駅舎の「新高知駅」として生まれ変わったことだ。

県産のスギを使った大屋根、JR四国としては初めて導入した自動改札など新しい駅の売り物はいくつもある。だが市民にとってより大きいのは、高架化により、これまでは踏切によって遮られがちだった南北の行き来が、格段にしやすくなったことだ。
 
高知駅を真南に下ると「よさこい節」にうたわれた「はりまや橋」があり、その東西には帯屋町などの中心商店街が広がる。一方、駅から真北へ進むと、2000年に開業した「イオンモール高知(当時はイオン高知ショッピングセンター」がある。
 
高知駅が橋上駅舎となったことで、この駅から南と北に伸びる道が結ばれた。だが奇妙なのは、徒歩や自転車では駅の南北を簡単に行き来できるのに、現状では南北にロータリーをつくるなどして、わざわざ車が通り抜けられないようになっている点だ。まるで誰かが、駅南側の中心商店街と、イオンを中心に全国チェーンが数多く出店する北側とが結ばれることを、頑なに拒んでいるかのようだ。
 
多くの地方都市の中心商店街や地場小売業にとって、郊外に巨大なショッピングセンターを出店するイオンは「脅威」といえる存在だ。
 
郊外の、高速道路のインターチェンジ近くに出店し、広域の商圏を獲得。つられるように家電量販店や飲食店などの全国チェーンも進出して、ますますその地域の客を集める。そのうち駅前など個人商店や地場資本のスーパーなどで構成する中心商店街では廃業が相次ぎ、徐々にシャッター街と化していく――。これが、イオンの進出に伴う中心商店街衰退の典型的なパターンだろう。
 
高知市も、ある程度までは先の例が当てはまる地域だ。
 
1998年に、四国山地を縦断する高知自動車道が、高知市に隣接する伊野インターチェンジまで延伸。2000年にはイオンモール高知が高知インターチェンジ近くの工場跡地に開業した。
 
開業前には、高知市の中心商店街などが進出に反対し、世論は賛成派と反対派とに分かれた。またモール内にシネマコンプレックス(複合型映画館)を増築する際には、高知市が映画館増設のための手続きを認めず、裁判になったりもした。
 
実際、イオン出店の影響は大きく、高知市中心部9商店街の2007年12月の空き店舗率は前年比3.72ポイント増の11.78%となり、調査を始めた98年以降で最悪の数字となった。またシネコン開業前には、市内中心部にいくつもの映画館があったが、次々と閉館し今や残るのは1館のみになってしまった。


果敢に戦いを挑む小売業
 
イオンモールが商店街や地場小売業に与える影響力の大きさを考えれば、関係者がイオンを恐れるのは仕方がない面もある。だが一方で、相手の懐に飛び込むような、果敢な戦い方をする地場小売業もある。
 
イオンモール高知の真向かいにあるスーパー「サンシャインベルティス」。元々は地場スーパー、高知スーパーマーケット(高知市)の前里店だった場所だ。だが目の前で開業したイオンに顧客を奪われるなどして2006年10月に、高知スーパーは自主解散した。
 
この前里店を引き継いだのが、高知県を中心にボランタリーチェーンを運営するサンシャインチェーン本部(同)。武器は、全国規模の小売業にはまねのできない地場に密着した経営だ。
 
8月のある平日のサンシャインベルティス。顧客は比較的少ない時間帯だが、売り物とする地場産品の売り場「太陽市」には多くの客が集まっていた。
 
他の直営店の分も合わせて約1000戸の地元農家と契約し、朝にとれたトマトやナス、ミョウガ、スイカなどの旬の野菜・果物を販売している。生産物の多くには「○○さんの野菜」という案内や直筆のコメントがつけられており、生産者の顔がよく見える。魚売り場に目を転じれば「森田さんのうなぎ蒲焼」と、ウナギの蒲焼きにも生産者のコメントがつけられていた。県内を流れる渓流、仁淀川でとれたシラスウナギを育てたものという。
 
ベルティスを出て、横断歩道を渡れば、そこはイオン。同じように、食品売り場を歩いてみた。地産地消には力を入れている様子だが、ベルティスほどのインパクトはない。
 
イオンの入口に立ってみると、思いのほか両店を行き来している人がたくさんいる。関係者によると「ベルティスで食料品を買って、イオンで衣料品を買ったり映画を楽しんだりという人は多い」という。


強みを生かし合う共存共栄への道
 
ベルティスの2008年12月期の売上高は当初の目標を3億円上回る23億円だった。一方のイオンモール高知の同2月期の売上高は前期比2%増の277億円で、過去最高を記録。どちらも強みを生かし合った結果だろう。
 
高知市の中心商店街も、これまで単に手をこまぬいてきたわけではない。98年に高知城近くに開店した大型屋台村「ひろめ市場」は県内の地場産品の販売店、飲食店など約60店を集め、県内随一の人気スポットに成長した。
 
また高知市の中心商店街で始まった、女子大生が商店街の清掃活動や案内に取り組む「エスコーターズ」の活動は、他の地方都市にも広がった。イオンの勢いに押されているとはいえ、強みがないわけではない。
 
県内の金融関係者は「本来、イオンと商店街の強みは違うはず。イオンと商店街の間を無料のシャトルバスで結ぶなどの逆転の発想があってもいいのでは」と提案する。サンシャインベルティスのやり方を観察すると、イオンとの上手な付き合い方がないわけではないことが、よくわかる。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2008・8・26)

第5回 堀江裁判が導く「地に足の着いた」起業家の時代

7月25日に、ライブドア事件で証券取引法違反罪に問われたライブドアの元社長、堀江貴文被告に対する控訴審判決があった。東京高裁は堀江被告の控訴を棄却、懲役2年6月の実刑とした東京地裁の一審判決を支持した。ただ控訴審では堀江被告が一度も出廷しなかったこともあり、2年半前の堀江被告らの逮捕の時や、一審判決の時に比べ、世間の関心は相当に薄らいだように感じた。

堀江被告逮捕・判決の意味は何だったのか。それを感じようと、控訴審判決の後、六本木ヒルズを改めて歩いてみた。オフィス部分の森タワーに入ると、壁には入居企業の一覧がある。すぐに気づくのは、その内容が以前とはがらりと変わったことだ。
 
開業当時、六本木ヒルズには、ライブドアだけでなく、IT(情報技術)系を中心としたベンチャー企業が集まっていた。先行して入居していたヤフーに続き、楽天が入居した時には「ライバル会社同士の社員が顔を合わせないように」と、同じエレベーターを使わなくて済むようなフロアに入った。
 
ヒルズ内の飲食店には、ランチともなれば、見るからにベンチャーの社員らしき人たちがあふれていた。「社員証は見えなくても、遠くからでも素振りを見ていれば、だいたいどこの社員かはわかりますね」。あるITベンチャーの役員が解説するほど、彼らは目立っていた。
 
ライブドアがプロ野球への参入問題やニッポン放送の買収提案などで話題を振りまいた2004年から2005年にかけて、ヒルズに入居するベンチャーの時価総額は、合計数兆円にも達していたはずだ。
 
だが事件後、当のライブドアホールディングス(旧ライブドア)が本社を港区の別のビルに移転しただけでなく、ヤフーも楽天もヒルズを去った。日雇い派遣子会社を廃業したグッドウィル・グループも、ヒルズからの本社移転を検討している。
 
今のヒルズも、観光客などでそれなりににぎわうが、かつての主役たちがかもし出していた、ギラギラした感じには乏しい。
 
上場前の堀江被告を取材したことがある。年上の人に対しても攻撃的に自説を語るのはそのころからのことだが、当時のライブドアはウェブ系の技術を手がける「中身」もある会社だった。
 
事件後、「友達感覚で会社を経営し、株価をつり上げるため、まるでコンピューターゲームをしているかのように、法やルールの不備をみつけ、そこにつけ込むことに躍起になっていた」と、ライブドアの旧経営陣を批判したマスコミがあった。
 
だが少なくとも堀江被告らが最初からそうだったわけではない。ネット台頭の波に乗り2000年に上場し、さらに上場で得た資金や立場を利用して合併・買収などを繰り返すうちに、中身より外見を追い求める「上げ底」の度を強め、ついには虚業といってもいい段階まで進んでしまった――。それが実態ではないだろうか。
 
ヤフーや楽天が入居して俄然注目を集めつつあった六本木ヒルズにライブドアが本社を移した時には、企業規模やウェブサービスの充実度でははるかに先行していた両社に並びたいという意識が透けて見えた。あたかも同じヒルズに入居すれば、企業としての「格」も並ぶかのように。そういえば、当時のライブドアのサイトのデザインは、パクリかと思うほど、ヤフーのサイトに似ていた。
 
ライブドアがプロ野球への参入にあれほど執念を見せたのも、またそのほかの新興企業もこぞって球団経営や命名権の獲得などのプロ野球関連事業に参入しようとしたのも、手っ取り早く、世間が認めてくれる「看板」が欲しかったからだろう。
 
堀江被告らの逮捕と裁判によって断罪されたのは、そうしたライブドアや多くの新興企業にみられた「上げ底」の経営姿勢だ。
 
ライブドア事件をきっかけに、ジャスダックやマザーズなどに上場する新興企業には相次いで不祥事が発覚。投資家の新興企業に対する夢も、時価総額も急速にしぼんだ。上げ底経営の会社や経営者にとってはある意味、自業自得だが、問題は会社を興したばかりの起業家やその予備軍に、事件や新興企業バブルの崩壊がどう影響を与えているかだ。
 
7月下旬、ベンチャー企業支援会社、プレジデンツ・データ・バンク(東京・中央、PDB)が主催するベンチャー向けのセミナー・交流会に出席してみた。講師は2007年末に東証マザーズに上場したリサイクルショップ運営、トレジャー・ファクトリーの野坂英吾社長。堀江被告と同い年(1972年生まれ)だが、大学卒業(1995年)と同時に同社を立ち上げ、試行錯誤を重ねながら衣料のリサイクルなど独自のノウハウを積み重ね、12年かけて上場を実現した苦労人だ。
 
会には100人近いベンチャーの経営者などが集まったが、印象的だったのは、ミネラルウォーターしか出ない交流会でも、熱心に名刺を交換しながら情報交換する出席者が多かったことだ。印象は「地道な若者たち」。約10年前にネットベンチャーの若者らが集ったビットバレー、あるいはその後の携帯電話向けコンテンツのベンチャーの集まりなどの派手さとは随分と印象が異なる会だった。
 
PDBの高橋礎社長によると「やはり数年前までは『○年で上場します』というような大言壮語型の人が多かったが、最近はそういう人がいなくなり、地に足がついた感じの人が多い」という。
 
ライブドア事件は確かに、起業家予備軍を減らし、「大企業からベンチャーへ」という流れも止めた。だが、もしそれが起業家を選別にかけて地に足の着いた経営者を浮かび上がらせているのだとしたら、それは事件が残した大切なものかもしれない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

第4回 鉄道の遅れに見る日本社会の変質

私鉄の遅れが目立ってきた
 
その日は朝のラッシュピークが過ぎたころ、ホームに滑り込んできた西武池袋線の「急行」に駆け込んだ。異変に気づいたのは、急行電車が駅を出発してすぐ。急行の停車駅でもないのに、電車は停車と発車を繰り返す。「今朝方、清瀬駅付近で人身事故がありましたため、ただいまダイヤが大幅に乱れております」のアナウンスで、合点が行った。

終点の池袋駅に着くまでには、いつもの倍以上の時間がかかっただろうか。妙に気になったのは、乗客が終始、落ち着いていたことだ。
 
携帯電話で勤務先などに連絡する人はいたものの、ほとんどの乗客は「ああ、またか」とあきらめたかのような表情で、じっと到着を待っている。日本人はほんの数年前まで、電車がほんのちょっと遅れただけでも、目をつり上げていたはずなのに。
 
2004年から2007年にかけて、私は東京を離れていた。その後、3年ぶりに東京へ戻って最初におやっと首をひねったのが「電車の遅れの急増」である。
 
関東地方でいえば、東京を離れる以前からJR中央線は人身事故と、それに伴う遅延が多いことが知られていた。だが多くの私鉄はそれほどではなかったし、私の利用する西武池袋線はほとんど遅れることがなかった。
 
ところが再び東京へ戻ってくると、西武池袋線は頻繁に遅れるようになっていた。感覚的には、週に1回から10日に1回程度は、遅延に遭遇する。そして、その多くが「人身事故により」と説明されている。
 
国土交通省によると、列車に運休または30分以上の遅延が生じた「輸送障害」の2006年度の件数(全国ペース)は4421件で、10年前より48%増えている。「輸送障害」に計上されることのない30分未満の遅延は、さらに多いはずだ。


遅延を生む3つの原因
 
遅延が増えている原因は何か。1つにはJRや私鉄、あるいは私鉄同士の相互乗り入れが増え、鉄道の運行形態が複雑さを増したことだ。
 
西武池袋線について言えば、以前は西武線の中だけでダイヤが完結していた。だが今や西武線のダイヤには、メトロ有楽町線、副都心線、メトロが乗り入れる東武東上線も関係する。
 
冒頭の人身事故の時でも、メトロ有楽町線・副都心線は西武池袋線との直通運転を中止しなければならなかった。さらに2012年に副都心線が東急東横線と乗り入れるようになると、例えば東横線の横浜付近での事故が、東京都西部と埼玉県を走る西武線にも影響を与えるようになるだろう。
 
2つめの理由は、鉄道事業者以外による「部外原因」の増加だ。先の国交省による調査では、鉄道事業者の「部内原因」による輸送障害が10年間で19%増にとどまるのに対し、「部外原因」による輸送障害は79%も増え、06年には1477件になった。
 
さらに06年度の場合、この部外原因のうち534件(36%)を「自殺」が占めるのだ。この統計からは、自殺による遅延がどれだけ増えているかはわからないが、部外原因の増加率と同程度には、自殺による遅延も増えているとみていいだろう。
 
今や鉄道で人身事故が起こり遅れが出ても、事故が朝夕のラッシュ時などに起こり、よほどの数の乗降客に影響が出ない限り、新聞やテレビは報道せず、一般人にはその原因を知る術はない。だが国交省の調査からは、飛び込み自殺の増加によって列車の遅延が増えていることが、透けて見えてくる。
 
3つめの理由。それは推測の域を出ないが、107人の死者を出した、2005年4月25日のJR西日本福知山線脱線事故の影響だ。国交省の航空・鉄道事故調査委員会は07年6月にまとめた最終報告書で、事故の背景には余裕のない運行ダイヤなどJR西日本の企業体質全般があるとした。
 
JRをはじめとした日本の鉄道は、単に遅れないだけでなく、遅れてもすぐに回復できるシステムの柔軟性に特徴があった。ダイヤの工夫や運転士の技能などにより、遅れている電車を元に戻す。だがJR西日本の事故を境に、鉄道事業者側には定時運転に対するこだわりが薄れ、乗客側にも「遅れを取り戻すために無理をされるよりも安全を」という気持ちが生まれたのではないか。


遅延の先に見えるもの
 
経済ジャーナリストの三戸祐子は鉄道本の名著『定刻発車 
日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか?』(新潮文庫)で、日本の鉄道が「定刻発車」を実現できるもとを探ると、江戸時代の参勤交代や「時の鐘」などにまでさかのぼれると指摘している。遅れない電車はある意味、鉄道会社の努力だけでなく、国民性とも分かち難く結びついていた。
 
この本は皮肉にも、福知山線の事故が起こったのとほぼ同時期の2005年4月末に文庫化された。そしてそれからわずか3年の間に、日本人は電車が遅れることに「慣れてしまった」ように見える。
 
飛び込み自殺の増加、鉄道の遅延の常態化、そしてそれに慣れつつある日本人。これらはごくごく短い間に、日本社会の「変質」が進んだことを示している。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

第3回 日本にグーグルが生まれない本当の理由

わずか10年でトヨタ自動車の時価総額
 
日米のベンチャーを比較する時によく話題になるのが「日本にはどうして米グーグルのような会社が生まれないのか」という疑問である。

グーグルの誕生は1998年9月で、1997年設立の楽天よりも新しい。それでいて現在の時価総額は、米株式市場が変調を来している今も約1700億ドル(約18兆円)を維持。楽天などジャスダック上場企業(950社)が束になっても(合計額は11兆円)かなわない。日本で現在、時価総額でまともに張り合える会社はトヨタ自動車(約17兆円)ぐらいしかない。
 
先日、シリコンバレーにも詳しいある新興企業の経営者と会った時にこの疑問を投げかると、間髪を入れずに答えが返ってきた。
 
「それは、日本では新しいものが否定されるからですよ。日本ではベンチャーが新しいものに挑戦しても『しょせんベンチャーでしょ』と受け取られて、否定的に見られてしまう。一方、米国は新しいことに挑戦した会社は尊敬される。ブラウザーを最初に事業化したネットスケープコミュニケーションズは成功はしなかったが、彼らの挑戦を否定する人はいませんよ」
 
グーグルはスタンフォード大学の学生だったラリー・ページとセルゲイ・ブリンが立ち上げた会社だ。2人は起業前にサン・マイクロシステムズ共同創業者のアンディ・ベクトルシャイムに会って話をすると、ベクトルシャイムは初対面の2人に10万ドルの小切手を送ったという。2人はそれを元手にグーグルを創業。99年にはシリコンバレーのベンチャーキャピタル(VC)、クライナー・パーキンスとセコイア・キャピタルが2500万ドルを出資した。
 
当時のグーグルは新しい検索技術の開発にまい進するのみで、どうやって収益を得るかもはっきりしていなかった。にもかかわらず2人やグーグルに投資したベクトルシャイムやVCの存在を考えると、先の経営者の言葉に肯かざるを得ない。


ベンチャーの質の問題か?
 
だが一方で、こうも思うのだ。日本では常に新しいものが否定されてきたのだろうかと。
 
起業の世界でいえば、東京証券取引所が新興企業向けの市場、マザーズを設立した1999年以降、少なくとも2005年ごろまでは新しいものをつくろうとする起業家や会社にとって、追い風が吹いていた時期だ。マザーズ設立当時は国も大企業の経営者も「日本のベンチャーに足りないのはカネ」と考え、資金供給の仕組みを整えることを後押しした。
 
仮想商店街の楽天、ネット広告のサイバーエージェント、携帯電話向けソフトのACCESS、ブロードバンド事業などを手掛けるUSENなどは、いずれも新興市場が整備された2000―2001年に上場。市場から調達した資金を使って成長を加速した。こうした企業群は、グーグルほどの規模ではないにせよ、新しいことに挑戦し、それを後押しする投資家から資金を手に入れたともいえる。
 
だが問題は新しいことに挑むよりも、挑んでいると見せかけて、資金や上場という資格を得ることだけに腐心する起業家、企業がずっと多かった点だ。
 
ライブドアは楽天などと同じく2000年上場組だが、ある時点からは株価をつり上げることだけを考えるの会社に堕してしまった。YOZANのように市場から数百億円を調達しながら、事業を携帯電話用半導体、PHS事業、高速ネット事業と次々と変えた末に、今は市場から退場寸前の会社もある。その他、投資家の期待を裏切る、あるいはそもそも期待に応えるつもりもなかったダメ会社が多かったからこそ、日本でのベンチャー企業への信用は墜ちてしまったのだ。


起業家の原点に戻るとき
 
2008年4―6月期の日本での新規株式公開(IPO)した起業の数はわずか3社と、前年同期の10分の1に減った。米国の信用力の低い個人向け住宅融資(サブプライムローン)に端を発した投資家心理の冷え込みや、景気減速といった外的な要因もあるが、投資家心理の底流にあるのは新興企業に対する不信感だ。
 
今やある意味では、投資家は新興市場が整備する前よりも、新興企業やベンチャーに懐疑的だ。「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」という言葉がまさに当てはまる。
 
確かに冒頭の経営者のいうように、米国に比べれば日本は新しいものに挑戦する者を歓迎する気風は乏しいだろう。だが「挑戦者はいかがわしい」という見方を広めるたのもまた、一部の起業家の責任だ。
 
IPOの激減には、投資家や市場が成長企業の選別を強化するといったプラスの意味もある。グーグルもネットバブル後の「シリコンバレー冬の時代」を生き残ったからこそ、2004年に上場する時点で強い体質を持っていたという見方もある。
 
この冬の時代を次の春につなげるには、日本の起業家そのものが「新しいことに挑戦する」という原点に立ち返る必要がある。さらに、こうした起業家達を日本社会が正当に評価できるようになった時、それは以前よりも「グーグルのような会社」を生み出しやすい社会になっているはずだ。

(08・7・16)

第2回 人件費が下がって起こった「過去最悪」からの転換

無差別殺傷事件から見えてくるもの
 
東京・秋葉原で6月8日に起こった無差別殺傷事件。7人もの犠牲者を出した事件の衝撃が徐々に薄れてくるにつれ、妙にひっかかり始めたのが、加藤智大容疑者によるものとされる、携帯サイトへの膨大な書き込みだ。

「他人に仕事と認められない底辺の労働」
「来月から残業がなくなるようです 
お金のかかる趣味を始めたとたんにこの仕打ちですか 
やはり、世の中すべてが私の敵です」
「300人規模のリストラだそうです 
やっぱり私は要らない人です」
「勝ち組はみんな死んでしまえ」
「作業場いったらツナギが無かった 
辞めろってか」
「やっぱり会社の奴がいた 
ツナギあったよ、だと 
自分で隠しておいてよく言うよ」
「お前らが首切っておいて、人が足りないから来いだと? 
おかしいだろ」――
 
職場や仕事にからんだものだけでも、これだけの書き込みをしている。ここから感じるのは、職場や「派遣」という働き方への強い不満や怒り、絶望だ。
 
親、不細工、彼女がいない......。加藤容疑者が劣等感を募らせ、犯行へと駆け出すことになった要因はさまざまだが、そのうちの1つに「派遣」という先の見えない働き方への不満があったことは確かだろう。
 
加藤容疑者の犯行は言語道断で、許されるものではない。ただ彼が鬱積させていった不満はとりたてて突飛なものではなく、今も日本のどこかで働いている「だれかの不満」とつながっている。パソコンや携帯電話の匿名掲示板を訪れれば、加藤容疑者と同じような仕事に対する怨嗟の声を見つけるのはたやすい。そこに底知れない不気味さを感じるのだ。


労働分配率は過去20年で最低
 
いつから"ニッポン株式会社"はこんなにもぎすぎすとした職場になったのか。そのことを理解するのに、興味深いデータがある。日本経済新聞が6月5日付の「前期決算から(中)」で試算した、2000年3月期を基準にした設備投資、株主配分、人件費の動きを指数化した数字だ。
 
日本の上場企業は2008年3月期、リストラや新興国需要の取り込みなどで、03年3月期以来6期連続の経常増益を達成した。だが2000年3月期を基準に設備投資、株主配分、人件費の動きを見ると、07年3月期までに株主配分は3.1倍に膨らみ、設備投資も47%伸びたにもかかわらず、人件費は11%の増加にとどまった。
 
経営の三大要素はヒト・モノ・カネ。バブル崩壊後の低迷期を脱し、売上高の拡大傾向が続いたこの期間に、ニッポン株式会社はヒトへの配分を犠牲にすることで、モノへの投資と投資家への配分(カネ)を進め、収益回復を軌道に乗せたともいえる。だから、企業が創出した付加価値のうち人件費の占める割合を指す「労働分配率」は、過去20年で最低水準にまで落ち込んでいる。
 
ヒトへの配分の落ち込みは、ニッポン株式会社に、さまざまな歪みをもたらした。企業は採用抑制を抑える一方で、その穴を契約社員や派遣社員といった非正規社員を増やして埋めてきた。今や働く3人に1人が派遣やパートなど非正規社員だ。
 
一方で数が少なくなった正社員には、過重な責任や労働がのしかかる。長時間労働やサービス残業が当たり前になり、正社員と非正規社員の断絶が進んだ。07年度に過労などで自殺したとして労災認定された人は81人と、2年連続で過去最悪を更新した。
 
日本の戦後の雇用システムの特徴は「終身雇用」「年功賃金制」「企業別組合」――。こうした経営学の常識がいとも短期間に崩れるとは、誰も予想しなかっただろう。


日本企業の転換に水を差す? 減益
 
ただヒトへの配分を抑え続けるには限界がある。今年に入ってからは、社会からの批判に対応し、是正する動きもようやく目立ち始めた。
 
日本マクドナルドホールディングスは5月、店長を管理職と見なして残業代を払ってこなかった姿勢を転換し、8月から残業代を支払う方針に転換した。いわゆる「名ばかり管理職」に対する社会からの風当たりに、抗することが難しくなったからだ。
 
またトヨタ自動車も5月、生産現場の従業員が勤務時間外にグループで取り組む品質改善の活動(カイゼン)について、残業代を全額支払う方針に変えた。「サービス残業」批判へのトヨタ流の回答といってもいい。
 
派遣など非正規雇用についても、製造業を中心に待遇改善を求める声が強まっている。今回の秋葉原無差別殺傷事件で非正規雇用にスポットが当たることで、派遣など非正規雇用のある程度の改善は進むかもしれない。
 
だが問題は、肝心の企業収益が長く続いた拡大期を経て、曲がり角にさしかかっていることだ。
 
右肩上がりの資源高に米国や新興国などの需要減などが重なり、上場企業の09年3月期の経常利益は7年ぶりに減益となる公算が大きい。利益という分母が減る中で、人件費という分子を増やすことに、どこまで企業が本気になれるのか。ニッポン株式会社と働き手のせめぎ合いは、これからも続くだろう。

(08・6・17)

第1回 野球の独立リーグを創設した石毛宏典という名の「起業家」

野球の独立リーグが、全国に広がっている。先行した四国や北信越のリーグは、2008年から地域を広げると共にチーム数を増やし、関西でもリーグを新設する構想が進む。日本野球機構(NPB)が運営する「プロ野球」への育成機関として機能し始め、地域に活気を取り戻す担い手としても注目を集める独立リーグ。その独立リーグが日本に広まるきっかけをつくったのが、西武ライオンズの名遊撃手で、オリックスの監督だった石毛宏典だ。

「なんで、デイリースポーツの後追いをしないといかんのかなあ......」。高松支局の同僚記者がぼやきながら記事を書いていた。かたわらにあったのは、その日のデイリースポーツ。1面にはこんな見出しが躍っていた。「プロ野球に新リーグ!! 
四国4県4球団 
来季からスタート! 
元オリックス監督 
石毛氏中心に設立」。今から4年近く前、2004年9月末のことだ。
 
新聞の世界で「抜いた抜かれた」は日常茶飯のこと。ただ媒体や地域によって、ニュースやスクープの「判断軸」は異なる。普通ならば、関西が地盤で阪神タイガース中心の紙面をつくるデイリーのスクープを、一般紙の、それも地域ネタを書くことが仕事の支局が「追う」ことはない。
 
ただネタは四国での"プロ野球"独立リーグ構想である。野球の世界だけにとどまらず、人口減に悩む四国4県にとって一つの面白い地域活性化策に育つ可能性はある。
「恐らくうまくはいかないが、一応は書いておかないとな」。これがデイリーの後追い記事を書く羽目になった記者たちの、平均的な思いだっただろう。そのくらい、四国の人たちも当初は、石毛の掲げた四国アイランドリーグ(IL)構想を本気にはしていなかったのである。

 
当時、高知支局に勤務し、たまたまその日は高松に仕事で来ていた私もさめていた一人だ。構想には高知も含まれていたが「人口が80万人を割る高知で、そもそも"プロ野球"が成り立つものなのか」。そんな疑問が、頭からは離れなかった。
 
そんな私が「ILは地域を面白くしそうだ」と思い始めたきっかけは、翌2005年の3月、初めて石毛本人に会った時からだ。
 
その日は高知県南国市の奈路という、山あいの小さな集落の公民館で、四国ILを応援する組織の設立総会があった。応援組織といっても、JR四国のような大企業が母体の組織ではない。高知県内の農家らが「カネはないがコメなら出せる」と考え、各チームにコメを提供することで四国ILを応援しようという草の根組織の設立総会だった。
 
当然、集まったのは農家のおじちゃんやおばちゃんが中心。彼らは公民館の畳に座わり「本当にこんな所に石毛が来るのだろうか」と若干不安を抱きつつ、石毛を待ちわびていた。
 
少し遅れて1人でやってきた石毛は「四国ILに夢をのせて」と題して講演。「コメをしっかりかみ締めて、若者が夢をつかむために必死になっている姿を見せていきたい」と話した。また講演後の交流会では、高知特有の献杯や返杯にも嫌がる様子一つ見せず、おじちゃんやおばちゃんらと楽しそうに酒を酌み交わしていた。
 
この人が掲げる「地域密着」は単なるお題目ではなく本気だ――。出席者に、石毛の熱い思いがしっかりと伝わる会だった。高知で四国ILを応援しようという空気が強まっていったのは、この頃からだったと思う。

 
翌4月。私は松山市の坊ちゃんスタジアムで行われた開幕戦、高知対愛媛の開幕戦を見に行った。プロ予備軍とは思えぬ珍プレーもあり、観客から失笑を買ったりもしたが、選手のハングリーさと、荒削りの魅力は伝わってきた。
 
この1戦に高知の一員として出場していたのが、今はロッテの1軍で活躍する角中勝也だ。「スイングスピードは速かったが、足も肩も最初は今ひとつだった」。入団した当初のことを石毛がこう評した角中は四国ILでその後めきめきと力をつけ、2006年の大学・社会人ドラフト7巡目でロッテから指名を受けた。今年の4月にはプロ入り2年目で初めてのホームランを放ち、四国ILリーグ出身者としても記念すべき第1号になった。
「四国リーグがなかったら、プロに入ってない。活躍して恩返しをしたいと思っていた」。角中の試合後のコメントを聞いた石毛は「あの言葉で救われたね」と振り返る。この角中をはじめ、四国ILからプロ野球入りした選手は既に11人に達した。
 
4年ほど前には、ご当地の四国の人でさえ、ほとんど本気にしなかった独立リーグ構想。だが今は北陸・上信越にも広がり、来年には石毛自身が仕掛け人となって関西にもリーグが誕生する見込みだ。石毛は「社会人野球が廃れ、地域が活力を失う中で、独立リーグはプロ野球を支え、雇用を生み出し、地域を支える力がある。ゆくゆくは独立リーグ機構も必要になる」と力強く語る。
 
振り返れば、2004年には、近鉄とオリックスが合併を前提に話し合うと発表したことを機に、プロ野球の再編問題が浮上した。ライブドアの堀江貴文や楽天の三木谷浩史などの「起業家」が、野球への参入をめざした年でもある。
 
だがプロ野球への参入争いは、裏返せば、新興企業がいかに既得権益を持つグループに入るかの争いでもあった。結果的にプロ野球への参入を果たした三木谷や、敗れた堀江よりも、日本では難しいと見られていた「独立リーグ」の礎を築いた石毛の方が、よほど起業家らしく見える。

(08・6・4)