2011年11月19日

【第24回】メディアと密接な関係を保つ、老舗PR会社の「メール、ファックス禁止」

共同PR株式会社

PRの歴史を作った会社のユニークなアイデア
 
PR(=広報)という言葉は分かったようで分かりにくい。
そもそも、PRとは1930年代、アメリカの大恐慌の時にできた言葉で、大衆が社会不安を引き起こさないように、国の政策を広く知らしめるための活動から生まれたという。日本でも昭和30年代から、しきりに企業活動に取り入れられた。

日本のPRの歴史なら、共同PR社長の大橋栄に聞け。こういうと、少々大げさなようだが、大橋と共同PR(株)の歴史は日本のPRの歴史そのものと言っても過言ではない。
 
大橋は大学卒業後、広告代理店に就職したが、とある業界の大物から「これからはPRの時代だ」と引っ張られるようにして国際PRに入社した。
 
それから2年後の昭和39年、神戸製鋼所が尼崎製鉄と合併するのを機に独立してそのPRを手掛けた。3人で立ち上げたが、なかなかアイデア豊富なPR会社だった。
「神戸製鋼が高速道路のガードレールに使うワイヤーケーブルをやっていた。そこで、ガードレールの写真を撮ろうと東名高速道路を走った。工事関係者以外で東名を走ったのはわれわれが最初」 「帝人がテトロンのカラーシャツを初めて売り出した。そこで、これをPRしようと、銀行員に初めて着せた」 「カラーシャツ結婚式なんていうのを企画してね。カラーのウェディングドレスと一緒に丸の内を歩かせた」
 
大橋の口からは当時の思い出がほとばしり出てくる。今なら差詰め先行者利得と言えるのだろう。PR業界の草創期で経済成長の真っ只中。競合が少ない時期に立ち上げた事業だから売上と利益が付いてきた。
 
ところが、落とし穴があった。「バンビーノ」というおもちゃのPRと宣伝広告を手掛けたところ、なんと、3億8000万円もの不渡りを受けてしまったのだ。昭和50年のこと、売上規模が1億円に満たない頃の話である。
 
PRと広告宣伝ではかかる費用の額が違う。そのおもちゃ会社から頼まれて広告まで引き受けたのが大きな間違いだった。広告宣伝費は月間1億円。もちろん自社ではできないので東急エージェンシーに依頼した。同社経由で東急グループのPRを一手に引き受けていた関係からだ。
 
8月にスタートしたその広告は3ヶ月続いた。9月に集金した3ヶ月手形が12月に不渡りとなる。ボーナスが出せなくなった。大橋の自宅も人手に渡った。それでも借金が残った。針のむしろのような債権者会議に大橋が出ると、メインバンクの第一勧業銀行八重洲口支店の近藤支店長(当時:後の頭取)が出てきてくれた。
「一生懸命、『大丈夫だ』と言ってくれた。本当に有り難かった(大橋)」。借金は2年半かけて返した。


とにかく会え。メールもファックスも禁止
 
同社の売上は2007年12月期で45億1000万円(連結)、同経常利益は1億9800万円。着実に業績を上げている。特に2005年のジャスダック上場後は、毎年10社程度だったレギュラー顧客の増加が一気に30社ペースに跳ね上がった。大橋は「上場はPR会社の存在感を世間に訴えかけたかったから」と言うが、どうして上場効果は大いにある。
 
ただし、手放しでは喜べないような課題があることも事実だ。例えば労働集約的な企業組織でどう効率を上げていくか。市場が成熟している中でどうシェアを取っていくか。IRが全盛の昨今、その違いをどう訴えていくのか、等々。
 
これについて大橋は事も無げに解説する。
「うちの特徴はMR(メディアリレーション)にある。どんなにIRが良くても、それが取り上げられなければ効果はないでしょ。うちの強みはメディアと太いつながりがあることです」
 
だから、とにかく(メディアの)人と会えと言う。毎週の朝礼でもそういう話をする。メディアとはメールとFAXは禁止だそうだ。
「とにかく人間関係が大切。そのためには日頃嘘をついちゃいけない。間違ったことをやらない。そうしていると信頼関係は構築できる(大橋)」
 
自ら実践してきた言葉だから重みがある。


中国から広げてアジア戦略を強化する
 
この数年で同社の事業には幅が出てきた。例えば、98年には中国の新華社、広告代理店の旭通ディーケーとの合弁事業として、中国に進出した日本企業向けの現地PR会社を設立した。危機管理事業部では、社長の緊急記者会見特訓コースのメニューまで用意されている。こうした動きは、逆に見れば顧客企業の要望が細分化してきているということだ。
「以前は漠然としたニーズだったものが、最近では『社長をPRしてほしい、この商品をPRしてほしい』というように細分化されてきた。だから、こちらの対応もウェブ担当、TV担当、商品PR担当といった専門店型に変化している(大橋)」そうで、今後はこうしたきめ細かい対応を行ない、中国からさらに拡げてアジア戦略を強化するという。
 
そして「2~3年後に売上100億円を目指す(大橋)」。
ところで、共同PRでは3年前に始めた「広報の学校」という事業がある。だが、こんな名前が付くずっと以前から、メディアの人間を講師として、企業の広報担当者を集めた勉強会をやっているのだ。大橋がいうところの「メディアリレーション」が日常的な活動の上に成り立っているのがよくわかる。
 
ところで、緊急記者会見の練習コースとはどんなことをするのか。そのことを大橋に聞くと、なるほどと思わせる説明が返ってきた。
 
現役の記者を呼ぶ。それも、経済部ではなく社会部の記者。問題が起こった場合の多くは社会部担当だから、経済部記者との会見とはわけが違う。だから、頭の下げ方はこうだ、というところから教えるのだそうだ。リスクマネージメントも大変だ。

(2008・5・28)

【第23回】世界最高の音声認識技術で夢の市場を開拓する企業の目標

株式会社 アドバンスト・メディア

世界で著名な専門技術ニュースが「ベスト」と評価
 
ASR News(Automatic Speech Recognition=自動会話認識)という、著名なアメリカの音声認識技術専門ニュースが4月の第19号でとり上げた記事が専門家たちの注目を集めた。それは、富士通とアドバンスト・メディア、NTTドコモの3社がアプローチする技術が世界で最高のものだと賞賛する記事だった。一体何の技術がそのような賞賛を受けたのか? それはNTTドコモのらくらくホンプレミアム(富士通製)に搭載された音声によるメール入力システムに対してだった。

らくらくホンプレミアムには、この記事の通り音声認識技術が搭載されており、しゃべるだけでそれが文字化され、メールとして発信されるサービス(有料)があるのだ。これが世界初の技術だという。
 
この技術を開発したのが(株)アドバンスト・メディア。音声認識技術では世界をリードするエキスパートである。同社社長の鈴木清幸は「この技術は日本よりむしろ世界で注目されている」と言う。なぜなら、日本では若い人を中心にメールを打つ習慣が定着したが、これは日本人だからできる技で指の太い欧米人には馴染まないのだそうだ。だから、もっぱら海外ではボイスメールサービスが使われている。だが、ボイスメールは面倒が多い。だから、この技術を使えるのなら、あっという間に世界を席巻する可能性が出てくるというのだ。海外で注目され、専門誌でベストの評価を受けたのもそこに理由があるわけだ。
 
コンピュータに向かってしゃべれば、自動的にテキストデータに変換したり、さまざまな処理をしてくれる音声認識は、言わば夢の技術。その実用化でトップを走るのが同社である。この技術を体験した人は一様に驚きの声をあげる。
 
例えば同社のプレゼンテーションルーム。社長の鈴木が、立て続けにマイクにしゃべる。「部屋を暗く」。すると部屋が暗くなる。「テレビスイッチオン」。テレビが点く。「NHK」、「6チャンネル」。画面はそれぞれに変わっていく。そして「これが音声認識です」と結ぶ。
 
音声認識の技術は、その魅力的な響きとは裏腹に使えない技術として有名だった。98年に日本IBMが発売した「Via Voice」も普及はしなかった。使う手間がかかるだけでなく、認識率もそれほど高くなかったからだ。
 
だが、1997年に設立された同社は、その間、音声認識一筋に研究開発を進めていた。社員約80名のほとんどが技術系社員。この技術が結実して、冒頭のような実にスムーズな(音声による)入力などのコンピュータ操作が可能になるのだ。
 
こうした技術の実用化で業績を伸長させて、同社は2005年6月東証マザーズに上場を果たしている。


誰がしゃべっても同じように認識してくれる夢の技術
 
実は同社の技術は、他社の技術と大きな違いがある。少し専門的な話になるが、多くの企業の音声認識技術は、特定の人間がしゃべった声を認識する。つまり特定話者対応というわけだ。そのため事前に自分の声を登録し、練習する必要がある。しかもこの技術を一般的な用途に使うため、認識しなければいけない語彙が多岐にわたり、これも認識率が低くなる要因となっている。
 
それに対してアドバンスト・メディアの技術は、だれがしゃべっても同じように認識する、不特定話者に対応しているのだ。ここに技術の凄さがある。
 
さらに言えば、その技術を実用上で生かすために、特定分野に絞って使うよう営業戦略を採ってきた。例えば音声入力による医者のカルテ作成ソフト「Ami Voice Ex」や、営業日報作成用のシステム「AmiVoice Reporter」、また議会用の議事録作成支援システム「AmiVoice」などがそれだ。こうした戦略により、さらに「使える技術」になったのだ。こうした戦略も海外で花開く可能性が高まっている。
一つ例を示そう。アメリカでは医者のカルテ作成は、医者がしゃべるのを口述筆記者がタイプしていく方法をとっている。タイプしたカルテが義務付けられているからだ。しかし現在は、この口述筆記の部分が音声認識に取って代わってきた。口述筆記者はその間違いを訂正する役割で、これによってコストが大きく下がる。そこに何百億円というマーケットができている。
 
だが、この技術で優れているのはアドバンスト・メディアの技術。ここでも同社の技術は注目されているし、本格的に進出することにより、大きな成長を見込めるのである。


携帯でも音声が劣化しない凄さ
 
だが、同社の最終目標は、もちろん一般市場で広くこの技術が使われるようにすること。冒頭で紹介したように、その端緒は現れつつあるが、それを支えているもう一つ優れた技術がある。それがDSRという技術だ。
 
DSRとはどんな技術か。例えば携帯で音声が送信される場合、音声データが圧縮されて送られるために劣化が起こる。ところが、あらかじめ携帯にDSRが搭載されていると、音声が送信される前に音声認識の前処理が行なわれるので、データ送信のために圧縮されても劣化しない。この技術があるからこそ、高精度の音声認識が携帯電話で実現できるのだ。
 
前述したらくらくホンの音声によるメール入力もこの技術あってのことだし、このサービスはらくらくホンだけでなく、これからの携帯になくてはならないサービスになるだろう。
 
実は、同社は一昨年の「アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー」の日本代表に選出された。昨2007年には、モナコの世界大会に日本代表としてプレゼンテーションを行なった。
 
その時のプレゼンテーションが光っていた。鈴木が携帯で日本語でしゃべるとその電波は日本に飛び、サーバーで翻訳され、その翻訳した文章を英語で送り返してきたのだ。そこに集まった人が、驚きの声を上げたのは言うまでもない。
 
鈴木は、京都大学工学部出身のエンジニアだけあって説明がシャープである。熱情をもって流れるように自社の説明をする。社長自身がこの音声認識技術に対して揺るぎない確信を持っており、その確信とそこから生まれる自信こそが、同社の原動力なのだとつくづく感じる。驚異的な成長を期待したい会社であることは間違いない。

(2008・5・20)

【第22回】慎重かつ大胆にビジネス展開する新型出版社の挑戦

株式会社 文芸社

父親の出版社を継がず、独自に出版を始めた
 
この数ヶ月で70万部という驚異的なヒットを見せている一冊の本がある。それが『B型自分の説明書』だ。この本を発行しているのは(株)文芸社。自費出版(同社では協力出版と呼ぶ)を主にしている会社で、このヒット作も実は自費出版である。同社の創業者で社長の瓜谷綱延はこのヒットについてこう説明する。

「2007年の8月に1000部発行しました。昨年までは増刷もありませんでしたが、ある書店チェーンの方がこの本の面白さに目をつけ、自店のチェーンで多少大きめに並べてみたのです。すると売れ行きがよかった。この話を三省堂書店にしたところ、全店で大展開が決まり、今年の2月頃から一気に火がついたということです」
 
これだけを聞くと、出版が水物であることの証左のような話だが、実は同社の事業のあり方には、現在の出版業界が置かれている困難な状況を変えるヒントが隠されていることが分かる。
 
瓜谷が同社を設立したのは1996年。瓜谷の父は、たま出版という精神世界系の書籍で著名な出版社を経営していた。その父が死に、瓜谷は自分がたま出版をどのようにして継ぐかということを考えた。精神世界という分野は好きでないと難しい。一方、事業として出版を考えると、在庫を抱えながら、長期的な運転資金を確保しなければ資金繰りが苦しくなるこのビジネスは、銀行から長期の融資でも受けられるのなら別だが、今のシステムには合わなくなっている。こう考えて出した結論は、たま出版の株は創業からの人物に譲り、自分は別の事業を行なうということだった。


自費出版物を置いてもらうために続けたドブ板営業
 
瓜谷が目指したのは不動産業である。不動産業も大きな資金が必要だが、瓜谷が父から相続したカネはゼロに等しく、したがってタネ銭がなかった。当時の銀行は貸し渋りの真っ只中にあり、銀行を当てにした事業は駄目。そこで、前受け金を取れる自費出版を始めたのである。
 
最初の1年は細々と試行錯誤しながらだった。当時は、銀行や証券の破綻が相次ぎ、先行する同業他社が様子見をしていた時期であり、ようやく東販、日販という取次ぎで扱ってくれることが決まったので、勝負に出ることを決意する。カネはなかったので、ある広告代理店に、毎月2000万円の6ヶ月手形を切ることを了承してもらい、大々的に新聞広告を掲載した。これで一気に300もの原稿が集まった。
 
しかし、これで事がうまく運んだわけではない。出版した書籍は、書店に並べてもらわなければならない。ところが一般に書店は、自費出版の書籍を置きたがらない。置いてもらえなければ自費出版の広告自体が嘘になるから、絶対にこれだけは実現しなければならない。この営業が同社にとっての生命線であったのだ。瓜谷は地道にこの営業を続けた。断られても毎日訪問する。顔を出していればそのうち、相手も認めてくれるだろうという、まさにドブ板営業そのものだった。
 
一方、瓜谷は紀伊國屋書店、三省堂書店などの大手書店も訪問し、自費出版の意義を説いた。もちろん最初はどこも消極的。だが、アマチュアの出版文化を発展させるため、という瓜谷の粘り強い説得に、紀伊國屋書店と三省堂書店の2店が乗ってくれた。こうして、同社は3年がかりで、大手書店に加えて地方の一番店の売り場を確保していった。今では紀伊國屋書店も三省堂書店も共同で出版相談会を開催してくれるほどの仲になった。
 
そして2000年には、ベストセラーがこの自費出版から生まれた。『リアル鬼ごっこ』(山田悠介著)、と『心霊探偵八雲』(神永学著)である。既存の出版社ではこうした著者は発掘できなかったはずだ。なぜなら、無名の新人は新人賞に応募して賞をとるでもしなければ、出版にはこぎつけないからだ。


従来の既成概念を超えた大胆な仕組みで挑戦
 
今年の初め、同業他社の新風舎が自己破産したニュースは、自費出版業界が、ともすれば危ういビジネスのように受けとめられる可能性がある。しかし、瓜谷は同社が他とは違う点を強調する。
「まず、2006年から前受金はりそな銀行と信託契約をしており、別勘定で保全しています。もちろんそれまでも前受け金については別勘定にしていましたが、これを明確化したわけです」
 
自費出版業界は競争激化により、値引きをして受注する会社が増えた。破綻した新風舎はその典型だ。採算割れのような安値で引き受ければ、受注も多くなるが、編集にかかる人員も増え、コストも増大する。そうなると、前受け金が資金繰りに回る可能性も出てくる。
それをしないために、同社は安値で受けず、前受け金を信託した。こうして発注者であるところの著者の信頼性を勝ちとっていったのだ。しかも、創業当初のドブ板営業による販路の開拓が著者に安心感を与えた。
「売れている本があるのも事実ですが、それは絶対に著者には言わない。いくら正確に物を言っていても、著者が誤解をしては駄目ですからね」
 
慎重に慎重を重ねてこそ、このビジネスは成功すると瓜谷は言うのだ。しかし、同社のビジネスは慎重なだけではない。それが「売上げ還元タイプ」という新しい形態の出版制度である。自費出版では、用紙代や印刷費を著者が負担し、流通は出版社が経費負担をする。売れれば著者には印税が入る。しかし、同社の新システムは、分かりやすく言えば、著者個人が出版社になる仕組みである。売れた場合の著者の収入は売上の60%(同社の印税は2%から)と莫大なものになる。著者のコスト負担は増えるが、リターンも大きい。自信がある人にとっては魅力的な仕組みで、もし仮に売れている有名な著者がこのシステムで出版すれば、著者は莫大な利益を得ることができる。そういう意味では既成の業界への大胆かつ挑戦的なシステムとも言えるだろう。


出版も不動産もバランスよく経営
 
2008年3月初め、自己破産した新風舎の破産管財人と東京地裁民事20部が連名で、同社に対して新風舎の顧客救済を要請した。同社はこれを受けた。これによって新風舎の顧客1万5000人が救われることになる。これも同社に対する信頼感の表れだろう。
 
さて、瓜谷は現在、不動産業界でもビジネスを展開中である。最初の思いを結実したことになる。現在の業績は連結で111億9100万円、経常利益で10億8800万円となっている。瓜谷は朝から午後2時まで不動産業にいそしみ、そこから夜まで出版社の社長を務めている。
あまりにも違う業種であるがゆえに、そこに矛盾は生じないかと問うと、瓜谷はあっさりと答えた。
「2つの異なった事業をやっていることは事業のポートフォリオ的に見てもよかった」
矛盾ではなく、むしろバランスがとれているということなのだろう。不動産では、出版業の良さをとり入れ、利益がすべてではないと説く。一方、出版業では利益をきちんと出してこそビジネスと。使い分けということではなく、自然にそういうマネージメントができるのだそうだ。
 
現在、不動産業界は地価の下落と不動産ファンドへの締め付けで、業績が悪化している会社が多い。そのことを聞くと、「2008年の春にはすべての在庫は処分している」と答えたものだ。ビジネス感覚の優れた経営者であることに間違いはない。

(2008・5・13)

【第21回】投資家が心底欲しがる情報を提供し続ける金融情報会社の「情熱」

株式会社 文芸社

欧米と日本では投資家の質に大きな開きがある
 
よく言われることだが、欧米の投資家に比べて日本の投資家はまだ未熟で、質的に開きがある。その開きの主な原因は情報の差だと言われている。日本人投資家の場合、持っている情報が質的にも量的にも少ないのが原因で、それが投資家の質の差となって表れるというわけだ。

一般的に情報を提供するのは証券会社だが、近年には金融情報サービス会社の出現によって少しずつ変化してきた。こうした状況下で顧客本位の情報を提供することに注力して成長した金融情報会社がある。それが(株)T&Cホールディングスだ。
 
同社の設立は1999年12月。設立当時は(株)トレーダーズ・アンド・カンパニーという名称で、日本株に関する情報提供を主事業とした。この会社が目指したのは顧客本位の情報提供である。創業者で現社長の田中茂樹は、当時を振り返って創業の経緯をこう説明する。
「証券会社にいる時は、商品部で運用を行なっていました。ところがそこで認識したのです。我々が持っている情報と、顧客が持っている情報には圧倒的な差があると」
 
つまり、その違いを埋めることができればビジネスになると感じてもいたのだろう。実際、欧米と日本の投資家はそこで差がつくわけだから。しかし、これは一朝一夕に解決できるものではない。なぜなら、これは証券会社の構造に関係しているからだ。例えばアメリカの場合、証券の営業は歩合制の外務員が行なっている。彼らはお客をいかに多く抱えるかに力点を置くから当然顧客への情報サービスは充実する。
「彼らはファイナンシャルアドバイザーと呼ばれ、弁護士と同じくらい尊敬されている。スイスではそれがプライベートバンカーなのです(田中)」


常に中立的という当たり前の姿勢が信頼を得た
 
日本では、その構造を変えないと無理だとすれば自分でやるしかない。幸いネット取引が日本でも始まったことにより、個人投資家は増え始めた。こうした顧客は質のいい情報を望んでいる。だとしたら、やるしかない。
 
田中は情報の質と、その使いやすさに徹底してこだわった。
「単にいいというだけじゃない。他社と比べて、圧倒的な違いまでもっていく(田中)」のが同社の方針だった。その方針は現在もきちんと貫かれており、同社が運営する「トレーダーズウェブ」は無料であるにも拘らず、その情報の量、質ともに大変充実している。
 
また、当初は日本株の情報提供を行なっていたが、同社は将来的には国際分散投資の観点で情報提供を行なうことを見据えていた。なぜなら、それこそが投資先進国で行なわれていた投資のスタンダードだったからだ。こうして同社は、日本人投資家の、欧米との質の差を埋めるべく、次々に情報提供を行なった。
 
しかし、理想と現実とは違った。同社設立当初の1999年末から2000年初頭にかけて、株式市場はIT株バブルに沸いていたが、2000年春過ぎから急激な落ち込みを見せた。長く続く株式市場低迷の始まりだった。田中は当時をこう回想する。
「2003年までは市場が下がっていく状況でしたから、いつ潰れてもおかしくない状況でした。とにかく大変だった」
 
潮目が変わったのは2003年、市場が底を打ってからだ。それまでは現在の有力顧客である証券会社も自社のリサーチ部門の存在を理由に、他社から情報を買うなどということはなかったが、トレーダーズウェブの使いやすさには勝てず、徐々に導入されていった。情報の中身で勝負した結果がここで表れたことになる。
 
使いやすさもさることながら、同社の情報が信頼される最大の理由は、常に中立性を保ち、厳しいこともきちんと書く、ということに尽きる。だから田中は「日本株に対しては2008年も厳しいと言っている」
当たり前のようなことだけれど、それができない会社が多い中で、T&Cの姿勢は一段と光っているように見える。
 
そしてもう一つ同社の急成長を後押ししたのが、インターネット証券の勃興だった。
「ネット証券がビジネスを拡大していくことで、証券界も風通しがよくなった(田中)」のだ。


世界標準は国際分散投資、だからそれを目指す
 
同社の業績も上がっていった。2005年11月期が売上高2億5600万円、経常利益が1500万円であるのに対し、上場直前の翌期には売上高4億670万円、経常利益1億589万円と伸張し、2006年12月には大証ヘラクレスに上場を果たした。
 
2007年11月期は売上高14億4900万円、経常利益2億2900万円と急成長を見せている。この原動力となっているのがサービスの充実による売り上げ増だ。
 
同社は設立当初から国際分散投資を目指していたと前述した。そのため積極的なM&Aを展開してサービスの幅を広げてきたのである。例えば、いまや同社のもう一つの柱である中国株情報では02年にトランスリンクを買収し、中国経済と株式の情報提供を強化させた。そして04年には為替と国際金融情報の充実のために、マネーアンドドットコムを買収している。まさに当初の考えをサービスに反映していることになる。だが田中に言わせると、これでも足りないのだそうだ。
「日本国内に限って言うと当初の目標の70%ぐらいまで来ている。でも、日本以外では限りなくゼロに近い(田中)」
 
だから、同社はさらにグローバルな展開を目指すというのだ。そして田中は、日本の市場についても厳しい見方を披露する。
「金融業界に限って言えば、新しいものへの変化が全くできていない。例えばETF(上場投資信託)のマーケットで、上場している日本株は僅か8銘柄だが、アメリカでは800銘柄ある。日本も確かに変わってきているが、それでも海外との差は広がっているのが実情」と言うのだ。
 
金融情報分野でグローバルな展開を見せる同社だが、もう一つの金融アドバイザリー事業でもグローバル化に向けてビジネスを展開し始めた。例えばハリウッド映画への投資。あるいはインドの不動産開発投資。そして特許権への投資。さらにはスイスに金融アドバイザリー業務を行なう現地法人も設立した。
 
現在同社では180人の従業員がいるが、そのうち110人は海外の社員というのが何よりもそのグローバル化を物語っている。
「来期は海外の売上の方が多くなる(田中)」というのも頷けよう。昨年同社は「中国株二季報」を出版した。四季報の中国版とも言えるもので、その情報の中身は濃い。こういうところがさらに情報の信頼性を生むのだろう。
 
社長の田中に何故成功できたかと問うと、即座に「情熱」という言葉が返ってきた。確かに情熱がなければ他社のやっていないことをやり続けることはできなかったかもしれない。言い換えれば、その二文字さえ心に持ち続ければ今後の展開も大いに期待できるということだ。

(2008・4・30)

【第20回】超優良経営の秘密はコスト重視、大学の信頼篤い新京都企業の成長性

株式会社 学生情報センター

同業他社とは地主への対応が違う
 
一般的には無名であっても、ある分野ではすこぶる有名で、傑出した実績を挙げている隠れた優良企業がある。京都に本社を置く(株)学生情報センターはその典型だ。同社が有名なのは教育界、なかでも大学においてであり、恐らく今、日本でいちばん大学とのパイプが太い企業と言えるのではないだろうか。

それでは同社の主事業は何か。それは、学生専用マンションの企画、入居、管理である。学生専用マンションとは、分かりやすく言えば、学生専用に特化したワンルームマンション。子供を地方から都市部の大学に進学させる場合、昔は学生寮や下宿の世話になったのが今は学生専用マンション。同社はこの分野の最大手企業なのである。
 
ワンルームマンションのビジネスモデルは決して複雑ではない。地主がおられて、そこにマンションを企画し、地主に建てていただく。そのマンションに賃借人を入れて管理する。企画者側は管理費や手数料収入を得、地主は家賃収入を得る。
 
この種の企業は世の中に多い。だが、同社のスタンスは他と大きく異なる。ここに、同社が大学とのパイプが太い(=信頼性を築いた)秘密があるのだ。
 
多くの同業他社が行なっているのが、一括借り上げと言われる方式。地主に入居率80%程度で家賃保証をし、管理運営側がそれをサブリースする形で入居者に貸す。地主にとっては入室ゼロでも家賃がある程度保証されるという安心感がある。一見いいようだが、もし満室になるのなら、それだけの収入が減るということになる。
 
しかも最近は、家賃保証の固定期間が契約の30年に対して10年しかなく、後は改定されるため思わぬリスクを背負う可能性や、保証を行なう会社の信用リスクも出てくる。実際に地主とトラブルになっているケースもあるのだ。


24時間学生の相談を受け付ける
 
結論から言うと、学生情報センターはその方式をとらない。家賃保証という名のサブリーズをしない代わりに、徹底して愚直なまでに入居率を高めるのだ。同社の創業者で、学生情報センターグループ代表の北澤俊和はこう説明する。
「お客さまにとって、サブリースは一見安定しているように見えますが、実はサブリースを受ける会社が儲かるようにできている。それより何より、最初にお客様に80%分を払ってしまえば、入居率80%以上をクリアすれば、営業も安心してしまい、100%にしよう(本当の客のためになることをしよう)とは思わなくなってしまう。だから、とにかく愚直にお客様のために営業する」
 
こう書くと、単に一生懸命営業をしている会社のように捉えがちだが、実は全く違う。例えば入居した学生のために、24時間対応のメディカルサービスやトラブル処理を行なっている。ストーカー、セクハラ相談までもがこの24時間サービスのメニューに入っている。この種のサービスに加えて、地震などが起こった場合、いち早く保護者への連絡を行なうことも怠りない。実際2000年9月、東海地方が集中豪雨に見舞われ、死者・行方不明者8人を出す大惨事の際には、災害地区にあるマンションの入室者全員と連絡を取り、浸水し孤立したマンションには社員が水に浸かりながら弁当を人数分届けたという美談まであるのだ。この種のことを、どんな場合にも行なっているからこそ、大学や親との信頼関係が築けたのだろう。


大学移転が飛躍のきっかけとなった
 
同社の創業者であるグループ代表の北澤は、学生ベンチャーの先駆けである。70年代前半、学生時代に名古屋で『求人アルバイトニュース』を立ち上げた。事業は順調に推移し、多い時には北澤の手元に月額70万円ものカネが残った。当時の大卒初任給が4万円程度だから、この額がいかに凄いかが分かる。
 
ところが面白いことに、北澤は大学卒業と同時にこの事業を止め、郷里の京都に戻りサラリーマン生活を始める。「長男だから京都に戻らなければならないという意識があった(北澤)」というのが理由。しかし、ここからがまた凄い。煙草の自販機や店舗設備の大手企業に入社した北澤は、新人ながらダントツの成績を上げた。得意先のスーパーなどに売り込むには昼間は相手にしてもらえない。早朝がいちばんと考え、毎朝四時ごろ市場に出かけた。そこで顔なじみになり、次々と仕事を獲得していったのだ。
 
だが、出る杭は打たれる。心よく思わない上司がいて、結局会社を辞めることになる。それを知った得意先は、北澤に引き続き仕事を依頼してきた。店舗設備どころか建築まで。それで作った会社が北和建設(現在はグループ会社の一つ)だった。
 
同社の飛躍のきっかけとなったのが、同志社大学の京都府京田辺市へのキャンパス移転だった。住宅地ではあっても、学生を受け入れるマンションやアパートはない。ここに学生専用のマンションを作ればいい。それを地主に提案し北和建設が受注すれば、新しいタイプのビジネスになる。そう考えた北澤は、その周辺の地域の地主に学生マンションの魅力を説いて回った。これが契機となり、企画開発から入居募集、その後の管理運営まで一気通貫で行なうビジネスモデルを確立し、名古屋に進出。新会社「名古屋学生情報センター(後に学生情報センター)」を設立し、学生マンションビジネスを拡大させていった。


コストをかけて社会貢献することを厭わない
 
現在同社の業績は2007年度で売上高280億円、経常利益21億円(連結)である。
「マネーゲームをするなら。売上も利益ももっと出る」と北澤は言う。サブリースをすると手数料収入ではなく家賃収入になるため、売上は飛躍的に上がるし、サブリース方式を取るなら、利益はもっとかさ上げされる。しかし、「そんなことをしても意味がない」と北澤は言い切るのだ。
 
実際、同社はコストのかかることを積極的に行なっているかのように見える。
 
毎年春には全国8ヵ所で、新しく入室した学生を招き、オーナーや学校関係者と共に一流ホテルで盛大なパーティーを開催する。このパーティーに膨大なコストをかけている。別にやらなくてもすむことかもしれないが、学生たちはそれぞれが仲良くなり、オーナーとも挨拶ができる。大学側も安心する。
 
まだある。京都、東京をはじめ支社にはナジックプラザを併設、学生や大学関係者が勉強会や会合に、無料で使うことができるスペースを提供している。また、同社が主体となって立ち上げた財団法人学生サポートセンターは、学生のモラル、マナーの向上、学生ボランティアやベンチャーへの助成、ベトナムの学生との交流事業などを積極的に行なっている。
 
そして極めつけは、大学からアルバイト紹介業務のアウトソーシングを受け、各大学の公認サイトとして、学生アルバイト情報ネットワーク(アイネス)というサービスをネット上に展開していることだ。
「大学も人手が足りない。こちらでサポートできることは喜んでお手伝いする」と北澤は言う。もちろんこれは同社の事業展開にも寄与するわけだ。
 
オーナーのためによかれと考えた営業を行ない、学生のために十分なサービスを提供する。それだけでは物足りず、そこから派生するサービスをさらに考えて実行する。社会貢献という言葉を使うなら、同社の事業はまるで社会貢献の見本のようだ。
 
こうした、企業行動がどれほどの価値を生み出しているか。京都では、老舗企業が暖簾を守ることが一つの教えとなってきた。その意味では新しいタイプの京都企業の姿と言ってもよいのではないか。今、日本において大学に最も信頼されている会社と言われているのも、頷けることだ。

(2008・4・22)

【第19回】調剤薬局の乱立競争を尻目に高成長する新型薬局の強み

クオール株式会社

いい病院の前にいい調剤薬局を作る
 
医薬分業が進む中、調剤薬局は注目を集めている。調剤薬局とは、普通の薬局と違い、病院で処方箋をもらい、その薬を処方してもらう(買う)ところというのが一般的な認識だろうか。だから、大病院の前には、まさに門前市を為すがごとく、調剤薬局が乱立する。それはそうだ。病院の玄関に、より近い薬局がお客を征するのだろうから。

こうした動きに一線を画しているのが、クオール(株)である。同社は全国各地で調剤薬局をチェーン展開しているが、大病院の前には作らない。乱立競争には乗らない。
「今の状況はバブルです。乱立競争によって地価も上がる。そんなことに金を使うなら、患者さんへの空間作りにお金を使うべきだ」というのが、クオール社長の中村勝の弁だ。
 
きれい事のように聞こえるが、その説明を聞くと理に適っている。
 
実際、クオールの店舗はきれいで広く、しかも工夫がある。
 
例えば、東北の店舗では床暖房が採用されている。子供の多い地域の店では遊びのスペースがある。老人の多い地域では杖を置くための工夫...、等々。
 
なぜ、(大病院という)大きな市場を狙わずに、こうした店作りをするのか。
「もちろん病院の前に作るのはわれわれも同じです。ただ、一日の外来が150人以上あれば店はできる。それより病院をどう選ぶかなのです(中村)」
 
病院を選ぶとは、どういうことか。
「保険診療では、以前は患者本人は無料だった。それが1割、3割負担へとなっていった。その過程で、どうせ負担するならいい病院をという、患者の病院選別が始まったのです」と中村は言う。だから、大病院の前に作るのではなく、(患者が選ぶ)いい病院(患者が選ぶ)の前に作ることが重要と言うのだ。それはマーケティング的に正しい。
 
だから、ターゲット先の「病院の先生と交流をし、2年間くらいは勉強会をやる(中村)」ことに注力しており、この数年、病院に対して、門前に作る調剤薬局のプレゼンテーションを6回行なったが、数社との競合の中、全部クオールが獲得した。


いい情報を入手できるからこそのM&Aで成長
 
同社は設立が1992年。2007年3月期の業績は売上高248億2700万円(前年比114.4%)、経常利益8億7500万円(同114.7%)を挙げている。店舗数は186店舗に及ぶ。この数年増収総益を続けており、紛れもない急成長企業である。同社のような丁寧な店舗展開をしながら、こうした成長を持続できるのはなぜか。
 
そこにはM&Aというキーワードが浮かび上がってくる。
「われわれのような店作りでは、年間10店舗がせいぜいです。だからM&Aを年間3~4案件はやっていきたい」と中村が言うように、同社はこれまでにもいくつかのM&Aを行ないながら成長してきた。東北や中部などへの店舗展開はこのM&Aがベースとなっている。しかし、ここで疑問がある。独立した調剤薬局をそんなに簡単に買収できるものなのか。またいい病院(と、その門前)の情報が大切なのだとしても、そんな、クオールの基準に合うM&Aの案件情報をどうやって得るのか。一朝一夕に得られるものではない筈だ。
 
実は、そこで社長である中村の前歴が大いなる効果を発揮する。中村は92年に創業するまでは医薬品卸の企業にいた。創業してからも、医薬品卸の業界に自社の経営状況を積極的に情報公開し、逆に新規の案件情報も得ていった。
「全国で病院を回っている医薬品卸ほど新規案件をいちばん知っているところはない。でも情報を得るためには、こちらも情報を公開し、信頼を得ないことには始まらない」
 
この情報力の強さが、同社のM&Aを支えているということなのだ。


調剤薬局から一般薬局も視野に
 
なぜ治験の会社? と思うが、「これによって医療機関とのパイプが太くなる」と、中村は事も無げだ。では、これも情報力強化の一貫かと言えば、それだけではない。
 
日本では元来治験には患者サイドが協力的でないなどの難しさがあった。しかし、治験の広告なども解禁となり、国内で広がりつつある。同社では既に治験コーディネーターを20数名育てており、利益率の高さから、「有望な2本目の柱」になる可能性が出てきた。
 
一方、一般薬局の方はどうか。
「今年の3月に薬事法が改正され、薬は薬剤師が必要な第1分類とそうでない第2、第3分類とに分けられた。だから本格的に調剤薬局で第1分類の薬を売っていきます。一般薬局を持っているのはそのための布石」と中村は答えた。
 
従来、調剤薬局は一般の薬を販売しなかった。「面倒だし、在庫リスクもある(中村)」からだ。しかしこれからは違う。クオールのきれいで広い店舗はすでに第1分類の一般薬販売も念頭に置いてのことなのだ。
 
同社ではさらに、オリジナルブランドの商品を手がけており、ネットなどでも販売をしている。青汁、黒酢粒、ブルーベリーなどがそれだ。
 
ところで、クオールの英文社名はQOLと書く。Quality of Life(クオリティー・オブ・ライフ)の略語をそのまま読んだのが社名である。同社では、薬局で患者が手に取れる月刊の新聞を出している。題して『クオール薬局新聞』。4ページの簡単なものだが、なかなか切り口がよく、デザインも優れている。聞けば社内のスタッフで作っているという。そのために有名な広告制作会社の幹部を引き抜き、責任者にしたそうだ。会社説明用のDVDもリクルート用の小冊子も社員による制作。いずれも質が高い。社長の方針といえばそれまでだが、こういう余裕を持つ会社には目に見えない強みが感じられるのも事実である。
 
こんな会社が増えるといいのにと、思わせる会社である。

(2008・4・15)

【第18回】使いにくい?半導体容器で60%のシェアを誇るメーカーの秘密

株式会社 ミライアル

経常利益率35%、5年後に売上倍増
 
ちょっと想像して欲しい。近年、PCはおろか、家電、AV製品などどこにでも使われる半導体。その半導体のベースになるのはシリコンウェハーだ。一枚のウェハーから何個もの半導体ができてくる。さて、本題はこれからだ。ウェハーを運ぶための容器が必要になる。その容器を作るのが大変な技術なのだ。それを作っているのが(株)ミライアルという会社である。

同社は、大変に利益率の高い会社である。数字の羅列になって恐縮だが、ここ数年の売上高と経常利益の推移を見てみよう。
 
まず、2005年1月期。売上高73億5800万円に対して、経常利益23億5700万円(経常利益率32.0%)。2006年1月期、売上高88億2000万円、経常利益29億700万円(同33%)。2007年、売上高123億7600万円で、経常利益43億9700万円。なんと利益率35.5%である。そして2008年1月期は、売上、利益ともに更新し、売上高146億5500万円、経常利益50億4500万円となっている。経常利益率こそ前年度を若干下回ったものの、それでも34.4%という高率である。
 
シリコンウェハーは現在300ミリという大きなウェハーが主流になりつつあるが、その出荷容器として、ミライアル社製容器は実に60%のシェアを持っているというのだ。
 
この業績が今後どうなるのか。社長の兵部行遠はこう分析した。
「一つの容器にウェハーが22、23枚入る。現在300ミリのものが年間260万~270万枚出荷されているから、単純に22で割って、1万3000円台後半といわれる容器の単価をかけると規模は自ずと知ることができる。業界では5年後に600万枚と言われているので単純計算でも5年後には倍になります。でもね」そう言って、兵部は表情を引き締めた。「決して安穏とはしていられない」と言うのだ。
「半導体は利益が取れる時期がある。最初は高くても、そのうちバケツ一杯いくらという値段になるわけだから、容器もだんだんに価格を下げていかなければならない。それに設備投資して工場を作っても、監査にパスしなければ、その工場は稼動できない」ほど厳しいから、そう単純に喜んでもいられないのだそうだ。


リサイクルできるから採用された
 
しかしそれにしても、なぜ同社の容器はこのようなシェアを確保できたのか。これには少々説明が必要だ。
 
そもそも同社の競合は、信越ポリマーである。
「信越のよさは使いやすさにある。われわれのは使いにくい」とこともなげに兵部は言う。
 
ここに、ポイントがある。信越製の容器は使いやすくするために部品点数を減らし、容器の素材である樹脂と部品を一体成型しているというのだ。それに比して、同社製はすべてバラバラに分解できるようになっている。
 
ウェハー容器というのは納入するとウェハーメーカーの側でもう一度徹底して洗浄を行なう。少しでも汚れなどがあるとウェハーが駄目になるから慎重なのだ。この洗浄の際、一体成型してあると扱いやすく洗いやすい。ミライアル製は分解して洗うので、手間がかかるのだ。
 
それでも、なぜ、使われるのか。それはリサイクルの際に効いてくるからだ。この容器は、ウェハーの品質を保持するために、一回しか使用しない。あとはリサイクルするのだが、一体成型のものはリサイクルしにくい。ミライアル製は部品をばらせるので簡単にリサイクルできるのだ。なにせ、この容器だけで年間5000トンもの原材料を使用しているため、その費用とてバカにならず、したがって同社製の容器は人気が高い。
 
それに加えて、もう一つ見逃せない品質のポイントがある。半導体業界では世界的なスタンダードを作るために、1994年頃からスタンダード会議を各分野ごとに行なっているが、容器の分野でその基準を達成しているのは、日本の2社だけなのである。そもそもが世界的な競争力を持っているのだ。
「そのためには、さまざまなテストを繰り返しました。飛行機で運ぶ際の気圧の変化に耐えられるか。トラックでアメリカの砂漠を通る際の温度変化に耐えられるか。あるいは落とした際の衝撃には?(兵部)」
 
これらをすべて実験して出来上がった製品だから付加価値が高いのだ。


他社が真似できないローテク
 
そもそも、同社はなぜこのような特殊な分野に参入できたのか。同社の設立は1968年。当時同社が製造していたのは絶縁材料だった。それも電気特性が良く耐熱性の高いフッ素樹脂を使っていた。顧客は電機メーカー。その顧客が半導体を作り始めたと同時に、同社にも依頼が入った。工場内で使う半導体容器を作って欲しいと。シリコンウェハーというのは製造過程で硝酸、燐酸、硫酸など多くの強烈な薬品を使う。これに耐えうるという意味でフッ素樹脂が着目され、同社に依頼が入ったのだ。
 
このように書くと、たまたま波に乗っただけの企業のようにも見えるが、決してそれだけではない。
「一番のポイントになったのはスタンダード会議。ここで積極的に世界の大メーカーと議論を交わしたことが良かった。もともと日本が強い分野だったが、インテルともテキサスインスツルメンツとも議論ができた(兵部)」ことが幸いしたというが、そのために、同社は米国にサテライトオフィスを作って情報収集を重ねるなど、積極的な活動を続けていたのだ。
「うちはローテク。他の企業も真似しようがないし、そんなリスクは取れないでしょう」というのが同社の最大の強みかもしれない。 
 
シリコンサイクルという言葉は昔のものになりつつある。多様な分野に半導体が使われているので、分野ごとに波はあっても、平均するとフラットになりつつあるのだそうだ。こうなると、同社のように容器専業メーカーは強い。いつもニーズが存在しているのだから。
 
ただし、ニーズが高まるというのは、設備投資が必要だし、工場を動かすと昼夜作り続けなければならない。また、不具合が起きると、信頼性が必要な分野だけに、工場閉鎖にも繋がりかねないリスクがある。それさえ、万全なら同社の今後は安泰だ。

(2008・4・9)

【第17回】勢いで始めた会社を業界大手企業に成長させた「アイディア」と「緻密な戦略」

株式会社 テー・オー・ダブリュー

会社名はトップ・オブ・ザ・ワールド !?
 
大手家電量販店の店頭─。冬だというのに浴衣を着た女の子たちが道行く人に「クイズに参加して」と呼びかけている。この奇抜さに惹かれて通行人は中に入っていく。そこには大手パソコンメーカーの新商品を説明する人間がいる...。

この種のミニイベントは、今では街頭のあちこちで見られる風景だ。勢い、アイディア勝負となる。逆に言えば、請け負う側に立つと、知恵をどれだけ出せるかで仕事を取れるかどうかが決まる。これがイベント業界である。
このイベント業界の草分け的存在が(株)テー・オー・ダブリューである。
 
もちろん同社はミニイベントばかりやっている会社ではない。長野冬季オリンピックや2002FIFAワールドカップなども手掛けた業界大手企業である。2000年にはジャスダック市場に上場を果たした。
 
この会社の成り立ちが面白い。同社の設立の基になったのは1974年。当時慶応大学の学生だった現社長の川村治は「ミス・キャンパスコンテスト」を開催した。当時、公の場で女子大生が水着姿になったということで、社会的な注目を集めたのである。これが大成功した。そして、2年後の1976年、川村らは会社を設立する。それが有限会社テー・オー・ダブリューである。
 
それにしても変な社名だが、これにもいわく因縁がある。イベント会社設立のために喫茶店で準備していたとき、社名をどうするかで悩んだ。その時、背後で流れていた当時のヒット曲、カーペンターズの「トップ・オブ・ザ・ワールド」にふと耳を留めた川村がこう言った。
「頭文字をとって、TOW(Top of the World)にしよう」
 
しかし、登記しようとすると英文名の登記は認められておらず、仕方なくテー・オー・ダブリューにした。


弁当1食のコストにまで敏感になる
 
さて、素朴な疑問だが、イベント業はそんなに儲かるのか。これについて、川村は「利益は出る。しかもこれから伸びていく業種」と言い切る。
 
どういうことか。例えば、予算1000万円のパーティーがあったとする。その時クライアントはどういう効果が欲しいのか。それによって飲食に800万円、演出に200万円でもできるし、効果さえ出れば、飲食500万円、演出100万円でも可能だ。アイディア勝負の所以である。同社の企画部門は11人で「年間2000本の企画を作っている(川村)」と言う。
 
川村は説明する際によく数字を用いる。だからというわけではないが、同社のコスト意識は半端ではない。また、コストを構成する会場の情報なども大変緻密に考えている。
 
例えば、立食パーティーでも会場の規模と客の人数で出すものが変わる。1000�の会場でお客が1000人なら1人1�。立錐の余地がない政治家のパーティーのようなケースだ。この場合、食事より飲み物が中心となり、手でとる簡単な料理が付く。
ところが実際のパーティーとなると手にとるタイプの軽食はあまりはけない。従って出す量をセーブできる。逆に1人で3~4�スペースがある場合は、食事を出さないとダメ、といった具合だ。
「入社6、7年目の人間ともなれば、東京、大阪の主だったホテルの宴会場についてはスペースから使える電力量までほとんど頭に入っている(川村)」し、それを元に企画を立てる。
2002年ワールドカップの時には、幼稚園児、小学生併せて6000人が参加した。
「その時の弁当は親の数も考慮して12000食。コストが100円違えば、120万円ぶれる(川村)」から、どういう中身にするか、どういう質にするか、十分に吟味した。
 
質を落としてクライアントが期待している効果を落とすのは論外だが、綿密な計算があれば充分に利益を出していけるのだ。


イベント広告に風が向いてきた
 
この業界が伸びている要因として、川村はクライアントの変化をあげた。
「企業が作る商品が、例えばデジタル化の進展によって説明を要するものが多くなってきた。テレビや新聞のイメージに訴えだけの広告ではわかりにくい。そこで情報型の広告やミニ展示会などで、実際に触れ合うことで理解してもらうケースが増えた」と川村は語る。冒頭の「冬に浴衣」はそのいい例だ。
 
その上、効果を追求する傾向が高まり、従来は「総予算10億円」といった総額で予算を提示していたが、今では、広告はA社とB社。プロモーションはC社とD社という具合にあらかじめ発注先を選別して、その分野に強い会社に発注が来るようになってきた。これも得意なアイディア勝負にもちこめる理由だ。年間2000本の企画が生きてくる構図なのだ。
 
そう考えると冒頭のエピソードにも、背景には様々な広告業界の動きがあることがわかる。メーカーは実は当初、TVにスポット広告を出していたが、売れないとなるや今度は店頭でのイベントに切り替えた。つまり店頭でのミニイベントであったというわけだ。企業も四半期ごとに決算を開示するようになり、動きが素早くなってきたことが分かる。


創業時はリヤカーに雑誌を乗せて書店を回った
 
同社は、当初から上記のようにコストに緻密であったり、分析をした上でイベント事業に取り組んでいたわけではない。社名の由来でも書いたように「アルバイトの延長のようにして始めた(川村)」会社である。そんなに簡単に上手くいくわけがない。
 
だから「30歳頃までは転職雑誌を見ながら仕事をしていた」と川村は述懐する。当時、神田のとあるビルの一室で、電気代も払えず苦悶していた彼らは、やはり隣の部屋のベンチャー企業「ぴあ」の矢内社長に「それじゃあ、ぴあを売ってこいよ」と言われ、リアカーに雑誌を乗せ、書店を回ったこともあったという。
 
その彼らから学生気分が抜けたのが20年ほど前。企業として本気になったのが12年前。その時上場を決意した。
「2000年に上場しよう。売上高60億円、経常利益5億円、社員数は70人」と。社員数は売上と利益の規模から逆算して決めた。それまで博報堂と一社取引だったのを、電通など他の代理店にも企画を出し、いろいろな作業をシステム化していった。その結果、予定通り2000年に上場を果たす。売上高59億円、経常利益5億8000万円、社員数もほぼ70人と予定を上回る実績だった。
 
ところで同社は、少し前から中期事業計画の策定をやめた。
「目標数字は大切だが、一方でコストを下げることに注力しすぎると、雑になる(川村)」のを懸念したからだ。IRではアナリストから批判もあるが、実をとっていくのが川村の考え方だ。
 
効果に敏感でもある。こんな事を川村は言った。
「今の時代に、5大紙に同じ全面広告を打つなんてあり得ない。日経と朝日と読売とでは明らかに読者層が違う」。
 
あり得ないことをしている会社が存在している分、同社のチャンスはさらに膨らむことになる。2001年に同社が開講した「イベントプランナーズスクール」も実質的だ。企画マンを養成し、その人を人材として採用していくのだから。
 
その同社が、上場から7年後の現在売上高130億7000万円、経常利益10億5100万円をあげ(19年6月期)、「6年後に300億円」を目指すと言う。随分控えめな目標のような気がする。

(2008・4・1)

【第16回】紆余曲折を乗り越えたインターネット老舗企業の実力

株式会社インターネットイニシアティブ

インターネットは儲からないと言われ続けた
 
紆余曲折の見本、と同時に大変魅力的な会社であるのが(株)インターネットイニシアティブ(略称:IIJ)だ。2005年12月には東証マザーズに上場し、翌2006年12月には東証1部に上場を果たす。専用回線によるインターネット接続事業を柱にする同社はインターネット業界では老舗として有名な存在。日本での黎明期に会社を立ち上げ、優れたエンジニアを集め、常に業界のリード役を担ってきた。技術の先進性という点では、日本の代表格といえるほど定評がある。その会社がなぜ、紆余曲折を経たか。そこに日本特有のいろいろな課題が見え隠れするようで非常に興味深いのだ。

社長の鈴木幸一は「会社をやってきて、半分以上いい思いはなかった」と、率直すぎるほど率直に語る。
 
会社設立は92年12月。バブル経済が崩壊した直後であり、当時の郵政省(現総務省)はインターネットに、はなはだ懐疑的だった。郵政省に国際特別二種という枠で通信事業者の認可を得ようとしたが、その認可が下りないから事業がスタートできない。しかも、大手企業に行くとインターネットなんて使い物にならないと言われた。
「アメリカではこんなに進んでいるのだから、絶対に日本でも普及すると信じた(鈴木)」が、1年半もその状態が続くと、社員も「もうダメなんじゃないか」と思い始めた。鈴木は「打倒NTT!」と、大きくぶち上げるが、現実はあまりに厳しかった。
 
しかし、何とか食いつないだ。同社主催のセミナーを開催し、「カネが入ると、それをみんなで分配して給料の代わりにした(鈴木)」こともあった。
 
面白いのは、それでも人が辞めていかなかったことだ。なぜ、との問いに鈴木は「うーん、独身者が多かったしね。大体自宅から通勤できるというと採用するとかね」とはぐらかすように答えた。この話は後に譲ろう。


米ナスダック上場から一転、子会社が破綻
 
そんな中、郵政省も条件付で認可する方向に向いた。3年間無収入でも事業が継続できる資本があれば認可すると。鈴木は必死でカネを集めた。94年2月のことだった。
 
売上は徐々に伸びていき、その94年度は10億円、95年度は40億円、翌96年度は80億円とまさに倍々ゲームで成長していった。
 
鈴木は、インターネットがさらに拡大していくためには「NTTが参入すべき」と持論を展開し、業界の顰蹙を買ったが、実際にNTTが96年に参入し、業界はさらに成長の速度を早めた。
 
こうした波に乗り、IIJは、99年に米ナスダック市場に上場を果たした。
「NTTとの競争もあるし、やはりインターネットの本場アメリカに上場したいと考えたんですね」と鈴木は述懐する。当時の売上が130億円くらいで、「欧米から70億~80億円は調達できましたから、それなりに評価されていた」といえる。
 
これで順風満帆のはずだった。ところが、である。ナスダック上場の前年に作った子会社クロスウェイブが今度は足を引っ張った。
 
クロスウェイブとは日本発のデータ通信専用の通信会社だった。インフラ会社などはNTTに任せておけばいいのにと素人は考える。しかし、鈴木の考えは違った。
「自分たちでインフラを作る。しかもNTTより技術の高いところがやらないと競争にならないから(鈴木)」
 
クロスウェイブ設立は自分たちの技術を信じた、その自負から生まれたものだった。トヨタとソニーから出資を仰いで万全の体制のはずだったが、結果は失敗に終わる。
「結果としては早すぎたかもしれないと言われた(鈴木)」が慰めにもならなかった。悪いことは重なるもので、これに、ITバブルの崩壊が重なったのだ。環境は最悪、そしてIIJは赤字に陥った。
 
クロスウェイブは2003年8月に会社更生法を申請し、本社の経営を資金面で圧迫した。やむなくIIJは第三者割当増資を行ない、9月にはNTTグループが筆頭株主となった。クロスウェイブの事業はNTTコミュニケーションズに営業譲渡した。


売上高1000億円が視野に入った
 
しかしこれを契機に同社は体質改善がはかられ、骨太さを増していったのも事実だ。例えば、技術者優先の文化でマーケティングが弱い社風が一変した。
「エンジニアも営業の中で働くようになり、2003年度下期からは黒字に転換した」と鈴木が言うように、その後、現在まで増収増益を続けている。2007年3月期は売上高570億5500万円(前期498億1300万円)、営業利益35億円(同24億1100万円)を挙げた。前期が過去最高益だったので、今期はさらにそれを更新したことになる。
 
では同社の体制に死角はないのか。例えば、この業界は常に価格の下落と対峙している。それだけに利益水準がいずれ落ちることはないのか。あるいはインターネットそのものの普及がかなり浸透しており、市場に成熟感はないのか。
「日本は今でさえ、メインフレームへの投資が50%以上の国です。そもそもインターネットのカルチャーがない国だから、チャンスは大きい」と鈴木は主張する。例えば、同社の柱になってきたシステムインテグレーション事業にしても「インターネットベースのシステムインテグレーションというのは、まだ少ないから(市場は)非常に大きい(鈴木)」
 
こうした鈴木の自信の背景となっているのは、同社の技術力の高さなのだろう。
「うちは売れる商品の開発もやっています。そういう商品が世に出つつある」と鈴木は顔をほころばせる。苦労したものが報われてきたというのだ。
 
同社はこの4~5年の成長率を毎年10~15%と置いている。もし15%でそれを実現するとなると売上でほぼ1000億円の企業になる。
ところで、鈴木はよく「技術」という言葉を口にする。
「日本でインターネットが始まった頃の初期のエンジニアが残っている唯一の会社(鈴木)」だということが同社の誇りであることは間違いない。そして、スペシャリストたちをして「仕事が面白い」という環境を作り続け、そして若い人を教育し鍛えていったのが、文系出身で日本能率協会からこの会社の設立に転じた鈴木の役割だった。会社発足当初の絶望的な時期になぜスペシャリストたちが辞めなかったのも、そういう場を提供した鈴木あってこそだったのだろう。
「しょっちゅう喧嘩をしたし、よく飲んだ(鈴木)」という鈴木の泰然自若とした大らかな性格がこの会社を現在に導いたといったら言い過ぎだろうか。

(2008・3・25)

【第15回】僅か4年で1500億円に成長させた物流会社の愚直なM&A戦略

SBSホールディングス株式会社

有名会社を次々に買収
 
会社が大きくなるために、近年、M&Aほど多用されている手法はない。だが、そのイメージはともすればマイナスに働く。曰く「乗っ取り」、曰く「マネーゲーム」。実際にそう言われても仕方のないM&Aもある。

ところが実直なM&Aで業容を拡大している会社がある。それがSBSホールディングス(株)だ。物流業界で注目度の高い会社である。 近年、「物流」はあらゆる企業で注目せざるを得ない分野となった。なぜならIT化社会が進み、情報が瞬時に流通するようになればなるほど、実際の物の動きとその効率性の重要度が一層高まってきたからだ。この世界は競争が激しいことでも有名だが、その中で同社は4年少し前の2003年12月にジャスダックに上場した。当時の業績は売上高193億5900万円、経常利益3億6700万円だったのが、昨期は売上高1470億9800万円、経常利益79億200万円となっている。相当の急成長と言っていいだろう。
 
だが、エスビーエスという社名を聞いてもほとんどの人はピンとこない。でも、こう言えばどうだろう。この2年間で雪印乳業の物流子会社雪印物流(現フーズレック)を買収した。東急グループの物流子会社東急ロジスティック(現ティーエルロジコム)、引越センターのダック(07年10月にアートコーポレーションに売却)などを買収し傘下に収めた、と。
 
業績拡大の原動力になっているのは、冒頭の買収であることは間違いない。こう書くとやはり「カネの論理ではないか」と考える人はいるだろう。そうでなくとも、こうした労働集約的産業で規模を大きくして合理化できるような戦略は組めるのだろうかと、素朴に考えてしまう。
 
一連のM&Aについて、同社社長の鎌田正彦はこう語る。 「この業界は資本の大きいところが強い。そうでないとどうしても下請け、孫請けなどの存在になってしまう。規模が小さいと大きな仕事ができず、また赤字にも耐えられないのです」  全国に6万社ともいわれる物流業界は大手が支配的に小さな会社を使っていく構造がある。小さな会社が大きくなろうとしても、大きな仕事がなかなか取れない。そうなると下請けに甘んじざるを得ない、というのが鎌田のいう構造論だ。それから脱却するためには買収して大きくなるしかない...。
「うちは小さな力を結集して、大きなところと競っていく存在になりたい(鎌田)」
 
そのための買収なのだ。


何でもできる物流会社を目指す
 
だからというわけではないが、買収自体は派手に見えても、その過程では常に相手が納得できるように交渉するのだという。雪印の場合は、「大事な子会社なのだから雇用を守ってくれるか、すぐに売却したりしないか」という相手の問いに、「われわれは本業が物流。業務を改善して、最終的には雪印の物流コストを下げる」と愚直に答えた。
 
入札では投資ファンドとの争いになるケースが多いが、あくまで、自社の立場を崩さず理解を促すやり方に、売る側も納得させられる。
 
実際に、傘下に収めた会社の経営の融合は、気を遣いすぎるほど慎重に進めている。雇用を守り、人を送り込まず、そのままの体制で経営させる。融合のために自ら出かけて行き、役員や幹部と会議を行なう。決して高圧的に押しつけない。時には酒を酌み交わす。
 
もちろんそれだけではない。買収の効果を出すための計画も着々と立てている。まず6000台にもなったトラックをGPSでつなぐ。配送の空きをなくすための手法である。これでトラックの稼働率を2割上げる。物流倉庫も1つの大きな倉庫に集約する。こうして、大手物流会社と対抗していくというのだ。
 
エスビーエスの買収戦略は、実は物流を起点とした総合的なアウトソーシング業の構築のためである。
「何でもできる物流会社を標榜している(鎌田)」という言葉通り、メーカーがお客なら、作ることだけに特化してもらい、他はすべて引き受ける。物流のみならず、人材供給も、マーケティングも行なう。買収がその戦略を可能にさせる。
 
例えば、会社の引っ越しがあれば、当然社員の引っ越しも付いてくる。断らない会社だから、引っ越しも大きく事業として取り込む。
 
だから、メール便の会社もあれば、マーケティングサービスの会社もシステム構築の会社も物流コンサルティングの会社も持つ。参加の物流会社にも食品輸送から、一般輸送まで専門子会社群が列をなしている。


小さな会社の集合体で大手の牙城を崩す
 
鎌田が事業を始めたのは、大手運送会社にいたときの経験が元になっている。「その会社は、A地点からB地点までを届ける会社だった。だから、いろいろな仕事を断っていた(鎌田)」というのだ。だから、「断らない会社をやろう(鎌田)」とした。
 
物流を起点とした総合的なアウトソーシング業というのはそこに端を発しているのだ。
 
もちろん、こうした戦略が本当に機能するのか、という疑問は常にある。しかし、鎌田は専門分野の事業それぞれを、その分野のトップクラスに持っていくことで、それぞれが独立した強みを発揮し、その集合体として総合的に強みを破棄できるようにしようとしているのだ。
 
だから、鎌田にはそれがうまく機能するイメージしかない。いや、うまく機能させるために傘下の会社を飛び回って「融合」を図っているのだろう。
 
エスビーエスの目標は4~5年後に売上3000億円、利益で3~5%(90~150億円)の規模になることだ。そうすると業界で6~7位の規模になる。それが実現すると、鎌田の構想通り、小さな会社の集合体で大手の牙城を崩すことになる。
 
同社が順風満帆であることは分かる。しかし、「12、3年前まではいつ潰れてもおかしくないような会社だった(鎌田)」。実際、潰れそうになったことが3回ある。それを持ち前の粘り腰で回避してきた。その12年前、ある経営者向けの塾に入り、周りの経営者たちが上場を目指しているのを知って驚いた。講師はベンチャー経営者の先達ばかり。その時に「俺もできるんじゃないか」と初めて上場を意識したという。余談だが、その塾の講師にはワンマンで知られた経営者もいた。しかしその会社はその後おかしくなっていく。鎌田が買収した企業との融和を高圧的ではなく、一生懸命粘り強く行なうのは、そんな経験がベースにあるからかもしれない。粘り腰だけではない。頭の良い経営者でもある。

(2008・3・18)

【第14回】後発のアパレル会社を一部上場にした社長の「理論」と社員の「感性」

株式会社 パル

「理論」と「システム」で高成長
 
世の中に理論好きの経営者はたくさん存在するが、ファッションの分野で異彩を放つ理論家と言えば、株式会社パルの社長である井上英隆をおいて他にない。流行にはそれ自体サイクルがあり、流行の権化のようなアパレルの分野ではそれを活用していくことこそ成功の道と説く。しかも、その理論に基づいてヒットを生み出すシステムを作っていけばいい。その両輪があれば、事業は成功すると説く。

そんなに簡単にいくものだろうかとつい考えてしまうが、この人の理論には説得力がある。なぜなら実績を上げているからだ。それでなければ生き馬の目を抜くような業界で後発も後発からスタートし、一部上場にまで上り詰めはしないだろう。その理論とシステムはどんなものかという前に、同社の中身について触れておこう。
 
同社の商品ターゲットは、若い層である。ところがこの世代ほど多種多様な好みをもち、しかも移り気な層はない。高いファッションセンスを持ったファッションリーダー、それを追うトレンドフォロワー。奇抜なストリート型ファッションを好む人もいれば、流行に左右されるのを好まない人もブランド大好きな人も。同社はこうした若い層をターゲットに30ものブランドを展開しているのである。
 
2000年にJASDAQ上場、2006年8月には東証1部に昇格した。
 
売上高は05年2月期の305億1400万円から翌07年2月期は554億4500万円に上昇、経常利益も20億2800万円から52億2100万円(いずれも連結ベース)へと急成長がはっきりと窺える。
 
ヤングの購買意欲はデフレ不況下でもさほど減退しなかったとはいえ、この会社のどこに成長の源泉があったのか。それこそが、井上が標榜する「理論」と「システム」なのである。


ファッションは12年サイクルで動く
 
井上はおよそ20年ほど前に、ファッションには一つのサイクルがあると考えた。そのサイクルは12年で一巡する。この理論を元に井上が作ったのが「パルマップ」というものだ。
この12年サイクルとはどんなものか、どうやって作ったのか。
「コンサバが流行ると次にはエレガントへと流れ、ユニセックスへと移行しドレスダウンへと向かう。それが大体12年のサイクルで一巡してくる」と井上は説明する。つまり、時代の流れによってファッションも変遷するわけだから、必ずAという傾向のファッションの次にはBという傾向のものが生まれ、それはさらにCやDへと移っていく。金利が上昇すると貯蓄が増え、設備投資は控えめになるが、金利が下がるとその逆になる。といった景気の循環と同じ考え方である。
 
これを知るために、井上は戦後の220~230ものブランドを一つの表に時系列に置いていき、そのライフサイクルがどのように推移していったかを一つひとつ検証したのだという。
「ただ重要なのはそれがスパイラルで進んでいることです。一時代前のコンサバと次のコンサバでは微妙に違う、そこが重要(井上)」だからこそ、そこに感性が必要になってくる。


おもろい奴かどうかが採用の基準
 
そこで重要なのが、その理論を具現化するシステムということになる。
「ヤングのファッションは流れが速い。この流れを敏感に感じ取って商品化していくシステムがあればいい」と考えた井上は、面白い提案制度を編み出した。
「お客さんと同世代で、感性の優れた人間に次はこれだ!という提案をさせるんです。ウチには『拝啓社長殿』という提案制度があって、社員はもちろんアルバイトやパートでも提案できる。今から流行るモノを今提案しても遅い。次はこれだ!というモノを提案の中からピックアップし、その提案者にマーチャンダイザーをつけて商品開発をしていくんです(井上)」
 
実際、アルバイトが提案したあるブランドは、一時期、同社の売上の半分を占めたほどである。こうしたシステムの下、毎年50~60の提案があり、その中から、3~4つを選ぶ。社長が見てゼネラルマーチャンダイザー(GM)が見て、事業部長に担当させていく。
「元々後発だったので、トレンディでないと伸びていかない(井上)」から、採った方策なのだそうだ。
 
しかしここでもう一つ重要な点に気付く。ではそんな感性の優れた人をどうやって採用するのか、である。
 
同社の採用は極めてユニークだ。毎年、ネットで6500人もの応募がある。来るのは4500人程度。出身校も成績も関係なし。書類審査もなし。来た人はすべて面接する。採用基準はただ一つ。「おもろい奴」かどうか。だからリクルートスーツで来た人間などもちろんダメ。一次面接が大変だ。東京で2回、大阪で3回。一人当り5分程度。ここではむしろ面接官の感性が試される。社長も参加して人物をじっくり見ていくのは三次、四次の面接からだ。


地方都市にも販路を広げて売上高1000億円達成
 
このシステムを語るには、もう一つ重要なポイントがある。それは、こうしたシステムの下では自社で商品の企画開発から製造、販売までを一貫して行なっていく場合にのみ、最大の強みが発揮できるということだ。
 
ファッション業界では、この企画・製造・販売を一貫して行なうことをSPAと呼んでいる。同社がこのSPAに取り組んだのは17年前。本格的に始めたのは97年からである。
 
JASDAQ上場時はSPA化率35%程度だったのが、現在は70%以上。
「すべて仕入れて売るだけの小売りの時は荒利42、43%で経費が38、39%だった(井上)」というから経常利益率は4、5%。だが、今は10%近くある。
 
現在、実行中の3カ年中期計画では、「売上高700億円。その後、第二次3カ年計画を達成すると売上1000億円で経常利益130億円(井上)」になる予定である。
 
そのための課題は一つ。販路の多様化である。同社は直営で店舗展開を行なっているが、現在は大都市圏中心。
「これを30万~50万都市にも拡げたい。百貨店にも入れるし、その時には量販系のファッションも作っていかなければ」との思いが井上にはある。これを実現させれば、名実共に業界の一翼を担う存在となる。
 
ところで、パルの経営理念は「みんなの幸せのために」というものだ。漠然としているようにも思えるが、この理念には命がかかっている。実は、社長の井上は16年前に頸椎軟骨症という大病を患っている。大手術をしなければならず、それまでの2週間は悪い方へ悪い方へと物事を考えていったという。
 
医者に手術の失敗の確率を尋ねると「飛行機が落ちるくらいの確率」と答える。それでは安心できず「でも最近、飛行機はよく落ちるでしょう」と医者に返すと、医者も「そうやな」と言った。
 
漫才のようだが、そこで井上は俺の人生は何だったのかと自らに問い直した。考えついたのが「みんなの幸せのために」という経営理念だった。
「それから会社が変わりました」と言う井上の笑顔は、爽やかそのものである。

(2008・3・11)

【第13回】青臭いほどに社会正義を貫き通して高成長、転職サイト会社の底知れぬ真っ当さ

エン・ジャパン株式会社

「転職は慎重に」と訴えて7年で30倍以上の高成長

「事業というのはそれ自体が社会貢献です。しかしウチはそれだけじゃだめだと言っている。その事業に社会正義性がないといけない。だからその条件を満たす事業しかしない」 こう語るのは、転職サイト大手、エン・ジャパン社長の越智通勝である。エン・ジャパンという会社はテレビCMなどでご存知の方も多いだろう。爆笑問題が出演し、コントの後、「転職は慎重に」とメッセージが流れる。

数多ある求人情報の広告の中でも異彩を放っている広告である。転職を勧めるのが転職会社の広告だろうに、「慎重に」はないだろう、と凡人はつい思ってしまいがちだ。しかし、社長の越智の考えは違う。
「この業界はひどい企業が多い。だから大きくなってはいけない。大きくなると企業を困らせる」と言う。例えば、35歳までの人材を求めている企業に、それでは人が集まらないからと40歳まで範囲を広げるように言う。その結果、人は集まり、人事部長は面目が立つかもしれないが、集まった人材の質は求めているものとは明らかに違う。
「だからわれわれは求職者の立場に立たなければならない(越智)」
 
詳しくは後述するが、その一つのメッセージが「転職は慎重に」なのだ。
実際、転職市場は大変な勢いで伸びてきた。景気の上昇もあったが、それ以上に七五三と言って、入社3年で中卒者の7割、高卒者の5割、そして大卒者の3割(3.5割とも言われる)が退社するという、昔では考えられないような状況が現出している。
 
転職市場が活気付くのも当然だ。しかもこの市場では、以前は『ビーイング』などの分厚い紙の情報誌が主流だったが、近年はインターネットを利用した転職情報に急展開してきた。
「リクルートですら紙とネットの比率を大幅に変えた(越智)」
インターネット専業の同社は、ここ数年急成長を遂げている。
 
同社が設立された2000年の売上高は6億2000万円で経常利益が2億4900万円。以来増収増益を続けており、翌2001年にはナスダックジャパン(現ヘラクレス)市場に上場。2007年度の業績は売上高226億8600万円、経常利益75億7300万円だから7年で売上高は36.6倍、経常利益は30.4倍の急成長を示したことになる。


広告主のいい面も悪い面も正直に掲載する
 
エン・ジャパンはそもそも日本ブレーンセンター(株)という会社の一部門として出発した。日本ブレーンセンターは1983年に越智が創業した会社だが、実はリクルートの代理店だった。それがなぜ、リクルートと競合関係になるまでに至ったのか。越智はこう答えた。
「リクルートは代理店と同時に直接営業もやっている。当然バッティングも出る。優良な顧客でぶつかると彼らは何と値下げをしてきた。代理店に依存しながら、一方で代理店つぶしのようなことをやる、そんな体質に我慢ができなくなった」
 
そこからリクルート離れを考えた越智は、伸びつつあるネット市場に注目する。
「今からならこの分野でトップになれるかもしれない(越智)」と考えた。
 
日本ブレーンセンターに転職情報サイト「縁」エンプロイメントネットを開始したのが95年。そこから分離独立してエン・ジャパンを設立したのが2000年というわけだ。
 
しかし、それにしても疑問はある。なぜ数多ある求人・転職サイトの中で毎年常に高成長を遂げていけたのか。ネットがコスト安で済むといっても、なぜこんな利益率を維持していけるのか。経常利益率は毎年30~40%を示しているのである。
 
その答えの一つが同社のうたい文句にもなった「転職は慎重に」という言葉である。本当に慎重な転職を勧め、そのためさまざまな手を打ったのである。

 
エン・ジャパンのサイトをよく見ると、まず求人企業の紹介が通り一遍ではない。いわゆる募集要項以外に会社の雰囲気を伝える様々な工夫がなされている。取材者の印象などという第三者的視点の記事もある。写真はおろか、動画まで付いている。
「ウチは一言でいうと取材をするということです。その企業のいい面だけでなく、全てを正直に取り上げる(越智)」
 
まるで、硬派ジャーナリズムのようだが、越智はどこまでも本気である。しかし転職がミスマッチに終わらないように、正直にその企業の情報を提供するというのは、理屈ではわかるが、企業の反発もあるのではないか。
「結果として応募が増え、定着率が高まるのなら企業はまたウチを使うようになってくれる」と越智はその疑問に答えた。最近では求職者の満足度を調査するし、企業に転職した人間がどれだけ活躍しているかをもフォローするという徹底ぶりである。
 
それにしても動画も含めて、それだけ細かく情報を提供するとなると、制作コストも並大抵ではないはずだ。一方、利益率は相当高い。なぜか。
「他が4人体制(営業、ディレクター、コピーライター、カメラマン)で作るところをうちは2人で作る。営業とコピーライターで写真も動画も撮る。その結果、コストは他社の半分以下です。創業当初からそうしているから個々のレベルも否応なく上がる(越智)」
 
そういう風土ができているのだと、越智は強調する。


ヤフー、リクルート連合の戦争にも勝利
 
このように話を展開すると、エン・ジャパンは本当に順風満帆に見えるが、実は大変な経験もしている。
それは2004年4月からスタートしたリクルートとヤフーの包括提携だ。これはエン・ジャパンにとっては存亡の危機だった。
「2002年末に、この話は出ていました。そこで(ヤフー社長の)井上さんに聞いた。すると『上は合意しているが下が反対しているのだ』と。早晩この話は実現すると考えすぐさまアクションを取った」
 
ここからが越智の真骨頂だ。広報宣伝戦略をがらりと変えた。ネット以外の広告を使い、ヤフー経由の比率を下げるようにしたのだ。当時ヤフーのシェアは20%だったのが、2003年3月には10%まで減少した。またこの時から、広報宣伝予算は売上の25~30%を投入した。2007年度の売上高は226億8600万円だから単純に30%で計算すると、68億円ものカネを投入していることになる。
 
その結果、サバイバルレースに勝ったのはリクルートとエンジャパンのみ。当時増収減益の予想を発表したが、締めてみたら大幅な増収増益だった。それから、3年が経ち、さらに形勢がはっきりとしてきた。リクルート=ヤフー連合が伸び悩んでいる中、同社の伸びは大きく、そして、昨2007年末、12月12~25日の集計時点で、同社は初めて求人広告の社数でリクルートを抜いたのである。
「結局、みんな他に行ってもウチに戻ってくる」 ユーザーのことを考え、採用の効果を考えて、しかもフォローも行なう。何か問題があれば、分析して再提案する。この業界の多くが何となくうやむやにしてしまう対応とは明らかに違うのだ。

 
越智に同社の目標について聞くと、即座に「目標はない」と答えた。中期計画を策定することもしない。したがって3年後に目標○○億円などとも言わない。それでいいのだと言う。では、今後の展開についてはどうか。
「とにかく、利益を上げるのはもちろんだが、独自性と社会正義性とがない事業はやらない。逆にその点が満足できれば、何をやってもいい(越智)」
実際には、そのコンセプトから生まれたサイトも出てきている。一つは「【en】本気のアルバイト」というサイト。もう一つは「【en】高校生」サイト。前者は、いい加減な考えでなく、本気でできるだけ長期に働いてもらうためのアルバイト情報サイト。後者は高校生が変なSNSに入り込まないように、きっちりとフィルターをかけ、参加者をはっきりと特定した高校生のための健全なSNSの運営サイトである。
 
どこまでも真面目に青臭いほど社会正義を貫く会社だ。しかしいい会社である。

(2008・3・4)

【第12回】世界中のアスリートに信頼される会社の「超素人発想商品」

ファイテン株式会社

日本企業で初めて米MLBに認められた信頼性
 
独創的な技術は得てして、素人の発想から生まれる。専門家は最初から既成概念を持っているため、どうしても枠を超えた発想が出来にくい。しかし、素人は「こうあればいい」という夢があり、それを現実化しようとする。そのためには既成概念など関係ない。そのとらわれのなさが、大きなブレークスルーを生むのである。

さて、その独創にもいろいろあるが、ファイテン(株)のそれは世界を驚かせるような「超」がつく技術である。それは何か。絶対に水に溶けないといわれているチタンを水に溶かしたのである。
 
ところで、ファイテンがどんな会社か知らない人もいるだろう。一言でいえば、健康をサポートするためのいろいろな商品を作っている会社である。もっと分かりやすく言えば、多くのスポーツ選手が首にかけているネックレスタイプの輪を作っている会社と言えばどうだろう。商品名を「ラクワネック」というこの商品は、野球では阪神の金本知憲、MLBダイヤモンドバックスのランディ・ジョンソン、プロゴルファーの片山晋吾、マラソンの高橋尚子、ポーラ・ラドクリフなどの契約選手をはじめ、各競技で、多くのトップアスリートが愛用している商品である。それも選手が勝手に使い始めたケースが多いのだ。
 
このラクワネックとは一体どういう効果があるのか。医薬品の認可が下りていないので、同社では効能についてはうたっていないが、これを着けると、身体の中を四方バラバラに流れている電流が一定の方向に流れ始める。力が出やすくなる。血流がよくなる。その結果筋肉がほぐれる。何よりトップアスリートが自ら進んで、これを装着し、愛用しているのが何よりの効能だろう。
 
このファイテンが、昨年12月、グランドプリンスホテル赤坂で、世間がびっくりするような発表会を行なった。それは、同社が日本メーカーで初めて、MLBのオーセンティックコレクションのライセンスを受けたのだ。信頼性の高い用具にのみ認められるこの契約は、MLB側が選手や関係者を調査して決めるもので、契約を結ぼうと思っても出来ない構造になっている。それが、ミズノでもアシックスでもなく、ファイテンに下りたのだ。社長の平田好宏は「一体どれくらいの販売量になるのか見当もつかない」と喜びを隠せない。今年から、同社はMLB各球団のロゴ入りグッズを作り、商品は米国内やネット上で販売されることになる。


素人の発想がチタンを水に溶かした
 
社長の平田好宏が同社を設立したのは、1983年。平田はもともと京都で治療院を経営していた。研究熱心で、お客のホームケア用にいろいろな治療具を開発していたが、装着させると楽になる素材を発見した。石英ガラスだった。これがお客の間で人気を呼び、値段をつけると飛ぶように売れ、徐々に、治療院よりも器具作りがメインになっていった。平田はさらに効き目のいいものを作りたくて水晶などいろいろな素材を試したが、最終的に行き着いたのがチタンである。チタンは錆びないし、金属の粉に出来る。この粉末を布などに貼り付ければ、テープなどに加工出来る。応用範囲が広がった。
 
この頃から、陸上などの選手の間では、このチタンのテープが人気を呼び始めた。有名選手も使い始めたのである。
 
しかし、ここで平田は素人の発想を発揮する。チタンを接着剤で付けてもごわごわする。もっといい方法はないか。そこでこんな要求を技術者に出したのだ。
「もっといいのはチタンを溶かすことだ。何とかやってみろ」
 
結論から言えば、チタンが水に溶けた。これで、加工力が大幅に上がった。チタン水溶液に生地を漬ければチタンが吸着する。あっという間にチタン含有生地が出来てしまった。
こうして開発されたのが、アクアチタンという製品で、ラクワネックに使われているのはこの技術なのである。
 
それまで、チタンを粉にして接着剤で貼り付けていた工程が、水に溶かすことで生地を水溶液に浸すだけですむようになった――。この工程の短縮がどれほど付加価値を生んだかは、素人でも分かる話である。ちなみに現在はこの技術を応用して、金も銀も溶かしてしまった。
 
同社はこの技術を開発した2003年から爆発的に売上げを伸張した。トップアスリートには好評だった同社の技術が、ラクワネックの発売によって、一般の消費者にも受け入れられ、売上げが大幅に拡大したのだ。2003年度は前年の売上高70億8200万円から一気に202億300万円に急増している。


ドイツの学者がこの効用を証明した
 
同社の売上げは、突出した2003年度の後は150億円前後で安定している。2007年度の売上げは165億5400万円、経常利益は4億7160万円(いずれも連結ベース)となっている。しかし、ここに来てまた急拡大の動きがある。それが前述したMLBのオーセンティックコレクションのライセンス契約である。平田はしかし、慎重にことの動きを見ている。
「今年は様子見です。一体どれだけ作ればいいのか、ラインの確保もあるし慎重にやっていきたい(平田)」
 
ただし、ファイテンに追い風が吹いているのは確かだ。その一つが、ドイツの医学者によるファイテン商品の研究成果が発表されたことである。
 
ドイツ、ブラウンシュバイク工科大学のマーチン・コルテ博士は脳神経外科の教授だが、自ら使っていたファイテン商品が、趣味の山登りに効果があると感じたことが始まりだった。ファイテン商品を着けていると疲れが違うと感じたのである。博士は日本にインタビューに来て、さらにドイツで研究を始めた。論文のタイトルは「アクアチタンテープが中枢神経系の神経細胞に及ぼす影響について」。神経細胞というのは(怪我など)ある異常な状態を経験すると、興奮のテンションが下がらなくなるのだそうだ。この細胞が「痛み」という情報を処理するのであれば、今度は(怪我をしたときよりも)少ない刺激でも同様の「痛み」を感じる。俗に言う「古傷が痛む」のはここからきている。ところが、チタンテープを貼ると、それを抑制でき、しかもなんら害毒を及ぼさないのだという。博士はこれを学会で発表し、各国の学者から絶賛を受けたという。
 
こうした、動きは海外で広まっている。シンガポールでは製薬会社とコラボレーションを始めた。医薬品カテゴリーのローションを発売する予定である。
「結局われわれの商品は効き目を実感してもらうことでしか動かない。だから、タレントを使って宣伝することはしない(平田)」。


米や卵まである商品に加えて、健康エステも展開
 
そして今、中国での展開が爆発的に広がっている。販売拠点は170箇所。4年前、ある日本のオーディオメーカーの中国代表を務めた人物に任せたことから、中国での販売はスタートした。1年目から黒字を出し、3年目の同社の利益を2倍上回った。売上げは日本の約2分の1である。
 
こうした海外の動きを見ながら、国内でも着々と手を打っている。その一つが健康エステである。今までは商品を売っていたが、それを使ったボディケアを自社でやっていこうというのだ。現在東京・銀座に「ファイテンサポートシステム銀座」としてオープンしているが、その第2弾を大阪・心斎橋につくる予定でいる。
 
ファイテンの商品カタログを見るといろいろな商品があるのが分かる。ラクワネックにアクアチタンテープ。さまざまなウェア、下着、ウォーキングシューズ、健康食品、そして金を溶かした水。米に卵もある。
 
これだけを見るとあまりにも商品が広がりすぎていないかと心配する向きもあるかもしれない。しかし、平田はこの効用をいろいろな商品に託して消費者に伝えたいのだ。ファイテンの卵はニワトリにごく微量の金の水をえさに混ぜている。すると、他のブロイラーとは明らかに違って、そのニワトリだけ鶏冠が真っ赤に色づいてくるのだそうだ。
 
その卵を食べさせてもらった。新鮮な卵ほど黄身が盛り上がると言われているが、そんなものじゃない。割ると黄身の盛り上がりかたが違うのである。
 
平田は恐らく治療院を経営していた昔とスタンスが全く変わっていないのだろう。お客のためになりそうなことはとにかくやってみる―。だから平田の顔はいつも輝いているのだ。

(2008・2・26)

【第11回】世界最大の発行部数、フリーペーパー『ぱど』の目標は2000万部

株式会社ぱど

新聞広告は減っても折込チラシは伸びている
 
一般にメディア事業ほど立ち上げの難しいものはない。特に多様なメディアが現出している昨今においては、その感が強い。インターネットメディアがいい例で、数多あるサイトの中で、認知度を得ることは大変な労力を必要とする。いきおい大資本が多額の資金を投入してその認知度を得ようとするが、これも上手くいくケースは稀である。雑誌の創刊にしても、数億円かけて宣伝広告をうってみたところで、最初からの成功は難しい。

このメディア事業に、小資本で挑み成功した会社が(株)ぱどである。雑誌名は『ぱど』。パーソナル・アドの略だ。昨今のフリーペーパーブームのずーっと以前から発行されており、フリーペーパーではダントツの強さを持つ。発行部数はなんと1180万部。この部数、世界記録としてギネスブックにも掲載されている。
『ぱど』は、実は昨今の後発のフリーペーパーと一線を画している。後発組が駅などに設置したラックに置く形式であるのに対し、『ぱど』は宅配型なのである。駅で配布するものは電車の中で読むように作られているのに対し、宅配型の『ぱど』はチラシの集合体と考えればいい。つまり読者が違うし、目的も違うのだ。
 
では、なぜチラシなのか。考えてみればいい。新聞に挟まれているチラシ。みんなチラシには目を通す。特に主婦は新聞よりもまずチラシに目がいく。男だって不動産広告を見るのは結構好きである。チラシは地元の情報だ。それを見て、行動する。安売りがあればその店に行き、イベントがあればまた出かける。乱暴な言い方だが、チラシはよく読まれるのだ。そこに手に取らせる工夫さえあれば...。
 
実際、日本の媒体別広告費の推移(電通)をみると、新聞の広告費は減少の一途をたどっているが、折込チラシのそれは、僅かずつだが伸びている。つまりマーケットがあるということなのだ。
 
だから『ぱど』は工夫した。チラシを一冊の雑誌にまとめ上げた。しかも街のお店、地域の不動産といった広告などに加え、米国などのフリーペーパーの原点ともいうべき「売りたい・買いたい」という個人広告を載せたのだ。チラシ風雑誌は、ただの折込チラシと違って、読みやすく編集されているし、クーポンも付いている。
 
単純だが、これが『ぱど』が成功した理由である。そしてこれを宅配した。
 
だから、大手出版社がこの業界に参入した時にも、「あっちは割引の専門誌。お店を利益なき繁忙に駆り立てる」と社長の倉橋泰は取り合わなかった。


10数年かけて作った他社が真似できないインフラ
 
倉橋が『ぱど』を創刊したのは、1987年。当時、荏原製作所の社員でアメリカに駐在していたときに、現地でフリーペーパーに出会った。これだ、と思い日本に戻ってから新規事業として提案。これが認められて、起業した。荏原からMBOで独立したのは92年。2001年にNASDAQ JAPAN市場(現ヘラクレス)に上場を果たす。
 
14年で上場したこの歩みは、メディア事業という視点でとらえればそれほど速くはない。メディア事業は5年もすれば決着がつく。成功してきっちり利益が出るか、あるいは撤退か。
 
しかし、この歩みののろさにこそ、ぱどのもう一つの成功の秘密が隠されている。それは一言でいえばインフラの強さである。『ぱど』を配布するパートの女性を同社では「パドンナ」と呼んでいる。この人たちが新聞販売店と同様の配布ネットワークを作り上げた。その数何と1万4000人である。
「今うちと同じ規模のネットワークを作ろうとしたら、100億から200億円はかかるでしょう」と倉橋が言うように10数年かかって、この精緻なネットワークを作り上げたことが同社の最大の資産となった。試行錯誤しながら、地道に作っていった成果である。だから競合他社はスタンド置きしかできない。インフラが違うのである。


赤字からの脱却に見せた集中力
 
実は、ぱどは上場した後の2002年度に赤字を経験した。01年の「9.11テロ」に翌年3月のSARS騒動で広告が激減したからだ。株価は大きく下げた。
「影響は大手企業では出るけれど、地元のお店には影響はないと踏んでいた(倉橋)」だけに、衝撃は大きかった。小さな店や消費者ほど、先行き不安に敏感に反応することを知らされた。ここからが倉橋の真骨頂だった。
『ぱど』の戦略を分析し直した。その結果わかったことは、営業力が落ちていること。事業の拡大に伴い、人の補給が追いついていなかったのだ。もっと既存市場で営業力を高めなければ、収入は増えない。そこで赤字にも拘わらず人を大幅に採用した。1年間で100名近くも。営業の素人でも広告が取れるように、パターン広告を増やした。
 
さらに、成功体験を持つ営業マンのノウハウをネット上に披露させた。凄い成功体験を披露した人には評価に応じて賞金を出した。その成功体験を利用した人にも、その体験を披露させた。こうして成功の法則が次々に蓄積され、共有されていった。
 
組織も変えた。各営業所ごとに編集、営業、配布の人間をまとめた。この方が組織の風通しがよくなる。でも「経営的にはコスト高だから大変な決断だった」と倉橋。営業所の裁量がこれによって飛躍的に高まった。
 
同時に営業エリアの見直しも行なった。エリアのお客と読者とが一致していないとそれこそ効果が薄れるからだ。
『ぱど』本誌にも手をつけた。創刊以来の大リニューアルを敢行した。
「読者アンケートを取ったらつまらないという声が多かった。考えてみれば、創刊したときと時代は大きく変わっている。我々も変わらねば」と檄を飛ばした。
 
雑誌の前の方にあった『ぱど』の象徴である個人広告を後ろに移した。
 
こうして2003年度の下期から収益は大幅に改善していった。


最大の狙いは東京都心部
 
現在、ぱどはさらにいろいろなチャレンジを試みている。
 
昨年でいえば、上海版『ぱど』とも言える『ミーハー』のテスト発行。もう一つは昨年創刊したバースデーマガジンである。上海版はテスト段階までで、その先には進まなかったが、バースデーマガジンは携帯版へと進化した。
 
またそれ以前には、ラック置き型のフリーペパー『ぱどタウンマガジン』を本格的に首都圏にもってきて、他社のラック置きフリーペーパーと本格的に戦いを始めている。
 
実は『ぱど』の弱点は駅周辺のような都心部にある。駅を中心にドーナッツ状に家庭に配布されると、真ん中に空白地帯ができるのだ。そこにはラック置きが跋扈している。オフィス版の『ラーラぱど』はあるが、それに対抗するにはまだ弱い。そこを拡充しようというのだ。
 
そして、それを後押しするのが、携帯サービス。その名も『ぱどモ』である。電話帳データを持っている日本ソフト販売(株)と組んでテストを2005年10月にこのサービスを開始した。電話だけでなく、これを『ぱどタウンマガジン』と連動させ、お店の広告にをQRコードを付き、それを携帯で読みとると、地図も含めた詳しい情報が得られる。これを武器にして都心部を狙う。最大の狙いは東京都心部だ。何せ『ぱど』家庭版の配布エリアではそこだけ真っ白なのだ。

(2008・2・20)

【第10回】手間暇もコストもかけてシニアビジネスに取り組む、急成長一部上場企業の本気

株式会社ゼクス

実業感覚で不動産ビジネスを興し急成長
 
ビジョンを明確にして、長期的な視野で事業を行なうということは、経営者なら誰でも口にすることだが、実際にそれを実行できる人は少数である。その少数の経営者の一人がゼクスの社長平山啓行である。ゼクスは不動産コンサルティングを主事業にする東証一部上場の企業だが、現在注目を集めているのは、数年前から注力しているシニアビジネスである。こう書くと、今のトレンドにあやかっている企業のように聞こえるが、決してそうではない。全社を挙げて、本気になって取り組んでいる姿がそこにはある。

その本気度は後述するが、まずは同社の業績を見てみよう。同社は2003年4月に店頭市場に株式を公開して以降、急成長を遂げており、2006年11月には東証一部に指定換えとなっている。業績は2003年5月期が売上高73億1200万円、経常利益7億1400万円であるのに対し、2007年5月期は売上高589億円、経常利益37億5500万円とまさに飛ぶ鳥を落とす勢いだ。
 
この成長について平山に聞くと、「時流に乗っただけ」とそっけない。
 
それだけではこんな急成長はないと重ねて問うと、平山は考えながら「よそと違うところがひとつある」と付け加えた。それは「不動産業でも実業をやりたいと思ってやってきたこと(平山)」だそうだ。
 
それはどういう意味か。
 
実は、平山は大学卒業後伊藤忠商事に入社した。その当時から実業に対する意識が強く、不動産でも実業をやりたいと考えていた。
 
だから、96年に同社を設立した時から、土地を買って転売するということはあまり行なわず、ビルを建てれば運営も全部社員で行なう方式をとってきたのだ。これは同業他社との大きな違いといえよう。
「不動産というのは現場が大事です。現在社員数はグループで2000人いますが、本部は170人で、後はすべて現場で運営に当たっています(平山)」


人任せにせず、自前でシニアビジネスを行なう
 
実はこの考え方の最たるものが、冒頭で紹介したシニアビジネスなのだ。
 
同社は不動産コンサルティング事業が売上の79%(464億700万円:07年5月期)を占めるが、シニアビジネスも店頭公開前の2001年から事業化しており、着実に業績を伸張させているのだ(同10%、売上高58億5800万円:07年5月期)。
 
同社のシニアビジネスは大別して2つの事業がある。ひとつは介護付き有料老人ホームの「ボンセジュール」。もうひとつは、元気な老人向けのシニアレジデンスの「チャーミング」シリーズである。
 
同社は、当然これらの事業も自社で運営しているのだが、ここで当然疑問が湧く。現場の運営といっても、不動産コンサルティング会社がそんな簡単に老人ホームの運営などできたのか。
「苦労しました。実は最初はジャパンケアサービスという会社に運営を委託していました。ところが顧客から文句がきても、それを運営会社に伝えるから時間がかかるし、言っても改善されない場合もある。だとしたら自社でやるしかないとなったわけです」
 
平山の判断の凄いのは、自分たちで責任を持ってやると決断した点だ。
 
アウトソーシングでも、もちろん運営はできただろうが、そうすると入居者の満足は最大にならない。しかし自分たちで一からクレームに対応していこうとすると手間もカネもかかるのだ。何よりスタッフを抱えることはコストを上げることにもなる。それでもアウトソーシング全盛の今とは明らかに逆行した戦略を取った。これが凄いことなのだ。
 
こういう姿勢の背景には、苦い思い出もある。それはこの分野に参入して「ボンセジュール」を始めた時のことだ。不動産の感覚でチラシをまいていた。問い合わせが200組も来た。平山は「これは即日完売やな」と思っていたという。ところが実際には1件の申し込みも来なかったのである。平山は焦った。一軒一軒回ってなぜ申し込まないかを聞いた。すると意外な答えが返ってきた。お宅は実績がない。初めてやるんでしょう。そんな会社に預けられないよ、と言うのである。不動産がなぜこんなビジネスをやるのかそれすら信用できないと言われた。
「正直に言って潰れるかと思った(平山)」が、たまたまある人の紹介で厚生省(現厚労省)の課長の母親が入ってくれ、それから信用を得た。


フローのビジネスからストックのビジネスへ
 
同社の経営戦略上、シニアビジネスには、もう一つ重要な位置づけがある。それはこのビジネスがストックのビジネスであるということだ。
 
つまり、老人ホームを建設したら建物は残っていく。ストックとしての価値がある。これが重要だというのだ。
「不動産コンサルティングはフローのビジネスですから、ストックのビジネスを持ちたかった。たまたま自分自身が重度の障害者のボランティアをしていたのでシニア向けのビジネスにはすんなり入れた(平山)」という。
 
現在、同社はボンセジュールを年間10棟ペースで、チャーミングシリーズを年1棟ペースで展開している。
「ボンセジュールに関しては自分たちで作るのは5~6棟で、後はM&A(平山)」だという。この事業の草分けの人たちが引退の時期を迎えていたり、参入したのはいいが、もてあましている企業もあり、比較的M&Aが容易に行なえるのだそうだ。
 
グッドウィルグループがコムスンの老人介護事業から撤退を決めた時も高級老人ホーム「バーリントン」を継承した。平山は、これは転機になる、と意を強くした。


社員が辞めないでどんどん入ってくる理由
 
さらに言えば、このシニアビジネスには広がりがある。同社は近年ゴルフ場を5ヶ所買収しているが、これとシニアビジネスをドッキングさせたのだ。
 
例えば一つのゴルフコースの会員になると、他でプレーできるのはもちろん、将来、同社の老人ホームに入居する際に、会員権入会金の90%に当たる金額を割引くというのだ。それも二親等内の譲渡が1回できるので長期利用が可能だという。まだ50代のうちはゴルフに熱心でも60代になると老人ホームのことも考え始める。
「その時にこれは便利な仕組み(平山)」であることには違いない。こうした平山の戦略が今後どう展開し、どう利益を生んでいくのか。
「この11年間は不動産の証券化の時流に乗った。今まではその収益をシニアビジネスに注ぎ込んで来た。利益が出てくるのはこれから(平山)」なのだ。
 
ところで、ゼクスでは若い人があまり辞めない。しかも、大企業を辞めた25~27歳の若い人材が多く入ってくる。
 
なぜかと言えば、ゼクスには先輩から守り継がれた文化があるのだという。それは――。何か問題が起こった時に「どうしましょう」と聞いてはいけないことなのだそうだ。
「こうしたいのですがいかがでしょうか」と聞く。つまり問題が起こったら常に対応を自分で考える。それが面白いのだという。上から押し付けられるのではなく、自分で対処を考える。そこに創造性が生まれるのだ。
「いい人材が集まる会社は魅力的な会社」の典型である。

(2008・2・12)

【第9回】「移動」情報で多くの客を引き寄せる小さな会社「ジョルダン」の大きな戦略

ジョルダン株式会社

パソコンで浸透させ、携帯で刈り取る
 
1つのことを極めるということは、大切な経営の要素である。近年になって、アメリカのコンサルティング会社が「集中と選択」という言葉で事業の再構築になくてはならない要素として用いるようになったが、本来これは日本企業にこそふさわしい言葉だったし、現に強みを発揮している企業の多くは、この「集中」が出来ている会社である。

集中とは事業分野の絞り込みであり、人材やカネなど資源の集中でもあるが、もう一つ必要なのは、時間に対する考え方だ。どれだけ時間をかけられるか、そしてどれだけそれを続けられるか。
 
こうした意味で「集中」を体現している会社が、ジョルダン(株)だろう。
 
同社の集中分野は「移動に関する情報」である。同社がこのキーワードで始めた事業はパソコンや携帯での「乗換案内」情報の提供だ。目的地の駅名を入れ、到着予定時間を入れるとたちどころに何時に出ればいいか、どの路線で行けばいいかが分かる。便利である。パソコンで、携帯で、今や欠かせぬアイテムだ。同社は、この分野のエキスパートであり、2003年には大証ヘラクレス市場に上場し、この数年は10~30%成長を続けている。
 
しかし、乗換案内の情報サービスというが一体どんな収益構造になっているのか。
 
パソコンを買うと、富士通でもシャープでもNECでも、いろいろな無料ソフトが入っている。ゲームあり、画像編集ソフトあり、お役立ちツールあり。その一つに「乗換案内」がある。目的地まで何時に出てどうやっていくかを検索できる大変便利なソフトである。富士通、シャープ、NECの3社計でパソコンは年間250万台の出荷があるから、言い換えるとこの「乗換案内」は250万人の目に触れ、使ってもらえる可能性があるということだ。これは凄い。
「メーカーからもらう額は僅かですが、これによって親しんでもらえることが大きい」とジョルダン(株)社長の佐藤俊和は言う。
 
実際、無料ソフトといっても電車のダイヤは年に何回か改正があるし、古いままだと機能しない。したがって新バージョンに乗り換える人が出てくる。そこで今度は有料化するわけだ。
 
また、このビジネスは拡がりがあるのも特徴だ。
「PC版の契約数は大体3万人程度で、3分の1が入れ替わる(佐藤)」そうだから、PC版のビジネスでは顧客数はそれほど多い数ではない。しかし、このソフトに経費精算などのシステムを組み込んだ形で法人に納入したり、近年では携帯版の「乗換案内NEXT」が急速な伸びを示しており、こちらで売上げも利益も稼ぐという構造になっているのだ。


15年前から「乗換案内」の情報を提供
 
ジョルダンの前期(2007年9月期)の業績は売上高28億7500万円、経常利益6億5000万円。前年比では売上高で111.8%、経常利益で112.6%と10%以上の成長しているのが分かる。ここ数年でも前年対比125~130%とすこぶる好調で、この成長を支えているのが携帯版「乗換案内NEXT」といってもいい。
 
実際、携帯版の有料会員数は約50万人で売上高は約11億円(いずれも2007年9月末現在)にも上っている。全売上高の3分の1強を占めている。ひとくちに50万人といっても、そんな簡単にそれだけの会員が集まるわけはない。実は、同社がJフォン(現ソフトバンク)でこの「乗換案内」のサービスを開始したのは99年。翌年にはI-modeでサービスを始めており、携帯でのインターネットサービスの初期段階からこうしたサービスの強化に取り組んでいたのだ。
「携帯でも無料版がありますが、有料だと事故情報、電車の乗換位置、発着番線や駅周辺の地図なども付いています(佐藤)」と至れり尽くせりで、まさに今の日本人のライフスタイルに合っている。これが会員数急伸の要因だろう。
 
さらに言えば、この移動情報一筋に15年もの積み重ねをしているという実績が大きい。
 
社長の佐藤が仲間と同社を設立したのは1979年。
「大学を出て、1年ブラッとした後、大学院に行き予備校の先生をやり、それでもやっぱりコンピューターが面白い(佐藤)」と、ある別のソフト会社設立に参加した。「優秀な人材が集まっていたが、ソフトは売れなかった(佐藤)」
 
それで、その会社の仲間5人と新たに作ったのがジョルダンだった。
「とにかく開発一筋の会社」と佐藤が言うように、ゲーム、教育ソフト、オフィス用のソフトとあらゆるものを開発してきたが、10年ほど経って、「自社ブランドがないのが寂しい(佐藤)」ということになり、そこで「乗換案内」を開発するに至った。93年5月のことである。
 
先行している会社もあったが、自分たちよりレベルが低いので入り込む余地があると、この分野への進出を決めた。当時、最短経路を求めるソフトの開発をしていたことも、この分野に進出する決め手となった。
 
94年にはウィンドウズ版で商品化を始めた。まだウィンドウズ3.1の時のことだ。
「動物的勘で、ウィンドウズは化けると思った(佐藤)」からだ。最初は東京版を作り、1年以内に一気に全国版にもっていった。こうした果敢な戦略が功を奏した。冒頭に書いたように、時間のかけ方が他社と違う。佐藤の勘もさることながら、まさに集中と選択経営の賜物である。


移動情報を中心としたワンストップショップを展開する
 
しかし、当たり前の話だが、乗換案内という一つの商品だけでは、同社の成長もいずれ限界が出てくるのは明らかだ。ニッチの市場は深堀りは出来ても、拡がりを求めることが難しいからだ。
 
この点について、社長の佐藤は「われわれは『移動を極める』がテーマ」と答えている。
 
つまり、乗換案内があれば駅そのものの情報も必要になる。駅というキーワードで言えば、旅行の販売もある。駅から出ると、駅周辺の情報、あるいは道路の地図も必要になる。これらは全部移動というテーマでくくれるわけだし、これらをまとめて便利に使いやすくパッケージ化していくというわけだ。
 
移動というのは、人の生活そのものであり、生活者の視点で見れば、事業の拡がりは当然のごとく出てくるということだろうか。言うなれば、この佐藤の考え方は、移動に関するワンストップショップを作るということであり、実際に開発も進んでいる。
「例えば、地図でいえば(競合は)他にもありますが、そのどれよりもサクサク動く(佐藤)」のだそうだ。こうして、同社は着々と「移動」のプロとして商品開発を進めているのである。
 
また、これ以外にも現在開発中のプロジェクトは多いそうだが、同社では個々のプロジェクトをを一つの企業に見立てて進めているのだそうだ。
 
佐藤はそのことについてこんな風に表現した。
「これを頑張らなきゃ、食べていけないという零細企業を会社の中にいっぱい作る」
 
どうでもいい開発ではないよ、という社長自身の明確なメッセージだ。
 
こうした会社の方向性はどこから生まれたのか。そのヒントになるのが失敗の数である。
開発志向の会社には、多くの失敗がある。現にそのことを社長の佐藤に問うと、こんな答えが返ってきた。
「10や20じゃないですね」佐藤は笑顔で答え、「上場する前でも、モンタージュソフト、囲碁ソフト、3Dエディター。英語教材ソフトなどを作って上手くいかなかった。でも、これらは形になったものであって、形にならないものはもっといっぱいある」と続けた。
 
それにしても、ジョルダンという会社は堅実な会社である。開発投資を続け、業績も毎年成長を続けているが「会社を大きくするためにM&Aなどの荒っぽいことはあまりしない」という佐藤の言葉にその堅実さがあらわれている。
 
決して大きな企業を目指しているのではない。しかし大きな成長を目指している企業には違いない。

(2008・2・6)

【第8回】24時間年中無休で、人で溢れさせる「すしざんまい」の超前向き経営

株式会社 喜代村

築地場外を復活させた男
 
世の中に前向きな経営者は数多いが、常に前を見ている経営者という意味で図抜けているのが(株)喜代村社長の木村清だろう。木村と会うと、いつもその攻めの姿勢に驚かされる。それも、自ら楽しんで行なっているから、周囲もついその気にさせられるのだ。

この会社は喜代村というより「すしざんまい」と店名で言ったほうが通りがいい。築地場外に本店があり、24時間年中無休のこの寿司店にはいつも行列が出来ている。しかも本店だけでなく、その横には別館があり、新大橋通りをはさんだ反対側には本陣に奥の院、そして新館など築地だけでなんと9店舗(回転寿司2店含む)、を展開、都内で銀座、有楽町、六本木、渋谷、秋葉原、錦糸町などを含め24店舗で営業している。
 
実は、現在の築地の賑わいからは想像できないが、同社の「すしざんまい」本店が出来る2001年までの築地場外は、来客数が年間150万人を切り、深刻な状況にあったのである。ところが、この24時間年中無休の「すしざんまい」が出来た効果で活気づき、現在は再び600万人を超えるほど築地に客が戻ってきた。まさに、すしざんまい効果である。
 
いや、効果だけではない。現実に売上高は120億円、経常利益も10億円(連結:2007年9月期)を上げている。僅か20数店舗の会社にしては、大きな数字である。


既存のビジネスでやってないことを次から次へと考えた
 
社長の木村は、1968年、15歳の時に航空自衛隊に入隊した。「F104に乗れる」と聞いて喜んで入った少年に、現実は厳しかった。厳しい訓練が待ち受けており、しかも航空自衛隊の場合、なれるのは通信兵であることが分かった。
 
しかし、木村少年はへこたれず前向きに道を模索する。入隊後、2年9ヶ月で第四術課学校を卒業し、自衛隊にいるまま18歳で大検に合格した。前代未聞のことで、これにより操縦学生になれる資格が出来たのである。しかし、運悪く事故で目を悪くしてその道は閉ざされる。
 
それで一転弁護士になろうと、通信教育で中央大学に入り、司法試験は2年で択一式試験までは受かったが、カネが続かずに、アルバイトにも精を出さざるを得なかった。そんな中で、結局、大洋漁業(現マルハ)の子会社で冷凍食品の販売会社に入り、魚の勉強をするのである。これがその後の木村の運命を変えた。
 
木村がそこで見たものは何か。既存の会社は、自分の価値観と違う判断でビジネスを行なっていたのである。例えば当時、小さい切り身は捨てていた。木村はそれを見て変に思う。なぜ捨てるのか。もっと使えるのではないか。そう考えるとすぐに実行するのが木村の真骨頂。小さい切り身を集めて、寿司ネタとすることを思いつく。スライスし、1枚あたりの原価が分かるようにして売っていった。また、当時考えられなかった「あったかい弁当」の材料に出来るのではないかと考え、自分でやってみた。それが現在のほっかほか弁当の原型である。自分で「ほか弁」まで作ってしまったのだ。
 
残ったものを集めて、土日だけのスーパーのようにして販売もした。これもあたった。
「どうしたら売れるか、どうしたら人が喜ぶか、こんなものがあったら喜んでもらえるんじゃないか。そんなことばかり考えていた(木村)」
 
考えただけではない。すぐさま実行に移していったのだ。
 
こうして、マルハの子会社では社員となったが、2年9ヶ月で独立した。出るくいは打たれるの例え通り、やりすぎたゆえに独立せざるを得なかったのである。マルハのお客さんは持ってこないことで、次の会社に移ったがここで交通事故にあう。


思いついたことはすべて実行してみる
 
木村商店を創業したのは、そんな経験をした後の1979年のことである。
「あらゆることをやった」と木村は簡単に言うが、実際に勘定できるだけで90以上の業種業態を経験し、そのうち多くの新業態開発を行なっている。食材開発、弁当屋は前述の通りだが、コンビニ、カラオケ、レンタルビデオなどはまだ誰も手を染めていない時に開発しているのだ。
「今あるものより、いいものを作る。しかも自社で開発する(木村)」がモットーだった。空いている倉庫があれば、夜だけの居酒屋を始めた。廃車になったバスを改良して、カラオケボックスとした。漬物や、この期に影響を及ぼす本マグロの取り扱いを始めたのもこの頃である。
 
当時、柴漬けはキロ当たり800円したが、さくら大根がいちばん安いと見るやそれを仕入れ、キロ200円で作った。中国でも水産加工をやった。きゅうりがキロ当たり10円しないのを知り、彼の地で原料を漬け込んで生産すれば、いいものを安く作ることが出来ると考え実行した。マグロの大トロは日本人の好むところだが、海外では食べない。そこで、海外に行き、大トロを持ってきた。このようにして、思いついたことはすべてやってみた。
「やってみないと出来るか出来ないかは分からないじゃないですか。製品化するにはなんでも問題は出る。しかし、あきらめずにやり通せば出来るのです(木村)」
 
余談だが、すし屋のネタにある「炙りトロ」は木村の発明である。これも、考えて、実行してみたことの一つというわけだ。


客回転率1日23.5回転のすし屋が誕生した
 
ある築地場外の店舗オーナーから相談を受けたのは2000年の頃である。築地が陳腐化してきた。訪問客数は150万人を割り込んだ。場外の店がこのままでは廃れていくので何とか活性化できないかというものだった。
 
ここで木村は考えた。訪れる客の立場で考えた。築地のセールスポイントは、やはり「寿司」である。いつ行っても食べられる、定休日も、ネタの売り切れも、閉まっている時間もない店が作れないかと。幸いにして新鮮なネタをいつでも供給できるルートを持っていた。自分なら78品目のネタをいつでも出し続けられる。そこで初めて、24時間年中無休の店構想が具体化したのである。やる以上は一人たりとも不満足では帰さない、そんな気持ちで一杯だった。
 
この店は結果として大成功した。35坪、40数席の店で年間10億円を売り上げた。客単価3000円として、客回転率は1日23.5回転である。驚異的な実績と言う以外にない。ここから、同社の快進撃が始まる。築地を中心にドミナントを形成し、そして少しずつ、その輪をほかへ広げていった。現在の店舗数になるまで6年を要しているのを見ると、意外に遅いと感じるかもしれない。しかし木村は慎重である。この店なら成功するかどうか、じっくり見極める。そして出店するとなると、一気に開店に持っていく。
 
2007年11月。同社でも始めての5店舗同時期オープンが開始した。僅か1ヶ月の間に古くなっていた別館のリニューアル、回転寿司の築地2号店、東新宿店、それに加えて初のふぐ専門店の「ふぐざんまい」、そして魚の小売店である「フィッシュマーケット」の5店舗をオープンするというのだ。東新宿店以外は、すべて築地に立地するとはいえ、相当の集中力を持って全社挙げてやらなければ、成功は望めない。
 
しかし、これをやりきった。「ふぐざんまい」などは開店の1週間前には何も出来ていないような状況だったのに、である。
「3日で店が出来なきゃ商売じゃない」とは木村の口癖だが、まさにこれを地でいったことになる。この集中力が会社を強くするのである。実は、木村は一度事業を辞めようと思ったことがある。20年以上事業を続け、借り入れが20数億円あったが、金融危機のさなか、旧北海道拓殖銀行が一括返済を要求してきたのである。一度も返済が滞ったことがない、優良貸出先であったはずなのに、難題を突きつけられ、挙句の果てにだまし討ちのようにして、返済させられた。何のために働いているのだという気持ちで一杯だった。会社は利益が出ていたが、整理して撤退しようと考えたのだ。
 
しかし、友人たちがそれを見て、止めるなと言ってくれた。カネを出してくれ、小さな一軒の寿司屋を作った。これが、後の「すしざんまい」の原型になるのである。
 
そんな木村の将来の夢が、楽しい。山と川を育てることだという。60歳以上の人たちがゆっくり休みながら働ける場所を山に作る。ニワトリを育て、山菜を取り、その食材は店で使う。また、子供たちを集め食育を行なう。老人はそこで収入を得て、老後を送れる。山が活性化すれば、山崩れなどを防げて、川がきれいになる。すると海も藻などの繁殖がなくきれいな海になる。そこで海洋牧場を作る。魚を増やす。その一部は獲って食べればよい。そんな夢が実現するのも、木村のバイタリティを考えれば、そう遠くないような気がする。

(2008・1・29)

【第7回】無名だが世界のアーティスト御用達の世界的音響企業の「次は映像」

ヒビノ株式会社

年間に2600回ものコンサートをサポート
 
日本が誇る世界的企業の代表格とも言える、ホンダとソニー。この2社はどちらも第二次世界大戦後に出来た、比較的新しい企業である。この二社が設立された頃の日本は、どちらかといえば、安かろう悪かろう的な商品を多くの企業が作っていた。いい素材も手に入らないし、また、安価でないとものが売れなかったのである。だが、ソニーやホンダはそういう中で、自らのもの作りを大切にして、「日本製」の名を世界に拡げていった。

ヒビノもそんな企業の一つである。
 
多くの人はヒビノ(株)の名前を聞いてもピンとこない。しかし名だたるミュージシャンの間では、同社はつとに有名である。
 
例えば日本中で連日繰り広げられるミュージシャンたちのコンサート。その多くの音響プロデュースをしているのは同社だし、最近のイベントには欠かせない映像のプロデュースも同社が業界でトップの実績を持っている。
 
業界トップの規模とは、どれくらいなのか。社長の日比野晃久はこう表現した。
「現在、コンサートの音響で26チーム、イベントの映像関係で20チームが稼働している」
単純に言えば、同時に40箇所以上のイベントやコンサートに機材とチームを派遣できる計算になるし、実際、同社は年間2600回の公演をサポートしているのだという。
アーチストからの信頼も獲得しており、120人を超えるアーチストが専属としてヒビノを指名しているという。
 
同社は2006年2月、JASDAQ市場に上場しているが、業績も安定的に成長を続けており、2007年3月期の売上高は154億円、経常利益7億7900万円となっている。


テレビメーカーを目指した会社だから発揮できた技術
 
何が、同社の信頼をここまで高めたのか。一言で言うと、同社が提供するサービスの質に尽きる。コンサートでは音が最大の決め手であり、機材と音響をオペレートする両方のエンジニアが揃って初めていい音が出る。
「その双方を提供できるのはウチだけ」と日比野は言うが、実はこの言葉に、「信頼」の秘密がある。
 
同社の設立は1964年に遡る。現社長の先代(父親:現会長)が当時始めたのはジュークボックスのレンタル事業だった。ジャズ喫茶が主な営業対象。同時に、外国製のプロ用音響機器の販売を行なっていった。
 
こうした一流の機器を扱っていたことから、「当時のアーチストが音響機器を貸してほしい。オペレーターもやってほしいと要望が出て、71年にコンサートの音響事業に参入することになった(日比野)」
 
名だたるミュージシャンが次々に自分のコンサートにヒビノの音響機器とオペレーションを利用し始めた。海外の有名アーチストが来日した時にも、利用されるようになった。
「一流のアーチストたちは音にことさら敏感で、だから現場で鍛えられた(日比野)」
 
もちろん現場で鍛えられるといっても、それに対応するだけの技術がなければ駄目だ。そんな技術をどこに持っていたのか。その謎を解く一つの写真が、同社の本社一階ショールームに飾られている。それは一台のテレビの写真である。これは先代社長(現社長の父)が1959年に製作したもので、当時、ヒビノはテレビメーカーを目指していた。だが、並み居る大手企業の進出により断念し、現在の事業を確立していったわけで、そういう技術が根底にあったからこそ、アーチストたちの厳しい要望にも応えられていったのである。
 
一方、80年代に入り日本国内で大型のイベントが増加してきたことから、同社は84年に映像事業に参入した。きっかけは筑波博だった。現在では、映像事業が売上構成比では音響事業を上回り、この二つの主力事業で同社は成長をしてきたわけだ。


第3の柱の映像機器事業では既に大きな実績
 
ただし、音響技術や映像技術に長けているといっても、コンサートやイベント事業だけでは、将来を見据えると成長性という点で、いささか疑問を感じるのも事実。日本でのイベントやコンサート事業は確かに近年急激に成長してきた市場だが、この成長には限界があるからだ。実際、市場は成熟しつつある。
そこで同社が目をつけたのが、高精彩LEDによる映像事業である。
 
実はこんな話がある。一昨年の秋、米ニューヨークのエンタテインメントの殿堂「ラジオシティミュージックホール」に縦12m×横25mの巨大なLEDのスクリーンが設置された。スクリーンの精密さはフルハイビジョンテレビの倍。総工費は10億円だった。これを設置したのがヒビノだったのだ。
 
この数年でLEDは最も普及した技術の一つ。街のイルミネーションも信号機もこのLEDが取って代わりつつある。発色性がよく消費電力は僅かだから当然なのだが、同社はLEDのトップ企業である日亜化学工業から供給を受け、NHK技術研究所をスピンアウトした人材の会社を100%傘下に収めることによって技術開発も自社で行なっている。つまりメーカーとしてこのLEDスクリーン開発を行なっているということなのだ。
「この分野は大手メーカーが余り力を入れておらず、技術力での勝負が可能な分野(日比野)」であることも重要なポイントだ。現在の技術水準は家庭用のフルスペックハイビジョンテレビの4倍の高精彩さを誇るほどだ。
「開発コストはかかりますが、ウチの場合開発したLEDスクリーンをレンタル部門で回収していけるので、リスクは低い」と日比野は言う。しかも、「ようやく開発も第三世代のものになり、本当に儲けるのはこれから(日比野)」で、この事業で早期に売上高50億円増を見込んでいる。
 
これにより、同社はコンサートの音響、イベントでの映像等のプロデュース事業に加えて、第三の柱を持ったことになる。これこそが同社の新分野での成長戦略事業である。


技術者が半数以上、残りの人間は技術大好き人間
 
もう一つヒビノの今後に期待を抱かせるのが、海外での展開である。国内事業を中心として営業活動を行なってきた同社が、今後は海外に目を向けたグローバル展開を行なっていくことで、国内市場の飽和感に関係なく勝負が出来る。しかも前述のLED映像技術との組合せでこの展開が広がるのが強みだろう。ニューヨークのラジオシティに納入したLEDスクリーンはまさにその先駆けであり「今後はヨーロッパを中心にまずは展開していき、拠点も設ける(日比野)」ことになるという。
 
既に有力な自動車メーカーにも納入実績があり、これが順調に進めば、「世界中のモーターショーやコンサートを取り込んでいける(日比野)」ことになる。それはとりもなおさず、より付加価値が高く面白いビジネスが可能になるということだ。
 
先代社長が1959年に作ったテレビは、その技術を同社のDNAとして受け継いでいった。この技術力があったからこそ、音響や映像のプロデュース事業でも厚い信頼を得て、トップ企業になったのだし、その同社が、LED事業でメーカーになるのも頷ける。
 日比野社長に技術者の数を聞いたら「半数以上」と即座に答えが返ってきた。しかも、「残りの社員はこういうことが好きで好きで堪らない連中」とのことだ。こういう会社は強いに決まっている

(2008・1・22)

【第6回】米国子会社から出発、気象情報会社「ウェザーニュース」のあっという間に世界一

株式会社ウェザーニューズ

会長も社長もオープンスペースで議論を戦わせる
 
トップから社員までこれだけ本音でいろいろなことが言い合える会社も珍しい、と思わせるのが、世界一の気象情報会社、(株)ウェザーニューズである。

なにせ、フロアのところどころにあるオープンの会議スペースでは常に侃々諤々の議論がなされている。ふと見ると、そこに会長の石橋博良の姿も見える。一緒になって口角泡を飛ばしているのである。普通の会社ではあまり見かけないような光景に思わず興味を引かれる。 この雰囲気を作り出したのは、もちろん創業者で会長の石橋であり、それを継承している現社長の草開千仁でもある。
 
では、(株)ウェザーニューズとはどんな会社か。 ひと言で言えば、世界で最大の気象情報会社である。同社の設立は21年前の1986年に遡る。当時はどんな時代だったか――インターネットはおろか、パソコンがまだ一部のマニアのものであった頃の話だ。そのころ、誰が、天気予報が商売になるなどと考えただろうか。しかし現在、気象市場は6000億円市場とも1兆円市場とも言われており、その中で世界最大の気象予報会社は日本の(株)ウェザーニューズなのである。
 
その会社が実にオープンな社会だというのは興味深い。もちろんこれには語りつくせないほどの背景があるのだが......。


「顧客本位で気象情報を提供する」がきっかけで独立
 
そもそも21年前に石橋が気象情報の事業に入った経緯からして劇的だ。当時、総合商社の一つであった安宅産業で石橋は木材ビジネスに従事していた。
 
そこで、石橋の将来を決める事件が起こった。 それは米国から輸入する木材の積荷を、当初は大阪港で荷揚げする予定だったのを石橋が小名浜港に入れる指示を出したことから始まった。大阪港は荷役状況が混み合っており、荷揚げまで10日近く要したので、石橋の判断で小名浜に回したのだ。ところが、そこで爆弾低気圧が発生し、船は沈没、15人が死亡する大惨事となったのである。
 
石橋は責任を感じ、米国の気象情報会社オーシャンルーツ社へと移る。日本支社に勤務した後、2年後に副社長として米国で勤務。その後、日本支社長になって戻った。
 
日本でビジネスをしていると、気象に関する幅広いニーズが存在することが分かってきた。ある企業は、陸揚げした積荷を倉庫に運ぶ際の天気を調べられないかと、石橋に聞いてきた。また、噂を聞きつけた旧後楽園球場がピンポイントの天気予報を聞いてきたこともあった。
 
気象予報のニーズはもっと大きい。そう判断した石橋は親会社に業務の拡大を申し出る。だが、親会社はそんな事業は認めない。それじゃあ顧客のためにならないと、石橋は独立したというわけだ。ちなみに、現社長の草開千仁はその当時の新入社員である。
 
その後の成長は、数字がよく表している。1994年度の売上と現在とを比較すると明らかで、94年5月期の48億7700万円に対して07年5月期は112億4400万円と2.3倍。その間、2000年にはナスダックジャパン(現ヘラクレス)に上場し、僅か3年後の03年には東証1部に指定変えとなっている。


気象庁の建前に対抗したから成長した
 
日本の気象ビジネスは1994年の気象業務法の改正によって発展したといっても過言ではない。といってもピンとこないかもしれないが、その時から民間独自の天気予報が認められ、気象予報士が誕生したのだ。それまでは気象庁が「晴れ」と言えば、民間で雨と予測していても、予報は晴れとしか言えなかった。それが建前であり、顧客本位の本音で勝負する同社とは合わない。だから、同社の歴史は気象庁との綱引きの歴史と言ってもいいかもしれない。
 
例えばこんな話がある。現社長の草開が入社した時は社長が海洋気象を専門的にやっていたので、草開は航空気象を担当した。ところがこれには難敵があった。気象庁である。飛行機には気象情報の取得が法的に義務付けられている。だから、飛行場には、気象予報官がいて情報を常に提供しているのだ。つまり民間の一企業が入り込む余地はない。
 
そのため、桶川という予報官のいない場所にある本田航空が顧客第一号になった。そこでしぶとく事業展開をしていったのだ。しかし、日本航空の御巣鷹山の事故から潮目が変わった。各航空会社が気象庁の情報以外にもっと精密な情報を欲し出したのだ。
「気象庁の予報は一言で言えば、その場所の何時ごろの天気はどうなっているという情報だけです。我々はそれをもっと細かく、航空会社別に、もっと言えばパイロット別に提供した」と草開は言う。その情報で、降りられるか他所へ行くかが決まる。多大なロス発生を防ぐこともできるのだ。
 
同社がどれほど、顧客本位で、しかも本音で事業を進めていったかが窺えるというものだ。このような地道な開拓があり、同社は業績を伸ばしていったわけである。


北極海を通る最短航路の開発も視野
 
草開によると、21年の同社の歴史は10年ごとの3期に分けられると言う。
「最初の10年は、どんなことでもやってみようという時期だった。ウェザーニューズの可能性を広げる意味があった」と草開は述懐する。「第2期は健全性を保ちつつ、成長するためにはどういうサービスがあるべきかを考えた時期」という。
 
この時期には試行錯誤も多くあった。例えば、一時期システムごと顧客先にサービスを提供するため、ソフトウェアやシステム構築に力を入れたことがある。しかし、結果としては技術者を多く抱えなければならない。
「すると、システム業なのか気象のコンテンツ会社なのか分からなくなる(草開)」ので、こうした分野からは撤退をした。
 
そこで行き着いたのがトールゲイト(料金所)型ビジネスモデルだった。料金所を作り、そこを通過する人からお金を貰う。
例えば飛行機向けのサービスコンテンツを作れば、契約した航空会社が増えるごとに収益が増大するということだ。同社は、これを30の市場で展開している。つまり30のサービスコンテンツ(トールゲイト)を作り、それぞれの顧客を増やす戦略だ。
そしてそのビジネスを海外に広げたのである。
 
同社の海外展開を鳥瞰してみると、積極的なグローバル化戦略が見て取れる。創立2年後の1988年にはアメリカ法人を設立しているし、その5年後には親会社であったオーシャンルーツ社を買収しているのだ。
 
ナスダックジャパン(現ヘラクレス)に上場した2000年以降、同社はオランダ、ドイツ、中国、イタリア、スペイン、フランス、イギリスなどに次々と現地法人や営業拠点を設立していっている。
 
ところがである。創立20周年を迎えた昨期、つまり第3期のスタートの年にこの海外拠点のリストラを敢行した。
「アメリカが典型ですが、経営を現地の人間に任せた。すると、彼らは地道に30の市場開拓をやるのではなく、うまい話があるとそちらになびく。そして失敗する。社員は条件のいい会社があるとすぐ移っていく。これではダメだということで見直したわけです(草開)」
 
その見直しも終わり、具体的なアクションに入る。
 
例えば、北極海を通る最適航路情報の開発。氷が溶け始めた北極海ルートは航路を半分の距離にしてしまう。まさに気象予報のなせる技である。

(2008・1・15)

【第5回】「夢を形にする」ことで、地方再生を実現していく不思議な会社

(株)アスクプランニングセンター

大阪に平成京を作るという男
 
経営者に必要なものの一つに「夢を持つ」ということがある。もちろんどんな夢でもいいわけではなく、自らの事業をどのように展開していくかということについての夢である。多少理屈っぽく言えば、その夢は、社会に対してどれだけ役に立つか(価値があるか)という視点が必要である。またその構想は大きければ大きいほどいい。その視点で企業を見ると、意外に夢のある企業が少ないことが分かる。

(株)アスクプランニングセンター、というよりは代表取締役社長の廣崎利洋は、そういう「夢」を実現していくパワーを持った一人だといえよう。
 
(株)アスクプランニングセンターとはどんな会社か。一般的な知名度はないが、この数年、東京の銀座や表参道に次々にできるブランドビル----その多くを手掛けている空間プロデュース会社といえば分かりが早いだろうか。40代以上の人にはこう言えば馴染みがあるかもしれない。その昔、表参道で注目されたファッションビル「ビブレ」を手掛け、DCブランドのビルを全国各地に作った会社である。
 
その社長の廣崎にこんな話を聞いたことがある。
大阪の地盤沈下がはなはだしい。今や、一地方都市に過ぎないと多くの人がいう。その大阪を、平成の都「平成京」として復活させたいと言ったのである。
 その趣旨はこうだ。大阪駅裏側の旧国鉄操車場跡地、約7万2000坪を再開発して巨大なオフィスビルを建設し、そこに御堂筋にあるオフィスビルをすべて移転させる。
 
その空いた御堂筋をパリのシャンゼリゼに匹敵するような世界中の人が集まる街区にする。境筋や四ツ橋筋から、その街区に合ったテナントを集め、空いた境筋に谷町筋の人たちを入れ、空いた谷町筋には森を作る。国際学校を作る。きちんとしたプランでそれらを行なえば、大阪は平成の都として復興する、というわけだ。
 
この話を聞き、最初は単なるデモンストレーションかと思ったが、学者や経営者を巻き込んでシンポジウムまで開いてしまい、それを一つの本にまとめた。単に、馬鹿な夢と片付けることはできまい。それより何より、当の廣崎が大真面目だったのである。


背水の陣を引いてでも、考えを実行に移す
 
アスクが注目されたのは82年。先述したファッションビル「ビブレ」が最初だろう。旧ニチイ(その後マイカルに社名変更し破綻)に提案して東京の表参道に作った。当時は商業施設の設計デザインを手がけていたのである。
 
現在のアスクはちょっと違う。近年は大幅に業務の幅を広げている。
 
その魁になったのが、マイカル破綻後、ビブレ跡地に開発したファッションビル「エスキス」だ。同じファッションビルでどこが違うのか。
 
一言でいえば、現在のそれはスペースプロデュース事業。周辺の地域をしっかりとマーケティングし、その地域に足りないものは何か、どうしたらそのビルが地域に溶け込んでいけるかを考え、自らビル全体のプランニングをするということだ。どの階をどういうコンセプトにするか、どういうテナントが必要かまで練り上げ、しかもそのテナントを引っ張ってきて、ビルが出来た後も運営を行なう。当然テナントの入れ替えも行なう。こうすれば、そのビルの独自性が出るし、何より地域に必要とされるビルになる。ビルの価値も上がり投資家も満足する。
 
さらにいえば、こうした事業で必要な資金調達に際してファンドを組成する際は、エクイティの劣後部分はアスクで引き受ける。いわば背水の陣を敷く。「ハイリスクだが、自分たちがやっているのだから自信はある。リターンは大きい(廣崎)」のである。


大手では成し得ない「地方再生」のモデルを作る
 
こうしたスペースプロデュース事業では、地方都市からもこの都市をどうにかしてほしいという依頼が舞い込む。近年、九州小倉駅前のそごう跡を「セントシティ北九州」として蘇らせ、福岡博多の中心街中洲の福岡玉屋跡を「ゲイツ」として開発した。また、昨2007年9月には青森浜田3丁目に「ドリームタウンAli(アリー)」の第一期開業を果たした。
 
地方だけではない。東京では銀座の「シャネル」を手がけたし、渋谷「12ヶ月」ビルの跡地も開発した。
 
もちろん、こうした事業を進めれば進めるほど、不動産業に近くなり、結果として景気の波を受けやすいのではないかという懸念も生じる。
「アスクの手がけている案件は常時30くらいあります。でも、1年に出来るのはせいぜい4件。仕事があるからといって会社を大きくしない。あくまでブティック企業としてやっていく(廣崎)」というのが方針で、しかも、こうした事業はいわゆるフィービジネス。リスクを最低限に抑えてもいる。
 
さらに廣崎は続ける。
「人口30万人規模の地方都市には森ビルも三菱地所も行かないでしょ。でもそういう都市にもよく見るとパワーがあるんです」そこを考えて都市再生を行なえば、地方も絶対蘇るというわけだ。「しかも、われわれは今でも本業のスペースプランニングにこだわっている。利益の額は小さくてもそれを積み上げると大きい。米櫃です(廣崎)」


「ビジョナリー経営」を地でいく
 
アスクの2007年度(2007年12月期)の売上は連結で105億円、経常利益は20億円(いずれも予定)だ。前期比では売上が129%、経常利益は260%と伸張する。
 
こう書くと、同社は極めて順調に成長したかのように見えるが、過去に辛酸をなめている。
 
まず、上場前の85年12月、役員を含む幹部、中堅社員が10数人もが辞めた。売上も大幅に減少した。だがここからが廣崎の真骨頂で、そのとき上場を決意した。そして3年後に店頭公開を果たしたのである。バブルのときも相当に痛手をこうむったが、それでも創業以来34年間経常黒字を続けている。
 
このアスクのパワーは何か。実は同社の源は人材にある。例えば、創業以来続けている新卒採用がその一つだ。「ウチのビジョンを新人から叩き込む(廣崎)」と簡単に言うが、創業時から新卒を採用するということだけでも、なかなか難しいことは、事業家なら分かるだろう。そのうえに、同社では毎年全社を挙げて3日間のスポーツイベントを開く。野球では廣崎自らマウンドに立つ。実力で勝ち取ったそうだ。こうした活動の中で、同社のDNAが育まれていくのである。
 
前述した、「平成京」を含めて、このようなことを考え実行している会社は滅多にない。
「ビジョナリー経営」という言葉があるが、廣崎はまさにそれを地でいっていると言えるのではないだろうか。

(2008・1・7)

【第4回】超変な会社「店舗の掃除人」の超真っ当経営

(株)テンポスバスターズ

上司が嫌なら店を替われ、そこが嫌ならまた替われ
 
これほど変な会社も珍しいという意味で、おもろい会社の筆頭に上げられるのが、株式会社テンポスバスターズである。
 
何が変かというとまず社名が変である。テンポスバスターズ――店舗s(複数形)の掃除人(バスターズ)というのだ。業務用厨房機器のリサイクルが事業であるから、社名もなるほどと頷けるのだが、それにしてもこんな社名を付けるのはどんな社長か、と思ってしまう。

そこで、次に何が変かというと、社長が変である。社長の名は森下篤史。この社長、数年前に「社長の椅子争奪戦」というのをやった。われこそはという社員に名乗りを上げさせ、自らも店舗に入り、店舗間競争をやりながら、同じレベルで社長の座を争った。中立的に判定をすべく第三者機関を設立し、評価をさせた。
勝ったのは社長の森下である。だから今も社長――。
 
研修のことは「稽古」という。難しい商品知識を学ぶのではなく、客から聞かれる30の質問に答えられるようにひたすら稽古する。1000本ノックのようなものだそうだ。
 
テンポスバスターズは本当に変わった会社である。世間の企業の常識に照らすと桁外れに外れている。
 
例えば同社には「テンポス精神17カ条」というのがある。その第2条にはこんな風に書いてある。

第2条(儲けるな・儲けろ)
 
安い物を見つけて高く売って儲けてはいけない。安い物を見つけたら安いまま売れ。知識と技術を身につけてコストを下げ、しっかりとしたアフターサービスと無理だと思われる高い目標に挑んで、その努力から生まれた少しの利益で良い。楽して儲けたい者は我社にいない。我々はそれ程の者ではないだろう。
 
リサイクル業はなるべく高く買って赤字にはならない範囲で出来る限り安く売る商売である。さやを抜いて儲ける事で喜ぶような癖をつけるな。

第5条にはこうも書かれている。
第5条(フリーエージェント・ドラフト制)
上司が嫌なら店を替われ、そこでも嫌ならまた替われ。何度でも替わってみろ。テンポスはフリーエージェント制だから。だがそのうち気づくだろう。理想的な上司や職場などないということを。自分で切り開いたところにしか「やりがい」はないということを。店長は、気に入らない使いにくい部下は他の店に放り出せ。テンポスはドラフト制だから自分の納得のいくまで何回でも人を入れ替えろ。だがそのうち気づくだろう理想の部下などいないということを。

胸がスカッとする文句ではないか。
 
このテンポス17カ条や社長の話を聞いて、よく考えて見ると、この会社は「変」を全うしているという意味で、相当まともな会社であることがやがてわかってくる。
先の語録も変だが、実は正鵠を射ている言葉であふれている。本当は他の会社が変なのではないか・・・。


儲けない構造を作ったからこそ大成長した
 
社長の森下篤史が同社を設立したのは1997年。倒産寸前だった食器洗浄機の製造販売の代わりにと始めた、業務用厨房機器のリサイクル販売が当たった。
「何しろ、もの凄く安い価格で仕入れて普通に売って、儲かって儲かってしようがなかった(森下)」
 
しかし、2年ほど経って、はたと考えた。
 
これでいいのだろうか。
 
結論は「よくない」。
 
だから、安く仕入れた商品をぎりぎりの利益を乗せて売るという、当時の(今もか?)常識から外れに外れたビジネスに構造を変えた。社長がそういうものだから「社員はさらにどかどか売値を下げた(森下)」
儲けない構造に変えたことによって、コスト意識が芽生えたし、安く売るからこそ商品再生にも力を入れた。
 
これで、業界で圧倒的ナンバーワンの地位を占めた。
 
2002年にJASDAQに上場。以後、成長を続けている。
 
このように書くと、大変な大成長を遂げた会社のように映るが、売上高は約113億円(2007年4月期)、経常利益で4.2億円(同)と規模は決して大きくない。業務用リサイクル市場でのシェア拡大は期待できるが、このままの勢いで発展を続けていけるのか。
 森下はニコニコした表情を崩さずに、「だから、情報サービス事業を大発展させようと考えている」と語る。目標は5年で年商200億~250億円の規模。
 
どこにそんなうまい情報があるのか。答えはこうだ。
 
リサイクル品の物販事業というのは情報ビジネスでもある、とは森下の持論。例えば日本では年間20万件の飲食店が閉店する。このうち18万5000件は店の厨房機器や食器類を廃棄処分とする。残り1万5000件のうち1万件はテンポスが引き上げて販売している。「ところがこの情報を無駄にしている(森下)」のだそうだ。
「これは見方を変えれば居抜き物件の情報。だからこれを斡旋仲介すれば1ヶ月50~60の物件で月間300万円の粗利となる(森下)」。だから、今年度末までには20人体制で月間1000万円超の粗利を目指すという。


売上高1000億円を目指す
 
これだけではない。
 
テンポスファイナンスという会社を立ち上げリースの仲介も行なっている。「現金商売だが、ローンやリースを組みたい人に対応する」(森下)ためだ。
 
フランチャイズの支援も行なう。3人が専任で金融もつけてFC本部としてスタートさせる。内装工事の請負業も行なっている。
 
まだまだある。同社では年間5000台のレジスターを販売している。14000円の単機能機だ。しかし飲食店も、2号店3号店と発展していけば、当然POSレジが必要となってくる。そこでPOSレジをOEMで販売し、データ分析まで請け負うことにした。レジの名前は「テンポス(POS)」。
 
みんな客との接点で得た情報を軸に展開していくというのだ。
 
だが、ここでいろいろな疑問が湧いてくる。
 
いろいろな事業を一緒にスタートさせて、結局どっちつかずになりはしないか。あるいは、新規事業に採った人材は他の社員と融合していけるのか。
答えはシンプル。いろいろな事業は抜きんでた一つの事業の下に収斂されていく。
 
人材はいずれ融合させる。「融合が難しいと言うけれど、混ぜ合わせるのが社長の仕事。それが楽しい」
「そもそもいろいろな新規事業の芽があったのに立ち上がらなかったのはみんな兼任でやっていたから。専任でやれば必ず成功する」と、森下は強調する。
「私は5年後に売上1000億円企業にすると言っているんです」と森下は事も無げだ。「だってそうでしょ。人間は月へ行くときだって、最初は誰かが月へ行こうって漠然と言ったんだよね」
 
売上を既存250億円、新規250億円で500億円にし、あとの500億円分は企業買収で合わせて1000億円にしていくというのが同社の計画だ。
 
そんな森下が、某ベンチャー雑誌に連載を持っていたことはあまり知られていない。経営者をやりながら、ユニークな経営者を訪ね歩き、記事にした。
「本当はテレビで番組を作りたい。『スター経営者』みたいな番組をね。今若い子はタレントに憧れるでしょ。でも、経営者に憧れるようにならないとね、日本の国はうまくない」
 
経営者の奥が深いから、会社の奥も深い。奥の深い会社なんてなくなってきた昨今、おもろい会社であることに間違いはない。

(2007・12・25)

【第3回】素人の目線で「食品素材」を開発する無名のヒット商品創造企業

(株)ファーマフーズ

大ヒット商品の隠れた演出者
 
何がおもろいのか、という視点に立つと会社の性格がよく分かる。今回のファーマフーズは、発想がおもろい。
 
と言っても、何のことかピンとこないだろう。具体的に紹介しよう。

江崎グリコにあまり知られていないヒット商品がある。通常、チョコレートは一商品で年間18億円も売れれば大ヒットなのだそうだが、このチョコレートは年間60億円も売った。商品名はGABA。このチョコレートに冠されたGABAとは、γ―アミノ酪酸のこと。つまり、グリコの大ヒット商品GAVAとはγ―アミノ酪酸入りチョコレートなのだ。このどこがいいのか。
 
実はγ―アミノ酪酸にはストレスを和らげる効果がある。ストレスの多い人、特にOLを中心に人気が高まったというわけだ。
 
前置きが長くなったが、このGABAを作っているのがファーマフーズという会社なのだ。本社は京都。典型的な研究開発型の会社である。2006年東証マザーズに上場している成長企業と言えよう。
 
ファーマフーズの社名はファーマ(pharmaceutical=薬学の)フーズ(foods=食品)から来ている。医薬の観点から分析したデータを元に医薬品を作るのではなく、食品素材を作り、食品会社などに提供していると言えばよいか。
 
例えば前述のGABAチョコレートに提供したのはファーマギャバという素材名だが、これは漬物の乳酸菌に含まれるGABA(γ―アミノ酪酸)という物質がストレスを和らげる効果があることを突き止めて開発したものだ。
 
同社はその効果を極めて分かりやすい実験によって証明した。それは、高所恐怖症と自ら認める男女8人に、歩行者用の吊り橋では日本最長の奈良県十津川村の「谷瀬の吊り橋」を渡ってもらい、渡る前、中間地点、渡った後でGABAを服用した場合としない場合の比較を行ったのである。この結果を自ら学会で発表し、世間の注目を集めた。この報告を聞いていたある新聞記者が、この話を記事にしたのだ。
 
同社は同様の実験を横浜:東京間のJR線で朝の8時半にも行ったそうだ。
このGABAはチョコレートにも微量が含まれることから、江崎グリコに売り込んだわけだ。現在はコカコーラのジョージアコーヒーでも採用され、GABAコーヒーが売られているそうだ。


素人の目線で発想するプロ集団
 
同社の開発における発想の原点は「素人の目線」である。
 
鶏の卵に注目してさまざまな食品素材を開発しているのはそのいい例といえよう。鶏卵にはそもそも骨を強くする物質が含まれる。卵の中で鶏の骨が形成されるからだ。これを抽出して作ったのがボーンペップという素材で、これは骨粗鬆症に効果がある。
 
「卵に骨を作る成分があるというのは、いわば常識の盲点」と同社社長の金武祚は言う。確かにそう言われれば素人でも分かるが、あまり考え付いた人はいない。そこが素人の目線なのだ。それを金は「優しいバイオ」とも表現する。
 
この発想はまだ広がりを見せる。例えば、鶏は病気から身を守るために抗体を作る。この免疫システムを利用して、鶏卵からその抗体を抽出し、さまざまな素材を作っている。たとえばピロリ菌を鶏に打って作った抗体はグリコのヨーグルトとして月間200万本販売されている。それも日本だけでなく、中国、韓国などにも出荷されているそうだ。ピロリ菌感染者は日本で6000万人、中国では7億人と言われており、この商品の大きな可能性を物語っている。
 
インフルエンザウィルスの抗体もやはり鶏卵から抽出し、エアコンの抗体フィルターとしてダイキン工業のエアコンに採用されている。このエアコンは月間40万台販売されているという。
 
こうした面白い素材は枚挙に暇がないほどで、同社がいかにバイオの分野でユニークな研究開発を行っているかが分かろう。


当初は雪かきが仕事だった
 
そもそもなぜこのような会社を作ったのか、社長の金は「気軽な気持から」とその背景を明かした。アメリカに行っていた時、サンディエゴで開かれた学会で、プレゼンテーションを聞いていて「アレくらいなら出来るんじゃないか(金)」と思った。
 
「それが間違いの基で大変な苦労をした(金)」そうだ。
 
同社の設立は1997年。バイオベンチャーが注目され始めたころだ。ところが設立後は金が言うように大変だった。同社は製造を外部に委託しているとはいえ、インフラ整備にまずカネがかかる。空調設備にコンピューター。研究開発でもさまざまな成分を抽出したり、濃縮したり、そして廃棄の問題もある。
 
「カネがなく、たまたま石川県の小松で材木屋のあとを借りて4人でスタートした。ところが見慣れぬ連中が白衣を着てうろついているものだから怪しい集団に間違えられたり、雪深いところなので、当時の2年間は雪かきが仕事だった(金)」そうだ。
 
99年に京都に出てくる決心をして、オフィスを探したがいい場所がない。ようやく見付けた時、ビルのオーナーに言われた。
 
「2年後にこのビルを買い取るなら貸そう」。
 
その約束を果たし、周辺のビルもどんどん買っていき、現在に至っている。


社長の顔が見えている会社はいい会社
 
同社を取材していて気付かされるのは極めてマーケティング戦略に巧みな点だ。例えば開発領域は老化、神経、免疫の3分野である。どれも時代のニーズにがっちりと適合している分野で、しかも前述したように開発思想が分かりやすい。素人の目線というのは実はマーケティング戦略の要でもある。
 
社長の言葉も分かりやすい。
 
「人を良くするのが食」、「お茶、卵、ミルク、酵母、小麦など身近な素材を使う」、「きっちりしたデータがあれば(消費者に)買われない理由がない」等々。
 
また、社内の雰囲気がいい。明るいのである。社長の発想が「素人目線」によるところが大きいのか、はたまた、社員の平均年齢が若いためか。いずれにしてもこの雰囲気は一朝一夕に作れるものではない。
 
この会社には社員食堂がある。昼時ともなれば同社の社員は食堂で食事をする。その和気藹々とした雰囲気が実にいい。この取材をした時には、その食堂に京都大学の副学長がふらりと現れて、みんなと一緒に食事をしていた。
そんな雰囲気の会社なのだ。
 
社長の金武祚は大変穏やかな目をしている。そして、話すことに夢を感じさせる。そういう経営者に出会うことは、そう多くないだけに非常に印象に残る。
 
会社というのは、社長で決まる。社長の顔が見えている会社はいい会社である。そしておもろい会社である。恐らくこの会社の社員はそういうことを肌で感じているに違いない。


海外進出で可能性はさらに広がる
 
同社の業績は上場した2006年7月期で売上高12億円、経常利益1億8500万円。2007年7月期は1億円強の赤字となった。念願だった研究所を付設した新社屋に移転して販売管理費が膨らんだ半面、売上が思ったほど伸びなかったのが原因だ。
 
それに自前で開発をしている分、研究開発費がかかるのも同社の宿命である。前期の研究開発費は3億円。実に売上高の20%超をかけているのだ。
 
そもそも規模は小さいわけだから、当分は大幅な利益は見込めないかもしれない。
 
しかし何と言ってもそのポテンシャルは大きい。そこが魅力なのである。
 
そして同社は上場を契機に新たな展開を始めている。一つは米国、中国など海外への進出。米国ではFDA(食品医薬品局)による食品安全認可制度GRASを取得した。これにより、米国での売上の伸張が期待されるし、中国でも「新資源食品」としての認可が取れる寸前である。
 
そして、もう一つはロート製薬などと提携して始めたメディカル分野への進出もある。期待度の大きな会社であることに間違いはない。

(2007・12・14)

【第2回】ナノテクで化粧品業界に殴り込みをかけた、84歳社長の「川下」発想

(株)ファーマフーズ

機械メーカーが化粧品を開発した
 
こんな会社はめったにないという好例が、ホソカワミクロンである。正確に言うと、この会社の出している化粧品に注目が集まっている。同社の化粧品はネットで売られている 隠れたヒット商品なのである。

と言っても全然ぴんと来ない人が多いだろう。社名からして、おおよそ化粧品メーカーの雰囲気はない。本当は同社の子会社であるホソカワミクロン化粧品が製造しているのだが、話を分かりやすくするために、ここではホソカワミクロンで通す。
 
そもそもこの会社はどういう会社なのか。 東証1部上場企業であるホソカワミクロンの子会社である。ホソカワミクロンは、コピ ー機のトナーなどに使われる粉、つまり粉体を作る機械メーカーで、この粉体技術は世界的なものだ。流行の言葉で言えばナノテクメーカーである。
 
それがまたなぜ、化粧品か? 誰だってそう思う。ここに経営者の識見と意地が見えてくるのだ。

 
そもそもこの話は1994年に社長を退いていた、創業者の細川益男が2003年10月に社長に再び就任した時に遡る。当時、ホソカワミクロンは2期連続で赤字を出しており、銀行は借入金の返済を求め、社長の細川に個人担保も求めた。細川は銀行に出向き、抗議したほどだ。
 
と同時に、こんな思いが細川の脳裏を占めていた。
 
粉を作る機械というのは川上の商品である。ところが、この技術が凄ければ凄いほど、その粉自体を商品として売っている企業の価値が上がる。現実に即して言えば、この 機械を購入してトナーを作りそれを販売したキヤノンなどの事務機メーカーが売上げを伸ばした。
 
一方、ホソカワミクロンはというと、一度機械を納入すると、そのメインテナンスが安定的収入をもたらすのだが、バブル崩壊以降、そのビジネスに変化が起きた。機械自体が中国などでコピーされ、安価で売られるようになったのである。酷い時には、その海外製の安い機械が壊れたときに、修理だけ注文される。バブル崩壊までは確実に存在していた、作る側と使う側の倫理観がなくなり、いきおい同社は収益力に乏しくなった。それが赤字の大きな原因でもあった。そこで復帰した細川は考えたのだ。
 
川下の商品を作らなければならない、と。


肌の奥に浸透させるナノテク技術
 
幸いにして同社の技術力は世界的なものだ。これを使って何ができるか。細川はさまざまな着想から製品開発を試み、試行錯誤を繰り返し、そして、化粧品をターゲットにした。 それもただの化粧品ではない、アンチエイジングの化粧品である。
 
これをつけるとシミが消え、しわがなくなり肌が張りを増す。そのような製品がどうして開発できたのか。ヒントは同社自慢の最先端のナノテクノロジー(1ナノメートルは10 億分の1メートル)だった。

 
元来、化粧品は肌に付けた時に、どこまでその成分が浸透するかで効き目が変わってくる。ところが肌に浸透するには難敵がいるのだ。それが角質層。細胞がびっしりと守りを 固め、化粧品の成分を通さない。成分を通すには、細胞の僅かな隙間を通すしかない。その隙間は、通常70ナノメートルと言われている。つまり70ナノメートル以下で成分を作ればその成分は効くことになる。
 
ところが、その大きさで作った成分は、小さすぎて今度は角質層の細胞に食べられてしまうと言うのだ。
 
ナノテクも大変である。 ここで同社の開発陣は考えた。人間は常に活動しているから、細胞の隙間は時に微妙に 広がりを見せるのだ。広がった時は200ナノメートル程度になる。つまり成分が200ナノメ ートル以下程度なら角質層を通り、肌の深い部分に到達する。だから、効く。
 
そして、もう一つのポイントは成分の届かせ方にあった
 
同社では、ナノ粒子の研究から、ナノ粒子同士を結合させることに成功した。あるナノ粒子同士を結合させると、まったく違った物性を持つことが分かった。例えばそれは、非 常に粘着性が高いが、水分に触れると、ある時間をかけて、溶けてしまうといった物性だ。 この結合したナノ粒子の中にビタミンC、E、Aなどを入れてやる。すると、そのナノ粒子は皮膚の角質層を通って、肌の奥深くに到達する。そこには水分があるから、ナノ粒子は溶け始め、徐々に成分が放出されていく。その結果、成分が効いて、シミは消え、肌は張りを増す。顕微鏡写真で見るとその効果ははっきり分かる。


人間には運というものがある
 
話は長くなったが、こうして生まれた化粧品から同社は、さらに商品開発を進めたのである。
 
それが、育毛剤。現在発売されているあまたの育毛剤もネックは化粧品と同じ。毛根から毛乳頭にその成分が届くかどうかが、決め手なのだが、実際にはそこが難しいとされている。同社はマウスを使った実験などで、市販の育毛剤とは比べ物にならないほど毛が生えてくる成果を導き出した。もっとも育毛剤は医薬品なので、その認可は取っていない。 だから現在は会員制と言う形で限定的に発売されている。こちらも隠れたヒット商品である。
 
そもそもこれらの技術は、経済産業省の国家助成金事業に認定された「ナノテク薬物搬送システム(DDS)」として開発していた。DDSは、先述したナノ粒子を用い、注射や投薬 なしに薬の成分を肺の粘膜などに吸収させ、体内に長時間とどまらせるという画期的なもの。これが化粧品のアイディアに結びついたわけだ。
 
このナノ技術を、同社ではそんな呼び名すらなかった1984年から開発していた。現在、画期的な燃料電池を始めとするさまざまな分野に広げているが、これには、実は、大きな 転換点があった。

 
2002年10月。細川が社長に再度就任する1年前に、細川はある決断をしたのである。それは研究開発部門を分社化し、ホソカワ粉体技術研究所として独立させ、自ら社長に就任 したことだ。 細川は94年に会長に就任してから、自らの影響力を出すまいと、経営に口を出さなくなった。ただ、研究開発会議には参加した。自らが京大工学部出身のエンジニアだから、当然だったかもしれない。
 
だが細川は、それを「人間には運というものがある」と表現した。
「本社所属の研究所では、自由度がない。そこで人を増やし、テコ入れした。分社してさらに増資をした(細川)」
 
02年(9月決算)といえば、設備投資の冷え込みによる業績不振に加え、米国子会社のトラブルもあり多額の特損を出し、50億円もの連結赤字に陥った年だ。ここで研究開発部 門は攻めに出たことになる。
 
結果として、翌年も業績が戻らず、細川は社長に戻るのだが、研究開発に注入した力を元に復活したそのプロセスを「運」と言っているのだ。


事業のために、自分の愛するものも手放した
 
もう一つ、ホソカワミクロンの転換点となったのは、前述したように、それまで機械を作りユーザーに収めるいわゆる機械屋から、最終商品を含むマテリアルの分野へ大きく足を踏み出したことにある。
 
これについて細川はこんな風に解説した。
「昔は機械を作っていると敬意を表されたんです。しかし"粉を作る機械"を作るメー カーより、その機械を使って"粉を作る"メーカーの方が儲かるようになった」
 
それがはっきりしたのがトナーだったそうだ。しかしトナーの生産には踏み込まなかった。お客に対する倫理観故だ。
「それでも以前は部品の注文などがあったが、最近では中国でうちのものをコピーした機械を作らせる。修理だけうちに頼みに来るようなモラルのない企業すら出てきた(細川)」 ことは先に説明した通り。
「3年前に宣言したのです」と細川は続けた。「粉体技術では世界のNo.1であり続けること。それに加えて粉体技術から生まれるマテリアルを作っていくと」


 
それにしても驚くべきは、細川の柔軟な発想力である。そして攻めの姿勢である。80歳を超えてから、会社の再建に取り組む姿勢。一歩もひるまず、業績の落ち込んでいる時に でも積極的な投資を忘れなかったこと。これは特筆に価する。
 
ところで、細川は競走馬の馬主として実は有名な存在である。1997年秋の菊花賞馬「マチカネフクキタル号」もその一つだが、社長に復帰して、銀行から融資を受けなくなった時、書画、骨董、金などと共に競走馬も売ってしまったそうだ。
 
取材を通じて、銀行への思いは随分聞いた。
 
銀行にはいろいろ詰め寄られたが、それでもプライドを全面に出し、会社復活の思いを 実現するために、自らの大切なものを手放した。それこそが82歳にして、会社を復活させた原動力だったのではないかとすら思える。
 
細川に化粧品の話を聞いたとき、自らそれを付けていることを明かしてくれた。
 
その顔にも手にも張りがあり、シミ一つ見いだせなかった。

(2007・12・7)