2011年11月20日

【第47回】障害者専門の人材・転職情報サービスで急成長した経営者の「理念」

株式会社ゼネラルパートナーズ

障害者を雇うための情報がない時代があった

NPO(非営利団体)という言葉の普及が象徴するように、社会貢献という言葉が一つの運動体としてとらえられるようになってきた。日本はそれでもまだ普及が低く、米国では総就業者数の11%がこうした団体で働いている。

このような状況のなかで異彩を放っている会社がある。株式会社ゼネラルパートナーズという会社である。同社は障害者の就職や転職を主事業とする会社。2003年に設立され、今年で7年目に入った。
 
障害者の就職といっても、そのような人たちを雇用するマーケットがあるのかどうかも知らない人がほとんどだろう。現在日本では障害者雇用促進法によって、一定の割合で障害者を雇用しなければならないことになっている。この数字が1.8%。つまり全従業員の1.8%を企業は雇わなければならないというものだ。言いかえると56人に一人ということだから、中小・零細企業ではなく、必然的に中堅企業から大企業がその適用を受けることになる。
 
同社が設立された当初は、企業の対応も漠然としたものだった。なぜなら雇用の義務があるとはいうものの、実際にはどのようにして雇用すればいいのか、どこで人を探せばよいのか、といった初歩的な対応すら分からない企業が多かったからだ。
「実際には、何も整備されてなかったというのが当時の実情だったでしょう。唯一の情報源はハローワークでしたが最低限の情報だけで、どの障害なら受け入れられるのかといった情報すら開示できないという有り様でした」と語るのは、同社創業者で代表取締役社長の進藤均である。
 
健常者でも、情報が少なければその会社が考えている条件は分かりにくい。ましてや障害者の場合、障害の状況や程度によって、できる仕事とできない仕事が存在するし、その会社がどういう体制で受け入れようとしているのかも重要なポイントだ。
「このギャップを解消しないと、雇う側も雇われる側にも無駄が発生する。でも恐らくハローワークとしては、傷害の度合いによってあらかじめ制限をつけるようなことは載せたくない、などと考えたんだろうと思います(進藤)」
 
だからこそ、進藤はこの事業を始めたのだろうし、またここにビジネスとしてのチャンスもあると考えたのだろう。
結果としていえば、この事業は創業初日から盛況だった。登録者はいない、ホームページもない、あるのは電話だけ。その電話だけで営業に行こうとアポをとると、いきなり注文が舞い込んだ。
 
その細かな話は後に譲るとして、その後同社は順調に発展し、昨2008年度(2009年3月期)売上高は6億9000万円、経常利益8300万円にまでなっている。


もっと喜ばれる仕事でないと面白くない
 
進藤が、なぜこの事業を始めたかについてはさまざまな経緯がある。そもそも商売の家系だった進藤は、小さい頃から将来は自分で何か商売をやろうと漠然と考えていた。
 
大学を卒業した進藤が選んだ道は、大手住宅メーカーの営業職だった。
「住宅の営業は難しいんです。まだできていないものを、しかも高額なものを売るわけですからね」と進藤は当時を述解する。「当時は3年くらいで起業しようと思っていた。だから1年目から生意気なことを言っては先輩の顰蹙を買っていた(進藤)」とも。
 
しかし有言実行で、4年目にトップセールスになった。そこで起業しようと思い立ったがやはり何をやっていいのか分からなかった。
「家を売ることに専念しすぎて、社会のことがよく分かっていなかった(進藤)」のだ。
 
きっかけはほんの小さなことだった。当時実家は保育園を経営していた。共働きの家庭が増え、延長保育などで保育士が足りなかったときに、親から「2~3時間派遣してくれるようなところはないか」と問われたのだ。当時人材派遣業が急成長していたこともあり、これはと興味を持った。しかし計算してみたら、まったく商売として成り立たない。しかし、この事業は人に喜ばれる仕事かもしれないと考え、インテリジェンスに入社した。まだそれほど規模が大きくもなく、人材が面白そうな会社だったからだ。
 
人材派遣の営業は、いろいろな会社を見ることができ勉強になった。組織のあり方、人の使い方も学んだ。しかし、人材派遣の仕組みはいい仕組みではないと感じた。なぜなら、これは企業にとって便利な仕組みだからだ。大きな収益性があるわけでなく、しかも労働者のマネジメントも大変で、その労働者に幸せを作れていない。
「もっと喜ばれる仕事でないと面白くない」と考えた進藤の出した結論は、「社会貢献」だった。
 
そんなとき、NHKの番組を見た。ヨーロッパのとあるレストランで、聴覚障害のウェイトレスがすごく自然に働いていたのだ。日本もこうなったらいいのになぁ、と思った瞬間気がついた。身近にこんな問題があったのだ。これだ! と閃き、現在のビジネスにまい進する結果となった。


障害者のよき認知を広めるという命題
 
同社は、今年の8月後半からモバイルによる情報提供を開始した。この反響が凄いのだという。それまでの月間登録者数は平均500人程度だったのが、このモバイルへの参入により一気に1.5倍に増え、700~800人になりつつあるという。現在の総登録者数は15000人を超え、まさにこの分野の一人者的存在になっている。
 
そんな同社の理念は、「障害者のよき認知を広める」ことだという。簡単に言うと、障害者のことをもっと知ってほしい!ということなのだ。
「障害者のことを知らないために偏見があるなら、それをなくしたい。だから知ってもらうということをやりたい」と進藤は熱く語る。
 
それでも、環境も企業の対応もこの創業後の6年でずいぶんと変わったという。同社では求人情報や人材紹介サービス以外に、年間5回程度、イベントを行なっている。企業がブースを出し、障害者が仕事を求めてくるマッチングイベントだ。そのパンフレットを見ると、企業紹介が実に細かく書かれてある。なかでもアイコンによって、「新卒で募集」「中途社員で募集」「正社員採用」「透析の配慮あり」「電話対応の配慮あり」「車椅子就業可能」「自動車通勤可能」「就業時間の配慮あり」などと細かい。企業によってこのアイコンの数も掲載されている項目も異なるわけだが、これこそ、進藤が当初ハローワークで感じた「情報のギャップ」を埋めるものだった。
 
そして、今後の展開について進藤はこうも語る。
「現在は、障害者というピラミッドがあるとすれば、その上のほうの人たちだけに対応しているのがわれわれのビジネスです。しかし、障害者はもっとたくさん存在する。だとすれば、もっとピラミッドの下のほうの人たちのためにも仕事を斡旋できるようにしたい」
 
 
取材のために同社を訪問し、無人の受付で待っていると、そこを通る社員の人がみな一様に実に丁寧な挨拶をして通っていったものだ。
「もう誰かご用件を伺っていますか」と聞いてくれた人もいた。一体これはどうしたわけだと進藤に問うと、別に教えたわけでもなく、もちろん強制しているわけでもないと言っていた。こんな文化のある会社は、働き甲斐のある会社に違いない。

(2009・9・16)

【第46回】顧客がファンになっていく! 稀有な会社の大切にする「力」

株式会社ファクトリージャパン

上顧客がおカネを払ってパーティーに参加する
 
優良企業の条件のひとつに、顧客を大切にする企業が上げられるのは誰もが知っているとおりだが、それを越えて顧客が企業のファンになるという会社に出会った。
 
それが全国に約80店舗の整体サロン「カラダファクトリー」を展開する(株)ファクトリージャパンである。

こう書くと、そんな会社があるのかと疑う向きがあるかもしれないが、同社が毎年行なっている恒例の顧客への感謝のイベント「ロイヤルカスタマーパーティー」を見るとそれがよく分かる。
 
今年の同社のパーティーは5月29日にヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルで行なわれた。来客数はざっと400人。そのほとんどがおカネを払って参加している同社の大切なお客なのである。
 
パーティーはまず同社代表取締役の子安裕樹の挨拶から始まったが、見ものは同社社員によるダンスのパフォーマンスである。お客も一緒にリズムをとり、パフォーマンスにどっと沸く。社員と顧客が一体となってパフォーマンスは最高潮に達した。このお客との一体感は何か。そもそもなぜ、お客がファンになるのか。常識的に考えれば、大切なロイヤルカスタマーを集めたイベントを行なうということは「招待する」ということであって、おカネを払わすことはしない。その1点を見ても同社には大きな、魅力的な謎がある。
 
この謎を解き明かすことが同社の躍進の秘密を解き明かすことでもある。


お客が喜んで、また来てくれる店を作る
 
同社の設立は2001年8月。設立以来わずか8年しか経っていない。同社代表取締役社長の子安裕樹が同社の前身となる横浜南整体院を開業したのが1998年だから、それを併せても10年に満たないことが分かる。
 
横浜南整体院の名の通り、子安も整体師である。
「学生のときラグビーをやっていたので、こういう仕事には縁があったんです」と子安はいう。
「でも、あるとき重度の腹痛で病院に行ったとき病院の対応は実に素っ気なかった。問診票に記入させ順番待ちを強いる。こちらは熱もあって早く見てほしい。やっとのことで順番が回ってきたら、医者は事務的に『どうしました?』から始める。これじゃ駄目だと思った(子安)」
 
学生時代にラグビーと決別し、少ない資本で潰れたイタリアンレストランを買い取り、それを成功させたものの、売り払って、次のことを考えているときだった。医者がこれでは駄目だ。身体を見る人はもっと患者のことを考え、その人のために尽くすようでなければならない。そんな気持ちから、子安は整体師の道を目指した。
 
しかしここでも「有名な先生といわれる人が魅力的ではなかった(子安)」そうだ。
「例えば、首を治すときに髪を引っ張られると痛いじゃないですか、それじゃ駄目なんです。技術だけでは駄目で、思いやりがなければいけない」
 
98年に28歳で開業した子安は、お客が喜んでくれ、必ず繰り返し来てくれる治療院にしようと考え、実行した。技術はもちろんだが、中年男性、主婦、老人など人によってかける言葉を変えた。治療が終わると、患者をベッドに座らせ、身体の状態がどうなっているかを骨模型を使って説明した。元気づけて欲しそうな人にはそう言葉をかけた。どうすれば身体を維持できるかをお客に伝えた。
 
お客の反応も「こんなによくしてくれた人はいない」と上々で、この評判が口コミで広がっていった。3ヵ月後、広告もほとんどすることなしに、1日8人・毎日営業の整体院の予約台帳は一杯になった。


社員教育のポイントはプチ社長作り
 
こうして2件目をオープンするときにまた問題が起こった。最初に採用した社員に次の店を任せたが、中途で採用した人はみんなその社員より年上で、経験も豊富だから、いうことを聞かなかった。そこで初めて子安は気がついた。自分の分身を育てていかなければならないと。以来、同社では施術者に関しては新卒しか採用していない。
「プチ子安を作ろうと考えた」と子安のもとで第1号社員となった現常務取締役の小牧めぐみは語る。自ら年上の経験者に苦労をさせられた経験を生かし、子安が実際に行なっていることをマニュアル化していった。そして学校を立ち上げた。
一番時間をかけるのはラストコミュニケーション。終わってお客さんを座らせ、骨模型を持ってきて説明するなど、子安のやり方をいかに学ぶかがポイントとなる。
「お客さまはどこかで悩んでいる。眠れない、身体の不良、心の悩み。そういう人たちに思いやりをこめて笑顔で接し、その悩みを気づいてあげる。それができなきゃお客さまを幸せにできない」と子安はいう。
 
いいかえるなら、「社員の一人ひとりがミッキーマウスのようなシンボリックで人から愛されるキャラクターになってほしい(子安)」と考えているのだ。
 
だから研修も、次の日から先生になったつもりで行なう「なりきり研修」、いい先生の真似をする「ものまね研修」、メイクや服装を変える「ビジュアル改造研修」など、多彩である。


おカネを払ってまで踊りを見に来てくれるか?にチャレンジ
 
さて、冒頭に紹介した「ロイヤルカスタマーパーティー」はそんな社員との関係のなかで出てきたイベントである。そもそも同社では、社員は本社での会議ではスーツを着用しなければならない。ともすれば私服で来て帰るような生活になりがちだから、けじめをつける意味があるし、社会性も出てくる。後は、ミッキーマウスのように踊って歌える場があればいい、と子安のなかに漠然とした思いがあった。
 
あるとき、子安が施術の社員にどれだけお客がついているかと問うと、「コアなお客様がついていてくれる」と答えた。ではそのお客さまは、イベントをやればお金を出してまで来てくれるかと問い返すと、社員から自信たっぷりな返事が返ってきた。それならやってみよう、ということで2005年にスタートしたのである。
 
それにしても社員に踊りをさせるのは大変なことだろう。社員のなかでダンスが得意な女性を先生にして、夜中、明け方まで1ヵ月猛特訓を行なったという。
「最初は100人呼べたら立派だと思っていた」と子安は当時の胸のうちを明かす。それでも300人の席が満席になった。


予算もノルマも存在しない地域一番店
 
子安のお客とのコミュニケーションの原点は何か。それを知る面白いエピソードがある。それはまだ同社の設立前、イタリアンレストランを買い取った頃の話である。
 
ある日お客がウェイターにビールを注文した。ところが、その店にビールは置いておらず「イタリアンレストランですからワインしかありません」とウェイターが答えた。それを聞いていた子安はそこに飛んでいき、「買ってきます」といって近くのコンビニでビールを買ってきてお客に供したという。そんなお客の要望をかなえるように店を変えていき、赤字でつぶれた店はあっという間に黒字になった。もっとも最後に一番売れたのは「ざる蕎麦天丼セット」と「じゅうじゅう鉄板焼き定食」だったそうだが。
 
こんな同社には予算が存在しない。社員にはノルマもない。会議で聞かれるのはお客さんはどんな人で、嫌われてないか、ということだそうだ。それこそが地域一番店であるための指標なのだろう。
 
今後同社は年間30店舗のペースで出店をしていく。また理念と経営方針を共有できるならという前提で、フランチャイズも行なっていく予定である。もっとも、そのためには厳しい面接を何度もこなさなければならないらしい。
 
そして海外展開も。
「今年の9月に台北でカラダファクトリーをオープンする」という子安は、そのロイヤルカスタマーパーティーが終わり、社員や関係者と夜遅くまで過ごした後、ほとんど寝ずに台北へと飛び立っていった。

(2009・7・28)

【第45回】追随できない仕組みを作って急成長。顧客本位の素人発想の凄み

シナジーマーケティング株式会社

3年で売上高2.3倍、経常利益3.6倍の急成長
 
一時期、マスカスタマイゼーションという言葉が流行った。マス(大衆)とカスタマイズ(注文に応じて作る)をくっつけた造語で、全ての人それぞれにカスタムメイドの商品やサービスを提供するということ。そんなことは不可能だと思うが、それをコンピューターが可能にするのだといわれていた。実際にCRM(Customer Relationship Management:ITを利用して顧客との信頼関係を築く経営手法)という手法も使われ、いまやこの分野は急成長している。

その急成長業界のなかでも、CRMで業績をぐんぐん伸ばしている会社がシナジーマーケティング(株)だ。CRMの意味は、前述の通りだが、分かりやすくいえば、コンピューター上で顧客管理をして、お客との関係を強化できるよういろいろな手を打つことだ。同社は、このCRMのシステムを開発し、顧客に提供しているのだが、実は他社にない強みを持っているため、業績がぐんぐん伸びている。
 
例えば、3年前の05年12月期の売上高は6億9300万円、経常利益8860万円だったが、08年12月期は売上高15億9300万円、経常利益3億2100万円となった。実に3年で売上高は2.3倍、経常利益は3.62倍となった。この数字だけを見ても急成長ぶりがよく分かる。07年11月には大証ヘラクレス市場に上場したのも頷ける。


他社が追随できないサービスのきっかけは素人発想
 
CRMを開発している会社など、たくさんあるだろうになぜ同社がこんなに成長したのか。その問いに「導入時に優れているからだと思う」と社長の谷井等は答えた。これには少々説明が必要だろう。
 
会社には部門によっていろいろなデータが存在している。販売部門には顧客データ、経理部門には顧客別売上データ、お客様相談室には顧客の問い合わせやクレーム等のデータ。どの部門も別々に、その部門のフォーマットで管理している。
 
CRMを導入する場合には、これらを統合することになるわけだが、これが面倒なのだ。ところが、同社製のシステムを使えば、これらを何の変換もせずにそのまま利用できるのだ。これは導入側、特に現場にとっては便利な話である。
 
しかもそれをASP(事業者のサーバーにあるアプリケーションソフトをインターネットを通じて利用できるサービス)で利用できるという。つまり自分たちがソフトを持って使うのではなく、この場合はシナジーマーケティング社のサーバーにアクセスして利用することができる。それだけに自社のシステムには負荷がかからない。これも導入側には魅力なのだろう。
 
同社のこのサービスは、他社では真似ができない。だから優位性があり、その結果、同社がこの分野で抜きんでる結果となったのだ。それはCRMを利用するお客の立場に立ってシステムを開発した、ということに尽きる。
「私が技術に対して理解がなかったからできた」と谷井は述懐する。これには実は背景がある。


実家の洋服店の仕事で分かったCRMの本質
 
そもそも谷井がCRMに目覚めたのは、実家の洋服店で働いていたときだった。男性用の洋服店の商売はほとんど午後6時からが勝負である。それまでは暇だが、6時を過ぎると混みはじめ、今度は接客が追いつかない。すると帰ってしまう人も出る。これではまずいと、谷井は一計を案じた。スーツを買ってくれたお客には、仕上がりの頃を見計らって電子メールを送ったのだ。
「そろそろスーツが出来上がります。ところで紺色のスーツに合うブルーのシャツが入っているんですよ」と、こんな具合でシャツを進めた。これに面白いほど反応があった。しかも売上げに結びついた。お客が実際に店に来たときには用意してあるので、接客時間の節約にもなった。
 
顧客満足度を高める仕組みがあれば、対応が可能だと、ここからCRMの発想が生まれた。だから、谷井は利用者の立場に立って、技術的には無理な注文を開発者にしたのである。しかし、これがかえってよかった。
「社員も高いハードルを与えられて、乗り越えることに興味を抱いた(谷井)」のだ。このシステム開発には1年半を要したが、「今も開発しているようなもの、サグラダファミリアのようなものです」と谷井は屈託がない。


両親から教えられたことを面接で尋ねる理由
 
同社では、いわゆる営業はほとんどしていない。毎月150件前後の問い合わせがあるが、そのうち3分の1は評判を聞いての問い合わせで、あとはネット検索から自然に来る客だという。月額1万5000円から使える簡便さが、顧客を呼び寄せるのかもしれない。谷井もその辺りはきっちり分析している。
「従業員10人規模の会社は全国に40万社あります。そういう人たちでも使える金額である」ことが結果として売上げを伸ばしているのだろう。
 
しかし、この分野で今後の事業の広がりはあるのか。そう谷井に問うと、すぐに答えが帰ってきた。
「ある1社がCRMを使って一人の消費者を分析するのには限界がある。でも2社の顧客情報を重ね合わせると、より消費者像が鮮明になる。だとしたら、2社をドッキングさせたCRMを提案すればいいわけです」
同社では既にこれを提案し、実際にやってみて好結果を得たという。
 
そして、もうひとつ。
「現在のお客の業種はさまざまです。逆にいえば分野を特定してはいません。でも5年後には、ある特定の分野に特化したCRMをやっていたい」
 
なかなか構想力のある会社なのだ。
 
その谷井がことさらに力を入れているのが、採用である。ひとつの組織はその構成員のモラルが低いと目標が達成されないからだという。モラルとは何か。日本社会の道徳観だと谷井はいう。
 
だから採用面接ではこんな質問をする。
「ご両親から教えられたことは何か」「あなたは自分で何点ぐらい取れているか」
 
もちろん、社員にモラルを問うということは経営者自身のモラルが問われることになる。
「私のモラルは、謙虚さと感謝の気持ち、あとは実行力ですね」と谷井。
 実際に話をしていても、好青年という表現がぴったりの青年社長だった。

(2009・5・26)

【第44回】パソコンの全トラブルに訪問サービスで対応する企業の急成長の理由

日本PCサービス株式会社

あってほしいコンシェルジェサ―ビスを実現した
 
パソコンのトラブルほど厄介なものはない。ある程度パソコンに精通している人でも予期せぬトラブルにはなすすべもない。例えばいきなりフリーズしても、それがウィルスによるものなのか、単にメモリーを使いすぎているからなのか、原因が分からないものがほとんどだからだ。挙句、メーカーのサービスセンターに電話しても、音声ガイダンスによって案内されると、それだけで不安に陥ってしまう。
「もっと簡単に、すぐ対応してくれるサービスはないのか!」と声を大にして叫びたくなるのはもっともなことだ。

そういう日常的なニーズに応えてくれる会社が日本PCサービスだ。同社の最大の売りはコンシェルジェサービス。ホテルで客がコンシェルジュに泣きつけば、どんなことでも相談にのってくれるのと同じく、パソコンに関わるトラブルならどんなことでも電話1本で駆けつけてくれる。名付けて「パソコン生活応援隊」。とにかく家や事務所まで来てくれ、そのトラブルの解決に当たってくれる。しかも値段が安い。
「こんなサービスがあったら」という現代人のニーズをまさに満たしてくれるのだ。
 
現在、日本のパソコン世帯普及率は85.0%にも及ぶという(07年末現在、単身者世帯含む:総務省情報通信政策局調査)。パソコンが本格的に普及し始めたのは1995年のWindows 95発売以降だといわれている(当時の普及率は10数%)から、10年少しで急激にパソコンは普及したことになる。特にインターネットの普及にしたがって、ネットビジネスが生まれ、ネットウィルスが繁殖したことから、そのトラブルは幾何級数的に増えていることになる。つまり同社の市場は増えこそすれ、減りはしないとてつもなく大きな市場なのである。その拡大につれて同社の業績伸長も著しい。2008年8月期は売上高5億2200万円、経常利益800万円、に対して、09年8月期は売上高9億円(中間期で4億2800万円)、経常利益6000万円を予定している。


スタッフが疲弊するようなビジネスはだめ
 
社長の家喜信行が同社を設立したのは2001年(現在のパソコン事業は2003年より)である。家喜は大学卒業後、自動車業界専門のソフト販売を行なう翼システムに入社した。カーコンビニクラブを始めた会社で、2年の間トップセールスを続けた末に退職した。その折「家喜さんがやるなら付いていきたい、という部下は多かったのですが、力のある人は採らなかった」と家喜は述懐する。力のない人の方がマネジメントは楽だろうと考えたのだが、意に反して半年でほとんど辞めていった。
 
家喜が独立した際に考えたのは、カーコンビニクラブのパソコン版だった。
「パソコンに関しては何でもやる、ということでした。しかし、何でもやるといってもお客さまは来てくれません。それでパソコンのトラブル対応から入っていったのです(家喜)」
 
カーコンビニクラブがキズ、凹みの修理を訴えて自社のサービスをアピールしたように、売り物はなにかを考えたのだ。家喜はこの事業を始めるにあたって業界をくまなく調べていた。たとえば大手パソコンメーカーはサービス会社を有していたが、どれも大手企業向けのものだった。中小向けに先行していた会社はスタッフを登録制にして、初期の簡単の修理ばかりを行なっていた。ところが登録したスタッフは月に180件も訪問していることが分かった。一件当たりもらえる金額が安いので、それくらい回らないとやっていけなかったのだ。これではスタッフが疲弊してしまう。そんなビジネスはやるべきでない、と考えた家喜は一人月に50~60件でビジネスにできるよう構造を作った。お客からカネを取るサービスなら、技術が高くなければ成り立たない。当初は個人商店並みに自らも客先に出向いた。


急拡大時に必要なのは技術教育よりも接客教育
 
同社に転機が訪れたのはジャパンベストレスキューシステム(JBR:東証1部)と提携したときだ。「生活救急車」をうたい、生活救援総合サービスを行なうJBRは、パソコンのトラブル対応のために同社に目を付けたのだ。これで一気に注文が増えた。
 
ところがなにせ救急車である。すぐ来い、となる。
「来るときにパソコンを買ってこい、なんていうお客さんもいました(笑)。でもそれで鍛えられました(家喜)」
 
その後次々と家喜はビジネスを拡大していく。幸い、世の中にニーズは山ほどあった。ソフト会社のユーザーサポート、ネット証券会社の顧客サポート、家電量販店のパソコントラブルサポートと、自社では十分に対応していけない顧客サポートをアウトソーシングしたがっている企業は多かった。同社はこうした企業との提携の輪を広げていったのだ。
 
以前はJBRの業務が80%を占めていたが、現在は40%にまでシェアが減少している。それだけ同社が安定してきているということだ。
 
ところで、急拡大していくときに問題となるのは人材の確保である。サービスは全国規模となっているし、なにより技術の進展が早い業界のことだ。
「技術力は追いつきやすい。むしろ大変なのは接客サービスです」と家喜はいう。だから、朝礼ではクレームを受けた人間は必ず発表することにしているそうだ。それにより意識を持ってもらうためだ。


お客のためから生まれた買い替えの必要のないパソコン
 
同社は最近になって新たなビジネスを構築し始めている。
 
例えばホームサーバーの開発だ。なぜそんなものを開発するのか。
「同じパナソニックのビエラリンクでも、買った時期が違うとつながらないというようなことがあるんです。だからつながるホームサーバーのニーズがあるんです」。同社ではそのホームサーバーをレンタル形式で家庭に売り込もうと考えているという。
 
パソコンも自社で作り始めた。
「超省スペースパソコンです。600グラム弱しかなく、10万円以下です」と家喜はいう。月50台くらいのニーズがあるそうだ。なぜそんなものを始めたのか。
 
きっかけはある小さな開発会社がつぶれたことにあった。その副社長が売り込みにきたのでそのメンバーもろとも引き受け事業化したわけだが、そこにも家喜の周到な計算が働いている。
 
パソコンは、ある年月が経つと買い替えの必要が出てくる。最新のモノと比べてハードディスクの容量が小さくなり、CPUの性能が落ち、メモリーも少なくなるからだ。最新のOSやアプリケーションソフトは、常に最新の技術や容量に対応して開発されるから古いパソコンでは動かなくなる。
 
ところが、パソコンほど、中を分解して組み立て直すのが簡単なものはないのも事実。そこで、買い替えの必要のないパソコンを開発したのだ。いつでも中の部品やデバイスを取り替えることができるパソコンだ。これなら常に最新の技術に対応できるからユーザーはパソコンを買い替えなくてもすむ。
 
恐らく家喜の頭のなかには「お客さまのため」という思想が、澱のようにこびりついているのだろう。こんなにまとも過ぎることをしっかりと実現していく経営者は稀である。
 
世はいよいよ高齢化社会に突入し始めている。高齢者とパソコンの関係でいえば、市場はますます拡大していくに違いない。同社の成長も大いに期待される。
「お客のため」という当たり前の発想のなかにこそ、大きなビジネスチャンスが潜んでいる、その典型である。

(2009・4・14)

【第43回】歴史的不況でさらに輝きを増す堅実経営の鏡

テクノアルファ株式会社

今回の不況は分析すれば怖くない
 
世界的な不況が日本経済にも影を落とすなかで、不況分野の一つ、半導体の事業で堅実な成功を収めている企業がある。テクノアルファ株式会社だ。

同社は電子材料や装置の輸入商社だが、その堅実ぶりは業績に表れている。07年度の売上高は28億5000万円、経常利益が3億0200万円、08年度の売上高は33億1100万円で、経常利益は3億9300万円だ。今期(2009年11月期)は厳しい予測をせざるを得ない状況だが、それでも売上高32億2000万円、経常利益3億4600万円と、ほんの僅かの下げで踏みとどまると見ている。
「マーケットを見ていると、お客は3~4月頃までは様子を見ている状況です。本来は、発注があったときに設備をしていないと間に合わないのだが、今は中断している。しかし、ITの需要が減ったわけじゃないし、車でいえば省エネや環境に優しい車は伸びている」と社長の松村勝正は手堅い見方を崩さない。
 
同社の取扱商品で強いのは、パワー半導体といわれるもの。このパワー半導体とは、交流を直流に変換したり、電力を制御するといった省エネにつながる半導体。つまりニーズは高まりこそすれ減りはしない、という見方が背景にあっての発言なのだろう。


部門縮小の命に、それならと独立
 
同社の手堅さは、実は、その創業の経緯に表れているのかもしれない。同社の設立は1989年。社長で創業者の松村勝正が、当時在籍していたドッドウェルジャパンの部門縮小を受けて、それならと分離独立を願い出たのが始まりだった。
 
半導体という事業にはシリコンサイクルと呼ばれる波があった。ちょうどその波の底だった。当時の上司は外国人で、いきなり経費削減、部門縮小に踏み切ろうとした。そこで松村が申し出た、というわけだ。松村は当時、ハイテク部門以外に産業機械とビール機械の3部門を担当していた。特に、産業機械事業部はドッドウェルのなかで一番利益を出していた部門だった。それでも上司は了承してくれた。いい意味での外資の割り切りが働いたのだろう。条件は部品在庫1500万円分を引き取ることと、取引先を侵食しないこと。結局4人を引き連れて独立した。
 
恵まれていたのは、総務や経理などの面倒な業務はドッドウェルが引き受けてくれたことだ。
 
辞めた会社が事務を引き受けてくれたことで、営業に打ち込むことができ、業績を伸ばした。こんな運に恵まれたスタートも珍しい。しかし、あくまで手堅く、カネをかけることは一切せず、10坪の事務所からスタート。経費も使わなかった。その間、松村が注力したのは現金商売を行なうということだった。
「手形を発行しないということを誓いました。すべての取引先に納得してもらった(松村)」
 
熱心な説得が聴いたのだろう。L/C(信用状)も要求されなかった。できたばかりの会社は信用が低いから、こちらからの支払いは現金で要求されても、あちらからは手形が切られるというのが普通の話。ましてや貿易で、信用状無しで商売できるなんてあり得ない、というのが常識である。


地道に足で稼ぎ、有望なものは付加価値を高める
 
こうした話を聞いてみると、運のよさだけでここまで来た会社のように思ってしまうが決してそうではない。
 
松村には、ドッドウェル時代から培った営業のノウハウが山ほどあったのだ。なにせトップの営業マンである。松村が入社した当時は、輸入商品といっても英文カタログ1枚の時代だった。それを訳してコピーし、資料作りをする。コピーといっても青焼きの時代。体裁のいいものは作れない。だから、カタログの力に頼るのではなく、自分たちで商品の特性を調べ、足で稼ぐ営業が主流だった。
 
こうして鍛えられた松村は、輸入商品でヒットが出ると、当時としては画期的だったライセンス化に踏み切る。輸入するよりもそのほうが利益率が高い。つまり付加価値がつくのである。
 
例えば、生ビールの樽とサーバー。この商品は昔は同社が輸入していた。今でこそ飲食店ならどこにでもある代物だが、当時はこれが珍しく、ヒット商品になっていた。同社はそこで、その樽やサーバーのライセンスを取り国産化する。これが当たった。付加価値が高く利益は著しく上がった。このようなビジネスの手法を一から学び、そこで活躍してきた松村はこのやり方を今でも実行している。一つひとつのビジネスを堅実に遂行するというのは、こういうことの積み重ねなのである。
 
松村は、輸入だけでなく輸出にも力を入れた。
創業間もなくバブル経済がはじけ低成長時代へと突入するわけだが、粗利が高いバネを作る機械を日本から海外に輸出し、しのいだ。当時は人数も少なく「ほとんど影響はなかった(松村)」そうだ。


不況が長引いても十分に余力はある
 
同社が他社よりも抜きん出ている点を聞くと、松村は即座にこう答えた。
「まず第一に英語力があること。そして、海外ネットワークが張り巡らされていること。これによって、情報力にも長けていることになる」
 
さらにいえば、こうした情報とネットワークを駆使して、さまざまな提案を顧客にしていけることになる。
 
その同社が今後の成長に欠かせないと考えているのが、メーカー的機能の付加である。それもM&Aによってその機能を獲得しようと考えている。ターゲットははっきりしている。
「メカトロニクス用の機器を設計開発している企業です。それも大型の企業をM&Aするというわけではありません。10名以内の小さな企業でキーになる技術を持っている会社を傘下に収めたい」と松村はいう。3年前から探しているそうだ。
 
同社の持ち味である提案ができる商社、という機能にメーカー機能を付加することによって、商社としての力を強めたいということなのだろう。それにより、成長のスピードアップを計りたいということもあるだろう。
 
それにしても今回の不況は、長期化する傾向にある。
「余力はあります。当社は保険を利用した含み資産がある」と松村はいう。同社は事業保険を社員、役員を加入者として掛けている。これは全額損金計上されたもので、文字通り含み資産となっている。これを使うことができるというのだ。
 
堅実な会社は、あらゆる状況において準備が万端である。

(2009・3・31)

【第42回】儲からない代名詞の業種で大成功した男、少年時代の夢

株式会社トレジャーファクトリー

小さい頃から目標は起業だった
 
中学生時代から父を超えるのが目標だった男が着実にその目標を実行して、大学を卒業後すぐに起業した。12年かけてその会社は上場に至る......。そんな夢物語のような話はフィクションの世界では見向きもされない。しかし、男は現実のビジネスの世界でやってのけた。2007年、東証マザーズに上場したこの会社はトレジャーファクトリー。36歳社長が率いる「宝物の工場」だ。

同社社長の野坂英吾は、大学を卒業後の5月に会社を設立した。資本金は300万円。アルバイトをして貯めたカネだった。10月には1号店となるリサイクルショップをオープンしたのだが、実はこの時点で、野坂と同社の成功は半分約束されていたといっていい。
 
野坂の父親は商社マンである。その関係でシンガポールに8年住んでいた。家でホームパーティーを開くと父の仕事の関係者が訪れ、父の大きさが子供心に焼き付いた。いつかは父を超えてやる、と思ったのが起業のきっかけだというから大変なものだ。そうはいっても、将来起業するために小さい頃にできることは限られている。だから、仲間をまとめ、成果を出すことが練習だと考えて、野球部のキャプテンや学園祭の実行委員を務めた。
 
大学生のときに、ある経営者からアドバイスを受けた。
「身の回りに、こんなことがあればいいと思うことを50個書き出してみろ」
 
当時、量販店でアルバイトをやっていた野坂は、お客が新商品を買うと、まだ使える古い商品捨てていく現実を見て思っていた。もったいないなあ。そして、これだ、と閃いた。こうしてリサイクルショップを事業に定めた。
 
大学4年の夏には徹底してリサーチを行なった。近郊のリサイクルショップ48軒を回ったが失望が大きかった。店を見ると値札もついていない、商品の保証もない、接客サービスも皆無。店主からは止めておきなさいといわれ、心細くなった。だが、すべてを回りきって、吹っ切れた。


曇りガラスを透明にしたら売上げ100万円アップ
 
事業を始めるにあたって事業計画を作成したら、700万円が必要だと分かった。しかし資本金は300万円。必死になって店舗になる物件を探した。あまりの必死さに、ある経営者が超格安で倉庫を貸してくれた。
 
あるショップの70歳になる経営者は、店を閉めるからといって在庫を譲ってくれた。こうした幸運も重なって、1号店は資金30万円でスタートできた。それでも、当初は社長業の傍ら、高速道路のパーキングエリアでハンバーガーを売っていた。
「おカネをかけずにできる工夫はすべてやった」と野坂は当時を振り返る。電話番号はNTTと交渉し、下4桁2550を獲得した。プッシュホンの縦1列で押せる番号だったからだ。
1号店は倉庫だったので立地が悪く、店舗の裏が大通りに面していた。そこで裏側の曇りガラスを5000円かけて透明に変えた。すると「通りから商品がよく見えるようになり、1日100万円も売上げが伸びた(野坂)」。
 
1号店150坪がきっちりと回るようになり、3年目に2号店をオープンしたが、これこそが野坂の課題だった。
「多くのリサイクルショップは2号店までがせいぜい。だから3店目以上をやっていく方法を考えました」
 
そこでマニュアルを作り、店の運営を標準化していった。これで商品の査定にもばらつきがなくなった。
 
そして、POSシステムを導入した。
「この商売は在庫管理が肝だから」と野坂はその理由をいう。何が売れて何が売れていないかを把握する、それに尽きるのだそうだ。売れてないものは売り場を変える。1年以上経ったものは価格を下げる。そして回転率を上げていく。
「業界の平均が年間6回転ですが、うちは8回転」という野坂の言葉が、その効果なのだろう。こうして年に1店舗のペースで新店を出店していった。


中古品市場は年率10%で伸長
 
こうして、同社は売上げを伸ばしていったが、5年前の2004年に最大の危機が訪れた。上場準備を考え始めたときだった。
 当時8店舗だったのを、一気に年間で6店出店したら、途端に単月赤字が続いてしまったのだ。
「恐らく人材が足りず、薄まってしまったのでしょう」と野坂は振り返る。
 
しかし、ここからが野坂の真骨頂。行動が早い。すぐに店長たちに「危機だ」と話した。そこで行なったことは現場の「見える化」。当時、店には売上と粗利しか把握させていなかったが、経常利益ベースまで把握させた。本当に利益が出ているかどうかを店ごとに把握させたのだ。しかも、全店の状況を共有できるようにして、前日の状況を売上げ順に並べ、それをグラフ化して見せた。店舗が増えたのでエリアマネージャー制度を導入し、3人に地区ごとに把握させた。
 
この結果、売上げは半年で元に戻った。そして07年12月、東証マザーズ市場に上場を果たした。同社の08年2月期の業績は売上高33億7200万円、経常利益2億1700万円。規模は小さいが対前年の伸び率は売上高123%、経常利益136.5%と高水準だ。
 
同社は、ファッション専門のリサイクルショップを1年半前から始めた。すでに3店舗目がオープンしている。
「このノウハウを楽器、スポーツ、ホビーなどの専門分野に広げていく」と野坂の意気は軒昂である。
 
中古品市場は年率10%で伸張しているという。市場規模は5000億円だから、まだまだ小さいが、「エコ」「ロハス」「環境」「循環社会」と時代のキーワードを並べるほど、この市場が有望に見えてくる。この大不況も大いに後押しをするかもしれない。
 
それにしても、野坂が大学を卒業して起業するといったとき、野坂の親はそれを認めた上で「自分でやりなさい」といったそうだ。
 
野坂は3兄弟の長男。次男は兄の会社を手伝っている。3男は自分で会社を興したそうだ。まだ37歳。なんとも頼もしく、将来性のある経営者だ。

(2009・3・18)

【第41回】社員がひとりでに自立していく、すこぶる元気な会社の秘密

株式会社アイル

不自然さがない元気な会社
 
1991年、大塚商会でトップセールスだった男が、その部下たちと会社を興した。マンションの一室、社員6人でスタートした会社は、社長の一声で毎月詳細な月報を元に報告会を開催した。ある社員はそんなことをしなくても分かる、といったが社長は信念に基づいて、その報告会を続け、上場した今なお続けている。新人は1年間毎日日誌を書く。まるで教育機関のような会社、それが(株)アイル。いい会社なのだ。

会社を測る尺度はいろいろあるが、業績以外で会社の将来性を見るには、その会社を訪ねてみればすぐ分かる。アイルはその典型だ。
 
アイルの社内に入ると、誰からともなく元気な挨拶がなされる。よく、全員がすくっと立ち上がって挨拶をする会社があるが、そんな不自然さは微塵もない。社員が自らの判断でやっている、そんな雰囲気なのだ。
 
同社は1991年、主に中小企業向けにシステムソリューションをする会社として現社長の岩本哲夫が創業した。当時、システム化の波が企業に浸透し始めていた。といっても、1人1台のパソコンすら実現していない頃の話だ。
「特に中小企業の立場に立ったシステム構築の相談にのるような会社はなく、ここにビジネスチャンスがあると思った」と岩本は当時を振り返る。
 
しかし、ここで一つ難点があった。岩本は営業として活躍していたが、技術的なことに知識はない。そこで勉強をした。それも技術のみならず、生態系、複雑系といった相当知的な分野まで、貪るように知識を吸収した。


午後は社員に任せ、昼からは自宅に帰って犬の散歩
 
会社は順調に成長したが、94年から3年間、停滞期に陥った。売上5億円、社員30人程度で成長がストップした格好だったが、「外的な理由しか考えていなかった(岩本)」
冒頭にも書いたように、毎月の詳細なレポートによる報告を続けていたが、「結局、自分が把握していないと気がすまないことに気が付いた(岩本)」
 
そこで社長自らが変わった。
「任そうと思った」と岩本は端的に当時の気持ちを表現する。そして実際に行動に移した。昼から岩本は帰ってしまったのだ。
「朝8時には出社してましたし、お客さんには午前中に来てもらった」ので不都合はなかったという。本人は、自宅に帰り犬の散歩などをしながら、いろいろな問題点を整理し、分析していた。一人になる環境を作ったことでその大切さを学んだ。
 
会社も、機を一にして再び成長カーブを描き始めた。
「トップの考えが変わるということは、自分が思っているよりずっと大きい」と岩本は振り返る。
 ここから同社は、社員が力を発揮し始める。まず、95年から始めた新卒採用の人材が育ち、戦力になり始めた。96年には、パソコンのスクール(現アイルキャリアカレッジ)を開校した。当時、社員がパソコンに習熟していなかったため、スクールに通ったことが発端で、僅か4カ月で立ち上げた。
 
2000年には求人求職サイト「@ばる」を立ち上げ、翌年には東京に進出した。
 
05年にはWeb活用戦略支援サービス「Webドクター」を開始し、現在の同社の基幹事業である「システムソリューション事業」、「人材ソリューション事業」、「Webソリューション事業」の三本柱が確立した。こうして事業が拡大し、社員も増えていった。
 
実はこの事業の多角化が、同社の強さを生み出す原動力になっている。
 
例えば、97年頃から成長軌道に乗り始めたと書いたが、当時は金融危機が起こり、銀行の貸し渋りで中小企業は苦しめられていた。本来なら、環境の悪化で思うように売上げが上がらないはずなのに、なぜ業績が伸びたのか。
「一つの事業が悪くてもそれを別の事業がカバーしてくれた」と岩本はいう。システムだけで事業をしてなかったことが生きたのだ。


社員と社長の関係はフィフティフィフティ
 
岩本はこの事業の多角化を「クロスオーバーマネジメント」と呼んでいる。モノを作れば売れた時代、安いモノが売れた時代、良いモノが売れた時代を経て、現代は組み合わせが売れる時代だという。会社創業時に勉強した複雑系・生態系理論に基づいたビジネス展開で、単なる多角化ではないのだ。
 
実際、その効果は大きい。あるフランチャイズチェーンの顧客には、人事募集のホームページ作成からはじまって、基幹システムまですべてを同社がこなしている。
「一切合切全部できるのはうちだけ(岩本)」というのが最大の強みになっているのだ。
 
考えてみれば、クロスオーバーマネジメントとは、事業が相互補完的であると同時に、相互好循環的でもある。一つの事業がよければ、それが他の事業も伸ばしていくのである。
 
冒頭に同社は活気があると書いた。それは、社員に自立と責任を問うているからだろう。
「社員と社長の関係はフィフティフフティ」という岩本の言葉がそれを象徴していて、創業時から続けている月報会議でも、入社2年目にして、社長のような発言が出る。
 
こんな雰囲気はなぜ生まれたのか。それは社長がやるべきことをきちっとやっているからだろう。月報には何ページにもわたって社長のレポートが載るが、自ら丸二日かけて執筆する。新人の毎日の日誌には必ず目を通す。社長との会食を定期的に持ち、優秀な成績を収めた社員は海外研修に行かせる。
 
こういう社長なら、社員は自立もするし、ついていこうとも思うはずだ。
 
面白い話がある。同社には社内だけで頻繁に使われる「アイル語」なる言葉が存在する。「思い切りバットを振る」、「どの道を選ぶかより、選んだ道でどう生きるか」、「細部にこそ神は宿る」、「不安のお化け」等々。
 
これらの言葉は、実は月報に社長が書いた文章のなかから社員がピックアップしたものなのだそうで、それを社員が共有しているのだ。
 
社長が書いて残した言葉は、言いっ放しとは全然違う重さがある。社長だって書いたからには実行しなければならない。
 
この会社は有言実行の会社なのだ。

(2009・3・3)

【第40回】地方の花屋を東京に進出させた経営者の異色キャリア

株式会社ビューティ花壇

自衛隊のキャリアから一転、起業家を目指す
 
九州、熊本にあるまったく無名の花屋さんが東京に出てきて、大成功を収めた、といったら人はどう反応するだろうか。曰く、運がよかった。頑張った。真似のできない技術を持っていた。他社と発想が違った――。

恐らくその全部を実行して、この一介の花屋さんは会社組織となり、上場するに至る。会社名はビューティ花壇。葬儀用生花祭壇のトップ企業だ。
 
どんな創業者にもドラマがある。創業時の苦労は並大抵ではないからだ。だが、(株)ビューティ花壇の場合、その役割を中途入社の専務が担った、という点で他社とは違う趣を持っている。
 
同社社長の小田敬史は、防衛大学校出身の元自衛隊キャリアである。ところが、ビジネスを始めたい一心で、30歳のときに自衛隊を辞めた。
 
しかし、何か当てがあるわけではなかった。おまけにカネがない。
 
郷里の熊本に帰ると、先輩の紹介でビューティ花壇という大きな花屋を経営している三島美佐夫(現会長)と会う。葬儀専門の店だった。誘われたが、勤める気はないので断った。
 
2ヵ月ほど経つと、また三島から電話があった。「もう一つ会社を興すから一緒にやらないか」という誘いだった。それなら、と小田はその話に乗った。
 
そして5年が経った。ある日、また三島から相談があった。20数人いる社員のナンバー2からナンバー5までの4人が辞めたので、こちらの面倒を見てほしいという話だった。自衛隊出身だから組織作りは上手いだろうと思われていたのだ。5年間、新会社自体がビューティ花壇に世話になってもいたので、決断した。1996年のことだ。


会社がガタガタの状態から組織を作った
 
ここからが、小田のドラマの始まりである。そもそも葬儀用の生花祭壇作りには技術が必要だ。ところが「来てみたら、会社はガタガタになっていた。人はいても技術者がいない。どこから手を付けていいのか分からない状態でした」と、小田は当時を振り返る。
 
法人化していない個人商店だったので、発展させようにもカネがないし、個人商店には何千万円も銀行は貸さない。決算書を3期分持っていかないと融資の対象にもならないが、個人商店では望むべくもなかった。
 
仕方がないので技術者養成から始めようと考え、技能給制度を導入した。
「給与が上がる人は4、5万円。そうでない人は1000円と思い切って差をつけました(小田)」社員から不満も出たが、とにかくやり通した。
 
しかし、やはり3年も融資を待てない現実があった。辞めた人間たちが福岡で同じビジネスを始めていたし、熊本より大きな市場であることは間違いない。だが、進出にはカネがかかる。
「後輩の銀行の支店長代理に相談したら、年度計画を作り、きちんと月次報告をしろといわれました(笑)」
 
それを1年続けたら、なんと3000万円を融資してくれたのだ。
ところが、福岡進出は失敗に終わった。損益分岐点辺りまでは行くものの、後発でそれ以上の成果が出るほど甘いビジネスではなかったのだ。


東京に進出するも成果が上がらず地獄の日々
 
ここで、同社は東京に進出する。
何とかしたいと考えていた小田は、東京に行く用事を利用して調査をした。
 
ところが東京の葬儀は、白木の祭壇が主流。生花祭壇などないに等しい。
それでも進出すべきかどうか、小田は必死になって考えた。生花祭壇が普及できない理由がない。芸能人の葬儀や社葬は生花を使っている。消費者に聞くと、花がいいという。途中の葬儀社の段階に阻害要因があることが分かった。白木の祭壇は使い回しができる。しかし生花は1回ごとにカネがかかる。ならば葬儀社を説得すればいいと考え、進出を決めた。2001年のことだった。
 
東京に進出して、大田区に拠点を設けたがそれからが地獄のような日々だった。エリアの60数件に電話すると、ほとんどが来なくていいという。成果はほぼゼロだった。あまりに結果が出ない現実が、事務所のスタッフにも伝わった。
「そろそろ撤退ですか」とスタッフからいわれもした。小田は、みんなの士気を萎えさせてはいけないと、電話アプローチを事務所からではなく公衆電話からに変えたという。
 
考えてみれば、公衆電話にはエリアごとの電話帳がある。葬儀社に電話するのに便利で、以後この方法に徹したという。転んでもただでは起きないという格言があるが、まさにそれを地で行くようなしぶとさが小田にはある。
 
そんなもがき苦しんでいたある夜中、当たった葬儀社のリストを見ていたら、ふと気がついた。
 
小さな葬儀社には、差別化するものがない。大きなところではなく小さなところを当たってみようと考え、そこにターゲットを絞った。


小さな葬儀社から口コミで評判が広がった

「差別化できていますか? 騙されたと思ってやってみませんか」と小田は訴えた。ここから注文が取れだした。
一回50人程度の葬儀だったが、こんな葬儀は見たことがないといってくれた。徐々に評判となり、一度付き合ってくれた葬儀社が次も使ってくれた。半年後には売上げも出始め、落ち着いてきた。
 
そこで、次の段階での普及を考えた。ある出版社から、ビデオを作らないかと持ちかけられた。技術者は自分たちの技術が盗まれると、猛烈に反対したが、「任せてくれ」と最後は説得し、至る所に社名を出すことを前提に制作させた。そのビデオが売れ、次に講習会を開いた。こうして同社は全国区で認知されていった。
 
2003年にストックオプション制度を導入しようと熊本法務局に行ったら、誰もその制度を知らなかった。このままでは上場の手続きに失敗する可能性があると懸念し、本社を東京に移した。
 
マザーズへの上場は06年。07年には大阪に拠点を作った。今後は100万人都市に拠点を築いていく予定である。
 
それ以下の都市は、東京進出時に始めた卸売り事業を利用し、地域の花屋に卸すことを前提にネットワークを作っていく。今後の需要については増えることは間違いない。同社のこれからが注目される所以である。

(2009・2・24)

【第39回】平均年齢68歳、高齢ケータリング会社社長もう一つの肩書

マダム石島株式会社

料理は70年やらないと身につかない
 
高齢化社会に突入した日本の、モデルになるような会社がある。12人からいる社員の平均年齢は68歳。いずれも10年以上働いているベテランぞろい。全員女性。社長はなんと74歳。
 
こう聞くと、だれもがいったいどんな会社かと目を向けるに違いない。いたって普通の会社である。職種はケータリング。つまり、パーティーや会合などに料理やお弁当を届けるサービスをしている会社だ。

普通と書いたが、実は普通ではない。このような時期に注文が増えているというのだ。実際よく同社のケータリングを利用する企業に、なぜここを使うのかと聞くと、こんな答えが返ってきた。
「いろいろと細かい対応をしてくれる。パーティーの客層、年齢なども聞いた上でメニューを決めてくれる。しかも味がいい」
 
社長の石島まり子にその話をふると、「あそこはそれでも注文が大雑把な方。もっと細かく対応しているところもある」。
 
なるほど、世のほとんどのパーティー会社が料理の内容など細かく吟味させずにパッケージで売るのに対して、同社はきめの細かさを売り物にしているのだ。それもいわゆるレシピを基に 調理法を定めているわけではない。塩加減がどれくらいか、火はいつ止めるか勘で分かる。分量もタイミングも体が覚えているというのだ。
「料理は70年やらないと身につかない(石島)」
 
石島の料理の歴史は50年余。つまりこれからが、出番だというわけである。


偶然から生まれた中食ビジネス
 
石島がこの事業を始めたのは50歳少し手前の頃だった。しかし、そこにいたる石島の経歴を聞くとなるほどと思わず納得させられる歴史がある。
 
学校を卒業してからNHKの事業部に入ったが、間もなくして社内結婚をする。結婚すると家庭に入る時代だった。しかし、テレビ放送が始まり、長寿番組『今日の料理』がスタートする。そのとき番組への出演依頼が舞い込み、それから14年間『今日の料理』のインタビュアーを務めることになる。
 
その後新たな道を模索し、主婦の友社に入社、料理担当の記者を務めることになった。テレビで料理の先生を相手にしていたネットワークを、今度は出版の世界で活かしたわけだ。
 
ところがある事件をきっかけに、今度は出版社を辞めた。
「腹に据えかねることがあり、抗議して辞めた(石島)」そうだ。それが50歳直前の頃だった。しかし、そんな年齢で当時は職などない。ただ偶然にも香川県にある冷凍食品会社の社長と知り合い、入社し、その商品を東京で売ることになった。給料は半分になったが、生きがいを見つけた思いだった。
 
商品はシュウマイと餃子。ところが、まったく売れない。今までは顔見知りだった料理の世界。ホテルにレストランは全部だめ。料理の先生にも冷たくされて「人間の裏側を見た(石島)」思いがした。
 
その頃あるスーパーに、一度持ってくるようにといわれ、シューマイや餃子に手作りのサラダなども持って行き、その場で作って担当者に試食させた。
 
それが受けた。今度うちでパーティーがあるから作ってくれと頼まれ、それが現在のケータリングビジネス第一号となった。それが噂となり、口コミで評判が広がった。
 
すると社長に呼ばれた。これはクビに間違いないと覚悟したら、
「これはニュービジネスだ。女だけの会社を作って、この仕事をやれ」と社長いわれた。
 
惣菜や弁当――いわゆる中食ビジネスの会社である。資本金もその社長が250万円、石島が250万円出してつくった。1986年8月のことである。
 

大手企業も注目し、事業提携も
 
しかし、石島にはそれほど自信があったわけではない。
「当時、人が作った料理にカネを出すことはなかった。だから主婦たちに喜ばれるとは思ってはいなかった」と石島は述懐する。しかし時代が石島についてきた。その頃から主婦が勤めに出始めたのである。これに注目した大手企業から、続々と提携の申し込みや注文が出始めた。デパートからも注文がきた。世はバブル景気に沸き、続々と注文がきた。
 
こうして石島のビジネスは瞬く間に成長した。だが、失敗がなかったわけではない。苦い思い出もずいぶんした。
 
本社のすぐ近くの店が空いたので、惣菜店を開こうと思い、大手都銀に借りに行った。高々300万円の話だったが、銀行の支店長に「女一人に何ができる」といわれた。すぐさま口座を解約した。
 
大手外食企業から持ちかけられた事業は、スタートこそ好調だったものの、先方の社長が辞任。石島一人でがんばったが、結局借金が残った。
「以前は惣菜店も何店か出していたが、今はこのケータリングと弁当に絞って事業を行なっている」と石島はいう。


陸連科学委員の肩書きの意味
 
ところで、石島にはもう一つ別の肩書きがある。それは日本陸上競技連盟科学委員というものだ。失礼ながら、一介のケータリングビジネスの社長が、なぜかくもいかめしい肩書きをお持ちなのか。
 
石島がその種明かしをしてくれた。ソウルオリンピックの頃からというから、委員歴は20年以上にも及ぶが、当時、陸連の合宿などの食事の状況は悲惨の一途を極めていたという。アメリカでは全員食中毒にかかった。なぜなら、気温38度のところでマカロニサラダを出したから。日本のマカロニサラダは腐らないと栄養士がいったとか。また、ひじきの煮たものをどんぶり一杯出し、30分以内に食べると鉄分が増えると宣った栄養士もいた。
 
そんなミスマッチが陸連合宿の現場であり、当時の桜井陸連会長が石島に依頼したのだとか。
 
石島は違った。あるとき鮭のムニエルを食事に出そうとしたが、練習でへとへとの体はバターなど受けつけない。とっさに石島は照焼きに変えた。付け合せの粉吹き芋は肉じゃがに変えた。こうして陸上競技の合宿地として名高いアメリカのボルダーにも中国の昆明にも石島はついていくのだという。
 
考えれば、人生にはいろいろな転機がある。その転機を、うまく活かすかどうか、それはひとえにその個人の意志の強さと関係する問題だ。
 
その意味で、石島は転機をプラスに変えた実践者といえようか。

(2009・2・10)

【第38回】新鮮で美味しくしかも安いスパゲティー店の価格戦略

株式会社ポポラマーマ

この不況下で出店攻勢をかける

「物は相場の七掛けで売れるようになる」とは、ペガサスクラブ創始者の渥美俊一がいった言葉だそうだ。この理論を実践しているのが、東京都江戸川区に本社を置く(株)ポポラマーマである。
 
同社は茹であげ生スパゲティ専門チェーン『ポポラマーマ』を運営する外食産業の成長株だ。創業者で社長の安家美津志は、創業前、まだ別の会社の幹部として新規事業立ち上げに奔走していた時に、この渥美俊一の講演テープをことあるごとに聞いていた。

その後独立し、生スパゲティの店を出す段になって値段をいくらにするか迷っていたときに、ふと、冒頭の言葉が甦ってきたのだ。
 
相場の七掛け――。この言葉を思い出して、それまで解決できなかった価格に関する迷いを払拭した。
「ファミリーレストランでのスパゲティの平均的な価格帯は680円から700円でしたね。だから、うちはそれを七掛けして490円にした」安家はそう回顧する。
『ポポラマーマ』はこの安さと、新鮮さが売り物の生パスタという商品力に支えられて、95年の創業以来、成長を続けてきた。現在年間の出店数は14~15店。総店舗数は109店(09年1月現在、フランチャイズ加盟店32店を含む)である。昨年11月から今年の1月にかけても5店舗を出店するなど勢いは衰えていず、この不況下での実績であることを考えると、なかなかのものだといえよう。


廻り回って生スパゲティにたどり着いた
 
そもそも社長の安家は学生の頃、牧場経営をやりたいと考えていた。ところが、いざその夢を実現しようとすると自分は何にも牛のことが分かっていないのに気づいた。牛を牧場で飼うといってもそれは乳牛なのかそれとも食用牛なのか、あいまいなことが多過ぎた。
 
そこでダイエーミートに入社する。当時、肉を扱わせると日本一だった会社である。ところが、7年近くいたがダイエーミート解体の憂き目にあう。当時、同社で新規事業を手がけていた安家とその仲間は、すかいらーくの傘下、グリーンテーブルという焼肉レストランを始めることになった。ところが、3年間で5店舗を運営したが思うようにはいかず、この事業からも撤退し、安家はシチエ(現ウェアハウス)というアミューズメント運営会社に移る。ここでも新規事業に携わり、小さな規模で開店できる外食のフランチャイズ事業を担当した。
 
ここで出会ったのが、スパゲティである。ドリア、グラタン、ピザ、パスタなどをメニューにしていたが、ドリアやグラタンはメインにはならず、ピザはデリバリーが圧倒的に強かった。そこでパスタを強くしようと考え、いろいろな店のパスタを食べ歩いた。そこで生パスタの美味しさに気づく。
 
これだと思い、3分で生パスタを茹で上げる装置を開発し、何とか立ち上げた。ところが今度は利益が出ない。売り上げが上昇した分、経費もかかってしまったのだ。
いろいろ考えたが、結局、店の坪数が大き過ぎるという結論にいたった。そこで、経営者に20坪くらいの小規模な店での展開を具申したが、当時はどの業種も大規模店が 主流になりつつあった。提案はあえなく否定され、経営者からはそれほどその規模にこだわるなら自分でやればいいと、勧められる。
「これも何かの運命かなと思って、独立することにしました」と安家は当時を振り返るが、自信をもって行なった提案が否定されたことへの反発もあったのだろう。そして冒頭の価格設定に話が戻るのだ。


安いスパゲティをさらに100円引き
 
490円という安さと、生スパゲティの美味しさとで店は活況を呈することになった。
 
しかし疑問は残る。それは、なぜその価格でやっていけたのかという単純な疑問である。普通、仕入れ価格や人件費などからコストを算出し、売値を決める。だが安家は最初に価格を決めてしまったのだ。
 
売値を決めてしまうと、とにかく安い素材を仕入れようとする。すると安かろう悪かろうになってしまう心配はないのか、その問いに安家は「安い商品を必要とする情熱がその問題を解決してくれた」と答えた。情熱をもって探せば、必ずそういう商品に出会うということらしい。
 
94年12月、西葛西に1号店を出し、翌95年4月には2号店を出店した。退職金や親の遺産、区の融資制度などをフル活用して出店費用に充てた。どちらも十数坪の小さな店舗だった。こう書くと、順風満帆にやってきたようだが、実は当初、安家に不安がないわけではなかった。そもそも、パスタだけで客が呼べるのかという根本的な不安だった。
 
そこで、調べてみるとパスタとケーキだけで3000万円を売り上げている店があることを知り、社員をケーキ屋に研修に出し、同じメニュー構成にしたのである。95年12月には3号店を東京江東区木場のイトーヨーカ堂内にオープンした。
 
現在、同社ではさらに100円安くした390円のメニューを開発した。攻めの姿勢を崩さないというわけだ。実際「ニンニクと唐辛子のスパゲティ」は390円。これは相当に安い。しかも同社は年3回半額セールを行なっている。店舗数も増え、現在は細かなコストを見直すなど、業務改革プロジェクトを推進中だという。
 
消費が急激に細り、多くの小売・外食が低迷するなか、「安さ」が一つのキーワードになってきている。その意味で同社の戦略は今「旬」である。しかし、安家はあくまでこれにさらに磨きをかけるために手を打っている。生き残りをかけた熾烈な外食戦争のなかで、生き残る会社はこんな会社かもしれないと実感させられた。

(2009・1・27)

【第37回】知られざる精密技術を持つ企業のルーツは山内一豊

株式会社ミロク

鉄砲鍛冶の息子が始めた地場産業
 
多くの人が普段全く接しない分野の事業の一つといっていいだろう。猟銃の製造をやっている企業が高知県にある。米国のブローニング製として出荷されるその猟銃は評判がすこぶるいい。聞けばその技術のルーツは山内一豊の時代に遡る。これを製造する(株)ミロクは、その技術を派生させ、工作機械や自動車の高級木製ハンドルの製造などにまで広げている。

日本の地場産業の中には特別な技術を持った会社が少なくないが、ミロクもその典型の一つ。しかし、そもそも高知になぜ鉄砲作りの技術が伝わったのか。同社社長の弥勒美彦はこう説明する。
「慶長6年(1601)、山内一豊が掛川から移封の際に、鉄砲鍛冶が同行し、この地に鉄砲を作る技術を伝えたといわれています」
 
同社の創業者、弥勒武吉はこのルーツを引いた鉄砲鍛冶の息子である。創業は1893年。猟銃の製造を始めた。また1934年から捕鯨砲の製造を開始した。戦後はGHQが猟銃の製造を禁止したため、捕鯨砲一本に絞った。折りしも安価な蛋白源としての鯨が注目され、捕鯨大国日本の一翼を担った。
 
当時、大洋漁業(現マルハ)の名砲手として知られた泉井守一が「ミロクの捕鯨砲はいい」とお墨付きをくれ、同社の技術力は大いに評価されたという。
 
ところが捕鯨はやがて衰退していく。幸い1951年、GHQが猟銃の製造を解禁したため、猟銃の製造を再開した。捕鯨砲で得た利益を工作機械の購入に充て、量産化が可能となった。そして事業は順調に推移し、1963年には大証2部に上場する。


高度な技術を結集させて作る猟銃の精密さ
 
同社の飛躍のきっかけとなったのが1966年の米ブローニング社との提携だった。この提携により、ライフル銃の受注が増加し、安定的な量産体制を確立していったのである。現在ではミロク製猟銃のほとんどがブローニング社へのOEM(相手先ブランドでの生産)供給である。
 
ところで銃の製造には、相当緻密な技術が要求される。例えば銃身は円柱形の金属の棒をガンドリルマシンという機械でくりぬいていく。棒が少しでも曲がると厚みが異なるし、バランスが崩れ使いものにならない。ただただ真っ直ぐにくりぬいていくというのは単純なようで大変な技術なのだ。
 
また手で持つ銃床の部分は、木を削り出して作る。これまた微妙な加工技術が必要とされる。
 
そして銃身と銃床をつなぐ本体部分(レシーバー)。これもインゴット(金属の固まり)から削り出して作る。溶接は基本的に行なわない。しかも、この部分には表面に飾り模様を入れる。この模様とて1ミリの間隔に20本の線を入れるという、まるでお札の模様を描くような精巧な技術なのだ。
 
そしてこの3つのパーツを一体にする。その時にピッタリと接合できなければモノがモノだけに大変な事故に繋がりかねない。しかも命中率の精度が要求される。緻密な技術を結集させて作るのが猟銃なのだ。


中小企業庁「元気なモノ作り企業300社」に選定
 
こうした同社の技術は、現在さまざまな事業として確立されている。
 
銃身をくりぬくためのガンドリルマシンは、例えば自動車のシャフト製造にも使われる。同社はこうしたニーズに応えてミロク機械を設立し、マシンの製造販売を行なっている。この市場は年間50~60億円の規模だが、シェア60%以上を占めている。高性能が評価されているのだ。
 
また、銃床の木を削りだす加工技術からは自動車のハンドルが生まれた。トヨタの高級車アヴァンテの木製ハンドルは同社製である。
「他社製は木を薄くベニヤ状にスライスして、それを張り合わせて作るが、ウチのは銃座と同じく、一つの木から削り出して作る。強度が全く違うのです(弥勒)」
 
同社の業績は2008年10月期で売上高152億2300万円、経常利益9億6700万円。前期より利益額は落ちたが、基本的に業績は安定している。
 
売上のシェアでみても猟銃事業が40%強、工作機械が27%、自動車関連が31%(残りはその他事業)と3つがバランスを保っているように見える。
しかし、世界的な傾向として銃社会に批判の目が向いているなか、同社にリスクはないのか。
「もちろん常にリスクはある」と弥勒は語る。「だからこそ第4の事業を開発したい」とも。しかし、「当社は90年ぐらいからいろいろな事業に手を出し、授業料もそれなりに払った(弥勒)」
 
第4の事業といってもあくまで慎重に自社の得意分野で勝負しようということである。地味であってもきらりと光るこういう地域の産業が増えてほしいものだ。
 
ミロクは2006年、中小企業庁が選定した「元気なモノ作り中小企業300社」に高知県から唯一選ばれた会社である。猟銃の製造技術が評価されてのことだ。
実際、同社の工場を見ると、モノ作りにかける意気込みが痛いほど感じられる。
 
ところで、取材の部屋に入ると、壁際に同社の製品が置かれていた。そこに、ゴルフのパターが一つ。聞くと、このパターもインゴットからの削り出しで作ったものだった。溶接は一切していない。記念の限定生産だそうだ。なるほど、技術を尊重する思想はこんなところにも生きている。

(2009・1・14)

【第35回】運命に翻弄された男が興した会社の倍々ゲーム成長

株式会社エヌ・ピー・シー

世界のアントレプレナーの日本代表
 
会社というものは、ほとんどの場合一人の力でどうにかなるようなものではないが、時に一人の人間の存在が会社の存在を左右するようなことが起こる。(株)エヌ・ピー・シー社長の隣良郎が会社を立ち上げた背景には、そんな運命のいたずらに翻弄されたかのような人生模様が見えてくる。だが、その話の前にエヌ・ピー・シーという会社について触れておこう。

エヌ・ピー・シーは太陽電池製造装置の会社である。同社の創業は92年だが、当初、同社は真空包装機を製造するメーカーだった。しかし、94年から太陽電池製造装置の事業を始め、現在に至っている。この数年、太陽電池の普及が急速に高まってきたこともあり、業績を順調に伸ばしている。
 
一昨年度(07年8月期)の売上高は66億円(前年比158%)、経常利益は7億9000万円(同132%)、08年8月期、つまり昨年度は売上高93億7300万円(前年比142%)、経常利益14億3100万円(同181%)である。この数年に限っていえば倍々ゲームのように業績を伸ばしてきた。そして、昨年は東証マザーズ市場に上場を果たした。
 
こうした業績と成長度を評価されてか、世界のアントレプレナーが集まって世界のトップを決める「アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー」2007年度の日本代表に選出されている。
 
こうした順風満帆といえる同社だが、その発足は冒頭に書いたように、運命のいたずらに弄ばれた結果の創業だった。
 
大阪大学工学部を卒業した隣は伊藤萬(その後イトマン、現住金物産)に入社した。ところが、入社9年目に会社がおかしくなった。世間を騒がせたイトマン事件の勃発である。ここでは詳しく述べないが、会社が莫大な損害を蒙り、ついには合併されるに至る。
 
隣は逡巡を重ねた上、仲間数人と一緒に日本ポリセロ工業という会社に入る。33歳だった。妻が妊娠していたこともあり、冒険はできなかった。
 
ところが、入社した日本ポリセロ工業も財務上、破綻寸前の会社だったのである。ここから、隣の人生は大きく変化していく。


負債1億2000万円を抱えて新会社設立
 
日本ポリセロ工業は真空包装機を製造する会社だった。技術の信頼性はあったが、倒産は必至だった
 
隣はいろいろ考えた末に、この会社の営業権と負債とを引き継いでエヌ・ピー・シーを設立する。入社僅か半年後のことだ。
「イトマンのときは港区の会社にいて接待は料亭に銀座のクラブ。しかし荒川区に来たら、居酒屋にスナックになった。でも。別に何も変わりはしないことに気付いた。その上職人さんたちと飲んで気持ちも楽になった。あの頃俺は何をあんなに一生懸命やっていたのだろうとね(隣)」
 
財務が破綻していることが分かった時に、隣は倒産したら職人さんたちが困ると考えたという。幾ばくかの勝算もあり、結局会社を興したわけだ。
「1億2000万円の負債がありました。これをいつ返せるかなんて考えると怖いので細かく計算しなかった(隣)」が、製品には定評があり、急に売れなくなるものではないことが分かっていたので、とにかく販売は現状をキープすることに全力を注いだ。全員で得意先を回った。競合他社に噂を立てられていたが「顔を出せば分かってくれる。一度で駄目なら何度でも顔を出したし、クレームの処理に行ってできなければまた次の日に出向く、とにかく顔を出すことに終始した(隣)」
 
そして、物を作る仕組みを変えていった。外注部分が多かった製造工程をすべて内製化し、これでコストが一気に削減した。
 
こうして、業績は見る間に回復し、借金もなくなった。


エコノミストよりも正確な市場予測を行なう
 
94年、ブリヂストンから奇妙な依頼が届いた。それは真空包装機を改造したものを作ってくれというものだった。いわれるがままに作ると、通常200万円で販売するものが500万円で売れた。
 
そのうちに各メーカーから立て続けに注文が来るにいたって、この装置が太陽光発電のパネルであり、この分野が有望であることに気付かされたのだ。
 
同社では改良を重ね、品質を高めていった。当時一番大きな市場だったアメリカにも売り込みに行く。ここでも評判がよかった。
これには理由がある。
「仕様にうるさい日本のメーカーにもまれていたこともあるでしょうし、それ以上に食品業界と付き合っていたことがよかったのでしょう(隣)」
 
真空パックは食品の最後の工程になる。デリケートな食品のパッケージの、最後の工程でトラブルは起こせない。そのため頑丈な製品を作っていたのである。さらにいえば、日本からの駐在員が日本と同じく、毎日のように顧客を回った。トラブルがあれば、すぐに飛んで行った。その対応がよかったのだ。対応のよさに日米の違いはない。
 
同社は当初パネル部分のラミネ―ターだけを製造していたが、この先この分野で伸びるためには、その前後の工程の装置も作らなければならないと考え、ついに主要4装置を作るメーカーへと成長したのである。
 
さて、同社が強い会社であることを知る一つの例が、自社での市場予測である。隣は、太陽電池の市場予測を必ず自社で行なっている。
「どんなアナリストのいうことも信じていない。だって太陽電池のメーカー150社のうち130社はうちの顧客。1社ごとに生産状況を把握しているので、それを積算すると、自ずと予測数値は出る(隣)」というのだ。
 
その予測では、市場規模は3年後に現在の約2倍となる。隣はその時点で同社のシェアを現在の42%から、60%に引き上げる目標だという。
 
ところで「会社を潰すリスクの8割は社長にある」というのが隣の持論である。
「環境が悪くて会社が潰れることはない。儲かりだすと、急に異業種交流会にでたり、焼き鳥を食べていたのがしゃぶしゃぶになる」
 
権力を履き違えるというのだ。だから、同社では2年前にほとんどの権限を部長クラスに委譲した。
 
そこで社長が取り組んだのは内部統制の強化。
「先頭にたってやっている。しかも決まりを作って仕事をしだしたら、さらに利益が上がってきた(隣)」
 
こんなリーダーがいる会社は強いに決まっている。

(2008・12・10)

【第34回】着メロを大ヒットさせた音楽科出身社長「成功」の法則

株式会社フェイス

超オタクが年商500億円の会社に成長
 
世の中には有名な事業の裏に、一般的には知られていない企業の存在がある。例えばおもちゃの世界でいえば、大ヒット商品「たまごっち」はバンダイの商品とだれもが思っているが、これを企画、製造したのは株式会社ウィズという会社である。

携帯電話のサービスにも似たような話がある。携帯電話の着メロサービスはNTTドコモが99年にスタートさせ、爆発的なヒットとなった。これは周知の事実だが、当時、このビジネスモデルを作り、裏でそれをプロデュースした会社があったことをわれわれは知らない。
 
その会社が京都に本社を持つフェイスである。東証1部上場の同社の2008年3月期の売上高は500億円、経常利益は17億円。経常利益が低く感じるが、同社はこの数年、海外など広範にビジネス展開をしているからで、それ以前は40~50億円台の経常利益を確保している。
 
同社は創業以来ずっと音楽の配信をビジネスとして行なってきた会社である。今でこそ、音楽のみならず動画、ゲームなどさまざまなコンテンツを配信しているが、同社の根源はあくまで音楽だ。
 
同社の歴史を紐解くと面白い。インターネットのずっと以前、まだパソコン通信といっていた時代の92年に現社長の平澤創がこの会社を創業した。そして、だれよりも早く音楽のダウンロード販売を始めた。94年にパソコン通信のニフティと音楽配信をスタートさせたのである。当時はパソコンを使う人自体が「オタク」と見られていた。その時に、パソコン通信を使って音楽を配信するなど「超オタク」の世界である。当時、だれが年商500億円の会社へと成長すると考えただろうか。
 
同社はその後、他社と組んで日本初のインターネット上でのカラオケサービスを提供したり、音源技術、音楽配信技術の実用化をして、99年に着メロをスタートさせるに至る。


普通なら1、2年かかるビジネスを数ヶ月で立ち上げた
「最初のパソコン通信時代は無謀なことをやっていた。自殺行為。今ならやらない」と創業社長の平澤創は語る。
 
ワンルームで社員3名、みんな20代で無茶ができたこともあったが、何より、これは将来、大きな波として来るだろうなと感じたのである。
 
ビジネスでの失敗もしたし、97年には、ある銀行の支店長が無担保で3000万円の融資をしてくれたことで、危うく倒産を免れたという経験もした。しかし、同社はこうした試練の中で重要な経験とノウハウを積んでいった。
同社の業績が急上昇に転じたのは2000年度から。これは99年に「着メロ」事業をスタートさせたからだが、この時、同社は他社のやらないことをやった。それは「着メロ」のビジネスモデルを作り、NTTドコモに提案をしたことだ。
「儲かりますから一緒にやりませんかと提案した(平澤)」と当時を振り返るが、ここに同社の戦略の根元があるのだ。
 
実は平澤は、この時一つのことに目を付けていた。それは、着メロの歌本が月間80万部も売れていたことだ。コードを携帯に入力すると着メロが聞けるようになる、コード集ブックである。これなら、ダウンロードした方が便利だ、と考えたのだ。
しかし、平澤が他と違ったのは、早くビジネスを立ち上げることに全身全霊を傾けたことだ。
「いち早く市場を創造するには、アライアンスしかない」と平澤は考え、半導体メーカー、携帯メーカー、業務用カラオケ通信会社など、プロを集めてビジネスモデルを構築したのだ。幸い誰も手をつけていない頃から、音楽配信事業を、手掛けていたという実績があり、このビジネスを立ち上げるためのすべてのノウハウを持っていた。フォーマットをどうするか、半導体に入れるための音のアルゴリズムはどうか、著作権料をどうするか。要はプロデューサーに徹したのである。
「数ヶ月でこのビジネスをスタートさせるのに必要なすべてのことをした。普通なら、1、2年はかかったはず」と平澤がいうとおり、苦しい時の経験とノウハウがすべて役に立った。このプロデューサーに徹するという姿勢が、成功を生み出したといっても過言ではない。


プロデューサーに徹して成功を収める
 
そもそも社長の平澤は大阪芸大の音楽科出身で、作曲やアレンジを学んでいた。学生時代は、まだメジャーでない頃の音楽事務所「ビーイング」でアルバイトをしていたが、卒業して任天堂に入り、ゲームの音楽作りなどを担当した。
 
しかし、どちらも自分とは合わず、だが音楽の道にはこだわって、結局フェイスを設立することになる。面白いのは作曲やアレンジと、今の仕事には大きな共通点があるということだ。どちらの仕事も一言でいえば、プロデュース業。
 
平澤には、そういう天賦の才があったのだろう。
同社の事業はこうしたアライアンス戦略で伸びてきたが、その中で唯一異色なのは、傘下のウェブマネーである。
 
同社がウェブマネー社を買収したのは、2003年。赤字だったウェブマネーを2年後に黒字化し、2007年にジャスダックネオ市場に上場させた。
 
ウェブマネーとは、ネット上で決済するための手段で、一定の金額分をコンビニなどで口座に入れておけば、ネット上でモノが買え、サービスが受けられる。他の決済手段と違い、個人情報が開示されないので顧客にとっても安心感があるわけだ。
 
同社がネット上でさまざまなコンテンツのサービスを展開していく上で、「課金」は重要な位置づけを持っていたはずだ。もともとゲーム分野に強い会社だったので、「顧客先が同じで、システムも共通化できた(平澤)」ことがますますメリットを拡大していくだろう。
 
また、フェイスは海外展開を数年前から積極的に行なっている。
 
2002年、東証1部へ上場したのと同時期に、サンフランシスコに現地法人を設立。その後、フランス、中国、シンガポール、韓国などで、さまざまなビジネスを展開している。
 
すべてが上手くいったわけではないが、その都度、事業再編なども織り交ぜながら、海外での活動に勢力を傾けているのは確かだ。
「アジアでいえば、ベトナムとインドに注目している。特にベトナムはいろいろな産業が伸びてきており、面白い拠点になる可能性がある」と平澤がいうように、さらに海外での事業展開を進めていくのだろう。
 
このビジネスはもとより国境のないビジネスなのだから。

(2008・11・25)

【第33回】独自の「14(エクシブ)」方式で業績を拡大させるリゾート会社の戦略

リゾートトラスト株式会社

業績は常に増収増益
 
アメリカ発の金融ショックが全世界を駆け巡るなか、不安要素も多いが、日本では近年会員制のリゾートホテルが業績を伸ばしてきた。団塊の世代が2007年から定年を迎え、リゾート市場がさらに拡大していくなか、会員制リゾートホテルの開発・販売でトップを行くリゾートトラスト(株)の業績は近年急拡大した。今後のことはともかく、同社はどのような戦略で業績を伸張させてきたのか。

そのヒントをリゾートトラスト社長の伊藤勝康は06年11月に開業した高級リゾート「エクシブ京都八瀬離宮」のデータを見ながら答えてくれた。社長自ら驚いていたのが、その販売の傾向だ。なんと一番高い部屋の販売率が90%にも達していたのだ。
「やっぱりね。高い所から売れるんです(伊藤)」
 
一部屋を14人で所有するのがこの会員制の仕組みだから、実際の会員数は部屋数×14という数字になる。それでなお高い物件が90%も売れているというのだ。ちなみに高い所の価格帯とは3000万円前後(年26泊の権利)もするのだ。しかも、この「エクシブ京都八瀬離宮」は敷地約4万�という広大なもの。同業他社のみならず、京都に進出したい外資系ホテルなどからも羨ましがられる立地とスペースである。
 
業績も年々増収増益を重ね、07年度は売上高1047億0800万円(前年比107%)、経常利益142億4000万円(同103%)と好調そのものである。
 
同社の創業は1973年に遡る。田中角栄首相(当時)の日本列島改造論がもてはやされた頃だ。
「当時はホテルやリゾートといってもいいものがなかった。地方は特にそうだった(伊藤)」
売上は好調だったが、2年後にオイルショックが襲った。
「キャンセルが相つぎ、潰れる寸前までいった(伊藤)」が、大手商社やゼネコンなどに助けられ、漸く凌いだ。
 
ところで、40代以上がリゾートと聞いて思い出すのがバブル景気である。日本中で数多くのリゾート開発が行なわれ、そして多くが不良債権と化した。その時、リゾートトラストはどうだったのか。痛みはしなかったのか。その問いに、伊藤は「オイルショックを経験していましてね、予感のようなものがあったのです」と静かに答えた。大量の仕込みもせず、急激な拡大路線とは無縁だった。それでも当時開発した山中湖や白浜(和歌山県)はコストが異常にかかったという。


大都市から2時間程度の場所にリゾートを造る
 
同社の開発に勢いが出たのは2000年以降だという。その契機となったのが、熱海市の沖合いの島「エクシブ初島クラブ」だ。バブル時に日本海洋計画(株)が開発し、この倒産により長銀の破綻にも大きな影響を与えたといわれる案件だったが、リゾートトラストが買い取り、見事に再生させた。この種の物件が全国にあり、同社は開発を加速させることができたのである。
 
ところで、同社のリゾートは多くが大都市から2時間程度の場所である。
「30年前は5~6時間かけていくのがリゾートという感覚がありましたが、今は近い方がいいようです」と伊藤はいう。
確かに昔と今とではお客のライフスタイルも感覚もまったく違ってきているわけだから、その変化に対応するのは当たり前の話だが、実は同社ほどそれを忠実に行なっている会社はない。それは、常にお客のニーズを聞き、そこから商品開発を行なっているという点だ。
 
リゾートトラストは創業して10年で業界トップになった。営業力が強かった。当時、大京観光の辣腕部長を引き抜き、電話営業で契約を進めていった。見学を勧め、見に来てくれたお客は契約をしてくれた。
 
ところが当時の会員制のシステムは早い者勝ちの予約制。当然、お客が集中する季節は、予約が取れないお客から不満が噴出した。クレームの嵐。営業はただただ逃げ回った。
 
予約の方法にも営業方法にも問題があると分かった伊藤は、その両方を変えた。
 
特にお客の要望をきちんと聞くようになった。次はどこに行きたいか。部屋のサイズはどれくらいがいいか-----。これを次の開発につなげた。
 
予約方法についても、何故この方法がダメかを全従業員から聞いた。その結果生まれたのが、一部屋を14人で共有するタイムシェア方式だ。ちなみにエクシブとは14という意味である。日本の休日を考え、2泊3日で春夏秋冬、連休などもみんなが共有できるのは、14人で26泊だと考えたのだ。


周囲が考える以上に堅実な会社
 
同社は「5年後に利益を250億~350億円くらいに持っていきたい(伊藤)」と考えている。もちろん様々な戦略が既に始動している。
 
東京ミッドタウンにオープンした「東京ミッドタウンメディカルセンター」は米ジョンズホプキンス大学との提携事業で、高級診療施設である。
 
会員の高齢化、新たな団塊の世代の参入などを考えれば当然の事業だ。
「シニアアパートメントを医療施設などと一緒にやっていくし、ホテルがあればいざというときの介護サービスが必要になってきます」と伊藤はいう。
 
それだけではない。港区台場で始めたような都市型のアーバンリゾートも戦略の一つだし、「通常のホテル業務も今後はやっていきたい(伊藤)」という。「例えばバリでは200室のホテルを50億円で買うことができる。同じサイズを日本で造ろうとすると220億~230億円くらいかかる。部屋の料金は変わらない(伊藤)」とすれば、充分にビジネスになると踏んでいる。伊藤の頭の中には次なる開発の構想が山のように入っている。
 
心配は、冒頭にも書いた経済状況の不安定さである。ただし、リゾートトラストは拡大型路線の会社ではない。周囲が考える以上に着実、堅実な会社なのだ。
「リゾート開発は資金計画が一番大切(伊藤)」という言葉にそれが象徴されている。
 
堅実なのは名古屋人だからか、と振ると、はにかみながら「そうかもしれません」と伊藤は答えた。その伊藤が中期5カ年計画で「利益を急速に伸ばす(伊藤)」拡大路線に転じる。都市部のシニアアパートメント、地方での展開、エクシブシリーズの大型化、アーバンリゾートの開発、そしてメディカル事業など戦略的事業の案件も目白押しである。
 
これを完遂させるのに重要なポイントは、一にも二にも人材の育成だろう。そう聞くと伊藤も力強く肯いた。

(2008・10・15)

【第32回】辛抱を重ねて人気サイトを立ち上げた広告代理店の先見

株式会社ぐるなび

手間暇かかるし、カネもかかる

「ぐるなび」と聞けば、インターネットを利用している人にとっては近しいサイトのひとつである。「レストランや居酒屋のガイド」をしてくれる。会合場所の案内代わりに、メールで「ぐるなび」の(その店の)アドレスが送られてくるから便利だ。
しかし、こんなにわかりやすいサイトだからこそ、時間もカネもかかる。これを成功させるということは、実は大変なことなのである。

そもそもメディアの立ち上げには、カネも時間もかかる。雑誌の創刊なら何億円も宣伝費をかけて、ようやくそこそこ売れる程度。テレビだってWOWWOWやスカパーは苦労の末、ようやく軌道に乗った。ネットも然り。無数のサイトの中から注目されるのは大変だ。どのメディアも売上げの低空飛行が続き、何年か後に、ようやく日の目を見る。さもなくば消える。これがメディアの世界だ。
 
さて一方、飲食店の紹介サイトなんて、誰でも考えることができる。簡単そうに見える。ところがこういうサイトを作ろうと思うと、大変に手間がかかるのだ。お店に営業に行き、一店一店増やしていく、いわゆるどぶ板営業をしなければならないからである。僅かの料金しか取らないのに、である。
 
また、認知度を上げるのも大変だ。紹介されているお店の数がまとまっている必要がある。しかも万遍なくどのジャンルの料理も網羅していないと使い勝手が悪い。大変なカネと時間をかけて、このサイトは成長したのだ。なんといっても実績がその成長を物語る。有料で紹介している店の件数は約43,400店(2008年9月末)であり、2005年4月には大証ヘラクレス市場に上場を果たしている。


交通広告を端末に置き換えてスタート
 
このような手間ひまをなぜかけることができたのか。社長の久保征一郎の答えは簡単だが興味深いものだった。そもそもこの事業がスタートしたのは、20年前に遡る。交通広告の代理店である(親会社の)NKBの一事業部だった。
「社長の滝(⑭ぐるなび会長)が20年ほど前に、立て看板などの交通広告からの脱却を目指して、コンピュータと通信を融合した情報発信を始めたのです(久保)」
 
当時は駅に端末を置き、不動産広告や地域のお店紹介を乗降客に提供していた。まだ、パソコンが会社にもそれほど普及していない頃の話だ。システムを自前で作り、カネがかかる分、必死になってコストダウンに努めた。幸いにも端末は使われていた。飲食店の紹介も500社に及んだ。もちろん順風満帆だったわけではない。「役員会でもやめる話も出たようだった。会社が一定の利益を出していたし、何よりオーナーの強い意志があった(久保)」から続いたのだろう。
 
インターネットを通じて、このお店紹介事業をスタートしたのは96年6月。
「会社のモノだったパソコンが、インターネットに繋がることによって生活情報を発信する、つまり家庭のモノになったのです(久保)」
 
インターネットで配信することによって、コストがそれまでより飛躍的に下がったのもよかった。がんばれる素地ができた。
「最初は付き合いのあった500店を載せてスタートしました。当時の利用料は月3000円。利益が薄いためNKB本体の営業は動かせないので、まったく別の成功報酬型給与の別部隊を作り、営業しました」と久保は述解する。
 
できるだけ高級店から営業した。料飲組合などと積極的に提携もした。こうした組合やお店のホームページの受託もした。僅か500店の紹介でも、それだけ載せているサイトはなかった。先行者としてのメリットを享受したのだ。


外食は24兆円市場、伸びる余地は十分
 
2001年に潮目が変わった。
 
ぐるなびの店が1万店を越えたのだ。ここから同社の成長が本格化した
 
営業も、単純な加盟店という形から会員制に変えた。投資をして、サイトの中身も大幅に変えた。新たに加盟店管理画面という方式に変更した。これによって、お店は自分で紹介の内容を変更できることになった。お店にとっては紹介する上での自由度が高まり、同社にとっては手間(とコスト)が省けた。
 
ぐるなびは前年の2000年にNKBから分社し、独立していた。駅につながりがあったことから電鉄各社にも資本を引き受けてもらい、資本金は充実した。これで、前述のような投資ができるようになったのだ。同社の2008年3月期の売上高は156億200万円、経常利益は27億4200万円と堅調である。当面の目標は加盟店10万店である。
「800~1000店で始めましたが、まだまだ満足度を上げられるような数ではない(久保)」
 
結局どれだけ加盟店を増やしていけるかで、この事業は決まるのだろう。久保が10万店を目指すのは至極当然といえようか。しかし、この種のサイトは加盟店の継続率が重要だ。かりに1割落ちると3200店以上集めないと、成長にはならない計算だ。
「通常の外食産業の規模は24兆円といわれています。1%でも2400億円でしょ」
 
現在の156億円は僅かだと、いいたいのだろう。

(2008・9・30)

【第31回】家業を発展させる新事業で上場した3代目社長の起業家精神

株式会社ビットアイル

パソコンオタクの目に留まったビジネスチャンス
 
家業の倉庫業を継いだ男が、その倉庫を使って新たなビジネスを展開した。その新事業はインターネットのデータセンターである。このために新会社を作り、やがてその会社を上場へと導いた。
 
そもそもデータセンターとは何か。インターネット通信を行なう場合、すべての情報は「サーバー」を経由して届けられる。では、このサーバーはどこにあるのか。それはデータセンターという第三者の場所に置かれているケースが圧倒的に多い。

今から遡ること9年ほど前の話である。三菱商事を辞め、家業である寺田倉庫に入社していた寺田航平(現ビットアイル社長)の許に、外資系の通信会社9社がある提案を持って訪れた。
倉庫会社に何の提案かという思いの寺田倉庫に、彼らは倉庫を利用したデータセンター事業をプレゼンしたのである。
 
これに敏感に反応したのが、寺田だった。小学生の頃から筋金入りの「ウルトラ・パソコンオタク」だった寺田の目には、これはビジネスチャンスに映ったのだろう。システムは一度始めたら止めることが出来ない。しかも情報量が増えれば増えるほど、サーバーにかかる負担は大きくなる一方である。それにしても、この運用コストが高すぎる。これはおかしい、と寺田は考えた。そして、より安価に運用できる仕組みを作ればこれはビジネスモデルとしてうまくいくと。
 
そして、2000年6月にビットアイルを設立した。素早い取り組みだった。


コストの安さが決め手となった
 
データセンター事業というのはカネのかかる事業である。膨大なスペースと、それに応じて費用がかかる。仮にスペースがあっても、顧客がいなければスペースは埋まらず、いたずらに費用の垂れ流しとなる。だからというわけではないが、当時こうした事業は大手通信事業者の二次的な事業だったのである。大手ならその無駄をカバーできる資本力があったからだ。
「そもそもデータセンターは固定費が高いビジネスですが、大手は安全性を重視する余り、過剰なリスク回避を行なっていた。われわれは、カネがないから(笑)、20項目にわたって、細かくコストカットを行なった」
 
それが、価格の差になった。
 
さらに言えば、寺田には地の利があった。それは株主の寺田倉庫自体が倉庫業を営んでいたことである。親会社と交渉し、たまたま移転が決まっていた倉庫の跡スペースを顧客数の増大に応じて1床ずつ借りていった。これでコストを抑えることができた。だが、営業自体は相当苦しんだ。
「営業に行くと相手が聞いて来る。『やはりNTTのほうが安心じゃないか』と(寺田)」。そのため当初2年間は、社長プラス3人の営業4人で、ベンチャー企業、中小企業をこまめに歩き実績を積み重ねていった。そしてコストの安さが決め手となって徐々に信頼されるようになってきた。
 
同社の業績は06年の大証ヘラクレス上場以降も順調で、07年7月期の売上高は52億600万円(前年比47.5%増)、経常利益7億6300万円(同49.6%増)。08年7月期の見込みは売上高72億9800万円、経常利益11億円とさらに40%以上もの成長を示している。
 
それにしても、なぜこれだけの成長が可能だったのか。
「安売りをしているわけではない。サーバーを預かるだけでなく、回線の接続、サーバーのレンタルなど、付加価値を付けていく(寺田)」
 
こうした、提案力の差が大きいと言うのである。さらに寺田は続ける。
「データセンターを利用するベンチャーは企業として、初期の段階は終わっているところです。そういう客は、さらにスペースを増やしていく」
 
データセンターを利用する客は、いわゆるB to Cの客である。彼らのビジネスが拡大すれば、データ量は増える。すなわち、データセンターの利用も拡大するというわけだ。実際、同社の売上げの50%を占めるのは、こうした既存客の増床による。新規客の獲得プラス、既存客の増床。年率40%もの成長も頷けよう。


業界予測のさらに3倍は伸びる
 
このデータセンター事業は現在7000億円市場である。予測ではさらに14%成長が見込まれている。しかし寺田はそんなものではないと考えている。現実に中期計画でも40%もの成長をうたっている。
「着メロが着うたに変わるとデータ量は12倍に増える。ゲーム機は対戦型になってますますデータのやりとりが増える(寺田)」
 
こうしたデータ量は、これからますます増大していくと言うのである。さらに、同社はサービスの幅を広げていくことで、新たな売上げと利益の拡大を見込んでいる。電子商取引を一括で行なえるようなサービス、また、セキュリティを徹底して行なうサービスなどである。当然、設備投資が重要なファクターとなる。同社は現在3つのデータセンターを有しているが、09年中を目標に第4センターの建設を発表している。投資額は70億円。自己資金21億円で借り入れは49億円。
「大体2年に1センターを作るペースです。この次の第5センターになると自己資金でまかなえるようになるのではないか(寺田)」
 
自信と気迫とを同時に覗かせる寺田の顔が、ほころんだ。ところで、寺田が寺田倉庫に入社した時の心境を聞くと正直に答えたものだ。
「どちらかといえば、継がなきゃいけないのかという気持ちが強かった」と。寺田は37歳と若いが、2代目にありがちな格好を付けるところがない。むしろ泥臭ささえ見せる。これが寺田の強みなのだろう。
 
何故起業したのかと聞くといみじくもこう答えた。
「祖父は倉庫業を興した。父はトランクルームやデータ倉庫としてそれを伸ばしていった。自分にもそういうDNAがあるのではないか」と。私にはそれが決意に見えた。

(2008・9・2)

【第30回】伝説の大ヒットを生み出した理論派創業社長の感性と遊び心

株式会社ウィズ

2005年には上場を果たした
 
世界で最も権威があるといわれるオックスフォード英語辞典を紐解くと「tamagotchi」の文字を見つけることができる。
そう、「たまごっち」である。「たまごっち」が世に出たのは1996年。当時20万台も売れれば大ヒットだったおもちゃの世界でなんと国内2000万台、海外2000万台の計4000万台を売り上げ、社会現象を引き起こしたのだから、権威ある英語辞典に掲載されて当然かもしれない。それほど世界に対してインパクトがあったのだ。

私もよく覚えている。ヒット当時、ダイエーの創業者である故・中内 功(実際は作りは力でなく刀)と立ち話をしていたら、ふと中内さんが漏らした。
「孫にたまごっちを頼まれちゃってねぇ」
 
どこも売り切れで品物すら入ってこない状態だったのだ。
ところで、「たまごっち」はバンダイが販売を担当していたこともあり、作ったのが株式会社ウィズであることを知る人は少ない。
おもちゃの世界には伝説的な大ヒットがある。「だっこちゃん」、「ルービックキューブ」、「オセロ」・・・。こうした大ヒットに憧れてバンダイに入社した男が、ウィズの創業者で社長の横井昭裕である。横井はバンダイに10年いた後に独立し、同社を設立した。それからさらに10年後、横井は伝説的な大ヒットを生み出した。それが「たまごっち」というわけである。
 
同社のヒットは「たまごっち」だけではない。96年にはたまごっちの男の子版の意味合いで作った「デジタルモンスター」が人気を博し、99年にはテレビのアニメとなって大ブレイクした。また2000年にはおしゃべりするぬいぐるみの「プリモプエル」がヒット。独身OLがターゲットだったが、60代~70代の高齢者にまで受け入れられた。そしてJASDAQに上場した2005年以降のヒットが「ふたりはプリキュア」シリーズだ。


ウィズを支えるヒットの法則
 
横井は大学を出て、おもちゃの企画開発をやりたくて、1976年に(株)バンダイに入社した。バンダイではさまざまな壁にぶつかったが、それが結果的に横井を独立の道へと導くことになる。
「バンダイはキャラクターが開発の中心です。だから企画者はガンダムならガンダムというキャラクターの枠内で商品を作っていかねばならない。つまり、それから外れたものを作ろうと思ったらバンダイでは無理なのです。でも僕は遊びというのは子供だけのものじゃないと思っていますから、もっと広く提案したかった(横井)」
 
だが、独立して企画会社を設立して、また壁にぶつかった。
「日本にはロイヤリティーを払うという習慣がないんです。企画が採用になっても一本いくらで買われてお終い。つくづく製造までやらなければダメだと思った」と横井は語る。
 
この横井の言葉にはさらに大きな意味がある。
「製造工程であるとか、素材とかを分かっていることがどれほど重要か。だから製造まで落とし込む力がないと企画というのは単なるアイディアでしかないんです(横井)」
 
だからリスクをとって企画開発と製造を自社でやっていった。
 
この思いがなければ「たまごっち」のヒットも自社に利益をもたらさなかっただろう。横井にいわせると、「ヒット商品には7割くらいまでは方程式が当てはまる」のだ。
 
一つが「マイナーメジャーの法則」。ヒット作にはマイナーな要素が30%とメジャーの要素が70%必要だというのだ。横井によると、「たまごっち」もゼロから生まれたのではない。
「当時ゲームウォッチという小さな液晶ゲームが流行っていた。そしてパソコン向けのゲームで『アクアゾーン』という魚を育てるゲームがマイナーなブームになっていた。これを組み合わせたのです(横井)」
 
もう一つは「螺旋の法則」。流行は螺旋形でやってくるというものだ。例えばヒットした商品はまた何年か後に再ヒットするがその形が変わっているというのだ。螺旋形だと一周するとそこに差ができる。その差こそが重要なファクターで、つまり昔ヒットしたものは形を変えてヒットするということなのだ。


毎日150本の企画を3ヵ月出させた
 
ところで、この種の会社は大ヒットが出れば出るほど、不安定な要素を内包することになる。その大ヒットに安心してあぐらをかいたり、凄い会社になったと勘違いしてしまったり・・・。
 
これについて横井は「『たまごっち』のヒットは年末ジャンボ宝くじがまとめて40本当たったくらいにしか考えなかった」という。つまりラッキーだったが次のチャンスを貰った、と考えたのだ。実際にその後のヒットが横井の考えを証明した。
 
ところで(株)ウィズの業績を見ると不安定さが目立つのは否めない。例えば売上げは2003年5月期が40億1900万円だったのに対して、翌年は30億4300万円と下がり、06年には76億9300万円と盛り返すが、07年3月期は45億900万円となっている。
 
一言でいえば波があるのだ。この種の会社に付き物の要素といってしまえばそれまでだが、上場企業としてはそうもいっていられない。
「安定的に経営するためには、まず大ヒットした商品を定番商品に育てることです。ディズニーやキティ、ガンダムのように二世代にわたって支持されるものを育てていく(横井)」
 
そういう方法でそれを実行するのか。例えば、映画に拡げる。2007年12月「たまごっち」が映画化され話題になったが、これは横井のいう世代の広げ方なのだろう。また2007年には、5月から3カ月にわたって、企画の人間には1日3本の企画提出を命じた。約50人だから毎日150本である。
 
さらに、昨年は超プロデューサー級の人材を入社させた。業務提携や資本提携も活発に行なった。体制を万全にして今後への基盤が確立し、あとは次のヒットを出すだけだ。
ところで、社長の横井は今でも自ら企画を出している。今さら企画を出すのは嫌じゃないですかと問うと、「まだまだプロとしては自分が上」と自負を垣間見せた。
 
しかし、時代はどんどん変わっているから若い人の感覚は大事にしているとも。社員が絶対にやりたいといってきたものはやらせてやりたいのだそうだ。
そんな横井の社長室は大変にユニークだ。フクロウが2匹いる。ジム顔負けのトレーニングマシンが揃っている。この部屋で体を鍛えているのだそうだ。
WiiやNintendoDSのヒットを見て「ああいうのをやりたかった。デジタルとアナログの融合です」と、無邪気に笑う横井。その考えを社員が受け継いでいけば同社の今後はさらに明るい。

(2008・8・19)

【第29回】愚直に自らの理論を展開して、金鉱山会社を経営する男の魅力

株式会社ジパング

1400億円相当の金山を持つ金鉱山会社があった!
 
金価格が世界的に高騰していることは、一般的に知られた事実である。データで見れば一目瞭然で、2001年に1トロイオンス=271.05ドル(1g=1105円)したものが、04年には同409.35ドル(同1472円)となり、07年には同695.91ドル(同2659円)と2.5倍以上の高騰ぶりだ。現在はさらに上昇し、3000円を突破している。

ところが、こうした金を実際に採掘し生産をしている日本のベンチャー企業があるのはほとんど知られていない。株式会社ジパングが、その社名である。ジパングはアメリカの金生産の8割を占めるネバダ州に、フロリダキャニオンとスタンダードという2つの金鉱山を持ち、金の生産をしている。
 
ちなみに、日本の金鉱山会社といえば住友金属鉱山や中外鉱業などが有名だが、ジパングは戦後日本で設立された唯一の金鉱山会社である。
 
さて、金鉱山の価値を評価するには2つの数値がある。埋蔵鉱量(リソース)と可採粗鉱量(リザーブ)の2つだ。埋蔵鉱量というのは、鉱床の存在が予想される範囲での鉱石の質量とその中に含まれるだろう金の質量のこと。つまり、鉱山にどれくらいの量の金が眠っているか、その可能性を数値化したものと考えればいい。これに対して、可採粗鉱量というのは埋蔵鉱量のうち、経済性をもって回収可能な鉱石の質量とその中に含まれると評価される金の質量のこと。つまり、より具体的な価値というわけで、いずれも第三者機関が算定する。
 
同社の2つの金鉱山の可採粗鉱量は、2007年12月現在で155万オンスとされる。1オンス=900ドルで計算すると、約1400億円に相当する。同社がこの鉱山を買収した2005年11月当時の算定額は約450億円相当だったから、まさに金価格上昇とともに鉱山の価値も上がったことになる。


2009年度から2つ目の金鉱山が本格稼動

「1オンス420ドルの時にこの鉱山を16億円で買収しました。当時、私の理論では660ドルになると予測していた。でも結局は運がよかった」と同社社長の松藤民輔は言う。現在の金価格は900ドルを越えているから、運がいいは謙遜にも聞こえるが、いずれにしても予測以上の結果が出ているわけだ。
 
同社が持つ金鉱山2つのうち、現在稼動しているのはフロリダキャニオンのみである。スタンダードは認可の手続きが遅れ、「早ければこの秋に採掘許可が下りる(松藤)」と言う。現在同社の売上は2008年3月期で、38億6400万円、経常損失が9億2300万円となっている。もっとも特別利益があるため、2008年3月期は5億8100万円の純利益が計上されている。
「昨年度は当局より、フロリダキャニオンで掘った鉱区を通常よりも短いサイクルで埋め戻せという指導があった。そのため生産量が対前年で3分の2に落ち込んだし、その分の経費もかかった」と松藤は説明する。今期はそれがない分生産量は上がるし、もしスタンダード鉱山が本格的に操業され始めたら、売上高も利益も相当な伸びが予想されるわけだ。金鉱山のオペレーションに関しても、アメリカ人に任せていたのを日本人によるオペレーションに変え、より効率的な運営を目指しているという。
 
ちなみに、2009年3月期は売上高48億3900万円、特別利益等が計上される関係で、純利益は64億6400万円と予測している。


M&A戦略で年間50万オンスの金生産を目指す

「2009年度以降、年間50万オンス生産を目指す」と松藤は言う。とてつもない目標額のように見える。もしその言葉が実現されるとなると、仮に1オンス900ドル、1ドル107円の計算で、年間481億5000万円もの売上を計上することになる。どのようにして、それだけの生産を行なっていくのか。
 
実は、同社は金鉱山を自社で運営する以前には、金鉱山会社への投資を主事業として行なっていた。つまり、世界各地の金鉱山の情報を持っているわけだ。どの金山にはどれだけの埋蔵鉱量があり、どれだけの可採粗鉱量があるか、どの山がフェアバリューよりも低く評価されているか。そういった情報が集まっているのだ。
 
松藤によると、世界各地には割安に放置された金山や鉱山会社がまだまだあると
言う。その金山や鉱山会社をM&Aしていくというのが同社の戦略だ。M&Aの資金を調達する一つの方法として株式の流動化が必要となってくるが、同社は今年の秋に合併を控えており、その暁にはグリーンシート銘柄として登録されるという。こうした戦略により、年間50万オンス戦略は進んでいくという。
 
実は、同社社長の松藤は知る人ぞ知る有名人である。日興證券を皮切りに、外資の証券会社を渡り歩いた年収2億円プレイヤーだった。それを辞めて自分の会社を作った。以前には、歴史ある英『エコノミスト』誌に紹介された事もある。
著書も多い。最近も講談社から出された本がベストセラーになっている。講演会を開くと、たくさんの人が押しかける。松藤の話に魅力があるからだろう。
 
確かに、この時代に金山を買って金を掘ろうなんて人は、いない。それだけでも何やらロマンを感じるが、当の松藤は自らの理論に忠実なだけなのだろう。株の時代は終わった。これからは金の時代だと言って、ジパングという名前の会社を作ったその時から、10数年が経つが話の中身にブレはない。
 
魅力的な社長が作ったおもろい会社である

(2008・7・30)

【第28回】再建途上のホテルを任された総支配人の宿泊客への心憎いもてなし

仙台国際ホテル株式会社

出張で仙台に行った。宿泊は仙台国際ホテルだった。仙台にはいくつかのホテルがあるが、たいてい便利さを重視して駅に直結するメトロポリタンに泊まることが多い。今度の場合は駅から徒歩5分というふれこみだったが、歩くと10分弱かかった。きちんとした都市ホテルだったが正直にいってあまり期待してはいなかった。

ところが大変面白いサプライズに出会えたのだ。
 
それはこのホテルの総支配人が自らの手で書いた「総支配人が御案内する 杜の都の食べ歩き」と題するA4判の冊子である。ひっそりと目立たないように引き出しの中に入っていたのですぐには気づかなかったが、旅先でも原稿を書く必要からモバイルのセットなどで何度も引き出しを開けたり閉めたりしているうちにそれが目に留まった。パソコンのワープロソフトで打ち出した用紙を簡易ファイルで綴じた何の変哲もない地味な代物だったので、よくあるお勧めの店情報だろうととりたてて期待はしなかった。ところがパラパラとめくってみると思いがけない面白さに気がついた。総支配人がその小冊子の全部の内容について、自分の言葉で書き記していた。冒頭の「ごあいさつ」はこうだ。引用させてもらう。

(前略...)最近、お客様から「どこか地元の美味しいお店ないですか?」といった問い合わせを受けることが多くなりました。(...中略...)思い悩んだ末、私が普段ローテーションで通いこんでいるお店。今後のことを含め、店主とのコミュニケーションが取れるお店の中から、御紹介させていただくことといたしました。(...後略)。

 
読み進めていくと、章立てがあり「私がこよなく愛するお店」、「予算が気になるときに便利なお店」、「番外編」と3つに分かれてた。
一章の「私がこよなく愛するお店」では10店舗が紹介されている。どれも自分の経験と店主との会話から得た情報とが満載で、ジャンルも和食、鮨、創作料理、ワインバー、フレンチから女性のいるサロンまで、思わず行ってみたくなる店ばかりだ。
そのなかでトップに紹介されている『萬味高橋』の内容を引用させてもらおう。

――親方は京都『萬亀楼』を皮切りに、サントリーに入社、ロンドン、シンガポール、オーストラリア、サンパウロ等の店を回り、仙台にたどり着いた。手間をかけ、旬の素材そのものの旨みを生かした料理の数々、無駄な飾りつけはしない。いたってシンプルな引き算の料理は芸術的でもある。筍の木の芽味噌焼き、甘鯛の昆布締め、鮑のやわらか煮(...中略...)締めの鯛茶漬けは出色のでき、初めての方はぜひリクエストしてほしい。等々。文末にはご予算の目安としてお酒込みの値段が書かれている。──

 
こんな調子で全編レポートされている。書くだけでも大変な労力であるのに加え、行間から書き手の経験がにじみ出ている。これだけの中身のものを書くには、相当通い詰めていなければできないところが凄い。
 
全部で紹介件数は24店。うれしかったのは、私が唯一毎回のように行く牛タンの店が、これに紹介されていたことである。
 
出張に行くと、困るのがどこで食べるかだ。特に一人の場合、知っていればよいが、ほとんどが行き当たりばったり。だから、こういう懇切丁寧な店の紹介はほっとするし、ひいてはこのホテルのファンになろうというものだ。
 
そういう点を全部この総支配人はわきまえているのだろう。ただ、それにしてもこんな情報を客に提供できる人なんて、なかなかいない。この冊子を引き出しの中に目立たず入れてあるところなど心憎いばかりの演出である。人の度量とはこういうところから判断するものだ。
 
 
ホテルという商売はつくづく大変な商売だと思う。客はわがままだし、その客を宿泊部門と料飲部門、そしてブライダルなどのイベントでもてなすのが仕事である。客はサービスされて当たり前。ちょっとでも不都合、不快の事態があれば、すぐさまフロントやスタッフに文句を言う。ホテル激戦区ともなれば、その争いは客にいろいろなベネフィットを供与することでさらにエスカレートしていく。
 
ところで、仙台国際ホテルは現在、東武鉄道グループの傘下にある。同社は1989年、地元の交通会社が中心となって、当時としては東北有数規模の都市型ホテルとして開業したが、不動産、建築費等が高騰している時期に立てられており、しかもその後のバブル崩壊があって、コストを吸収できなかったのだろう。それでも売上高はピーク時に46億円あったものが、06年3月期には26億6000万円に落ち込んだ。大幅な債務超過状態で、貸付金などの債権の大半を保有していた東武鉄道が債権放棄をしたうえで、旧会社を2007年1月に解散し、100%出資の新会社として再出発した。
 
このホテルの総支配人は野口育男氏という。新聞記事によると(河北新報08年4月7日付夕刊)、そもそも学生時代に食通を気取る友人から馬鹿にされたことで一念発起し、フレンチレストランを食べ歩いたそうだ。東武鉄道に入社し、ホテル部門に配属された後もそれを続け、本場パリにまで足を延ばしたという。
 
この人が債権請負人の大役を任されて、07年2月に総支配人になったわけだ。そんな背景を持つ人ならではのホテル経営は、また一味も二味も違うのではないか。何より、ここで紹介した「総支配人が御案内する 杜の都の食べ歩き」が、それを示している。
 
実は、2010年ウェスティンホテルが、このホテルの目の前にオープンする。でもこんな総支配人のいるホテルなら、きっと大手外資に伍してやっていくに違いない。

(2008・7・16)

【第27回】20万円超のオーダースーツを7万5000円で作るというビジネスの謎

株式会社モンテビアンコ

面白いビジネスを見つけた。と言っても目新しい商売ではないかもしれない。スーツの仕立て屋さんである。イタリアの超高級ブランド、エルメネジルド・ゼニアの生地でスーツを作る。値段は超安い。僅か7万5000円である。もちろん、既製服で間に合わせている人にとっては、この値段は高いと感じられる方も多いだろう。これはあくまで仕立てであり、超高級ブランドの生地を使うというところにみそがある。

これで仕立てないか、と勧められたのである。ゼニアのスーツを同じ方法で仕立てると30万円以上はする。それが7万5000円というのは確かに安い。聞くと有名人もその店で仕立てているそうな。ほんまかいな、と思わなくもなかったが、友人のKさんが紹介してくれたことだし、まあ、心配する必要もなかろうと考えた。
 
私の性分からして、すぐにネットでこの手の商売をしている人たちを検索してみた。結構こういう商売が繁盛しているようなのだ。7万5000円はさすがになかったが、10万円程度で、同じようにゼニアをはじめ、有名ブランドのスーツを作るところは多いらしい。

 
神田のモンテビアンコに早速出かけてみると、その会社は神田駅近くの、ビルの一室にあった。中に入ると、別にブティックを気取った内装を施しているわけではない。見本や仕上がり済みのスーツがたくさん掛かっている点が、唯一この店の特徴を醸し出している。奥にソファがあり、そこで生地見本を見せてもらう。反物を見るわけではないので、どれがいいかというのはなかなか分からないのが欠点と言えば欠点だが、まあ、そこは想像力をフル活動させるしかない。結果として、2種類選びそれぞれの生地の値段を聞いた。7万5000円というのはあくまでも目安で、もっと高級な生地で仕立てるとそれなりの価格になる。私の場合は8万5000円となった。しかし、かなりいい生地であることは間違いない。これなら、いけるかもしれない。
 
この日は採寸までで終了。2週間ほどで出来てくるが、出来上がる前に一度試着した上で微調整を行ない、仕上げに入る。実際に必要な日数は3週間というところか。
同社がなぜ他社よりも安いか、それにはいろいろな理由がある。まず同社は、反物で多く買い取ることによって仕入れ単価を下げている。もちろんこれには売り先が安定していなければならないのだが、同社は高級セレクトショップで一世を風靡した元西武ピサの社員がいて、顧客ネットワークがそのまま維持できている。売り先があるのだ。前述した有名人の顧客というのも、その流れの顧客である。
 
しかもパターンの豊富さと日本人の体型を熟知した強みを持っている。
 
例えば、バスケットボール元日本代表で、230センチと日本人最長身選手だった岡山恭崇氏のスーツも同社で作っている。そして顧客のオフィスに出張して採寸などをすることにより、無店舗ビジネスが可能になっていることも大きい。また、縫製は地方に出すことで、コストダウンを図っているといった具合だ。

「ス・ミズーラ(SU MISURA)」 というイタリア語がある。「あなたのサイズに合わせて」という意味で、つまりオーダーメイドである。ただ、普通のオーダーメイドが仮縫いしてサイズを合わせた後に本縫いするという工程を取るのに対し、この仕立て方は、あらかじめ用意されたスーツの部分ごとのパターンが用意されており、そのパターンを組み合わせて仕立てるという方式を採っている。それをパターンメイドと言うのだ。モンテビアンコのこの方式もパターンメイドである。
 
実は10年ほど前に、エルメネジルド・ゼニアの社長にインタビューした時に話に出てきたのが、この「ス・ミズーラ」という言葉だった。ゼニアでは日本の店で採寸したデータを本国に送り、そちらで縫製し、日本に送り返してくるというシステムがとられている。何十種類ものパターンがあり、それを組み合わせるこの方式はさしずめ、部品をアッセンブルして自動車を作るのに似ている。つまり、スーツという商品の部品が幾つものパターンに分けられていて、その中から着る人の体型に最適のパターンを選び出し、それを組み合わせてスーツを作るというわけだ。
 
面白かったのは、ゼニアがこの方式を導入した時に日本のコンサルタントに指導を受け、「トヨタ生産方式」を導入したことである。生地の部品をかんばん方式で管理し、効率化を図る。そんなマネジメントをよもや一流のファッションメーカーがやっているとは夢にも思わなかっただけに、新鮮な驚きだったのを覚えている。
「市場」というものの概念はネット社会になって凄まじく変化したが、それはネット上で物を売ったり買ったりすることだけではない。実は、もっと広がりのある影響力であったということが漸く分かってきた。ネット上のビジネスは、今まで考えてこなかったような決済方法や、調達手段、そしてプロモーション方法などさまざまな手段をわれわれに提示してくれた。それに啓発されてネット以外のビジネスも動いている。
 
こうした一連のビジネスもそのいい例だ。あとは、モンテビアンコのようにどうやってコストダウンを行ない、そして価格競争に勝っていくかである。おもろいビジネスは次々に生まれている。

(2008・7・2)

【第26回】セレブブームを創出した超優良企業の世界を見据えたブランド展開

株式会社サマンサタバサジャパンリミテッド

アメリカ企業? 実は日本企業
 
若い女性を中心にしてファッションブランドの人気は相変わらず根強いが、なかでも日本のセレブブームの演出役となった企業がある。それがサマンサタバサというブランドだ。ヒルトン姉妹やペネロペ・クルス、テニスのマリア・シャラポワ、蛯原友里などをモデルやデザイナーに起用するなどして、若い女性の間で超人気のブランドとなった。全国に150店強を展開し、2005年には東証マザーズ市場に上場した。企業名は(株)サマンサタバサジャパンリミテッド。いったいどんな会社なのか。

サマンサタバサという社名を聞くと、テレビの往年の人気番組「奥様は魔女」を想像する人が多い。しかし、その関連性は同社によると無いのだとか。アメリカの企業のようだが、れっきとした日本企業である。
 
だが、そんなことはどうでもいい。いまや20代を中心とした女性に超人気のブランドの一つであることは揺るぎも無い事実なのだ。主力商品はバッグ、そしてジュエリー。主力ブランドの「サマンサタバサ」以外にも、ジュエリー、小物、男性用など10種類のブランドを展開している。
 
ここ数年の業績もその人気に正比例して増大している。
 
上場前の2005年2月期の決算では売上高98億4500万円、経常利益が12億7200万円だったのが、翌2006年2月期では売上高135億5200万円、経常利益20億5000万円となり、前2007年2月期では売上高172億9200万円、経常利益24億7600万円と伸長している。


セレブを起用したから売れるわけではない
 
いったいなぜこのように成長を遂げたのか。業界のプロの話を聞くと、セレブな女性をイメージキャラクターやデザイナーに起用した戦略が成功した原因であるという意見が多い。しかしこれを同社社長の寺田和正は「セレブな人を起用しても売れていないブランドは山ほどある」と否定する。そんなことを言っているから駄目なのだ、と言いたげである。
 
その寺田は現在の業績について「まだ、成功していない」と断言する。
「ブランドビジネスというのは大変なのです。価値を作ったとすると、次段階へと成長するためにはもっと違う価値を作らないと生き残っていけない(寺田)」と言うのだ。どういうことか。
「例えて言うと、偏差値50の人たちが1000人いる中で成功すると、次に待っているのは偏差値70の人が1万人いるステージ(寺田)」なのだと言うのだ。成長するほど、どんどんハードルが高くなる。だとすると、なるほどこれは大変な世界である。
 
確かに成功体験に胡坐をかいていては企業の成長も斬新な商品の開発も望めない。その意味で寺田の言うことは正しい。
 
言葉を変えて言えば付加価値をどう作り、その付加価値をどう上げていくかということだろう。実際、同社の付加価値は創業時から間違いなく上がってきている。分かりやすい指標が平均客単価だ。寺田はこう述懐する。
「創業当初は平均単価が1万2000円程度でした。その数年後、2万~3万円の商品を出したが一つも売れない。それが当時の状況でした」
 
しかし徐々にその単価は上がり、今では2万円台は安いと言われ、この春夏の主力商品の単価は4万円台になっている。15万円の商品も売れる。もちろん単価だけで比較はできないが、これが付加価値の高まりの象徴と言ってもいいだろう。


代理店を使わず社員にやらせる
 
では、同社はどうやってその付加価値を上げていったのか。
 
その答えとして寺田は4つのキーワードを挙げた。「良い場所、良い人、良い商品、良い宣伝」というのがそれだ。これがバランスよく機能すれば事業は成功するというのだ。良い場所とよい商品というのは商売の基本だ。良い宣伝というのは世界のトップセレブリティを起用してコマーシャルや来日イベントをしていることからも分かる。
 
それでは良い人とは何か。その象徴が人材起用である。同社では根幹である宣伝やイベント運営に代理店を使っていない。全部自前で行なっているのだ。
「代理店を使うということは、彼らに任せることになる。その中にはうちの商品が好きな人も嫌いな人もいる。イベントが上手くいかなければ言い訳が出てくる。そうではないということなんです。上手くいかなければ悔しい。カネの問題ではなく単純にそう思う。それはうちの商品に愛情があるから感じることで、それなら社員にやらせようということなんです(寺田)」


どこもベンチマークしていない
 
同社は2005年12月に東証マザーズ市場に上場した。それについて寺田は「上場は手段。ようやく次のステージに行くためのスタートラインに立てた」と言う。今までがファーストステージだとすると、ではセカンドステージでは何をやっていくのか。
 
そこにはさまざまな芽が見えている。例えば、一昨年アメリカニューヨークのマディソン・アヴェニューに出した店舗。あるいは2年前に始めたインターネットモール事業などがそれだ。また、昨年の3月にはアパレルの(株)メッセージを買収して、いよいよアパレル事業にも乗り出す構えだ。
 
寺田は、セカンドステージではブランドビジネスを作り上げていくと言う。それは「いろいろな企業がサマンサタバサと相談したいとやって来るような会社になること」だと言う。
 
そのブランドビジネスをより強固なもの(あるいはより付加価値の高いもの)に作り上げていく手段がニューヨークの店舗だったり、ECのモールであったり、アパレルへの進出であったりするのだろう。
 
ただし寺田は、こうした動きは思いつきでやったのではないと強調する。どれもが何年も前から頭の中で生まれては消え、消えては生まれ、その中で熟成されてきたアイディアだと言うのだ。
 
大胆なようで繊細。理論にのっとったように慎重な寺田だからこそ、サマンサタバサは大きく飛躍できたのだろう。
 
欧米のブランドビジネスは一人のデザイナーや職人が創業した。日本のデザイナーも海外で成功を収め、日本のデザイナーズブランドとして君臨した。
 
それらと比較して、サマンサタバサはいわゆるデザイナーズブランドではない形で出発し、しかし、最初から世界を見据えてブランド展開をしている。これは従来にない発想で、ここに寺田の真骨頂がある。業界の人間に「どこの商品をベンチマークしているのか」と聞かれ、寺田は「どこもベンチマークしていない」と答えたそうだ。まさにそれこそが同社の戦略なのだろう。
 
その寺田にどのように人を育てているのか聞くと、「今は出来ていない。点数にして35点」と答えを返した。結構自分に厳しい人だ。。

(2008・6・24)

【第25回】老舗経営の真髄を見せながらチャレンジを忘れない超優良フォーマル企業

株式会社カインドウェア

宮内庁御用達の企業が持つ歴史
 
会計上の意味ではなく、日本では「ゴーイングコンサーン」の経営が大昔から尊ばれている。京都などに見られる老舗の経営はそのいい例だ。どの老舗もオーナー家が会社の発展的存続を考え、同時にそれが家を守ることにもなっている。

「家=会社」--考えれば、こうした「形」を守っていくからこそ堅実な経営が生まれたのだろう。実はこの種の経営スタイルは欧米にも多く見られる。本来、会社というものは事業を永続的に行なっていくものだとすれば、この老舗の経営こそが企業経営のお手本となるのではないか。
 
私は30年ほど前に『週刊ダイヤモンド』で「老舗の家訓」という小特集を書いたことがあるが、当時取材した家訓の中にも、現代の経営に必要な要素をいくつも発見した記憶がある。
 
少々理屈っぽくなったが、(株)カインドウェアは、この老舗の経営を堅実に行なっている点で大変優れた会社である。
 
同社はフォーマルウェアの日本のトップメーカーであり、1968年には宮内庁御用達の栄誉を受けた。フォーマルウェアは戦後にスタートした事業だが、同社の設立は明治27年に遡り、したがって114年の歴史を有する企業である。創業当時は渡喜商店という古着洋服商であった。洋装が明治以降伝わったことを考えれば、同社の歴史は日本の洋装の歴史とダブらせて考えることができるだろう。


紋付き袴ではない、礼装をビジネスとして立ち上げた価値
 
現社長の渡邊喜雄は、創業から数えて4代目の当主である。しかし、戦後初めてフォーマルウェアを手掛けたのが先代(父・渡邊国雄)であることを考えれば、カインドウェアとしては2代目と言ってもいいかもしれない。
 
これにはもう一つ意味がある。渡邊の家系は代々学者の家系である。祖父は國學院大学学長、父は戦前内閣企画庁に勤務をしていたが、妻の兄が戦病死したため、夫婦で養子に入っていたこともあり、戦後、妻の家である渡喜商店を継ぐことになるのだ。
 
しかし、父国雄が傑出しているのは、そこでフォーマルウェアを考え出し、事業化していったことである。戦争が終わり、国民の生活水準は徐々に回復してくるだろうと。衣食が足りれば礼節も知るようになる。それならば正式な場所での装いは、紋付き袴ではなく、必ず時代に相応しい礼服が必要になると考えてのことだった。礼服は景気の好不況の波に左右されないという点にも着目した。また、社名を(株)渡喜に改めたのもこの頃である。
 
同社が有名になったのは、昭和40年代に入って、このフォーマルウェアを「ソシアル」というブランドで売り出し、俳優の田中邦衛を使って、大々的にテレビなどのコマーシャルを打った時からである。折しも団塊の世代が卒業していく頃で、結婚式などもこの頃から急激に増えていくことになる。同社が戦略的なのは、当時は別個に扱われていた礼装用のアクセサリーを、同時に扱い同じ売場で総合的に売ったことである。これも業界では初の試みだった。


老舗で生まれた新しいチャレンジ
 
一方、現社長の渡邊喜雄は大学を卒業すると同時に同社に入社した。一般的に言えば、子が親の会社に入る場合、直接ではなく、いったん他の職場を体験することが多い。しかし、渡邊の場合は父の意志もあり、父親の下で帝王学を身につけることになる。そして、現場を経験した後、5年後の75年には技術提携先の米国企業へ出向し、2年間、アメリカでビジネスを学んだ。
 
渡邊が社長に就任したのは、創業90周年の節目に当たる1985年のことだ。
「それから2、3年はよくぶつかった」と渡邊は述懐する。「世代の違いが原因だったのだろう。印鑑を手渡され本当に認めてくれたのは、そういうことを経た後」とも。
 
しかし、その後渡邊は次々に手を打っていく。
 
当時、拡大戦略を取っていた同社は、フォーマルからカジュアルブランドにまで商品展開を拡げていた。売上げは数年で30億円にも拡大していたが、それを止め、フォーマルへの原点回帰路線を敷く。
 
一方、廉価な商品をロードサイド店で売っていたが、「高級品でいくべきだと考え(渡邊)」これも止めた。「安いものの現場は、それなりの市場。売れるのはいいが、あのままやっていたら、下請け企業に成り下がっていたのではないか」と言う。「いい時は何も言わないが、店側だって売れなくなれば納入率を下げろと言われるのが関の山」と考えたのだ。
 
また、バブルの時期には、こんなうまい話が続くわけがないと考え、国内6カ所に展開していた工場を次々と整理し、中国への発注に切り替えていった。
 
今では工場は那須の一カ所だが、面白いのは「そこにはスキルを残した(渡邊)」という点だ。つまり労働集約的であっても、技術の高い部分を集約しておけば、その工場は独自に運営していけると考えたのだ。実際その通りとなり、自社製品は40%に留まり、有名ファッション企業から技術の高さを見込まれ注文が相次いでいる。
 
撤退だけではない。フォーマルの延長線上にあるブライダルに目を付け、マーサ・スチュアートのブライダルブックを出版したり、本人を日本に招聘したのも同社である。
「しかし、ブライダル事業には手を出さなかった(渡邊)」渡邊の家は神道の家系であるがゆえにそれは神への冒涜と映った。筋はいつも通すところに老舗の老舗たる所以がある。


よりよいサービスを求めて
 
大胆な撤退から売り上げが低下した時期とバブル崩壊が重なり苦労した面もあったが、それを乗り切るや、渡邊は95周年に際して次の100年を生き残る体質を作るために新たな事業の模索を開始した。
 
渡邊が選んだ新事業のキーワードは「3つのS」。「セーフティ」、「シックネス」、「セキュリティ」だった。
 
世界に疫病が蔓延しても、それに対抗できないか。凶悪な犯罪が多発するようになっても、それを守る術はないか。あるいは放射能が漏れても汚染されない服はないか。アメリカまで行き、防弾チョッキのスーツを作ることを試みたりもした。あらゆることを試み、そして行き着いたのが介護である。
 
同社は介護を事業化し、その事業が現在15周年を迎えている。デザイン面で優れたステッキ、座っていても着られる便利な服をはじめ、最近では普段着るファッションまで多種多様な商品を世に問うている。しかも首都圏、関西圏を中心に、多くの百貨店で売場展開をして好評を博している。この事業の業績も急成長を見せている。
 
さらに渡邊は「次の発展の時期に来た」と言い切る。まず主事業もフォーマルだけにこだわってはいない。より高級志向のお客のニーズに対応できるよう、パターンメイドと言って、個人の体型に合わせた洋服作り事業を本格化する予定だ。また、海外への進出もすでに上海で大きく進んでいる。
 
老舗が堅実さだけで続いているわけではないことの生きた証明がこの会社にはある。

(2008・6・10)