2011年11月18日

【第1回】世界有数の風力発電事業を持つ、山口の不動産会社の心意気

(株)原弘産

世界3兆円市場で風力発電の受注残150基
 
風力発電といっても日本人にはピンとこないかもしれない。曰く「晴れている日ばかりではないのに安定供給ができるのか」、「発電量が小さすぎてお話にならないのではないか」、「意外に音がうるさい」等々。

確かに日本ではそうかもしれない。しかし今、世界の風力発電市場は3兆円あるというのをご存知だろうか。3兆円の市場のうち日本は僅か300億円で、中国(2500億円)、インド(3000億円)、アメリカ(5000億円)と世界には山ほど売り先があるのだ。こういう国ではあまり音も安定性も関係ない。
そして今、風力発電の世界で非常に注目されている会社が日本にある。それが、(株)原弘産だ。同社は今や世界でも有数の風力発電会社、原弘産ヨーロッパ(本社:オランダ)を有している。また、中国・湘南省に合弁会社を設立し、新工場を稼動させている。昨年の実績は僅か22基だが、1年で受注残が150基もあるのだ。単純計算すると1基3億5000万~4億円として、売上は525億~600億円近くにも上る計算となる。
 
同社の昨期の業績は売上高528億4100万円(うち環境事業31億700万円)であるから、この風力発電事業のインパクトと将来への貢献が如何に強いかが分かる。
社長の原将昭は「中期計画では2010年に(同社の)売上高1500億円を計画しているが、その時は50:50になる」と言う。つまり三年後には風力発電事業単独で750億円の売上高になると言うのだ。
風力発電メーカーとしての原弘産の輝かしい将来像が見えてくる。


営業に素人の男が作った不動産会社
 
そもそも原弘産は不動産会社である。
社長の原将昭は1970年に積水ハウスに入社した。設計部門にいたが、78年、図らずも営業に出ることになった。同社の戦略展開上での異動だった。しかしこの時の営業へ異動が原の運命を決めたのだから、人生は分からない。
営業にはど素人の原が、考えたことは当然他の人間とは変わっていた。
「当時社長は『住宅しか売るな』と言っていたので、『アパートも住宅ではないですか』と言ってアパートを売り始めた(原)」というのだ。
自らのいた下関地区で、このアパートを爆発的に売った。地主を回り、アパートを建てた家の税務申告も手伝い、抜群の信頼を得た。税理士や弁護士の代わりもしてあげたことになる。そして、昇進して本社に帰るときに節目が来た。
転勤の挨拶にいった先で、お客に怒られたのだ。
「積水ハウスに頼んだのじゃないお前に頼んだんだ」と。
「資本金を出すから独立しろ」とも。
 
そこで独立した。36歳だった。今度はそのお客がアパートではなくマンションを作ってくれと言い出した。自らは建築士でもある。その要望にこたえる形でマンションを作った。妻と二人で何でもやった。
ところが、住宅地にマンションを建てると反対にも遭う。近隣への説明にも回った。建てば建ったで、ごみの問題に悩まされた。入居者はごみ当番をしない。ゴミの分別をしない。だから、軽トラックを買ってゴミ捨て場の掃除から、ゴミの仕分けまでして、処分場へ持って行った。これを8年間も続けたのだ。
ここで、環境問題に目覚めた。リサイクルを行なった。各戸にディスポーザーを付け、下水道に直接流さず、浄水器に通してから流すというように工夫した。ゴミを出さないマンションを作ったのだ。そして、マンションの中はオール電化にした。
それでも、電気を使うということは、電力会社から買うということだから、発電に使う石油のことを考えると完全なエコとは言いがたい。
それで、とうとう屋上には太陽光発電をつけた。完全なエコマンションを実現させたのだ。このエコマンションは後に経済産業大臣賞を受賞することになる。


オランダの風力発電メーカーを買収できた理由
 
原の取り組みは休む暇がない。エコを実現したらしたで、太陽光よりもっといい発電はないかと考えて、折から進められていた電力自由化に乗り、風力発電に取り組むことにした。風力発電所を作ったのだ。
「3億6000万円を投資しました。1kw11.5円で卸せたので、東京電力へ話しに行くと5~6円なら買うと言われた。あっちは24円で売っているのにね。それに風力発電機は2億円で出来ると笑われた(原)」
 
そこで当時最先端の風力発電機を作っているオランダのラガウェル社に交渉に行った。しかし日本の代理権は別のところが持っていた。粘りに粘り、新型機種については、別会社を作って原弘産とやってもいいとまで言わせた。
ところがここで問題が起こった。ある日、ラガウェル者の社長から電話が入ったのだ。緊急の用事だという。聞けば、ラガウェル社は倒産寸前だったのだ。その一報が先方の社長から入るほど、二人は既に昵懇の仲になっていた。
「いろいろ買いに来ているがお前のところで買ってくれないか」と言う。
すぐにオランダに飛んだ。
 
現地で通産大臣に面会し、弁護士とも相談した。新会社を作り、技術だけ買う形で、そこに社員を移籍させることで話をまとめた。睡眠もとらず、4日間で決めたことだった。最初にオランダに交渉に行ってから、2年間が経っていた。
「特に技術の優秀さが決め手でした。当時の平均的な発電量は750kwだったが、2000kwに成功してましたからね(原)」
 
こうして、原弘産ヨーロッパが誕生し、同社は風力発電の有力メーカーとなった。


追い詰められた時に、さらに力を発揮する「原パワー」
 
ところで、同社は2001年大阪証券取引所第二部に上場している。不動産会社として、同社のエコマンションが「新エネ大賞」経済産業大臣賞を受賞する前年の話だ。
 
この上場前に落とし穴があった。新興市場など本当の上場じゃないとばかりに大証2部を目指したのはいいが、そのために銀行からカネを借りて開発を進めた。1996年頃の話だ。
下関市から山口県全域に開発を広げたのだ。
「ところが、山口県と言っても東と西では全く商圏が違う。そんなことも気付かずに開発をした結果5戸しか売れてないというマンションが出た(原)」
 
ここからが原の真骨頂だ。社員3人と社長とで、そのマンションの地域で戸別訪問を行なった。1人1日500軒、4人で2000軒を回った。毎日早朝に車で出かけ、朝の新聞配達の後ろにくっついて、チラシを各戸に入れていく。その後各戸を回る。くたびれ果てて帰る、そんな毎日を続け、とうとう完売したのだ。
 
原の真骨頂はここにある。
実は、原の力は、この追い詰められた時により力強く発揮されるのだ。設計者として入社した積水ハウスでも、営業に回されるという、普通の人ならばとんでもないと思うような時に力を出す。他の人間なら会社を辞めてしまいかねないような時に、この力が出るというのが面白い。
独立した時もそうだ。マンションを作り、住民の反対を説得して歩き、しかもマンション住人の責任なさに、淡々とゴミ置き場の掃除やゴミ分別に取り組む。ここには計算が働いているわけではない。仕方がなかったのだろう。
しかし、これを淡々とこなしたからこそエコに目覚め、終には風力発電という大事業にまで取り組むようになるのだから、事業というのは分からないものだ。この粘り強さはどこから来るのか。原はそれには答えず、淡々と語るのみである。
同社は、本業の不動産事業でも近年東京圏にも進出し、実績を出してきている。
「東京のビジネスはいいですね。客並ばせてマンションの合同契約会をやっている」と、ここでも原は苦言を呈す。これが本当のサービスか? と問うているのである。
この分でいくと、不動産と風力発電の原弘産の名はさらにメジャーになるに違いない。

(2007・11・26)

第10回 「10分1000円」にこめられた時間価値の訴求がお客様のニーズに合致した。(前編)

キュービーネット株式会社 代表取締役社長岩井 一隆 氏キュービーネット株式会社 代表取締役社長
岩井 一隆 氏

聞き手 松室哲生(おもろい会社研究所主幹)

――大変な消費の低迷期ですが、昨年の10月から12月の3ヵ月で18店も出店していますね。昨年度の売上高はどれくらいだったのですか。

【岩井】前期(08年6月期)の売上高は連結で74億円、経常利益で5億5700万円でした。

――高成長を維持しているポイントはなんですか。

【岩井】成長のポイントを一言でいえば、お客さまが求めているものに特化したサービスを私たちが提供できたことで、お客さまのニーズに見事に合致したのだと思っています。

――具体的にいうとどういうことですか。

【岩井】つまり、お客さまがヘアカットにかける時間を10分間という短時間で済ませられるようにした。これが時間的価値。そして、お客さま自身ではできないヘアカットの部分だけを私たち技術者が行なうということで割り切ったのです。お客さまができることはご自身でやってもらうようにしたわけです。

――確かに「10分1000円」というキャッチフレーズはパンチ力があると同時に、上手い表現だなと感心しました。時間単価で見れば、1時間5000~6000円の理美容室と変わらないわけですが、そこに時間的価値観をつけたところがすごいですね。

【岩井】私たちは、「10分1000円」という、そのセールスポイントを掲げた看板と店舗を出すこと自体が広告と考えています。ですから、人通りが多く大勢のかたの目につきやすいところ、利便性の高い場所に出店するようにしています。
 
低料金という理由で利用してくださるお客さんも大勢いらっしゃいますが、きちんとした身だしなみが10分間で済ませられるという時間的価値を求められて来店されるかたも徐々に増えています。


銀行員の目から見ても画期的で面白いビジネスモデルだと直感した。

――創業時には、岩井さんは、まだ日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)にいて、キュービーネットを担当していたわけですね。外から見たキュービーネットはどう見えましたか。

【岩井】当時の理美容業界には合法的なカルテルがあって、どこの理容室に行っても同じ料金という状況でした。そうしたなかで、従来にない画期的なシステムで低料金のヘアカット専門店をつくるという話でしたから、銀行としても期待は大きかったです。

――どのような経緯で御社は事業を始められたのですか。

【岩井】事業を始めた経緯については、創業者の小西から聞いた話をお話しましょう。以前小西の通っていた理容室は、時間もかかるし料金もかかっていたそうです。予約が必要でしたが、予約時刻に遅れても、終わる時刻は、遅れずに行ったときと同じだったそうです。不思議に思った小西は、理容室で行なわれていることをよく観察してみたそうです。
 
いつも、時間も料金もかかることに不満をもっていた小西は、そこで「理容師がしているシャンプーや髭剃りは自分でもできるじゃないか。内風呂がなかった時代ならともかく、今なら家に帰ってできるから必要ない。ヘアーカットだけしてもらえば時間はかからないし、料金だってそれに特化させれば安く済むはずだ」と思いついて、そこから始めていったそうです。


お客はゆったり、理美容師はキャビンで何もかも作業する感覚。

――なるほど。そこで必要になってくるのが、カットを短時間で上げるためのパッケージづくりと理美容師の技術ですね。

【岩井】店舗設計はヨットのキャビンから発想を得ています。お客さまがゆったりとくつろげ、理美容師にとっては使用する道具が手の届く範囲に使いやすく配置され、すべて効率よく作業できるようにと考え出されたものです。
 
理美容師については、もともときちんとした技術を身につけた国家資格者ですから土台をもっています。それをベースにして、10分間でヘアカットを仕上げるためのノウハウ、クシの入れ方、切る回数などの技術を専任のトレーナーが指導しています。

――このシステムは創業時から同じなのですか。

【岩井】そうです。事業の準備段階のときに、時間も予算も十分にかけて計画を練っています。その後、店舗と本部を結ぶシステムなどはバージョンアップされていますが、店舗に関する根本的な仕組みについては、創業当時に考えられたものとまったく同じです。

――入念な準備を済ませてからスタートダッシュしたからこそ、今日まで成長を続けてこれたわけですね。

【岩井】いや、最初は必ずしもそううまくはいかなかったようです(笑)。初日はよかったんですよ。事業の企画段階からマスコミにアナウンスしていたので反響も大きくてね。開店は96年11月1日でしたが、前の晩は、小西は興奮して眠れなかったそうです。そうして、店をオープンすると開店と同時に100人もの行列ができた。小西は「金鉱脈を掘り当てた!」と思ったそうですよ。

――なかなかいいスタートダッシュだったわけですよね。

【岩井】ところが、2、3日するとパタッと客足が途絶えてしまった。なぜかと調べてみると、行列したお客さんのほとんどが同じ業界のかたたちだったというわけです。開店から半年ぐらいはかなりきつかったようで、毎日「明日はもう止めよう」と思っていたそうです。

――すると、投資した側の岩井さんも心配だったでしょう。事業が成功するという何か確信のようなものはあったのですか。

【岩井】確信といわれると、ちょっときびしいかもしれません。ただ、多くの投資先のなかからみても、前例のないビジネスモデルでしたし、私自身は「これは面白い!」と感じていましたからね。実際の投資は、10店舗くらいになった頃に実行していますけれどもね。

――では何が成功の要因になったのですか。

【岩井】創業当初のむずかしい局面を乗り越えられたのは、結果的には口コミのすごさです。一度利用していただいたお客さまに「10分間できちんとしたヘアカットができるんだ。これで十分だ」と満足していただけたことが、より多くのユーザーに結びついていきました。今でも口コミの力が大きいですね。

2009年3月 月刊『エマージング・カンパニー』誌の取材にて

第9回 水に溶けないチタンだって溶かせた。 常識に頼るな、知識にすがるな。(後編)

ファイテン株式会社 代表取締役社長平田 好宏 氏ファイテン株式会社 代表取締役社長
平田 好宏 氏

聞き手 松室哲生(おもろい会社研究所主幹)

――ところで、選手のケアとは具体的にはどういうことをするのですか。

【平田】選手専属のトレーナーと我が社のボディケア・スタッフとで選手のコンディションをみています。以前ですとアクアチタンを使ったボディケアの効果を認めないというトレーナーも中にはいましたが、素手だけのケアとアクアチタンを併用したケアとの効果の違いを選手たちに実感してもらったことで、受け入れられるようになりました。
 
昔、私は料理人になるための修行をしたことがありますが、料理人の作る料理とこうしたケアとは同じようなところがあります。要は、評判がどうのという尺度ではなしに、相手に心から受け入れられるかどうかというところが重要なわけです。相手が望んでいる美味しい料理を、いいサービスと納得できる料金で提供できるかどうかで決まります。

――効果といっても目に見えない。医薬品として日本の厚生労働省の認可も受けていないので効能もうたえない。商品説明はどのようにしているのですか。

【平田】基本的なところはおさえていますが詳しい商品説明はあまりしません。知識よりも何より、実感のほうが大切でして、たとえば中国の漢方薬のように経験的にいって効能がある、目に見えない分野なのだと説明しています。
 
ただし現実には、ドイツの医学者によって、アクアチタンが正常な神経細胞には影響をあたえずに、神経の異常な興奮を抑える働きがあるという研究論文が発表されました。たとえば、自動車事故によるむち打ち症などで、いちど神経が異常に興奮してしまうと、次は小さな刺激であっても興奮が収まらなくなるといった現象がアクアチタンによって抑制されるという効果です。

――いわゆる古傷が痛むのを抑えられるというわけですね。

【平田】トップアスリートほど、体に負荷をかけ続けているわけで満身創痍というのが当たり前ですから、彼らほどその効果を実感できる人たちはいません。われわれ一般人であっても、日々のストレスによる神経の興奮をとることによって、よく眠れるようになったという例もあります。

――それにしても「チタンを水に溶かした」という事実は大きい。

【平田】一般に、効果を認めても一方で、どういう技術なのか、一体何が入っているのかということにとてもこだわる人がいますから、チタンの水溶液を作ったのだという事実には強い説得力があります。


常識に頼らない。知識にすがらない。

――まさかチタンが水に溶けるとは思いませんでした。

【平田】逆に私はチタンが水に溶けないとは知らず、なんだか溶けそうな気がしていました。ここが素人の発想の凄いところです(笑)。
 
金属の専門家に聞きにいくと「何を馬鹿なことをいっているのだ」相手にされませんでしたが、うちの開発部門は専門家の意見にひるみませんでした。チタンに取り組む以前の実績もありましたので、文献を調べ、工程を作り、基礎実験を繰り返して、やっとチタンを溶かすことができたのです。それでパテントを申請するために特許庁に行くと、今度は門前払いでした。以前から特許申請には行っていましたのである意味顔見知りだったが、彼らが申すには「我われはどんなに奇抜な特許申請でも真摯に検討するがウソだけは駄目です」というのです(笑)。
 
それまでの常識では、チタンは錆びない。錆びない金属は絶対に溶けないというのが通説でした。困って、弁理士とも相談し、実際にチタンが溶けた溶液を提出してようやくわかってもらいました。ただチタニウム水溶液ではなく「超微粒子分散水」という名称をつけられました。単なるコロイド分散では、水に溶けた絵の具が時間とともに上下に分かれて分離してしまいますが、砂糖水といっしょで上と下の濃度がいつまでも変わらないものを超微粒子分散水といいます。

――さらに錆びにくい金や銀などの金属も水に溶かして、その技術を取り入れた商品開発にも力を入れていますね。

【平田】日本においてはラクワネックなどのアクセサリーよりも、素材メーカーとしてのファイテンのほうがこれからは面白いかも知れません。
 
金の溶液のアクアゴールドは、大手化粧品メーカーとコラボレーションしていますし、住宅の壁紙や塗料などもメーカーと共同して開発しています。そのほかにも水耕栽培などの農業利用、鶏卵の飼育、醸造酒などにも利用されています。

――一言で開発するといっても、それには大変な苦労がつきものです。実際にはどのようなプロセスで行なわれたのでしょうか。

【平田】アクアチタンでは、真水にチタンを溶かすビーカーワークに半年、溶液を目に見えるほど濃くするに半年、安定溶液にするのに半年かかりました。それをラクワネックなどの製品化まで持っていったので、全部で2年かかっています。
 
そうした実験、研究、開発のプロセスにおいて一番重要なのが開発者の意欲です。開発費よりもなによりも必要なのが開発者の情熱で、それが冷めないようにいろいろとアドバイスするのが私の役目です。さまざまな技術を習得する過程において、現代科学の延長線上でイメージすることを「知識汚染」といって注意しています。やってみなければわからない、何ができるかわからないのがよくて、常識に頼るな、知識にすがるなと常日頃からいっています。

――素人の発想を大切にということですね。これからのファイテンについてお伺いします。

【平田】米国のメジャースポーツのNFL(ナショナル・フットボールリーグ)とNHL(ナショナル・ホッケーリーグ)のライセンス契約を3年以内にとる予定でいます。
 
日本では、モノを作って提供するファイテンから少しはなれて、健康になる時間を提供するような会社、汗を流して努力するトレーニングではなくて、楽しいから行きたくなるようなジムなどを作りたいですね。来年には京都にそうした構想をもとにしたサロンの第一号店が完成する予定です。


2008年11月 月刊『エマージング・カンパニー』誌の取材にて

第8回 未知の発想は素人が生む。それを成功に導くのは情熱。(前編)

キュービーネット株式会社 代表取締役社長岩井 一隆 氏キュービーネット株式会社 代表取締役社長
岩井 一隆 氏

聞き手 松室哲生(おもろい会社研究所主幹)

――昨年12月にMLB(メジャー・リーグ・ベースボール)のオーセンティックライセンス契約を日本企業として初めて締結されましたが、現在はどのような状況でしょうか。

【平田】MLB商品もリリースされて順調です。11月の中旬に米国ラスベガスで次のライセンス商品の展示会とミーティングをする予定になっています。MLBサイドが乗り気なのにはこちらのほうがびっくりするくらいです。
 
米国は新しい話題に対する反応がとても早いですね。MLBばかりでなくNBA(ナショナル・バスケットボール・アソシエーション)、PGA(プロフェッショナル・ゴルファーズ・アソシエーション)からもオファーをもらい、ライセンス契約の仮調印をしました。向こうはチャンスに対しては垣根を越えてやってきます。

――米国の人気スポーツのライセンスを取得するというのは商売としてとても強いですね。

【平田】はい。それも向こうのほうから言ってきてくれるからコストも安いわけです(笑)。もしこちらから働きかけるということになると、いくつものエージェントを通さなければなりませんから時間もコストも非常にかかります。あちらがファイテンに興味を持ってくれたからこそのことです。


北京オリンピックの功績によって、中国政府とのプロジェクトが誕生。

――オーセンティックライセンス契約をすれば、球団ごとの契約はせずとも各球団のロゴなどをデザインした商品を売り出せるわけで、その波及効果は大きいでしょうね。

【平田】予想以上のものがありました。例えば、米国では大手の売場では名前が知られてなければ陳列もしてくれません。以前は、商品機能を説きながらコツコツと売っていましたが、オーセンティックライセンスをとれると一気に売場の対応が変わりました。今ではファイテンの商品を並べてくれないお店は一軒もありません。

――EUではどうでしょうか。

【平田】ドイツとスイスが好調です。
 
簡単な医療品としてのレベルですが薬局にも置いてもらえることになりました。近いうちにドイツで開かれるメディカル・コンベンションにも出展する予定です。
 
欧米はよい商品でもって、きちんとしたルートで販売できれば、排他的なところもなく、とてもスピーディにビジネスができます。
 
商品が非常に珍しいといわれている時期はあまり売れませんが、少し名が知れたあたりが購買者の関心を一番引きつけるときで好調に売れていきます。すこし前の日本の状況がそうで、毎年倍々に売上げを伸ばしてきました。近頃は、中国の勢いがあります。

――北京オリンピックの波及効果ですね。

【平田】中国とは2年ほど前から北京オリンピックに向け、選手強化の協力をしてきました。それが実を結び、協力先の選手の約7割が金メダルをとるという快挙を成し遂げました。
 
それで中国体育総局から推薦を受けることになり、今では中国で販売されているファイテンの全商品に体育総局が認可した印が付けられています。さらに、次世代の選手を育成する団体からも認可を受けました。

――中国政府が相手では、オーセンティックライセンス以上の効果があるかも知れません。

【平田】もの凄く気に入られまして、これから嫌われないようにするにはどうしたらいいか思案しています(笑)。

――どういうアプローチの仕方をしたのですか。 

【平田】ほかのケースと同様に、部分的なところから入っていき、徐々に商品のよさを理解してもらい、認められました。
 
中国では、今後の製品を共同制作していくプロジェクトが立ち上がります。なんといっても国が相手で、トップアスリートたちがテスターになってくれるわけですから、スケールが大きい面白い仕事になると思います。


効果を実感した選手たちの口コミが団体を動かし、巨大市場を生んだ。

――正に一人ひとりの選手を相手に、実際に使ってもらい、よさを実感してもらうという実直な方法ですね。

【平田】そうです。MLBにしろNBAにせよ、表玄関から堂々と入っていったわけではなく、選手個人のケアをコツコツやってきたんです。そこで効果を実感してもらい、ほかの選手にも紹介してもらい、口コミによって次から次に輪が広まっていったわけです。それがしまいには団体にも伝わって、うちでも取り扱わせてくれという契約に結びついたのです。

――たとえばマラソン選手では、引退を発表してしまいましたが高橋尚子選手や英国のポーラ・ラドクリフ選手など、宣伝効果の高いトップアスリートと契約を結んでいますが、最初からターゲットにしていたわけではありませんね。

【平田】われわれはファイテンのよさ、中身を理解した人にしかすすめませんし、高橋尚子選手やゴルフの片山晋呉選手などもファイテンの心からのファンです。自分で気に入って使ってくれるからこそ、自分の言葉で宣伝してくれます。お金を払って宣伝コピーをいわせているのではなく、選手たちの実体験から出る言葉ですから真実味が違います。それがファイテンの強みです。

――確かに、ホームページやブログなど新しいメディアにおける口コミの影響力は、広告などのマスコミの力を上回ることがあります。

【平田】商売としては、トップアスリートに早くたどり着ければもとよりですが、広告などのマスコミとは違い、よくも悪くも口コミで広げていくのがファイテンの宣伝ポリシーです。
 
法人相手の共同開発にしても、まず我われの方針を理解してもらった上で、相手の身の丈にあった提案をさせていただいています。


2008年11月 月刊『エマージング・カンパニー』誌の取材に

第7回 何でもやってみなければわからない。「もう駄目か」と諦めかけたときが夜明け前。

株式会社 喜代村 代表取締役社長木村 清 氏株式会社 喜代村 代表取締役社長
木村 清 氏

聞き手 松室哲生(おもろい会社研究所主幹)

――『すしざんまい』第1号店をオープンして7年。店舗数は26店と多くはないのですが、売上高120億円、経常利益10億円(連結、08年9月期)と目を見張るような急成長ぶりです。それを可能にした大きな理由の一つが「年中無休、24時間営業の寿司店」というかつてなかったコンセプトです。そもそもなぜこのような店をつくろうと考えたのですか。

【木村】20代で最初に入った会社が大洋漁業(現マルハ)の子会社で冷凍食品を扱っていました。会社には3年弱ほどしかいませんでしたが、いろいろ魚の勉強をし、築地との付き合いもそのときから始まりました。

2000年の頃、築地場外の、ある店舗オーナーから「築地が陳腐化してきた。場外の店がこのままでは廃れていくので何とか活性化できないか」と相談をもちかけられ、「お前ならできるだろう」と一等地にあった35坪ほどの店(現本店)を無条件で貸してくれました。

――なぜそれほどまでの信頼を得ていたのでしょうか。

【木村】前向きにものを考え、思いついたことは何でもやって、諦めなかったからですかね。

私は生鮮食品や水産業以外に、思い出せるだけでもいままで90の仕事をしてきました。


やりたいことをやっていったら、いつの間にか90種類の仕事をしていた。

――90種類ですか!? それは凄い。

【木村】農家の出ですが、子どもの頃から自分で工夫して愛玩動物などを飼育していました。15歳のとき、F104に乗りたくて航空自衛隊に入り、大検にも合格して念願のパイロットになるはずでしたが、事故で肝心の眼を負傷してしまい、お先真っ暗になりました。けれど、こんなときこそ一心に打ち込めるものをと考え、一番挑戦しがいのあると思った司法試験合格をめざして勉強を始めました。2年で択一式試験に受かりましたが、今度は学費が続かなくなり、アルバイトに精を出さなくてはならなくなりました。

――ほう、どんなアルバイトですか。

【木村】印象に残っているのが百科事典の訪問販売のアルバイトですね。実は、この販売は始めて1ヶ月半どうやってもまったく売れなかったのです。出来高制でしたから昼食を食べるお金もなくなって公園で途方に暮れていました。売れない事典を一人で見ていると、遊んでいた子どもたちが覗きに来る。子どもの質問にあれこれ答えていると、今度は子どもたちの母親がやって来た。すると、面白くてためになるものならと、買ってくれる親が現れた。それからだんだんと口コミで評判となって、今度は1ヶ月半で500巻以上も売れ、新記録を達成しました。
 
何でも物事というのは諦めたら終わりです。もうヘトヘトになって、心から「もう駄目だ、もう諦めよう...」と思ったときが、夜明け前なんですよ。

――いい言葉ですね。それから水産関係の仕事を始めたわけですね。

【木村】冷凍食品会社も最初はアルバイトですから3ヵ月で辞めるつもりでした。ところが、配達兼営業でいろいろと魚を売ってくるものだから重宝がられて延び延びになり、結局司法試験のほうを止めて、会社に入ることになりました。

――現在とは状況が違い、冷食はなかなか売れなかったでしょう。

【木村】そこで直接末端に売ったらと考え、おかず用に調理し、弁当にして販売しました。冬には冷凍枝豆は売れないというので、テントを張ってストーブをガンガン焚いた居酒屋を作って売るようにしたり、土日限定のスーパーを開いて販売したりしました。
 
どうしたら売れるか、どうしたら人が喜ぶか、こんなものがあったら喜んでもらえるんじゃないか。そんなことばかり考えていました。


どうしたら喜んでもらえるかを考え続けることがシステム開発につながった。

――考えただけではなく、すぐに実行に移していったのですね。

【木村】どんなことでも実際にやってみなければわからないでしょう?
 
築地に出入りし、寿司屋にも魚を卸すようになったあるとき、寿司店のオーナーから、店舗によって原価が違うのをどうにかできないかと相談をもちかけられました。そこで、寿司ネタを切り身にして売ることを思いつきました。マグロは切ると鮮度が落ちるのでブロックにして、オーナーが一切れ何グラムと決めれば、歩留まりがわかるようにしました。
 
寿司店経営のノウハウには、人材管理、衛生管理などいろいろですが、金銭トラブル、いわゆる誤魔化しがないことが重要で、そうした原価管理ができるシステムを開発したせいで、商品は飛ぶように売れました。

――その後、独立してからもさらにいろいろな業種業態を経験されてますね。

【木村】廃車になったバスを改良したカラオケボックス、レンタルビデオ店とその運営のためのソフト開発。TSUTAYAさんが開業するずっと以前の話です(笑)。いまでは普通にある温かい弁当屋もその頃始めました。最初、保健所は「温かい弁当は駄目だ」といってたんですね。そこで、発砲スチロールの二重容器を開発することによって販売許可を得ました。

――その頃からマグロの取り扱いもされていますね。

【木村】日本人はマグロの大トロが大好きですが外国人は食べない。そこで大トロだけ輸入したことがありましたね。で、寿司店に卸すと「握ってもなかなか食べない客がいて、すると色が変わってしまう」と悩みごとをいわれました。で、考えついたのが「炙りトロ」。穴子を焼くような網では溶けてしまうので、火力の強いバーナーで一気に炙り、レモンを搾って出すことを提案しました。ほかにも、穴子や車海老の美味しい食べ方など、いろいろと考え、形にしていったことはいくらでもあります。
 
何でも新しいことをやると問題が出てくるものです。そこで諦めたらお仕舞い。必死に考え、努力してやり通せば、できるものなのです。


大きな仕事に対しては、一つひとつ問題解決していくことで実現させていく。

――なるほど。そうした経験や実績、行動力を築地場外の店舗オーナーが認めたというわけですね。なぜ24時間年中無休の寿司店にしたのですか。

【木村】築地といえばやはり寿司屋だろうと。30年のキャリア、人脈もありましたからね。そして寿司屋の利便性や問題点は何かと考えました。
 
お客は365日食べたいと思っていても週に一度必ず休業日がある。たとえ営業時間内でも、ネタが切れれば店を閉めてしまう。これをお客が望むように何とかしたいと思ったのです。

――なるほど。それで24時間年中無休と。でも実現するのは大変だったでしょう。

【木村】職人や従業員は8時間3交代制にし、週休二日制にしました。食材については、生モノなので4時間位の内に調理しなければなりません。寿司店では平均72品目、150アイテムくらい扱っているので、仕入れルートを朝は築地、昼は全国の産地から飛行機で取り寄せるなど、4つの体制を整えました。これも全国の浜や漁師さんとの30年来の付き合いがあったからできたことです。
 
衛生管理、とくに清掃時間については、24時間営業では店内を一度に全部掃除することができませんから、箇所を細かく区分し、手分けしてするようにしました。そうやって一つひとつ問題を解決していったわけです。

――それが1日でお客が23.5回転するという驚異的なお店になったわけですね。世界的に品薄状態のマグロについてはどうでしょう。

【木村】マグロに限らず、魚介類にはシーズンがあります。シーズン中に大量に獲って、オフシーズンには漁獲量が減るので価格を上げて売るというのが一般的なやり方です。
 
うちでは一年中そのとき一番美味しいマグロを出せるようバンクーバー沖、メキシコ沖、金華山沖、地中海など、マグロが回遊する世界の海にネットワークを巡らし、一本釣り、定置網、延縄などの漁法を地元の漁師さんに指導したり、マグロを新鮮な状態で備蓄できるよう生け簀を造るなどして、いつでも最高のマグロを食べてもらえる体制をしいています。マグロに限らず、生鮮食料品は安定供給が第一ですから、イワシ、ガリ、シャリなどすべての品目、安定供給をめざして努力しています。

――ありがとうございました。


2009年4月 月刊『エマージング・カンパニー』誌の取材にて

第6回 「何のためにこの会社はあるのか」素人の発想で常識を打ち破る。(後編)

ワタミ株式会社 代表取締役社長渡邉美樹ワタミ株式会社 代表取締役社長
渡邉美樹 氏

聞き手 松室哲生(おもろい会社研究所主幹)

――社員一人ひとりに会社のポリシーを浸透させることは簡単なようで現実にはむずかしい。それを乗り越えて、望まれる人材に育て上げるポイントはどこにあるのでしょう。

【渡邉】大事なことはミッションを共有するということです。
 
何のためにこの会社はあるのか、何のために外食事業をやっているのか、何のために農業をやっているのか。「何のために」という問いに対する明確な答えを持つことです。
 
そのためにはトップ自ら365日24時間どういう生き方をしているかを示すことが大切です。社員が1000人いれば、2000の目で見られています。トップは日頃社員に説いている理念を実生活でも実行することが必要です。たとえば私が切った伝票は経理部門に回り、社長が会社のお金を何のためにどのように使ったかわかります。伝票1枚で、社長の常日頃言っていることとやっていることは本当かということがわかってしまう。ですから世の中では、会社の理念は社員に浸透しないものとよくいわれますが、私にすればそのことは、トップが会社の理念の通りに生きていないせいだと思います。

――トップからのメッセージをいい続けることも重要ですね。

【渡邉】ですから私は、毎月、機会あるごとに、社員一人ひとりに長い手紙を書いています。また、店舗や施設宛にもビデオレターを作っています。社員宛ての手紙には社員の家族のことについても書いています。

――現在15以上の会社を経営されていて、そんな時間がよくとれますね。

【渡邉】昨夜は12時頃に寝て、今朝は4時半に起きました。1分1秒を大切に送れているんだと思います。ですから疲れなど全然感じません。
 
もともと、自分が楽しいと思うことしかやらないんです。気が乗らないことは一切しない。また、儲かる儲からないという話にも関心がありません。ワタミらしいか、お客さまの「ありがとう」という気持ちが集まるかどうか、というのが基準です。

――心やからだをリフレッシュする必要はありませんか。

【渡邊】毎月、鹿児島の屋久島に行き、海に潜り、山に登り、温泉に入ってきます。屋久島には日本百名山で、九州地方最高峰の宮之浦岳があり、一人で登ることもありますが次回はワタミが経営している病院の医師たちと一緒に登ってきます。
 
普段から好き勝手をしているのでストレスなど感じませんが、屋久島に行くと気分がフラットになり、枯れていたものが満たされるような気持ちになります。

――国内が800店舗でいっぱいとすると、海外への展開もこれからのワタミにとって重要ですね。まずはアジアですね。

【渡邉】すでに台湾、香港、深セン、上海に進出しています。2008年11月に香港でワタミ・インターナショナルを立ち上げ、ここをベースに2009年はシンガポール、以後毎年1カ国をペースに展開していく予定です。


海外進出は日本流を貫き、パートナーシップを築き上げる

――食はその国の自然、文化、慣習などと深く関わっています。同じ日本人相手とは勝手が違い、また食材などの価格も安いので苦労が多いのではありませんか。

【渡邉】いやむしろ海外における経営のほうが楽なんです。というのは日本の外食のほうがきびしいのです。 なぜかといえば、1970年代にマクドナルドが日本に上陸してきたとき、間違えて値段を安くしすぎてしまったからです。さらに、品質、味などついて日本人のレベルは高いですから、きちんとした対応ができることが条件ですが、日本より2、3割高くてもお客様は増えていきます。
 
この先、国内では小店が多くなりますが、海外では大型店を増やします。香港35店舗、台湾40店舗、上海など中国で40店舗、シンガポールで12~13店舗を考えています。

――従業員はその国の人たちになるのでしょうが、社員教育ついてはどうでしょう。

【渡邉】海外事業を推進するには2つのポイントがあります。ひとつは理念を貫くこと。
 
初めて海外進出したとき、そこの国柄、風習に合わせればいいと考えて、香港で"香港流"にまかせたら、給料のためにしか働かない自分勝手でとんでもない会社になってしまいました。以来、ワタミの理念研修には私自身が出張し、幹部を集めて「ワタミは何のためにあるのか」と、日本と同じ研修をやっています。
 
もうひとつは、中堅幹部にはその国の人間を起用することです。幹部には、ワタミという会社を良くし大きくするために日本人とパートナーシップを結んでいるのだと理解してもらうわけです。

――欧米は日本食ブームといわれていますがどうでしょう。

【渡邉】欧米への進出は10年先でしょう。私が欧米を回って感じるのは、いまの日本食ブームは底が浅い。一部の高級日本食レストランが迎え入れられただけで、大衆まで浸透していません。ちょうど現在のアジアの10年くらい前の状況といっしょです。
 ワタミが進出するのは、まず"日本食もどき"が大衆に広まってからで、それから本格的な展開を考えようと思っています。

――10年後のワタミはどんな会社になっているでしょう。

【渡邉】いい会社になっていると思います。というのも、外食事業を始め、介護、農業、環境、ご老人向け宅配弁当などのモデルがここにきてようやく形になり、その手応えを感じています。モデルさえしっかりできあがれば増やすのは比較的簡単で、寝てても大きくなっていくような凄い会社になるはずです(笑)。

――ワタミといえども事業が上手くいかないことはある。あまり目立たないけれど、そうした場合の手の打ち方や撤退などの決断の早さが、渡邉さんは抜きん出ていると思います。

【渡邉】最近は、焼肉、全面禁煙の居酒屋、デパ地下の惣菜などに挑戦しましたがみんな失敗でした。
 
新しい商売を始めて、この先どうするかは、いつも現場の空気感で判断しています。お客さまが喜んでいるかどうかは、現場に行ってお客さまの顔を見ればすぐにわかります。
 
以前、大手百貨店の地下にオープンしたわたみキッチンでは、食品売り場に1時間立って、お客さまの様子を観察していました。すると、お客さまが嬉しそうに買い物していない。ワタミが目的にしている「ありがとう」が集まっていない。そんな、あってもなくてもいいような商売ならやめよう、と決断しました。
 
私は損得で判断はしません。数字は後からついてくるものです。社員にはいつも「100先からもありがとうを集めたい」といっています。
 
この前、宅食会社の仕事を知るために、会社のユニフォームを着て、車を運転し、一つ500円のお弁当を配達して回りました。自分で食事が作れない独居のご老人、坂の上に家があり辛くて買い物に行けないご家庭などでとても感謝されました。とてつもないくらい「ありがとう」が集まるのを実感しました。
 
現在は九州を中心に展開している会社ですがこれから首都圏でも展開していきます。こうした事業こそワタミらしい仕事です。

――ありがとうございました。

第5回  損得勘定で事業はしない。社員と「ありがとう」を集めれば、数字は自然についてくる。(前編)

ワタミ株式会社 代表取締役社長渡邉美樹ワタミ株式会社 代表取締役社長
渡邉美樹 氏

聞き手 松室哲生(おもろい会社研究所主幹)

その昔、居酒屋つぼ八のFCオーナーになった渡邉さんは、瞬く間に店の売上げを数倍に増やして、さらにお客さま本位の居食屋『和民』を立ち上げた。その奮闘ぶりは高杉良氏の小説『青年社長』に詳しい。

いまの渡邉さん率いるワタミの事業は、外食、介護、中食、農業、環境までおよび、外食は海外にも進出する企業に成長した。渡邉さんとは久しぶりの対面だったが、若々しい青年社長は健在だった。

――原油高や輸入食材の安全性の問題など、外食産業に逆風が吹いているなか、ワタミの戦略として、小商圏に基盤をおいた個人店のチェーン展開を図るとお聞きしました。

【渡邉】これまでにワタミが出店した大型店舗は600店ほどですが今後の外食産業を見通し、受給のバランスなどから考えると800店舗くらいがちょうどいいところかなと考えています。その先、800店舗の店長たちの将来をどうしようかと考え、始めることにしました。
 
もちろんワタミでは外食事業のほかにも就労の道がありますが、社員のなかには外食が好きで、ずっと店長をやり続けたいと思っている人たちがいる。そうした社員の希望をかなえるために、地域に必要とされる小規模な店を作り、経営していく道を拓いてもらおうと思いました。
 
店長たちは、店舗設計のノウハウから、自社農場「ワタミファーム」で作った有機野菜や畜産物などの提供を受けられます。その食材をそれぞれのお店で調理し、お客さまに提供するわけです。店名は居食屋「和民」ではなく居食屋「○○」など、個人で好きな名称を付けます。これからは大型店よりこのようなニーズのほうが求められてくると思います。

――安全な食材を安定供給することがいまの社会ではむずかしい状況になっています。ワタミが自社で農作物を生産し、お店に納入しているメリットは大きいですね。

【渡邉】自社で販売する食品を自社で生産するメリットは計り知れないほど大きなものがあります。問屋、仲卸、漁業組合などとの信頼関係や交渉力が強くなり、当初から産地と直接取引をしてきたこともここにきて大きなメリットを生んでいます。
 
ご承知のように原材料の仕入れは、中間をはさむほど値段が高くなっていきます。直接取引なら他社と比べて、値上げ圧力に強いといえます。
 
また、自社農場で収穫できるのは作物ばかりでなく、さまざまなノウハウも得られます。そうしたノウハウによって初めて販売計画にそった仕様書、契約書などを生産者たちとの間で取り交わすことができます。
 
ワタミでは有機肥料の指定、畜産物なら飼育する環境から育て方まで細かく定めて、その上で価格を決めています。

――原油高によってさまざまな物価が上昇していますがその影響は。

【渡邉】2008年春に数%ほどの値上げをしました。原油高騰はさらに続き、恐らく他社はこの秋に再度値上げするでしょうが、ワタミは価格を抑えることで商品力を上げることを目指しています。


食の原点に立ち戻り、競争力を強化する

――一般的に外食事業では、食材は市場から調達するしかありません。それを思い切って自社生産し、安定供給できるようにしようと考えたきっかけは何だったのですか。

【渡邉】お店に来てくれるお客さまに、安全で安心できるものを提供したいという思いからです。
 
その昔、私が店長をやっていたとき、厨房で毎日、野菜についた農薬を洗い落としていました。それがいやで仕方ありませんでした。そこで、農家に行き、納品の前に洗ってくれないかと頼みましたがやってくれません。仕方なく自分らでやると今度は経費がかかり、野菜の値段が2、3倍にもなってしまいました。
 
いくら安全なものを出しているからといっても、一皿500円の野菜サラダが1000円にもなってしまう。困り果て、他にいくつかの方策を試みた末に、自分たちの手で作ろうと決心しました。

――農業は簡単にはいきません。コストも相当かかったでしょう。

【渡邉】去年までずっと厳しかったです。今年やっと利益が出る見通しです。
 
作物作りは良い土を作ることでもあって、前の年が不作で収穫できず作物を土に戻したことで土が再生する、そうした繰り返しをしてきて6、7年経過したいま、ようやく力のある良い土になってきました。

――農業でもプロなわけですね。農場には行かれますか。

【渡邉】農場は北海道から京都までありますが、年に一度は必ずすべての農場を見て回っています。そして、土の状態から作付け状況、出来高などを自分の目で確かめています。
 
現場ではいろいろとうるさく注文をつけます。何といっても会社が赤字を出していますから。経営者は赤字を出した分だけ強くなります(笑)。

――有機野菜などの食材を使い、手づくりで調理をし、リーズナブルな価格で提供する。ワタミのモットーは簡単なようでむずかしい。これを推進できた理由は何でしょうか。

【渡邉】「人」がすべてだと思います。私たちがスタートしたとき全員が素人の集団であったことがよかったと思います。居酒屋の常識に染まっていなかった。ですから「居酒屋なのに何でこんなサービスをしてくれるの?」という言葉をお客さまからもらうことがワタミの原点になりました。
 
居酒屋チェーンなら冷凍食品が常識でしたが手づくりにこだわりました。居酒屋に来る人は健康なんか気にしていない、という常識に対抗して有機野菜にこだわり続けました。
 
素人だからお客さまが何を望んでいるかを真剣に考え、望んでいることなら何でもやろう。そうした考えをトップから新入社員にまで徹底したことが、居酒屋業界の常識を覆す成果につながりました。


2008年10月 月刊『エマージング・カンパニー』誌の取材にて

渡邉美樹氏 個人サイト http://www.watanabemiki.net/
渡邉美樹氏 オフィシャルブログ http://ameblo.jp/watanabemiki/

第4回  大学卒業イコール就職という発想は捨てるべきである(後編)

式会社パソナグループ 代表取締役社長南部靖之 氏株式会社パソナグループ 代表取締役社長
南部靖之 氏

聞き手 松室哲生(おもろい会社研究所主幹)

――米国もずっと以前は今の日本と同じく正社員採用、終身雇用を守っていた時代がありましたが、現在でははるかに自由な雇用の場を提供できています。

【南部】いまの日本の雇用の状況は20年前の米国ではないでしょうか。現在の米国ではフリーターは当たり前、市民権を得ていますが、日本でフリーターは国賊ですからね(笑)。日本の状況は未だ国力を強くするレベルなのだと思います。

――働くという観点からいうと今後、会社はどのような形態に変化していくと思いますか。

【南部】社長が取り仕切っていた体制から米国式のCEOへ。さらにアウトソーシングがすすんできて、社員の数もある時は100人、あるときは500人、またある時は1000人というように、組織全体がアメーバのように大きくなったり小さくなったりするのではないでしょうか。現在のアウトソーシングや派遣社員制度のように、会社ですべてを抱えて事業していくのではなく、仕事の内容に応じて必要な組織にするといった体制です。
 
理想的には日本国には日本カンパニーが一つあって、全社員(国民)が同じ福利厚生、健康管理、教育を享受できる。そして競合は、日本より国力があったり資源が豊富だったりする海外が相手ということになります。国を強くするにはまず国民を強くしなければなりません。

――おっしゃるとおりですが、実際にはそうなっていない。

【南部】とくに東京に住んでいる若い人たちの状況は深刻です。東京は地方にくらべてはるかに物価が高く、生活費もかかります。なので実際に多くの若者達が東京から離れ出していっています。地方に行くほど職業格差が激しいのですが、生活費が上がるばかりなので住み続けることができなくなってしまっている。近いうちに首都のドーナツ現象が起きると思います。

――それが高じると東京ばかりか日本大脱走にもなりかねない。

【南部】20年ほど前に、女性の職場は香港にあり、とばかり女性労働者が香港や上海に行った時代がありました。現在は中高年が定住の地を海外に求めています。
 
インドネシアやシンガポールでは海外の定年退職者を対象に、それらの人たちの税率を下げて国で積極的に受け容れる施策をとっています。移住してもらい、家を建ててもらい、人を雇ってもらって、余生を送ってくださいというわけですね。狙いはその人たちのたくさんの退職金です(笑)。
 
また今の中国などは高所得者が多いですから、昔では考えられないほどの高賃金でたくさんのすぐれた日本人を雇っている。雇われる日本人は、日本で働くより高収入ですから満足度も高い。

――そうした状況を防ぐにはどのような方策があるでしょうか。

【南部】日本の社会において個人の力を引き出させるようにすることだと思います。個人の能力が自由に十二分に発揮できるから国が強くなっていく。
 
また定年退職者のセカンドステージを提供するのは、地方がやることだと思います。けど専門技術をもっていたり、マネージメント能力があるかたなら、もっと海外で活躍できる道をつくるのもいい。パソナでもそうした目的で、ベトナム、タイ、インド、サウジアラビアなどの国で取組みをはじめています。


独立したばかりの会社でも、大企業と同じ福利厚生が受けられる仕組みを作る

――今後10年間でパソナは何をしていきますか。

【南部】僕はいまの格差を無くそうという活動を30年以上やっていますが、未だ半分くらいしか実現できていない。だから格差を無くすことに全力を尽くします。
 
例えば30年前は、女子学生は入社できても昇格も昇給すらもなかった。まして一度家庭に入った女性は絶体絶命。就労しようにもパートタイマーがせいぜいでした。それが30年間でどうやらやっと少し改善されてきました。
 
男性についても30年前と違い、男子学生の約15%くらいは大企業に入社できますが、残りの85%は中小企業に就職します。日本全体の中小企業の割合は九割以上で、地方の割合が高い。そこでは就職後の教育がなかなか受けられない、また健康管理が満足に行なえないなど、厳しい面があります。これも改善しなければならない。
 
また、独立して一人で会社を起こして、100人の従業員を抱えても一万人の従業員がいる会社と同じような教育が受けられて、同じような福利厚生、そして健康管理まで受けられるといった制度、仕組みをつくっていかなければならないと思います。
 
今やっと障害者のかたが外へ出て、働ける仕組みをつくりました。障害者のかたを雇わなければ罰金が科せられますが、罰金など不要になるほど雇用の場を提供することが必要なのです。

――そういう風にしてでも戦力を充実させていかなければ国が強くならないということですね。

【南部】僕は35から43歳まで米国にいまして、さらに家族は3年半前まで住んでいました。日本に戻ってきて感じたことは「日本はまだ男女格差がひどい。よくやっているなぁ」ということです。
 
米国では、たとえば2軒目の家を買う、別荘を建てる、モーターボートを買うなど、日本では金持ちの贅沢と思われる行ないに対して、税金が免除されます。「米国のためによくお金を使ってくれた」というスタンスで、日本とはまるで正反対なわけです。

――以前のインタビューで米国の若者がしっかりした職業観を持っていることについての印象的なお話をお伺いしました。

【南部】ニューヨークのペニンシュラで働いていたドアマンの話ですね。よく憶えてますね(笑)
 
彼はアイビーリーグのハーバード大学を卒業したにも拘らず、フリーターで、当時ペニンシュラホテルのドアマンをしていました。そこで彼の働きぶりを見て、さらに高学歴であることなどを知ったので、私の会社に来ないかと声をかけました。すると彼が言うには、自分には独立して会社を興す計画があって、働きながらその資金を貯めてきた。それもようやく目標額になりそうだ。そんなわけだからあなたの会社に入るわけにはいかない、というわけですね。

――自分の将来のためにフリーターという立場をあえて選択したわけですね。

【南部】いまの日本では大学卒業イコール就職というのが常識となっていますが、米国では、大学卒業=就職という考えはありません。実は私の息子も米国のコーネル大学を卒業しましたが、今はフリーターをしています。そして自分の時間を作っては中国などに行って社会勉強しているようです。息子の友達の中にも、1年間でヨットで世界一周をして、それから就職すると計画している子とか、自由に伸び伸びと仕事を選んでいますよ。
 
こんな話を大学卒業=就職の日本でしたら大変。国賊呼ばわりされるでしょうね(笑)

――個人の力を養うということは、そのように自由闊達な活動によってはじめて身に付くものだということですね。

【南部】個人の自由を尊重し、個人の能力を引き出し、評価していけるような社会は、国家が支えて作るようにしなければなりません。大学卒業=就職という考えは、やめることですね。


2008年6月 月刊『エマージング・カンパニー』誌の取材にて

第3回  30年でようやく格差を半分に縮めた。格差を無くし、国民の力をつけることが国の力をつける道(前編)

式会社パソナグループ 代表取締役社長南部靖之 氏株式会社パソナグループ 代表取締役社長
南部靖之 氏

聞き手 松室哲生(おもろい会社研究所主幹)

南部さんは、日本の人材派遣業のパイオニアである。大学在学中より、家庭に入った女性の再就職の道を作ってきた。人材派遣のフランチャイズ、日本初の新卒者対象の人材派遣・紹介事業、高齢者の就労の場を提供する事業にさえ着手した。その目を見張る行動力で、将来を見据えると、どんな視野が開けるのか、興味は尽きない。

――私が以前南部社長にインタビューしたのは97年でした。当時はまだ上場もしていませんでしたが、今では押しも押されぬ大会社になりました。今後も派遣ビジネスは好調のままに推移していくでしょうか。

【南部】派遣はこれからますます伸びていくと思いますね。若者、とくに女性達の間では「自分は秘書をやりたい」といったように職業についてはっきりした目的意識を持っている人が多い。そうすると、従来のように大学を出たから会社に入るといった「就社」から、自分が好きで納得のいく仕事をする本来のあり方の「就職」にだんだん形が変わってきています。派遣制度についても自分から積極的に活用し、派遣から学んでいくという姿勢の若者たちも多くなっています。また、いろいろな情報が便利に手に入りやすい時代ですから、それらの情報も自分で集めて活用していますね。

――派遣に人気が集まるのはメリットも大きいからですね。

【南部】いまも社会問題になっているいろいろな企業でのサービス残業についても、派遣の場合は皆無です。高収入であるし、何と言っても自分自身で職業が選択できるのが一番でしょう。さらに会社の場合のように転勤もありません。まさに若者たちにはピッタリな方法だと思います。


「何で会社のために働かなければならないのか?」と疑問を持つ若者が多くなっている

――入社したのはいいが、すぐに辞めてしまうといった心配もありませんね。

【南部】入社して3年以内に辞める割合は俗に七五三と言って、中卒者で7割、高卒では5割、大卒では3割と言われています。だから政府はなんとか就職させようとする。なぜかと言うと「国民は労働力」と考えているからです。
 
つまり労働時間は月曜から金曜まで。その間に稼いだ収入についてはきちんと税金を押さえよういう姿勢が背後にあるのです。
 
しかし現実には、若者は大学卒業後に自由に海外に行ったり、また勉強をつづけたり、さらに会社を巡るように転職を重ねながら経験を積んでいくといった考え方をして行動している。いわゆるワーク・ライフ・バランス(仕事と私生活のバランス)をとった人生の歩み方をしてきているわけですね。そうした状況下、派遣という仕組みはますます若者達に受け容れられ、さまざま場所や状況によってさらに拡がっていくことになると予想しています。

――かたや、卒業したら就職しなければいけないという根強い考えもあります。実際には働き方の形態は確かに変化してきていて、その変化の流れとパソナの歴史とはぴったり一致していますね。

【南部】私が大学を卒業した頃は、ほぼ100%卒業イコール就社でした。今、私の息子は米国の大学を卒業しましたが、そうした考えなど一切ありません(笑)。
働き方の変化については、いつも五年先、10年先を見つめてきましたが、変化の先頭に立っているのは常に若者達で、彼らはかなりシビアな考え方をしています。
「何で社長のために働かなければならないのか?」「何でブランドのために、働かなければならないのか?」という疑問を持つ人が多く出てきています。

――経営者のとらえ方と今の話とでは相当にギャップがありますね。

【南部】会社からすれば雇った以上、たくさん働いてもらいたいと思うのですが、雇われたほうはそうは考えないのですね。たとえば永年勤続表彰の意味もある退職金についても、入社してそう経っていないうちから「早くください」と請求されたりしている(笑)。

――実際にその要求に応じて制度化した会社も出てきています。

【南部】私はそのうちに、働く者と企業とは対等の立場になると思っています。あと20年もすれば、今の「雇用」という言葉と概念すらなくなっているのではないかと予想しています。

――そうした働き方の変化はいつ頃から出てきた傾向ですか。

【南部】92年のバブル崩壊後からですね。金融会社の倒産などによって、それまでの、大会社に入りさえすれば高収入が得られ、安定が約束されるというイメージが一挙に崩れ去りました。
 
そして2000年に入ってからのITバブルによって、今度は大会社に依存するのではなく、自分自身の働き方によって収入を得ているのだという考えが広まり、同時にグローバリゼーションによって変化はより顕著になったと思います。ここで確実に言えることは、絶対元には戻らないということですね。

――一方で、社員と派遣社員の格差について取り沙汰されていますが。

【南部】そうですね政府は二言目には正社員化を推進せよと言いますが、私が格差と感じるのはむしろ企業間にある正社員格差です。同じ正社員といっても、1000人以上の大会社で働ける人は極くわずかです。
 
例えば私が新卒だった頃は、日本の大企業は全体のわずか3%に過ぎず、あとの97%は中小零細企業でした。1000人以下の従業員数では仕事は同じでも、福利厚生施設の山の家、海の家などはない。健康管理室もない。社員を教育する制度もありませんでした。それが97%だったのですね。
 
女子の新卒の条件はさらに厳しいもので、10人の新卒に対して求人は1.6人しかありませんでした。そんなことを実際に見聞きしてきたので、人材派遣という仕組みを考え出し、社会に出られなかった女性をパソナで教育して、派遣社員として社会に送り出してきたわけです。

――近頃では派遣社員の正社員化という動きが大手の企業で実現されていますがそれについてはどう考えられますか。

【南部】大変にいいことだと思いますよ。とは言ってもパソナに登録している90%以上が女性です。年齢も高く、経験も豊富というスタッフですと、働くなら給料が高いほうがいい、そして残業がなく、転職などもないほうがいいというワーク・ライフ・バランスを考えた人が多いわけですね。
 
その背景にはたとえ正社員で採用されたとしても、お茶汲みばかりとか、戦力として扱われないとか、サービス残業は当たり前、しかも低賃金、なかには名前すらろくに呼んでもらえないという信じがたい男女格差、男尊女卑が現実には残っていて、こうした傾向は地方にいくほど顕著です。しかし、それでも仕事があるだけでもいいほうだ、なんていうひどい状況です。
 
盛んに正社員採用を叫んでいる政治家は、大都市の大企業に勤めるほんの数パーセントの人たちを働く人たちの代表のように現実をとらえているとしか思えません。


2008年6月 月刊『エマージング・カンパニー』誌の取材にて

第2回  いまベンチャーの発想と環境を グローバルな視点でとらえて挑戦するとき(後編)

澤田ホールディングス株式会社 代表取締役社長澤田秀雄 氏澤田ホールディングス株式会社 代表取締役社長
澤田秀雄 氏

聞き手 松室哲生(おもろい会社研究所主幹)

前回は、海外旅行を皮切りにホテル、航空機、証券会社などへと手を広げられた澤田氏の辣腕ぶりについて話をうかがった。後半は、そのような事業を支える人材の起用と育成について、また注目されるアジア、欧米市場への進出に関する戦略を語っていただいた

――06年1月のライブドア・ショックで新興市場の流れが一挙に変わりました。正に一難去ってまた一難でしたね。

【澤田】金融市場は一気に冷え込み、IPOもできなくなりました。そのために上場できたエイチ・エス証券も、昨年、一昨年と赤字が続いています。
 
ですが、私はIPOで儲かっていたとき、この好調はいつまでも続かないなと感じ、手を打っておこうと考えました。投資銀行の案件としてモンゴルAG銀行(現ハーン銀行)の株を買い、再生案件の九州産業交通、オリエント貿易(外為どっとコム)を買い、また損害保険業の免許をとったりして事業を広げてきました。
 
そうした対策を講じた結果、現在ハーン銀行はモンゴルに450店舗ある、一番の銀行になりました。外為どっとコムはFX業者として、口座数、預かり保証金とも国内1位です。九州産業交通も好調に売上げを伸ばし、またエイチ・エス損害保険は損害保険業の免許を取るのに2年半かかりましたが、ベンチャーでは日本初の元請保険会社として設立し、利益を上げています。こうした間に、金融業の体制も整ってきて、エイチ・エス証券も今年は状況が改善されていると思います。

――経営者なら誰でも会社の先行きを予想し、次の手を打ちたいと考えていますが、そう容易くはいきません。ご自身で「勘がいい」と思われますか。

【澤田】勘と運だと思いますね。運というのは「いいスタッフに恵まれた」ということでもあります。
 
たとえばハーン銀行では、米国人の優秀な頭取に恵まれました。私は金融の素人ですが、頭取はプロ。ゴルフでもアマチュアはプロに勝てるわけがない。そこで一流のプロを連れて来る。そして勝っていくわけです。

――金融界での一流のプロを見分ける具体的な方法は。

【澤田】まず戦歴と優勝経験にあたる経歴と実績を見ます。次に人間性を見ます。悪いことをするような人かどうか。また運がある人かどうかなども。そのために会って話をする。そこで分からないときは、2、3日いっしょに仕事をしてみます。それでも分からなければ、ひと月でもいっしょにやってみます。実際に、今のハーン銀行の頭取はすでに実績を上げていました。

――そうした人材を獲得できるのもご自身の魅力でしょう。

【澤田】それはないと思います(笑)。
やはり必要なのは夢と待遇でしょう。「モンゴル一の銀行にしようじゃないか」と語りました。待遇については最初は厳しめにした。そして、業績がアップしたら、それに見合う十分な待遇を与えるようにしたのです。「企業は人なり」です。
 あとは努力と粘りでしょう。企業にとって晴れの日ばかりは続きません。雨の日もあれば、嵐もあります。それを乗り越えるための継続力、精神力、資金力。

――ご自身では粘りがあるほうだと思われますか。

【澤田】粘りはあるでしょうね。
 
もう大変ですよ。損して、赤字で、叩かれて。でもそうこうして粘っているうちに形ができてくるのです。金融もやっと黒字になります。けれど、油断は禁物です。

――金融業は今後、どのように展開されていくつもりですか。

【澤田】金融はグローバル化していますから、世界的に通用するような金融グループにしていきたいと思っています。とくに今後はアジア中心に動いていく新しい時代が来ると思います。その一端がハーン銀行なわけです。

――アジアではどの国に注目されていますか。

【澤田】ベトナム、インドが面白いですね。観光市場を比較すると、日本の人口が1億2000万人で、年間1600~1700万人が海外旅行をしていますが、アジアのマーケットはその10倍はあります。現在のエイチ・アイ・エス単体の売上げが約3200億円ですから、最低でも3兆円あります。
 
今、アジアから日本に比較的裕福な層が観光に訪れていますが、数年後には、エイチ・アイ・エスが日本人の海外旅行を一般化させたように、アジア全域に展開したいと思います。そうすればアジア全域がハッピーになって喜ばれる。世界有数のグローバルな旅行会社にしていきたいですね。

――すでに手を打たれている。

【澤田】海外の拠点は70数カ所あります。タイには社員が130名ほどいまして、3~5年以内にタイでナンバー・ワンになると思います。
 ホテル事業についても、オーストラリア・ゴールドコーストでゼロから作り上げた経験、いかにすれば売上げが伸びるかというシステムの研究などのノウハウを蓄積しています。ホテルチームも組織しましたので、5~10年かけて全世界に100くらい作っていく時が来たと思っています。

――短期間のわりに大変な数ですね。他社のホテル開発とは、どこが違うのでしょうか。

【澤田】やはりゼロから作り上げた実績が大きいです。普通ですと、専門外のことはよそに頼むのですが、うちは何でも自社でやった。ですから大変で、問題も失敗も多かったけれども同時に学んだことも多くて、賢くなっていったわけです。
 
実際、当時のゴールドコーストには、日本企業のホテルがたくさんできていました。けれども、成功して残っているのは当社だけです。ただ、これからはゼロから建てるより、M&Aも駆使していくと思います。

――ヨーロッパや米国についてはどうでしょう。

【澤田】どちらにも数十店舗ほど拠点がありますが、アジアの市場のほうが伸びがあり、楽です。また、これからという新しさも魅力です。ヨーロッパ、米国はある程度できあがっていますから、これから入っていくにはよほど良いシステムでなければなりません。まず、アジアで実績を積んでからのことだと思います。
 
また、欧米を相手にしていくには、もっと人材を育てなければなりません。競争相手は、米国のコーネル大学、スイスのローザンヌの大学などでホテル業や観光に関する知識、教養を身につけ、さらに勉強して経験を積んだプロたちです。それがホテルや旅行会社のトップから従業員まで大勢いて、コミュニケーションから人材の層まで厚いわけです。そのような相手と競争するには10年がかりで人材を育てなければなりません。

――人材といえばこれからのベンチャー企業にも優秀な人材が必要です。しかし2年前ごろから環境が激変し、現在も厳しい状況に置かれています。

【澤田】確かに、世界的に見ても金融市場は収縮傾向にあるし、日本でも少子化が始まるなどベンチャーの世界に閉塞感を感じます。しかし、このような時期は、日本ではなく、海外に目を向けてみてはどうでしょうか。
 
ベンチャーにはチャレンジする夢と環境が必要です。そのベンチャーの発想や挑戦を日本だけで考えずに、グローバルな視点でとらえてみるのです。日本の金融に閉塞感があれば、アジアの金融に目を向けてみる。実際、うちのハーン銀行はモンゴルで大活躍しています。元来、日本には世界に誇れる素晴らしい文化、そして技術力があります。そうした財産を活かし、アジアでリーダーシップをとるようなベンチャーが誕生し、育っていくことを期待しています。


2008年5月 月刊『エマージング・カンパニー』誌の取材にて

第1回 事業は「運」と「勘」、そして「人材」。 例え損をしても、粘ってやれば形ができてくる。(前編)

澤田ホールディングス株式会社 代表取締役社長澤田秀雄 氏澤田ホールディングス株式会社 代表取締役社長
澤田秀雄 氏

聞き手 松室哲生(おもろい会社研究所主幹)

ベンチャーの雄と評された澤田秀雄氏が海外旅行会社エイチ・アイ・エスを起業したのは30年近く前。その同社も、今では海外旅行で第2位の大手旅行会社に成長した。
 
ところが澤田氏の挑戦は海外旅行分野だけに終わらなかった。ホテル経営、飛行機の就航。さらにまるで畑違いの証券、銀行などの金融業にも手を広げ、実績を積み上げた。そのチャレンジ精神と行動力は健在である。
 
泰然自若とした風貌とその成功の影には、人知れぬ苦労と努力、またいくつかの成功の秘策があるに違いない


――澤田さんとは10年ほど前に、私が『週刊ダイヤモンド』の編集長のときにお目にかかりました。当時とは、想像もできないほど大きな事業規模になりましたが、その頃から現在のようなイメージを持っていましたか。

【澤田】その時分にはありませんでした。その後1996年に、今から思えば無謀にもオーストラリアに土地を買い、400室ほどのホテルを建てました(ザ・ウォーターマーク・ホテル・ゴールドコースト)。マネージメントの経験もないのに自社でやりまして、数年間赤字でした。そのホテルの目処が立つか立たないうちに、今度は航空会社(現スカイマーク株式会社)を作ろうと手を上げたわけです。

――失敗する不安を持ちつつ新事業に挑戦されたということですか。

【澤田】いや失敗すると思って事業を始める人はいませんね。若さとパワー、それに驕りでしょうか(笑)。
 
持論ですが、起業した会社が100社あったとしても、3年後に残るのはそのうち20社くらいです。生き残れた会社は元々成長産業のはずですから、その後10年から15年くらいは好調を維持して業績を上げ、経験を積み、経営者には自信も生まれてきます。
 
その頃がまた一つの分岐点でして、それまでの好調による自信が「自分には何でもできるんだ」などという驕りに変わってしまい、実力以上のことをしようとするのです。ところが、思惑通りにはいかず失敗し、最後に残るのはほんの数社となるわけです。
 
私がホテル業と航空業に進出したのがちょうどそんな時機でしたね。資金力は現在の10分の1くらいでしたから、あの時一つ間違えていれば潰れていたと思います。

――航空事業では、当時の大手3社の風当たりが強かったですね。

【澤田】最初の年こそ稼働率80%でしたが、翌年から大手の会社もスカイマークと同じ価格帯に揃えてきました。すると、それまで利用してくれたお客さんはよそに行ってしまいました。お客様は冷たいですね(笑)。
 
それで稼働率が一挙に30%に落ち込みました。飛行機を運行させるのに月に5億円かかりましたから、毎月数億円の赤字。年間で何十億円もの赤字が出ました。

――危ない時期を乗り越えられた最大のポイントは何ですか。

【澤田】7割が運だと思いますね。それと私の場合、役員たちが新事業に参入するのには猛反対しましたから、そのせいで元々10あった若さのエネルギーが6くらいに抑えられました。そのことが却ってよかったのかも知れません。ですが、航空事業が赤字に陥ったときは、役員たちから滅茶苦茶に言われました。「半分は賛成したはずじゃないか」と思いましたがね(笑) その後スカイマークは4、5年かけ、ようやく黒字になりました。

――多少危ないとわかっていても、ベンチャー企業にはチャレンジ精神は欠かせません。

【澤田】ベンチャーに限らず、どんな会社であっても企業がチャレンジを忘れれば、新しいものなど何もできません。ただし、若い頃はそのチャレンジが行き過ぎてしまう。何もしないでいるのは駄目ですが、やり過ぎて潰してしまうのはもっと駄目です。

――航空会社経営の第一線から退かれた後、現在の金融業に進出しました。

【澤田】金融業のときも、役員たち全員から反対されましたね。ホテルと飛行機は旅行関連だからまだしも、証券会社は全くの畑違い。絶対止めろ、もってのほかだ、なんてね(笑)。  実は当初は、投資銀行を買おうと思っていたのです。銀行を買うのには、何百億、何千億かかります。しかもその投資が吉と出るか凶と出るかはわからない。反対しますよね。で、証券会社にしたのですが、あのとき銀行にしていたら今よりずっと大規模になっていたか、反対になくなっていたかもしれません(笑)。
 
山一證券の子会社だった協立証券を引き受けてくれないかという打診は、まだスカイマークが軌道に乗る前にあったので最初は断わったのです。ところが、話を持ってきた方が熱心な人で、「あなたにしかできない」などと説得されて(笑)。けれども役員は全員反対。「やればできるかもわからないけど、やっぱり反対」。
 
ですから、最初は個人で引き受けました。なので澤田ホールディングスにはエイチ・アイ・エスの株は入っていないのです。

――全くの畑違いですから相当な苦労があったでしょう。

【澤田】旅行代理業のエイチ・アイ・エスについては私自身がゼロから立ち上げたので、隅から隅までわかっていました。ところが金融についてはズブの素人、旅行業とは土壌も文化も全く違う。まるでゴルフのプロ・ゴルフツアーに、シングルでもないアマチュアが参戦したようなもので、大変にきつく、辛い思いをしました。

――それでもやる以上、何らかの勝算があったわけですよね。

【澤田】とにかく、よその証券会社がやっていないことをやろうと考えました。当時はインターネットが広まってきたときだったので、インターネットでの信用取引を一番安い値段で出しました。
 
すると今ではとても信じられないことですが、毎月何万という単位で口座が増えていきました。わずか5カ月で先行する証券会社の口座数を抜きそうになったのです。ところがそんなときに、なんとコンピューターのシステムがダウンしてしまったのです。それからが悲惨でした。何万件もの売買がストップし、行政処分で営業停止を受けました。
 
巨額の損害ですから、システムを導入した会社に対して訴訟を起こさざるを得ませんでした。しかし、そんなことよりもインターネットを利用して口座を増やす証券会社としては、致命傷を負ってしまい、インターネットの世界で何年も遅れをとってしまうと、後からはもう追いつけません。

――致命傷を負った会社をどのような方法で立て直したのでしょう。

【澤田】まず儲からない部門を削りました。そして、3億から4億円かかっていた経費を、思い切って1億5000万円くらいに減らしました。
 
また、当時はベンチャー企業花盛りの頃で新興企業のIPO(Initial Public Offering:株式公開)の時代が来ていましたから、主幹事をやって29社のIPOをやりました。それらの成果によって売上げが上がり、利益も10数億、20数億、30数億と増やすことができ、04年に上場を果たすことができたわけです。
 
と、まあそこまではよかったのですが、今度はライブドア事件に巻き込まれて......。


2008年5月 月刊『エマージング・カンパニー』誌の取材に