2011年11月29日

第61回 海外旅行だけじゃない! 日本にいても円高を満喫する方法

会員制ディスカウント店、超満員の理由
 
米国発の会員制ディスカウント店、コストコの前橋倉庫店が8月末、北関東自動車道の前橋南インターチェンジにオープンした。1998年に日本へ進出した米コストコは前橋倉庫店が10店目。既に目新しさは薄れているはずだが、前橋倉庫店の開店前に事前登録を済ませた会員(個人会員の年会費は4200円)は他店舗を大きく上回る5万人超にもなった。

9月のある平日のお昼時、新店舗を訪れてみた。休日の混雑を避け平日を選んだのに、駐車場はほぼ満杯。1つだけ商品を買うのにも、30分ほどレジに並ばなければならなかった。
 
もう1つ長蛇の列ができていたのが、フードコートだ。中でも人気を集めるのがホットドッグ。ボリュームのあるホットドッグに、ケチャップやマスタード、オニオンなどを好きなだけトッピングできる。しかもソーダなどの飲み物類がおかわり自由で、価格は180円。
「180円でおなかいっぱい」というのが人気の理由だ。
 
実はこのホットドッグ、以前は250円で提供していた。しばらく前に200円に引き下げ、前橋倉庫店のオープンと同時に全店でさらに180円に値下げした。コストコで販売している商品は、かなりの割合で輸入品が占めており、値付けは為替の動きをみて随時見直している。180円という安さは、1ドル=80円を割る「歴史的な円高」の恩恵も受けているのだ。


7月半ばから続く超円高の影響が年末には顕在化
 
1ドル=80円台を推移していた為替相場が、80円を割るようになったのは、7月半ばから。欧米を中心に各国の政府債務や銀行経営に対する不安が高まったため、東日本大震災からの復興需要が見込め、銀行の経営不安が少ない円が買われ、円高が進んだのだ。
2008年9月のリーマン・ショックから3年。各国の金融緩和や積極財政で世界景気は回復しつつあったが、急速な財政悪化でこれ以上の財政出動が難しくなり「世界景気は長期低迷に陥る」との見方が強まったことも、円買いを後押する結果となった。8月19日にはニューヨーク市場で1ドル=75円95銭と戦後最高値を更新。現在も1ドル=76~78円といった「超円高」の状態が続いている。
 
自動車など輸出型製造業にとっては、弱くなった外需と超円高の定着は二重の足かせになる。直近では自動車関連企業を中心に、震災の影響で積み上がった需要に対処するためフル生産の企業が多いが、たまった需要が解消する年末にかけて、弱い外需と超円高の影響が顕在化するだろう。


米国のブランド衣料品が日本の半額!
 
輸出依存度の高い日本では、急速な円高が進むと企業からの悲鳴があふれるが、消費者にとって円高はむしろメリットだ。
 
個人が円高を生かそうとするとき、まず思いつくのが海外旅行。日本政府観光局によると、日本人の8月の出国者数は179万2000人と、前年同月に比べ9.1%増え、過去最高の水準になった。まだ大震災の影響も消えてはいないだけに、震災がなければ、もっと出国者は増えただろう。
 
2つめは、コストコのような円高還元度の高いお店で買い物をすることだ。コストコでは店舗の多くのスペースを占める食料品や日用品に目がいきがちだが、意外と盲点なのが、米国ブランドの衣料品が安いことだ。種類は限られるが、ラルフローレンやパタゴニアなど米国のブランドものの服がスポットで入り、しかも価格は日本の希望小売価格の半額程度と、とても安い。
 
3つめはインターネットを使って海外通信販売や個人輸入を利用する方法だ。海外製品で日本での販売量が多くないものは、商社などが輸入代理店になっている。この代理店制度をとる商品の場合、もともと日本での値付けが高めだったり、為替レートが動いても値段は変わらなかったりする。


英国の通販サイトなら日本で買うより2~5割安
 
特に最近はドルより、ユーロや英ポンドの方などの方が円に対して安くなっている。欧州勢が強いブランド品をほしい場合、海外通販や個人輸入を検討する価値がある。
例えば、最近は女性の愛好者も増えつつある自転車。自転車の本体や部品、関連製品は欧州製が多く、日欧の価格差が大きい。
 
英国にはWiggleという有名な通信販売サイトがある。
 
最近は日本からの顧客が多く、日本語表示も可能だ。このサイトで購入すると日本で買うより2割から、場合によっては半額ぐらいで買えるものもある。購入価格7000円以上で送料も無料になるので、日本の通販サイトを利用するのとほとんど使い勝手は変わらない。
 
自転車に限らず、ブランドもののバッグ、服、アクセサリーなどでも同じような方法で買い物できる。欧米を中心とした金融危機はなかなか沈静化せず、しばらくは1ドル=80円を割る円高が続く可能性が高い。消費者は、円高のデメリットだけに目を奪われず、メリットをしっかりと受け取る姿勢が必要だ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・10・4)

第60回 分かってない!風力発電はエネルギーにも雇用にも地域経済にも寄与

自然エネルギーブームでも見落とされる風力発電
 
鹿島臨海工業地帯の一画を形成する茨城県神栖市。東日本大震災の後、この神栖市の海岸沿いに国や自治体の関係者がひっきりなしに訪れる場所がある。
 
護岸から約50メートル離れた海の上に、7基の風車が並ぶ。日立製作所製の発電機の出力は1基当たり2000キロワットで、合計1万4000キロワット。7基で年間7000世帯分の電力がまかなえる。ベンチャー企業のウィンド・パワー・いばらき(水戸市)が運営する、国内初の本格的な「洋上風力発電所」だ。

福島第1原子力発電所の事故を受け、にわかに注目を集める自然エネルギー。ソフトバンクの孫正義社長が全国の35道府県と「自然エネルギー協議会」を設立し大規模太陽光発電所(メガソーラー)の建設を目指したり、退陣前の菅直人前首相が「日本中で1000万戸の屋根に太陽光パネルを設置する」と表明したりするなど、太陽光にからむ動きが活発だ。
 
それに比べると、世の中の関心度が今ひとつ落ちるのが風力発電だ。1つの要因は有力な風車メーカーが、日本にはないことだ。国内最大手の三菱重工業でも世界のトップ10に入れない。


今の日本でも1億4000万キロワットまで導入可能
 
もう1つの理由は、風力発電には騒音や振動などの問題があり、国土が狭く人口が多い日本では設置場所がある程度、限られることだ。だが洋上に風車を設置すれば、こうした課題を解決できる。一見、洋上での建設は地震や津波に対して弱そうに思えるが、今回の地震と津波でも被害は全くなかった。国や自治体の関係者がこの洋上風力発電所に注目するのは、このためだ。
 
同社は来年1月には、現在の発電所の北側に第2の発電所で、風車8基からなる「ウィンド・パワー・かしま」の建設を始める。これまでは洋上といっても陸上からクレーンなどを使って建設していたが、次の風車は船を使って建設する。さらにその先には、風車を100基設置するメガサイトの構想も持つ。
 
実は日本でも、風力発電の普及余地は小さくない。
環境省が今年4月にまとめた「再生可能エネルギー導入ポテンシャル調査」によれば、風力発電の導入ポテンシャルは最大で、陸上が出力2億4000万キロワット、洋上が16億キロワットと、巨大な数字だ。
ただしこれは現在審議中の、発電した電力を全量買い取ってもらえる「固定価格買い取り制度(FIT)」が導入され、しかも事業費の3分の1の補助金がつくこと、技術革新があることなどを仮定した数字だ。
 
より現実的なFITのみが導入された場合は、2400万~1億4000万キロワットが導入可能と試算した。


風力発電事業は自動車産業に似ている

一般に、風は不安定なため、風力発電の稼働率は25%程度とされる。震災後は原発の稼働率も低下しているため、原発の稼働率を50%と仮定しよう。するとこの「2400万~1億4000万キロワット」という数字は、出力100万キロワットの原発12~70基分に当たるのだ。
 
風力発電のもう1つの魅力は雇用創出能力だ。
 
自動車の部品点数は2万~3万点。この部品点数の多さが、企業の層が厚く、雇用創出能力がきわめて高い自動車産業を形成する源になっている。
部品点数の多い自動車は親会社と下請け企業など会社同士の「擦り合わせ」が重要で、海外への移転が難しい。製品の電子化が進み、擦り合わせなしでも組み立てることが可能になった電機業界に比べ、国内に自動車関連産業が多く残るのはそのためだ。
 
大型の風車も自動車に似て、部品数は1万~1万5000点と多い。しかも風車は長期間、できるだけ保守の必要を少なく動かしたいため、高い信頼性のある部品が必要だ。自動車と同じく、典型的な擦り合わせ型の産業なのだ。


100万キロワットの発電で1万4000人の雇用が生まれる

実際、現在でも自動車と風力発電の分野では、プレーヤーが重なる。ベアリングは両分野で欠かせない部品だが、プレーヤーは日本精工やジェイテクト、NTNなど共通だ。富士重工業は自動車メーカーであると同時に、風車の国内トップメーカーでもある。
 
日本にはトヨタを中心とした中部地方、富士重工業や日産自動車を中心とした北関東など、層の厚い自動車産業がある。こうした地域で風車産業を大きくすれば「これまでの企業群も活かせるし、雇用も増やせる」と、風力発電に詳しい足利工業大学の牛山泉学長は強調する。
 
みずほコーポレート銀行産業調査部の試算によれば、毎年出力100万キロワットのペースで風力発電を導入すれば、製造業だけで1万2500人の雇用が創出されるほか、風力発電所建設に1200人、運営管理に毎年300人の雇用増が期待できる。
 
大震災後の復興を考えるとき、原発に代わるエネルギーを確保しつつ、同時に国内に雇用を増やす妙策はなかなか見当たらない。しかし「風力」には少なくとも、どちらも両立できる可能性がある。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・9・6)

第59回 地方の宏大な名門工場が象徴する電機業界の未来像

この数週間で大きく動き始めた電機産業
 
7月末から8月上旬にかけて、日本の製造業、特に電機産業が歴史的な転換点にあることを示す大ニュースが相次いだ。
7月28日には、パナソニックの完全子会社になった三洋電機が洗濯機や冷蔵庫などの白物家電部門を中国の家電最大手ハイアールグループ(海爾集団)に売却することを発表した。
8月に入ると、日立製作所がテレビの自社生産から撤退する方針を固めた。その直後には、日立製作所と三菱重工業が将来の経営統合も視野に入れ、社会インフラなど主力事業統合の協議に入ったことが明らかになった。

韓国や台湾、中国などアジア企業の台頭で、グローバルな競争がますます激しくなる製造業。その中で日本の産業界は長年、プレーヤーの数が多すぎると言われてきた。電機は8社(準大手を含めれば12社)。三菱重工業など重工・重電専業は5社ある。
ここ最近、次々と明らかになったニュースはいずれも、これまで幅広い製品を水平展開してきた日本企業が赤字の続く事業から撤退したり、売却したり、ライバル会社と統合したりする動きだ。


東京ドーム20個分の広さの工場こそが電気産業の象徴
 
かつては日本の屋台骨を支えた電機産業。経済産業省が発表する工業統計調査によると、2000年の日本の製造品出荷額は288兆円で、その中で電気機器の比率が19.6%を占め、業種別の1位だった。ちなみに自動車などの輸送機器は14.6%で、業種別の2位である。
 
ところがそれからほぼ10年。2009年には製造品出荷額(258兆円)に占める電気機器(2002年に分類が変更されたため、それ以降の電気機器には情報機器、電子部品も含む)の比率は14.3%にまで低下。逆に輸送機器は18.2%にまで高まった。電気機器は2002年に輸送機器に逆転されて以来、差は広がっている。
 
日本の「電機不振」を象徴するような巨大工場が、群馬県大泉町にある。白物家電部門を中国企業に売ることを決めた三洋電機の東京製作所だ。
 
前身は戦前に中島飛行機が戦闘機などを生産していた工場で、戦後はしばらく米軍が駐留。1959年に三洋電機が東日本の製造拠点として取得した。
その広さは約96万平方メートルと東京ドーム20個分。三洋の創業者、井植歳男の長男で長年、三洋の社長を務めた井植敏は初めて工場の土地を見たときを「とにかく広い。どこまでが敷地か見当もつかない」(日本経済新聞連載の「私の履歴書」)と述懐している。


昔の名門工場は今や雑居ビル化
 
三洋は大泉に東京三洋電機(現在の東京製作所)を設立し、冷蔵庫や洗濯機などの生産を始めた。従業員は400人から始め、最盛期には1万5000人近くにまで増えたという。
 
だが円高や国内の人件費の上昇に対応するため冷蔵庫やエアコンの生産はほとんど中国へ移転。現在、東京製作所の敷地内で働く人の数は約6000人に減った。さらに2009年にパナソニック傘下に入ってからの三洋は、パナソニック主導で主力事業を次々と売却した。
 
その結果、敷地内で働く6000人のうち、約2000人は1月に米国の会社に売却された半導体部門の従業員だ。また燃料電池の開発などをするENEOSセルテックという会社も同居。洗濯機子会社の150人も今年度中には、ハイアールの従業員になる見通しだ。
 
かつての名門工場は、まるで雑居ビルのように、いろいろな会社が同居する「まだら模様」になってしまったのだ。


単体商品ではなくパッケージ商品化で勝負
 
三洋電機に代表される電機産業衰退の原因は明白だ。あらゆる製品の電子化が進み、組み立てのノウハウなどがなくても、簡単に組み立てられる「コモディティ商品(価格が重要視される日用的な商品)」になった。
韓国、台湾に加え中国の企業も台頭し、日本の電機メーカーのライバルは増えるばかり。これに歴史的な超円高が加われば、コモディティ商品の主戦場が、よりコストの安いアジア各国に移るのは当然といえよう。
 
一方、この間、日本で自動車産業の比率が高まったのは、自動車は1台当たりの部品数が2万~3万点と多く、コモディティにはなりにくい性格があるためだ。
 
三洋のリストラをほぼ終えたパナソニックは今後、広いニーズにまるごと応えられる製品やサービスのラインアップ作りを進めるという。テレビや照明など電気製品を単品で売れば価格競争に巻き込まれるが、設計や施工、保守点検も含めて売れば、消費者も便利になり、グループ全体で収益を増やす効果もある。
 
日本の電機業界がコモディティ商品をそれだけで売り続けるならば、未来はない。だがコモディティになりにくい商品やサービスを開発したり、より総合的なパッケージ商品にしたりするならば、日本企業の勝ち目もあるはずだ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・8・10)

第58回 「絶対安全」を求めることの安心感が新たな危さを生む

市内と海岸側とでは様相が異なる仙台市

3月11日の東日本大震災。首都圏に住む人たちが最初に「津波」の恐ろしさ、すさまじさを知ったのは、NHKテレビが上空から映した仙台平野の映像だったのではないか。

そのとき、高層ビルの7階で会議に出席していた私は地震後、まずは地上階におり、あたりの様子をうかがってみた。だが交通機関は止まり、情報は錯綜し、何が何だかわからない。そのためまずはオフィスに戻り、テレビからの情報を注視することにした。そのときにNHKが流したのが、ヘリコプターから映した、仙台平野をゆったりと、しかし衰えずに進む津波の姿だった。

津波が田んぼを、イチゴのハウスを、飲み込んでいく。画面の端にはその津波を知っているのか知らないのか、車が走っている。そのまま走れば、確実に飲み込まれてしまう。思わず、「危ない、逃げろ」と声を出してしまうが、その声はもちろん届かない。

6月、その仙台平野を仙台市、亘理町、山本町と、宮城県庁の職員に案内してもらいながら歩いた。既に大震災から3カ月がたったその時期、仙台市内の道路の混み方はかなりのものだった。自衛隊や警察関連の車両が目立つが、一方で復興需要に応えるためと思われるトラックや工事関係車両も多い。

ところがもう少し海岸側に近づくと、光景が一変する。きれいに土台だけになった家々、ひしゃげて、折り重なっているイチゴハウスの鉄骨、ペシャンコになった車の数々。いまだに自衛隊の隊員が捜索作業をしている場所もあった。


もっと高い防潮堤をつくらなければならない

ちょうどその日の朝は、海からの冷たい風が内陸に入り込んだせいで、津波をかぶった大地からもやのような湯気が立ち上っていた。もやが太陽の光を反射し、色のない白黒の世界に見える。その光景と、原爆を受けた直後の広島や長崎の町の映像とがかぶって見えた。

海岸沿いの堤防にも足を伸ばした。「田老万里の長城」として有名な岩手県宮古市田老地区の防潮堤ほどではないものの、堅固な防潮堤が無残に破壊されている。引き波に持っていかれたのか、防潮堤の上部だけ残し、中がすっぽりと空洞になってしまった部分がいくつもあった。

東日本大震災後、日本中に「絶対的な安全」を求める声が強まっている。
「命を大事にするために、すべての原子力発電所をすぐに止めるべきだ」
「放射性物質に汚染されていないことが確認できない食品は買わない」――。
防潮堤についても、「明治三陸津波を想定した設計で大きな被害が出たのだから、さらに安全性を高めた、もっと高い防潮堤をつくらなければならない」といった議論が各地で多く出ている。

もちろん原子力発電所の津波対策を強化するために、防潮堤を新たに建設したり、より高くしたりすることは必要だろう。


高さ10メートルの巨大防潮堤は安全だったか

だが東日本大震災を受けて、日本の沿岸部にすべて防潮堤を設け、巨大なコンクリートで囲むようなことが対策の本質なのか。財政難の日本に、どこにそれだけの資金があるのかというコスト面の問題だけでなく、防災面から見ても大きな問題があるのだ。

明治三陸沖地震で住民の4割が亡くなった宮古市田老地区は1982年までに高さ10メートル、延長約2.5キロの防潮堤を完成させた。住民は「日本一の防潮堤」と信頼を寄せていたが、今回の大震災では「防潮堤があるから」と、安心して逃げ遅れた人が多かった。

津波で大きな被害を出した岩手県の大槌湾(大槌町と釜石市鵜住居町にまたがる)。死者・行方不明者の居住地を分析すると、ハザードマップで「想定浸水区域」とされた地区の人たちがほとんど逃げたのに対し、区域外の人たちが逃げ遅れ、多数の人が死亡した。

つまり安全な防災施設を整備したり、防災対策を講じたりすることで、逆に住民は「ここまでは安全」と油断する可能性が高まるのだ。


「ここまでの対策をしたから安全」という思い込みの危険

災害社会工学が専門の片田敏孝・群馬大学大学院工学研究科教授は「今回の大震災はよく『想定が甘かった』といわれるが、むしろ『想定にとらわれすぎた防災』の方が問題だった」と指摘する。

田老地区で逃げ遅れた人や、大槌湾でハザードマップを信じすぎて逃げなかった人たちと正反対の行動をとったのが、片田教授が防災教育を担当していた岩手県釜石市の小中学生約3000人。津波が来たときに学校の管理下にあった児童・生徒は全員無事だった。

片田教授は子どもたちに①想定にとらわれるな②最善を尽くせ③率先避難者たれ――という避難の3原則をたたきこんでいた。
「想定にとらわれるな」とは、ハザードマップが示す浸水想定区域はあくまでも防災施設を建設するなどのための「想定」であり、「それ以上の災害が起こる可能性があると思え」という意味である。
大地震の直後、釜石市の小中学生はあらかじめ決められた避難場所よりもより高い場所を目指し続け、全員が助かった。彼らの姿を見て、一緒に逃げた住民も多かったという。

「ここまでの設備をつくったから、もう大丈夫」。「ここまでの対策をしたから、もう安全」。いつの時代もこうした思い込み、油断こそが、最も危険なのだ。

(2011・7・13)

第57回 尾瀬を歩き、電力のこれからを考える

東京電力が所有する尾瀬の自然
 
今年、群馬県や新潟県など4県にまたがる尾瀬の春は遅かった。5月24日の山開き直前まで尾瀬沼の氷が溶けず、各所に雪が多く残っていた。例年だったら5月中旬から始まりを迎えるミズバショウの開花時期もかなり遅め。6月中旬の今でも見ごろの場所がかなり多くある。

尾瀬を歩くとき、お世話になるのが「木道」だ。自然に与える影響を最小限に抑えながら、訪れた人たちが自然と触れあえるよう、尾瀬には山間部を含めほぼ全域に木道が整備されている。入山者がすれ違うときに湿地帯に降りてしまわぬよう、多くの場所は複線だ。
 
木道の材料は、折れにくく水に強い国産カラマツ。それでも尾瀬沼や尾瀬ケ原など湿原の中では10年前後で付け替えなければならない。計画的に更新工事をするため、木道の表面には設置者と、工事した年を表す焼印が押されている。
 
鳩待峠など群馬県側から尾瀬に入った場合、木道の焼き印で目立つのが、東京電力のマークだ。尾瀬の木道は総延長65キロに及ぶが、群馬県内を中心に約20キロの木道を敷設、維持管理するのが東京電力だからだ。
 
東京電力は尾瀬国立公園約3万7千ヘクタールの約4割、公園の中の特別保護地区の約7割を所有する。福島第1原子力発電所の放射能漏れ事故に伴う補償金を捻出するため、東京電力が保有する尾瀬の土地売却を検討しているとの報道が5月中旬にあった。この報道で初めて、尾瀬の主たる所有者が東京電力であることを知った人も多いだろう。


尾瀬のダム計画は何度も消えては浮上した
 
なぜ東京電力が尾瀬の土地をこれだけ持っているのか。その疑問に答えるためには、尾瀬の歴史を振り返らなければならない。
 
群馬県側の尾瀬の土地はもともと戸倉、土出、越本の3村の共有地だった。税金の重さや山の管理の煩雑さに悩まされていた3つの村は明治30年代の末に地元の有力者に「尾瀬」を売却。さらにその土地を1916年(大正5年)に買い取ったのが当時、水力発電事業を営んでいた利根発電だった。
その後、東京電燈、関東配電を経て、1951年(昭和26年)に電気事業再編政令により東京電力が設立されたときに、東電がこの土地を継承した。
 
電力の需要が急速に高まった明治から大正にかけて、発電の中心を担ったのは水力発電。尾瀬ヶ原に水力発電ダムを建設する計画が初めて持ち上がったのは、1903年(明治36年)のことだ。利根発電が1916年に尾瀬を買い取ったのも、もちろんダム建設を念頭に置いてのものだ。これ以降、ダム計画は形を変えて何度も浮上することになる。
 
最も規模が大きいものは、1948年に発表された計画。尾瀬ヶ原に高さ100メートルのダムを作り只見川をせき止め、広さ13万平方キロメートル(尾瀬沼の8倍)、貯水量7億2千万立方メートル、出力230万キロワットの水力発電ダムを造る計画だった。


尾瀬で水力発電を諦めたのはつい最近!?
 
この「幻の尾瀬発電所」の出力230万キロワットは、東電が群馬県内で現在稼働する41カ所、67基の水力発電所の合計最大出力(243万キロワット)や、大震災で止まった福島第1原発の2号基から4号基まで3基分の合計出力(235万キロワット)にほぼ相当する。単独の水力発電所としてはいかに巨大な計画だったか、わかるだろう。
 
ただ尾瀬をダムとする計画は元から無理があった。計画はいずれも、日本海側に流れる只見川をせき止めて尾瀬ヶ原を大貯水池にして、その水を太平洋側に流れる利根川へ放流する過程で発電を行なおうとするもの。太平洋側の関東にはメリットはあるが、日本海側の新潟県からは強い反発を生む。
 
加えて度重なる戦争や震災で大規模な開発が難しかったこと、また当時から尾瀬の自然は守るべきだという声も強く、計画はいずれも実現しなかった。
 
それでも東京電力は尾瀬を発電に利用する道を完全には閉ざさなかった。東電が自然保護の機運が高まったのを理由に、尾瀬地区のうち尾瀬ケ原の水利権について放棄したのは1996年3月のことだ。それ以降、東電は尾瀬の環境保護に一層、力を入れるようになる。


すべてはトレードオフの関係か
 
東京電力が発足した1951年。東電の発電出力に占める水力発電の比率は80%。だが1995年には水力の比率は15%に下がり、逆に原子力発電が29%を占めるまでになっていた。意地悪な味方をすれば、原子力発電が完全に軌道に乗り、水力発電の重要度が下がったからこそ、東電は尾瀬ケ原の水利権を放棄したと見ることもできる。
 
東京電力は5月下旬、尾瀬売却を懸念する群馬県に対して「尾瀬の土地は大切な事業用資産で、現時点では売却は考えていない」と回答した。ただ「責任を持って、最小限の維持を行なっていく」とも付け加えている。東電は尾瀬の湿原回復や木道の維持管理などのために年2億円を拠出してきたが、今後はこの費用が削られる可能性が高い。
 
原子力発電が順調に発展したからこそ、東京電力は尾瀬の自然を保護する余裕も持ち得た。福島第1原発の事故をきっかけに反原発を唱えるのは簡単だが、原発をやめれば日本の電力料金は大幅に上がり、尾瀬の保護のための資金が枯渇する可能性もある。
そういうトレードオフの関係の中で、どこに着地点を見いだすか。国民1人ひとりに突きつけられた問題だ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・6・15)

第56回 現場を歩いて見えてきた那珂湊おさかな市場復興の姿

県内外から詰めかけた客に威勢のよいかけ声
 
5月の半ば、茨城県水戸市に所用があったついでに、茨城県から福島県にかけての海岸沿いを訪れた。東日本大震災から2ヵ月あまり。地震や津波の被害と、そこからの復旧、復興をめざす地域の実情を、この目で確かめてみたかったからだ。

スタート地点の水戸市。JR水戸駅周辺の人通りはほぼ元通りになっているものの、少し目をこらすと、今も地震の爪あとがここかしこに残ることがわかる。
例えば駅近くの水戸市三の丸にある水戸藩の藩校、弘道館。建物の壁や建具などが損傷したほか、八卦堂(はっけどう)の弘道館記碑が崩落し、有料区域は今も閉鎖中だ。
 
弘道館記碑は、水戸藩のみならず日本の学問の魁(さきがけ)にしたいという第9代藩主、徳川斉昭の強い意志のもと藤田東湖が起草したものだ。
 
水戸駅前でレンタカーを借りて次に向かったのは、水戸駅から15キロ程度、ひたちなか市那珂湊(なかみなと)地区にある「那珂湊おさかな市場」だ。
「いらっしゃい、いらっしゃい、地物だよ」
「茨城産の干物だよ。1300円だけど、大きくまけて1000円にしておくよ」
「マグロ、半額だよ」
 
県内外から詰めかけたお客に、市場の売り子たちが威勢よく呼びかける。客たちは次々と、ケースごと鮮魚や干物を買い求めていく。こちらの予想に反して、市場は以前訪れたときと変わらないような活気にあふれていた。


これほど安くておいしい寿司はよそでは味わえない
 
魚の売り場とともに人気がある回転寿司の店に入る。時刻はまだ午前11時前だというのに、店の前には既に入れない人の行列ができている。
 
大半のネタが300円か200円の皿。ちょうど今が旬のカツオを頼むと新鮮でネタの大きい寿司が出てきたが、それでも1皿(2貫)200円だ。茨城の名物、アンコウの味噌汁などを含めて腹一杯食べても、3000円でお釣りが来た。
「いやあ、ここじゃないと、これほどおいしくて安い寿司は食べられない」と、隣にいた40代の男性客が話す。
 
売り子の元気のよさに注目していると気づかないが、少し見渡すと、市場にも残る津波の爪あとが見えてくる。元からある駐車場は被災して使えず、今は周辺に確保した臨時駐車場を利用する。
 
JR常磐線の勝田駅とおさかな市場のある那珂湊や、阿字ケ浦を結ぶ第3セクターのひたちなか海浜鉄道は路線と駅設備の多くが被災し、7月半ばまで全面復旧できない見通しだ。


津波の被害に原発の被害が重なった
 
那珂湊おさかな市場は那珂湊漁港に隣接し、鮮魚店や食堂など19店が立ち並ぶ。地元の漁港でとれる海産物以外にも、北海道産のウニやイクラ、ロシア産のカニなど、多くの商品が集まる「海産物のデパート」だ。
 
1995年11月にオープンし、それから15年あまりで年間140万人が訪れる関東有数の観光市場に育った。今年3月14日には北関東3県を結ぶ北関東自動車道が開通。群馬や長野など、これまでは馴染みの薄かった地域からの集客も期待されていた。その矢先におさかな市場を襲ったのが、東日本大震災による津波だった。
 
3月11日、那珂湊漁港を4メートル超の津波が襲う。市場にも2~3メートルの津波がやってきた。
 
鮮魚類はもちろん、ショーケース、冷凍機などすべてが流された。関係者が翌日、市場までくると、商品の生きたカニが泥の上を歩いていたという。
 
人的な被害はなかったものの、被害総額は約22億円。その上、福島第1原子力発電所の事故により大量の放射性物質を含む汚染水が海に流れ出し、茨城県北茨城市沖で採れたコウナゴからは国の暫定基準値を上回る放射性セシウムが検出された。


日を追うごとに戻りつつある客足
 
その結果、「茨城の魚は危ない」という、原発事故による風評被害にさらされることになる。被災当初、復旧は早くても3カ月先と見られていた。
 
だが津波が引いた震災翌日から関係者は復旧に動き出した。姉妹都市で、漁業仲間が多い宮城県石巻がはるかに深刻な被害を受けたことを知り、全店総出で泥をかき出したり、冷凍機を新たに購入したりした。そうして、わずか50日後、大型連休直前の4月末に営業再開を果たした。
 
営業再開の報せが行きわたってないこともあり、大型連休中の客足は5割程度だったが、日を追うごとに、客足は戻りつつある。
 
福島第1原発事故はいまだ冷温停止状態に持ち込めず、放射性物質の問題も完全に収まったわけではない。そんな中でもおさかな市場を訪れる消費者の胸中には「風評の中でも市場を応援したい」という気持ちがあるはずだ。
 
おさかな市場の素早い復旧と、そこに戻りつつある消費者の姿を見ると、これからの東北の復興の道筋にも、おぼろげながら希望がもてるのだ


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・5・18)

第55回 地震の損害ゼロでも操業できない自動車工場

地震の損害ゼロでも操業できない自動車工場
 
4月5日。群馬県伊勢崎市にある金属プレス加工の斎藤製作所(斎藤勲社長)が事業を停止した。負債総額は6億円。2008年秋のリーマン・ショック以降は赤字が続いていたとはいえ、3月11日の東日本大震災でも工場に被害を受けたわけではない。それなのに倒産に追い込まれたのはなぜか?

東北の太平洋側や関東各地に甚大な被害をもたらした東日本大震災。ただ群馬県内の被害は軽微で、製造ラインを何日も動かせなくなるような損害を受けたものづくりの会社はほとんどなかった。
 
それなのに群馬県内の製造業の操業再開の動きは鈍かった。代表的なのが、県内の太田市や大泉町に5つの工場を持つ富士重工業の群馬製作所だ。
完成車の工場が再開したのは、地震から3週間が経った3月31日。それも同社の中では生産量が少ない軽自動車のみだった。主力のレガシィやフォレスターなど登録車を生産する矢島工場(太田市)が一部、稼働したのは4月6日のことだ。


ピラミッドの下層を襲った震災

富士重の幹部は大震災後の操業停止について「リーマン・ショックは売れない危機だったが、今回はつくれない試練だ」と表現する。
 
富士重の製造ライン停止は地域に深刻な影響をもたらした。太田市の製造品出荷額は富士重群馬製作所とその下請け企業群のおかげで1兆7000億円(2009年)と、1市で長崎県や鹿児島県に匹敵する規模を持つ。その太田市では、中心となる富士重群馬製作所の操業が長期間止まったために、「市内のものづくり企業の稼働率は2~3割」(製造業関係者)というところまで落ち込んだ。
 
太田市の隣、伊勢崎市にある斎藤製作所は太田市内にある自動車部品メーカーの下請け企業で、富士重から見ると2次下請けに当たる。富士重をピラミッドの頂点とする「サプライチェーン(供給網)」が滞ったことで、ピラミッドの下層に位置し、資金繰りに余裕がない中小製造業が倒産することになってしまったのだ。


浮き彫りになった「サプライチェーン」というアキレス腱
 
当初、富士重が操業を再開できない大きな理由は、東京電力による計画停電の影響が大きいと見られていた。金属を溶かす電気炉を温めるのに時間がかかるなどのため、ラインを動かし始めるのには、3時間という計画停電の時間以上にかかるためだ。
 
関係者によると、停電とともに響いたのは、一部部品の調達難だ。被災した半導体大手、ルネサスエレクトロニクスの那珂工場(茨城県ひたちなか市)が生産する車載用のマイコン、東京電力福島第1原子力発電所の避難指示圏内にある福島県企業が生産するブレーキパッドなど、いくつかの代替不可能な部品の調達が滞っているとみられる。
 
自動車の部品点数は2万点を超え、その1つが欠けても製品をつくることができない。日本の自動車関連メーカーは部品の在庫を極限まで減らす「ジャストインタイム」によりコストを最小限に切り詰め、人件費の高い日本でも可能なものづくりを進めてきた。
 
ジャストインタイムを徹底的に進めたサプライチェーンは、滞りなく流れていれば美しいが、いったんどこかが止まってしまうと、その目詰まりが瞬く間に全体に及んでしまう。今回の震災で浮き彫りになったのは、こうしたサプライチェーンは、天災による広範な被害にはひどく脆弱であるという事実だ。


在庫における適正水準とは何かを問い直す
 
日本の素材や部品のメーカーが経営革新を進めたことが、裏目に出た面もある。素材・部品メーカーは近年、誰もが同じモノを作る横並び経営から、小さい市場でもいいから他社にない製品や技術を開発する「オンリーワン」経営にカジを切った。オンリーワンになって、その分野で高いシェアを占められれば素材・部品メーカーは高収益を得られる。半面、今回のような想定外の事態で操業が止まると、オンリーワン製品は代替が不可能なだけに、供給先の企業やサプライチェーンに多大な損害を与えてしまう。
 
心配なのは、今回の大震災をきっかけに、海外メーカーの間で日本の素材や部品企業外しが進んでしまうことだ。そうならないためにも、有力な素材・部品メーカーは一刻も早く供給体制を立て直す必要がある。
 
また今後は完成品メーカーと部品メーカーが部品や素材の情報共有を進め、両者がサプライチェーンの全体像をつかみやすくする必要がある。部品の調達先を1社ではなく2社以上にすることや、在庫についても「適正な水準とは何か」について考え直すことが欠かせない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・4・13)

第54回 内需産業が生き残るための唯一の処方箋は「外」とつながること

長引く不況の本当の原因
 
2月下旬、総務省は2010年国勢調査の人口速報値を発表した。同年10月1日時点での日本の総人口は1億2805万人と2005年の前回調査に比べ0.2%増(年率換算で0.05%)とわずかに増えた。
 
だが国勢調査は5年ごとのもの。厚生労働省の人口動態調査では2007年から出生数が死亡数を下回る「自然減」が起こっている。

都道府県別で見ると、人口が増えたのは東京都(4.7%増)、神奈川県(2.9%増)、千葉県(2.7%増)など9都府県にとどまり、秋田県(5.2%減)、青森県(4.4%減)、高知県(4%減)など38道府県で減っている。東名阪などの大都市、北海道や沖縄県などの一部を除けば、日本は「人口減社会」に突入しているわけだ。
総人口の動きももちろん重要だが、経済との関連でより重要なのは、今後発表される15歳以上64歳未満の「生産年齢人口」だ。
昨年の新書のベストセラー、『デフレの正体』(角川書店)で、著者の藻谷浩介・日本政策投資銀行地域企画部参事役が指摘するように、この世代は労働力を担い、消費の中核となる「現役世代」だからだ。そしてこの生産年齢人口の減少こそ、日本の長引く不況の根本的な原因だ。


見方によって違う業況判断
 
生産年齢人口の波が、日本や地域の経済にどんな影響を及ぼしているのか? 
例えば東京という大消費地に近い、群馬県を例に考えてみよう。
 
群馬県内の景気はいま、全国との比較の中で、それほど悪い状況ではない。日銀前橋支店が12月に発表した短期経済観測調査(短観)の業況判断指数は全産業でマイナス4と、1年9カ月ぶりに悪化した。
ただ9月段階の予想(マイナス16)よりも、全国の全産業の数値(マイナス11)より、かなり上の数字。地域別の短観を発表している日銀の33支店・事務所の中でも「上から2番目」(日銀前橋支店)の数値だ。
 
回復の主役は県東部の富士重工業を中心とした自動車産業。富士重は米国など海外への輸出が好調で、自動車大手の中でも、昨年9月のエコカー補助金制度終了の影響が最も小さかった。自動車産業に力点を置く人からは「明るい兆しが見えてきた」という声が聞かれる。
 
一方、小売りや卸、建設など国内需要に基づく非製造業を注目する人からは「一向に上向かない。政府はもっと景気対策に力を入れるべきだ」といった厳しい声が聞かれる。実際、日銀前橋支店の12月短観では、製造業の業況判断指数はプラス7だったのに対し、非製造業はマイナス18。その差は大きい。


生産年齢人口と小売業販売額は重なる
 
実は業況判断指数で、非製造業が製造業を下回る傾向は1990年代前半から続く傾向だ。IT(情報技術)バブルがあった1996年頃、円安傾向で輸出が好調だった2003年から2007年にかけて製造業は指数がプラス圏内を推移した。
 
一方、非製造業がプラス圏内に浮上したのはわずかな期間しかない。こうも不振が長く続くのは、景気の波だけでなく、より大きな要因があるからだ。
群馬の総人口は、ピークが2005年の203万人で、そこから直近の2009年まで1.2%減ったに過ぎない。だが生産年齢人口は1998年の136万人をピークに11年連続で減り続け、その減少率は7.3%にもなる。
県内小売業の年間販売額を、経済産業省の「商業統計」から調べてみると、ピークは1997年で、その後はずっと減り続け、最も新しい統計がある2007年は1997年比で9%減った。つまり生産年齢人口のカーブと小売業年間販売額のカーブはかなり重なるのだ。地価など同様のカーブで下がり続ける指標は多い。


外に出て成功したヤマダ電機

長引く低迷の原因は景気よりも「生産年齢人口の減少」。だとすれば、政府による景気対策があったとしても、大きな効果が期待しにくい。むしろ内需型産業でもいかに地域の外から、あるいはグローバルで稼ぐかが盛衰を左右する。
 
小売業の販売額が9%減った1997年から2007年の10年間。群馬に本社を置きながら県外に積極的に事業展開したヤマダ電機は同時期に売上高を10倍以上に伸ばした。人口減のもとでも業績を伸ばす小売業は、いずれも地域の枠にとどまらず、外に出る、あるいは海外進出も視野に置く会社だ。
 
人口増の時代であれば、地域の中にとどまっていても、それなりの成長が期待できる。だが今、座して景気回復を待っていれば、それは緩やかな衰退を意味する。内需型産業でも地域に外国人や域外の人を呼び込む、グループで海外に進出するなど、外とつながる工夫なしでは成長はあり得ない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・3・1)

第53回 TPP絶対反対ばかりじゃないだろう、農産物直売所大繁盛に見る農業の可能性

駅ナカならぬ道ナカが大繁盛
 
昨年12月1日、関越自動車道の三芳パーキングエリア(PA、埼玉県三芳町)上り線で、商業施設「パサール三芳」がグランドオープンした。1年前に開設した第1期分も合わせると、レストランやショッピングなど全部で24店舗となり、商業施設全体の広さは改良前と比べると約4倍の3400平方メートルに広がった。

関越道や上信越自動車道を使って新潟、長野、群馬県方面から東京方面へ向かうとき、三芳PAは「最後に立ち寄るPA」だ。東日本高速道路会社が管理するPAの中でも群を抜いて利用者が多い。
 
同社によると、パサール三芳ができる前でも三芳PA上り線の利用者は年間約460万人おり、グランドオープン後は約660万人を見込む。新施設はいわばJRグループが各地で力を入れる「駅ナカ」ならぬ「道ナカ」を狙った施設だ。
 
地域の名産である狭山茶の店や川越の菓子店など特徴ある店が多いが、中でも客を集めているのは農産物・農業資材販売のファームドゥ(前橋市)が出した農産物直売所「食の駅パサール三芳店」だ。観光地から東京へ帰る観光客らを狙い、群馬を中心に新潟や長野、埼玉など高速沿いの農家から直接仕入れた農産物や加工品を扱い、販売している。


入手困難の「ブランド品」が続々と登場
 
開店直後の12月に話題を呼んだのは、群馬と埼玉のブランドねぎである「下仁田ねぎ」と「深谷ねぎ」を並べたコーナー。ねぎの生産量が全国2位(2008年)である埼玉の主力ブランドである深谷ねぎは他でも手に入りやすいが、一方の群馬の下仁田ねぎはきわめて手に入りにくいブランドねぎだ。
 
白根の長さが15~20センチと短く、太く、煮ると独特の甘みが出る。下仁田ねぎという品種はあるものの、それを原産地である群馬県下仁田町以外で栽培しても、おいしいものはできない。下仁田町の農家は春と夏に2回の植え替えをするなど、栽培には膨大な手間をかけている。
 
本物の下仁田ねぎは贈答用や東京などの料亭に出荷されるため、店頭ではきわめて手に入りにくい。しかしファームドゥはこれまで農業生産者と直接の取引関係を築いてきたことを生かし、下仁田ねぎの本場である同町馬山地区の生産者から直接仕入れ、新店舗の店頭に並べられるようにした。
 
コメのコーナーも面白い。日本一高価と言われる新潟県南魚沼市産のコシヒカリと、国内最大規模のコメ審査会で2年連続金賞をとった群馬県川場村の「雪ほたか」を並べた。単に産地直送の農産物を並べるだけでなく、他の場所でも工夫を凝らし、東京方面へ向かう利用者が楽しみながらお土産などを選べるようになっている。


直売所は生産地で売っても駄目だ
 
同社がこうした売り方を行なえるのは、群馬や東京などで農産物直売所を手掛けてきたノウハウがあるためだ。
「すでに田舎で直売所が飽和状態で、これからは東京など大消費地に近づくことが必要」とファームドゥの岩井雅之社長は考える。直売所というと農産地周辺に集中しがちだが、同社は直売店のチェーン化を進めてきた。食の駅パサール三芳店は24番目の店舗になる。
 
同社の直売店は、生産者が農産物を店や産地近くの集荷場に持ち込み、自由に価格を設定する仕組み。同社が販売を担い、販売額から手数料を差し引く。
 
東京方面へは関越道を使い、群馬の主力店舗にからトラックで日に何度も配送するため、店頭に並ぶ農産物はほぼ24時間以内に採れたものばかりだ。
 
同社が取引のある生産者は群馬県内を中心に約5000人。JAなどを通して市場経由で販売すると商売にならないような小規模の生産者も、生産物の質がよければ食の駅の店舗で売れるため、それなりに現金収入を得ることができる。
 
さらに最近力を入れているのが、「安全・安心」の野菜の生産・販売。ミネラルを与えた土で育てる「ミネラル野菜」を生産者と連携して栽培している。農薬を減らせるほか、味が濃くておいしく、日持ちもするため、消費者から高い支持を得ている。
 
新鮮で味が良く、安全・安心な農産物を求める消費者と、そうした消費者とできるだけダイレクトにつながりたい生産者。ファームドゥの事業モデルは、両者をうまく結ぶことで成り立っている。


消費者が農業に求めるニーズは何か?
 
昨年10月の臨時国会の所信表明演説で、菅直人首相が「環太平洋パートナーシップ協定(TPP)交渉などへの参加を検討すると表明したことをきっかけに、日本の農業現場では、「TPP反対、農産物の自由化阻止」という声が渦巻く。ただ日本が何よりも工業立国であることを考えれば、遅かれ早かれ、農産物の自由化が進むのは確実だろう。
 
日本のTPP参加や、農産物自由化への対応策としてあがるのは、大規模化で生産効率を上げることだ。
 
大規模化による生産効率の向上はもちろん大切だが、消費者が農業に求めるニーズは効率性や価格の安さばかりではない。パサール三芳で食の駅が繁盛しているのを見ると、都市近郊のそれほど規模の大きくない農業でも、消費者との間をつなぐファームドゥのような存在があれば、そのニーズを満たす道があることがわかる。
 
TPP時代に都市近郊の小規模農家でもやっていける道。そのヒントがこの店には隠されている。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・2・2)

第52回 就活生が受かるために知っていなければならない「3つのこと」

100社以上エントリーしたけれど内定ゼロの実態」
 
文部科学省と厚生労働省の調査で、2011年春に卒業予定の大学生の昨年12月1日時点での就職内定率が、前年同期を4.3ポイント下回る68.8%であることがわかった。

この方法で調査し始めた1996年度以降では初めて7割を切り、過去最悪の水準になった。従来この時期に「就活生」といえば就職活動を始めた3年生を指すのが普通だったが、今年は4年生の3人に1人が内定を得られていない状況で、同じ就活生でも4年生と3年生とを区別して考えなければならない状況だ。
 
最近、こうした就活生向けに話をしたり、エントリーシート(ES)を添削したり、相談に乗ったりすることが多い。3年生の中にはいたずらに焦りを感じている人が多い。一方で4年生の中には、何十社、下手すると100社以上エントリーしたけれど内定を得られず「就活疲れ」になってしまった人もいる。こうした就活生向けに、ぜひとも伝えたい「3つのこと」がある。


(1)「会社を知らない」ことを自覚する
 
就活を始めたばかりの3年生と話していて最も強く感じるのは「会社を知らない」ということだ。
 
例えば大手自動車部品メーカートップのデンソーという会社がある。2011年3月期の売上高は3兆円を超し、1月18日時点での株式時価総額は2兆6000億円と三井物産をわずかに上回り、日本の19位に位置する超優良企業だ。
 
だが学生の集まりでこのデンソーを知っているかを聞くと、名前を聞いたことがある人で10人に1人、業種や仕事内容を知っている人は20人に1人もいない。就職情報会社のダイヤモンド・ビッグアンドリード(東京)がこのほど発表した2011年大学生が選んだ就職人気企業ランキング(文系・男子)でも、デンソーは150位の中にすらない。
 
この理由は1つ。デンソーが手掛けるのは自動車部品で、テレビコマーシャルを積極的に流したり、ブランド名が前面に出したりすることがほぼないためだ。
 
学生は結局、自分に身近な消費財メーカーや消費者と直接関わりのあるマスコミ、さらに商社などの超有名企業から「入りたい会社」を選んでいるに過ぎない。改めてこの種の人気ランキングを眺めてみると、その偏りぶりに驚かされる。
 
日本には、広くは知られていないが優良な会社がそれこそ何万もある。特に就職氷河期を上回る厳しさといわれるなかでも、従業員300人未満企業、いわゆる中小企業の大卒求人倍率は4.41倍(リクルートワークス研究所の2010年4月の調査)と売り手側の優位が続く。
 
自分の希望に合い、しかもランキングには乗らないような優良企業を見つけられれば、それだけ内定を得る確率も高くなる。そうした努力をするには、まずは自分たちが会社をあまりにも知らないことを自覚することが必要だ。


(2)100社のエントリーより、志望動機がきちんとかける数社へのエントリーを
 
就活において履歴書に代わってESの提出が一般的になり始めたのは2000年前後だろうか。当時は、手書きの履歴書ではなく、パソコンを使ってネット経由で提出可能なESが普及してきたことに、手書き履歴書時代に就職活動をした我々世代は羨ましい思いを抱いたものだ。
 
だが今ではこの仕組みの問題点がいろいろあらわになっている。個人から見れば、切り貼りが容易になったことで、1人で100社以上にESを送れるようになったことは一見、よいことのように思えるが、そうとばかりは言い切れない。
 
企業側から見れば、大量のES提出者の中からまずは筆記試験や面接に値する人たちを選び出すのに手間がかかるため、機械的にES提出者をふるいにかけることになる。その結果、就活生の多くは多くの企業でESを提出しても試験にすらたどり着くことができず、徒労感を募らせていくことになる。
 
そこで就活生に提案したいのは、業務内容もよくわからない会社も含めて100社にエントリーするより、仕事の内容をよく理解して志望動機をきちんと書ける会社に絞ることだ。
 
ES提出先の数だけを増やしてみても、たとえ面接にこぎ着けたとしても、志望動機をきちんと話せなければ、試験を通る確率は低い。それならば「本気」の会社に絞った方が、効率も高いし、何より無駄な徒労感を抱く可能性が減る。そして学生の多くがこのことを心がければ、企業側の労力も減るのだ。


(3)使えるコネは大事にしよう
 
こう書くと前時代的に聞こえてしまうが、この3番目の提言も2番目と関係している。いま企業側は大量のエントリーから、試験をするに値する人を選ぶのに苦労している。だが人的なつながりがある学生は、ESとは関係なく、試験を受けさせてもらえる確率が高くなるからだ。
 
こんなことを書くと、ほとんどの学生は「コネなんかない」というだろう。だが親戚、両親の知り合い、ゼミの先輩、体育会の先輩など、探せばコネにつながるものはある。こうした人たちに会って、きちんと仕事について、就職について話をする。そこからコネクションは始まるのだ。
「コネがあれば就職できる」というのは幻想にしても、コネをつくることで試験を受けさせてもらえることは可能。使えるコネは大切に。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2011・1・19)

第51回 東京モンには分からない北関東自動車道の隠された「効果」

田畑ばかりの土地にいきなり出現した「パワーセンター」
 
総合スーパーのベイシア(前橋市)などが北関東自動車道の前橋南インターチェンジ前で準備を進めてきた「パワーモール前橋みなみ」が12月、開業した。現在はホームセンターのカインズ(高崎市)などベイシアグループ各社と、米衣料専門店のギャップらが入居する。米会員制ディスカウントストアのコストコなどが入る来夏の第2期、生活雑貨専門店などが入る来冬の第3期を含めると、総敷地面積23万平米の巨大パワーセンターが誕生することになる。

総敷地面積23万平米とはどれくらの大きさか。この近辺にある代表的なショッピングモールであるイオンモール高崎(群馬県高崎市、12万平米)と、けやきウォーク前橋(前橋市、9万平米)を足したのとほぼ同等の面積。東京ドームでいえば、約5個分の広さといえば分かりが早いだろうか。ベイシアグループは来冬の完全開業後、このモール全体で年間で300億円を売り上げる計画だ。
 
ただパワーモールがあるのは、JR前橋駅から南に7~8キロ、高崎駅からは東に同程度の距離の場所。それぞれの中心市街地から遠く離れており、元は田畑ばかりだった土地だ。そんな地域にこれだけの規模の施設ができたのは、北関東自動車道が誕生したことと強く関係している。


群馬の店で栃木からも茨城からも客を集めやすくなる
 
政府は1980年代後半に「第4次全国総合開発計画」をまとめ、北関東自動車道の計画を打ち出した。群馬、栃木、茨城3県の主要都市と常陸那珂港などを結ぶ、全長150�の大動脈だ。
 
これまで「北関東」とひとくくりにされつつも、交通の便が悪いが故にまとまりのなかった3県の距離がぐっと近づく。前橋南インターチェンジは関越自動車道の高崎ジャンクションから北関東道に入って最初のインターチェンジだ。
 
現在、北関東道は群馬県の太田桐生インターと栃木県の佐野田沼インターの間(18.6キロ)の間が未開通だが、来年3月19日に全線開通することが決まった。この全通による追い風を受けるのが、来夏に開業するコストコだ。
 
付近にいくつも店舗のあるベイシアグループとは違い、コストコにとっては北関東では最初の店舗。未開通部分が残る現段階でも、群馬県の北西部、新潟県や長野県から前橋南インターへはスムースに来られる。全面開通すれば、さらに栃木県や茨城県からも客を集めやすくなる。


新たに建設された「マルちゃん」工場の規模と効果
 
北関東道の効果があるのは、流通や観光ばかりではない。東京外環自動車道、首都圏中央連絡自動車道と同じように北関東道は、東京を起点に放射状に延びるいくつもの高速道路を、環状に結ぶ役割がある。
 
地価が比較的安く広い土地を確保しやすい北関東道沿いに工場や配送センターを配置すれば、常にモノが集まり混雑しやすい東京を通らずに、東日本にも西日本にも物品を配送しやすい。
 
東北自動車道を東京から東北方面に向かうときに通る利根川橋。この橋を渡るとき、左前方を見ると「マルちゃん」マークのついた巨大な建物が見える。即席めん大手の東洋水産が今年1月に完成させた関東工場(群馬県館林市)だ。
 
東京ドーム2.7個分(13万平米弱)の敷地に、横の長さが340メートルもある工場・物流配送センターが構える。土地の取得と、建物の建設や設備に約150億円をかけた。
 
関東工場は同社の中では最大の即席めん工場。「赤いきつねうどん」や「緑のたぬきそば」を毎時2000ケース(1ケース12個入り)生産する能力があるラインを4つ持つ。原料をこねる段階から出荷までの工程をすべて1直線に並べたことなどで、人手を省いて高い生産性を実現した。


キリンビールが撤退した跡地も道路の開通で見直された
 
東洋水産は地域の好みに合わせて赤いきつねなどの味を変えているが、関東工場がカバーするのは北は青森、西は新潟、岐阜、三重までの「東日本」だ。
 
東北道の館林インターチェンジ近くにあるため、もともと首都圏や東北地方には配送しやすい。さらに3月中旬に北関東道が全通すれば「新潟や長野方面へ運ぶ時間も短縮できる」(同社)というわけだ。
 
東洋水産は関東工場の建設以前に、グループ会社を含めると即席めんの生産拠点を国内に9カ所持っていた。関東工場の稼働に合わせ、生産品目を入れ替えるなどして、生産の効率化を進めている。
 
北関東道の全線開通を背景に、森永製菓も高崎市の高崎ジャンクション近くに、キャンディーとチョコレートを製造する新工場を建設する。こちらは2013年に稼働予定。新鋭設備を導入して生産性を高め、主力の塚口工場(兵庫県尼崎市)から生産を移管し、塚口工場は13年度中に閉鎖する方針だ。
 
森永が工場を建設するのは、キリンビールが2000年夏に高崎工場を閉鎖した場所だ。18万平米に及ぶ跡地利用を巡り、高崎市などは7年にわたって頭を悩ませた経緯がある。一度は大手工場から見放された土地が、北関東道の全通によって他の企業を呼び寄せる。東京からの視点だけではわかりにくいが、実は北関東自動車道の「効果」は意外と大きい


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・12・8)

第50回 日本がロボット産業を育てなければならない2つの「理由」

自動車会社の海外移転加速で取り残される2次下請け
 
1ドル=80円台前半の円高が定着し、環太平洋経済連携協定(TPP)に参加するか否かの議論が巻き起こったここ数カ月。自動車をはじめとした日本メーカーが、海外に生産の軸足を移す動きが相次いだ。

自動車だけをとってみても、海外生産加速のニュースがいくつもある。日産自動車は今夏、タイの工場から新型マーチの対日輸出を始めた。海外で生産した車を日本に逆輸入し販売した例は過去にもいくつかあるが、マーチのような主力車では初めてのケースだ。日産はマーチを1982年の発売以来、追浜工場(神奈川県横須賀市)で作っていた。
 
スズキや三菱自動車もインドやタイに新しい工場を建設する。これまでは全販売台数の約4分の3を国内の群馬県太田市の群馬製作所で生産してきた富士重工業も、中国での現地生産を年内に決める計画だ。
 
1995年4月19日の史上最高値79円75銭に迫る円高。諸外国と比べて高い実効税率。各国との自由貿易協定(FTA)や経済連携協定(EPA)が進まないために、日本製品を輸出するときの関税が韓国などに比べて不利――。こうした状況を考えれば、FTAに積極的な国などに、日本企業が工場を新設しよう、移そうと考えるのは当然のことだ。
 
完成車メーカーが海外での現地生産を進めるとき、中核部品を生産する1次下請け企業は一緒に進出することも可能だろう。だが2次下請けより下のクラスの会社になると、企業の規模や資金面から見て、完成車メーカーとともに海外へ進出するのはかなり難しい。


構造が似ている自動車産業とロボット産業
 
日本の地域経済に占める自動車産業の存在感は大きい。2009年の工業統計調査(速報)によると、製造品出荷額(263兆円、前年比21.7%減)に占める輸送機器の比率は17.8%だ。08年秋のリーマン・ショックの影響で構成比は前年に比べ1.3ポイント下落したとはいえ、それでも2位の食料(9.2%)に大きな差を付けている。
 
都道府県別で見ると、輸送機器が1位なのは愛知県(48.4%)、群馬県(30.3%)、広島県(26.8%)など16県にもなる。自動車産業はすそ野が広く、完成車メーカーを筆頭に1次、2次、3次と下請け企業群のピラミッド構造ができている。地域の大黒柱である完成車メーカーが海外に生産を移したとき、仕事がなくなってしまった下請け企業群をどう維持するか、支えるのかは避けて通れない課題だ。
 
そこで提案したいのが、自動車産業に代わるものとしてロボット産業を育てること。第一の理由は、自動車の部品メーカーなどが移行しやすいためだ。
 
藤本隆宏・東京大学ものづくり経営研究センター長が指摘するように、製造業にはさまざまな会社が協力し合いながら部品を組み立てていく「すり合わせ(インテグラル)型」と、基幹部品を中心に簡単に組み立てられる「組み合わせ(モジュール)型」とに大別できる。
 
日本が得意とするのは前者のすり合わせ型で、自動車産業がまさにこの形。電気製品の生産が自動車に先だって中国などアジアに移転してしまったのは、電気製品の電子化が進み、ICひとつあれば、その製品の主要機能がカバーできるものが主流となり、産業の構造がすり合わせ型から組み合わせ型に変わったことが一因だ。
 
一方ロボット産業は自動車に似ている。部品点数が多く高度な組立技術が必要とする。素材を加工する会社、部品をつくる会社、組み立てる会社と、関係する会社がピラミッド構造なのも自動車と同じだ。


2020年からの労働力不足を補うための方策
 
ロボット産業を育てたいもう1つの理由は、介護支援、家事支援、清掃、点検、高齢者との交流など「サービスロボット」の開発が待たれている状況があることだ。
 
厚生労働省や国立社会保障・人口問題研究所などの推計によると、2005年から2025年の間に、日本の労働力人口(15~64歳)は470万人減り、高齢者人口(65歳以上)は933万人増える。そのギャップは1403万人。これだけの「労働力」が必要とされることになる。
 
現在(2008年)の日本のロボット産業の出荷額は約6500億円で、製造現場で組み立てのために使われる産業ロボットが主流。今年4月、経済産業省が「2035年に向けたロボット産業の将来市場予測」を発表したが、これによると2015年の市場規模は1兆6000億円、2035年には9兆7000億円という規模で、前述のようなサービス分野がけん引役となる。
 
ただこうした潜在市場があるとはいえ、順調にロボット市場が育つ保障はない。産業技術総合研究所の比留川博久・知能システム研究部門長は「2020年には日本は少子高齢化でどうしようもなくなる。その5年前の2015年までに使える生活支援ロボット、サービスロボットが開発できなければ、足りない労働力を外国人の若年労働者に頼るか、日本人の生活レベルを落とすかの選択を迫られることになる」と警告する。
 
続々と海外に生産機能が移転する自動車市場。一方で使えるサービスロボットが開発できなければ、もしかしたら市場そのものが幻に終わってしまうかもしれないロボット産業。2つの意味からロボット産業を早急に伸ばす必要があるのだ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・11・11)

第49回 政府支援のあり方を考えさせる日本の技術「金型産業」の未来

2、3位が合併、1位は買収された金型業界
 
自動車用金型で国内2位の富士テクニカ(ジャスダック上場、静岡県清水町)と同3位の宮津製作所(未上場、群馬県大泉町)が9月中旬、事業統合することを発表した。富士テクニカは政府系の企業再生支援機構から53億円の出資を受け、宮津製作所の事業を買収する。

企業再生支援機構が出資することから明らかなように、業界の2、3位とはいっても両社は苦境に陥っていた。富士テクニカの連結売上高は2005年3月期の287億円を境に減り始め、11年3月期には137億円とピーク時の半分以下になる見通し。宮津製作所にしても08年2月期に157億円だった売上高が10年2月期には71億円まで落ち込み、債務超過に陥っていた。
 
そのため2社統合による再生計画は、両社にとって厳しくて苦い内容だ。2社合わせて6つあった国内工場は3拠点に集約。従業員は1050人から680人に減らされる。現在の経営陣も総退陣し、社長にはスズキの和久田俊一氏が就く。
 
2位、3位の会社がこれだけの苦境にさらされているとき、業界トップの会社はどうなっているのか?
 
群馬県の太田市周辺を車で走らせると、側壁に「OGIHARA」とブルーの目立つ文字で描かれた工場に、いくつもでくわす。金型の最大手、オギハラ(未上場、群馬県太田市)の工場だ。工場の規模の大きさや新しさは、例えば3位の宮津とは大違い。そこだけを見ていると「さすが1位企業」と思ってしまうが、実はこの会社も安泰ではない。
 
2009年2月、タイの自動車部品大手タイ・サミットがオギハラに資本参加し、その後出資比率を高めて傘下に収めてしまった。また今年の3月には、中国の大手自動車メーカー比亜迪(BYD、広東省)がオギハラの4つの工場の1つ、館林工場(館林市)を買収した。つまり工場は健在だが、経営は創業家の手から離れ、タイや中国の会社のものになっているのだ。


グローバル化を進めてリーマンショックに沈む
 
金型とは、自動車のボディなど工業製品を大量生産するのに欠かせない「型」のこと。自動車や家電などほとんどの工業製品の生産に使われ、かつて金型産業は日本の「お家芸」とも言われていた。それが今や1位企業は外資の傘下に入り、2位と3位企業は業績不振の末に事業統合する。ここ10数年のうちに、金型業界には何が起こったのか?
 
金型の大手はかつて、日本の自動車メーカーの仕事が中心だった。オギハラと宮津の本社は、富士重工業の群馬製作所(太田市)のお膝元にある。
 
だが日本の自動車メーカーが金型を自社でつくる動きを進めたことから、米ゼネラル・モーターズ(GM)や英ロールスロイスなど海外メーカーに、受注先を広げていった。同じ自動車関連でも、親会社の系列色が濃い部品メーカーなどと比べると、より早くからグローバルな仕事をしていたわけだ。
 
ところがその分、07年から08年にかけての世界金融危機やリーマン・ショックの影響も強く受けることとなった。
 
世界中の自動車会社は在庫を抱え売り上げを急減させたため、「金型会社の受注も直近の半分程度にまで急減」(金型業界の関係者)。各国政府による自動車買い換え刺激策などで、自動車の売り上げが回復しだしたあとも、自動車会社はモデルチェンジの間隔を延ばすなどしたため、金型会社の受注の回復はなかなか進んでいない。
 
その中で仕事をとろうとすると、日本の技術をうまく後追いしながら力をつけてきた中国などアジアメーカーとの価格競争に巻き込まれ、富士テクニカや宮津などは原価割れの仕事を受ける状況になっていた。


政府が支援しても蘇るとは限らない
 
事業統合発表の記者会見では、2社から「内部要因としては原価管理がうまくできず、中国勢への対応が遅れてしまった」(宮津製作所の宮村哲人社長)、「金型業界は50年間変わらず、周囲の変化に追いついていなかった」(富士テクニカの糸川良平社長)と反省の弁が聞かれた。
 
金型業界の中では今回の再編劇を「ようやく政府が手をさしのべてくれた」と企業再生支援機構の出資を歓迎する声もあるが、一方で「大手が苦境に陥ったのは、技術を海外勢に教えてしまい、しかも最近は技術力を必要としない低価格の仕事の量を増やしていたため」(中堅金型会社の社長)として、"自業自得"と見る関係者もいる。
 
この中堅金型会社の社長は「ハイテン(高張力鋼板)用など難しい技術で日本の金型会社は中国などアジア勢に負けない。今は価格を追求する会社が多いためアジア勢に仕事が流れがちだが、技術を大事にしていればいずれ品質面で優れる日本に仕事が戻ってくる」とも話す。
 
今回の統合シナリオを描いたのは、09年のタイ・サミットによるオギハラの買収に始まった金型産業の地盤沈下に危機感を抱いた経済産業省だ。だが両社の低迷は原価管理の失敗など自ら招いた面もあり、統合して政府が支援すれば金型業界が甦るとは限らない。
 
先の中堅金型会社のように、規模は小さいが、オギハラ、富士テクニカや宮津に負けない技術を持った金型会社もある。こうした元気のある会社を支援することで新陳代謝を進め、結果的に金型産業を守ることも可能だろう。。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・10・13)

第48回 円高よりももっと深刻なのは内需の成長という現実

群馬県の経営者が見る景気の実態
 
米証券大手のリーマン・ブラザースが破綻した2008年9月15日の「リーマン・ショック」から丸2年。ショックをきっかけに起こった、世界の経済成長率が戦後初めてマイナスとなる世界経済危機を、日本をはじめ各国は金融緩和や財政の緊急出動による需要喚起策で一応は乗り切った。

だがその後の世界の風景は、ショック前とは大きく変わりつつある。米欧や日本が低成長やデフレに悩まされる一方で、中国やインドなどの新興国は高成長が続く「二極化」が定着しつつある。そして国内。世界の状況ほどわかりやすくはないものの、こちらでもじわり「二極化」が進み始めている。
 
最近、群馬県内のある農業高校のOB会の例会に講師として招かれた。その会はただのOB会ではなく、卒業生の中でも経営者の人たちが集まる会だ。農業高校ということで、卒業生の経営する会社は農業法人や食品、建設、造園など、ほとんどが内需関連の中小企業だ。出席者は30人あまり。
 
その場でふと思い立ち、即席の景況調査をしてみることにした。出席する経営者に現在の景況感をたずね、「良い」「さほど良くない」「悪い」という3つの選択肢から、どれか1つを選んでもらうのだ。
 
こういう聞き方をしたのは、日本銀行の企業短期経済観測調査(短観)の業況判断指数(DI)と同じにするためだ。「良い」と答えた企業の割合から「悪い」の割合を引くと、DIを求められる。日銀は3カ月ごとに短観を発表。全国の数字だけでなく、日銀の33の支店・事務所でもその管内の数値を個別に発表するため、地域の景況感を知るには最も信頼できる指標だ。


日銀調査と大幅に異なった業況判断
 
例えば群馬県の6月短観の業況判断DIは全産業でマイナス4。まだ「悪い」が「良い」を多少上回っているとはいえ、前回調査に比べ15ポイントも改善している。日銀前橋支店の業況判断DIはリーマン・ショック後に急落し、2009年3月にはマイナス61を記録。その後、今年の6月まで5期連続で改善している。
 
だが最近、短観のような経済指標と、実際の経営者の声との間に温度差を感じることが多い。短観、銀行の景況調査、鉱工業生産指数、有効求人倍率といった各種の指標は改善を示しているのに、経営者から聞く声は「このままだと日本経済はどうなるのか」「いい話はない」といった暗いものが多数を占める。それならば、中小企業の経営者が集まった場所で同じように質問をして景況判断DIを求めてみれば面白いと考えたのだ。
 
即席景況調査の結果はマイナス67。おそらく短観の数字よりは悪くなるとは考えていたが、まさか60ポイント以上の差が出るとは考えていなかった。
 
もちろん即席調査の数字は短観のような精緻なものではない。どう答えたかは他の出席者にわかるから「よい」とは答えにくかったかもしれない。


菅新政権に課せられた本当の課題
 
だが2つのDIに大きな差が出た最大の要因は、対象の業種と規模の違いだ。日銀の短観調査の対象は大企業・中堅企業・中小企業、そして31の業種を満遍なく含んでいる。一方で即席調査はほぼ内需関連ばかり、しかも中小企業である。
 
リーマン・ショック後の日本の景気回復の特徴は強く外需、特に新興国の需要に依存している点だ。人口減の時代に入り、デフレが続く日本では、新しい市場を創り出すことはかなり難しい。国内の市場はゼロサムゲームで、一方が伸びれば他方が市場を奪われる構造だ。
 
一方で輸出競争力の強い製品を持つ企業は、外需の恩恵を被っている。1ドル=83円に迫る15年ぶりの円高水準は輸出企業にとってはマイナスだが、既に大企業は生産の現地化を進め、そのときどきの為替水準によって、柔軟に世界の生産比率を変えられる態勢を築きつつある。つまり多くの大企業は既に「国境を越えている」のだ。
 
リーマン・ショック以前にも外需につながった企業と、内需だけに依存せざるを得ない企業との間には差があったが、ショック後の景気回復過程では日本経済の外需への依存度が強まり、両者のその差はさらに開き二極化しつつある。2つの調査のDIの差は、二極に開いた外需型と内需型の差ではないだろうか。
 
14日の民主党代表選では、菅直人首相(党代表)が小沢一郎前幹事長を破り、再選を決めた。新体制の第1の仕事は1ドル=80円割れも視野に入った円高に、どう対処するかだろう。法人税の実効税率引き下げなど、企業を日本にとどめる政策を打ち出さないと、外需企業の国境越え=国内空洞化はさらに進む。
 
ただし課題はそれだけではない。本当の問題は内需だけに頼る多くの企業に、どう成長の道筋つけるかだ。新体制に突きつけられた課題は重たい。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010.9.14)

第47回 「日本製品=高品質」の原型を作った138年前の製糸工場

未だに創業当初の雰囲気を伝える繰糸場138年の歴史
 
2007年に世界遺産の暫定リストに登録された富岡製糸場(群馬県富岡市)を先日、見学した。日本初の官営工場として1872年(明治5年)に創業。その後民間に払い下げられ、1987年まで115年間操業を続けた、明治期の「殖産興業」政策を体現した工場である。

富岡製糸場の経営者は三井家、原合名会社を経たあと、1938年からは片倉工業になった。同社は1987年に操業停止した後も、富岡製糸場の建造物をそのまま維持し続け、2005年に富岡市に建造物を寄贈。現在は富岡市が管理し、100人弱の地元民が務めるボランティアガイドが見学者に解説をしている。
 
片倉工業の管理がよかったこともあり、建造物は今も創業当初のままだ。5万平方メートル強の敷地に繭の倉庫や、フランス人指導者のための住居などさまざまな建物があるが、中心は繭から生糸を繰る作業を担った繰糸場(そうしじょう)だ。
 
繰糸場の建物は幅12メートルで長さは140メートル。多くの繰糸器を置き、工員が働きやすくするため、柱がなくても屋根を支えられる「トラス構造」を採用した。電気がない時代に工場内を明るく保つため、採光のためのガラス窓を約200カ所、またサナギなどの臭いがこもらないよう屋根に蒸気抜きも設けた。
 
繰糸場には創業当初、フランス製の繰糸器(釜)を300台設置した。「当時、欧州で一番大きな製糸場でも繰糸器の数は150台だったので、世界で最大の繰糸場だった」(ガイドの神戸修身さん)という。できたばかりの明治政府の殖産興業への意気込みが伝わってくる話だ。


アーネスト・サトウが記した日本製生糸の質の低下
 
この富岡製糸場。大人500円の入館料を払えば、場内を自由に歩き回って見学できる。だがより深く知る、楽しむためには1時間置きに正門を出発するガイドツアー(無料)に参加するのがよい。今回、ツアーに参加して個人的に発見があったのは、明治政府が富岡製糸場を設けた目的についての説明を聞いたときだ。
 
生糸や蚕種が日本の最大の輸出品となったのは、1859年(安政6年)の横浜開港がきっかけだ。当時、欧州では蚕の伝染病である微粒子病がはやり、繭や生糸、蚕種までが極端に不足していた。
 
また生糸の大量輸出国だった清国はアヘン戦争などで、生糸の生産を大幅に減らし、需要国の要望に応えられない状態だった。そんな状況の中で、日本の品質が高い生糸や蚕種が注目を集めたわけだ。
 
横浜開港後の輸出総額に占める蚕糸類の比率を見ると、開港翌年の1860年には早くも蚕糸類が65.6%を占めている。5年後の1865年には、88.5%に達するまでになった。ところが蚕糸類の貿易が爆発的に広がる中で、国内では生糸や蚕種の粗製濫造、偽造が横行するようになってしまった。
 
「生糸には砂が混じっていたり、重い紙ひもで結わえてあったりするので(中略)良質品と信用するわけにはいかなかった。(中略)そんなわけで外国人の間に、『日本人と不正直な取引ものとは同意義である』との確信がきわめて強くなった」。幕末から明治にかけて日本に滞在した英国の外交官、アーネスト・サトウは『一外交官の見た明治維新(上)』の中で、当時の生糸貿易の実態についてこう記している。
 
ガイドの説明を聞いて意外に思ったのは、日本の生糸など蚕糸類の品質が一度は大きく低下したという事実だ。歴史の教科書では富岡製糸場の建設の目的は「輸出品の要であった生糸の品質改良と大量生産を可能とするため」などと書かれている。これを読んだだけでは、品質低下の事実はわからない。


製糸産業が作った自動車ニッポンの意味
 
明治政府は1870年(明治3年)に「官営製糸場設立の議」を決し、生糸の粗製濫造問題を解決し、良質な生糸を大量に生産するために、政府資本による模範工場を設立することを決めた。つまり富岡製糸場の目的の1つは、日本の輸出の要でありながら一度は評判が地に墜ち日本製生糸について、大量生産が可能な器械(きかい)製糸を導入することで再び品質を高め、世界からの信頼を取り戻すことにあったのだ。
 
こうした経緯で1872年にできた富岡製糸場は当初、10人のフランス人を雇い入れ、日本人に器械製糸技術を指導した。技術伝習生として15~25歳の若い女性が全国各地から集まり、彼女たちは器械製糸の技術を取得した後、それぞれの地元に戻り、指導者として活躍した。
 
品質の低下から明治初期にいったんは落ち込んだ蚕糸類の輸出は、富岡製糸場設立後に再び盛り返し、1909年(明治38年)には日本が中国を抜いて、世界一の生糸輸出国になる。そして大正、昭和初期まで、蚕糸類や絹織物は日本の輸出の大黒柱であり続けた。
 
製糸産業が繊維産業に広がり、さらにその繊維産業の技術を応用する中で、今の日本の柱である自動車産業が興ったことを考えると、製糸産業の勃興期に品質問題をいち早く解決した「富岡製糸場の意味」が見えてくる。
 
いま、「日本製品=高品質」というイメージは世界中に広く流布している。だが明治期に富岡製糸場がなければ、アーネスト・サトウが記したように、世界の日本製品に対するイメージは著しく低いままだったかもしれない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・8・3)

第46回 その数1000万人以上!? 地方で始まっている「買い物難民」の深刻

首都圏の県庁所在地でも例外ではない

「買い物難民」「買い物弱者」という言葉を頻繁に聞くようになったのは2000年代前半のことだ。当初は地方都市の商店街が、郊外型の大規模店との競争や不況により衰退し、高齢者が食料品や生活用品の買い物に困る現象を指していた。だが今や個人商店の撤退だけでなく、商店街の衰退の原因となったスーパーや大型ショッピングセンター(SC)の撤退によっても、同じ現象が起こったり、問題が深刻化したりするようになった。

群馬県前橋市で今夏以降、大型スーパーとショッピングセンターが相次いで閉店する。JR前橋駅前にあるイトーヨーカドーが8月に。そしてイオン傘下のマイカルが運営し、国道17号沿いにあるSC「前橋サティ」が10月に、店を閉じる。
 
首都圏の、それも人口34万人を超える県庁所在地ですら、多くの住民が「買い物難民」になる日が近づいているのだ。
 
両社とも閉店の理由に挙げるのが「近隣の大型SCや郊外型専門店との競合が激化して、収益が悪化した」点だ。


より大きな跡地に立った店舗が強くなるという構図
 
前橋市近隣では、2006年にイオンが「イオンモール高崎」(開業当時は群馬町=現高崎市)を開業。2007年には前橋駅の南側にユニーが運営する大型SC「けやきウォーク前橋」がオープンした。さらに今年12月には、群馬を地盤とするスーパーのベイシアなどが市南部の前橋南インターチェンジ(IC)周辺に県内最大規模のSCを開設する計画だ。
 
イトーヨーカドーの前橋店は1987年の開業で、元々は地元の老舗製粉会社の本社兼工場だった土地だ。前橋サティは93年の開業。グンゼが製糸工場を営んでいた土地をSCとして再開発した。直営店のほか、ファッションを中心に59の専門店がテナントとして入居しており、この地域ではSCの先駆けだった。
 
一方のけやきウォーク前橋は、2004年に大分県中津市に本社・工場を移転させたダイハツ車体(現・ダイハツ九州)の工場跡地に、開店した。売り場面積は約5万1000平方メートルで、約150店がテナントとして入居する。
 
製粉や製糸は明治から昭和にかけて、群馬を牽引した産業。一方、自動車は今も県経済を引っ張る中心的な存在。群馬における大型店の主役交代は、製粉、製糸という古い産業の工場跡地を再開発した中規模のスーパー、SCが、自動車工場跡地にできたより大型の施設との競争に敗れたという構図でもある。


規模の小さい店舗を閉めれば「難民」はさらに増える
 
個人商店が衰退したり、古いスーパーやSCが撤退しても、より安い、より品ぞろえが豊富で、より便利なモールや大型SCができればそれでいい、という見方もある。だがこうした見方に欠けるのは、車を持たない人や一人暮らし高齢者にとっては、郊外型のモール、大型店は使えないという点だ。
 
経産省は買い物難民の増加など地域の新たな課題へ対応するため、「地域生活インフラを支える流通のあり方研究会」を設置。その研究会が5月、日本の流通のあり方や発展の方向性についての報告書をまとめた。この報告書では、高齢者に対するアンケート調査などから、現在の買い物難民の数を約600万人と推計している。
 
日本は人口減の時代に入り、地方を中心に、高齢化はますます進む。仮に流通がいまの状態を維持したとしても、車を使えない高齢者が増え、日頃の買い物が難しい人は増えるだろう。流通各社が採算の観点から、イトーヨーカドーのように規模の小さい店舗を閉店して大型化を進めれば、買い物難民の数はさらに上乗せされるだろう。


一人暮らしの高齢者向け「ご用聞き」サービスも始まった
 
この問題を解決するには官、企業、住民の3者がそれぞれの立場から努力をすることが必要だ。
 
まず地元自治体。既に人口減や高齢化に悩む地方自治体の場合は、街の中心部に機能を集めるコンパクトシティ(街の規模の縮小)政策が盛んだ。だが前橋市のような首都圏や大都市近郊の場合は、いまだに郊外開発のウエイトが重い都市が少なくない。こうした自治体は街づくりの方向性を郊外への拡散から、中心への集中に、かじを切るべきだ。
 
国がすべきは規制緩和だ。先の研究会の報告書は、郵便集配車が買い物客も運ぶ英国の「ポストバス」の実例などを紹介している。郵便や宅配、バスやタクシーなど、日常の買い物や生活サービスにまつわる参入規制などで緩和できるものは相当あるはずだ。
 
企業がすべきは、買い物難民に着目した新事業への取り組みだ。群馬県大泉町では、商店街の5店舗が2月、買い物に困る一人暮らしの高齢者らを対象に「ご用聞き」サービスを始めた。書店、食品店、酒屋、洋服店が連携して注文を受け、無料で配達する。こうした取り組みは商店街生き残りの方策にもなるだろう。
 
各地でネットスーパー事業も始まっているが、現状ではパソコンなど情報機器に慣れない高齢者にとっては、使いやすいシステムとはいえない。だが米アップルコンピュータのiPad(アイパッド)の登場で、高齢者にも使いやすいシステムを開発するハードルはかなり低くなった。ぜひこうしたシステム開発を望みたい。住民にとって必要なのは何よりも「商店や公共交通機関は自分たちが支える」という意識だ。
 
人口が減る中では、買い物難民の簡単な解決策はない。官・企業・住民がそれぞれの立場から力を合わせることが不可欠だ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・7・7)

第45回 日本の消費を上昇させたいなら中国人観光客をもっと呼び込め

新しい家電の聖地池袋には中国人がいっぱい
 
6月に入った最初の週末、東京・池袋に冷蔵庫を買いに行った。パソコン関連やAV(音響・映像)機器などはネット通販で買うことが多くなったが、冷蔵庫は配送や搬入にも手がかかる商品。配送体制やアフターサービスがしっかりとした家電量販店で、しかもできる限り安く買いたいと考え、池袋を選んだ。

池袋は今、家電製品の価格競争が最も激しい場所のひとつだ。家電量販店最大手のヤマダ電機が2009年10月末に、池袋駅前の三越の跡地に約2万3000平方メートルの売り場面積を誇る「日本総本店」を出店した。
 
同社は既に2007年7月、LABI池袋店をオープン。以前から池袋に店舗を持つビックカメラとの「池袋家電戦争」が始まっていたが、日本総本店によりその戦いはさらに激しくなった。その分、消費者としては、同じ商品を他の場所よりも安く購入しやすいと考えたのだ。
ヤマダ電機の日本総本店とビックカメラ池袋本店の間を往復すること数度。結局、価格比較サイト「価格コム」の最安価格よりさらに安い価格で冷蔵庫を購入できて満足したのだが、両店舗をくまなく回るうちに感じたのが、中国人観光客の買い物パワーだ。
両店のどの階でも、中国人観光客とおぼしき人たちの中国語が耳に入ってくる。両手に余るほどの荷物を抱えた人たちにも数多く出会った。店舗側も中国語の表記を増やすなど、その対応を強化している。


平均月収以上に買い物をする中国人観光客
 
中国人観光客が買い物パワーを発揮しているのは池袋だけではない。「電気の街」として知られる東京・秋葉原。同地区の年間売り上げは3000億~4000億円だが、既にそのうちの1割程度が中国人観光客によるものだという。百貨店にも中国人観光客が押し寄せ、日本人の消費不振を補う効果を発揮し始めている。
 
日本政府観光局が調査した、日本を訪れた外国人の消費額調査によると、中国本土から日本に観光に来た人はお土産に平均11万7000円を使っている。その額は欧米各国の2倍以上。会社勤めする中国人の平均月収が7万~8万円程度であることを考慮すれば、いかに中国人が日本で買い物に力を入れているかがわかる。
 
中国の経済発展とともに、日本へやってくる中国人観光客の数も増え続けている。2009年に訪日した観光客は前年比6%増の48万人。リーマン・ショック後の世界不況の影響で、ほとんどの国が観光客を減らしているにもかかわらずだ。国別では米国を抜き、韓国、台湾に次ぐ第3位になった。
中国人にとって「メード・イン・ジャパン」の信頼感は絶大だという。加えて、日本で買う場合は偽物が少ないというのも、中国人が日本で積極的に買い物をする理由だろう。


茨城空港に来る中国人観光客を狙う草津の湯
 
中国人観光客を呼び込もうとする動きは、観光地でも始まっている。
 
中国の格安航空会社、春秋航空(上海市)は6月初旬、7月末をメドに茨城空港(茨城県小美玉市)へチャーター便を就航させることを決めた。日中両国の認可を得れば早期に定期便に切り替える計画だ。茨城空港はターミナルビルを低コスト構造にし、格安航空会社に絞った路線誘致に力を入れおり、その活動が実った形だ。
 
春秋航空の就航によって増えるだろう中国人観光客に熱い視線を送るのが、群馬県の草津温泉だ。2011年春には茨城・栃木・群馬の各県を結ぶ北関東自動車道が全面開通し、群馬県からは茨城空港へのアクセスが飛躍的に向上する。
草津温泉旅館協同組合(草津町)は「健康に対する関心が高まっている中国人に泉質の良さを訴える」と、中国向けの営業を強化する。また群馬大学の重粒子線医学研究センター(前橋市)がこのほど「がんを切らずに治せる」治療法、重粒子線治療を始めたため、これと連携したツアーの開発も検討している。


ビザ緩和で中国人の1600万世帯が日本に来る?
 
東京など一部を除き人口が減る時代に突入したいま、地域の活力を維持・強化するには、今まで以上に地域外から訪れる人の数(交流人口)を増やすことが重要になる。
 
ただ国内で日本人だけを対象に競争していては、市場は広がらない。この不況の中、一人当たりの旅行支出額が急に増えることはないからだ。どこかの観光地が客数を増やせば、逆にどこかが減らすという「ゼロサムゲーム」が続く。
 
だが経済発展が続く中国人向けは別だ。中国人の日本観光は2000年から団体観光として実施。中国人への団体観光ビザの発給数は年々増えてきた。
 
さらに日本政府は2009年7月、年収25万元(約330万円)程度の富裕層を対象に個人観光ビザの発給を開始。今年7月からはビザの発給条件を大幅に緩和し、企業や政府などの中堅幹部ら中間層に対しても発給する。外務省はビザ緩和で、発行対象がこれまでの10倍に当たる1600万世帯に増えると見込む。
大幅に増える中国人向けに、いかに実のあるサービスを提供できるか。しばらくは日本の消費が上向きそうもない中で、このことが小売業や観光業の中で、重要なキーワードとなりそうだ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・6・9)

第44回 iPad発売を前に書類スキャナが売れる日本の電子書籍市場の不思議

1年以上前に売り出された商品が今になって売れ始めた
 
米アップルは5月28日、多機能情報端末「iPad(アイパッド)」を日本国内でも発売する。先行する米国では4月初旬に発売、4週間で100万台以上を販売した。日本でも10日の予約開始時には量販店に行列ができ、大ヒット間違いなしと言われている。

そして、このiPad発売を前に、ひそかに売れ行きが伸びている"旧商品"がある。PFUが2009年2月に発売したドキュメントスキャナ「ScanSnap (スキャンスナップ)S1500/1500M」である。両製品はハードウェアは同じで、S1500がウィンドウズ、同Mがマック向けだ。
 
ScanSnapはA4までの用紙の両面を連続でカラーで読み取ってPDFやJPEG形式でパソコンに保存するものだ。その最大の特徴は毎分20枚・40面の高速読み取り。実際に書類などを読み取ってみると、机の上にあふれた書類などを、さくさくと電子化できることが実感できる。
 
元はオフィスの文書の電子化を念頭にした製品だが、個人利用者の中には、書籍の電子化に利用する人も多い。通常の文庫本なら裁断後2~3分程度でPDFファイル化できる。付属のソフトでOCR(光学式文字読み取り)もかけられるので、できあがったPDFファイルは、自在に検索できる。これは紙の本にない利点だ。


読み取り機と一緒に売れる裁断機
 
さらにできあがったPDFファイルを、Dropboxのようなオンラインストレージサービスを利用して「クラウド」上に収めておけば、家のデスクトップでも、オフィスのノートでも、さらにiPhoneなどのスマートフォンでも閲覧可能だ。1冊の本をこのように使えるのは"電子書籍"ならではだ。
 
ScanSnapとともに、「裁断機」というニッチ商品もにわかに注目を浴びている。文庫本1冊程度ならカッターで切ることも可能だが、手持ちの本を片っ端から電子化しようとすると、荷が重い。そこで普通のコピー用紙などを160~180枚を、手軽くきれいに裁断できるプラスの裁断機「PK-513L」といった商品が急に売れ出した。
 
こうした自前で書籍を電子化する技術は「自炊」と呼ばれ、今になって確立されたものではない。ScanSnapの初代機が発売されたのは2001年7月。読み取りの速度など性能は格段に上がっているが、原理そのものは当時と変わらない。ScanSnapは昨年末までに累計100万台も売れた製品だ。それがここへ来て広く注目を集めるきっかけになったのが、iPadの発売なのだ。


日本で電子書籍販売サービスが実施されない理由

「大きなiPhone(アイフォン)」とも揶揄されるiPadだが、期待されている最大の機能は電子書籍だ。基本ソフト(OS)がiPhoneと同じなので、iPhoneのソフトやサービスがそのまま動き、操作方法もほとんど同じだ。一方で携帯電話網を使った通話はできず、680グラムという重さから携帯する音楽端末としても向かない。
 
ただし画面は大きい。9.7インチのLEDバックライトディスプレーを備え、解像度もXGA(1024×768ピクセル)と通常のノートパソコン並だ。9.7インチといえばA5版に近い大きさで、文庫本よりは重いものの、ネットブックや携帯電話、iPhoneなど、これまでの端末類よりは電子書籍を読むのにははるかに適している。
 
米国などでアップルは電子書籍販売サービス「iBookstore(アイブックストア)」を用意し、既に150万本以上の電子書籍がダウンロードされた。だがアップルは今のところ、日本ではiBookstoreを用意するとは表明していない。
 
背景には、出版業界が電子書籍の普及に慎重だったことがある。権利関係の複雑さもあり、アップルが音楽配信サービス「iTunesミュージックストア」のように、多くの書籍を配信するのには、さまざまな壁があると見られている。


新しい協会の役割は「いかに自分たちの権利を守るか」?
 
iPad発売を前に、講談社が京極夏彦氏の新作ミステリー小説をiPadで配信することを表明したように、多くの出版社が電子書籍を手掛けようとはしている。だが個々の会社がバラバラにさまざまなフォーマットで電子書籍を試行的に配信しても、利用者にはあまりメリットがない。
 
ScanSnapが売れ出したのは、こうした「日本では統一的な電子書籍の配信が容易には進まない」ということを見越した動きなのだ。確かに裁断やスキャンなどの手間はかかる。だがその手間さえ惜しまなければ、書籍が場所にとらわれず読める、検索できる、本で専用されていた部屋が片付く――――などさまざまな利点を享受できるのだ。
 
ただスキャナを使い自前で電子化した書籍は、違法コピーで元の書籍も持っていなかった人にも簡単に手渡せてしまう。実際にコミックなどは、アングラで、しかも規模の大きい違法コピー市場が存在している。
 
日本の出版業界は2月、電子書籍対応技術の標準化などを進める「日本電子書籍出版社協会」を設立した。ただ関係者の発言を読むと、いかに自分たちの利益を守るかにウェイトがあり、利用者に利点がある電子書籍流通の仕組みを作る方向性が感じられない。
 
今の書籍でも、出版社には元となる電子データが存在する。それなのに利用者がいったん紙の本になったものをスキャンして再び電子化しなければならない日本。そこに日本の出版業界の遅れが凝縮されている。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・5・25)

第43回 グローバル時代にこそ必要な「ローカル性」という名の視点

なぜ山間部の温泉地でマグロの刺身が出るのか
 
関東近郊の有名な温泉地に泊まったおり、ふと違和感を抱いてしまうことが多いのが、夕食のメニューについてだ。前菜から始まり、主菜はマグロのお造りやエビの天ぷら。最後はそばや御飯ものでしめる。

もちろん、そうではない、地元産品にこだわった食事を提供する旅館やホテルもあるのだが、主流は先に書いたような「海のもの」をメーンに据えた宴会料理である。
 
海沿いの温泉街だったら大いに海のものを食べたいが、どうして海から遠い山間部の温泉地でも、マグロの刺身など海のものを主菜扱いで出すのか。宿泊施設側に「温泉の宴会料理とはこういうもの」という概念が染みついているのではないか。なぜ「地産地消」をもっと進めないのか。そういった疑問を持ってしまうのだ。
 
群馬県内の温泉に宿泊したとき、「マグロの刺身など海のものに頼らず、もっと地産地消にこだわった料理を提供するつもりはないのですか」という問いを、温泉関係者にぶつけたことがある。
 
するとその関係者は「うーん」と少し考え込んだ後、「今日も、マグロの刺身は出しますよ。やはり、マグロがないとさびしいという声が多いですから」と答えてくれた。
 
関東の山間部の温泉地がマグロなど海のものにこだわる理由の1つは、宿泊客の一定割合を占める地元客が「海のものを求めるから」だという。


地元民には支持されていても観光客には不満
 
総務省統計局が、一般勤労者の生活状態を客観的に把握するために実施している「家計調査」。この家計調査で、食品別の1世帯当たり購入ランキング(2006年から2008年の平均)を見ると興味深いことがわかる。
 
鮮魚全体の購入量の上位5位に入るのは、青森市、鳥取市、金沢市など海沿いの町ばかりだ。
 
一方、マグロのみの購入量を見ると、1位こそ、マグロの産地である静岡市が入っているものの、上位5位には甲府市、前橋市、宇都宮市という海なし県の県庁所在地が3つも入っているのだ。
 
静岡県民が産地だからこそマグロの購入量が多いのに対し、山梨、群馬、栃木県民は「海から遠いからこそのマグロ好き」といえるだろう。温泉地の宿泊客に、同じ県民がいることを考えれば、先の温泉関係者の「マグロがないとさびしいという声があるからマグロを出す」という話はある程度、納得がいく。
 
ただ観光庁の宿泊旅行統計(2008年)を見ると、「観光目的宿泊者数に占める地元居住者比率」は群馬県も栃木県も2割弱だ。海のもの中心のメニューは、全体の2割弱の地元民には支持されていても、東京など他地域からやってきた人たちには、あまり支持されていない可能性が高い。
 
実際、東京など全国各地から宇都宮、前橋、高崎など関東の近郊都市に赴任した大企業の支店長クラスに話を聞くと「栃木や群馬の温泉地は、どこも同じような海のものを使った宴会料理を出している」と不満を漏らす人が多い。


地産地消は当然の結果
 
観光客の「地産地消」志向が急速に進んでいるのには、いくつかの背景がある。
 
1つには、食のグローバル化、均一化が進み続けていることだ。例えばマクドナルドの店舗は2009年6月現在、世界118の国と地域に約3万店舗ある。国内でもマクドナルドの店舗がない市を探すことは難しいだろう。
 
東京やニューヨークなどの大都市では、世界の主だった料理のほとんどを食べることができる。こうしたグローバル化、均一化が進んだ時代だからこそ、「ここの土地でしか食べられない」という地場食材やそれを使ったメニューの価値が上がっている。
 
もう1つは、国内の観光がバブル崩壊以降、団体客中心から個人客中心にに大きくシフトしたことだ。団体客ならば画一的な宴会料理でがまんできても、個人客はそれぞれが独自の料理を求める傾向が強い。
 
国内の観光・旅行事情に詳しい清水慎一JTB常務取締役は「国内の観光は大きく変わった。施設中心のやり方が通じなくなり、今はその土地の暮らしそのものが観光資源の時代になった。食については地産地消は当然のことで、観光客は土産物も地場産品以外のものは買わない時代になった」と指摘する。


グローバル化が進むからこそローカルが求められる
 
一般に、グローバルな競争は世界の市場や価値体系を均一化して、一握りの勝者と多くの敗者を生むといわれる。スマートフォン市場で、iPhoneのアップルが快走する一方で、日本の携帯電話メーカーが苦戦する現状は、グローバル競争の典型例だろう。
 
一方でグローバル化が進めば進むほど、ローカル性への要求が強くなる分野もある。グローバル競争の勝者が限られるのに対し、ローカル競争では「小さな勝者」がたくさん生まれる。「食」こそ、そうした分野の1つだ。
 
ただ「小さな勝者」になるには、自らの地域(ローカル)の強みをいかに活かすか、徹底して考える必要がある。画一的な宴会料理を出し続ける関東近郊の温泉旅館の多くは、まだその作業が欠けているように思える。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・4・14)

第42回 日本有数のイベント「おきゃく」という名の接待祭りに見るパワー

ふだんは閑散としたアーケードが人また人
 
その光景は壮観だった。普段は人通りもそれほど多くはない商店街のアーケードが人で埋め尽くされ、前に進もうとしてもなかなか真っすぐに歩けない。

あちこちでビールを飲み、杯を傾ける歓談の輪ができている。そして知り合いが通るとすぐに「よってき、よってき」といって、輪の中に引きこんでしまう。そうやっていつの間にか、知らない人たちとも、昔からの知り合いのように飲んでいる――。
 
これは3月13、14日の両日、高知市の中心商店街で行われた「日本一の大おきゃく」での光景だ。6日から14日まで行われた、高知の春を彩る音楽や飲食のイベント「土佐の『おきゃく』2010」のトリを飾る催しである。
アーケード約1キロを7つのエリアに分け、午前11時から午後10時まで、食や音楽にからんだテーマイベントを同時多発的に開催。ジャズの生ライブを聴きながら、地産料理を味わうことがもきれば、土佐のお座敷遊びを体験できる場所もある。夜遅い時間まで、アーケードには人が途切れることはなかった。
「おきゃく」とは、土佐でお祝い事や祭りなどで人を招いて家で開く宴会のこと。現在放映中のNHKの大河ドラマ『龍馬伝』の初回で、大森南朋が演ずる武市半平太が結婚式の祝宴で酔いつぶれる場面が出てきたが、この宴こそ、おきゃくだ。


昔からある接待文化を復活せよ
 
土佐のおきゃくが他の地域の人が自宅で開く宴会と趣が異なるのは「まあ、入ってきいや」といった感じで、参加者全体の知り合いでなくても、ときには見知らぬ人でも気軽に加わってしまうことだ。
 
見知らぬ人を客人としておきゃくに受け入れ楽しんでもらうことが、自分たちにとっても楽しみである、という文化が土佐人には根付いている。
 
土佐だけではなく四国にはもともと、四国八十八箇所を遍路している人に、食べ物やお賽銭を差し出しす「お接待文化」がある。土佐のおきゃく文化は、そうした風土のうえに、さらに土佐人の酒好きなところやオープンな気性が重なって、発達したものだろう。
かつては結婚式など祝い事のたびに開かれていたおきゃくだが、最近は自宅でこれらの催しを開く機会が少なくなり、土佐でも「おきゃく」という言葉を聞く機会が少なくなっていた時期もあった。
 
それが復活するきっかけとなったのは4年前、土佐経済同友会や特定非営利活動法人(NPO法人)など民間が主体となって「土佐のおきゃく2006」を始めたことにある。当時、土佐経済同友会の岡内啓明代表幹事は「昔のおきゃく同様、自分たちも楽しみながら、観光客にも楽しんでもらおう」と、その狙いについて話していた。
高知には、夏には全国的な知名度を誇るよさこい祭りがあり、桂浜や四万十川など春夏に向いた名所が多い。だが冬には目立った催しがなく、観光客数もほぼ春夏の半分にとどまっていた。もともと「土佐のおきゃく」はこの観光閑散期の目玉事業として育てたい、という狙いから始まったものだ。


製造品品出荷額全国最下位の現実もパワーに変える

高知の経済人達が当初「土佐のおきゃく」のモデルとしたのは、石川県で1985年に始まった、石川の食文化とそれを育てた風土を満喫できるイベント「フードピア金沢」だ。初期の土佐のおきゃくの中心イベントで、高知ゆかりの著名人を招きホテルや旅館で開くトークディナーショー「土佐の食談」は、フードピアで成功している形式をそのまま「輸入」したものだ。
 
だが土佐のおきゃくも回を重ねるにつれ、高知の独自性が色濃くなっている。冒頭の「日本一の大おきゃく」は2009年から始まったもの。高知市内には、テーブルが並ぶオープンな飲食エリアで真っ昼間から男女を問わず酒を飲んでいる「ひろめ市場」があるが、大おきゃくは、それを商店街全域に広め、さらにイベントの集中的な開催で、パワーアップしたような催しだ。
 
昨年は最終日1日だけの開催だったが、昨年の成功を受けて、今年は2日連続の開催。両日とも商店街は人があふれていた。県外からやってきた男性観光客は「だれとでも友達になってしまうような、この雰囲気がいい」と話す。
 
高知もイベントの喧噪から一歩離れれば、市内中心部にある高知西武百貨店跡地に計画中だった商業ビル建設の計画が頓挫し、結局はパチンコ店と商業施設が入る複合ビルが建設されることになるなど、あまり明るくない話が多い。経済指標の1つである「製造品出荷額」では全都道府県の中で最下位が続く。それだけ地域経済はせっぱ詰まっており、観光にかける意気込みは強い。
今年の人出は、大河ドラマ『龍馬伝』が放映中で、県内各地で「土佐・龍馬であい博」を開催中ということもあるだろう。ただ大おきゃくをはじめ「土佐のおきゃく2010」には、「来てくれた人たちにとことん楽しんでもらおう」という迫力さえ伴った「もてなしの心」を感じた。その精神は、どんな地域でも、人を呼び込もうとするときに参考になるものだ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・3・16)

第41回 「新興国への輸出増で回復」にひそむ死角

群馬県では残業や休日出勤も復活した
 
株式市場はここのところ、米オバマ政権の金融規制強化案や、ギリシャなど一部欧州諸国の債務問題への懸念から、弱含みの相場が続いている。ただ日本の実体経済を表す指標では、久々に明るい兆しが見え始めた。

内閣府が15日に発表した2009年10~12月期の国内総生産(GDP)の速報値は、その筆頭だろう。物価変動の影響を除いた実質GDPは前期比1.1%増、年率換算では4.6%増と、3四半期連続で増えた。輸出や個人消費が伸び、さらに設備投資も7四半期ぶりに増加に転じたからだ。
 
地方の現場を歩いていても、明るい話題をちらほらと耳にするようになった。
 
自動車大手、富士重工業が唯一の国内自動車製造拠点を置く群馬県太田市。ステーションワゴンを中心とした「レガシィ」シリーズ、小型の多目的スポーツ車(SUV)「フォレスター」など4車種を生産する群馬製作所の矢島工場(太田市)はいま、活気にあふれている。残業や休日出勤を伴った「フル稼働状態」に戻ったからだ。
 
2008年秋のリーマン・ショック後、急速に悪化する雇用問題の象徴となった自動車各社の非正規社員。富士重も08年12月初めの時点では期間従業員や派遣社員など非正規社員が1800人いたが、世界的な自動車販売不振により一時は400人にまで削減していた。
 
だが自動車販売が復調軌道に乗り、09年9月には期間従業員の採用を再開。今年1月以降は900人にまで増やした。「うちの場合は、北海道や東北から広く期間社員を集める仕組みができている。今回も、経験者など質の高い人材がすぐに集まった」と富士重の担当者は話す。


生産台数は横ばいでも販売先が変わった
 
太田市内で活気が感じられるのは、富士重だけではない。年初に行われた市内の機械金属中小企業の新年会には、これまでで最も多い人数が集まった。
「『コスト削減圧力が強い』といった不満を漏らす人は多かったが、1年前の『仕事がない』という状況に比べればはるかにまし。会に人が集まるのは、中小企業の元気が回復してきた証し」と出席者の1人はみる。
 
太田市の製造品出荷額に占める輸送機械の比率は約65%と、文字通り自動車産業が市を支える。
 
また坂本工業やしげる工業といった富士重の1次下請けだけでなく、市内の自動車関係中小企業のほとんどは何らかの形で、富士重と関係している。富士重の回復が、太田市周辺の中小製造業を元気にしているわけだ。

 
富士重がこのほど発表した09年4~12月期決算を検証すると、興味深いことに気づく。富士重の2009年3月期の販売台数は55万5300台、10年3月期の計画販売台数は56万台とほとんど変化しない。前期は下期が失速、今期は上期が低調だったため、通期ベースで見ると販売台数はほぼ同じとなる見通しだ。
 
変わったのは、販売先だ。前期に比べ今期は欧州・ロシアが約4万台も減る(51%減)見込みなのに対し、米国が3万7000台増(20%増)、中国が2万3000台増(88%増)となる見通しだ。
 
富士重の場合、生産拠点は群馬製作所と米国のインディアナ工場の2つ。レガシィなど北米向けの約半分はインディアナ工場で、残りは群馬製作所で生産している。
 
そのため群馬製作所の生産分で、最も伸びたのは「中国向け」。欧州・ロシア分が半減し、国内向けも8000台減(4%減)となっているので、相対的に中国向けの比率が高くなっているのだ。先ほど説明した太田市の産業構造を考えると、群馬製作所だけでなく、太田市の製造業全体も、中国への依存度がじわり高まっているわけだ。
 
富士重を含む日本の乗用車7社の2010年3月期の業績見通しを見ると、特に日産自動車やホンダの回復度合いが大きい。これも富士重同様、中国や新興国への輸出が伸びているからだ。日本の製造業全体でも、中国や新興国での需要開拓に成功した企業ほど、利益の伸びが大きい傾向がある。
 
上場企業の09年4~12月期決算でも、アジアなど新興国の事業をテコに収益を改善させた企業が相次いだ。3月期決算企業(金融、新興市場を除く)の10年3月期経常利益は2期ぶりに増益になりそうだ。


現在は知識集約型産業を立ち上げるための猶予期間
 
2007年秋以降の米国初の世界金融危機の後、中国など新興国の経済も同時に失速したため、新興国は先進国経済の落ち込みの影響を受けずに成長するという「デカップリング(非連動)論」は否定された。だが09年春を底にした景気回復過程では、新興国に比べて、日米や欧州など先進国は景気回復の勢いで見劣りし、再びデカップリング傾向が鮮明になりつつある。
 
ただ日本経済が中国など新興国の成長を取り込むことができれば、安心というわけではない。製造業は常に、相対的にコストが安い国に仕事が奪われる危険性を秘めており、いつまでも「中国・新興国への輸出」で稼ぎ続けられる保障はまるでないからだ。
 
いま太田市が元気を取り戻しつつあるのも、富士重の規模が他の自動車大手に比べ相対的に小さく、中国での現地生産を行わず、日本からの輸出のみで対応しているからという側面もある。富士重が中国で現地生産するようになれば、太田市の経済にはかなりのマイナス要因になるだろう。
 
今よりもさらにコスト競争力を高めること。自動車産業が海外に出ていったときに部品点数の多い産業構造を行かせる代替分野――ロボット産業――などを育成すること、ものづくり以外で日本が勝てる知識集約型の産業を早急に立ち上げることなど、日本経済が取り組むべき課題は山積している。「中国など新興国への輸出で急回復」している局面は、課題に取り組むべき「猶予期間」を与えられたと考えた方がいい。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・2・16)

第40回 地方を衰退させたのは「小泉・竹中の構造改革路線」か?

小泉政権下で減った公共事業費の実態
 
地方の現場を歩いていると、2001年4月から2006年9月まで5年半近く続いた「自民党の小泉(純一郎)政権が地方を衰退させた」という声をよく耳にする。1月に筆者が出席したある地域の経済団体の新年会でも、商工会連合会のトップがこんなあいさつをした。

「小泉・竹中(平蔵氏、小泉内閣で経済財政担当相などを務めた)ラインによる構造改革路線が、地方をめちゃくちゃにした。今は『地方の時代』といわれるが、その現状は惨憺たるものだ」
 
彼はこの話をまくらに、本題の商工会改革に話をつなげていった。だが地元選出の自民党議員が来賓として呼ばれている場所での発言だけに、本題より冒頭の小泉政権批判の方がインパクトが大きかった。
 
地方の経済団体首脳や地方企業のトップ、あるいは自治体首脳などからあがる小泉政権時代への怨嗟(えんさ)の声。確かに当時の状況を振り返ると、そうした声を上げたくなるのもわからなくはない。
 
最もヤリ玉に上がることが多いのは公共事業費の削減だ。
 
2001年度の当初予算案では、公共事業費は9兆4335億円。だが小泉政権下では初の予算編成となった02年度は10.7%減の8兆4239億円となり、過去最大の減少幅になった。以後、毎年数パーセントずつ減り続け、小泉政権では最後の予算編成となった06年度には、7兆2015億円にまで減った。5年間の減少率は24%。さらに補正予算後の公共事業費を見ると、01年度の11兆3000億円から06年度は7兆8000億円と31%も減っている。


地方にばらまいても地域経済への貢献は一時的
 
もう1つ不評なのが、小泉政権による構造改革の目玉となった「国と地方の税財政改革(三位一体改革)」。本来は、(1)国庫補助負担金の廃止・縮減(2)税財源の移譲(3)地方交付税見直し――の3つを一体的に行う予定だったが、(1)と(2)は遅々として進まず、交付税の削減が先行したため、04年度には予算が組めず、基金の取り崩しや管理職の給与カットなどでしのいだ地方自治体が相次いだ。
 
しかし詳しく検証すると、地方から上がる「小泉政権が地方を衰退させた」との主張のかなりの部分が的外れであることがわかる。
 
まず公共事業。問題はむしろ、小泉政権より前の公共事業の増加なのだ。
 
バブル経済の崩壊後、政府は景気刺激を目的に公共事業を主体とした財政支出を増やしてきた。特に小渕恵三内閣(98~2000年)は、98年11月に補正予算規模7.6兆円と、当時としては最大の「緊急経済対策」を実施した。この結果、98年の補正予算を含む公共事業費は14兆9000億円と空前の規模に膨らんだ。
 
もちろん必要度の高い道路やトンネルをつくる公共事業は必要だ。だがバブル崩壊後の公共事業は、むしろ「地方に一時的な雇用を生み出す」ことだけが目的の事業が多かった。
 
この当時、地方には公共の文化施設など立派な建物がいくつもできた。だがこれらは建設中のみ雇用が増えるだけで、建設が終わったあと、地域の経済活動をさらに促進するような効果はほとんどない。
 
小渕政権時の「緊急経済対策」のような大型景気対策と実質GDP(国内総生産)の変化を照らし合わせてみても、両者の間に明確な因果関係はない。2000年代に入り、日本経済が復活したのは、公共事業によってではなく、為替の円安基調をベースに、自動車や電機などの輸出産業が急速に回復したからだ。


地方交付税の仕組みにも問題
 
高度成長期のように、日本経済全体のパイが大きくなりつつあるときには、公共事業費を増やすこともできる。だが低成長経済の下では、公共事業費の増大は財政赤字を増やすだけだ。日本の債務残高が急速に増え出したのは、バブル経済崩壊以降のことだ。
 
小泉政権はこうした状況を解決するために、公共事業費の大幅な削減を実施した。そもそも公共事業を「注入」し続けないと維持できない地方経済が問題なのであり、公共事業削減を「衰退」の原因とするのは間違いだ。
 
地方交付税についても、制度そのものに大きな問題点がある。この制度は、地域の活性化を実現し生産・所得が増えても、その分だけ交付税は減らされる。逆に衰退が進めば進むほど、配分額が増える仕組みだ。
 
そのため土居丈朗・慶大経済学部教授は「交付税への依存が強い自治体では、地域経済を自発的に活性化する努力が報われず、結果的に地域経済を低迷させている」(日経ヴェリタス 
2009年6月14日号)と指摘する。


結局怨嗟の声を上げるのは既得権益者
 
地方分権を進めないまま交付税の削減を急いだ小泉政権に手法の問題はあったが、交付税に頼らない地域をつくるという方向性そのものが間違っているわけではない。
 
実は疲弊した地域経済を立て直したり、地方で新たな雇用を生み出したりした人たちを取材していると、冒頭のような小泉・竹中路線を非難する声は聞こえてこない。
 
徳島県上勝町で「葉っぱビジネス」を成功させた彩(いろどり)にしても、四万十川の中流域でさまざまな地域発商品を開発した四万十ドラマ(高知県四万十町)にしても、公共事業や補助金とは無縁のところから生まれた事業だ。国や自治体に「何かをしてもらう」という発想は、彼らにはない。
 
小泉政権が地方を衰退させた――。こうした声の中心にいるのは結局、構造改革でマイナスの影響を受けた既得権益者ではないだろうか。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・2・1)

第39回 2010年は新興市場への投資が始まる!?

1年でわずか19社しか上場がない新興市場
 
2009年末、十数年来の知り合いであるジャスダック上場企業の経営者に会って、話を聞いたときのことだ。
 
彼は最近の新興企業を取り巻く状況の厳しさに触れた後で、「日本でベンチャーを再び元気にするには、現在いくつもある新興企業向けの証券市場を統合するなどして、新興企業にリスクマネーを供給する仕組みを再び機能させないといけない」と訴えていた。

確かにこの社長が指摘するように、2009年は日本で新興企業に成長資金を供給するための仕組みが、半ば「機能不全」に陥ってしまった年だったかもしれない。
 
1年間で新規株式公開(IPO)した社数は、2008年より30社も少ない19社。これは新興企業向けの3市場(ジャスダック、東証マザーズ、ナスダック・ジャパン=現・大証ヘラクレス)が出そろい、過去最高の社数だった2000年の206社と比べると、実に10分の1以下の水準だ。
 
2009年に上場した19社が上場時の公募増資で調達した金額は合計で300億円あまり。「ネットバブル」と騒がれた2000年当時、仮想商店街を手掛ける楽天1社がジャスダックに上場したときの調達額(495億円)にすら届かない数字だ。
 
「2008年秋のリーマン・ショックをきっかけに、世界中の金融がまひしさまざまな需要が急減する『100年に1度の不況』があったのだから仕方がない」という見方もあるだろう。だが世界が同時不況に陥ったにもかかわらず、世界各国の市場でのIPOは年後半から回復し、日本よりずっと盛んだった。


リーマンショック後の回復から大きく出遅れた日本市場
 
トムソン・ロイターの調べによると香港、上海、深センの中国3市場のIPOによる資金調達額は700億ドル(約6兆3000億円)、ニューヨーク証券取引所が335億ドル(3兆150億円)、ナスダックが121億ドル(1兆890億円)といずれも日本より2ケタも多い。
 
日本のIPO市場だけが特に機能不全に陥ってしまったのはなぜか。
 
日本特有の理由の1つは、2006年1月のライブドア・ショック後、ライブドアをはじめとした新興企業を巡る不祥事や、上場直後の業績下方修正などが相次いだことだ。これに伴い、新興市場を運営する取引所などが上場審査を厳格にした。
 
ライブドア・ショックの2006年には188社だった新規株式公開の数は、121社(07年)、49社(08年)、19社(09年)と右方下がりで減り続けた。
 
上場前には無理をしてでも収益の右肩上がりを続け、上場直後に下方修正を繰り返すような質の悪い新規公開企業が、振るいにかけられたことは確かだ。だが成長資金を必要としていて、資金調達できれば成長が加速できそうな会社まで新規株式公開が難しくなっている面もある。
 
もう1つの理由は、2009年に限ってみれば、世界の多くの株式市場がリーマン・ショック後の底値から大きく回復したのに対し、日本市場は大きく出遅れたことだ。
 
さらに日本市場の2009年のエクイティファイナンス(新株発行を伴う資金調達)は総額5兆円超と、歴史的な高水準になった。既に上場している銀行や大手メーカーが立て続けに大型増資したことも、新規公開企業にとっては逆風だった。


そこそこ稼げればよしとするのか!
 
日本での新規株式公開がとても難しいものになってしまったことは、起業家にも強い影響を与えている。起業から上場への距離が遠くなってしまったことで、若手起業家の中では「目立たず、人を増やさず、そこそこ稼ぐことをよしとする人が増えている」(20代の企業経営者)ともいう。
 
冒頭のジャスダック上場企業の社長と会ったとき、社長は「十数年前(1990年代後半)にも『ベンチャーに成長資金を』という、同じような話をしていたよね」といって、ため息をついた。
 
1990年代後半といえば、新興企業向けの株式市場はジャスダックしかなく、しかも今よりも実質的な上場基準が厳しかったために、上場する会社は設立してから20年以上たった中堅企業がほとんどだった。
 
当時の日本は若い会社にリスクマネーを供給する担い手や仕組みを欠いていた。98年の通商白書は「新規産業を担うベンチャー企業に円滑にリスクマネーが供給されるべきだ」と主張。こうした認識が、その後の新興企業向け株式市場の整備につながっていった。
 
だがそれから10数年がたち、再び「ベンチャーに成長資金を」という主張をしなければならないのには、ある種の徒労感を伴う。
 
ただ10数年前と異なるのはリスクマネー供給のための「仕組み」は既に一通りあり、あとはその運用の仕方をどう工夫するかにかかっている点だ。
 
幸い2010年の日本の株式市場では、外国人投資家の見直し買いが続き、世界の株式市場における日本株の出遅れはかなり解消しつつある。目立つ起業家は減ったとはいえ、起業家そのものの層は厚みを増している。
 
2010年は新規株式公開をはじめとして、新興企業に成長資金が供給される仕組みが再び動き出す年となることを期待したい。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・1・19)

第38回 「口利き」は姿消せども「ばらまき」はやまない日本という国家

予算の決まり方が見えなくなった!
 
一時は「年内に決まるのだろうか?」と危ぶまれていた2010年度予算案は、政府が昨年12月25日に閣議決定した。結果をみれば、スケジュールはほぼ例年通り。だが自民党・公明党連立の自公政権から民主党連立政権へと交代したことで、その予算の決まり方は様変わりした。

常に、国の予算案の動向を注視している地方自治体。従来は、国が政府予算案が決まったその日に、都道府県は道路やダム、補助事業など、それぞれの地域に関係する政府予算案の状況をまとめ、地元マスコミなどに向けて詳細な資料を発表するのが常だった。自治体の財政部局が、それぞれの省庁の担当者と頻繁に連絡をとりあい、関係する予算がどうなるかを継続して把握しているためだ。
 
ところが今年は、資料を出してはみたものの決定額が抜け落ちていたり、大項目はわかっても「詳細については不明」だったりする自治体が多かった。予算編成が「政治主導」になった結果、省庁の担当者が把握できる部分が減り、「予算の決まり方が見えなくなってしまった」(ある県の幹部)からだ。
 
もう1つ、予算に関係するところで大きく姿を変えたのが「陳情」や「口利き」の風景である。
 
全国に500以上もある商工会議所。加盟する中小企業や大企業の事業所から意見や提案を吸い上げ、調整をした上で、自治体や国に「陳情」するのが主な仕事だ。陳情は、都道府県単位の商議所の集まりである商工会議所連合会が集約し、連合会単位で知事や、その都道府県選出の国会議員などに説明するのが一般的なやり方だ。


族議員の口利きによる陳情はなくなった
 
だが北関東のある商議所の場合、こうした「正式ルート」とは別に、その地域選出の国会議員に陳情を行うのが常だった。
 
商議所の会頭や専務理事が国会議員の事務所を訪れ、議員に直接、要望を伝える。すると議員は自らが大臣となった経験もある関係省庁の担当者に直接、電話を入れる。
 
その後、商議所の会頭や専務理事は議員の秘書とともに省庁の担当者を訪れ、要望を伝えたり、予算や補助金の情報などをもらったりする――という流れだ。いわゆる「族議員による口利き」といっていいだろう。
 
「口利き」というと贈収賄に結びつくようなイメージがあるが、大半は法に触れない範囲のものだ。それでも「予算や補助金の情報がほかよりも早くもらえたり、ときには補助金の採択などに有利に働くこともあり、ありがたかった」と商議所の担当者はもらす。
 
これは商議所の場合だが、自治体が地元に関係する公共事業などの獲得を狙い、地元選出の代議士の口利きで国土交通省などに働きかけることもあった。
 
族議員にとっては、口利きが、選挙のときの票集めにつながる。自民党政権時代は、こうしたそれぞれの議員が手掛ける「口利き」が党全体の集票の役割も果たしていたわけだ。
 
しかし政権交代で、自民党の族議員の多くが落選。たとえ落選を逃れたとしても、野党となったことで、自民党代議士が口利きすることはできなくなった。
 
口利きは従来、政治、行政(官僚)、企業の「政官業」癒着を生み、地方での公共事業など、予算のばらまきが起こる原因ともされてきた。


新しいシステムでも構造に変化なし
 
それでは、個々の口利きが減った結果として、2010年度予算案ではばらまきも減ったのか。
 
その答は「ノー」だ。確かに、これまでばらまきの象徴だった公共事業は前年度比1兆3000億円、18.3%も減り、減少の幅と率は小泉政権下の2002年度をしのぎ過去最大になった。5兆8000億円弱というその額は32年前の1978年の規模とほぼ同じである。
 
だが子ども手当には、公共事業の削減額を大きく上回る1兆7000億円を計上。ほかにも農家の個別所得補償(6000億円)、高校の無償化(4000億円)など、家計や農家に気前よく予算がばらまかれた。一方で、企業がグローバルに戦うための環境整備はないがしろにされた。
 
予算全体の規模を示す一般会計総額は4.2%増の92兆3000億円。財源をまかなうため、09年度当初予算より約11兆円多い44兆3030億円の新規国債を発行せざるを得ない状況に追い込まれている。
 
民主党政権は家計に安心感をもたらすことで成長を促すのだと主張するが、国債発行で後の世代にツケを回す形で予算をばらまくことが、本当に成長につながるのだろうか。
 
むしろ2010年度予算案から感じるのは、今夏の参院選対策だ。混迷した2010年度予算編成を方向付けたのは、民主党の小沢一郎幹事長だった。家計や農家を手厚く支援することで、参院選勝利を確実なものにする――。今回の予算からは、そうした小沢流の選挙戦略が透けて見える。
 
民主党は昨年末、新しい陳情システムの運用を始めた。都道府県の民主党県連が経済団体や自治体などからの陳情の窓口となり、民主党本部の幹事長室が吸い上げる。幹事長室が陳情を認めた場合は政府三役、大臣、副大臣などが対応するというシステムだ。
 
このシステムでは、自民党政権下のように個々の代議士が陳情を受け付けたり、口利きをしたりはできない。その代わり陳情や要望が党幹事長室に集中することで、ただでさえ強い小沢幹事長の権力がさらに強まる可能性が高い。
 
個々の代議士による口利きは姿を消した。しかし与党の政治家が予算を選挙に勝つための道具として利用する構造は、今も変わっていない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2010・1・7)

第37回 緩やかな回復でも雇用や設備投資が増えないミスマッチの意味

地方都市で単身者向けアパートの需要が復活!
 
日本銀行が14日に発表した12月の企業短期経済観測調査(短観)。最も重要視される指標で、企業の景況感を示す業況判断指数(DI)は、大企業製造業が前回調査から9ポイント改善してマイナス24となるなど、3期連続で改善した。

だが一方で非製造業を含む大企業の2010年度新卒採用計画も30.5%減と、過去2番目の落ち込みとなる見通し。また大企業製造業の2009年度の設備投資計画も前年度比28.2%減と、過去最大の減少率を記録した。緩やかとはいえ景気は回復傾向をたどっているのに、雇用や設備投資には急ブレーキがかかる。このちぐはぐさの原因は、何なのだろうか。
 
群馬県南部に伊勢崎市伊勢崎市。利根川をはさんで埼玉県側の向かいにある同市八斗島(やったじま)地区は、カーエアコン用のコンプレッサーで世界の約25%のシェアを握るサンデンの八斗島事業所など、いくつもの製造業の工場が集積している場所だ。
 
この周辺でアパートを数多く経営する土地所有者によると、今年の春ごろにはほとんど入居者がなくなってしまった単身者向けのアパートの需要がここのところ、急速に回復しているという。
 
単身者向けアパートを利用するのは、主にこの地域の工場で働く期間従業員や、製造業向け派遣会社の従業員だ。自動車をはじめとした輸出産業が好調だった昨秋までは、こうした単身者向けアパートはほぼ満室の状況だった。ところがリーマン・ショック以後の輸出産業の不振で、各社は期間従業員や派遣社員などを一気に削減した。


トヨタや日産も期間従業員の雇用を再開している
 
サンデンの八斗島事業所だけでも、ピーク時には1100人の正社員に加え500人の派遣社員がいたが、今年初めには500人の派遣社員はすべて雇い止めになってしまった。単身者向けアパートがほぼ空になってしまったのはこのころだ。
 
ところが日本のエコカー減税をはじめとした、世界各国の自動車の買い換え刺激策の効果もあり、世界の自動車需要は相当程度、回復した。サンデンも夏以降に以前ほどではないにしろ、工場向け派遣社員の採用を再開している。土地所有者によると、アパートの需要回復は、こうした企業からの需要によるものだという。
 
また工場関係者からは「期間従業員や製造業派遣で人を採用しようとしても、なかなか人が集まらない」という声も漏れてくる。
 
リーマン・ショック後ににこうした求人がなくなってしまったことで、そもそも期間従業員などとしての採用を望む人が伊勢崎地区からはいなくなってしまったり、製造業向け派遣会社も出先の拠点をたたんでしまったところが多いからだ。ごくごく局所的ではあるが、製造現場では「人手不足」が顕在化しているのだ。
 
期間従業員は工場向けの派遣社員の採用を再開する動きはここだけにとどまらない。中国向けに多目的スポーツ車、フォレスターなどの販売が好調な富士重工業の群馬製作所矢島工場(太田市)では9月末に400人だった期間従業員を1月初めまでに900人に増やす計画。トヨタ自動車や日産自動車など自動車大手もいっせいに期間従業員の採用を再開している。


製造業派遣を禁止しても求人増にはならない
 
だがこうした製造現場での非正社員の求人増は、産業界全体の正社員雇用の増加にはつながっていない。むしろ12月短観に表れたように、企業は新卒採用をより抑え始め、「雇用のミスマッチ」の度合いがより強まっている。
 
1つの理由は、全体として見ればまだ雇用の過剰感が強いためだ。12月短観の大企業製造業の雇用判断DIはプラス21で、雇用が「過剰」と考える企業が「不足」とみる企業よりもかなり多いことを示している。
 
雇用調整助成金の制度を拡充したことで、仕事がなくても従業員はそのまま雇い続ける「社内失業」が増えたことも、雇用の過剰感が消えない原因だ。
 
もう1つは鳩山政権下で円高とデフレが急速に進み、企業経営者の先行きに対する見通しがより悪化していること。「円高が進行し、富士重工業などがいつ中国に進出するかとの不安を抱える中では、いま程度に生産が回復しても設備を入れたり、正社員を増やすという気にならない」と、群馬県内のある自動車部品メーカーの社長は話す。
 
先行きの不透明感が晴れないため、結局目先の人手不足は期間従業員や製造業派遣でしのごうとする企業がほとんどだ。
 
民主党連立政権が進める「製造業派遣の禁止」を実施したところで、短期の求人需要は製造業請負会社などに回るだけで、正社員の求人増につながるわけではない。
 
重要なのは、企業が安定的に成長しやすくなるような環境をつくること。円相場安定に努め、製造業が国際競争しやすい環境をつくることや法人税の減税などが何よりも求められる。企業が太らない限り、雇用の本格回復はあり得ない。


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1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・12・15)

第36回 ネットの世界でいち早く日本発の世界標準を世に出した経営者がいた

「世界をめざした起業家」のあまりにも早い死
 
東京都千代田区のJR水道駅近くに本社を置く、そのベンチャー企業を初めて訪ねたのは1998年の春ごろだったと思う。本社のある小さなオフィスビルの場所はわかりにくく、何度か通行人に場所を聞いてたどり着いたときには、約束の時間を少し過ぎてしまっていた。

90年代半ばごろから銀行がベンチャーに積極融資するなどして、「第3次ベンチャーブーム」が盛り上がっていた。だが97年には、山一証券が自主廃業し、ベンチャーの倒産件数も72件と前年より8割も増えた(帝国データバンク調べ)。98年といえば、ベンチャーに対する向かい風が強まり、ブームが急速にしぼみつつあったときだ。
 
だが、その会社にはそんな「逆風」を全く感じさせない元気さと明るさがあった。そして何よりも印象的だったのは、取材の間、社長が「日本発のオリジナルで、世界に通用するソフトをつくる」という言葉を、何度も口にしていたことだ。
 
実力以上の「大言壮語」をはく起業家は多い。だがその言葉は、不思議と大言壮語のようには聞こえなかった。起業家として、会社として必ず目指さなければならない「理想」。あえて表現すると、そんな響きが、この言葉にはあった。
 
この会社とはソフト開発のACCESS(当時は「アクセス」)。そのACCESSの創業者で当時社長だったのが、10月23日に亡くなった荒川亨氏である。
 
ベンチャー全体に対する逆風だけでなく、当時の日本のソフト開発業界には、米国に対する劣等感も漂っていた。


いち早く日本発の世界標準を開発
 
1970年代のマイクロプロセッサー(MPU)の開発、パソコンの登場にともない、多くのベンチャー企業が誕生したのは米国も日本も同じだった。西和彦氏らがアスキーを創業したのは77年、孫正義氏がソフトバンクを起こしたのは81年のことだ。
 
だがパソコンの世界で基本ソフト(OS)を握ったのは米マイクロソフト。インターネットの興隆と共にキラーアプリケーションとなったブラウザ(閲覧ソフト)の分野でも、日本勢は太刀打ちできなかった。
 
日本語という参入障壁のあるワープロの世界ですら、「一太郎」を開発したジャストシステムは既に劣勢となり、「パソコンの世界で日本のソフト開発会社がデファクトスタンダード(事実上の業界標準)を握るのは無理だ」という空気が濃くなっていた。
 
荒川氏が個人事務所「荒川設計事務所」を創業したのは79年で弱冠20歳のとき。「有限会社アクセス」として会社組織にしたのが84年のことだ。
 
最初はマイコン関連の開発から始め、プログラミング言語の開発なども手掛けた荒川氏は、パソコンの世界でマイクロソフトはじめとした米国勢が覇権を握ったことに、悔しさをかみしめた1人だった。
 
荒川氏やACCESSがほかのソフト会社と違ったのは、「それならば日本の会社が勝てる分野は何か」を考え、「日本のメーカーが強い家電分野に集中する」ことを、早くも80年代に決めていた点だ。まずは当時、日本ではほとんど注目されなかった、インターネットの通信方式である「TCP/IP」に対応した通信ソフトを手掛けた。そして95年には、インターネットテレビのための接続・閲覧ソフト「ネットフロント」の開発にこぎ着けた。


会うたびに青臭く理想を説く経営者の凄み
 
私が初めて会社を訪れた98年春には、ネットフロントは既に各社家電メーカーのテレビのほかワープロなどにも搭載され、搭載機器数は累計100万台を超えていた。そしてACCESSのさらなる飛躍のきっかけになったのが、NTTドコモが99年2月に始めた「iモード」サービスだ。
 
当時の携帯電話の限られた環境でも実用的にインターネットを利用できるようにするためのネット記述言語「コンパクトHTML」や、コンパクトHTMLで記述されたホームページを閲覧する「コンパクトネットフロント」を開発し、NTTドコモを通してNECや松下電器産業(現パナソニック)など大手端末メーカーに供給したのがACCESSだ。
 
これをきっかけにACCESSのソフト供給先は一気に拡大。今や世界で同社製ソフトを搭載した機器の数は8億台を超すという。
 
98年春に荒川氏に会って以来、折に触れて荒川氏のもとを訪ねるようになった。今でも思い出すのは、そのたびに、最初に会ったときと同じような「理想」を聞かされたことだ。「ネット閲覧ソフトのデファクトスタンダードをとりたい」「最高のソフトウエアを世界に送り出したい」......。起業家は理想を掲げれば成功するわけではないが、たとい「青臭い」と言われようとも、社内外で理想を唱え続ける荒川氏がいなかったら、今のACCESSはなかっただろう。
 
最後に荒川氏に会ったのは、再び長期入院する前の2008年夏。このときは日本と米国の社会では起業家やベンチャーの扱い方が違うという話しをした後で、「今の目標はR&D(研究開発)企業で世界一になること。その道はまだ1合目に達したぐらいだけれど」と話していた。
 
それから1年あまり、荒川氏は帰らぬ人となってしまった。享年50歳。いつまでも理想を追い続けた起業家の、あまりにも早すぎる死である。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・12・1)

第35回 日本一の名湯が真剣に考える宇都宮方式「名産」の作り方

どこの店にも客が列をなす宇都宮の異様な光景
 
時間は午前11時。その店の開店時間は11時半なので、どこかで時間をつぶした方がよいかもしれない。そんなことを思いつつ、店の前まで来ると、既に数十人の行列ができていた――。11月のある週末、宇都宮市の中心にある老舗の餃子(ギョーザ)専門店、宇都宮『みんみん本店』でのできごとだ。

あわてて私も列の後ろに並ぶことにした。その後も店を目指す人の列はとぎれず、11時半の開店時には、列は50メートルほどの長さになっていた。
『みんみん本店』は、どこの町にもある中華料理店のような店構えだ。餃子はヤキ(焼餃子)、スイ(水餃子)、アゲ(揚餃子)の3種類。後はライスとビールのみという潔さだ。餃子はすべて1人前6個入りで240円。ヤキとアゲを1皿ずつ頼んでみる。
 
特に美味しかったのが焼き餃子。皮はぱりっと焼け、一口かじるとハクサイやニラ、豚肉の汁がじわっと口の中に広がる。思いのほか軽めで、2皿を食べ終える頃には、追加注文をする誘惑を抑えなければならなかった。
『みんみん本店』を出て宇都宮駅方面に向かおうとすると、さっきとは違う行列がまたできている。これも老舗の1つ、『正嗣(まさし)宮島店』に入るための列だ。
 
こちらはカウンターしかない、『みんみん』よりもさらに小さいお店。『みんみん』より回転が速くないため、小一時間並ぶことになった。
 
列に並ぶのは、主に20代から30代にかけての若者たち。後ろにいた5人組のギャルたちは、どうやら前日は近場の温泉に泊まり、今日は餃子屋巡りをする計画のようだ。デジカメやケータイで盛んに写真を撮り合っている。
 
彼女たちに限らず、ガイドブックや、宇都宮餃子会がつくったオフィシャルマップを持つ人が多い。


餃子5皿とご飯1膳、3軒の店で1240円
 
列を眺めていて、ディズニーランドやテーマパークのアトラクションに並ぶ人たちと似ていることに気づいた。ゆっくりと進む行列。恋人や友人達と、これから入る店についてああでもない、こうでもないと話す。マップを見ながら、次はどの店(アトラクション)に行こうかと考える――。
 
私はおいしいと思ったが、『みんみん』や『正嗣』のような老舗店でも、なかには「味は大したことはない」という意見もあるようだ。
 
ただこうして並んでいる人たちは、味だけが目当てではないのかもしれない。並んで、食べて、また巡る。そんなテーマパークのような楽しみ方をしているのだ。
 
その日、私は結局3つの餃子専門店をはしごして、餃子5皿とライスを1つ食べることになった。だがそれでも代金はしめて1240円。テーマパークのように楽しめて、それよりも安く、しかもうまい。まさに、今のようなデフレ時代にかなった楽しみ方だろう。
 
私が「宇都宮に行って餃子を食べてみようか」と考えたきっかけは、群馬県草津町の中沢敬町長が「これからは宇都宮の餃子や福岡の明太子のような発想で、名産をつくっていきたい」と話したのを聞いたからだ。
 
「天下の名湯」として、その名をはせてきた草津温泉。ピーク時からは少し減ったとはいえ、今でも年間270万人の人たちが、草津を訪れる。
 
1度、草津を訪ねてみれば、その観光地としての強みが何よりも「温泉」にあることがわかる。町の中心地にある「湯畑」では、毎分4000リットル以上という大量のお湯が噴出している。
 
湯畑を中心に、町にはホテルや旅館の他にも18の共同温泉浴場があり、どこへ行っても硫黄のにおいが漂う。その「温泉力」は強烈で、業界紙の温泉ランキングで、草津温泉は7年連続でトップになった。
 
ただそんな草津にも、1つ弱みはある。それは「食」についてだ。


目立った産品はなくても名産は作れる
 
草津の旅館やホテルでの料理は、刺身や鍋物といったいわゆる「ほかの温泉でもよく出るもの」が中心だ。だが最近は消費者の地産地消志向が強くなり、東京近辺から来る客の中には「草津に来て、わざわざ刺身など食べたくない。地場のものを食べたい」という人がいるという。
 
では草津にはどんな地場食材があるのか。草津は白根山の東麓、標高1200メートルの高地にある。標高が高いだけでなく、硫黄泉の影響で、「草津で採れる珍しいもの」というと、花インゲンぐらいしかない。「地場の食材による名産」というのが、ほとんど成立しない土地なのだ。
 
中沢町長が「宇都宮の餃子や福岡の明太子のような発想で」と話したのは、両地とも地場に圧倒的な強みを持つ食材があったわけではないのに、「名産」をつくることに成功したからだ。
 
宇都宮の餃子が全国区の名産になったのは、意外にも1990年以降のこと。宇都宮市役所の商業観光課にいた沼尾博行さんが「1世帯当たりの餃子消費額は宇都宮が日本一」という話を聞き、「これを名物にしよう」と考えたのが始まりだ。粘り強く餃子店を巡るなどして、メディアへのアピールを続けた。こうして店主らが宇都宮餃子会を設立したのは、1993年のことだ。
 
今や宇都宮には、餃子目当てに年間100万人近い観光客が訪れるという。ありふれた食材でも名産としうることを示した宇都宮の戦略は、草津だけでなく、目立った産品を持たない全国の自治体のお手本にもなっている。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・11・24)

第34回 東京モーターショーを見るとよく分かる、自動車「100年に1度」の大変革

相次ぐ上方修正で最悪の状態を脱した自動車産業
 
自動車産業の収益が最悪期を脱して、急速に回復している。ホンダは10月27日、2010年3月期の連結営業利益(米国会計基準)の予想を、前期比0.2%増の1900億円に上方修正した。従来予想の700億円と比べ1200億円の上積みで、減益予想から一転、増益予想となった。

注目されるトヨタ自動車の2009年4~9月期(中間期)決算発表は11月5日。日本経済新聞によれば、トヨタの4~9月期の連結営業利益(米国会計基準)も2500億円前後の赤字(前年同期は5820億円の黒字)と、従来予想の4000億円の赤字よりは、大幅な上方修正となりそうだ。
 
両社とも、日本国内の環境対応車への減税措置など世界各国の需要刺激策により、自動車販売が回復していることが「上方修正」の背景だ。
 
もちろん各国の需要刺激策頼みの側面がある以上、今後も需要が回復し続けるかは不透明な面もある。ただ、こと自動車産業の中では、昨年末から今年初めにかけて言われたような「100年に1度の危機」という言葉は、あまり聞かれなくなった。
 
しかし自動車産業の変革期が去ったかというと、そうではない。需要面での危機はとりあえず遠のいたものの、もっと根本的な技術面からの変革期を迎えているからだ。11月4日まで幕張メッセ(千葉市)で開催中の「第41回東京モーターショー2009」を見学すると、そのことがよくわかる。


各社が競って出展するエコ技術を駆使した車
 
既に多くの報道がされているように、今年のモーターショーは、環境技術(エコ)への対応が最大のキーワードだ。だが完成車メーカーの出展傾向を見ると、同じエコ対応でも、アプローチの仕方はかなり違う。
 
電気自動車(EV)を前面に打ち出しているのが、三菱自動車と日産自動車だ。今年7月に軽自動車「i(アイ)」をベースにした小型電気自動車「i―MiEV(アイ・ミーブ)」を発売した三菱自動車は、その商用車版や家庭の電気で充電可能なプラグインハイブリッド車(PHV)を展示。ほぼEV一辺倒といった感じだ。
 
カルロス・ゴーン社長が「EVは環境問題に対する解決策」と話す日産自動車も、2010年度後半に日米欧で販売する「リーフ」を大きく展示、「1回の充電で走行距離160キロ以上」をアピールしている。
 
一方、ガソリン車と電動の技術を組み合わせた「ハイブリッド車」で既に実績を積み重ねているトヨタやホンダはハイブリッド技術中心の展開だ。
 
トヨタは「車の走行性能を維持しながら、超低燃費とコストを両立させた車はハイブリッド車しかない」との立場。トヨタのこの分野の目玉は、プリウスベースのプラグインハイブリッド車。家庭用の200ボルト電源ならば、100分でフル充電が可能。もし電池が切れたとしてもガソリンエンジンで走行可能な点が、純粋なEVにない利点だ。
 
ホンダもハイブリッド重視の点はトヨタと同じだが、EVを街中の交通手段ととらえ、それに沿ったコンセプトカーを何種類も展示している。
 
4人乗りの小型EV「EV-N」はホンダが初めてつくった4人乗り乗用車「N360」をモチーフにしたもの。レトロで親しみやすいデザインが特徴的で、先進性をアピールする各社のEVとは方向性が異なる。


「ないからつくるんだ」という会社の画期的一輪車
 
ホンダの出展で、個人的に出色と思ったのは電動一輪車「U3-X」。二足歩行ロボットASIMOの研究で培ったバランス制御技術を応用し、人が乗っていなくても自立し、また一輪車に乗れない人でも乗れるという。複数の小径車輪を一列につなぎ合わせて構成した大径車輪を採用し、運転手の重心移動に伴い、前後にも左右にも動ける。
 
文字で書くと想像しにくいが、モーターショーではEV-NなどとともにU3-Xのデモも行われており、その「一輪車であって一輪車ではない」コンセプトの斬新さをこの目で確かめられる。ホンダの創業者、本田宗一郎と藤沢武夫は、かつて「ないからつくるんだ」といって「スーパーカブ」を開発したといわれるが、まさにU3-Xはホンダの既成概念にとらわれない精神が生み出した作品だ。
 
米国の自動車王、ヘンリー・フォードがミシガン州にフォード・モーター社を設立したのが1903年、何回かの失敗ののち有名な大衆車「T型フォード」を開発したのが1908年だ。この時期に、自動車においては電気モーターなど他の動力源と比べたガソリンエンジンの優位性が確立した。
 
しかしそれから100年がたった今、石油資源の枯渇や温暖化効果ガス削減の要請から、再びガソリン以外の動力への注目がかつてないほどに高まっている。
 
モーターショー2009での、メーカー各社のアプローチの仕方が違うのは、脱ガソリンがどれくらいの速さで進むかについて、各社の見解が一致していないことの表れでもある。
 
ただそれでも自動車産業が脱ガソリンに舵を切ったことは確か。数十年たった後で振り返ると、「2009年のモーターショーが100年に1度の転換点だった」と言われているかも知れない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・11・4)

第33回 「長く使える機械」が時代のトレンドになりつつある

今でも全国で走っている蒸気機関車
 
1976年、静岡県の大井川鉄道(現・大井川鐵道)で始まった蒸気機関車(SL)の保存運転。現在、国内の営業路線を走るSLは、大井川鐵道のC10、東日本旅客鉄道(JR東日本)のD51(通称デゴイチ)、JR北海道のC11など15台前後ある。

行楽シーズンに、臨時列車やイベント列車として全国各地を走るSLは、すっかり観光資源として定着したものになった。また最近は明治から昭和にかけての「産業遺産」としても、改めて注目されつつある。
 
そうした、実際に走り続けるSLの1つ、JR東日本が所有する「D51 
498号」を、間近で見る機会があった。
 
D51は、日本で最も多く製造された蒸気機関車だ。1936(昭和11)年から1945(昭和20年)までの10年間に、1115両も製造された。
 
戦前の鉄道省、旧国鉄のSLには主に「C」と「D」の系列がある。CやDは機関車を動かすための動輪の数を表しており、C系は片側に3つ、D系は4つの動輪がある。速度重視のC系は旅客用、牽引力重視のD系は貨物用の機関車だ。
 
D51は元は貨物専用だったが、勾配に強く、八王子~高崎間を結ぶ八高線クラスの、本線ではない路線でも走れる仕様場面の多さなどから、旅客用に使われることも多かった。
 
D51 
498号は1940年(昭和15年)、当時の鉄道省鷹取工場(神戸市)で誕生した。岡山機関区を皮切りに、全国各地で活躍。1972年10月の国鉄100周年記念運転で八高線を走った後、上越線の後閑駅構内に静態保存されていた。保存されるまでに、地球54周分に当たる216万キロ強を走ったことになる。


ボールベアリングが普及してないときに培われた技術
 
その498号が復活するのは、16年後の1988年のこと。JR東日本の大宮工場で復元工事を施され、12月にオリエント急行を牽引する形で復帰した。それからはJR東の臨時列車やイベント列車で活躍している。
 
今も12月半ばまでの土曜・休日は、上越線、高崎~水上間の臨時快速列車「SLみなかみ」を引っ張る498号の雄姿を見ることができる。
 
498号を普段、整備するのは、JR東の高崎車両センター高崎支所(高崎市)。498号は、1週間後に走行する予定のあるときは、石炭をくべる「火室」の中の火を、完全には落とさない。急激な温度変化によるボイラーの伸び縮みを抑え、できるだけボイラーの寿命を長くしようという工夫だ。
 
そのため498号は整備工場で停車中のときも、少量の煙が出続けていて、工場の中は、なんだか懐かしい煙のにおいがする。
 
だがそれ以上に印象的なのは、片側に4つある動輪、蒸気で動いたピストンの動きを動輪に伝える「主連棒」など可動部分の至る所に油を差してあり、工場の床も油まみれで、歩くたびにつるつると滑りやすいことだ。
 
現代の鉄道車両は、車輪など回転する部分を支える軸受には、ボールベアリングを使っている。
 
だがD51が設計・製造されたのはボールベアリングが普及していない時代。そこでD51は、回転する車軸と軸受の間に潤滑油を入れて、油膜で滑りやすくする「平軸受」という方式を採用している。
 
可動部の至る所に「油つぼ」があり、毛糸を使って、一定量の油が常に軸受に供給される仕組みだ。平軸受は軸受部分の金属が摩耗しやすいが、軸受部分のみ簡単に取り替えられるようにもなっている。


機関車を動かす仕組みがすべて見える
 
現代の鉄道車両は、軸受部分が故障などした場合、大きな塊ごと交換しないといけない。ところがD51は軸受けの摩耗部分のみ取り替えられる。同支所の松本幹男支所長は「D51は油を差すなどきちんと保守をして、摩耗部分は擦り減ったら交換すれば、ずっと使える」と説明する。
 
もう1つ、現代の鉄道車両と大きく異なるのは、機関車が動くメカニズムが、目で見ることができ、理解しやすいことだ。
 
(1)石炭を火室に投げ入れ燃焼させる(2)発生した熱ガスをボイラーで水に伝え高圧の蒸気をつくる(3)蒸気をシリンダーに送り圧力でピストンに往復運動を起こす(4)ピストンの一方をクランクに結合し、往復運動を車輪の回転運動に変える――。新しい鉄道車両や自動車のように電子的に動く部分がないだけに、こうした「機関車を動かす仕組み」がすべて目で見える。こうしたことが、保守のしやすさ、寿命の長さにつながっている。
 
498号は途中16年の"休憩期間"があったとはいえ、来年で誕生から70年になる。東海道新幹線が開業した1964年にデビューした初代新幹線、0系などが次々と引退していることを考えれば、驚きの長生きだ。
 
SLの全盛期後にやってきた戦後の大量生産時代には、顧客の持っている商品を短い期間のうちに陳腐化させて、新製品に買い換えさせる手法が、さまざまな分野で広がった。だが環境意識の高まりなどから、こうした「計画的陳腐化」の手法は消費者に敬遠されるようになり、iPhoneを展開するアップルのように、同じ商品を長く使ってもらうことを売りにする企業も増え始めた。
 
そうした時代に改めてSLを眺めてみると、その設計思想が今の時代にむしろ合っていることを感じる。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・10・27)

第32回 選挙に無視された「2009経済財政白書」が描く格差の真実

「格差」が叫ばれ始めたのは前の衆院選から
 
この夏の衆議院選挙の期間中、さまざまな候補者の主張を見聞きするなかで、気になることが多かったのが「非正規雇用」や「格差」に関する議論だ。

民主党を中心とした当時の野党候補の典型的な主張は「小泉純一郎政権(2001年4月~2006年9月)の規制緩和の行きすぎが、非正規雇用を増やし、格差社会をもたらした」というものだ。
 
確かに人々が、日本社会にも雇用や所得などの格差があることに気づき、それを問題にし始めたのは小泉政権の時代だった。
 
朝日、毎日、読売、日本経済という主要4新聞の記事データベースによると、「格差社会」という言葉を含む記事は10月5日までに4紙合計で4250本ある。
 
ただ2003年以前はわずか12本しかなく、日本社会のひずみを表す言葉として4紙が明確に用い始めたのは、2004年7月に朝日新聞が連載した「格差社会 
ゆがみの現場から」以降のこと。そして2005年9月の郵政選挙の前後から格差社会の記事も急増し、冒頭に挙げたような格差社会批判が広まるようになった。
 
だがこうした経済現象の「原因」と「結果」には、常にタイムラグがある。小泉政権時代に人々が気づいたのは確かとしても、それが即、小泉政権によるものと考えるのは論理的でない。
 
非正規雇用や格差の拡大と小泉改革との関連を考えるのに格好の材料を提供してくれるのが、内閣府が7月に発表した2009年版の経済財政白書だ。


実は小泉政権下では格差の進展は緩やかだった
 
日本の2009年1~3月平均の雇用者は約5086万人。このうち33.4%の1699万人が非正規雇用者だ。白書は、雇用者に占める非正規雇用者の比率(非正規比率)が1984年以来、最近まで一貫して上昇してきたことを示す。
 
俗説では、2004年3月に、人材派遣が製造業分野でも可能になった規制緩和を「格差社会の始まり」と見る向きが多い。
 
だが白書を読むと、非正規雇用の増加は小泉政権前から一貫して続いている傾向であることがわかる。そして白書は「(雇用の)非正規化は多様な就労ニーズの受け皿として機能した面がある」とも指摘している。
 
それでは「小泉改革が格差社会が拡大した」という批判は的を射たものなのか。
 
賃金や所得の格差を数量化して把握するための代表的な尺度として「ジニ係数」がある。所得が完全に平等な状態に比べ、現状の分配がどの程度偏っているかを示したもので、数値が1に近づくほど不平等度が高い。
 
白書によると、労働所得で計算したジニ係数は「1987年以降、緩やかではあるものの一貫して上昇している」。
 
もう1つの傾向は「97年から2002年にかけての急激な上昇に比べ、02年から07年にかけての上昇幅は比較的緩やかである」こと。ちょうど小泉政権のときの方が、格差社会の進展度合いはマイルドだったのだ。白書は緩やかになった理由を「景気回復が続くなかで、非正規雇用者の給与水準がある程度高まったため」と分析している。
 
こうやって検証していくと「小泉政権の規制緩和の行きすぎが非正規雇用を増やし、格差社会をもたらした」という批判は、きわめて表面的、情緒的なものだということが見えてくる。
 
白書でもう1つ興味深いのは、「むすび」で、「雇用の保護、所得再分配による格差是正が重要だ」という議論に対して、「景気後退によって失業が増加すれば、それを加味した賃金格差は拡大、貧困率は上昇する。したがって『景気の回復は最大の格差対策である』」と主張している点だ。
 
また「雇用保護規制の厳しい国ほど、平均失業期間が長くなる傾向がある」ことも指摘し、派遣法の改正などによる規制強化には、疑問を投げかけている。


民主党マニフェストは長期的成長を阻害するのか?
 
残念ながら白書が公表された7月末は、既に実質的な選挙戦に入っており、白書の分析をもとに、与野党の間で非正規雇用や格差の拡大の原因について、論理的、建設的な議論が交わされることはなかった。
 
むしろ民主党など当時の野党だけでなく、自民党の中でも、冒頭で挙げたような格差社会論を情緒的に展開する候補者が多かった。
 
「現在の自民党は小泉政権の延長線上にあるのか、そうでないのか」。有権者から見てこうした基本的なことすらはっきりしないことが、自民党の歴史的な大敗につながった一因だ。
 
選挙で大勝した民主党は新政権発足後、早速マニフェスト(政権公約)で約束した製造業派遣の禁止、最低賃金の引き上げなど、雇用分野での規制強化に乗り出した。だがこうした方策は白書も暗に指摘するように、長期的な成長を阻害し、失業を増やす可能性が高い。
 
10月1日には、日経平均株価が約2カ月振りに1万円を割り込んだ。日経新聞が4日に掲載した「社長100人アンケート」では、国内景気が本格回復する前に再び下降する「二番底」を警戒する経営者が、全体の38%もいることが明らかになった。
 
日本経済の復活、さらに格差拡大に歯止めをかけるには何が必要なのか。そのことを冷静に考えるには、まず経済財政白書を読むことから始めないといけない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・10・6)

第31回 鳩山政権が始動して明らかになってきた「マニフェスト至上主義」の危なさ

自民当時にはありえなかった政治主導の驚き
 
鳩山由紀夫政権がスタートして約2週間。民主党が先の衆議院選挙で掲げたマニフェスト(政権公約)に沿った新政策が、続々と動き始めた。

国連に出席した鳩山首相は、二酸化炭素(CO2)などの温室効果ガスを「2020年までに1990年比で25%削減する」と宣言した。また目玉政策の1つである「子ども手当」については、来年度からの実現に向けて予算編成作業が始まった。
「時代に合わない国の大型直轄事業は全面的に見直す」として実例に挙げた川辺川ダム(熊本県相良村)、八ツ場ダム(群馬県長野原町)についても、前原誠司国土交通相は就任早々に「中止」を宣言した。
 
いずれも、現実的な政策や議論を積み上げるよりも、先に理想(公約)を宣言してトップダウンで政策転換を図る手法だ。
 
こうした新政権の行動を見て、「政権交代とは、政治主導とはこういうものなのか」と改めて実感した人も多いだろう。
 
自民党政権下では、その分野に通じ、省庁とも一心同体の族議員が閣僚に選ばれるのが一般的だった。そうした状況下では、これまで続いていた政策がガラリと変わることはほとんどあり得なかった。
 
だが新政権の閣僚はその省庁にしがらみがないばかりか、長妻昭厚生労働相のように役所の嫌う人物を閣僚に据えたケースも多い。
 
政権が代わり、首相や閣僚がやる気になりさえすれば、これだけの政策転換に手を付けることが可能なのか――というのが、この2週間の偽らざる感想だ。
 
だが先に挙げた政策はいずれも、関係者や専門家の間では、賛成ばかりでなく、反発や批判などを多く抱える問題だ。
 
地球温暖化対策として、鳩山首相が温室効果ガスの25%削減を国連で表明したことには、所管する経済産業省の役人からも、企業経営者からも「どのような方法、道筋で達成をするのか」などといぶかる声が上がっている。
 
マニフェストに掲げたことを理由に、細かな議論を積み重ねることなく、先に"御旗"を掲げる手法は、必要以上に反発を強くし、問題の解決を難しくしたり、遅くしたりする事態を招きかねない。


99年「次の内閣」の社会資本整備担当相だった前原氏
 
例えば八ツ場ダムの問題。前原氏はなぜ就任早々と「八ツ場ダムの建設は、マニフェストに書いてあるから中止する」とぶちあげてしまったのだろう。
 
中止方針を最初に打ち出したのは、官邸で行われた新閣僚の就任記者会見の場ではない。その話をしたのは、会見前に記者に囲まれた場でのことだったという。
 
一般に外交・防衛関係が専門と見られている前原氏だが、民主党が1999年に初めて「次の内閣」を設けたとき、社会資本整備担当の閣僚に就任したのが前原氏だった。
 
当時から「公共事業を5年から10年で2~3割削減する計画をつくりたい」と語っていた。就任後にすぐ、八ツ場ダムの中止を掲げたのは「党のマニフェストに書いてあるから」という理由だけでなく、「公共事業削減は昔からの持論」という自負もあったのかもしれない。
 
だが、この前原氏のふるまいは、八ツ場ダムの地元住民の態度を一気に硬化させた。前原氏は中止を宣言した後で、八ツ場ダムの現地を視察すること、さらに地元住民らと意見交換会を開くことも決め、実際、9月23日に現地入りした。しかし住民側は「最初から中止ありきでは、話し合いのテーブルに着くことはできない」と交換会への出席をボイコットすることになってしまった。


マニフェストに掲げたすべてを是認したわけではない
 
八ツ場ダムの計画が浮上したのは今から57年前の1952年。長い反対闘争の末に、苦渋の決断で建設を受け入れた住民達はいずれも「自分の代だけでなく、親父やじいさんの時代から受け継いできた問題」という思いがある。
 
それだけに「国交相に就任して2~3時間しか経っていない人に、なぜ57年間かけて結論が出た問題を否定されなければいけないのか」などと、強い反感を買ってしまった。
 
前原氏は「地元の理解を得るまでは中止手続きを始めない」方針も打ち出しており、この問題は長期化する可能性が高くなってきた。
 
もし前原氏が中止を宣言する前に「まずは現地を視察する」といって、同じように現地を視察すれば、住民は喜んで意見交換の場に臨んだだろう。そのうえで建設続行と中止の双方の費用対効果を明らかにし、住民や流域自治体に対しては現状の計画に代わる補償や利水・治水の代替案を提示してから、中止方針を打ち出せば、今とは違った展開になっていたはずだ。
 
ある自治体のトップは「(八ツ場ダムの問題に限らず)今の民主党の、『マニフェストに書いてあるから、それをそのまま必ずやり遂げる』という姿勢はおかしい。私たちは公約に掲げた個々の政策すべてを是認したわけではないのだから」と指摘する。
説明なしに、マニフェストを反故にするのはもちろんおかしい。しかし細やかな議論を積み重ねることのない「マニフェスト至上主義」は、これもまた危なっかしい。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・9・29)

第30回 巨大ダム賛成で地元民が失わさせられた「未来を作り出していく力」

総貯水量1億立方メートルのプロジェクト
 
8月30日に投開票が行われた衆議院選挙の期間中、群馬県長野原町にある吾妻渓谷を何度か訪れた。民主党が衆院選のマニフェスト(政権公約)で、「時代に合わない国の大型直轄事業」の典型例として中止を掲げた「八ツ場(やんば)ダム」の建設予定地がある所である。

東京や高崎方面から建設予定地へと向かうには、JR渋川駅から草津方面へと通じるJR吾妻線に乗るか、JRと並走する国道145号線を車で進むかする。
 
渋川を過ぎたばかりの頃は、窓には吾妻川沿いにのんびりとした田園風景が広がる。しばらくすると、徐々に渓谷が険しくなり、やがてコンクリート製の巨大な橋が視界に飛び込んでくる。
 
ダムによってできる湖を回避するために、吾妻線や道路の付け替え工事、橋の建設が急ピッチで進んでいるのだ。このダムの事業主体である国土交通省は9月にダム本体工事の入札を行い、10月にも着工する予定だった。だが新内閣の発足を前に、国交省は民主党に配慮して、本体工事の入札延期を決めた。ダムの先行きが不透明となるなかで、訪れた人に最もその存在を強く感じさせるのが、この巨大な橋の姿だ。
「ダムに沈む温泉」として知られる川原湯温泉(長野原町)の近くで建設が進む県道用の橋は、今の国道より約40メートルも高いところを通る。青空に向かって伸びる橋脚を見上げ、橋げたのすぐ下まで水で満たされることを想像すると、総貯水容量1億立方メートルという、このプロジェクトの規模の大きさが実感できる。


ダムで食べてきた住民が恐れるもの
 
ダムといえば、山奥の水源池の近くにあるのが普通だ。水没する集落があったとしても、数は少なく、ダムより下流に集落ごと移転するケースが多い。
 
しかし八ツ場ダムが特異なのは、利根川の支流である吾妻川の「中流域」に計画された点だ。より上流には有数の観光地である草津や万座、キャベツで有名な嬬恋村もある。
 
それだけに、ダムの建設予定地とは思えないくらい人口も交通量も多い場所だ。移転する場合にも、集落ごと下流に移るのは不可能なため、水没する地域より高い場所の山を切り開いてダム湖畔に移転させる「現地ずり上がり方式」が取られた。
 
ダムが本当に完成した場合、水に沈む土地は316ヘクタール、世帯数は340戸。その広さは東京ドーム約68個分にもなる。吾妻渓谷の両岸にある川原湯地区と河原畑地区は全部、ほかの3地区も一部水没する。吾妻渓谷の貴重な自然も当然、損なわれることになる。
 
だがダムが奪ったり、損なったりするのは土地や故郷、景観ばかりではない。
 
水没地区の住民を取材する中で、ある住民からこんな話を聞いた。
「水没予定の川原湯温泉の人たちは、ダムができることを大前提に生きてきた人たち。確かに国に翻弄されてきた面もあるが、一方でさまざまな補助金をもらったり、工事関係者による特需もあるなど、"ダムで食べてきた"面もある。民主党政権が誕生し、ダムが中止になると、そうした恩恵がなくなることも恐れているのではないか」。


われわれは自民党と契約したのではない、国と契約したのだ
 
国が八ツ場ダムの計画を公表したのは1952年。1947年のカスリーン台風で利根川流域に大洪水が起こったため、治水を目的に計画されたものだった。
 
住民はかつて激しく反対運動を繰り広げたが、85年に群馬県と長野原町が住民の生活再建について合意。その後、1992年には住民が反対運動の旗を降ろし、2001年には水没地域の住民らが土地価格などの補償基準に合意した。こうして、ほとんどの住民は反対から賛成へと転じた。
 
当初、2000年度に完成予定だった基本計画は2度変更され、完成予定は2015年度に延び、総事業費も2110億円から4600億円に増額した。計画は遅れに遅れていたが、ここ数年は代替地や橋、トンネルなどの建設が目に見えて進み、あまりにも長すぎて疲れていた住民の間でも「一筋の光明が見えてきたところだった」(川原湯温泉の旅館経営者)という。
 
苦渋の選択で建設を受け入れ、50数年苦しんできた住民。こうした経緯があるだけに、住民は「八ツ場ダム中止」を公約としていた民主党が政権を握ったことに困惑。
「どうしてここまできて中止なのか」
「我々は国と契約したわけで、自民党と契約をしたわけではない。だからダム建設を計画通り進めてもらわないと困る」といった声がもれてくる。
 
ただ地域を歩いていると、先の住民が指摘するように、この地域が、ダム建設を前提に公共事業費や補助金、補償といった形で流れ込んでくる資金によって、徐々に「ダムなしではやっていけない」体質になっていたことも感じる。
 
こうした巨大なダム計画によって失われるものとは、土地や自然ばかりではない。実は自らの地域の未来は自らが創り出していくという「自助の精神」を損なってしまうことこそ、恐ろしいことなのではないか。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・9・8)

第29回 世界経済危機への対処方法は80年前の国内産業に学べ

1929年恐慌時の生糸産業は今の自動車と電機を合わせた規模
 
2007年の米国の住宅バブル崩壊をきっかけに始まり、昨秋の米証券大手リーマン・ブラザーズの破綻をきっかけに、世界に広まった世界経済危機。その衝撃の大きさなどから、1929年に始まった世界大恐慌と対比して語られることが多い。

各国が採用している危機対策は、大恐慌時の政策を反面教師にしたもの。日本政府が7月に出した2009年度経済財政白書も、足元の経済危機を世界大恐慌などと比較・検証した。
 
日本の産業を巡る状況は経済危機の前と後ではで一変し、自動車や電機といった輸出型製造業が苦境に陥った。産業や企業の採るべき戦略を考えるときにも、同じように短い間に状況ががらりと変わった大恐慌時の産業の状況が参考になる。
 
財務省の貿易統計によると、経済危機が深刻化する前の07年、輸出に占める比率は輸送用機器が25.1%、電気機器が19.7%で計44.8%だった。いわゆる自動車・電機産業が日本の輸出の屋台骨だったことが一目でわかる。
それでは世界大恐慌のころ、日本の輸出を支えていた産業は何だったのか。江戸時代の末期から明治・大正にかけて、日本の輸出の大黒柱だったのは蚕糸や絹織物だ。日本が中国を抜いて、世界一の生糸の輸出国になるのは1909年(明治38年)のことだ。
 
富沢一弘・高崎経済大学教授の『生糸直輸出奨励法の研究 星野長太郎と同法制定運動の展開』によると、世界大恐慌があった1929年(昭和4年)、輸出全体に占める蚕糸類・絹織物の割合は44.0%だった。
 
その比率は07年の輸出に占める輸送用機器・電気機器の比率とほぼ同じ。当時の蚕糸産業は、現在の自動車と電機を合わせた巨大な産業だったことが分かる。
 
今回の経済危機では、日本の自動車・電機産業が米国の消費に過度に依存していたことが、欧米以上に日本経済の落ち込み方が大きかった理由だ。大恐慌時、日本の生糸の輸出先は90%以上が米国だった。いま以上に、日本の経済は「米国が風邪を引けば日本も」の構造だったわけだ。
ところが大恐慌の影響などで、31年には生糸の価格が29年比で53%も暴落する。生糸の輸出額も47%も減ってしまった。輸出に占める蚕糸類・絹織物の比率も35%にまで落ち込んだ。


「53%も輸出が落ち込んだ生糸産業の実直な内需拡大策
 
こんな状況の中で、日本の蚕糸や絹織物の事業者はどのように対処したのか。興味深い動きをしたのが、当時から京都の西陣と並ぶ絹織物の産地だった群馬県桐生市の織物事業者たちだ。
 
当時、桐生織物同業組合(現在の桐生織物協同組合)の組長を勤めたのは、彦部駒雄という人物。桐生織物が全盛を誇った大正末期から昭和初期にかけて、桐生だけでなく同じ群馬県の伊勢崎、栃木県の足利など両毛地域の織物業界の指導者だった人物だ。
 
この時期に、彦部が先頭に立って採った戦略が、今に照らし合わせても示唆に富んでいる。桐生市在住で、桐生織物の歴史に詳しい亀田光三氏によると、彦部は空前の織物不況に打ち勝つため、東京や大阪を中心に、全国的な宣伝活動を展開。大阪で開いた大会では、高島屋など6大デパートに審査を依頼し、賞品授与式には群馬県知事まで担ぎ出した。
 
宣伝大会の会場では、彦部は自ら売り場に立ち、招待客に購入をお願いして回ったという。組長在任中の宣伝大会は30回近くにもなった。こうして輸出が落ち込む中で、国内向けの生産量を増やしていった。今でいう「内需拡大策」である。
 
彦部は新市場の開拓にも辣腕をふるった。29年には東南アジア市場を、当時としては常識はずれともいえる約3カ月間の長期にわたって視察した。
その後、上海やインドのコルカタ(旧カルカッタ)、インドネシアのジャワ島などに駐在員を派遣、輸出事業者と協議して規格統一や商取引方法の改善などを進めた。


現在の製造業が取るべき道がそこにある
 
こうした施策が実を結び、桐生織物の32年の輸出点数は29年の約4倍に膨らんだ。織物不況の中で国内の他の産地が衰退するなか、桐生織物の生産額はほぼ横ばいを維持した。「彦部の強力な指導で内外の販路を拡大し、恐慌を克服した」(亀田氏)のである。
 
桐生市の中心にある桐生織物会館の前庭には、彦部の業績をたたえた碑がある。戦前には一時期、同じ場所に彦部の銅像が建てられていた時期もあるが、43年には軍事用資材として拠出してしまったため、今あるのは文章のみを記した頌徳碑のみで、地元の人でもその存在を知る人は少ない。
 
彦部は生前、国際的には「産業に国境なし」を信条として、当時のグローバリゼーションを拒むのではなく、正面から立ち向かうことで活路を開いた。その後、桐生に限らず日本の織物業界は第2次世界大戦で大きな打撃を受けるのだが、大恐慌後の桐生織物の戦略は、今でも賞賛に値する。
米国発の経済危機で自動車・電機の輸出が激減し、輸出型製造業が苦しむ現在の日本の状況は、80年前とダブって見える。彦部がいま生きていれば、受注を待つのに慣れた下請けメーカーに営業や販売促進の強化を促し、輸出については欧米一本やりから転換して、アジアなど新興市場の開拓に向けて先頭を切るに違いない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・9・1)

第28回 フランスとは大違い、起業志向激減、起業が政策の争点にもならない現実

大学卒業後2年で会社を興した青年の今
   
1998年夏のことだ。インターネット関連の会社に勤める若手社員から「大学を卒業したばかりでネット系のベンチャーを興した人がいる」という話を聞き、興味を持ち、早速その若者に会いにいったことがある。

東京都港区の雑居ビルにある、その会社を訪ねてみると、オフィスにいたのは社長である若者本人と、もう1人だけ。オフィスはがらんとしてあまりにもできたばかりの感じがしたので最初は心許なかったが、話を聞き始めると印象が変わった。
 
当時25歳だったその若者は、大学卒業後に入社した人材サービス会社、インテリジェンスを1年で辞め、同社からの出資も受けて新会社を興した。大学卒業時から「起業」に興味を持ち、だからこそ人材系のベンチャーであるインテリジェンスを選んだのだという。
「今はインターネットの新しいサービスがどんどん出てきます。しかしどの会社も開発に人員を集中して配置するので、新しいサービスをきちっと営業して売ることができない。どんな分野でも足を使って売る仕事は大切ですが、ネットの会社って、意外とそれができないんですよね。そこで我々はネットに特化した営業代行をやっていきます」。
 
若者は新会社の狙いをこう説明した。実際、その会社はネット関連の営業の仕事をすぐに数社から受注した。
 
当時、既に私は新興企業やベンチャーの取材の経験がかなりあった方だが、大学卒業後2年しか経っていない「経営者」に会ったのはそのときが初めてだった。
 
そして単に若いだけでなく、会社のコンセプトもそれなりにしっかりしている。「若者の大企業志向が強い日本でも、こんな経営者が生まれる時代が来たのか」というのが、そのときの偽らざる感想だった。
この若者とは98年3月にサイバーエージェントを設立した藤田晋氏のこと。東京証券取引所が設立した新興企業向けの株式市場、マザーズにサイバーエージェントが上場するのは、それからわずか2年後のことだ。


「今の会社にずっといたい」が数年で倍増
 
藤田氏は73年生まれだが、同年生まれには、サイバーより一足先に東証マザーズに上場した、クレイフィッシュ(現・e-まちタウン)の創業社長だった松島庸氏がいる。ライブドア(オン・ザ・エッヂ)の創業者だった堀江貴文氏は1つ上の72年生まれだ。
 
少し下に目を転じれば、ミクシィ社長の笠原健治氏(75年生まれ)、はてな(京都市)社長の近藤淳也氏(76年)、グリー社長の田中良和氏(77年)など、いわゆる「ナナロク世代」がいる。
 
藤田氏が起業した90年代後半から2000年代の半ばまでは、日本でも若者の起業や、力のある若手起業家が目立った時期だったといえる。
 
ところが今は、これに続く世代が見えにくい。当然、ナナロク世代よりもさらに若い起業家もいるはずなのだが、塊としての存在感が薄いのだ。また若者の起業志向もしぼんでいるように見える。
 
日本生産性本部の「2009年度新入社員意識調査」によると、「今の会社に一生勤めようと思っている」とする回答が08年に比べ8.1ポイントも増え過去最高の55.2%となった。
 
この質問項目は、若者の起業志向そのものを聞いたものではないが、長年、新入社員に対して同じ質問を聞いているだけに、新入社員の気質の変化を測るには絶好のバロメーターになる。
 
「今の会社に一生勤めようと思っている」とする回答比率が、過去最も低かったのは2000年で20.5%。私が「力のある若手起業家」の存在を感じ始めたころと、時期的にほぼ一致している。
しかしそれ以降はほぼ一貫して「一生勤めようと思っている」が上昇し、09年度は半分を超えた。相当な勢いで新入社員の保守志向が進み、逆に起業志向は減退しているといえるだろう。


昨年の1.5倍、フランスで起業が増えている理由
 
若者の起業志向がしぼんだ理由はいくつか考えられる。理由の1つは、テクノロジーの動向。90年代後半のインターネット関連、2000年代前半の携帯ネットサービスのように、小資本のベンチャーでも参入が可能な分野が今はみつかりにくい。
 
2005年のライブドア事件以降、若手の起業家や新興企業に対する世間の目も厳しくなり、上場が難しくなったことも要因の1つだろう。さらに08年秋のリーマンショック以降の経済危機で、「何よりも職に就いていることが重要」という意識が、若者の間に広がったことも大きいかもしれない。
 
しかし経済危機だからといって、どの国の起業志向もしぼんでいるわけではない。
 
7月27日付の日本経済新聞朝刊によると、フランスでは現在、起業が急増しているのだという。09年前半の起業は27万社強で、通年では08年の32万7千件を50%強上回る50万社を超す勢いになりそう。社会保険料減免などの優遇策が効果を発揮したほか、厳しい雇用環境が影響しているとの見方もある。
 
仏経済は大企業中心で、もともと起業が盛んな米国より、日本の経済構造に近い。そのフランスでさえ、起業ブームが起こっているのだ。日本でも政策次第では、フランスのような起業数を増やすことも可能なはずだ。
 
だが今回の衆院選でも、マニフェストで起業や開業の増加に触れているのは民主党だけ。それも「中小企業の技術開発を促進する制度の導入など総合的な起業支援策を講じることによって、100万社起業を目指す」としただけで、具体的な方法には触れずじまいだ。
 
起業や開業の増加は、雇用の創出を通じて産業構造を転換させ、経済の中長期的な成長力を高める効果がある。にもかかわらず今の日本には、起業の勢いがしぼみ、さらにそれを変えようとする政治家もいない。これではあまりにも、さびしすぎるのではないか。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・8・4)

第27回 上場意欲がしぼむ中で迎えた、新興市場6年ぶりの好機

初値200万円の株価が現在135倍の2億7080万円に
 
今から12年前(1997年)の11月4日。当時の店頭市場(現在のジャスダック)に、設立から間もないあるベンチャー企業が上場した。
 
上場の直前期に当たる1997年3月期の売上高は4億1300万円、経常利益は5000万円。利益率こそ高いものの、売上高、利益の規模は、新興企業が多い店頭市場の中でも、きわめて小さい会社だった。それに比例するように、上場時の公募増資で調達した額はわずか6億4000万円にとどまった。

ところがこの会社は、インターネット分野の新しい分野を切り開いた会社として、上場時からほぼ右肩上がりで成長を続け、株式市場でも高い評価を受け続けてきた。そう、この会社とは日本でネット検索の先駆けとなり、その後、ニュースやネットオークション(競売)などを加えて総合的なポータル(玄関)サイトに成長したヤフーのことである。
 
ヤフーが上場した日の初値は200万円。このときに1株だけ購入して、今も持ち続けていたとすると、この株の価値は今、いくらになっているだろうか。
 
1996年1月の設立から、わずか1年9カ月で上場したヤフーは、上場時の株式数がわずか6775株しかなかった。おまけに上場後はすぐに人気株となったため、株価を引き下げ、市場に流通する株数を増やすため株式分割」を定期的に続けてきた。理論上は1対2の分割をすれば、発行済み株式数は2倍になる一方で、株価は半分になる。
 
ヤフーが最初に1対2の株式分割を実施したのが99年5月。それ以来、2006年4月まで、同様に1対2の分割を13回も続けてきた。
 
店頭公開時に1株を購入した株主はそのまま持ち続けていれば2の13乗、つまり1株が9192株に増えた計算だ。
 
7月17日のヤフーの終値は2万9460円。これに9192株をかけた2億7080万円が、現在の価値となる。つまり上場時に投資した200万円が、12年間でおよそ135倍に膨らんだ計算になる。


上場した時期のタイミングの良さがあるかどうか
 
日本の投資家はバイ・アンド・ホールドという長期保有する人の比率が低いため、上場時に初値で買い、そのまま今も保有し続けている株主が実際にどれだけいるかはわからない。ただヤフーは企業規模が小さい段階で上場してその後も成長を続けることで、長期的に見れば、おおむね株主の期待に応え続けてきた会社であることは確かだ。
 
2006年1月のライブドアショック以降、日本の新興企業というと、ビジネスモデルの崩壊や、放漫経営により株価が急落し、株主に損害を与える会社ばかりというイメージが強くなってしまった。だがヤフーのように、株主の長期的な利益を実現している会社もあるのだ。
 
ヤフーの上場以来の株価動向を眺めてみると、改めて気づくのは「上場した時期のタイミングのよさ」だ。中長期に見ると、日経ジャスダック平均株価(JQ平均)はほぼ5~6年ごとにピークをつける周期を描いている。
 
この10年あまりをみてみると、98年末に底入れした後、インターネットの勃興期を迎えて2000年まで上がり続けた。ネットバブルの崩壊で2003年までほぼ一貫して下がり続けた後、日本経済の復活で上昇基調をたどり2006年1月にピークを迎えた。
 
その後はライブドアショックで日経平均より先行する形で下げが続いたが、今年3月に大底を打ち、今は上昇過程にある。
 
ヤフーが上場したのは、ほぼJQ平均が大底のときで、業績の割には、上場前公募増資の価格(70万円)や上場時の初値(200万円)は抑え気味のものだった。
 
ヤフーが上場した当時は、インターネットが勃興期を迎え、ヤフーの成長力も際だっていた面はある。だが株式相場が大底の時に上場し、最初は抑え気味の株価がついたからこそ、その後の右肩上がりの株価上昇が可能になった側面もある。


5~6年の周期で上昇と下降を繰り返すジャスダック
 
上場を目指す新興企業の経営者にとって、そのタイミングは難しい判断を迫られるものだ。株式相場が過熱し高株価が狙える時期に上場すれば、公募増資による資金調達額も増えるし、自ら保有する株式を市場に売り出すなどで、多くの創業者利益も獲得できる。
 
設備投資を多く必要とする分野で、多額の成長資金を必要とする企業であれば、こうした時期に上場することも選択肢の1つだろう。
 
だが必要資金がそれほど多くなければ、むしろヤフーのように株式相場が低迷しているときや、大底を打ち上昇局面に入りかけた頃に上場する方が得策だ。その方が、調達資金は少なくなったとしても、上場後の株価は上昇しやすく、株主を味方に付けやすいからだ。
 
ライブドアショック以降の新興企業の株価低迷と、手間がかかる割に小規模の企業には利点が少ない「内部統制制度」の影響などで、未上場企業の経営者は、上場への意欲をしぼませているように見える。未上場企業の経営者の中には「上場はメリットがない」と公言する人も少なくない。
 
だがJQ平均がこれまでと同じようにほぼ5~6年の周期で上昇と下降を繰り返すと仮定すれば、今年は2003年からほぼ6年ぶりに巡ってきた、ジャスダックを中心とする中小型株市場が上昇過程を描く年だ。
 
実は新興企業が上場するタイミングとしては、今年はかなりよい時期であるのだ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・7・21)

第26回 「よそ者」の感覚を大切にして成功させた地域づくりの「発想」

新幹線の駅近くで繰り広げられる幻想的な光景
 
JR東京駅から上越新幹線に乗って1時間あまり。高崎駅を発車し、いくつかの長いトンネルを過ぎると、上毛高原駅(群馬県みなかみ町)に着く。目的地に向かってまっすぐなルートを描く新幹線の場合、在来線とは接続せず、自治体の庁舎や繁華街からも遠く離れた所に駅をつくることがある。上毛高原駅もそんな駅の1つだ。

駅の東側はロータリーやバスの発着所などがあり、それなりに開けている。しかし西側は里山に面し、新幹線の駅らしい開発はほとんど進んでいない。その西側の小道を上っていくと数分で「月夜野ホタルの里」(みなかみ町月夜野)に着く。
 
案内用の看板がある小高い場所からは、なだらかな斜面に広がる田んぼや雑木林、その間を縫うように流れる小川などが見下ろせる。大きく息を吸い込むと、田や草のかぐわしいにおいがする。振り返れば新幹線の近代的な駅舎が見える距離にあるのだが、全くそんなことを感じさせない里山の風景だ。
 
ここは関東地方でも有数のホタルの名所。里山の中、小川や田んぼに沿って2キロ弱の観賞コースが整備されている。
 
駅からコースの入口までは提灯などもあるが、コースに一歩踏み込むと、人工的な光はほとんどない。ホタルは懐中電灯の光も嫌うので、観賞者は月明かりをたよりに、小川沿いの道をのぼっていく。すると1匹のゲンジバタルが小川から道の方へ、スーッと横切った。
見所は南側と北側にそれぞれ1つずつある池の周辺だ。北側の池では、その奥の竹やぶをバッグに、数十匹のゲンジボタルが光を発しながら舞っていた。幻想的な光景を目の前にして、観賞者からは歓声があがる。


よそ者が作ったホタルの里の細やかな環境
 
ホタルの観賞期間は6月中旬から7月中旬。ホタルを見るだけのために、2008年の場合はその期間に約1万6000人もの人が訪れた。
 
周辺には猿ケ京温泉や水上温泉など温泉街が多くあり、ホテルや旅館は宿泊者を車でホタルの里へ案内している。温泉街にとっては閑散期に当たる梅雨の時期の観光客集めにも、ホタルは一役買っているわけだ。
 
一見したところでは、このホタルの里は昔からこの環境が保たれてきたかのように見える。だが月夜野ホタルを守る会の小林一義会長によると「月夜野でも昭和30~40年代、農薬の使用増や田畑の土地改良などでホタルが大きく減少した時期があった」という。
 
除草剤はカワニナやタニシなど、ホタルの幼虫のえさとなる水中生物も殺してしまう。土地改良で小川がコンクリート製になってしまえば、大雨が降るとカワニナやホタルの幼虫は流されてしまう。
 
この地区でホタルの復活に力を尽くしたのは、高崎市に住んでいた故・丸岡文夫さん。群馬県ホタル連絡協議会会長だった丸岡さんは月夜野に通い詰めて、この地区では清水がわき出し、水質がきれいなうえに、冬でも温度が低くなりすぎないことがホタルの生育に適していることを調査した。
 
さらに丸岡さんは地域の人たちと共に、地区の上流にホタルの保護地をつくり、保護地で育ったホタルが自然発生しやすいように、自然石を利用した水路や遊歩道を整備した。水路はカワニナが育ちやすいよう、段差や小さな蛇行がつくってある。
今は、春や秋の草刈り、カワニナを育て6月に放流する作業、観賞期間中の誘導・案内などは地域の住民が担っている。しかし小林会長は「丸岡さんがいなかったら、月夜野の環境は今のようにはならなかっただろう」と振り返る。ホタルの里づくりの中心にいたのは、「よそ者」の丸岡さんだったわけだ。


女子大生の一言が、妻物にモミジの葉を選ばせた
 
町づくりの中心にいる、あるいは中心となるべきなのは、その地域のことをよくわかった地元住民だと、我々は思いがちだ。だが成功した地域おこし、町づくりのケースを調べてみると、その中心にいるのは「よそ者」であることが少なくない。
 
例えば、山にある葉っぱを料理の妻物(つまもの)として売り出し大成功した徳島県上勝町。そのリーダーで第三セクター、いろどりの横石知二副社長は徳島市の出身で、上勝町農協に営農指導員として入社したときに、初めて上勝町にやってきた人だ。
 
横石さんの著書『そうだ、葉っぱを売ろう!』(2007年、ソフトバンククリエイティブ)によると、横石さんは農協に入った当初、農家の人たちに「今のやり方ではダメ」と改革を訴えると、「おまえはよそから来たんではないか。明日から、おまえはもう来んでいい」と言われ、町から追い出されそうになったこともあったという。
 
その横石さんが1986年に大阪の寿司屋で女子大生が妻物のモミジの赤い葉を「これ、かわいー、きれいねー」と喜んでいるのを見たのをきっかけに葉っぱを売ろうと考え、町の人々を変えていくのである。
 
もちろん、よそ者であっても地域の事情を知らずに、東京や他の地域の物差しを押しつけるばかりでは、住民からも嫌われるばかりだろう。だがむしろ丸岡さんや横石さんのように、よそ者でありつつもその地域のことを深く理解すれば、住民以上に地域の強みや個性を正確に判断できるようになる。
地域づくりに必要なもの。それは地元に慣れすぎていない「よそ者」の感覚だ。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・7・14)

第25回 政府が唱える「賢い支出」は一体誰がやるのか

借金なれしてしまったか日本
「816兆円」という数字をみて、すぐに何の数字かわかる人はどれくらいいるだろう。これは2009年度末の「国及び地方の長期債務残高」。いわば日本国と地方自治体の借金の総額だ。
 
国内総生産(GDP)に対する比率は168.5%。債務残高のGDP比は財政健全化の目安となるが、日本の比率は先進国の中で最悪。先進国では2番目に悪いとされるイタリアでも117%(08年)だ。

仏、米、独、英、カナダといった先進国のGDP比(08年)はいずれも100%を大きく下回っている。各国とも世界経済危機に対応した財政の出動により、09年以降はこの比率が悪化する可能性は高いが、それでも日本の財政状況が突出して悪いかがよくわかる。
 
長期債務残高のGDP比が米国と同じ7割程度だった日本が、急激に債務を増やしたのは1990年代に入ってから。バブル経済崩壊後の不景気を克服するために打ち出した経済対策や、高齢化に伴う社会保障費の増加が災いして、GDP比は151%となった2005年まで一貫して高まっていった。
 
その後、政府は小泉政権時に債務残高の上限目標などを定め、財政健全化路線に舵を切った。経済財政運営の基本方針「骨太方針2006」では、公共事業や社会保障費などの削減を進め、11年度には国・地方合わせた基礎的財政収支の黒字化を掲げ、債務残高の削減を目指していた。
 
05年度から07年度にかけては景気の拡大期だったこともあり、債務残高の増加ペースは弱まり、GDP比はわずかながら改善に向かった。
 
しかし07年秋以降の世界経済危機で、再び長期債務残高は増加基調に転じる。政府が4月に取りまとめた追加経済対策では、財源として10兆8000億円の新規国債を増発。その結果、09度末の国と地方の長期債務残高は前年度末より29兆円増え、816兆円に達する見込みだ。
 
内閣府がGDPの成長率見通しを下方修正したこともあり、09年度のGDP比は前年度末と比べ、一挙に10.8ポイントも上昇することになった。
 
財務省がこの長期債務残高やそのGDP比の最新見通しを公表したのは4月30日。財政健全化路線を掲げた小泉政権時代だったら、トップ級のニュースになっただろう。しかし実際には、あまり大きな話題にはならなかった。


借金1人当たり640万円なり
 
国の借金に対して、国民の反応が鈍くなっている背景には「100年に1度の経済危機だから、財政赤字の拡大も仕方ない」という認識がある。
 
自由な市場経済の先頭を切っていた米国ですら、自動車最大手のゼネラル・モーターズ(GM)を実質国有化するなど、財政の大幅悪化を伴う「公的資本主義」に足を踏み入れた。世界経済危機を回避するため新興国を含め20カ国・地域(G20)がいっせいに財政刺激に動いたことも「財政悪化は日本だけではない」という意識に拍車をかけているかもしれない。
 
だが、他国も借金を増やしているという理由だけで、先進国で最悪の財政状況を正当化するわけにはいかない。816兆円といえば、国民1人当たり640万円という巨大な額だ。人口が先細りする中で、国民1人当たりの負担はさらに重くなる。そのような状況の中での経済対策は、文字通り、政府が唱えるような「賢い支出」(ワイズ・スペンディング)にしないといけない。
 
バブル経済崩壊後、地方では政府の経済対策に応じて大型のハコモノを建設する自治体が相次いだ。四国の真ん中にあり、65歳以上の割合が5割を超える高知県大豊町。町は90年代、政府の景気浮揚策に乗り、ハーブを集めた「ゆとりすとパーク」(総事業費23億円)などを相次いで建設した。
 
国主導とはいえ自治体にも応分の負担がある。大豊町の施設は利用が低迷。町には借金が重くのしかかり、一時は実質公債費比率が四国で最悪となった。
 
ハコモノの建設は、確かに土木建設事業を通して、その地域に雇用を生む。だがそれが地域の成長につながらなければ、ハコモノと借金だけが残る。2000年代の半ば、地方交付税の削減が続いたときには、日本中の至る所でこんな話があった。
 
こうした施策は「政府のバラマキ」として激しく批判を浴びた。そのため今回の経済対策では、以前のようなバラマキは影を潜めるはずと考えていたが、必ずしもそうではなさそうだ。
 
例えば、09年度補正予算の中には、日本の漫画やアニメ、ゲームソフトを収集、展示する「国立メディア芸術総合センター」(仮称)の建設計画がある。
 
その総工費は117億円。建設費の高さもさることながら、完成後も年間の入場料収入が運営費を大きく下回る見込みで、赤字を垂れ流すことにもなりかねない。国会では「バラマキの象徴」と集中砲火を浴び、野党ばかりか与党からも中止要求が出る事態になった。
 
このように、今回の経済対策は急ごしらえのものだっただけに、さまざまな穴がある。本当に「賢い支出」にするには、国会や国民の注視が欠かせない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・6・23)

第24回 「雇用調整助成金」の危険な側面

肌で感じた生産・輸出の落ち込み
 
この春、関東近辺の、ものづくりの中小企業を取材するようになって最初に驚いたのは、経営者や関係者のこんな言葉だった。
「いやあ、生産量や出荷額が前年比5割減なんてザラですよ。なかには9割減の会社もあるくらいです。だから今は4勤3休だけでなく、3勤4休、2勤5休なんて会社もたくさんありますよ」。

東京にいても、日本の製造業の現場で働く人たちの生の声を聞くことは、意外と少ない。
 
確かに各種の統計では、2008年9月のリーマンショック以降、日本の輸出や生産が激減していることを示してはいた。ただ製造業の惨状を身にしみて感じるようになったのは、こうした中小企業経営者の言葉をじかに聞いたり、機械の7~8割が稼働していない工場を自分の目で見るようになってからだ。
 
こうした製造業の状況に慣れてくると、また違ったことも気にかかるようになった。
 
製造業はそれ以前の需要が半減する"ハーフ・エコノミー"の状況に陥っている。しかしその割には、製造業の経営者も、地域の人たちも、追い詰められたような表情や必死さを感じないのはなぜだろうか――。
 
経営者は「大変だ、不景気だ」と言いつつも普通に生活している。街に雇用を失った人や浮浪者があふれているわけでもない。確かに不景気なのだが、人々も、街も、それなりに落ち着いているように見えるのだ。「100年に1度の危機」というのは、こんなものなのだろうか。


意外に緩い企業倒産・失業率
 
こうした製造業の惨状と、街の奇妙な安定感のギャップは、統計にも表れている。
 
鉱工業指数や日本銀行の短期経済観測(短観)の業況判断DIは昨年後半から今年にかけて記録的な落ち込みを示した。一方で、5月の企業倒産件数(東京商工リサーチ調べ)は前年同月比6.7%減の1203件。負債総額も1.8%減の5399億円で、2カ月連続減少した。中小製造業の倒産増加は続いているものの、各種生産統計やDIの落ち込みほどに、倒産は増えていないのだ。
 
完全失業率も4月は約5年ぶりに5%台に上昇したとはいえ、9.4%と約25年ぶりの水準にまで悪化した米国と比べれば、悪化テンポは相当に緩やかだ。
 
生産・輸出の落ち込みに比べて、悪化の程度が緩い企業倒産や失業率。このギャップを理解するカギの1つが、政府の「雇用調整助成金」(中小企業向けは「中小企業緊急雇用安定助成金」)の制度だ。
 
これらは企業が不況などで事業縮小を余儀なくされたとき、従業員を休業及び教育訓練、出向させることで雇用を維持した場合、国から賃金や教育訓練費に対する助成金が支給される制度。これまで条件が厳しく、事務手続きも煩雑で使い勝手がよくなかったが、2008年12月に支給要件を緩和して以降、申請企業が急増している。
 
3月の実施計画の申請件数は約4万8000事業所で、2月に比べ76%増と急拡大。2008年度合計では約9万4000事業所(前年度比148倍)、対象従業員数は約529万人(409倍)に達した。申請や事務手続きあるため2008年度に支給決定された対象者はまだ25万人強にとどまっているが、それでも前年度比22倍に増えた。
 
実際、中小企業などに取材するとこれら助成金の評判は悪くない。「仕事はよいときに比べて8~9割減ったが、正社員11人をなんとか切らずにいられるのは助成金のおかげ」と、群馬県太田市の中小歯車メーカーの社長は話す。
 
この会社の場合、1年前までの好調期に、将来を見越して4人の20代正社員を雇った。ようやく技術を身につけ出した社員の雇用を保つことができるのは、雇用調整助成金というわけだ。


制度を両刃の剣にしてはならない
 
しかし問題は、助成金の支給限度日数が「3年間で300日」で、限度が来るまでに、日本の輸出型製造業が数年前のような状況に復活する保証は全くない点だ。
 
助成金は、産業構造が大きく変わらず、一時的に景気が悪化した場合などには、確かに効果がある。助成金によって維持した雇用が、景気の回復局面で再び力を発揮するからだ。
 
だが今回のような大きな構造変化が伴う局面では、事業を維持する体力がなかったり、新しい分野に挑む力のない企業を生き残らせ、産業構造の転換を阻む可能性も高い。
 
不振企業の雇用を温存する助成金政策は、企業倒産や失業率の悪化を緩やかにする効果はあるとはいえ、その副作用も大きいのだ。
 
その中小歯車メーカーの場合、仕事があいた時間を利用して、これまでおろそかになっていた技術の習得や、下請け仕事ではできなかった新製品開発に充てていた。
 
助成金を適用されたすべての企業がこうした革新に挑んでいるのであれば、心配はいらない。だが現状はむしろ、「座して景気の回復を待つのみ」の会社が少なくはないことが気にかかる。

(2009・6・9)

第23回 「バイ地元製品運動」、「地産地消」の光と影

太田市の製造品出荷額は沖縄県の4倍規模
 
5月20日に行われた富士重工業の新型「レガシィ」の発表会を見にいった。
 
この日、富士重はレガシィの記者発表を東京都内と、自動車部門では国内唯一の生産拠点である群馬製作所(群馬県太田市)の2カ所で行っている。私が出席したのは、後者の方だ。

群馬県のほぼ東の端に位置する太田市は、中島知久平が1917年に日本初の民間航空会社、中島飛行機を設立した場所。その中島飛行機は第2次世界大戦後、財閥解体指令を受けて12社に分割。53年に、そのうちの5社が再び集まってできたのが富士重工業だ。富士重にとって太田市は、主力工場があるというだけでなく、前身の中島飛行機が創業したときからの歴史が深く刻み込まれている場所でもある。
 
自治体がどれくらいものづくりで稼いでるかを示す「製造品出荷額」。太田市の2007年の製造品出荷額は前年比3.8%増の2兆600億円だった。
 
都道府県の順位と比べてみると37番目に相当する。鹿児島県や佐賀県をやや上回り、最下位の沖縄県の4倍弱にもなる規模だ。
市町村としては巨大な、この製造品出荷額を可能にする原動力が、富士重工業をはじめとした自動車関連の企業群。太田市の製造品出荷額に占める輸送機器の比率は63%(07年)にもなる。


市長自ら音頭を取って「車を買おう!」
 
そうした経緯があるからだろう。矢島工場での発表会は、マスコミ向けというより、太田市や群馬県内の関係者向けという色彩の濃いものだった。群馬県知事こそ欠席したものの、茂原璋男・副知事や清水聖義・太田市長、地元の販売会社や協力会社のトップが続々とあいさつに立った。
 
中でも印象に残ったのは清水太田市長の言葉だ。
 
「レガシィが売れないと、富士重工業の赤字が膨らむ一方だ。新型レガシィの発売で(太田市に)税金を払っていただく体質に変わってほしい。我々はみんながスバルに乗るように、努力しなければならない。1回でも乗っていただければ、よさはわかってもらえる。そのために我々は"スバリスト"になり、スバルのよさを伝えていく」
 
市長が市の税収を支える大企業に向かって「赤字が膨らむ一方」とバッサリと表現するのも、一方で「スバリストになって」というほどに企業の側に立った発言をするのは珍しい。それだけ太田市民にとって富士重は大きな、そして愛憎が入り交じるような存在ということだろう。
 
実際、太田市は3月から市内在住の勤労者と中小企業を対象として、スバル車購入時に200万円までは利率1%で融資する低利融資制度「スバルローン」や、市内の農業協同組合員がスバルの軽トラックを購入する際の助成制度を始め、成果を上げている。
太田市のように、自治体が地元に事業所や工場のある企業の製品購入を勧めたり、そのための助成制度を設ける「バイ(Buy)地元製品」の動きは全国に広がっている。


バイ地元製品運動は保護貿易主義に陥りかねない
 
マツダのおひざ元、広島では広島県や広島市、呉市がそれぞれの予算でマツダ車を購入した。 
日産自動車の九州工場、トヨタ自動車九州の苅田(かんだ)・小倉工場が立地する福岡県苅田町は、町長が職員にマイカー買い替え時に両社の車の購入を呼びかけ、実際に10人近くが買った。
 
こうした動きは、岩手県の東芝、栃木県矢板市のシャープなど、自動車だけでなく電気製品にも広がっている。
 
太田市だけでなく、税収に占める法人市民税の割合が大きい企業城下町はいずれも大幅な税収減に見舞われている。トヨタ自動車のお膝元である愛知県の豊田市や田原市の2009年度の法人市民税は前年度より9割超も減少する見通しだ。
 
こうした状況の中で、自治体が「バイ地元製品」に走るのは、自治体自身が動くことのできる、数少ない対策の1つだからだろう。自治体関係者の中には、バイ地元製品運動を、地域の農業を活性化するために日本各地で広まった「地産地消」になぞらえる人もいる。
 
ただバイ地元製品運動は一歩間違えば、保護貿易主義にも陥りかねないことを、目に留めておくべきだ。
 
地元企業の製品の買いを推奨しているだけならばいいが、もし地元製品だけを買うことを義務づけるなどすれば、それは米国製品の購入を義務付ける「バイ・アメリカン条項」を盛り込もうとして、各国や経済界から批判された米国の景気刺激策と変わらない。
 
1929年の世界大恐慌後、世界には保護貿易主義、ブロック経済化の動きが強まり、それは第2次世界大戦の遠因となったとも見られる。
雨後のたけのこのように各地で始まったバイ○○運動。それは、これ以外の明快な打開策を見いだしにくいニッポン製造業、あるいは製造業に依存した自治体の苦悩の深さも示している。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・6・3)

第22回 「高速道路1000円」が変えた観光地の"遠近感"

アウトレットパークに追い風
 
5月の大型連休中、埼玉県入間市にある三井アウトレットパーク入間へ買い物に行った。その日はあいにくの雨だったが、どの店もセール期間中と同じくらい、人でごった返している。悪天候の影響もあるのだろうが、過去に訪れたどのときよりも、周辺の道路は車で大渋滞していた。

2008年4月、HOYA武蔵工場の跡地にオープンしたアウトレットパーク入間は、最寄りの西武池袋線入間市駅から遠く、公共交通機関で行くにはひどく不便な場所にある。
 
だが反対に、車の利用を前提とした場合は絶好の立地だ。中央自動車道と関越自動車道を結んでいる圏央道の入間インターチェンジ(IC)からわずか500メートル。そのおかげで、埼玉県内だけでなく、東京都の西部、あるいは山梨県や群馬県の南部からも来店しやすい場所なのだ。
 
入間ICは大都市近郊区間に含まれるため、土日祝日に自動車料金収受システム(ETC)を搭載した車を使った場合でも、1000円にはならない。だが、それでも休日の昼間に中央道の甲府昭和ICから入間ICまで利用した場合、従来の3200円が1650円に割り引かれる。実際、三井アウトレットパーク入間には山梨ナンバーの車も多い。
 
ETC搭載車が土日祝日に1000円で乗り放題になる今回の高速道路値下げ。大型連休中の個人消費や観光地、輸送量の実績を眺めてみると、「1000円乗り放題」が広範な影響を与えたことがわかる。
 
1000円乗り放題がプラスに出た分野の1つが、アウトレットパークだ。日本経済新聞によると、大型連休中、三菱地所系のチェルシージャパン(東京・千代田)が運営するプレミアム・アウトレットの既存6施設の売上高は10%増だったという。
 
アウトレットパークはほ広大な敷地が確保しやすい都市郊外や地方にほとんどあり、車でのアクセスが前提になる。高速道路1000円乗り放題の恩恵を受けやすいうえに、景気の急速な悪化による消費者の低価格志向に合致しているのが好調の要因のようだ。
 
シネマコンプレックスの観客動員もおおむね10%前後増えた。連休後半の天候不順が奏功した面もあるが、これも1000円乗り放題効果の追い風を受けただろう。


大幅に伸びた本州四国連絡橋の利用者
 
肝心の高速道路の交通量を見ると、全国で最も交通量が増えたのが本州四国連絡橋の西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道)で、移動台数は前年比73%増えた。本州四国連絡橋はしまなみ海道を含め3ルートあるが、残りの瀬戸中央自動車道が65%増、神戸淡路鳴門自動車道も32%増と軒並み、交通量が大幅に伸びている。
 
なぜ1000円乗り放題で、特に本州四国連絡橋の交通量の伸び方が大きかったのか。それはひとえに、従来はこのルートの料金が高すぎたからだ。
 
大型連休で最も交通量が増えた、しまなみ海道。広島県尾道市を起点に、瀬戸内海の向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島などを経て愛媛県今治市に到る全長60キロ弱のこの道は、本州四国連絡橋の中でも最も風景の変化に富み、走って楽しいルートだ。
 
ところが本州側の西瀬戸尾道ICと四国側今治ICとの間の割引前高速料金(普通車)は4700円。往復することを考えれば、とても気軽に楽しめるような料金ではなかった。
 
それが今回の割引によって、ETC搭載車が土日祝日に利用する場合には、前後の高速道路を使っても1000円で通行できるようになったのだから、人が集まらないわけがない。


割引き料金で生まれた"近さ"
 
高速道路の交通量増にともない、おおむねサービスエリアやパーキングエリアの売り上げも好調だった。だが観光地の場合は、必ずしも好調だったところばかりではない。
 
大型連休中、群馬県の主な観光地の観光客数は前年比で10.7%減った。首都圏に近い同じ北関東でも、茨城県の観光客数が22.4%増えたり、栃木県も総じて好調だったのは対照的だ。
 
2008年12月の北関東自動車道の開通で、東北自動車道と常磐自動車道がつながり、茨城県と栃木県は首都圏以外の観光客需要を取り込めたことが大きい。だが群馬県内の北関東道はまだ東北道につながっておらず、そうした恩恵を受けにくかった。群馬県の観光関係者からは「首都圏の観光客が群馬を通過して遠い地域に向かったのでは」という嘆きの声が聞こえてくる。
 
高速道路の1000円乗り放題は、しまなみ海道に見られるように、これまで距離的に、あるいはコスト的に「遠かった」地域を劇的に「近く」する。「近い」という理由で選ばれていた観光地が、より遠い観光地が近くなることで負けてしまうケースが、他の地域でも起こっているはずだ。
 
これまで観光地への「距離感」の劇的な変化は、鉄道や高速道路、トンネルなどが開通するなど交通網が大きく変化したときに起きた。だが今回は政策の結果として、全国的な変化が一気に訪れた。
 
高速道路の割引は時限的な政策とはいえ、今後は相対的に利用者を減らしたJRなど鉄道各社の逆襲も予想される。コスト面でより「近く」なることの変化をどう生かすか、観光地の知恵が問われている。

(2009・5・12)

第21回 学生諸君! いい会社は「グローバル」から「ローカル」へ移っているぞ

がらりと変わった学生の就職志望
 
毎年、4月になるとリクルートが発表する「大学生の就職志望企業ランキング」。広告代理店や出版社など俗にかっこよいと思われやすい業種が上位になりやすいという、大学生を対象にした調査特有の傾向はあるものの、継続的に見てみると、そのときどきの「大学生の就職観」が表れていて面白い。

今年のランキング(表を参照)で際だったのは、輸出で稼ぐ外需型企業が軒並み順位を下げたのに対し、内需型企業が上位に名を連ねた点だ。
 
東海旅客鉄道(JR東海)が初めて1位になったほか、2位は東日本旅客鉄道(JR東日本)、3位には全日本空輸が入った。上位20社を見ると運輸や電力、食品メーカーなど内需型と、銀行や保険などの金融機関が中心だ。
 
一方、上位20社の中で外需型といえるのは、2008年から6つ順位を下げたパナソニック1社(15位)のみになってしまった。
 
そのほかでもソニーは21順位を下げて29位、シャープは41下げて55位、キヤノンは57下落し77位だ。さらにトヨタ自動車は08年の6位から96位に急落し、08年は18位だった日立製作所は、100位圏外に沈んでしまった。
 
ランキングの情景がからりと変わった背景にあるのはもちろん、米国から始まった世界経済危機だ。


人気上位企業も経営安泰ではない
 
2000年代の景気回復局面で日本経済をリードしたのは、主に輸出で稼ぐ自動車や電機などの外需産業。これらのセクターが金融危機をきっかけに始まった米欧の不況で、大きな打撃を受けた。
 
日産自動車2650億円、トヨタ自動車3500億円、パナソニック3800億円、日立製作所7800億円――。いずれも各社が2009年3月期に計上する見通しの連結最終赤字額だ。いくら財務基盤が堅固な大企業とはいえ、これだけの赤字額が明らかになれば、大学生の人気度が下がるのも仕方がない。
 
ただ興味深いのは、それでは2009年度のランキング上位に入った会社が業績堅調かというと、必ずしもそうとは限らない点だ。
 
例えば1位のJR東海は東海道新幹線が稼ぎ頭。景気後退で東海道新幹線の利用者は大きく減っており、09年3月期の連結純利益は2割超の減益になったもようだ。2位のJR東日本、3位の全日空も、同様の影響を色濃く受けている。
 
さらに深刻なのは4位のみずほファイナンシャルグループなどメガバンク。3行とも10位以内に入っているが、株安と不良債権の増加で前期の連結最終損益はいずれも赤字に転落したようだ。
 
リクルートは今回の調査結果を「不況下で学生の安定志向が進んだ」とみている。「赤字や減益であっても、鉄道会社や銀行の方が輸出型製造業よりは安全」というのが、今の大学生の企業観なのだろう。
 
日本経済のリード役が外需型から内需型に移りつつあることは、企業が稼ぐための舞台が「グローバルからローカルに」変わりつつあるということでもある。グローバル化の流れそのものは止められないにせよ、ローカル(国内や地域・地方)で強みを持つ会社を探し出すことが、就職活動のために会社を選ぶ新たな評価軸となる。


各地でトップを占めるローカル企業
 
例えば埼玉県が地盤の食品スーパー、ヤオコー。2009年3月期の連結決算はなんと17期連続の増収増益になったもようだ。単体のみで比較すると20期連続の増収増益だ。生鮮品や総菜を豊富に品ぞろえし、メニュー提案を第一に考えた店舗づくりなどが奏功して、好調を維持している。
 
スーパーマーケットの世界は一般にイオンや西友、ダイエーなど大手のイメージが強い。だが群馬県を地盤とするスーパー、ベイシア(前橋市)の高山正雄社長によると「都道府県別に食品の売り上げを見ると、総合スーパーがトップの都道府県は47のうち7つしかない」という。
 
埼玉県はヤオコー、群馬県はベイシア、山梨県はオギノ(甲府市)、高知県はサニーマート(高知市)というように、各地で「ローカル」スーパーがトップを占める。食品の世界はそれだけ地域性が強く、ローカル企業が強みを持ちやすいということだろう。あらゆる分野でグローバル化は進んでいるとはいえ、ローカルこそ強みになるような分野は、他にも数多くある。
 
ただローカル企業は、トヨタやパナソニックといったグローバル企業と比べれば圧倒的に規模が小さい。元気のいい内需型企業の代表例、「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングですら2008年9月期の連結売上高は5864億円と、売上高の規模はトヨタやパナソニックに比べ1ケタから2ケタ小さい。ヤオコーの前期連結売上高も約2100億円だ。
 
企業の評価軸がグローバルからローカルに変わりつつあるのに、大学生の就職志望ランキングに業績堅調なローカル企業がほとんど出てこないのは、その規模が小さいからだ。
 
だが小さいが、ある分野で強みを持つローカル企業はたくさんある。そうした会社を見つけることが、これからの大学生の就職活動には重要になる。


(表)リクルートによる大学生の就職志望企業ランキング(2009年)
1(4) 東海旅客鉄道
2(9) 東日本旅客鉄道
3(1) 全日本空輸
4(3) みずほフィナンシャルグループ
5(20) 三菱UFJ信託銀行
6(2) 三菱東京UFJ銀行
7(17) 東京海上日動火災保険
8(29) NTTドコモ
8(5) 三井住友銀行
10(13) ベネッセコーポレーション
11(7) バンダイ
12(33) 三井物産
13(38) 三井住友海上火災保険
14(24) 日本航空インターナショナル
15(9) パナソニック
16(31) 日本放送協会
16(61) 明治製菓
18(30) オリエンタルランド
18(20) サントリー
20(26) 住友商事
20(11) 損害保険ジャパン
(注)カッコ内は2008年の順位

(2009・4・21)

第20回 山奥の養蚕農家にも及んだグローバル化の恩恵

明治中期に山奥に建てられた3階建ての豪邸
 
草津温泉の玄関口となるJR吾妻線の長野原草津口駅(群馬県長野原町)。ここから白砂川という川に沿って、草津へと向かう曲がりくねった国道を車で10分ほど上っていくと、急に視界が開け、川向こうの山裾に、六合村(くにむら)の赤岩地区が見えてくる。

約50軒の集落は山のなだらかな南斜面にあり、集落を横切る細い道の両脇に、築50年以上の養蚕農家が立ち並ぶ。その周りを農地が囲み、さらにその外縁には、神社や観音堂などが点在している。
 
中には、幕末から明治にかけて建ったという歴史のある建物も多い。実際に集落を歩いてみると、道が舗装されておらず、車や電柱がなければ、古い山村を再現した映画のセットかと思えるような場所だ。
 
この赤岩地区は2006年、国から「典型的な山村の家並みや景観を保持している」として「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれた。群馬県や国が世界遺産登録を目指している「富岡製糸場と絹産業遺産群」の1つでもある。
 
赤岩の中でも最も古い部類に入る養蚕農家に案内してもらった。母屋は間口10間(約18メートル)、奥行き4間半(約8メートル)の総3階建て。江戸末期に2階建てとして建てられ、明治の中頃に3階建てに改築されたものという。
 
養蚕のための場所をより広く取るために、2階と3階が、生活のための場所である1階より張り出している造りが特徴だ。
 
2階や3階の内部は間仕切りがなく約100畳の広さがある。その広さと、木造ながらがっしりとした頑丈な造りが印象的だ。「おかいこの現金収入があったからこそ、これだけの建物が建てられたのだろう」と、この家の持ち主は話す。
 
赤岩地区など六合村で養蚕が始まったのは、日本のほかの地域と同様、「幕末のころ」(六合村教育委員会)。そして赤岩をはじめ、日本での蚕糸業が飛躍的に成長するきっかけとなったのが、1859年の横浜港開港だ。


日本が世界一の生糸輸出国となった理由
 
江戸幕府や明治政府は外貨を獲得するために、生糸の生産・輸出を奨励した。六合村のような群馬県や長野県の各地から生糸が前橋に集まり、さらに横浜港を通して海外に輸出されていった。
 
富岡製糸場(群馬県富岡市)の建設、養蚕や製糸技術の進歩などもあり、明治時代末期の生糸輸出量は明治の初期に比べ、数量ベースで8倍弱、価格ベースでは約12倍にも増えた。そして明治の末期には、日本は中国を追い抜き、世界一の生糸輸出国になる。
 
明治から昭和の初期にかけて、蚕糸類・絹織物の輸出は、日本の全輸出品の中で、常に3~6割を占めている(価格ベース)。生糸や絹織物が生み出した外貨により、日本は「富国強兵」を進めていった。
 
横浜港開港直後から日本の生糸輸出が急増したのには、当時のグローバルな情勢も背景にある。
 
欧州では、1840年から蚕の微粒子病が流行し、フランスやイタリアを中心とした欧州の蚕種(さんしゅ、カイコの卵のこと)製造は大打撃を受け、ほぼ全滅してしまった。一方当時、生糸の最大の輸出国だった中国(清)は内乱で混乱していた。
 
こうしてフランスやイタリアは日本の蚕種に注目。欧州からの要請で日本はまず、蚕種の輸出を増やした。
 
その後フランスではパスツールが微粒子病を発見しその防除法が普及し、ヨーロッパの蚕種業は復活する。そのため日本の蚕種の輸出は下火になったものの、今度は価格競争力を武器に、生糸の輸出を増やしていったのである。


日本は明治以降グローバル化の恩恵を受けてきた
 
「グローバル化」「グローバリゼーション」とは最近起こり始めたことのように考える人も多いだろう。だがインターネットなどの通信技術こそ劣ってはいたものの、貿易や資本・人の移動の面では、19世紀から第1次世界大戦の時代は今と同じようにグローバル化が進んでいた。
 
こうしたグローバル化に対応して、外貨獲得の柱として蚕糸業を育てていったのが当時の日本だ。群馬の山深い六合村・赤岩地区にも現金をもたらし、当時の人たちが今でも残る立派な3階建ての家屋を建てることができたのは、その時代の日本がグローバル化に積極的に対応したからだろう。
 
日本では今、人々が「グローバル化」というときは、それによる価格競争や企業・産業の海外移転から逃れたい、異質なものと触れ合いたくないという感情に根ざしていることが多い。
 
だが日本は明治以降、グローバル化の恵みを十分に受けてきた。果実をおなかいっぱい食べた後で、グローバル化を呪うのであれば、他国から「いいとこどり」「自分勝手の都合の良い考え方」と思われても仕方ない。
 
明治の先人達はグローバリゼーションに敢然と立ち向かった。その気概に学ばなければならないのは、今の私たちだ。

(2009・4・7)

第19回 カネをかけずに高齢者の体力を向上させた自治体の意外な方法

予算100万円で高齢者の健康増進はできるか
 
もし、あなたがある地方自治体の保健関連部署に勤めているとしよう。この自治体の住民は高齢者の割合が高く、介護保険の費用や医療費が増加傾向にある。そのため、あなたは上司から、高齢者住民の体力を高め、介護を必要とする人たちを少なくするような施策の立案を命じられた。

ただし今は自治体の財政も極めて厳しい時代。使える予算は人件費を除けば、年間100万円程度。この中で、あなたはどんな施策を考えたらいいだろうか。
 
例えば、100万円で高齢者用のトレーニング器具を購入することは可能だ。ただしこうした器具を1台購入したところで、それを使ってトレーニングできるのは、常時1人。代わる代わる使ったとしても、日常的に利用できるのは一握りの住民に過ぎない。
 
こんな難しい条件の中で、広い範囲で高齢者住民の着実な体力・筋力の増強に成功しているのが高知市だ。
 
JR高知駅から歩いて約10分の住宅街にある集合タイプの市営住宅の集会室。その日は、午後1時を過ぎると、市営住宅や近くに住む高齢者が集合室に、ひとり、二人と集まってきた。市営住宅の住民らが週に2回、自発的に行っている「いきいき百歳体操」に参加するためだ。
 
この日集まったのは15人。
「さあ始めましょう」という世話役を務める男性の掛け声で体操が始まった。イスに座ってインストラクターが手本を示すビデオを見ながら、まずは声を出しながら口を動かし始める。


かみかみ・いきいき、後はお茶
 
口の周りや舌を動かしたり、発声練習などをしたりすることで、食べる力や飲み込む力を強化・維持する「かみかみ百歳体操」だ。
 
かみかみ百歳体操が終わると、いよいよ「いきいき百歳体操」だ。まずはイスの上で準備運動。最初のうちはごく簡単な動きだが、途中から、重りの入ったバンドを腕や足に巻いた運動に移る。
 
重りをつけてからの体操は、単純ながら意外ときつそうだ。重りを手に巻き、イスからの立ち座りをゆっくりと10回繰り返す運動の後は、思わず参加者から「ふー」とため息がもれた。
 
約1時間のかみかみ・いきいき百歳体操が終わると、参加者の高齢者達は全員で場所を作り直し、お茶の時間が始まった。
 
この市営住宅はマンション形式で、独り暮らしの老人が多い。
「老人は放っておくと家の中に閉じこもりがち。百歳体操に定期的に参加すれば、筋力がつくだけでなく、楽しい茶飲み話の時間にもなる」と世話役の男性高齢者は話す。
 
ある70代後半の常連の女性は「百歳体操に出るようになってからひざの痛みがなくなり、こけにくくもなった」と嬉しそうに話す。


杖なしで歩けなかった96歳が小走りできた
 
高知市は独り暮らしの高齢者の割合が全国平均の約2倍。高知県内では大きな病院が高知市周辺に集中しているため、若いときは市外に住んでいても、高齢になると、病院に通うのが比較的楽な高知市に移り住む人も少なくない。
 
こんな状況の中で、高知市は高齢者の体力を高めて介護保険の対象にならないようにしたり、既に介護保険の対象になっている人は要介護度を改善したりすることが課題になっていた。
 
この解決のために、高知市が2002年、米国立老化医学研究所の手引を参考に開発したのが「いきいき百歳体操」だ。220グラムの小さな重りを入れることで10段階の調節が可能なベルトを手や足につけて、ゆっくりと手足を動かす運動を5種類繰り返す。最初はごく軽い重りから始め、筋力がついてくれば、1段階ずつ重りを増やしていく。
 
最初に小規模で実施した3カ月の試験プログラムでは、当初は杖なしでは歩けなかった96歳の女性が小走りできるようになるなど、確実に実績が上がった。認知症を予防する効果もあるという。
 
高知市が百歳体操を広げるためにとったのが、地域のコミュニティーを活用する手法だ。百歳体操は続ければ確実に筋力はつくが、やめてしまえばまた元の状態に戻ってしまう。


市内200ヵ所、85歳老人の1割以上が参加
 
市内の広い範囲で高齢者の筋力アップを図るには、1カ所だけでなく、さまざまの場所で体操を続けないと意味がないわけだ。かといって職員が各地で指導を続けられるほど、予算にも人にも余裕はない。
 
そこで高知市は「3カ月以上続ける、だれでも参加できる」ということを条件に、指導用のDVDやビデオ、重りのセットを地域の集会所などに貸し出し、インストラクターが最初の数回は指導するほか、それぞれの拠点で世話役を決め、高齢者住民が自発的に体操に取り組めるように工夫をした。
 
百歳体操は、筋力強化だけでなく、地域で孤独になりがちな老人を結びつけ、コミュニケーションを増やす効用もあった。こうしたこ効用が口コミで伝わり、百歳体操はじわじわと市内外に広がり始めた。
 
現在は高知市内の200カ所以上で定期的に体操が行われ、65歳以上の市民の約1割は体操に参加した経験がある計算になる。それでいて高知市が年間に使う費用はインストラクターの派遣費用など約100万円のみで、貸し出し用の重りを大量購入した年ですら、数百万円の予算で間に合った。
 
現段階では高知市の介護費用や医療費が減少するなどのマクロの経済効果は確認できていないが、アンケート調査などから見ると、個々の参加者は確実に効果が出ている。
 
多くの自治体は医療や介護の費用増に頭を悩ませている。だがアイデアと、地域住民の自発的な力をうまく組み合わせることで、少ない予算でもやりようがあることを、高知市の取り組みは教えてくれる。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2009・3・24)

第18回 経営者の年代意識を取り除くことが地方の活性化につながる

果たして40代は若い経営者か
 
地方の中小企業の経営者と話をしているときに、ちょっとした違和感を抱くことがある。
 
それは「○○県の経済を活性化するために、我々40代の若手が、もっとがんばらないといけない」といった言葉が、彼らの口からふと出たときだ。中には「我々40代、50代の若手経営者が」と表現する人もいる。

果たして40代や50代の経営者は「若手」なのだろうか。そんな疑問が頭をもたげ、「若手」という言葉にひっかかってしまうからだ。
 
帝国データバンクが1978年から年1回実施している「全国社長分析」(2007年分までは「社長交代率調査」)という調査がある。全国の114万人あまりの社長(個人経営の代表者を含む)を対象にした2008年の調査では、社長の平均年齢は59歳4カ月だった。
 
日本経済新聞社が2008年上半期の社長・頭取交代を調べた調査でも、新社長の平均年齢は56.0歳だった。こうした数字と照らし合わせてみれば、50代はともかく、少なくとも40代の経営者は「若手」ということになるのだろう。
 
こんなことに違和感を持つのは、首都圏の、それもベンチャーや新興企業の経営者を取材する経験が長かったという、個人的な経験が関係しているからかもしれない。
 
取材対象が急激に若くなったのと実感したのは、インターネットの普及やIT(情報技術)の進展を背景に、IT関連のベンチャー企業が続々と誕生した2000年前後のころである。


30代の記者よりも取材対象が若い時代に突入
 
それまでは、ベンチャーや中小企業の世界でも、主な取材対象は40代、50代、60代で、30代だった自分にとっては、ほとんどが年上の人だった。
 
ところが2000年前後を境に、取材する相手に30代、20代の経営者が急速に増えた。
 
1965年生まれの筆者と同年生まれの経営者には、楽天の三木谷浩史社長、インテリジェンスの鎌田和彦相談役(前社長)、サイバードホールディングスの堀主知ロバート社長らがいる。
 
こうした同年代、2000年当時は30代半ばの経営者が目立ち始めたことを頼もしく思っていたら、サイバーエージェントの藤田晋社長やライブドアの堀江貴文氏など、さらに一回り若い20代の経営者も登場し始めた。
 
そうしてわずか数年が経った2002~2003年頃には「取材対象の半分以上は年下」という状況に変わっていた。
 
ところが2004年に地方に転勤してみると、状況はまた逆戻りしてしまった。経済でも行政でも、主役となる人はほぼ50代以上。取材対象となる人に、同年代より下の人がほとんどいない。
 
最初は、その地域の中に同年代や、年下の世代が単純に少ないせいかもしれないとと考えた。だが取材対象が少しずつ広がるにつれ、必ずしもそれだけが理由ではないことが見えてきた。
 
例えば青年会議所(JC)の会合に出席すれば、30代の元気な若手経済人に会える。地方でも、30代以下の若い世代が経営するベンチャー企業がないわけではない。それなのに全体として見ると、40代以下の世代はその上の世代の陰に隠れ、取材対象とはなりにくいのである。


自分たちが若いと思った時点が「年寄り」
 
その原因の1つは、特に地方では30代、40代の経営者が「年功をわきまえている」点にあるのではないか。
 
地方の若手経営者は、もちろん自分で起業をした人もいるが、大半は地場企業の2代目や3代目といった人たちだ。親が社長で自分は専務・常務クラス。あるいは既に社長には就いていても、商工会議所や経営者協会など経済団体の活動は親に任せているというケースもある。
 
そうした環境の中で、30代、40代の経営者は「自分の分」をわきまえ、50代、60代、70代の「親世代」が第一線を退いたときには自分たちが地域の経済の最前線に立とうと考えている。そして、第一線にいる高齢の経営者達は1つ下の世代の経営者について「まだまだ力が足りない」と考えたりしている。
 
「我々40代の若手が、もっとがんばらないと」という言葉は、確かに前向きの言葉だ。だがよく考えてみれば、自分たちを「若手」ととらえている時点で、年代の枠にしっかりと収まってしまっている。「自分たちはまだ40代、50代だから」というような「年功序列意識」が、その言葉の中には隠されていないだろうか。
 
経済が右肩上がりで順調に成長する時代ならば、「年功序列」も悪くはない。しかし世界金融危機のもとでこれまでの常識が通用しなくなった今の時代には、経営者の年功序列意識はじゃまだ。
 
日本や地方の経済が、今ほど「新しいもの」を必要としているときはない。経営者が年功序列意識を捨て、年齢に関係なくものを言い、よいものはよいと認め合うこと。まずはそこから始めてみては、どうだろう。

(2009・3・18)

第17回 ゲームやネット、ケータイに続く「塊」を欠く日本のベンチャー

iモードを牽引したネットベンチャー
 
この2月22日、始まったときにはほとんど注目されなかったが、この10年間で日本の社会を大きく変えることになったサービスが開始10周年を迎える。それはNTTドコモが1999年2月に始めた、携帯電話によるネット接続サービス「iモード」だ。

ドコモがiモードについて記者会見を開いたのは、その前年の98年11月。だが集まった記者はわずか7人だったという。
 
これはリクルートからスカウトされ、当時はiモードのコンテンツ開発を担当していた松永真理氏が著書『iモード事件』(角川書店、2000年)で明らかにしたエピソードだ。
 
発表会翌日の新聞記事もベタ扱いばかりで、中には「NTTドコモ、文字情報事業でカード会社などと提携」と、今から見ればピントが外れた見出しをつけた記事もある。そのくらい、当初はマスコミも新サービスの意味を測りかねていたのだ。
 
翌2月にiモードが始まったとき、ドコモの「公式サイト」には(1)モバイルバンキングなどの取引系(2)乗り換え案内などのデータベース系(3)ニュースや天気予報などの生活情報系(4)オンラインゲームや占いなどのエンターテインメント系――という4つのカテゴリーが並んだ。
 
ドコモは当初、モバイルバンキングなどお堅いビジネス系をメニューの目玉と考えていたようだ。取引系には都市銀行や地方銀行、証券会社などがずらっと並んでいたのに対し、エンタメ系を手掛けるのは、主に名の知れないベンチャー企業だった。
 
iモードが始まって間もない99年の春ごろ、ドコモなど通信事業者のサービスメニューに載っている社名を頼りにアポイントメントを取り、コンテンツを手掛けるベンチャーをいくつか集中的に取材したことがある。多くは20~30代の若者がつくったばかりの、小さな雑居ビルに入居する会社だったが、熱気だけはあふれていた。
 
実際にiモードなど「ケータイネット」のコンテンツづくりの担い手となるのはこれらのサイバード、インデックス、エムティーアイ、ジグノシステムジャパンといった新しい会社だった。そしてこれらの企業群は2000年以降、ジャスダック、東京証券取引所マザーズ、ナスダック・ジャパン(現・大阪証券取引所ヘラクレス)といった新興企業向け株式市場に続々と上場し、同市場の核とのなっていくのである。


上場時期が集中したITベンチャー
 
日本の新興市場の歴史をたどると、外食などの流通系企業はいつの時代も一定数の上場があるのに対し、情報技術(IT)関連は時代の趨勢や技術のトレンドによって、上場する時期が特定の時代に集中していることがわかる。
 
例えば1970年代のパソコンの登場とともに台頭したアスキーは89年に、ソフトバンクは94年にそれぞれ店頭市場(現ジャスダック)に株式を公開した。このころは店頭市場といえども上場基準が厳しく、上場までには長い時間がかかった。
 
任天堂のゲーム機の普及に乗って急成長したゲームソフト会社は、カプコンが90年、旧エニックス(現スクウェアエニックス)が91年、スクウェア(同)が94年に上場するなど、主に90年代前半に集中している。
 
インターネットの普及で登場したネット企業は、ヤフーが1997年に、楽天やサイバーエージェント、ライブドア(現LDH)は2000年、カカクコムは2003年と2000年前後に固まっている。
 
そしてiモードの開始とともに成長軌道に乗り始めたケータイネットベンチャーは、新興企業向け市場の整備という追い風も受けて、2000年から2005年ごろにかけて大量に上場することになる。
 
しかし今、ベンチャーの世界を見渡して気がかりなのは、こうした小さな会社が群がるような新しい事業分野が、日本では見当たらないことだ。ロボット、環境、エネルギー、ネットなどにそれぞれ個性際だつ未上場企業はある。だがiモードが始まった頃のケータイネットのような、新しい「塊」がないのだ。


ベンチャー育成に遅れる日本
 
経済産業省傘下のベンチャーエンタープレイズセンター(VEC)が1月末にまとめた08年度の「ベンチャーキャピタル等投資動向調査」によると、国内主要90ベンチャーキャピタル(VC)の08年度の新規投資額(見通し)は1000億円で、07年度から48%、ピークだった06年度からは65%も減った。
 
新規上場(IPO)の数も、上場時に市場から調達する額が激減しているのが主因だが、わかりやすい事業分野の塊がないことも、影響しているはずだ。
 
IPOが減り、VCの投資額が減っているのは日本だけでなく、世界的な傾向だ。全米ベンチャーキャピタル協会などの統計では、米国の08年のベンチャー投資額は07年より8%減の283億ドル(約2兆6000億円)だった。
 
ただ代替エネルギー技術など環境分野の投資額は52%増の41億ドル(約3800億円)。総額では減っているとはいえ、オバマ新政権が掲げる環境市場育成政策に沿いつつ、しっかりと次世代の「塊」に照準を定めている。
 
米国の後を追いながら、ベンチャーの育成を進めてきた日本。世界金融危機後は米国の経済をひとくくりに否定する論調があるが、こと新しい産業を生みだし、育てる仕組みについては、むしろ日本と米国の差は開くばかりだ。

(2009・2・17)

第16回 マンチェスター・ユナイテッドを率いる老将の「柔らかな頭」の意味

2005-06年は最悪の年だった
 
2008年末に日本で開催されたサッカーのクラブワールドカップで、エクアドルのリガ・デ・キトを1―0で破り、再び「世界一」の座についたイングランドのマンチェスター・ユナイテッド。このユナイテッドを監督として率いるのが、イギリス・スコットランド出身の"老将"アレックス・ファーガソンだ。

彼は1941年生まれの御年67歳。ユナイテッドの監督に就いたのは、23年前の1986年のことである。すさまじいプレッシャーにさらされ続けるサッカーの一流クラブの監督を、ファーガソンのように長きにわたって務める例はほかにない。
 
2007―08シーズンは、欧州チャンピオンズリーグ(CL)とイングランド・プレミアリーグの2冠を達成。続く今季もクラブワールドカップで優勝し、プレミアでも現在は首位を走るユナイテッド。このチームを率いるファーガソンに、ケチをつける人はほとんどいないだろう。だが少し前には、このファーガソンですら、マスコミや周囲から「そろそろ限界では」とささやかれていた時期がある。
 
2005―06シーズンの欧州CL。欧州各国からの32チームが4チームずつ8つのグループに分かれて戦うグループリーグの最終戦(05年12月7日)で、ユナイテッドはポルトガルのベンフィカに1-2で敗れ、最下位(4位)に沈んだ。
 
欧州のトップクラブかどうかを判断する1つの基準は、CLの本戦に出場する32チームに入れるかだ。さらにその32チームが超一流かどうかを判断する基準が、CLのグループリーグを勝ち抜きベスト16に残れるかどうかにある。
 
ユナイテッドは1998―99シーズンに優勝した後も毎年ベスト16に入り続けていたが、05―06シーズンには、ついにそこからも落ちてしまったのである。


ベッカムがいなくなり、C.ロナウドを育てた
 
そのベンフィカ戦を、私は日本で「スカパー!」の中継で見ていた。試合が終わると、解説者が「やはりあの人がいなくなってから、このチームは下り坂を歩むことになったのではないでしょうか」とつぶやいた。
 
「あの人」とは、ユナイテッドの生え抜きで、ファーガソンが育てたデビッド・ベッカムのことである。ベッカムは正確なクロスやフリーキックを武器に、1998―99シーズンに、ユナイテッドが欧州CLを制覇する原動力となった。
 
だがその後にファーガソンとベッカムの関係は次第にこじれ始め、ベッカムは2003―04シーズンには、スペインのレアル・マドリードに移籍してしまっていた。
 
代わりにポルトガルからやってきたクリスティアーノ・ロナウドはこの当時、まだ派手なフェイントを好む割にはチームにフィットしにくい、20歳になったばかりの若者に過ぎなかった。
 
自分の意に従わない中心選手を追い出し、代わりに大金をかけて獲得した若手は戦力になりきれず、チームの力も下降線をたどる――。こうしたチーム状況の中で、既に60代に入っていたファーガソンに対して、「限界」がささやかれるようになった。
 
どころがその若者(ロナウド)は次第にユナイテッドの「次なるキープレイヤー」に育っていく。さまざまなフェイントを駆使する高速ドリブルだけでなく、空中戦の能力も身につけ、さらに無回転フリーキックの名手にも育っていった。


常にチームのサッカーを変え続ける老将
 
ロナウドがウインガーとしては新記録となる42得点を挙げた2007―2008シーズン。ユナイテッドはプレミアリーグとともに、9シーズン振りに欧州CLを制すことになった。
 
長い目で見ると、ファーガソンはユナイテッドのサッカーを常に変え続けている。20年前はロングボール放り込む古典的なイングランドスタイルのチームだったという。
 
典型的な「10番」(ゲームメーカー)だったエリック・カントナの時代を経て、右サイドにベッカムが張るスタイルで98年の欧州CLを制した。その後はストライカーをルート・ファンニステルローイ1人だけという布陣にしたが大きな成功は収められず、やがてロナウドを中心に、特定のセンターフォワードを固定しない戦術の完成度を高め、昨季の大成功につなげた。そして今季もまた、新しい選手、布陣、戦術を試し続けている。
 
確かに2005年12月の時点では、ベッカムをレアルに放出したことはファーガソンの判断ミスに思えた。だがベッカムがその後もユナイテッドの中軸に居続けたとしたら、ユナイテッドに昨季のような大成功が再び巡ってきただろうか。
 
現代のトップクラブの監督の平均在籍期間は短い。プレミアリーグのチェルシーの監督として、2004―05シーズンからプレミアを3連覇したポルトガル人のジョゼ・モウリーニョ(現在はイタリアのインテルの監督)ですら、2007―08シーズン途中でチェルシーの監督を事実上、解任されている。監督を入れ替えることで、チームのスタイルや戦術を変えていくのが、現在のサッカー界のやり方だ。
 
その中でファーガソンは、自らの頭の中身を柔軟に変え続けることで、サッカー界の激しい変化に対応し続けている。
 
経営の世界でも一般に長期政権はマイナスの方が多いとされる。だがファーガソンのような「柔らかな頭」を持っていれば、長期政権でも「変わり続ける」ことが可能なのだ。

(2009・2・3)

第15回 こんな時代だからこそ必要な「大企業発ベンチャー」

スピンアウトではなくカーブアウト
 
ビジネスの世界にいる人でも、「カーブアウト」という言葉を聞いてピンと来る人は少ないかもしれない。大企業(主に製造業)が社内に眠る有望技術や事業のシーズ(種)を社外に切り出し、投資ファンドなどの支援を受けて事業化する経営手法のことだ。

カーブアウトという言葉が今ひとつ世の中に浸透しないのは、同じような言葉がほかにもあることが1つの要因だ。「スピンオフ」「スピンアウト」という言葉も、大企業から人材が飛び出し、独立して起業することを指す。
 
例えば半導体最大手のインテルは、米国の半導体産業の草分けであるフェアチャイルドセミコンダクターから「スピンオフ」した技術者がつくった会社だ。シリコンバレーの歴史は、成功したベンチャーから出た人材が新たな会社を興すという「スピンオフ」の連鎖といってもいい。
 
スピンオフやスピンアウトと、カーブアウトのニュアンスが異なるのは、前者は人材が自発的に飛び出し、元いた会社と対立していたり、関係が薄かったりするのに対し、カーブアウトは親となる大企業から出資などの一定の支援を受けつつ、連携しながら成長を目指す点だ。
 
任天堂に対抗してゲーム機「プレイステーション」を開発し、事業化に成功したソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)は、日本のカーブアウトの典型例だ。
 
ただ日本ではカーブアウトにせよ、スピンオフ・スピンアウトにせよ、大企業発ベンチャーの成功例が、米国などと比べると少ない。そのことが、関連する言葉の浸透具合にも表れている。


それでも成長率は台湾の20分の1
 
工場を持たずに、ディスプレー向けのLSI(大規模集積回路)を開発・販売するザインエレクトロニクスは、東芝の半導体技術研究所LSI開発部部長を務めた飯塚哲哉氏が1991年に設立した、日本では代表的な大企業発ベンチャーだ。だが飯塚氏は「(日本では)大企業から出た会社の数も足りないし、我々の成長速度も遅い。当社と同じ時期にスタートした台湾の半導体メーカー、メディアテックは当社の20倍規模の会社になってしまった」と、不満げに話す。
 
もともと大企業の力が強い日本で、「これからは大企業発ベンチャーが活躍する」と盛んに言われたのは、1990年代後半から2000年代前半にかけてのころだ。
 
90年代後半、産業界では雇用(人件費)、設備、債務の、いわゆるヒト・モノ・カネの「3つの過剰」を解決することが、最大の課題とされていた。雇用(ヒト)の過剰解消をめざす過程で、大企業が抱えていた優秀な人材は、外に出ざるを得なくなる。その人材をベンチャーに振り向けよう――というのが、関係者が描いたシナリオだったはずだ。
 
2000年以降、それ以前と比べれば、大企業を経験した起業家が増えたことは確かだ。
 
テックゲートインベストメント(東京都品川区)のようなカーブアウト専門のファンド運営会社がいくつかできるなど、金融面からもそれを支える担い手が育ち始めた。それでも、大企業発ベンチャーが、日本の産業界を変える大きな動きになるまでには到らなかった。


まだまだ人材の開放が足りない
 
大きな理由の1つは、2005年頃には「3つの過剰」の重しが解消されたとの認識が、産業界に広がったことだ。
 
日本の上場企業は2003年3月期から2008年3月期まで6期連続の経常増益を達成した。この原動力となったのが輸出型の製造業。製造業が"復活"するにつれ、製造業の雇用・人件費の過剰を問題視する声は薄れていった。
 
しかし08年の世界金融危機後に明らかになったのは、日本の製造業復活は2000年以降の円安に支えられたものだったということだ。
 
日本と貿易相手国の物価動向も加味した実質実効為替レートで見ると、2007年の半ばには、1985年のプラザ合意以前の水準にまで、円安が進行していた。08年秋の円高でも、2000年以降に進んだ円安幅の4割程度を戻したに過ぎない。円安のせいで「雇用の過剰」が見えにくくなっていた可能性が高い。
 
また人件費や労働分配率は2000年以降、下落傾向にあるが、これは企業が正社員の自然減を給与の低い非正規社員で補ってきたからだ。正社員のリストラは、言われているほどには進んでいない。飯塚氏は「日本の大手半導体メーカーはまだまだ人材の"解放"が足りない」と指摘する。
 
この厳しい時代、「是が非でも会社にしがみつこう」というのが、多くの会社員の偽らざる心境だろう。だが飯塚氏のいうように、大企業を辞めるとは、大企業からの解放でもある。未曾有の危機だからこそ、新しい会社や事業の萌芽が隠れていることを信じよう。

(2009・1・20)

第14回 時価総額ランキングを見るとよく分かる産業構造転換の遅れ

日本経済の隠れた問題点が見えてくる

「時価総額経営」という言葉を耳にしなくなって久しい。2006年のライブドア事件などをきっかけに「M&A(合併・買収)などで意図的に株価をつり上げる経営」というイメージが染みついてしまったためだろう。

だが企業の株価に発行済株式数をかけた「時価総額」は業績や資産、知名度、市場の期待値などを反映した総合的な尺度として役にたつ。時代の流れやその時ごとのブームなどにより、株価=時価総額は大きくぶれる傾向はあるものの、長い期間を通して見れば、企業の力をそれなりに表しているからだ。
 
上場企業の時価総額ランキングは、ヤフーファイナンスなどの金融情報サイトにアクセスすれば、直近のものが即座にわかる。また年末か年始には、日本経済新聞が東証1部などの時価総額ランキングを掲載する。このランキングの推移を眺めていると、日本経済の隠れた問題点が見えてくる。
 
下表は08年末の東証1部上場企業の時価総額1位から20位までを並べたものだ。そして順位の横にあるカッコ内には、10年前の98年末時点での時価総額順位を入れた。合併などで社名が変わっている場合には現社名(証券略称)の横に、旧社名を記してある。
 
一通りみてわかるのは、20社の顔ぶれがあまり変わらず、新陳代謝が進んでいないことだ。トップから4位までの会社は順位こそ入れ替わっているものの、トヨタ、NTTドコモ、NTT、三菱UFJ(東京三菱銀)で全く変わらない。
 
08年の上位20社で、98年も上位20社以内に入っていた会社は13社もある。また入っていない7社も、任天堂やキヤノンなど4社は、98年には50位以内には入っていた。


この10年でランキング上位の顔ぶれは激変
 
98年の51位以下から08年に20位以内にランク入りしたのは、KDDIとヤフー、三菱商事。この中でKDDIと三菱商事はいわゆる大企業だ。08年の上位20社の中で、この10年のうちに「時価総額が急増した=急成長した」といえるのは、96年設立の18位のヤフーだけといってもいい。
 
上位20位までにマイクロソフト、グーグル、シスコシステムズ、オラクル、インテル、アップルといった若いハイテク企業が数多く名を連ねる、米国の直近の時価総額ランキングとは対照的だ。
 
もちろんこの10年間、時価総額のランキングが、08年のような顔ぶれで、動きがなかったわけではない。
 
例えばインターネットブームがピークを迎えつつあった99年末のランキングでは、NTTドコモが1位となり、ソフトバンクが6位に入った。そして光通信、村田製作所、ロームといったネットやIT(情報技術)に強く、かつベンチャー色の濃い会社が20位以内に入っていた。また2005年末のように、不良債権処理をほぼ終え、収益回復への道筋をつけた大手都市銀行が上位4社中3社を占めたこともある。
 
10年前の98年といえば、日本経済がいまだバブル崩壊の痛手から立ち直ることができず、産業の構造転換が叫ばれていたころだ。
 
当時の日本は、ベンチャー企業に資金を供給する仕組みや担い手を欠いていた。98年の通商白書は「新規産業を担うベンチャー企業に円滑にリスクマネーが供給されるべきだ」と指摘した。
「ベンチャーにもっとリスクマネーを供給すべきだ」という官民そろっての認識に、ネットを利用した新産業への期待も加わり、翌99年にはソフトバンクの孫正義社長らが「ナスダック・ジャパン構想」を発表。そうして2000年には東証マザーズとナスダック・ジャパン(現・大証ヘラクレス)がそろい、ベンチャー企業が毎年100~200社上場する「大公開時代」へとつながっていった。


円安バブル崩壊で試される日本経済
 
だがそれから約10年。一時はネット・ITブームの追い風で新興企業が躍進したものの、10年後の時価総額ランキングに表れる日本の産業構造は新鮮味を欠く。任天堂やヤフーには新しさを感じるが、代表的な国産ベンチャーである楽天の時価総額は7457億円で、2兆円以上の上位20社には及ばない。10年間でぐるっと回り、また元の場所に戻ってきたような錯覚を覚える。
 
このような状況の責任の一端は新興企業そのものにある。せっかく新興企業向け株式市場の整備という後押しがありながら、それを生かせる企業が少なかったばかりか、悪用する企業も多かったからだ。
 
だがもう1つの要因は、2000年代の金融緩和と円安政策によって、日本の輸出型製造業が息を吹き返したことにある。自動車や電機などの産業が輸出を増やし、収益を回復させた。その復活が、ベンチャーを育てよう、産業構造を変えようという勢いをそいだともいえる。
 
だが世界金融危機をきっかけに、低金利の円を借入れて売り、金利の高い外国通貨で運用する「円キャリー取引」を解消する動きで円はあらゆる通貨に対して高くなり、輸出型製造業の「円安バブル」は崩壊しつつある。野口悠紀雄氏は08年末に出版した『世界経済危機 
日本の罪と罰』(ダイヤモンド社)で「2005年以降の企業収益の増加と株価の上昇は、基本的には円安バブルに支えられたものだった」と指摘している。
 
第2次世界大戦後から続いた「輸出立国モデル」が崩れた後に残るのは、98年のとき以上に、新しい産業の担い手を育てることが必要という認識だ。工場を持たないファブレスメーカーという経営スタイルで「家族」という新しい購買層を開拓し、営業利益率3割超という高収益を維持する任天堂のように、円高日本においても、企業の生き残る道はある。
 
これから5年後、10年後の日本の時価総額ランキングはどう変わるだろうか。昨年末と代わり映えのしない顔ぶれであったら、その時こそ、日本経済が衰退している証左となる。


2008年末の東証1部時価総額ランキング
順位   社名
1(2) トヨタ
2(3) NTTドコモ
3(1) NTT
4(4) 三菱UFJ(東京三菱銀)
5(31) 任天堂
6(8) 東電
7(6) 武田
8(22) キヤノン
9(10) ホンダ(本田技)
10(9) 三井住友FG(住友銀)
11(18) JT
12(25) みずほFG(第一勧銀)
13(-) KDDI
14(7) セブン&アイ(セブンイレブ)
15(15) JR東日本
16(5) パナソニック(松下)
17(16) 関西電
18(-) ヤフー
19(27) 中部電
20(-) 三菱商


(注)順位の後のカッコ内は1998年末の順位。-は51位以下を示す。社名の後のカッコ内は合併・統合や社名変更前の旧社名。合併・統合の場合は、98年末時点で最も時価総額が高かった1社のみ記してある。

(2009・1・7)

第13回 この時期に賃上げ? 組合が要求する格差拡大

定番を選ばなければならない理由
 
街に、リクルートスーツ姿の大学生を見かける季節になった。私がときどき講義を受け持つ大学の講座でも、3年生がスーツを着てくるようになった。
 
久しぶりの講義があった12月上旬。その日に2社の会社説明会に参加したという3年生の男子の話を聞いた。

「説明会の出席者が驚くほど同じ服装をしているんですよね。服装が特に決められていない会でも、男ならば紺かグレーのスーツに、ストライプのネクタイがほとんどなんです」と、彼は嘆く。
 
そういう彼もやはり紺のスーツ姿だ。「ネクタイだけはストライプではないものにしてみました」とおどけると、話を横で聞いていた同級生から「おまえだって全く同じように見えるよ」と突っ込まれるていた。
 
日本で「リクルートスーツ」という言葉は1980年代に定着したものらしい。就職を控えた大学3、4年生が紺やグレーのスーツで身を固めてOBを訪問したり、会社説明会に出席したりするのは、そのくらい前から当然のこととなっている。
 
しかし昔は、それでももっと自由度があったような気がする。説明会にはくだけた格好の学生も結構いたし、百貨店の売り場などでも、今ほどお仕着せのものはなかった。
 
今やスーツだけでなく、シャツや鞄、靴に至るまで就職活動用の定番が並ぶ。スーツなどを提供するメーカーや店舗の思惑もあるだろうが、それ以上に学生側が「就職できるかどうか」を不安に感じているが故に冒険をしにくく、定番を選ばざるをえないようになっているのだろう。


去年売り手市場が、もう氷河期
 
今の大学3、4年生ほど、新卒採用状況の急速な悪化にさらされている年代も珍しい。90年代も就職氷河期が続いたが、悪化のスピードはこれほど速くはなかった。
 
日本経済新聞社が4月に実施した調査では、主要企業の2009年春の新卒採用者数は08年度比6.3%増と、6年連続で前年を上回っていた。ところが急速な景気の落ち込みで、09年春卒業予定者で内定を取り消される人が増え始めた。また企業は2010年の新卒採用を抑制。リクルートが12月に発表した2010年春の大学生・大学院生の新卒採用見通しでは、「減る」と回答した企業が15.7%と、「増える」の8.3%のほぼ2倍になった。
08年春まで続いた採用の拡大傾向が一変したことがわかる。しかもこの調査は10月時点。現状はさらに採用意欲が減退しているはずだ。新卒採用戦線の景色は、春先までの売り手市場から、再び就職氷河期へとがらりと変わってしまった。
 
15日に日本銀行が発表した企業短期経済観測調査(短観)では、大企業製造業の景況判断は前回調査の9月より21ポイント悪化し、石油危機時の1975年2月と並ぶ過去2番目の大きな下げ幅だった。米国発の金融危機をきっかけに始まった世界景気の悪化が、新卒採用の景色を変えた主因であることはいうまでもない。
 
だが景気の落ち込みの度合い以上に、新卒採用の冷え込み具合は大きくなりやすい。90年代のバブル経済崩壊や2000年以降のIT(情報技術)バブル崩壊を経たあとも、日本企業では正社員の削減には時間がかかる。
 
リストラといっても多くの企業は経営側と組合側とが話し合い、転籍や早期退職など比較的時間のかかる手段をとるからだ。
 
そのため結局、正社員の数の調整は、新卒採用を増やしたり抑えたりすることでしかできない。こうした新卒採用の大きすぎる揺れがある時は超就職氷河期を生み、若者の間の所得格差を生むことにもなった。


組合にワークシェアリングの発想はないのか
 
もう1つ、ここ数年で雇用の調整弁の役割を果たすようになったのが派遣社員、期間社員、パート、アルバイトなどの非正社員だ。大規模な生産調整に見舞われている自動車業界は、完成車メーカーだけで派遣や期間従業員など約1万4000人の非正社員を09年3月末までに削減する見通しだ。
 
電機や機械などの業界でも同様の動きが続く。従来の景気後退期には同様の規模のヒトを減らすのに数年はかかっていたことを考えると、この削減の速さは際だっている。
 
こんな状況の中で、「おや」と思ったのが09年の春季労使交渉に向けて連合や、電機連合などの主要労組がベースアップを求めたことだ。確かにここ数年の日本企業の業績改善と最近の物価上昇を考えれば、「これまで抑えてきた賃金を上げ、労働者の所得を引き上げよう」という論理は理解できなくもない。
 
だが今は未曽有の速さで景気が悪化し、新卒採用減や非正社員の雇い止めなどが止まらない時だ。こんなときに正社員の賃上げが通れば、非正社員の雇用にどんな悪影響が出るか、組合幹部にはわからないのだろうか。
 
政府が将来への産業強化につながるような雇用対策を強化すべきなのはもちろんだが、企業にいま求められるのは、正社員の賃上げ原資を非正社員の雇用確保に充てるというような「ワークシェアリング」の発想だ。組合が正社員の「賃上げ」にあくまでもこだわれば、非正社員や新規学卒者と、正社員の対立がこれまで以上に進むことになる。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2008・12・16)

第12回「NPO法人ができて10年」で明らかになった数の多さと貧しさ

「民が担う公」NPOの可能性
 
先日、市民ボランティアが森林を間伐し、運搬や販売まで担う活動を四国でしている特定非営利活動法人(NPO法人)の話をうかがう機会があった。

このNPO法人は森林所有者などから委託を受けると、数十人のボランティアが人海戦術で森林を伐採する。使う機械は森林組合が持つプロセッサー(枝払い玉切り装置)などの大型機械ではなく、チェーンソーや小型木材運搬車など小規模なものだ。
 
収集した木材は高品質なものは市場で販売し、低いものは木質バイオマス(生物資源)発電施設や木質ペレット工場向けなどに持ち込んで売る。
 
ボランティアの参加者には作業量に応じて「地域通貨」を分配。地元の商店でも使えるようにすることで、森林環境の保全とともに、地域経済の振興にも役立つという仕組みだ。
 
面白かったのは、このNPO法人が活動を深めていくにつれ「県や森林組合などとぶつかる場面が増えてきた」(同法人の事務局長)という話だ。 
林野庁や自治体は現在、林業の大規模化を進めようとしている。間伐についていえば、小規模の森林所有者の土地をまとめ「団地」にして林道を整備し、大型機械を使って大規模に伐採する手法だ。
 
一方、このNPO法人が使う機械は小型のもので「地域に密着した小回りのきく小規模林業」を目指している。「我々の実践で小規模な自伐林家でも、ある程度の収入が得られることが見えてきた。それが大規模化を目指す森林組合などは気に入らない」のだという。
 
大規模化がいいのか、小回りのきく小規模林業がいいのかは、森林の特徴や地域の実情によっても違うので、一概には結論づけられないだろう。
 
ただNPO法人の活動によって、自治体など「官が担う公」だけではなく、NPO法人という「民が担う公」の可能性が見えてきた点が興味深い。NPO法人やボランティアの活動がなければ「日本の林業は大規模化なくして生き残れない」という考え方一辺倒になっていたはずだ。


雇用の担い手にならない日本のNPO
 
12月1日は、今は一般にNPO法人と呼ばれるようになった「特定非営利活動法人」の制度が、施行から10年を迎えた日だった。
 
同制度ができた背景には、1995年に起こった阪神・淡路大震災がある。震災発生後の緊急支援や震災復興の過程で、多くのボランティアや非営利組織(NPO)が活躍した。
 
これらの活動が契機になり、国会議員の間で、NPOが法人格を取得する手続きなどを定める法律などを、議員立法で制定しようとする動きが活発になった。こうして98年の3月に「特定非営利活動促進法(NPO法)」が成立し、12月に施行された。
 
内閣府によると、NPO法人の数は9月末現在で3万5659にもなる。法施行から110年が経った公益法人は約2万5000、社会福祉法人は約1万8000だから、その多さがわかる。
 
だがその活動は順調とは言い難い。冒頭のような例は、そう多くはないのだ。 
大阪大学NPO研究情報センター(大阪府豊中市)がまとめた『NPO白書2007』によると、事業収入が年間500万円未満のNPO法人が、全体の74%を占める。一方、NPO法人のスタッフが受け取る年間収入については、全体の38%が100万円未満で、300万円以上を得ている人たちは14%に過ぎない。
 
つまりほとんどのNPO法人は継続的に寄付金を集めたり、収入を得たりする手段が乏しいために、スタッフにきちんと給与を払うことができていない。「やりがい」を求めNPO法人で働きたいと考える若者は増加傾向にあるのに、日本のNPO法人は米国のような雇用の担い手には育っていない。
 
衆議院議員の市村浩一郎氏が最近出版した『日本のNPOはなぜ不幸なのか?』(ダイヤモンド社)を読むと、特に福祉分野などで、日本のNPO法人がいかに「報われない」状態にあるかがよくわかる。「事務局長の月給は3万円」といった話を聞けば、好んでこの世界に飛び込みたいと考える人はわずかだろう。


ネットワークで拡充するかNPOの将来
 
だが、こうした状況を改善しようとする動きも生まれつつある。議員インターンシッププログラムなどを手掛けた佐藤大吾氏らが設立したNPO法人のチャリティ・プラットフォーム(東京都港区)がそれだ。
 
同法人はまず(1)広く一般から寄付を集める意思がある(2)事業目的・目標・計画が明文化されている(3)決算報告書や事業報告書が公表されている――などを基準に、信頼のできるNPOを約100選び出し、それをウェブ上のデータベース 「CharityNAVI(チャリナビ)」として公開し始めた。担当者が直接面会したNPOは2000を超える。
 
同法人はNPO法人を自ら助成するだけでなく、個人や企業からの寄付金集めも支援する。「NPOに少しでもかかわりたいと考えている個人や企業と、資金を必要としているNPO法人を結びつけたい」と佐藤氏は話す。
 
NPOは利益を優先せず、社会的使命を第一の目的として活動する組織だ。だがそれだからといって、資金を集める仕組みがなければ、その活動は続かない。NPO法人に寄付する人が優遇される税制の拡大など税制面での課題はあるが、まずはチャリティ・プラットフォームのような活動が広がることを期待したい。

(2008・12・2)

第11回 民俗学者ゆかりの地で聞こえてきた「サザン」の情けなさ

この夏、瀬戸内海に浮かぶ周防大島(山口県周防大島町)を訪れた。周防大島は民俗学者、宮本常一が1907年(明治40年)に生まれ、1981年(昭和56年)に73歳で没した場所である。彼はその生涯で、民俗調査のために計16万キロを歩いたといわれるが、その旅と学問の原点となったのが故郷の周防大島だ。

戦後の高度成長期、宮本は既に中央との格差が広がりつつあった地域の復活を願って、日本中を歩き続けた。田中角栄流の高速道路ではなく、村と村を周回道路で結びつけることを主張した彼の視点は、現在の「東京と地域」「中央と地方」の問題を考えるためにも欠かせないものだ。その宮本が生まれた島を、一目見たいと思ったからだ。
 
まずは松山の三津浜港からフェリーで山口県の柳内港へと渡る。柳井駅から山陽本線に少し乗り大畠駅でおりる。そこからバスで本土と島をつなぐ橋を通って、島の中央部にあり、宮本の著書、2万点の蔵書、10万点を超す写真などを収蔵する「周防大島文化交流センター」を目指した。
 
ところが、その日は休館日。自分の下調べ不足をのろいながら、とりあえず、その日の宿に決めていた、島の東側、片添ヶ浜海岸にある民宿に向かって、とぼとぼと歩き始めた。


失ったものの大きさ
 
周防大島は、江戸時代から明治、大正の頃にかけて四国や九州などで、高度な細工技術の伝統工法により寺社などを建てた「長州大工」の拠点だ。宮本の祖父やその弟も大工をしていたという。それだけに普通の民家でも、風情のある木造建築が多い。
 
そんなことを感じつつ、周囲を見渡しながら民家や畑の中を数キロ歩いて小さな峠を越えると、急に景色と雰囲気が一変した。小高い峠からは椰子の木が並び、白い砂浜の「ビーチ」が見下ろせた。かすかに音楽も聞こえる。近づくにつれ、それがサザンオールスターズの曲であることがわかった。
 
民宿も、想像とは大違いだった。これも事前にちゃんと調べればわかったことだが、明らかにその民宿は、大学のサークルなどの合宿などで海に遊びに来る若者のグループを主な対象としており、宮本につながるようなものは何一つない。
 
夕食まで時間があったので、しばらく海外を歩いた。白い砂浜や椰子の木以外にも会員制のホテルやテニスコートや海の家もそろい、ビーチの体裁は整っている。施設を説明した看板は、このビーチがバブル経済真っ盛りの1988年に認可を受け、90年代初めにオープンしたリゾート施設であることを示している。民宿の人によると「白い砂浜は島外からわざわざ運んできたものだ」そうだ。
 
ビーチが観光客で賑わっていればまだいい。だが8月の上旬、まさに海水浴に絶好に季節だというのに、白い砂浜には人がまばらだった。そんな風景の中、サザンだけがずっと流れ続けている。
 
サザンが嫌いなわけではない。だが元から瀬戸内の穏やかな海に面した風光明媚だった場所を、いかにも今風のビーチに改造して、湘南風のサザンを朝から晩まで流し続ける必要があるのだろうか、という苦い思いがよぎった。「海といえばサザン」という発想は、いかにも薄っぺらではないか。その海岸で聞く「TSUNAMI」は、歌詞とは別の意味でわびしかった。


写真が語るあるべき姿
 
それでも翌朝は気を持ち直して、島の方々を見て回った。宮本がよく上ったという白木山の中腹からは、島の中心部がすっと見渡せた。彼の父が普及に力を注いだみかんの畑が、山から続くなだらかな斜面に広がる。
 
宮本がよく遊んだという神社の森も規模は小さくなったとはいえ、昔の雰囲気を十分に残している。片添ヶ浜とは反対側の入り江では、小さな男の子たちが魚を捕るための網を持って走り回っていた。
 
前日には空振りした周防大島文化交流センターを、開館時間の少し前に訪ねてみた。20代の男性係員が「熱心ですね。いま準備しますから少し待っててくださいね」とすぐに用意をして、展示室に通してくれた。
 
センターには、宮本の呼びかけに応じて地元有志が集めた生産用具が展示されているほか、その日は「宮本常一の目 
昭和30年代の日本」と題した写真展も開かれていた。
 
だが既にその写真展を東京でも見ていた私にとって何よりも嬉しかったのは、宮本が日本各地で撮影した写真のほぼすべて(約8万9000枚)を、パソコンで地域や年代を自由に検索しながらつぶさに見られることだった。
 
「いい写真」を残すことにこだわらなかった彼の写真は、それこそ宮本の視点そのものだ。時には山並みの写真ばかり、またある時には鰹節の生産現場と思われる写真が続く。展示会では選ばれないような何の変哲もない写真だからこそ、彼が何を見ようとしていたのかを感じることができた。
 
代表作『忘れられた日本人』(岩波文庫)だけを読んでいると、彼を、忘れられた日本を懐かしむ伝統主義者のように捉えてしまいがちだ。だが彼は地域固有の文化を守ろうとする一方で、広い道路や橋などの文明の利器を地域にどう取り入れるかも考え続けていた。センターの展示室の入口には、彼がふるさとの東和町(現・周防大島町)の町史に寄せた文章が掲げられている。

 
「それぞれのふるさとの文化は、そこに住んでいるものが守らねば守りようのないものである。新しいものをどううけとめるかの姿勢の検討が大事になる。古い誇るべき文化を守ることによって、新しい文化を迎え入れる力を生じるのが真の文化的発展ではなかろうかと考える。外部からの政治的、経済的な力の導入がふるさとの喪失への道につながるものであってはならないと思う。」
   
(東和町誌 はじめに 昭和57年)

 
少なくともサザンが流れるビーチが、彼の目指した方向ではないだろう。彼のふるさとですら、画一化と衰退は進んでいる。地域の力をいかに取り戻すかがいまの日本の課題となる中で、改めて宮本常一を読む必要を感じている。

(2008・11・18)

第10回 円高が、地方の産業政策を揺さぶるという現実

法人税収で潤う財政
 
最近、2006年3月の北九州空港の開港とともに就航したスターフライヤー(本社:北九州市)を初めて利用した。
 
乗ったのは、土曜日の夕方に羽田空港を発つ北九州空港行き。週末だというのにほぼ満席で、ほとんどがスーツ姿のビジネスマンだ。「会社関係の人がやけに多いな」というのが、座席に着いた時の第一印象だった。

北九州空港を降りると、知人の車で北九州の市内に向かい、また翌日は空港の近辺を案内してもらった。
 
新空港は九州本土から数キロ西に位置する海上空港で、北九州市と苅田町(かんだまち)にまたがる。本土への連絡橋を車で渡ると、すぐ左手にはトヨタ自動車九州(福岡県宮若市)の九州工場(苅田町)がある。町の南部には、1975年に九州としては初めて自動車の生産を始めた日産自動車の九州工場も広がる。
 
全国でトヨタも日産も工場を持つのは苅田町くらい。財政運営の自主性の大きさを表わす「財政力指数」は1.68(2007年)と福岡県内でトップだ。法人税収などに恵まれ、国が地方自治体の財源不足を補うために配分する「普通交付税」は75年以来、2008年まで34年連続で「不交付」を続けている。
 
空港を中心に少し範囲を広げれば、北米向けの大型車を中心に生産するトヨタ自動車九州の宮田工場(宮若市)や、ダイハツ九州の大分工場(中津市)もある。
 
1960年代、九州では石炭産業が斜陽化し、これからの雇用を支える基幹産業が必要になっていた。1965年、九州経済同友会は「自動車産業を戦略産業として九州に導入する」という「九州開発構想」まとめた。自動車は部品数が多いだけに、完成車工場の誘致による雇用創出や経済波及の効果は大きい。
 
九州の経済人は自動車会社巡りを始め、1973年には待望の日産による苅田町進出が決まった。それ以来、九州には自動車産業の集積が進み、今や九州の自動車産業は約3万8000人もの雇用を抱える。


好況を牽引した輸出企業
 
もちろん羽田―北九州路線には自動車産業以外の関係者もいるだろう。だが同路線にビジネスマンが多い背景には、ここ数年好調を続けてきた九州の自動車産業の存在がある。
 
東京と地方各地を結ぶ航空路線。その乗客数や客層には、各地域の産業構造や景況感が表れる。羽田―北九州線と対照的なのが、羽田―高知線だ。朝一番や最終の便を除けば、目立つのは観光客。乗客のスーツ比率は羽田―北九州線より、かなり低い。
 
その理由も、高知龍馬空港(南国市)周辺を巡ってみれば、なんとなくわかるはずだ。空港の周りに広がるのは田んぼ。隣には高知大学の農学部(同)があり、飼っている牛が、のんびりと草を食んでいる。
 
高知県の製造品出荷額は全国の下から2番目。今でも農地が多く残るのは、高知県が長年、農業重視の政策を続けてきたからだ。ある高知県の経営者は「空港の周りで牛が放牧されているのは高知くらい。もともと高知は山地が多く工場を建設可能な平野が限られるのに、空港近くの土地を有効に活用していない」と自嘲気味に語る。
 
自動車産業のような組立加工型の企業誘致については、もともと首都圏や関西圏からは遠いうえに、誘致政策では完全に出遅れた。電機・IT(情報技術)関係ではカシオ計算機などの工場があるが、自動車関連の工場はほとんどない。
 
2002年から始まった今回の景気回復。その回復を主導したのが、自動車や電機など輸出依存度の高い組立加工型の製造業だった。以前は「中央に遅れて回復する」といわれた地方景気も、組立加工型製造業の企業集積がどれだけあるかにより、明暗が分かれた。
 
地域ごとの雇用のバロメーターになる有効求人倍率で、自動車の一大生産地帯に変身した北九州地域は、今回の景気拡大期に1倍を超えることもあった。一方、高知県は0.5倍前後をうろうろするばかりで、一向に改善する気配がない。


円高に翻弄される地方財政
 
だが、この「組立加工型産業を誘致する」という、九州で大成功を収めた地方の産業政策も、2007年夏からのサブプライムローン(信用力の低い個人向け住宅融資)問題をきっかけとして始まった円高で、大きく揺さぶられている。消費の急減速と円高によって、米国向けを中心とした輸出が大幅に減少しているからだ。例えば米調査会社オートデータがまとめた10月の米新車販売台数(速報値)は前年同月比で32%減と、25年ぶりの低水準に落ち込んでいる。
 
1985年のプラザ合意以後たびたび起こった円高は、増加する日本の貿易黒字が米国から問題にされ、その解消を目指したものだった。
 
一方今回の円高は、ここ数年続いていた、低金利の円を借入れて売り、金利の高い外国の通貨で運用し「利ざや」を稼ぐ「円キャリー取引」の解消が主因だ。世界金融危機による信用収縮で各国の金利が低下したことで、ヘッジファンドなどは日本の低金利を用いた投資手法をとれなくなり、日本から借りた資金を返すために各国通貨を売っている。
 
あらゆる通貨に対して円が買われているため、円はドルに対して以上に、ユーロなど他通貨に対して高い。世界中からモノを買いまくることで世界の消費を引っ張ってきた米国の実体経済変調も重なり、日本の輸出型産業は一転、危機に瀕している。
 
九州でも、北米向けが出荷の約3分の2を占めるトヨタ九州は8月から減産に踏み切り、派遣社員800人を削減。日産自動車の九州工場も11月から減産に入った。
 
長期的に見て、今回の円高は長く続く可能性が高いが、日本の経済構造はそれに耐えられるような体質にはほど遠い。輸出型製造業を誘致する以外に、地方が生き残る道はないのか。地方の悩みもまた、深くなっている。

(2008・11・11)

第9回 世界金融危機でも、しっかり覚えておきたい「バブルの効用」

毎朝の通勤電車。ふと周りを見渡すと、若者も、大人も、携帯電話を手にしている人が多い。電車の中で新聞や雑誌、本を広げる人より、携帯をいじる人が多くなったのはいつからだろう。NTTドコモが携帯電話によるインターネット接続サービス「iモード」を始めたのが1999年2月。それから10年足らずで、日本の通勤電車の風景は、それ以前とはすっかり変わった。

こうした日本のモバイルインターネットの発展には、ドコモなどの通信会社、パナソニックやシャープといった端末メーカーだけでなく、日本生まれの多くのベンチャー企業が寄与している。
 
例えばニュース、株価情報、乗換情報などを見る時、我々は意識しなくてもブラウザー(閲覧ソフト)を使っている。メールソフトと同等、人によってはそれ以上に利用することの多いアプリケーションソフトだ。この閲覧ソフトをドコモやau、ソフトバンクモバイルなどの多くの端末に提供しているのが、東証マザーズに上場するACCESSだ。
 
そのACCESSが20日に開いた技術発表会「ACCESS DAY 2008」で、鎌田富久副社長は閲覧ソフト「ネットフロント」の搭載が2008年8月末で1552機種、6億3915万台に達したことを明らかにした。
 
しかもそのうちの約2億台は過去1年間に売ったものだ。この1年間をとると、世界中で1秒に6.3台のペースで、同社の閲覧ソフト搭載端末が出荷されている計算だ。過去に、これほど世界に広がった「日本製ソフト」はないだろう。

 
パソコンとは違い、メモリー容量などが限られる携帯電話は、ウィンドウズのような統一した基本ソフト(OS)がなかった。そのため同社はこれまで、各社や端末の仕様に合わせたソフトを用意していた。だが供給先が世界に広がった今も、そのやり方を続けていては、同社にとっても端末メーカーにとっても、手間やコストがかかりすぎる。
 
そこで現在、アクセス・リナックス・プラットフォーム(ALP)として、「どの通信会社でも共通の『共通プラットフォーム』と、通信会社ごとに異なる『オペレーターパックと』いう形に変える作業を進めている」(鎌田氏)。
 
共通プラットフォームは、リナックスを基盤にした携帯電話用のOS。そしてこの共通プラットフォーム部分の核になるのが、同社が2005年9月に約3億2000万ドル(当時で約358億円)で買収した、米パームソース(カリフォルニア州)の技術だ。
 
ACCESSの当時の連結売上高(2005年1月期)は113億円で、当然、自己資金だけでは買収はできない。そのため時価に応じて転換価格が見直される新株予約権付社債(MSCB)の発行(500億円)や、150億円規模の第三者割当増資などでまかなった。
 
ACCESSの現在の株価は14万円前後(10月21日)。開発途上のALPがまだ収益には寄与していないことや、世界的な株価急落もあって、最高値の時より9割近く下がっている。
 
ライブドアなどに強制捜査が入り、マザーズなどの新興市場に上場する銘柄を中心に株価が急落した、「ライブドアショック」は2006年1月のこと。その直前の2005年といえば、新興企業が高株価をテコに、積極的な資金調達が可能だった「新興市場バブル」のころだ。
 
ACCESSも、その新興市場バブルの渦中だったからこそ、百億円規模の資金を調達でき、米パームソースというモバイル関連の草分けで、最高級の技術を持った会社を、自社に取り込むことができたわけだ。

 
フランスの銀行最大手、BNPパリバが傘下のファンドを突然凍結し、サブプライムローン問題が表面化した「パリバ・ショック」から約1年2カ月。新聞や雑誌、書籍でも、サブプライム問題に端を発した世界金融危機についての言説があふれている。中には「強欲資本主義」などとして、ウォール街や米国の資本主義を否定する論調も少なくない。
 
確かに今回の金融危機をきっかけに、極度に発達しリスクの所在を不透明にしてしまう証券化の仕組み、リスクの拡大志向を助長した金融機関の報酬体系、「評価損」の連鎖をつくりだす時価会計制度など、見直すべき点は少なくない。
 
ただ今回の金融危機の原点となった米国の住宅価格上昇(住宅バブル)には、「功」の部分も多くあった。この価格上昇を背景に米国が世界経済の牽引役になっていたからこそ、日本の景気も回復し、2005年当時の新興市場ブームもあった。ふだん我々が何気なく使っている携帯の閲覧ソフトにも、当時の世界的なバブルが追い風になっていたのだ。
 
米国や日本でネットバブルがはじけた2001年6月、米インテルの会長だったアンディ・グローブが米Wired誌のインタビューで、こんなやりとりをしている。
「ネットバブル崩壊後の調整は健全なことですよね?」という質問に対して「ブームもまた健全だった。なぜならば企業価値の暴騰(ネットバブル)があったからこそ、ネットのインフラに膨大なカネがつぎ込まれたからだ」と答えている。グローブは「バブルの功」の部分も、しっかりと認識していたわけだ。
 
今回の金融危機をきっかけに、世界は低成長経済に移行するだろう。特に金融面ではさまざまな是正が進むだろうが、それとともに「バブルの功」もかなりの部分、失われるだろうことを、我々はしっかりと覚えておく必要がある。

(2008・10・21)

第8回 革命的新薬を発見しても、開発に遅れた日本企業社会の土壌と姿勢

今年もノーベル賞の季節が巡ってきた。6日に発表されたノーベル医学生理学賞で、惜しくも今年の受賞は逃したものの、有力候補の1人に挙げられていたのが、遠藤章・東京農工大名誉教授(バイオファーム研究所所長)だ。

遠藤氏は、米アルバート・アンド・メアリー・ラスカー財団が医学分野で画期的な成果を上げた研究者に贈る「ラスカー賞」に今年9月、選ばれた。1945年に設けられたラスカー賞は、医学分野で「米国のノーベル賞」ともいわれる。同財団によると、これまでに受賞者のうち75人もがノーベル賞を受賞しているという。
 
世界で毎日3000万もの人が使い、「世界で一番売れている薬」ともいわれる高コレステロール血症(高脂血症)治療薬スタチンを発見したのが、遠藤氏である。ラスカー賞では、「心臓血管疾患の予防と治療に革命を起こした」ことが評価された。
 
遠藤氏は1957年に東北大農学部を卒業後、大手製薬会社の三共(当時、現・第一三共)に入社。微生物やカビ約6400株を調べ、73年に青カビの一種から、血液中のコレステロールを劇的に下げる物質「ML-236B」(コンパクチン)を発見した。ヒトの体内のコレステロールの8割弱は、肝臓で何段階もの化学反応を経て合成される。コンパクチンは、この合成に必要な酵素の働きを強力に抑える。

 
だがスタチン系薬剤を世界で初めて商品化したのは、遠藤氏がいた三共ではない。先行したのは、早くから遠藤氏の研究に着目していた米製薬大手のメルクだ。
 
三共は1974年からコンパクチンの前臨床試験を始め、社内の反発などさまざまな障害を乗り越え、ヒトの臨床試験は順調に進んでいた。ところが三共は1980年8月に突如、第2相まで進んでいた臨床試験を中止してしまうのである。イヌを使った長期の毒性試験で「腸管にリンパ腫が認められた」というのが、その理由だ。
 
一方のメルクは三共からコンパクチンのサンプル提供を受けるなどして開発を進め、78年には第2のスタチン系薬剤、ロバスタチンを発見。87年に製品名「メバコール」として発売した。
 
三共もコンパクチンの開発中止後、コンパクチンの化学構造に水酸基を加えたプラバスタチン(商品名「メバロチン」)を発見。メルクの参入から2年遅れた89年には発売にこぎ着けた。
 
不思議なのは、コンパクチンの毒性試験で「リンパ腫が認められた」というのは、どうやら三共の誤判断だったらしいことだ。遠藤氏は著書『新薬スタチンの発見』(岩波書店)の中で、三共が誤判断と気付きながらコンパクチンの開発を再開しなかったのは、リンパ腫の話が世界中に広まり「挽回が無理だと判断したと思われる」と述べている。
 
メバロチンは発売初年度には国内で、144億円を売り上げ、ピーク時の2004年3月期には輸出分も加えた年間売上高が2000億円に達した、当時の日本の製薬会社にとっては珍しい「ピカ新(従来の治療体系を大幅に変えるような独創的医薬品)」だった。
 
ただコンパクチンの開発をやめずに予定通り進めていれば、メルクに先立つ84年に発売し、メバロチン発売までの5年間に5000億円程度を売り上げて、高脂血症治療薬で世界市場のシェアもさらに高めることができた可能性がある。だが実際には、メルクに先を越されてしまったのである。

 
当の遠藤氏はコンパクチンを発見した後の1978年末に「研究活動を続けたい」という理由で三共を退職し、東京農工大の農学部助教授に転身した。その時に手にした退職金は660万円あまりで、それ以外に三共からの報酬は1円も手にしていないという。
 
ちょうどメバロチンの発売前後の時期に製薬業界を担当していた私は、他の製薬会社幹部から「三共は遠藤さんが開発したもののすごさがわかっていなかった。メルクが開発に乗り出した後にそのことに気付き、メバロチンで追いつこうとした」という解説を何度か聞かされた。
 
三共がメバロチンの成功で業績が急拡大しようとしていた時期だっただけに、こうした見方は他社のやっかみから出たものかもしれない。ただ80年代末の日本の製薬業界では、欧米の製薬会社が開発した薬を導入し、日本向けの臨床試験をして日本で販売するという「欧米の技術追随型」の経営モデルが一般的だった。
 
ましてや、さらに10年前の三共が、自社の研究所から生まれた成果を正しく評価できなかったとしても、責められない。三共はメルクという追うべき先頭ランナーが現れたからこそ、メバロチンの開発に力を注ぐことができた。
 
スタチンの開発物語を振り返ると、日本発で新しいものが生まれても国内では評価されず、欧米で評価されると国内での評価も高まる――という日本の産業界で繰り返されたパターンに当てはまることに気づく。
「画期的な技術や開発成果は海外から」という固定観念が強い社会で、新しい成果を商品に結びつけるのは並大抵のことではない。それまでにない革新的な技術を社会に結びつけるためには、技術そのものと同時に、それを受け入れる社会の姿勢が不可欠なのだ。

(2008・10・7)

第7回 米アップル S・ジョブズに学ぶ「経営に飽きない」生き方

上場すると店を作りたがる
 
2004年の正月明けだったろうか。上場してしばらくたった企業の社長と、食事をしたことがある。1次会の店を出ると、その社長は六本木にある小洒落たバーに案内してくれた。「いい店ですね」と誉めると、「いやあ、最近、私個人で出した店なんですよ」と社長は語り出した。

その会社が上場した時は、新興市場の相場そのものが低迷していたこともあり、公募増資で調達した金額も、創業者である社長が自分の持ち株を売り出すなどして手にした創業者利益も、それほど多くはなかった。とはいえ六本木のビルを借り、店を出すくらいの資金は十分に得たのだろう。そのおカネで何をしようと、個人の勝手である。
 
店の装飾にはこんな材料を使い、店を任せるためにこんな人をつれてきて、酒はこんなものを輸入した......。最初は肯きながら感心して聴いていたのだが、途中から段々と気持ちが醒めてきた。
 
「あなたにとって余技であるはずの店の経営にそれほどの時間とカネを注ぐのだったら、本業の経営にもう少し情熱を注いでもいいのではないですか」。
 
その時はなんとなくもやもやするばかりで、何で醒めた気分になるのかがわからなかったが、結局そんなことを、その経営者にぶつけたかったのだと思う。
 
上場して経営や資金に少し余裕ができると「自分の店」を持ちたがるのは、その社長ばかりではないらしい。1999年に東京証券取引所がマザーズを創設して以降、上場基準が下がり、年間200社前後の会社が上場するようになった。
 
そうして上場した新興企業の社長が本業とは別に、ポケットマネーなどでレストランやバーなどの店を持つという話を、その後の数年、ここかしこで聞いた。しかもそうした会社の多くが、上場後数年経つと業績が急降下するケースが多いのである。
 
考えられる原因の1つは、経営者が経営に飽いていることだ。


日本とは正反対の米起業家たち
 
創業経営者にとって「上場」は大きな目標だ。上場は本来、さらなる成長を目指すための資金を調達するためのものだが、上場によって創業者利益を得て社会的にも認められる存在になると、さらに進むよりも、経営やこれまでの事業に飽き、他人の目を気にせずに自分が自由にできる店を持ちたがる。上場して自分の店を持つ経営者には、そんな共通した心理があるように思える。
 
だが、すぐに経営に飽いてしまう日本の新興企業経営者とは正反対の起業家もいる。米アップル最高経営責任者(CEO)のスティーブ・ジョブズ(53)だ。
 
そのアップルは8月13日、株価に発行済み株式数をかけ合わせた「時価総額」で、グーグルを初めて抜いた。
 
その日のアップルの株価は179.3ドルで、時価総額は1588億4000万ドル。一方のグーグルは株価が500.03ドル、時価総額は1572億3000万ドル。その後は両社とも、株価は下落傾向にあるが、9月8日現在でも、アップルの時価総額は1399億ドルで、グーグルを6%程度上回っている。
 
2004年8月に上場し、わずか3年後の2007年には一時、時価総額が2300億ドルを超したこともあるグーグルは、急成長企業が少なくない米国のベンチャー企業の中でも、化け物のような存在だ。


PCで負けて追い出されてもあきらめない
 
だがアップルも別の意味ですごい。アップル(当時はアップルコンピュータ)が上場したのは1980年。パーソナルコンピューターの意味を変えた「マッキントッシュ(マック)」を発売する2年前のことだ。
 
ただグーグルのように上場後、一本調子で株価が上がり続けたわけではない。マックの過剰在庫による赤字計上や1985年のジョブズの解任、携帯情報端末プロジェクトの失敗などで、株価は上がったり下がったりを続けた。株価が上昇基調をたどり出すのは、復帰したジョブズがCEOに就任し、iTunes(アイチューン)とiPod(アイポッド)で音楽産業に参入した2000年以降のこと。アップルの株価はこの4年で約4倍に上昇した。
 
こうした歴史を振り返って改めて驚くのは、1976年にワンボードマイコンの「Apple�」を発売した時から今現在まで、ジョブズが起業家であり続けている点だ。
 
ジョブズは上場した後に、よくこう語っていたという。「23歳のとき、資産価値は100万ドルだった。24歳で1000万ドルをこえ、25歳で1億ドルをこえてしまった」。
 
名声や資金目当ての並の起業家だったら、ここでやめて、好きなことを楽しむ道に進んだとしてもおかしくはない。そのほかにもアップルから解任された時、アップルを辞めた後で設立したネクストコンピュータがうまくいかなかった時、さらに2004年に膵臓がんが見つかった時など、ジョブズが経営から降りてもおかしくないタイミングはいくつもあった。
 
だが現実にはジョブズは初期のアップルではコンピューター、ピクサーでは映画、アップルに復帰してからは音楽の世界で大きな成功を収め、今はiPhone(アイフォーン)で通信の世界に挑みつつある。
 
日本の起業家が学ぶべきは、ジョブズが3つの違った分野で成功したという事実よりも、自分がつくった会社を追い出されても、ネクストが失敗しても経営に飽きず、いつまでも新しい何かを求める姿勢ではないだろうか。

(2008・9・9)

第6回 商店街や地場小売業の脅威、イオンとの付き合い方

南北を分かつ駅前ロータリー
 
この夏、久しぶりに高知市を訪れた。この1年ほどで最も大きな変化は、JR土讃線が高架になり、古びた駅が橋上駅舎の「新高知駅」として生まれ変わったことだ。

県産のスギを使った大屋根、JR四国としては初めて導入した自動改札など新しい駅の売り物はいくつもある。だが市民にとってより大きいのは、高架化により、これまでは踏切によって遮られがちだった南北の行き来が、格段にしやすくなったことだ。
 
高知駅を真南に下ると「よさこい節」にうたわれた「はりまや橋」があり、その東西には帯屋町などの中心商店街が広がる。一方、駅から真北へ進むと、2000年に開業した「イオンモール高知(当時はイオン高知ショッピングセンター」がある。
 
高知駅が橋上駅舎となったことで、この駅から南と北に伸びる道が結ばれた。だが奇妙なのは、徒歩や自転車では駅の南北を簡単に行き来できるのに、現状では南北にロータリーをつくるなどして、わざわざ車が通り抜けられないようになっている点だ。まるで誰かが、駅南側の中心商店街と、イオンを中心に全国チェーンが数多く出店する北側とが結ばれることを、頑なに拒んでいるかのようだ。
 
多くの地方都市の中心商店街や地場小売業にとって、郊外に巨大なショッピングセンターを出店するイオンは「脅威」といえる存在だ。
 
郊外の、高速道路のインターチェンジ近くに出店し、広域の商圏を獲得。つられるように家電量販店や飲食店などの全国チェーンも進出して、ますますその地域の客を集める。そのうち駅前など個人商店や地場資本のスーパーなどで構成する中心商店街では廃業が相次ぎ、徐々にシャッター街と化していく――。これが、イオンの進出に伴う中心商店街衰退の典型的なパターンだろう。
 
高知市も、ある程度までは先の例が当てはまる地域だ。
 
1998年に、四国山地を縦断する高知自動車道が、高知市に隣接する伊野インターチェンジまで延伸。2000年にはイオンモール高知が高知インターチェンジ近くの工場跡地に開業した。
 
開業前には、高知市の中心商店街などが進出に反対し、世論は賛成派と反対派とに分かれた。またモール内にシネマコンプレックス(複合型映画館)を増築する際には、高知市が映画館増設のための手続きを認めず、裁判になったりもした。
 
実際、イオン出店の影響は大きく、高知市中心部9商店街の2007年12月の空き店舗率は前年比3.72ポイント増の11.78%となり、調査を始めた98年以降で最悪の数字となった。またシネコン開業前には、市内中心部にいくつもの映画館があったが、次々と閉館し今や残るのは1館のみになってしまった。


果敢に戦いを挑む小売業
 
イオンモールが商店街や地場小売業に与える影響力の大きさを考えれば、関係者がイオンを恐れるのは仕方がない面もある。だが一方で、相手の懐に飛び込むような、果敢な戦い方をする地場小売業もある。
 
イオンモール高知の真向かいにあるスーパー「サンシャインベルティス」。元々は地場スーパー、高知スーパーマーケット(高知市)の前里店だった場所だ。だが目の前で開業したイオンに顧客を奪われるなどして2006年10月に、高知スーパーは自主解散した。
 
この前里店を引き継いだのが、高知県を中心にボランタリーチェーンを運営するサンシャインチェーン本部(同)。武器は、全国規模の小売業にはまねのできない地場に密着した経営だ。
 
8月のある平日のサンシャインベルティス。顧客は比較的少ない時間帯だが、売り物とする地場産品の売り場「太陽市」には多くの客が集まっていた。
 
他の直営店の分も合わせて約1000戸の地元農家と契約し、朝にとれたトマトやナス、ミョウガ、スイカなどの旬の野菜・果物を販売している。生産物の多くには「○○さんの野菜」という案内や直筆のコメントがつけられており、生産者の顔がよく見える。魚売り場に目を転じれば「森田さんのうなぎ蒲焼」と、ウナギの蒲焼きにも生産者のコメントがつけられていた。県内を流れる渓流、仁淀川でとれたシラスウナギを育てたものという。
 
ベルティスを出て、横断歩道を渡れば、そこはイオン。同じように、食品売り場を歩いてみた。地産地消には力を入れている様子だが、ベルティスほどのインパクトはない。
 
イオンの入口に立ってみると、思いのほか両店を行き来している人がたくさんいる。関係者によると「ベルティスで食料品を買って、イオンで衣料品を買ったり映画を楽しんだりという人は多い」という。


強みを生かし合う共存共栄への道
 
ベルティスの2008年12月期の売上高は当初の目標を3億円上回る23億円だった。一方のイオンモール高知の同2月期の売上高は前期比2%増の277億円で、過去最高を記録。どちらも強みを生かし合った結果だろう。
 
高知市の中心商店街も、これまで単に手をこまぬいてきたわけではない。98年に高知城近くに開店した大型屋台村「ひろめ市場」は県内の地場産品の販売店、飲食店など約60店を集め、県内随一の人気スポットに成長した。
 
また高知市の中心商店街で始まった、女子大生が商店街の清掃活動や案内に取り組む「エスコーターズ」の活動は、他の地方都市にも広がった。イオンの勢いに押されているとはいえ、強みがないわけではない。
 
県内の金融関係者は「本来、イオンと商店街の強みは違うはず。イオンと商店街の間を無料のシャトルバスで結ぶなどの逆転の発想があってもいいのでは」と提案する。サンシャインベルティスのやり方を観察すると、イオンとの上手な付き合い方がないわけではないことが、よくわかる。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

(2008・8・26)

第5回 堀江裁判が導く「地に足の着いた」起業家の時代

7月25日に、ライブドア事件で証券取引法違反罪に問われたライブドアの元社長、堀江貴文被告に対する控訴審判決があった。東京高裁は堀江被告の控訴を棄却、懲役2年6月の実刑とした東京地裁の一審判決を支持した。ただ控訴審では堀江被告が一度も出廷しなかったこともあり、2年半前の堀江被告らの逮捕の時や、一審判決の時に比べ、世間の関心は相当に薄らいだように感じた。

堀江被告逮捕・判決の意味は何だったのか。それを感じようと、控訴審判決の後、六本木ヒルズを改めて歩いてみた。オフィス部分の森タワーに入ると、壁には入居企業の一覧がある。すぐに気づくのは、その内容が以前とはがらりと変わったことだ。
 
開業当時、六本木ヒルズには、ライブドアだけでなく、IT(情報技術)系を中心としたベンチャー企業が集まっていた。先行して入居していたヤフーに続き、楽天が入居した時には「ライバル会社同士の社員が顔を合わせないように」と、同じエレベーターを使わなくて済むようなフロアに入った。
 
ヒルズ内の飲食店には、ランチともなれば、見るからにベンチャーの社員らしき人たちがあふれていた。「社員証は見えなくても、遠くからでも素振りを見ていれば、だいたいどこの社員かはわかりますね」。あるITベンチャーの役員が解説するほど、彼らは目立っていた。
 
ライブドアがプロ野球への参入問題やニッポン放送の買収提案などで話題を振りまいた2004年から2005年にかけて、ヒルズに入居するベンチャーの時価総額は、合計数兆円にも達していたはずだ。
 
だが事件後、当のライブドアホールディングス(旧ライブドア)が本社を港区の別のビルに移転しただけでなく、ヤフーも楽天もヒルズを去った。日雇い派遣子会社を廃業したグッドウィル・グループも、ヒルズからの本社移転を検討している。
 
今のヒルズも、観光客などでそれなりににぎわうが、かつての主役たちがかもし出していた、ギラギラした感じには乏しい。
 
上場前の堀江被告を取材したことがある。年上の人に対しても攻撃的に自説を語るのはそのころからのことだが、当時のライブドアはウェブ系の技術を手がける「中身」もある会社だった。
 
事件後、「友達感覚で会社を経営し、株価をつり上げるため、まるでコンピューターゲームをしているかのように、法やルールの不備をみつけ、そこにつけ込むことに躍起になっていた」と、ライブドアの旧経営陣を批判したマスコミがあった。
 
だが少なくとも堀江被告らが最初からそうだったわけではない。ネット台頭の波に乗り2000年に上場し、さらに上場で得た資金や立場を利用して合併・買収などを繰り返すうちに、中身より外見を追い求める「上げ底」の度を強め、ついには虚業といってもいい段階まで進んでしまった――。それが実態ではないだろうか。
 
ヤフーや楽天が入居して俄然注目を集めつつあった六本木ヒルズにライブドアが本社を移した時には、企業規模やウェブサービスの充実度でははるかに先行していた両社に並びたいという意識が透けて見えた。あたかも同じヒルズに入居すれば、企業としての「格」も並ぶかのように。そういえば、当時のライブドアのサイトのデザインは、パクリかと思うほど、ヤフーのサイトに似ていた。
 
ライブドアがプロ野球への参入にあれほど執念を見せたのも、またそのほかの新興企業もこぞって球団経営や命名権の獲得などのプロ野球関連事業に参入しようとしたのも、手っ取り早く、世間が認めてくれる「看板」が欲しかったからだろう。
 
堀江被告らの逮捕と裁判によって断罪されたのは、そうしたライブドアや多くの新興企業にみられた「上げ底」の経営姿勢だ。
 
ライブドア事件をきっかけに、ジャスダックやマザーズなどに上場する新興企業には相次いで不祥事が発覚。投資家の新興企業に対する夢も、時価総額も急速にしぼんだ。上げ底経営の会社や経営者にとってはある意味、自業自得だが、問題は会社を興したばかりの起業家やその予備軍に、事件や新興企業バブルの崩壊がどう影響を与えているかだ。
 
7月下旬、ベンチャー企業支援会社、プレジデンツ・データ・バンク(東京・中央、PDB)が主催するベンチャー向けのセミナー・交流会に出席してみた。講師は2007年末に東証マザーズに上場したリサイクルショップ運営、トレジャー・ファクトリーの野坂英吾社長。堀江被告と同い年(1972年生まれ)だが、大学卒業(1995年)と同時に同社を立ち上げ、試行錯誤を重ねながら衣料のリサイクルなど独自のノウハウを積み重ね、12年かけて上場を実現した苦労人だ。
 
会には100人近いベンチャーの経営者などが集まったが、印象的だったのは、ミネラルウォーターしか出ない交流会でも、熱心に名刺を交換しながら情報交換する出席者が多かったことだ。印象は「地道な若者たち」。約10年前にネットベンチャーの若者らが集ったビットバレー、あるいはその後の携帯電話向けコンテンツのベンチャーの集まりなどの派手さとは随分と印象が異なる会だった。
 
PDBの高橋礎社長によると「やはり数年前までは『○年で上場します』というような大言壮語型の人が多かったが、最近はそういう人がいなくなり、地に足がついた感じの人が多い」という。
 
ライブドア事件は確かに、起業家予備軍を減らし、「大企業からベンチャーへ」という流れも止めた。だが、もしそれが起業家を選別にかけて地に足の着いた経営者を浮かび上がらせているのだとしたら、それは事件が残した大切なものかもしれない。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

第4回 鉄道の遅れに見る日本社会の変質

私鉄の遅れが目立ってきた
 
その日は朝のラッシュピークが過ぎたころ、ホームに滑り込んできた西武池袋線の「急行」に駆け込んだ。異変に気づいたのは、急行電車が駅を出発してすぐ。急行の停車駅でもないのに、電車は停車と発車を繰り返す。「今朝方、清瀬駅付近で人身事故がありましたため、ただいまダイヤが大幅に乱れております」のアナウンスで、合点が行った。

終点の池袋駅に着くまでには、いつもの倍以上の時間がかかっただろうか。妙に気になったのは、乗客が終始、落ち着いていたことだ。
 
携帯電話で勤務先などに連絡する人はいたものの、ほとんどの乗客は「ああ、またか」とあきらめたかのような表情で、じっと到着を待っている。日本人はほんの数年前まで、電車がほんのちょっと遅れただけでも、目をつり上げていたはずなのに。
 
2004年から2007年にかけて、私は東京を離れていた。その後、3年ぶりに東京へ戻って最初におやっと首をひねったのが「電車の遅れの急増」である。
 
関東地方でいえば、東京を離れる以前からJR中央線は人身事故と、それに伴う遅延が多いことが知られていた。だが多くの私鉄はそれほどではなかったし、私の利用する西武池袋線はほとんど遅れることがなかった。
 
ところが再び東京へ戻ってくると、西武池袋線は頻繁に遅れるようになっていた。感覚的には、週に1回から10日に1回程度は、遅延に遭遇する。そして、その多くが「人身事故により」と説明されている。
 
国土交通省によると、列車に運休または30分以上の遅延が生じた「輸送障害」の2006年度の件数(全国ペース)は4421件で、10年前より48%増えている。「輸送障害」に計上されることのない30分未満の遅延は、さらに多いはずだ。


遅延を生む3つの原因
 
遅延が増えている原因は何か。1つにはJRや私鉄、あるいは私鉄同士の相互乗り入れが増え、鉄道の運行形態が複雑さを増したことだ。
 
西武池袋線について言えば、以前は西武線の中だけでダイヤが完結していた。だが今や西武線のダイヤには、メトロ有楽町線、副都心線、メトロが乗り入れる東武東上線も関係する。
 
冒頭の人身事故の時でも、メトロ有楽町線・副都心線は西武池袋線との直通運転を中止しなければならなかった。さらに2012年に副都心線が東急東横線と乗り入れるようになると、例えば東横線の横浜付近での事故が、東京都西部と埼玉県を走る西武線にも影響を与えるようになるだろう。
 
2つめの理由は、鉄道事業者以外による「部外原因」の増加だ。先の国交省による調査では、鉄道事業者の「部内原因」による輸送障害が10年間で19%増にとどまるのに対し、「部外原因」による輸送障害は79%も増え、06年には1477件になった。
 
さらに06年度の場合、この部外原因のうち534件(36%)を「自殺」が占めるのだ。この統計からは、自殺による遅延がどれだけ増えているかはわからないが、部外原因の増加率と同程度には、自殺による遅延も増えているとみていいだろう。
 
今や鉄道で人身事故が起こり遅れが出ても、事故が朝夕のラッシュ時などに起こり、よほどの数の乗降客に影響が出ない限り、新聞やテレビは報道せず、一般人にはその原因を知る術はない。だが国交省の調査からは、飛び込み自殺の増加によって列車の遅延が増えていることが、透けて見えてくる。
 
3つめの理由。それは推測の域を出ないが、107人の死者を出した、2005年4月25日のJR西日本福知山線脱線事故の影響だ。国交省の航空・鉄道事故調査委員会は07年6月にまとめた最終報告書で、事故の背景には余裕のない運行ダイヤなどJR西日本の企業体質全般があるとした。
 
JRをはじめとした日本の鉄道は、単に遅れないだけでなく、遅れてもすぐに回復できるシステムの柔軟性に特徴があった。ダイヤの工夫や運転士の技能などにより、遅れている電車を元に戻す。だがJR西日本の事故を境に、鉄道事業者側には定時運転に対するこだわりが薄れ、乗客側にも「遅れを取り戻すために無理をされるよりも安全を」という気持ちが生まれたのではないか。


遅延の先に見えるもの
 
経済ジャーナリストの三戸祐子は鉄道本の名著『定刻発車 
日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか?』(新潮文庫)で、日本の鉄道が「定刻発車」を実現できるもとを探ると、江戸時代の参勤交代や「時の鐘」などにまでさかのぼれると指摘している。遅れない電車はある意味、鉄道会社の努力だけでなく、国民性とも分かち難く結びついていた。
 
この本は皮肉にも、福知山線の事故が起こったのとほぼ同時期の2005年4月末に文庫化された。そしてそれからわずか3年の間に、日本人は電車が遅れることに「慣れてしまった」ように見える。
 
飛び込み自殺の増加、鉄道の遅延の常態化、そしてそれに慣れつつある日本人。これらはごくごく短い間に、日本社会の「変質」が進んだことを示している。


【著者プロフィール】
1965年、埼玉県出身。1988年に大学卒業後、大手新聞社に就職。主に企業関係の取材を担当。
現在は経済関係部署のデスク。

第3回 日本にグーグルが生まれない本当の理由

わずか10年でトヨタ自動車の時価総額
 
日米のベンチャーを比較する時によく話題になるのが「日本にはどうして米グーグルのような会社が生まれないのか」という疑問である。

グーグルの誕生は1998年9月で、1997年設立の楽天よりも新しい。それでいて現在の時価総額は、米株式市場が変調を来している今も約1700億ドル(約18兆円)を維持。楽天などジャスダック上場企業(950社)が束になっても(合計額は11兆円)かなわない。日本で現在、時価総額でまともに張り合える会社はトヨタ自動車(約17兆円)ぐらいしかない。
 
先日、シリコンバレーにも詳しいある新興企業の経営者と会った時にこの疑問を投げかると、間髪を入れずに答えが返ってきた。
 
「それは、日本では新しいものが否定されるからですよ。日本ではベンチャーが新しいものに挑戦しても『しょせんベンチャーでしょ』と受け取られて、否定的に見られてしまう。一方、米国は新しいことに挑戦した会社は尊敬される。ブラウザーを最初に事業化したネットスケープコミュニケーションズは成功はしなかったが、彼らの挑戦を否定する人はいませんよ」
 
グーグルはスタンフォード大学の学生だったラリー・ページとセルゲイ・ブリンが立ち上げた会社だ。2人は起業前にサン・マイクロシステムズ共同創業者のアンディ・ベクトルシャイムに会って話をすると、ベクトルシャイムは初対面の2人に10万ドルの小切手を送ったという。2人はそれを元手にグーグルを創業。99年にはシリコンバレーのベンチャーキャピタル(VC)、クライナー・パーキンスとセコイア・キャピタルが2500万ドルを出資した。
 
当時のグーグルは新しい検索技術の開発にまい進するのみで、どうやって収益を得るかもはっきりしていなかった。にもかかわらず2人やグーグルに投資したベクトルシャイムやVCの存在を考えると、先の経営者の言葉に肯かざるを得ない。


ベンチャーの質の問題か?
 
だが一方で、こうも思うのだ。日本では常に新しいものが否定されてきたのだろうかと。
 
起業の世界でいえば、東京証券取引所が新興企業向けの市場、マザーズを設立した1999年以降、少なくとも2005年ごろまでは新しいものをつくろうとする起業家や会社にとって、追い風が吹いていた時期だ。マザーズ設立当時は国も大企業の経営者も「日本のベンチャーに足りないのはカネ」と考え、資金供給の仕組みを整えることを後押しした。
 
仮想商店街の楽天、ネット広告のサイバーエージェント、携帯電話向けソフトのACCESS、ブロードバンド事業などを手掛けるUSENなどは、いずれも新興市場が整備された2000―2001年に上場。市場から調達した資金を使って成長を加速した。こうした企業群は、グーグルほどの規模ではないにせよ、新しいことに挑戦し、それを後押しする投資家から資金を手に入れたともいえる。
 
だが問題は新しいことに挑むよりも、挑んでいると見せかけて、資金や上場という資格を得ることだけに腐心する起業家、企業がずっと多かった点だ。
 
ライブドアは楽天などと同じく2000年上場組だが、ある時点からは株価をつり上げることだけを考えるの会社に堕してしまった。YOZANのように市場から数百億円を調達しながら、事業を携帯電話用半導体、PHS事業、高速ネット事業と次々と変えた末に、今は市場から退場寸前の会社もある。その他、投資家の期待を裏切る、あるいはそもそも期待に応えるつもりもなかったダメ会社が多かったからこそ、日本でのベンチャー企業への信用は墜ちてしまったのだ。


起業家の原点に戻るとき
 
2008年4―6月期の日本での新規株式公開(IPO)した起業の数はわずか3社と、前年同期の10分の1に減った。米国の信用力の低い個人向け住宅融資(サブプライムローン)に端を発した投資家心理の冷え込みや、景気減速といった外的な要因もあるが、投資家心理の底流にあるのは新興企業に対する不信感だ。
 
今やある意味では、投資家は新興市場が整備する前よりも、新興企業やベンチャーに懐疑的だ。「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」という言葉がまさに当てはまる。
 
確かに冒頭の経営者のいうように、米国に比べれば日本は新しいものに挑戦する者を歓迎する気風は乏しいだろう。だが「挑戦者はいかがわしい」という見方を広めるたのもまた、一部の起業家の責任だ。
 
IPOの激減には、投資家や市場が成長企業の選別を強化するといったプラスの意味もある。グーグルもネットバブル後の「シリコンバレー冬の時代」を生き残ったからこそ、2004年に上場する時点で強い体質を持っていたという見方もある。
 
この冬の時代を次の春につなげるには、日本の起業家そのものが「新しいことに挑戦する」という原点に立ち返る必要がある。さらに、こうした起業家達を日本社会が正当に評価できるようになった時、それは以前よりも「グーグルのような会社」を生み出しやすい社会になっているはずだ。

(08・7・16)

第2回 人件費が下がって起こった「過去最悪」からの転換

無差別殺傷事件から見えてくるもの
 
東京・秋葉原で6月8日に起こった無差別殺傷事件。7人もの犠牲者を出した事件の衝撃が徐々に薄れてくるにつれ、妙にひっかかり始めたのが、加藤智大容疑者によるものとされる、携帯サイトへの膨大な書き込みだ。

「他人に仕事と認められない底辺の労働」
「来月から残業がなくなるようです 
お金のかかる趣味を始めたとたんにこの仕打ちですか 
やはり、世の中すべてが私の敵です」
「300人規模のリストラだそうです 
やっぱり私は要らない人です」
「勝ち組はみんな死んでしまえ」
「作業場いったらツナギが無かった 
辞めろってか」
「やっぱり会社の奴がいた 
ツナギあったよ、だと 
自分で隠しておいてよく言うよ」
「お前らが首切っておいて、人が足りないから来いだと? 
おかしいだろ」――
 
職場や仕事にからんだものだけでも、これだけの書き込みをしている。ここから感じるのは、職場や「派遣」という働き方への強い不満や怒り、絶望だ。
 
親、不細工、彼女がいない......。加藤容疑者が劣等感を募らせ、犯行へと駆け出すことになった要因はさまざまだが、そのうちの1つに「派遣」という先の見えない働き方への不満があったことは確かだろう。
 
加藤容疑者の犯行は言語道断で、許されるものではない。ただ彼が鬱積させていった不満はとりたてて突飛なものではなく、今も日本のどこかで働いている「だれかの不満」とつながっている。パソコンや携帯電話の匿名掲示板を訪れれば、加藤容疑者と同じような仕事に対する怨嗟の声を見つけるのはたやすい。そこに底知れない不気味さを感じるのだ。


労働分配率は過去20年で最低
 
いつから"ニッポン株式会社"はこんなにもぎすぎすとした職場になったのか。そのことを理解するのに、興味深いデータがある。日本経済新聞が6月5日付の「前期決算から(中)」で試算した、2000年3月期を基準にした設備投資、株主配分、人件費の動きを指数化した数字だ。
 
日本の上場企業は2008年3月期、リストラや新興国需要の取り込みなどで、03年3月期以来6期連続の経常増益を達成した。だが2000年3月期を基準に設備投資、株主配分、人件費の動きを見ると、07年3月期までに株主配分は3.1倍に膨らみ、設備投資も47%伸びたにもかかわらず、人件費は11%の増加にとどまった。
 
経営の三大要素はヒト・モノ・カネ。バブル崩壊後の低迷期を脱し、売上高の拡大傾向が続いたこの期間に、ニッポン株式会社はヒトへの配分を犠牲にすることで、モノへの投資と投資家への配分(カネ)を進め、収益回復を軌道に乗せたともいえる。だから、企業が創出した付加価値のうち人件費の占める割合を指す「労働分配率」は、過去20年で最低水準にまで落ち込んでいる。
 
ヒトへの配分の落ち込みは、ニッポン株式会社に、さまざまな歪みをもたらした。企業は採用抑制を抑える一方で、その穴を契約社員や派遣社員といった非正規社員を増やして埋めてきた。今や働く3人に1人が派遣やパートなど非正規社員だ。
 
一方で数が少なくなった正社員には、過重な責任や労働がのしかかる。長時間労働やサービス残業が当たり前になり、正社員と非正規社員の断絶が進んだ。07年度に過労などで自殺したとして労災認定された人は81人と、2年連続で過去最悪を更新した。
 
日本の戦後の雇用システムの特徴は「終身雇用」「年功賃金制」「企業別組合」――。こうした経営学の常識がいとも短期間に崩れるとは、誰も予想しなかっただろう。


日本企業の転換に水を差す? 減益
 
ただヒトへの配分を抑え続けるには限界がある。今年に入ってからは、社会からの批判に対応し、是正する動きもようやく目立ち始めた。
 
日本マクドナルドホールディングスは5月、店長を管理職と見なして残業代を払ってこなかった姿勢を転換し、8月から残業代を支払う方針に転換した。いわゆる「名ばかり管理職」に対する社会からの風当たりに、抗することが難しくなったからだ。
 
またトヨタ自動車も5月、生産現場の従業員が勤務時間外にグループで取り組む品質改善の活動(カイゼン)について、残業代を全額支払う方針に変えた。「サービス残業」批判へのトヨタ流の回答といってもいい。
 
派遣など非正規雇用についても、製造業を中心に待遇改善を求める声が強まっている。今回の秋葉原無差別殺傷事件で非正規雇用にスポットが当たることで、派遣など非正規雇用のある程度の改善は進むかもしれない。
 
だが問題は、肝心の企業収益が長く続いた拡大期を経て、曲がり角にさしかかっていることだ。
 
右肩上がりの資源高に米国や新興国などの需要減などが重なり、上場企業の09年3月期の経常利益は7年ぶりに減益となる公算が大きい。利益という分母が減る中で、人件費という分子を増やすことに、どこまで企業が本気になれるのか。ニッポン株式会社と働き手のせめぎ合いは、これからも続くだろう。

(08・6・17)

第1回 野球の独立リーグを創設した石毛宏典という名の「起業家」

野球の独立リーグが、全国に広がっている。先行した四国や北信越のリーグは、2008年から地域を広げると共にチーム数を増やし、関西でもリーグを新設する構想が進む。日本野球機構(NPB)が運営する「プロ野球」への育成機関として機能し始め、地域に活気を取り戻す担い手としても注目を集める独立リーグ。その独立リーグが日本に広まるきっかけをつくったのが、西武ライオンズの名遊撃手で、オリックスの監督だった石毛宏典だ。

「なんで、デイリースポーツの後追いをしないといかんのかなあ......」。高松支局の同僚記者がぼやきながら記事を書いていた。かたわらにあったのは、その日のデイリースポーツ。1面にはこんな見出しが躍っていた。「プロ野球に新リーグ!! 
四国4県4球団 
来季からスタート! 
元オリックス監督 
石毛氏中心に設立」。今から4年近く前、2004年9月末のことだ。
 
新聞の世界で「抜いた抜かれた」は日常茶飯のこと。ただ媒体や地域によって、ニュースやスクープの「判断軸」は異なる。普通ならば、関西が地盤で阪神タイガース中心の紙面をつくるデイリーのスクープを、一般紙の、それも地域ネタを書くことが仕事の支局が「追う」ことはない。
 
ただネタは四国での"プロ野球"独立リーグ構想である。野球の世界だけにとどまらず、人口減に悩む四国4県にとって一つの面白い地域活性化策に育つ可能性はある。
「恐らくうまくはいかないが、一応は書いておかないとな」。これがデイリーの後追い記事を書く羽目になった記者たちの、平均的な思いだっただろう。そのくらい、四国の人たちも当初は、石毛の掲げた四国アイランドリーグ(IL)構想を本気にはしていなかったのである。

 
当時、高知支局に勤務し、たまたまその日は高松に仕事で来ていた私もさめていた一人だ。構想には高知も含まれていたが「人口が80万人を割る高知で、そもそも"プロ野球"が成り立つものなのか」。そんな疑問が、頭からは離れなかった。
 
そんな私が「ILは地域を面白くしそうだ」と思い始めたきっかけは、翌2005年の3月、初めて石毛本人に会った時からだ。
 
その日は高知県南国市の奈路という、山あいの小さな集落の公民館で、四国ILを応援する組織の設立総会があった。応援組織といっても、JR四国のような大企業が母体の組織ではない。高知県内の農家らが「カネはないがコメなら出せる」と考え、各チームにコメを提供することで四国ILを応援しようという草の根組織の設立総会だった。
 
当然、集まったのは農家のおじちゃんやおばちゃんが中心。彼らは公民館の畳に座わり「本当にこんな所に石毛が来るのだろうか」と若干不安を抱きつつ、石毛を待ちわびていた。
 
少し遅れて1人でやってきた石毛は「四国ILに夢をのせて」と題して講演。「コメをしっかりかみ締めて、若者が夢をつかむために必死になっている姿を見せていきたい」と話した。また講演後の交流会では、高知特有の献杯や返杯にも嫌がる様子一つ見せず、おじちゃんやおばちゃんらと楽しそうに酒を酌み交わしていた。
 
この人が掲げる「地域密着」は単なるお題目ではなく本気だ――。出席者に、石毛の熱い思いがしっかりと伝わる会だった。高知で四国ILを応援しようという空気が強まっていったのは、この頃からだったと思う。

 
翌4月。私は松山市の坊ちゃんスタジアムで行われた開幕戦、高知対愛媛の開幕戦を見に行った。プロ予備軍とは思えぬ珍プレーもあり、観客から失笑を買ったりもしたが、選手のハングリーさと、荒削りの魅力は伝わってきた。
 
この1戦に高知の一員として出場していたのが、今はロッテの1軍で活躍する角中勝也だ。「スイングスピードは速かったが、足も肩も最初は今ひとつだった」。入団した当初のことを石毛がこう評した角中は四国ILでその後めきめきと力をつけ、2006年の大学・社会人ドラフト7巡目でロッテから指名を受けた。今年の4月にはプロ入り2年目で初めてのホームランを放ち、四国ILリーグ出身者としても記念すべき第1号になった。
「四国リーグがなかったら、プロに入ってない。活躍して恩返しをしたいと思っていた」。角中の試合後のコメントを聞いた石毛は「あの言葉で救われたね」と振り返る。この角中をはじめ、四国ILからプロ野球入りした選手は既に11人に達した。
 
4年ほど前には、ご当地の四国の人でさえ、ほとんど本気にしなかった独立リーグ構想。だが今は北陸・上信越にも広がり、来年には石毛自身が仕掛け人となって関西にもリーグが誕生する見込みだ。石毛は「社会人野球が廃れ、地域が活力を失う中で、独立リーグはプロ野球を支え、雇用を生み出し、地域を支える力がある。ゆくゆくは独立リーグ機構も必要になる」と力強く語る。
 
振り返れば、2004年には、近鉄とオリックスが合併を前提に話し合うと発表したことを機に、プロ野球の再編問題が浮上した。ライブドアの堀江貴文や楽天の三木谷浩史などの「起業家」が、野球への参入をめざした年でもある。
 
だがプロ野球への参入争いは、裏返せば、新興企業がいかに既得権益を持つグループに入るかの争いでもあった。結果的にプロ野球への参入を果たした三木谷や、敗れた堀江よりも、日本では難しいと見られていた「独立リーグ」の礎を築いた石毛の方が、よほど起業家らしく見える。

(08・6・4)

2011年11月22日

【序説】第1回

・インタビューは面白くなりにくい
・馬鹿馬鹿しい限りの頭取インタビュー
・オーナー経営者の話にはドラマがある

インタビューは面白くなりにくい

おもろい会社というものは世の中にそれほど数多くはない。「だから」というべきか「でも」というべきかは定かではないが、おもろい会社に出会うと、わくわくするような気分になるのである。

この場合何に対してわくわくするかというと社長(ほとんどはオーナー)の話に対してである。社長が起業したきっかけや、経営の危機を迎えた時にどうやって乗り切ったか、はたまた大ヒットはいかにして生まれたかなど、それぞれにドラマがある。そのドラマはそれぞれの社長の個性が出ており、なかなかユニークなものが多い。時々はほろっとさせられるような人情物的な話もある。だからこういう機会があると、私はいつでも飛びつくのである。
「そういうインタビューならやりたい」と。

これは業というより他はない。世の中にはいろいろな素晴らしい経営者がいるが(あるいは人物がいるが)、有名な大企業のトップに話を聞くと概して面白くないものである。もちろんそれにも例外はあるのだが、それはまた後で説明しよう。

私が以前に経済週刊誌の編集長を務めていた時に、編集後記を除く、私の唯一の担当として「編集長インタビュー」というコーナーを持っていた。インタビュイー(インタビューされる人)は主に大企業の社長が中心だった。当初は......。
何故勿体ぶったような書き方をするかというと、ある時を境に方針を変えてしまったからである。

そもそもインタビューというページは話が面白くなりにくい。なぜなら、インタビュイーの話が面白い場合に限って中身が面白くなるからだ。もちろんインタビュアーの力量が問われるのも事実だ。しかし、何を聞いてもぼそぼそっとしか答えないような人がいるのもまた事実である。特に大手企業の場合、経営者である社長が出てきても発言できることが限られており、話が建前に終始することから中身は面白くなくなる。もちろんあの手この手で話を振って真意を聞きだそうとしたり、本音を引き出そうと試みたりもするのだが、なかなか壷にはまらず苦労をするのだ。そんな状態のままインタビューが終了した時は自分自身、身体の疲れが倍加したように感じ、まさにイグゾーストの状態に陥ってしまうのである。
で、なぜある時を境に方針を変えたかというと、これでは埒が明かないと思ったからだ。


馬鹿馬鹿しい限りの頭取インタビュー

こんなインタビューがあった。
1997年頃の話。つまり今から10年前。某大手銀行頭取室。広い部屋だった。優に100平米はあるだろう。私はソファに座り、向かいのソファ(といっても5メートル以上離れているが)にその銀行の頭取が座っていた。間には真四角の大テーブルがあり、それぞれ左横には『週刊ダイヤモンド』の金融担当記者、その隣には先方の広報部長が座っていた。

さてインタビュー開始である。実はこのインタビューには伏線があった。事前に質問内容を求められていたのである。その件を担当記者に言われたので、インタビューというのは当意即妙の面白さがあるのだから、事前に質問内容をいうことはしない、と真っ当なことを言ったつもりでいた。しかし間に入った記者は広報部からせっつかれ自分でこんな質問じゃないかと、質問内容を作成し先方に渡してしまっていた。もちろん事前に私にもその質問内容を見せ、こんな感じで出しておきましたといったものである。私は頷いたが、内心穏やかではなかった。

インタビューがスタートすると、驚いたことに件の頭取は自分の横に置いてある厚さ20センチくらいの書類の束に目をやり、それを見ながら答えるのだった。アンサーペーパーが用意してあったのだ。しかもそのアンサーペーパーを棒読みなのだ。
そりゃあないだろう、である。

私はすぐさま方針を転換し、あらかじめ出してない質問をし始めた。すると、頭取は横の広報部長に目をやる。すると広報部長が「それについてはですね......」と答え出したのだ。私が怒りを通り越して、唖然としたのは言うまでもない。
後で担当記者にこの件について文句を言うと、「あそこはずっと前からそうなんですよ」と言う。前の頭取の時も取材に来た記者に「これで頼むよ」と用意したアンサーペーパーそのものを渡して後は世間話に興じたそうだ。つまるところこの銀行の取材対応は常にこうだったというわけである。

こういう会社があったのだ。

ちなみにこの会社がこのような方法を取っていたことについては理由がある。その理由を説明すると、これまた長々とした話になるので、長年に亘って澱が溜まっていたとだけ記しておこう。


オーナー経営者の話にはドラマがある

もちろんこれは極端な例である。ほとんどの大企業の社長は私の質問に真摯に答えてくれた。しかしこれが前述した通り面白くないのである。
で、ある時ベンチャー企業に注目した。当時は第三次ベンチャーブームなどともてはやされていたが、つまるところオーナー企業なら面白いだろうと単純に思ったのである。
これが大正解だった。どの社長の話も面白いのである。

面白いというのはどういうことか。中身があるということだ。どんな社長でも、会社を立ち上げたきっかけがたいした理由ではなくとも(たいした理由のほうが少ないかもしれない)、会社を成長させたその過程には必ずドラマが存在する。だから面白いというきわめて単純な話なのである。
しかし、だれもが思わず耳を傾けるような話なのである。会社を立ち上げたときにカネがなくどうやってやりくりしたか。これだと思って出した商品が全く売れずに困った時どんなことをしたのか......。

こんな話もあった。

会社が倒産するから従業員に辞めてもらうよう説得したが、従業員は辞めずに残って頑張り、すると思わぬ事業が大ヒットして蘇生したという......。こんな眉に唾をつけたくなるような話さえ、事実として存在したのである。
ただ難点は、こうしたベンチャー企業の経営者の話は、だれもが聞きたいようなテーマだったかということである。

多くのビジネスマンは、やはりトヨタやホンダ、ソニーに松下電器産業といった企業の経営者が出てくることを期待している。そういう人の話を聞いてみたいと思っているのだ。私がインタビューした当時、これら企業経営者の話はもちろん面白かった。トヨタの奥田社長、ソニーの出井社長、ホンダの川本社長、松下電器産業の森下社長(いずれも当時)らは、それぞれに懐が深く、それぞれに深奥な戦略を語った。こういう人がやはりビジネスの本流であり、ベンチャー企業の経営者はそうした流れの中では刺身のつま程度に考えられていた。

もちろんニュービジネス協議会など、ベンチャー企業台頭の必要性を説く企業経営者も散見された。しかし、現実にはまだまだベンチャー企業といってもその地位は低く、傍流、亜流とみなされていたのである。大手企業は、だから自社の分野でベンチャー企業が急成長してくると一気に潰しにかかる。そうして、消えていった企業も数多い。
実際に私がインタビューしたベンチャー企業の経営者の中でもある新興のコンピューターメーカーでは部品の多くを大企業に頼らざるを得ず、急成長したが、部品供給をストップされて、あっという間に業績が急落して消えていった。

このような状況ではあったが、それでもベンチャー企業には何よりも話の面白さという魅力があった。そして、このような取材を重ねるうちに、単に面白いだけでなく、こうした企業のパワーが日本の産業に必要な活力だと考えるようになったのである。

(2007・11・26)

【序説】第2回

・ベンチャー勃興を作った大不況とIT化
・コストコンシャスなビジネスが注目された
・キーワードは「構造変化への対応」

ベンチャー勃興を作った大不況とIT化

近年ベンチャー企業が勃興してきたことには時代背景が大きく作用している。

1992年頃からのバブル崩壊で、日本の産業は著しい痛手を受けた。不良債権の拡大に金融機関をはじめとする大企業が喘いだ。政府は規制緩和を軸に内需を盛り上げるのに賢明だったが、規制緩和の恩恵を蒙ったのは、出資規制等で日本国内に拠点を得られなかった外資企業であり、金融の破綻とあいまって、こうした外資が躍進していったのである。

こんな状況下で、意外にもベンチャー企業の勃興は勢いを増した。

それを後押ししたのがITの進展と大手企業のリストラクチャリングである。コストを著しく圧縮する必要に迫られた大企業(そして中堅企業)は、不良資産の処理や、不採算事業からの撤退といった大きな改革に手をつけ、一方で組織のスリム化にも動いた。まず、内省型で行なっていた多くの業務をアウトソーシングする方向で動いた。同時に、当時盛んに言われた組織のフラット化(指示命令系統をピラミッド型から、間に関与する人間を減らすことにより情報流通をよくする動き)を進め、当時まだ部門に数台という形で設置されていたPCを一人一台に変え、いわゆるIT化を進めていった。

ここでいろいろなビジネスが生まれた。

世の中が(企業の力によるところが大きいが)ネット化されていくことで、一気にビジネスチャンスが生まれていったのである。

このネットを利用したビジネスを、ITビジネスと呼んで(本当はITでもなんでもないのだが)持て囃したことで、多くの一攫千金を夢見る人たち、特に若い人たちのネット事業への参入が相次いだ。


コストコンシャスなビジネスが注目された

しかしベンチャービジネスは、実はネット分野だけでなく、もっと大きな広がりを見せることになる。そのキーワードは「コストコンシャス」である。コストコンシャスといっても分かりにくいかもしれないが、要はコストダウンに繋がるサービスを提供するビジネスで、その代表がアウトソーシングである。

これにはさまざまな理由があるが、最大の理由は企業がコストダウンに迫られたことによる。大手企業は不良債権処理を進めるために資産を売却したり、不採算部門を整理したり、またそれに関連して人員の整理を進めた。資材の購入や取引においても見直しを進め、既存の取引先はおろか、系列企業といえど取引を見直されたため、大手企業から始まったコストダウンの波は、中堅企業、中小企業にまで及んだ。

この波に乗るようにして人材のアウトソーシング事業が進み、派遣社員が企業内に増えていったし、部門ごと事業を引き受けるといったビジネスが起こってきた。あるいは、部門ごと外に出して独立させるといった手法も見られた。


キーワードは「構造変化への対応」

こうしてさまざまなベンチャーが勃興してきたのだが、成功したところは数少ない。ネット系だから成功したか? 答えは否。アウトソーシングと言っても失敗した企業は多い。つまり、世の流れに乗ったからといってビジネスは成功するとは限らないのである。まあ、そう言っては身も蓋もないのだが、逆に言えば、成功した企業には一つのキーワードがある。
それは何か。

それは「構造変化」という言葉だ。構造変化を捉え、この構造変化に対応すべくビジネスのスキームや、商品やサービスの中身を考えた企業――。こんな企業が成功した。

そして、こういう会社の中に「おもろい会社」が多いのである。

第三次ベンチャーブームといって数多くのベンチャーが世に出てきたが、本当に成功する企業は当然のことながら数少ない。唯一成功したのは、時代が大きく変わりつつあった当時に、その構造変化に目をつけた企業なのである。

この「構造変化」という言葉は分かったようで分かりにくい。具体的に言うとどういうことなのか。その辺りを次回に取り上げたい。

(2007・12・7)

【序説】第3回

・「構造変化」の中身と正体
・バブルが崩壊せずとも不況になった?
・グローバル化の持つインパクト

「構造変化」の中身と正体

世の中に構造変化が起こっているということは、なかなか実体験として把握しにくい。せいぜいが経済学者やエコノミストから指標を元に説明を受けると、ああそういうものかと理解する程度である。

しかし構造変化は近年確実に起こっており、今なおその変化は連綿と続いているのである。

構造変化のいちばんキーになるファクターは人口動態の変化である。人口動態の変化で社会が変わる。例えば戦後の日本社会は紛れもなく奇跡的な発展を遂げたが、この背景に戦後のベビーブーマーという大市場が存在したことを抜きにしては語れない。
 戦後、復活も危うかった日本が朝鮮戦争の特需でカネヘン(鉄鋼)、イトヘン(繊維)を中心に復活し、農業国の道を歩まず、工業国として再興していくと同時に、この戦後生まれの人たちの世代向けにあらゆる商品が供給され始めた。小学校に入ると勉強道具に参考書、ティーンエイジャーになればファッションが台頭し、若者向けの雑誌が全盛を極める。働き始めるとスーツや車、結婚すれば家財道具に家電製品、子供が出来ればベビー用品、そして家の購入、とまあ、人口の多い世代に向けて物を作れば売れていったよき時代でもあった。これに加えて、家電製品やAV機器などが性能的にも機能的にも進歩し、消費意欲に目覚めさせていったのだ。日本にとって非常に分かりやすく商品を開発しやすい消費のパターンが存在した。そして、この世代は大学進学率も上がり、そのまま知的労働力として日本の産業を支えるに至ったのである。


バブルが崩壊せずとも不況になった?

もちろんこんな単純な議論で日本の戦後の経済成長を語るわけにはいかない。しかし、構造的にベビーブーマーの世代(市場)があったからこそ、日本は生産においても、消費においても活力を発揮できたわけである。

余談だが、日本のバブル経済が崩壊した90年代前半は、ベビーブーマーが40代半ばを越えようとした頃である。行き過ぎたバブルと、急激なショック療法ともいえる総量規制によって、企業が不良資産を抱え、大不況の時代が訪れるわけだが、別の視点で見れば、ちょうどベビーブーマーも子供たちの教育費と家のローンが嵩む時期であり、しかも人口が多くとも管理職の枠は狭められていく、つまり日本の消費の中心に位置付けられていた世代が経済的に苦しくなる(=消費が減退する)時期でもあった。その観点から分析しても、経済の停滞は不可避的であったというのは言い過ぎだろうか。

参考にしてもらいたい図がある。米国と日本の戦後の人口動態の変化をイメージとして表した図である。この、変化を見ると、経済がどのように動いているかがよく分かる。50年代の米国。70年代の日本、そして90年代に復活を遂げた米国、そして2000年代以降期待できる日本と、人口動態の変化からだけでも、いろいろなものが見えてくるから不思議である。

バブルが崩壊せずとも不況になった?01
バブルが崩壊せずとも不況になった?02
バブルが崩壊せずとも不況になった?03


グローバル化の持つインパクト

さて、その構造変化である。

人口動態の変化もさることながら、バブル崩壊以降の10年間は、社会の構造が劇的に変わった10年でもあった。

何が変わったのか。

まず、世界の経済体制が変わった。1989年のベルリンの壁が破壊され、東西ドイツが一つとなって以来、共産主義、社会主義の国家体制は次々に崩壊し、これによって世界が市場主義経済へと向かった。中国のように共産主義をイデオロギーとして保持している国家においても、経済は市場経済である。

数年前、中国の北京に行った時、ガイド兼通訳の若い女性が、こう言ったものだ。
「私たちの父の時代はみんな働いても、働かなくても同じように給料をもらえて生活できた。だからやる気のある人もやる気がなくなり、それで中国は駄目になったんです。でも、私たちは違います」

私はその最後の言葉に、中国の活力を感じた。

経済のグローバル化という言葉はこの頃に出来てきた言葉である。世界のどの国も市場主義経済となり、まるで地球が一つの大きなマーケットとして捉えられることになるから、極端に言えば、世界のどこで生産しようと、どこで物を売ろうと関係ない時代に突入したのである。「世界適地生産」、「世界適地販売」が可能となり。日本の大手企業の多くが、世界戦略を練り始めた。あるグローバルに展開している大手企業の社長にインタビューした時に、「本社は日本でなくともよい」と豪語していたのをよく覚えている。

そしてこのグローバル化の動きを促進させたのが、デジタル技術によるさまざまな技術の進展である。PCはその代表で、さらにインターネットが生まれたことで、情報ネットワークの構築が世界中でなされ、アフリカであろうとアメリカであろうと瞬時にコミュニケーションが可能となった。そして情報の流通も瞬時に行なわれ、金融を一とした多くの情報が世界中を飛び交い、まさにネットワーク社会が到来したのである。

(2007・12・14)

【序説】第4回

・塩漬けになっていた不動産が流動化された
・「いいものを安く」しなければ売れない
・そして、おもろい会社は生まれていった

塩漬けになっていた不動産が流動化された

グローバル化とIT化で世界の構造が変化し始めた頃、日本の多くの企業は構造変化のために喘いでいた。世界の劇的な構造変化に対応しなければならない反面、目先の喫緊の課題である、自社の不良債権処理や不採算事業からの撤退を含めた事業の再構築に追われていた。

コストダウンという言葉が、戦時下の標語でもあるかのように叫ばれ、日本の強さとされていた「系列」や「既存取引先」が見直されていき、少しでも安い調達を企業が心がけるようになった。そのため、生産を中国やベトナムなどに移転し、コストを切り下げ、売価を安くすることによる効果が出始めたが、一方そのサイクルがデフレへと日本を導いたのである。

また、規制緩和が進んでいたことから、外資の進出が顕著となり、特に不良債権化していた不動産が、さまざまな金融技術を駆使した手法で流動化されていった。破綻した多くのゴルフ場、リゾートホテル、地方自治体が作ったわけの分からないテーマパーク、地上げし損なった都会の狭い空き地、そして大企業が持つ福利厚生施設や工場跡地、遊休地などが、次々と再生、再利用に向けて動き始めたのである。

付け加えておくと、構造変化を叫びながらいちばん対応が遅れたのは政府そのものである。お為ごかしのような省庁再編、政府系機関の民営化も、もめにもめた。未だにそれが実効性のある方法だったか、疑問の声を差し挟む人は多い。


「いいものを安く」しなければ売れない

世を挙げて構造変化への対応が進展する中、キーワードになっていったのは「いいものを安く」である(「いいものをそれなりの価格で」とも言えるが)。

その筆頭は、有名なユニクロだ。ファーストリテイリング社の戦略はまさに「いいものを安く」を地でいっていた。デザインをニューヨークで行ない、その型紙を中国に持っていき、生地の調達と縫製を行なう。日本での販売では、店舗は飾らず、商品を無造作に陳列し、それがまた新鮮に映った。

その手法は、今までにないものだった。

ファッションだけではない。バブル時に建てられたゴージャスなゴルフ場は主に外資系ファンドにより割安のゴルフ場として再生した。膨大な建築費を払って建てたゴルフ場でも、破綻後であれば安値で買い取り、その安値をベースに収支を考えられるため、割安の料金設定が可能だったのだ。

商品ではないが、派遣サービスの膨張ともいえる伸展は、やはり「いいものを安く」の感覚にマッチしていた。特に大企業において、いわゆる一般職を縮小し、非正規雇用である派遣の人材と置き換えていったことは大きな意味がある。企業は正社員を雇用することによって、給料以外にもさまざまな経費を負担する。そうしたフリンジ・ベネフィットを考えなくともよい派遣社員は「いいものを安く」のコンセプトに合ったサービスだった。

企業間のM&Aの伸展も、「いいものを安く」というコンセプトにぴったりの手法だった。

例えば、ある製造業が、新たな分野に進出するとなると膨大なリスクを負うことになる。そこで、その部門を買収によって立ち上げることを考える。買収した企業は既にその分野の事業を行なっているわけだから、新規事業立ち上げのリスクは少ない。

一方、新規上場したような企業は、規模を拡大していく場合、新たな部門立ち上げでは、そのリスクは非常に高い。従って、買収による新規事業立ち上げが金額の折り合いさせつけば妥当な方法になってくるのである。しかも、特に大手企業はリストラクチャリング(事業の再構築)によって、基幹事業への回帰ともいうべき集中と選択を行なっていたため、売却ニーズと購買ニーズがピッタリと合い、M&Aは促進されていった。


そして、おもろい会社は生まれていった

構造変化が日本の産業社会にもたらした影響は大きい。グローバル化とIT化という外部要因、そして不良債権の処理と構造改革をせねばならないという内部要因、そしてこれらの状況を睨んで行政が行なった、種々の規制緩和――。

大手を中心とした日本企業にとって、これらが乗り越えならなければならない大きな壁であるがゆえに、企業経営に重くのしかかった。既存の企業がいかに変革するか、言い換えればいかにして生き残るか、呻吟する中で、それまでのしがらみを一切持たない新興の勢力であるベンチャー企業が勃興してきたのである。

目端の利く人は、最先端のITの分野で、あるいは金融技術を使った不動産の流動化で、また大手中堅企業のニーズに応えてアウトソーシングの分野で、とさまざまなベンチャー企業が雨後の筍のごとく、興っていった。また、ファンドを組成して、そのファンドにレバレッジを効かせてより大きなカネを集め、見せかけの巨大企業も誕生し、まさに一大ベンチャーブームとなっていった。

こうした中で、おもろい会社もまた生まれ、そして成長するきっかけをつかんでいったのである。

(2007・12・25)

【おもろい会社とは何か?】第1章

・業績のいい会社がおもろい会社ではない
・社長の顔がはっきり見えるということ

業績のいい会社がおもろい会社ではない

<おもろい会社序説>に書いた通り、この十年来なされてきた産業界の構造転換によって、それを視野に入れて成長戦略を組み立て、実行してきた会社は増えてきた。しかもいわゆる新興企業の台頭が目覚しかった。それはひとえに、それまでの産業界のしがらみ(系列であるとか、業界慣習や常識であるとか、それまでの企業のものの考え方=既成概念とか)に捉われないで、今までにない形でのチャレンジができたからである。
さて、それでは、こうして台頭してきた企業のすべてがおもろい会社かというとそれは違う。では、おもろい会社とは何か。

その本題に入る前に、一つはっきりさせておかなければならないことがある。それはおもろい会社=業績のいい会社ではないということだ。急成長していて、業績もうなぎのぼりで、毎年最高益を更新している会社は存在する。以前『週刊ダイヤモンド』の編集長をしていた時に、「売上、利益(経常利益)が3年連続上昇した会社のランキング」であるとか、資本金は小さいが、同様に急成長している会社を「10年後の大企業」として取り上げたりしたが、こうした会社は数多く存在するのである。

余談だが、「10年後の大企業」という特集で取り上げた会社が、およそ10年後にとんでもないことになった。

2年ほど前だったか、我が家に未公開株の勧誘があり、私は興味津々で、その資料を送ってもらうことにした。何か(の執筆)に使えると思ったのだ。するとどうだろう。送られてきた資料の中になんと、「10年後の大企業を」特集した『週刊ダイヤモンド』の抜き刷りが入っているではないか。裏を見ると<編集人 松室哲生>となっている。思わずその抜き刷りを開くと、くだんの未公開株を売るといっている会社を、10年後の大企業の上位ランクで取り上げていたのである。

この未公開株の勧誘は、もちろん詐欺だと分かっていたが、その会社は他の同封資料によると10年後の時点で、売上1兆円超を計上していると言うのである。未公開株の詐欺はともかく、実際にその会社が売上1兆円超を上げているならまさに大企業の仲間入りをしたことになるのだが、まずこれはでたらめであると考えた。

で、実際はどうだったか。その社長は詐欺容疑の共犯で逮捕されたのである。売上は10数億円だったそうだ。しかし、同社は業界紙・誌や、経営書にも取り上げられており、どうやって粉飾をしていたのか、不明を恥じるのみである。

これは極端な例だが、業績とおもろさは連動しない。いや、長期的に見れば、おもろい会社は成長性があるといえるのだが、その辺りのことはだんだんと紐解いていこう。


社長の顔がはっきり見えるということ

おもろい会社――そこにはいくつかのキーワードが存在する。
例えばこんな言い方ができる。おもろい会社とは社長の顔が見える会社である、と。社長の顔が見える会社とはどんな会社か。それは、外に対しても、内に対しても、社長の存在感がある会社のことである。

では存在感とは何か。それは出たがりということではない。常に、自らの意見をはっきり内外に示している経営者のことである。言葉を変えれば、社長の考え方がはっきりしていて、常にそれを表現している会社である。社長の考え方がしっかりしているというのではない。はっきりしていると言うのである。

こういう社長はすぐに分かる。取材に行くと、自らの言葉で一生懸命に説明するのだ。業績の話。製品開発の話。はたまた業界の話から、社員の教育の話まで。
話のうまい下手は関係ない。とつとつと喋る人もいれば、口角泡を飛ばすように説明する人もいる。極端な話が何を言っているのかよく分からないようなケースすらある。だが、このような場合でも不思議と、言いたいことは伝わってくるのである。

存在感がある経営者を、別の言葉で表現すると、それは、コミュニケーション能力に長けているということだろう。

考えてみれば、会社を経営するということは、日常的に100も200も解決しなければならない問題に直面するということだ。当たり前の話である。何かを立ち上げたり、運営したりするということは、まさに問題(あるいは問題になる要素)を新たに作るということに他ならない。

これは新製品の開発においても、新事業の立ち上げでも、新しい販売ルートを開拓するということでもまったく同じで、だから当然のごとく困難がつきまとう。社内の組織を改変するのでさえ、いろいろな迷いがあったりもする。

これらを解決する唯一の方法は何か。それはコミュニケーションということである。

何か問題が起これば、すぐにその問題を解決するように動くのは経営者として当然だが、人が関わり、多くが人によって起こる問題を解決するには一にも二にもコミュニケーションが必要だ。もちろん、すべてを自分が出て行って解決するというのではない。部下にどれだけやらせるかが重要なポイントになる。しかし、優秀な経営者は部下に任せていても、すべてを把握し、ピンポイントでチェックをすることができる。なぜならば、日常的にコミュニケーションをとっているからである。

間違いやすいのは、マスコミなど、外に出て話をすることを得意としている人である。一見こういう経営者は、存在感がありそうに見える。しかし、実態は違う場合が多い。私の知っている、新興上場企業の経営者で,マスコミをはじめ講演会や業界でのスピーチなどを得意としている人がいる。が、この会社では、この数年で、懐刀だった副社長が去り、幹部が退社し、新たに迎えた社長も結局力を発揮できずに去っていく、といった状況が繰り返されている。何のためのコミュニケーション能力なのだろう、と思う。自己顕示欲が強いのは結構だし、表現力が豊かだから話もうまく、したがってスピーチなどの依頼も来るのだろう。しかし、である。経営者が存在感を示すというのは、決して、外で活躍することではないのである。

本当の存在感を示す経営者――。そういう人には尊敬の念が湧いてくるのだ。

(2008・1・7)

【おもろい会社とは何か?】第2章

・人のやらないこと=ニッチ ...ではない
・初めてのことをやる覚悟とパワー
・儲かりそうな事業に目がいくことの哀れ

人のやらないこと=ニッチ ...ではない

おもろい会社の、次のキーワードは「人のやらないことをやる」ということだ。

事業というのは、そもそも人のやらないことをやるから事業として成立するわけで、これは当たり前の話である。だが、これが意外に難しい。人が起業する時に、多くの人は、人の成功を見て立ち上げることが多い。二番煎じとも言えるし、柳の下にどじょうが二匹、とも言える。これで成功する人もいるにはいる。

また、近年「ニッチ(すき間)」という言葉が定着し、ともすれば「人のやらないこと=ニッチ」と捉えられるような傾向が出てきたようにも思う。

何故こんな屁理屈のようなことを書き並べるかというと、私は、「人のやらないこと」とは、そういうことではないと考えるからである。

人のやらないこととは何だろうか。確かに市場的に見ると、誰もが参入していない分野はそれに該当するし、昨今のようにほとんどが既に埋め尽くされている成熟した市場においては、人のやっていないこと=ニッチ、と言っても差し支えないだろう。

だが、である。市場は創造していくものである、という観点に立てばどうか。事業とはすべからく人が社会的に必要としていることを軸に生み出されてきた。必要に応じて新たなビジネスが考え出され、そして新たな市場に成長していったのである。別に観念的な話をするつもりはない。要は、事業を始める経営者の覚悟の問題である。

人がやっていないことをやり始めるには、経営者自身のパワーも集中力も並はずれたものを要求される。創造性も必要だ。もちろんこれは単に市場(マーケット)だけの問題ではない。商品やサービスが一般的でも、事業を進める方法にユニークさを見つけて実行する企業だってあるだろう


初めてのことをやる覚悟とパワー

詳しくは項を変えて紹介するが、株式会社喜代村という会社がある。この社名より、築地に24時間年中無休の寿司屋を初めて作った「すしざんまい」といった方が分かりが早いかもしれない。この店が出来たあと、築地やそれ以外の場所にも24時間年中無休の寿司屋が出来たわけだが、最初に作った喜代村の木村清社長のパワーはいかばかりだったか、想像に難くない。この店の出現で、閑古鳥が鳴いていた築地場外がにわかに活気を取り戻し、今では年間400万人がこの場所を訪れるほどである。

面白い話がある。当初、この店の幹部がせめて10分間掃除の時間を作りたいと、木村に進言した。すると木村は即座にこう言ったという。
「もし、10分間でも休みを取るなら、もう店は止めよう」

その勢いに気圧されてか、幹部はそのまま従ったという。木村にしてみれば、その10分間の休みを取れば24時間年中無休の看板は嘘になる。何よりお客のために始めた24時間年中無休営業が、中途半端になり、代えってお客に迷惑をかける、と考えたに違いない。もし、その時休み時間をとっていたなら・・・。おそらく24時間年中無休のすしざんまいの名声はこれほどではなかったろう。

これこそが人のやらないことである。そして、人のやらないことをやるには相当のパワーと覚悟が必要だということが、木村の言葉から窺えるではないか。


もう一つ例を出そう。以前におもろい会社発見伝で紹介したが、テンポスバスターズという会社がある。厨房機器のリサイクルを主事業にする上場企業である。同社創業者の森下篤史社長は、この別段目新しくもないマーケットに参入したが、事業を進める方法が斬新だった。

業務用品のリサイクルは、普通、倒産や廃業した店舗から商品を仕入れるが、その仕入れ価格は例えば50万円のものが1000円だったりする。それを5万円で売却すれば、とんでもない利益が生まれるわけだし、50万円のものが5万円で手に入るなら消費者もメリットが大きい。一見これは、真っ当なビジネススキームであるように思う。

ところが、件の森下社長は違った。5000円のものを5万円で売ることをよしとしなかった。5000円のものには適正な利益(つまり20%とか30%とか)を乗せて売ればいいと考えたのだ。しかも単に売るだけではいけないとも。ピカピカに磨き上げて、新品同様に商品を仕立て直した。これには当然コストがかかる。それも含めて、適正な利益を求めたのである。

この手法は、当たった、多くの顧客がテンポスバスターズの店舗に吸い寄せられるように、押し寄せたのだ。だが、当の森下はこれを「この業界で勝ち抜くための手法」として編み出したわけではない。商売は常に真っ当にしなければいけないと常々考えていただけだ。

人のやっていないことをやるというのはこういうことを言うのである。


儲かりそうな事業に目がいくことの哀れ

社会の、取り分け産業社会の構造変化に伴い、多くの企業が新たに事業を興したと何回か前に書いた。ここでも多くの企業が、人のやっていないことに目を付けた。時代の流れ、産業界の潮流が変わったのだから、当然ビジネスも変化する、と考える人が出てきたわけだ。

その代表的な例が企業のアウトソーシングである。人のやらないことをやるという意味で、この業種は注目された。企業にとっては、自社内で行なっていた、工程を外部の専門家集団に委ねることにより、効率化が期待でき、人件費を抑制することで、コストダウンを計れるわけだから、特にリストラクチャリングの工程においては効果を発揮した。

多くのアウトソーシング企業が、ある部門ごと引き受けるわけだから、人材に絡むビジネスだ。ある工程でのSEを派遣するとか、ある部分の設計を丸ごと引き受けるとか、といったビジネスはこの間に大きく成長した。

またこの頃、成長したビジネスに人材派遣もある。この人材派遣も、専門家を派遣するという意味では同じようなアウトソーシングビジネスであったが、業法の改正等で規制緩和され、今では一般社員的な人材が派遣社員として送り込まれている。その結果、規制緩和を悪用する業者も出てきたりして問題になっているが、これなどまさに経営者の問題である。

この分野が儲かりそうだとなって、新規参入が相次いだ。しかし一方、派遣できる人の数は払底し、いきおい専門的知識のない(今やワードとエクセルを使えただけで専門的なのだそうだが)人を抱えて、何でもかでも送り込むという業者すらあるそうだ。受け入れる企業側にも倫理観はなく、明日からのイベントに100人よこせ的な発注が出される。すると派遣業者は必死になって人を集める。その結果がどうなるかは想像に難くない。所詮昔の周旋屋の世界である。

人のやらないことをやるというよりは、「これが儲かりそうだから」やっただけの話である。もちろん短期的には利益が出るビジネスも多いだろう。しかし、そうしたビジネスはどこかで歪になり、破綻を来たすのだ。
「人のやらないことをやる」経営者の如何に少ないことか。でも、それを実行する経営者は間違いなくおもろい会社を作れる。

(2008・1・15)

【おもろい会社とは何か?】第3章

・儲け過ぎる経営者の間違い
・適正なコストに対する考え方がどれだけ重要か
・コストをかけて信頼を勝ち得る企業がある

儲け過ぎる経営者の間違い

爪が長い――という言い方をご存知だろうか。あの会社(経営者)は爪が長い、と言えば、それは儲けに走りすぎている、欲をかく会社(経営者)であるということだ。

これは実は微妙な表現である。儲けがないと、事業は成り立たない。「儲けて何が悪い」と経営者からお叱りを受けそうな表現である。

だが、儲けて悪くはないが、儲けすぎはよくない。当たり前の話だ。しかし、世の中にはなんと欲をかく経営者の多いことか。儲け話があれば、どんな経営者でも身を乗り出すだろう。しかし、爪の長い経営者はそれを出来るだけ独り占めしようとする。1円でも多く稼ごうとする。挙句の果ては、儲けた金から税金を払わないために粉飾する。こうなっては法を犯しているわけだから、何をかいわんやだが、そんな会社は意外に多いのである。

もちろん反論もあろう。「売り上げが上がらないのに1円でも多く儲けようとするのは悪いことなのか」、「経営者は1円でも多く売り上げを上げることで、経営者足りえるのだ」と。

事業とは本来、社会の役に立つことを行なうことである。社会貢献と言う言葉があるが、事業に儲けたカネで社会貢献をするというのは、おかしい。事業そのものが社会貢献になっているべきなのである。そうでない事業をしているなら、そんな事業はさっさと止めるべきだ。

儲けたカネで行なう社会貢献は個人で行なうべき話である。アメリカ人の肩を持つわけではないが、このあたりが徹底しているのは、彼の地の人たちだ。多額の所得を得ている人は毎年必ず多額の寄付を行なう。ボランティアに参加する。それによって初めて、金持ちである事を認められる。日本人の経営者の場合、多くの大金持ちがそういうことをしない。豪華シャワーつきの社長室を作ったり、ハワイに別荘を買ったり、カリフォルニアにワイナリーを所有してもよいが、それ以上に社会貢献を個人として行なうべきである。それがなければ成金のそしりを免れない。


適正なコストに対する考え方がどれだけ重要か

爪が長い経営者についてもう少し述べよう。冒頭に微妙な表現だと書いた。爪が長いかどうかをどこで見分けるのか。「爪が長い」のと「爪が長くない」のとの違いはどこにあるのか。確かに微妙である。

その違いを一言で言うなら「コストに対する考え方」である。どんな経営者もコストについては厳しい。<コスト=費用>は出来うる限り切り詰めたい。しかし、品質のいい商品を作る、品質のいいサービスを行なうためには費用がかかる。このことが頭になくて、ひたすら費用を切り詰めようとすると、問題が起こるのだ。コストをいたずらに落とすために品質を低下させたり、人件費を抑えるために、より安く人を雇おうとしたり、はたまた人員を減らしたり。合理的な妥当性があるコストダウンは大いに歓迎すべきであるが、そうでない企業もまた実に多い。

昨今問題を起こしている企業を見ると、その多くが、きちんとかけるべき費用に対する認識がないまま、利益を追求してきた企業であることがよく分かる。いろいろな偽装の問題、偽の品質表示の問題すべてが爪を長くした結果である。こうしたことはなかなか表立って出てこないから、それをいいことに隠し通せると経営者も思いがちである。しかし、近年は内部告発も頻繁であるし、ネット社会ではこうした噂が広まるのは早い。そううまくは行かないのだ。


コストをかけて信頼を勝ち得る企業がある

逆にきちんとコストをかけている企業とはどんな企業か。当たり前のことを当たり前にやっている企業である。しかし、さらにもう一歩進んで費用をかけている企業も存在する。

例えば、京都に本社を置く学生情報センターという会社がある。この会社の主事業は学生専用マンションの運営管理であるが、年一回全国にある各支社で新しく入居した学生を迎えて「ウェルカムパーティー」という歓迎会を催すのである。どの会場も一流ホテルを使用し、大宴会場には、学生のほかにマンションを所有しているオーナー、大学関係者などを数百人単位で招待する。そしてオーナーと学生との交流を図るのだ。これにはとてつもない費用がかかっているはずだ。

ちょっと考えてみよう。これをやる必要があるのか。コストの観点から言えば、すぐにでも止めておかしくないような行事である。しかし、これをやることにより学生(親)の安心感、大学関係者の信頼、などが増すことは間違いない。同社はもちろんこれを自社のプレゼンテーションの場にも使っている。

同社は業績に関係なくこの行事をやり続けているのである。それも最初は小さな規模だったという。付け加えるならば、同社は学生のナレッジベースの向上などの目的で財団法人を設立している。社会貢献の費用も半端ではないはずだ。

創業者で会長の北澤俊和はこれについて「売り上げや利益を短期的に上げるというなら、すぐにでも出来る。パーティーだって止めればそれだけコストは下がる。しかし、それが本当にいいことなのかどうかを見なければ経営などやってられない」と語ったことがあった。その通りである。

品質とは何か、よいサービスとは何か。この点を追求している企業は決して爪の長い会社ではない。

(2008・1・22)

【おもろい会社とは何か?】第4章

・「会社を続けていく」ことは難しい
・ぶれない姿勢が強い会社を作る
・ビジョナリーカンパニーは「ぶれない」

「会社を続けていく」ことは難しい

例えば経営者に会社とは何か、と問うと、どんな答えが返ってくるだろうか。

もちろんさまざまな答えがあるには違いないが、ここでは、会社というのは継続であると言っておきたい。事業をして利益を出すことは(決して簡単ではないが)ある程度の経営者には出来る。しかし、会社を続けていく(そのためには利益を出し続ける)ことは、大変な困難を伴うことだからだ。ゴーイング・コンサーン(企業を継続していくこと)という言葉があるが、その言葉の裏には会社を続けていくことは社会的責任を伴っているということが隠されているのである。

では会社にとって継続とは何を意味するのだろうか。それは信頼性を得るということである。日本語にはいい言葉があって、継続の一つの表し方として、暖簾と言う言葉を使う。暖簾を英語に訳すとGoodwill(信頼)となる。

長く続いている企業は、それ自体が信頼性の賜物というわけだ。会社を継続すると簡単に書いたが、一つの会社を何十年にも亘って続けていくことは大変なことである。

このあたりのことは次項で書きたいが、今回のテーマは、事業を継続することに関連している。

おもろい会社であることの4番目のキーワードは「ぶれない会社である」ということだ。ぶれないとは何が何に対してぶれないのか。一言で言えば、会社の軸が安定しているということだ。会社の軸とは社長の考え方である。だから簡単に言えば、どんな時でも掲げたこと、発言したことを守り通すことが、即ち「ぶれない」ことになる。

例えば、企業理念を掲げたら、それをどうやって浸透させるのか。社員一人一人に浸透させるのは大変なことだ。しかし、もしその理念が正しいなら、きっちりと社員に理解させなければならない。その理念を社員に実行させなければならない。

単に、壁に掲げたり、朝礼で唱和させるだけでは浸透はしない。社員一人一人に語りかける。あきらめずに面倒がらずに、その意図を社長自ら語りかけていかなければ浸透はしない。だが、それは大変なことだから、多くの経営者がいい加減にお茶を濁してしまう。ところが、事業を続けるというのは企業理念を具現化していることに他ならないから、そういう事業が続いていくわけがない。ぶれないということは、一度掲げたことは守り実行していく姿勢である。


ぶれない姿勢が強い会社を作る

ぶれない会社はどんなことでも決めたことをやり通す力を持っている。そうすると事業には強みが出てくる。

なぜなら、ぶれる経営者は、市場を見てその市場に対応しようとするが、ぶれない経営者は自らの理念を持って市場を作っていこうとするからだ。どんなにマーケティング理論に裏打ちされた商品や販売方法であっても、その商品が売れるかどうかはまた別の話である。おそらく、マーケットを見て対応しようとする経営者は、柔軟な対応を心がける。その結果、当初の方針を覆し、別の戦略を組み立てようとする。もちろんそれを悪いとは言わない。だが、それは失敗する。そういうものだ。

反対に、ぶれない経営者は、たとえ商品が売れなくても(その商品が世の中にとって必要だという信念があれば)動じない。むしろ、細かく何が原因かを調べる。一つ一つ検証してみる。製造プロセスに問題があるのか。商品の中に何か不具合があるのか、販売方法のどこかに問題があるのか。実際に客に聞く、販売店に聞く。そうすると意外なところにネックがあるのに気付く。それを直すと、商品は売れ始める。

雑誌の世界では、「モデルチェンジは失敗する」という格言がある。なぜか。モデルチェンジを必要とする雑誌は売れていない。売れないからモデルチェンジをするわけだ。ところが、売れていない理由がはっきりしていないのにモデルチェンジだけが先行し、デザインをいじってみたり、連載を変えてみたりする。しかしそれがうまくいくはずはない。したがって、モデルチェンジ後の部数はさらに低迷し、休刊となる。雑誌だって商品である。売れないことの意味を追求せずに、売れるものは作れないのである。

ただでさえ事業を継続していくことは大変なことである。なぜなら、商品にはライフサイクルがあり、山があれば谷があるからだ。寿命すらある。新しい技術が出れば古い技術は淘汰される。その時々で一喜一憂し、柔軟に、市場を見ながら対応するのではなく、ぶれずに経営者としての理念を持って、市場を作り上げていくような気持ちで対応していれば、自ずと道は開けていくものである。


ビジョナリーカンパニーは「ぶれない」

このように「ぶれない」と書くと、精神論と取る人がいるかもしれないが、ぶれないということはむしろ「実行力」である。

例えば「儲けすぎない」ということを以前に書いたが、これも企業としての理念である。ただし理念は実行されてから始めて意味を持つ。儲けすぎないためにというよりはいい品質の商品やサービスを提供するために、適正なコストをかけ、適正な利潤を得る。こうしたアクションが、「ぶれない」ことの本質である。

以前に『ビジョナリーカンパニー』(ジェームズ・C・コリンズとジェリー・I・ポラスの共著:日経BP社刊)と言う本が話題になった。ビジョナリーカンパニーとは何か。簡単に説明すると、基本理念を持って成長する企業のことである。基本理念をただ守るだけでなく、常に先進のアイディアを求めて動く企業。新しいことでもそれが基本理念と合致すると判断したら、果敢に挑戦する企業のことである。ここで重要なポイントは、基本理念に合致するという点だ。基本理念を曲げてまでやることはいけない。ここにもまた「ぶれない」ことの重要性が書かれている。

事業を継続すること、新たな事業を生み出すことは大変なことである。商品にはライフサイクルがあり、山があれば谷がある。寿命すらある。新しい技術が出れば古い技術は淘汰される。しかし、多くの企業は大小を問わず、事業を継続して行なうために、さまざまな努力を払っている。

だが敢えて言うと、事業は単に継続していくだけでは駄目である。そこに理念がない限り、事業が事業として成り立っていかない。

(2008・2・6)

【おもろい会社とは何か?】第5章

・お客に愛される会社になるにはどうすればいいか?
・出来ないと思うようなことをやり遂げるパワーの魅力
・既成概念で凝り固まった人には務まらない

お客に愛される会社になるにはどうすればいいか?

前回の冒頭でゴーイング・コンサーン(企業を継続していくこと)ということを書いた。会社とは継続である、と。会社を継続すると言うことは社会的責任であるとも。
会社は事業を行なって利益を出していかなければならないし、それを続けていかなければ会社は継続しない。だから事業の継続は大切である。

しかし、会社を継続する上でもっと大切なことは、社会の信頼を得るということである。一口に社会の信頼を得ると言っても、よく分からないかもしれない。具体的に言えば、お客に愛されることであり、地域に愛されることであり、従業員にこの会社にいてよかったと思わせることである。

これはなかなか大変なことである。お客に愛されるためには、愛されるような商品を作り、愛されるようなサービスを心がけなければならない。いままでの項で書いたように、人のやっていないことにチャレンジするのは当たり前であり、人のやっていないことを如何に持続させていくかということに腐心し続けなければならない。また、爪の長い会社であってはいけないし、同様にぶれる会社であってはならない。そしてそれらの意識を浸透させるためには、社長自身がしっかりと社の内外でコミュニケーションをとっていかなければならない。

経営者である社長の役割が重要であることはもちろん、社員もそれに対応していかなければならない。社員も大変である。

おもろい会社の経営者はどの人も非常に個性的である。物事を推進していくパワーがある。だから、時には非常にワンマンだ。自分だけが一番という時さえある。当たり前の話だ。自らの考えたことを実行して行くには、パワーが必要である。しかも多くの場合、まだ誰もやったことがないようなことにチャレンジするわけだから、そのパワーは並はずれていなければならない。そうでないと物事は進んでいかないのだ。部下の言うことなどほとんど聞かず、自分の考えたとおりに実行しようとする。

だから時には、不遜にも見え、傍若無人にすら映るときがある。そう見えるのは仕方がない。自分の意志を貫き通すとことが重要なのであり、他人にどう見られようと関係ないのである。自分が考えたとおり物事を推進できたか、このことが一番の関心事なのである。


出来ないと思うようなことをやり遂げるパワーの魅力

こう書くと非常に偏った経営者像が浮かんでくるかもしれない。しかし、多くの場合、こういう経営者は魅力的である。特に外部の人間にとっては魅力的だ。それはそうだ。物事をあいまいにせず、自分の考えをはっきりと述べ、行動でそれを見せる。何より実績でそれを証明する。そういう人物が魅力的でないはずがない。

むしろ大変なのは社員である。おもろい会社の社員は、社長の考えを、(企業理念の基に)実行に移さなければならない。それもあらゆることが想定される。無茶だとか、出来ないと言うことが頻出する。

それは、今日突然に始まり、今日中に仕上げなければならないことかもしれない。1週間で新店をオープンしなければならないことかもしれないし、いきなり社長の椅子を提供されるチャンスを与えられることかもしれない。

後述する、ファイテンの平田好宏社長は、その飛躍のきっかけとなったチタンを水に溶かした技術についてこう言っている。
「自分は、チタンが水に溶けないと言われていることを知らなかった。開発に当たった社員も知らなかった。しかし、私はチタンを水に溶かせと指示をしたし、出来るまでやれと言った」

それでも懸命に社員は研究し、その結果その技術開発に成功し、同社は大飛躍を得るに至った。

同じような話はまだある。京都に日本電産という一部上場企業がある。超小型モーターの世界的なメーカーだが、同社の永守重信社長は以前に、創業間もない頃のこんなエピソードを話してくれた。
--当時の大手メーカーは社内にモーター部門を持っていた。だから営業に行っても仕事が取れない。こちらの価格が低くても、社内で作ることを優先した。その中で、社内では出来ないような難しい仕事ならといって回してくれたメーカーがあった。それが超小型のモーターだったのだ。永守は思わず会社に電話をかけ、仕事を取ったことを伝えると、向こうから技術の責任者が「社長そんなものを作るのは無理です」という答えを返した。それに対して、永守は「それが無理かどうかを決めるのは自分だ」と言い、その仕事をやらせたというのだ。その結果、世界的な超小型モーターが開発され、同社は世界的なメーカーへの階段を上がっていく。

こういう話には枚挙のいとまがないほどだが、つまるところ、こういう社長のパワーがなければ新しいこと、人のやってないことへのチャレンジなど出来ないのである。


既成概念で凝り固まった人には務まらない

おもろい会社で大変なのは社員である。

いや正確に言おう。おもろい会社で大変なのは、「一般的な会社」という既成概念にとらわれて会社員生活を送りたいと考えている人である。

例えば、大企業に慣れ親しんだ人がこの種の会社に入ったとする。その人のキャリアや年齢にもよるが、それまでとはまったく違う経験をすることになる。そんな時、これはやり方が違うとか、普通はこういうやり方をするというように考える人はおもろい会社には向いてはいない。そうではなく、なるほどこういうやり方もあるのか、考え方もあるのかと思うような人の方がおもろい会社には適合しやすい。1日の労働時間は8時間という人には向いていない。自分の時間が出来るだけ欲しいという人には向いていない。向いているのは仕事が面白くて、その仕事にのめり込むような人である。だから大変なのだ。

しかし、ちょっと考えれば分かることだが、それがどんな仕事であっても、頭角を現すような人は、自分の属している場所が大手企業であれ、中堅企業であれ、その仕事への対応は同じである。もちろん大手企業の方が会社が成熟している分、資金力やブランド力がある分仕事はやりやすい面があるかもしれない。しかし大きな組織だと組織の複雑さや、意志決定の階層が何段階にもなっているために、物事がなかなか決まらず、いたずらに時間がかかることがあるのはよく知られたことである。仕事をする上での障害はどこにいても同じである。

結論から言うと、おもろい会社で社員がつとまるかどうかは、ひとえに仕事に対する姿勢で決まる。社長が1週間で店を出すと言った時に、どうすれば対応できるかを考えられる人。理屈では出来ないような商品の開発を石にかじり付いても遂行しようとする人。こんな人が集まっておもろい会社は成長を遂げていく。

(2008・2・12)

【新・おもろい会社論】前編

・想像力を発揮することを拒むリーダーの存在は罪悪である

深く長いリセッションの要因

いつもの企業紹介と趣を変えて、書いてみたい。それは、今の時代についてだ。こう書くとなにやら大袈裟だが、今がどういう時代であるかをはっきりと認識せずに、日々のビジネスに追われていると、いずれ足元をすくわれることになると考えるからだ。

昨年9月にリーマンショックが起こり、金融市場が崩壊の危機にさらされた。あれから1年余。株価は多少上向き、対中国市場が経済対策のおかげで多少復活した。失業率は相変わらず高いままだが、小康状態を保っているよう見えなくもない。もちろん経済紙誌では2番底懸念を予測するし、アメリカのドル安がここに来て顕著なことも心配な点だ。

昨年末には金融危機を契機とした世界同時不況に対するさまざまな論調が繰り広げられていたが、例えばハーバード大学教授フランケル・ハーパー(日本経済新聞08年12月2日)は「深い長いリセッションになる」と発言していた。

これはアメリカ経済が07年12月から景気後退に入ったと宣言したときの一部だ。おそらくこのときは、まあ、仕方がないというのがみんなの正直な気持ちだっただろう。

だが、我われにとって重要なのは、なぜ深くて長いのかということを理解することであることに違いはない。07年のサブプライム問題、08年のリーマンショックによる金融破綻はあくまできっかけだった。デカップリングなどと糊塗してみても、結局実体経済は大きな損害をこうむった。


芥川龍之介不況の意味

このハーパーの言葉で思い出すのは、92年当時、ちょうど日本のバブルが崩壊した直後の竹内宏氏の話である。

当時の日本のマスコミの論調は「この株価はいつ回復するか」、「地価はいつ反転するか」などという類のものだった。結論からいえば、地価も、株価も10年くらい反転しなかった。だれも、構造的な展望を持って見ていなかったからだが、ちょうどそのバブル崩壊の直後、当事長銀総研の理事長だった竹内宏さんに話を聞いたことがあるのだ。
この不況を命名するとしたら、なんと名づけますかという私の問いに、

竹内さんはすぐさま答えたものだ。
「芥川龍之介不況ですかねぇ」
「それはどういう意味ですか」
「ぼんやりとした不安がずっと続く、ということです」

それは、もちろん芥川が自殺するにあたって書いた遺書の中の一節、「ぼんやりとした不安」に拠るものだった。芥川が晩年鬱で悩んでいたように、ぼんやりとした不安がこの後ずっと続く。当時の不況はすぐにどうにかなるというような話ではないということを喝破していたのである。竹内さんはバブル崩壊もさることながら、その時に問題視していたのは少子高齢化という構造的な問題だった。
「六本木に人がいなくなりますよ」という竹内さんの言葉が今でも印象に残っているが、時代はその通りになってきた。まだ六本木に人はたくさんいるが、いずれ後20年もすれば人はまばらになるだろう。それは日本の宿命的な構造だからである。高齢化に関する行政の施策は追いつかないどころか、もうとっくに破綻している年金に今なお改善で何とかしようとしているさまは滑稽というほかない。社保庁問題以前の問題だ。
「失われた10年」といったのは堺屋太一氏だが、失われた10年を経ても、戦後最長といわれた好況を経験しても、われわれの頭の中にこびりついていたのは「ぼんやりとした不安」だった。


総論賛成、各論反対
構造的な問題を改革していくために必要なのはリーダーのパワーである。幸い政権交代によって日本にも新しい兆しが出てきたが、改革を実現するには困難が伴う。それは官僚の抵抗でもなんでもない。それは国民全体が、反対する可能性があるからだ。
総論賛成、各論反対とはよくいったもので、例えば、オバマ大統領が国民皆保険の話を持ち出すと、明らかに米国民は背を向き始めたのがそのいい例だ。

社会の仕組みを構造的に変えるというのは本当に大変なことである。我われ国民も「改革」という言葉には弱いが、それはあくまで自分に損害が及ばない範囲での「改革」という意味であり、自分に何か損害が及ぶようなことがあれば、血相を変えて反対をする。そういうものである。だからリーダーは大変なのだ。

改革という言葉に酔っているときには、実はそれほど頭が働いていない。ただ麻薬のような心地よい響きに埋没しているのみである。本当はそういう言葉が出た時にこそ想像力を働かせねばならない。その改革でどうなるのか。何ができて何ができないのか。自分の(あるいは会社の)どこに影響が及ぶのか。単に今出ている政策に反対や賛成を述べるのでなく、この政権がそのような大きな動きをしていくのかを予測する。それが想像力であり、その想像力を働かせるのがリーダーの努めである。会社でも同じことだ。経営者にどれくらい想像力があるかで、企業の帰趨は決まってくる。

(2009・11・14)

2011年11月21日

【第58話】ネットを知り尽くした元決済代行会社が行き着いた究極の電子書籍販売

株式会社インフォトップ

意外な会社の電子書籍販売参入

今年のブックフェアはさながら、電子書籍フェアの様相を呈した。中でもひときわ異彩を放ったのは、とあるブースだった。このブースは多くの出展者と違い、本の中身や電子化の技術をアピールせず、ひたすらどうやって売るのかをテーマに掲げていた。ある大手出版社の営業部長は、そのブースを見て面白く思い、後日、その担当者と会ってある契約を行なったという。

それは、自社が発行する高額で少部数の雑誌を電子化し、その会社のサイトで売ることにしたのである。

この会社はインフォトップという。

もちろん一般的には全く無名の存在だ。そんな無名の会社がなぜ出版業界に打って出ようとするのか。

まずは、同社がどのような計画を持っているのかを見てみよう。構造は簡単である。各出版社の書籍(あるいは雑誌)を同社の負担で電子化する。そして同社のサイト上で販売する。同社のマージンは15パーセント。残り85パーセントは出版社の取り分である。正確にいえば、インフォトップはその中から決済手数料を負担するから、実質的には12.8パーセントであり、出版社側はこの本をサイト上で売れるように働きかけてくれたアフィリエイターにマージンを25パーセント支払うことになっている。つまり出版社の実質取り分は60パーセントということになる。

それでもこれは出版社にとってはかなりいい商売であり、逆にいえばインフォトップはこれで商売が成り立つのだろうかと、老婆心ながら思ってしまう。
「うちはもともと決済会社からスタートしています。だからすでに低マージンでも利益を上げる仕組みができていますし、すでに本業で実績をあげていますから。他社がこんなマージンの体系で参入しようと思ってもできないでしょう」と、社長の田中は事も無げだ。


宣伝販促部員を20万人も抱える販売会社

ここで同社の本業について触れる前に、出版社が売り上げの25パーセントを支払うアフィリエイターについて説明しておかねばならない。これが同社の本業部分の根幹でもあるからだ。アフィリエイターとは、正確にはアフィリエイト (affiliate)と言い、Webサイトやメールマガジンを運営する人が、その中で企業サイトへリンクを張り、読者(閲覧者)がそのリンクを経由して当該企業のサイトで会員登録したり商品を購入したりするような仕組みを作ること。この成果によって、サイトやメルマガの運営者に報酬が支払われるという仕組みのことだ。主婦や学生、サラリーマンの副業が多く、人によってはこれを本業にし、年間数千万円稼ぐ人もいるといわれている。

実は、インフォトップは、こうして活動するアフィリエイターを20万人抱えているのである。この数が多ければ多いほど、当然商品を宣伝してくれる人も多いわけだから、販売も伸びることになる。ネット上の販売はこのアフィリエイターの数と影響力が決め手なのである。

さて、同社の本業は教材販売である。教材といっても普通の教材とは少し違う。一般の人がワードやパワーポイントで自分の専門分野について書いたことを同社のサイトに掲載し、ダウンロードで販売する、という仕組みである。つまり自費出版のネット版というわけだ。紙での自費出版は大手から中小まで数多く存在し、それなりの費用がかかるが、この場合著者は自分の書いたものをのせるだけだからコストはゼロ。売れた分だけ先ほどの電子出版とほぼ同じ仕組みで収入となる。

ここで力を発揮するのがアフィリエイターである。彼らはこの出版物を宣伝することで、マージンを得ることができる。したがって、本の著者も多く売りたいと思えば、アフィリエイターのマージン率を上げれば、その可能性は高まることになる。要は、自分で商売の組み立てを考えることができるのだ。

電子書籍の裏にあるものを売っていく

インフォトップはこの方式で2006年に創業された。初年度の売上は50億円。以降前期が90億円、今期(7月末)が97~98億円(グループ会社を入れると100億円超)というからその成長力は凄まじい。
「粗利は10パーセント程度。経常利益で今期3億円程度(田中)」と薄利多売のゆえ利益率は低いが、それでも社員数も多くなく十分に会社としては利益も上げているわけだ。

て、同社の新事業・電子出版であるが、現在同社は9月末のオープンを目指している。システムは8月中に開発を終え、その後テストマーケティングを行なう。現在30社弱の出版社と話を進めているというが、ポイントはこれからだ。それは出版社の旧態依然とした体質とプライドの高さを同社が説得できるかにかかっている。

現在多くの出版社が電子化に取り組んでいる。雑誌でも書籍でもとにかく電子化していかなければ大きな波に取り残されるという危機感がそうさせているのだろう。大変なブームと言ってもいい。しかし、現状でいえば電子化に舵を切ることは多くの出版社が現実的でないとも感じている。なぜなら、一方で紙の出版物を大量に発行しており、この流通ルートをどうしていくのか、倉庫はもちろん、市中にも大量に存在する在庫の問題をどうクリアしていくのか、誰も見えていないからだ。そのうえに古い体質とプライドの高さが乗っかってくるから大変なのだ。

しかし、光明がないわけではない。それは同社が単に書籍の販売だけを考えているわけではないからだ。
「仮に坂本竜馬の本があったとしましょう。そこから連想されるものを裏側で販売していくんです。例えば歴史ツアーであるとか、暗殺される前に食べようとした軍鶏鍋のセットであるとか(田中)」

つまりこれから派生するイーコマースを同時に念頭に置いているのである。
「電子書籍販売の次は本格的にECの市場に参入したいし、書籍を売ることでまた関連する教材が売れるかもしれません」と田中はその将来性を語る。

あながち法螺でもない。今までも実績が伴っているのだから。

(2011・7・27)

【第57話】マーケティングのプロが説く「売れない商品」を有名にする方法

前ウブロジャパン社長 高倉 豊氏

無い無い尽くしのなかで1個200万円もする無名の腕時計を大ヒットさせた

昨年末までウブロジャパンの社長だった高倉豊さんにお会いした。高倉さんは化粧品や時計などいわゆるブランド物の日本法人の代表を数多く務めた人だが、日本で無名だったブランドを大変に有名にしたことで名を上げた人である。

例えば、前職のウブロである。

日本では無名だった高級腕時計のブランドだが世界的には有名で、南アフリカで行なわれたサッカーのワールドカップでも、タイム表示のボードには「HUBLOT」の名が出ていた。2010年と2014年のワールドカップの公式タイムキーパーでもある。日本でもこの数年有名になったが、それは高倉さんの功績と言っていいだろう。

当時、ウブロジャパンは日本での低迷に喘いでいた。スイスの本社では日本法人は閉めてどこかと代理店契約を結ぶことを模索していた。要するに撤退である。そこへやってきたのが高倉さんだ。

売れてない商品だから広告やキャンペーンなどの予算はほとんどないに等しい。人員だって限られている。外資系の社長というと格好良さそうだが、売れてなければ悲惨で、今をときめくコンサルタントの神田昌典さんも、昔某アメリカ家電メーカーの日本代表を務めていた頃の悲哀をどこかに書いていたことがある。

何をやろうにも先立つ物がない。いわば無い無い尽くしのなかで、1個200万円もする高級腕時計をヒットさせたのである。
 どうやって成功させたのか。


編集長を口説き落とした殺し文句

高倉さんは数多の出版社を回り、なかでも男性向けファッション誌の編集長を訪ねて回ったのである。そしてこう口説いた。
「この時計は今は売れていない。しかし、毎号2ページこの時計を売り出してほしい。成功したらその時はきっと報いるから」

こんな口説きに乗る編集長も少なかろうと思うのだが、でも存在したのである。ある男性ファッション誌が、快諾したのだという。これが起爆剤になって一躍ウブロは有名になっていった。

すると、その雑誌も「あのウブロを最初に紹介した雑誌」「あそこは無名のブランドを発掘する雑誌」という評判が起こり、「あの雑誌にはきちんと広告を出しておかなければならない」というムーブメントになり。雑誌そのものも大きく成長したのである。「十分に借りは返せたと思う」と高倉さんは語っている。

実はこの話には伏線がある。その前に高倉さんはシスレーという日本では無名のフランス製高級化粧品をヒットさせることに成功していた。この時は同じ手法を女性誌で行なっていたのである。当時その女性誌は有名な化粧品の広告が入らずに苦労をしていた。そこで利害が一致して無名だがフランスでは有名な高級化粧品シスレーを記事でバックアップし、そしてシスレーを日本で有名にしたのである。

その結果、その女性誌にもSK-II などの化粧品広告が入るようになったのである。


口紅のキャップに名前を彫ったのが最初の成功

人と人との関係はギブ・アンド・テイクである。会社同士の関係もそうだ。この関係が成り立つならばお互いに成功するための道は開ける。しかしどちらかが渡すものと得る物の価値が等価値ではないと判断した場合は成り立ちにくい。ウブロやシスレーでは、多くの場合、無名であるがゆえに等価値ではないと見なされた。だが、高倉さんはギブする物の将来価値をプレゼンテーションして成功に導いたのである。

そもそも高倉さんが博報堂を辞め、パルファム・ジバンシィの日本法人の社長に就いた時も同じような状況だったそうだ。

カネもない。人もいない。当時高倉さんが考えたのは、ギフトとして口紅を売るということだったそうだ。当時のギフト市場は2兆円。そこで口紅のキャップに名前を彫ってギフトにすることを思いついたのである。これがホワイトデーのギフトとして爆発的に売れた。

アイディアといえばそれまでだが、何もないところ、条件の悪いところで成功させてこそ、経営者ではないか。


日本の村や街の商品を世界ブランドにしていく

高倉さんはその成功の条件を6か条にまとめている。これがなかなか興味深い。

1. 過去に実行されていないことをやる
2. 競合他社がしていないことをやる
3. お金のかからないことをやる
4. ブランドイメージを損なわない
5. 成果を上げるまでに長い時間がかかることをしない
6. 派手に見えることをする
 

例えば、4.のブランドイメージを損なわない などは気をつけなければいけない点だろう。どんなに面白いアイディアでもブランドを傷つけては元も子もないと高倉さんは言っている。

倉さんは今後どういう活動をしていくのか。
「日本の村や街の商品を世界ブランドにすることが面白いと思っている」と答えた。単に、日本のなかで有名ブランドにするのではない。世界ブランドにするという、そこにこの人の気概と創造性があふれていることがよく分かる。

(2011・7・1)

【番外編・7】こういう状況だからこそ企業は中国市場に目を向けよう

「日本外し」は本当に深刻か

経済誌の特集などを読むと、どの雑誌も共通して扱っているテーマが二つある。一つは東京電力と原発の問題。もう一つは日本外しの問題だ。

確かに、今回の大震災とそれに伴う原発事故のために「日本外し」が起こる(起こっている)ことは想像に難くない。震災による工場や産業施設の崩壊による生産現場の崩壊は確かに深刻であり、復旧する頃には他の新興国の製品、部品に置き換わっている可能性もない訳ではない。

しかし、逆に言えば、日本製品、あるいはもの作りの技術は、それがなければすぐにラインが止まってしまうほど依存率の高い技術でもあるのだ。一時的に「日本外し」が現実のものになったとしても、徐々に回復してくるはずである。

原発事故による汚染懸念での風評被害による「日本外し」はもっと楽観的にみている。実際、原発近くの農産物、海産物は敬遠され、中国からの観光客は来なくなっている。海外の資源を運んでくる船は寄港したがらず、割増料金を要求し、外国人の人材は別にスポーツ選手に限らず、日本から帰ってしまうケースも多々あるようだ。

だが、風評はあくまで風評である。いずれこの騒ぎが治まれば自然に萎んでいくものである。

中国電子商会 曲会長、王常任副会長を囲んで日本代表団との記念撮影


大震災が遺した本当の影響

それよりも問題は、日本の国内市場が縮小する傾向が一段と強まってくることに対する懸念である。まず、震災地において、製造業の一部は海外での生産を強めることになる。被災した企業は原則的には被災地での復興が望ましいが、このグローバルな競争の中ではこれを機に海外へ生産拠点をシフトするという動きは強まるはずだ。東北地方の場合意外に工場が多いのもこうした状況に拍車をかけるし、何より日本中どこでも原発の安全性に対する不安から海外シフトは強まるのではないだろうか。

そして第二は被災地の経済は復興期が一段落した時点で縮小してくる傾向にあるという点だ。例えば阪神淡路大震災の後の神戸の人口はその事実を物語る。150万人と市だった同市は震災で人口が10万人減少し、復活するのに10年近くかかった。日本を代表する都市部でさえそのような状況だから、今回の被災地である東北の市場性や、15年前とは様相を異にする少子高齢化の進展などから勘案してもこの傾向は強まりこそすれ弱まりはしない。現に神戸市の町づくりに震災後携わった方のインタビューを読んだことがあるが、「人口は2割減、経済は6割減」と語っていたのが印象的だった。

濱野皮革工芸と中国ハイタオ社との契約調印式。テレビ通販番組として2011年2、3月に放送された日本企業のプレゼンテーション


魅力たっぷりの中国市場の安全性

そこで、というわけではないが、やはり日本企業は中国市場に顧客を求めていくことが、今後の戦略の一つとして重要になるのではないだろうか、と言いたいのである。

私はこの1年、中国の通販市場に社団法人の一員として関わってきた。実際に中国に足を運び、政府の関係者、業界の関係者ら多くの人たちと会い、議論を重ね、日本企業の商品を売る手伝いをしてきた。その経験から、改めて「中国市場」は魅力ある市場であり、日本の製品が渇望されていることに気づかされたのである。

なんと言っても日本の10倍の市場である。この市場に期待を抱かずして、世界のどの市場に期待を抱くのか、と考えさせられるほど大きな市場である。しかも、通販市場は内需拡大の影響をもろに表している、きわめて急成長な市場なのである。

確かに業界全体を見渡すとまだ未完成の部分もある。しかしそれも近年急速に整備されており、政府の業界に対する通達や声明も効果を発揮してきている。

中国電子商会王常任副会長と日本優良品協会松室代表理事の挨拶日本企業歓迎晩餐会の風景


なぜ中国市場進出が安全なのか

このように書くと「中国はまだ危ない」とか「中国ではこんな失敗をした」といった例を挙げる人がいるかもしれない、

確かに中国進出にまつわるトラブルは多い。しかし、それの多くが中国市場や中国の商慣習、商取引における構造や文化を知らずに起こっていることだ。ある企業では中国で商売をするために中国での商標を取得しようとして400万円を請求された。実際はその10分の1である。間に入るブローカーは多く、日本人と中国人がタッグを組み、手数料をダブルで巻き上げる輩もいる。

私たち日本優良品協会では、そのようなトラブルを根絶するために中国信息(情報)産業部傘下の中国電子商会と基本合意を結び、例えば日本企業が通販市場に進出する場合の商品の調査(認可にかかる時間、商標取得可能性の有無、どの通販会社と組むのが適切か等々)を共同で行ない安価で提供する仕組みを作った。

また、実際に中国電子商会通販工作委員会が主催する年1回のサミットや年次総会での日本企業の商品プレゼンテーションや商談会などを設定してきた。

何より、取引条件を従来の仕組みを変えて前金で中国サイドが支払うような仕組みの構築にも成功した。正に安心で安全な中国進出の仕組みである。

なぜ中国市場進出が安全なのか


<補足として>

私たち日本優良品協会では今年も9月に中国北京で行なわれる日中韓通販サミットに日本企業共々参加します。また、先述した中国通販市場への進出を促進するための「中国通販市場参入キャンペーン」的ないベントも計画しており、多くの政府関係者や業界のトップらを招く予定です。こうしたイベントに先駆けてトップページの写真にもあるような「中国通販業界発展白書」の日本語版の権利を取得し、発刊するに至りました。これを機会に中国の通販市場にスポットを当てていただけると幸いです。

(2011・4・27)

【番外編・6】震災にまつわる情報の話

ネットで大震災情報を得る初めての経験

今度の震災ではいろいろな思いを持ちました。それはだれとて同じです。私は活字情報に携わるものの一人として、今回のように情報が入り乱れるケースは始めての経験です。阪神淡路大震災のときはまだインターネットは普及していませんでした。9.11のときはアメリカの国の話でした。

今回の震災は、情報をどう読むかという点においても初めてわれわれが直面していることです。ゆえに混乱が生じています。インターネットに接続して情報を得ようとしている人たちは、その混乱の渦中にいます。

インターネットだけでも、情報にはさまざまな種類があります。既存のマスコミが発する情報、政府が発表する情報、地方自治体が発する情報、ボランティア団体が発する情報、東京電力が発する情報、学者が発する情報、専門機関が発する情報、そして数多のブログ、2ちゃんねる......。

その他の情報として新聞、テレビ、ラジオ、雑誌などなど、巷に溢れているわけです。

一言でいえば、どの情報も整理されておらず、どの情報もどこまで信頼でき、どこまで信じられないかが不明です。情報とは本来そういうものかも知れませんが、今まではその整理役を既存のマスコミが担ってきました。

今回際立っているのは、マスコミが発する情報に、情報感度のいい人ほど目を向けていないという事実です。


マスコミを信じられない状況

例えば原発の問題です。

テレビで安全だといえばいうほど信じていない人が増えていくように思います。そりゃそうでしょう。朝のテレビを見ていると、いきなり専門家と称される学者が出てきて、「こんな危険はないか」という問いに、一様にきっぱりと「安全です」という言葉を繰り返しているのですから。よく聞いていると、その説明に「今直ちに心配はない」というような表現があるので、見ている人は、「では、半年後は、1年後はどうなんだ」という思いを抱く構図があるからです。

ちょっと訳知りの人なら、あの人は元原子力委員会の○○とか、あの学者は研究費の補助を○○から受けている人だとか、といった裏を読むでしょう。そんなことを知らない人でも、なんか胡散臭そうと思ってしまう――これは人間の習性です。

また、キャスターの態度を見ていても、話が「プルトニウム」とか、東電批判に近付くと、さらりと話を切り替えます。すると訳知りの人は、「東電から圧力がかかっているな」とか、「そういえばコマーシャルを見飽きたAC(旧公共広告機構)の理事には9電力のうち7つの電力会社の役員が入っているな」と細かなことまで考えてしまうのです。

訳知りの人(その多くに学者や専門的な技術者がいます)のブログを読むと、説得力がそれなりにあるが故に、不安は助長されます。いたずらに政府や東電を批判するものばかりではないのが、説得力を持ちます。


渦巻く陰謀論の真実

不安を助長するようなブログも数多くあります。陰謀論はその代表です。

地震兵器によって人工的に起こされたものだ、というのはその典型かも知れません。

東京湾でこのところ立て続けに起こった地震はどれも経度と緯度が一緒の同一地点で起きているという情報があります。富士山近辺で最近起きた地震は富士山を取り囲むように4つのポイントで起きているという情報もあります。

著名なハリウッドの映画監督の死の前に行なわれたインタビューにはニック・ロックフェラー(彼もまた死にました)が9.11の秘密を自分にこういっていた、と一部のエリートが世界を牛耳るその構造を赤裸々に語っています。こういう映像は迫力があります。新型インフルエンザもまたこうした人たちのなせる技だと何人かのアメリカ人が映像で証言をしています。リビアのカダフィ大佐はそれを国連総会で発言し、一笑に付されました。

こうした、情報が事実であるのかどうかは分かりません。信じるも信じないも、それぞれの判断を待つというわけです。それしか方法はありません。

情報の中にはウソもいっぱいあります。人を貶めるような発言もあります。よくも悪くもわれわれはこうした情報と常に対峙していかなければなりません。そして自分の感性で判断するしかないのです。それを誰かに委ねるのはもちろん一つの方法ですが、このような震災という大きな混乱期に自分自身が生きていくためには危ないことといえるのではないでしょうか。


日本の国が変わる

情報は現実の一部ですが、現実そのものではありません。現実に目を向ける方がよほど健全です。今回のように多くの被災者がいて、復興をしなければならない町や村が数多くある場合はなおさらです。自分が被災していたなら、おそらく生き抜いていくために必死で行動しているでしょう。福島に住む70歳を超えたある知人はこういいました。
「それでも満州から引き上げて来たときよりはましさ。あのときはロシア人が食べ残して地面に落ちていたパンの耳を食べたからなぁ」と。
「人はパンのみにて生くるに非ず」は確かですが、その前にパンを得るために働いているのです。今を必死で生き抜くために「生き甲斐」という言葉は空虚です。

これから新しい日本の枠組みが出来てくるでしょう。原子力発電はもういらないとおそらく多くの人たちが声を上げるでしょう。福島の原発の周囲は人が住める状態には戻らないでしょう。町ごと、村ごと移転するところも出てきます。

今週の『週刊東洋経済』に書かれているように、国債が暴落したとたんに世界が変わります。リミットは2014年。それがこの震災で早まる可能性が大きいというのです。それより何より原発が何らかの形で大量の高濃度の放射線を拡散させたら、東京も住めなくなるかも知れません。

でも、われわれは死ぬわけにはいかないし、活力を持って生きていかなければならないのです。

情報は大切ですが、その情報に惑わされることなく生きぬいていかねばなりません。

(2011・3・30)

【番外編・5】日本の10倍以上の市場で、渇望される日本の商品の「品質」

日本に迫り、すぐに追い抜いていきそうな
中国市場の活力

日本の消費材メーカーにとって、今後数年の売上げアップを期待できるイベントが中国北京で12月16日から開催された。中国通販業界の2010年年次総会がそれだ。

と、これだけでは何のことか分からないだろう。説明しよう。

中国の通販業界は年を追うごとに飛躍的に市場を拡大している。中国政府が目指しているのは内需拡大で、世界の工場として機能してきた中国が、この数年世界最大の消費市場へと変貌していることは誰もが認めるところである。中国の2009年度の通販市場は(種々のデータが存在するので確定はできないが)EC(イーコマース)で約2500億元(3兆7500億円:1元=150円換算)、テレビ通販が約400億元(6000億円)、カタログ通販が約60億元(900億円)といわれている。

日本のECが約6兆7000億円、テレビ通販が約4000億円、カタログ通販が約1兆5000億円であるのと比較すると、すでにテレビは超え、ECは日本に迫る勢いであるのがよくわかる。全体でも日本の8兆6000億円に対して、中国のそれは4兆4400億円と半分強に迫ってきている。

中国の内需拡大政策は例えばテレビ通販の目標数値に表れており、5年間でなんと10倍の4000億元(6兆円)に伸長させる予定である。日本の10倍以上の人口を持つ中国からすれば当然のことかもしれないが、商品を売る側からすれば、そこに市場としての魅力があるのも当然のことだ。

日本に迫り、すぐに追い抜いていきそうな中国市場の活力


タオバオ1社で日本のEC全体に匹敵

毎年、年末に開かれる通販業界の年次総会を主催するのは中国信息(情報)産業部傘下の電子商会である。

電子商会はすべてのエレクトロニクス企業の総元締めであり、しかも14ある工作委員会の一つに通販工作委員会を有している。中国全土のテレビ局通販子会社やEC会社、カタログ通販会社、仕入れ会社、投資会社などを束ねている格好だ。

ゆえに、この年次総会には中国の名だたる通販会社のトップが参集する。もちろん電子商会会長の曲維枝会長(中国国務院参事)、王寧常務副会長以下、国務院の関係各部の幹部らも出席している。このイベントに日本から出席したのは(社)日本優良品協会 (http://www.lpaj.or.jp)と消費材メーカー数社である。

総会は曲会長の挨拶から始まった。続いて関係各部門の挨拶があり、その後中国EC売上高の80%以上を占めるという淘宝社(タオバオ社)路社長のプレゼンテーションが始まった。注目されたのは、2010年度の売上見通しが4000億元(6兆円)に上るという点。09年度の中国EC全体を一社で大幅に上回ることになり、日本のEC市場全体(09年度6.7兆円)と比較しても、1社で日本に迫る売上高ということになり、中国の通販市場を大きく伸長させたことになるのだ。

タオバオ1社で日本のEC全体に匹敵


日本でもやっていないテレビとネットの融合

そうしたなかで特筆されるのは、中国企業が日本よりもいち早くネットとテレビを融合させた新会社を設立させたことではないだろうか。今年の4月、湖南テレビと淘宝(タオバオ)社が合弁で設立した快采淘宝(ハイタオ)社である。同社はテレビ番組の制作と同時にネット配信も手がける企業である。例えば通販でいえば、テレビ番組としてファッション系の番組を作り、そこに登場した商品をネット上で売るという仕組みである。

そもそもタオバオのユーザーは男性が多く、TV通販は女性のユーザーが多い。また、平日はネットでの購買が多く、土日はTV通販で買われることが多い、という購買形態の相違もある。こうした、異質性を融合させることが目的だというのである。つまりネットとさまざまなユーザーを囲い込むために、ネットとTVの融合が必須というのが同社設立の目的で、今後はTVのリモコンで注文できるようにするなど、さまざまな「融合」の手法を駆使していくという。

実際、日本の皇室御用達ブランドである濱野皮革工藝は、このハイタオ社の番組一体型通販を2年の独占契約で行なうことを決め、この総会で調印式を行なった。

日本でもやっていないテレビとネットの融合


たいへん注目された日本企業の商品

こうした活気に溢れるイベントであったが、午後は日本企業の優良品をわれわれ日本優良品協会のスタッフが中国のTV通販、EC企業に対してプレゼンテーションを行なった。こうしたプレゼンは今夏にこのサイトでレポートしたように、7月の中日韓青島通販サミットでも行なった。このときとの最大の違いは、企業による直接的なプレゼンテーションが少なかったことである。

12月という日本企業にとっては師走の忙しい時期であり、なかなか海外に出張するのが難しいこともあって、協会が企業に替わってプレゼンテーションを行なうという手法を採用したのだ。

企業自身によるプレゼンテーションは三菱レーヨンクリンスイとツカモトエイムの2社であり、もちろん直接中国企業へのアピールは十分だった。

特に、三菱レーヨンクリンスイは日本企業としては初めて、今年の中国通販業界の優良品の一つとして表彰された商品であり、注目度は高まった。

一方、協会が行なったプレゼンは、お茶のトップメーカーである伊藤園、ゴマのトップメーカーであるオニザキコーポレーション、それにブラジル産のフルーツを原料にした健康食品「アサイー」、青色光線をカットするため白内障に効果的なサングラスの「アイブレラ」、界面活性剤をほとんど使わずに汚れを驚くほど落とす洗剤の「浄」の5社分で、そのどれもが注目された。

伊藤園とオニザキコーポレーションは業界トップの商品力と品質に対する評価が高く感じられた。また、アサイー、アイブレラ、浄の3商品はそれぞれが日本の通販市場で大のつくヒット商品であるため、それなりの反響をもって迎え入れられたようだ。それぞれのプレゼンテーションに対してアンケートを実施、回収しており、この結果を企業にフィードバックしながら今後の商談につなげていく予定である。

今後も企業の直接的なプレゼンテーションと協会による商品プレゼンとを組み合わせる方法が検討されていくかもしれない。

たいへん注目された日本企業の商品


中国での成功のカギは中国企業の特性を知ること

今回の訪中では、中国の大手通販企業への訪問も行なった。業界第3位の家有購物(ジャイユー)社と第4位の北京優購物(ユーゴー)社への訪問である。両社の売上げ規模はほぼ同じレベルであるが、それぞれが特徴のある戦略を打ち出し、またCRMなどの顧客囲い込み戦略なども駆使していた。

家有購物有限公司は、貴州テレビ局傘下のテレビショッピング専門会社であり、国家ラジオ・テレビ総局に一番早く承認されたテレビショッピング・プラットフォームの一つである。登録資金は1億元。 2008年11 月に北京で設立されており、現在は、本部のある北京の他に、貴州、それに河南に子会社がある。

オフィス用地は3,000平方メートルで、600平方メートルの大型テレビ・スタジオを持っている。先端的な番組制作・放送設備を設け、完全な運営・情報管理ITシステムを導入し、先進的なコール・サービスセンターを作り、全国的に物流・倉庫を設置している。

中国TV通販会社第4位の北京優購物社はテレビ・メディアを主として、インターネット、ダイレクト・メール等のメディアも活用し、全国の家庭消費市場に向けて販売している。 運営本部は北京にあり、現在社員数は2,000人に及ぶ。やはり専門的な大型テレビショッピング・スタジオと国内トップクラスの番組制作・放送設備を持ち、先進的な物流・倉庫を有している。現在、問合せ1万件以上/日で、注文数は7,000件/日とのことである。同社は現在、放送地域を、山西、天津、山東、河南、遼寧、内モンゴル、安徽、江蘇、广西、湖南、江西、河北等の17省に拡げ、計12の省の首府都市、33の地区レベル都市で計4,738万世帯(放送する予定の1,049万世帯を含む)まで視聴範囲を拡大し、同時に北京、南京、南昌、吉林という4つの倉庫基地を持つことで、全国的なチェーン式運営を実現しているとのことである。

日本企業が中国13億人超の市場に「通販」という形で参入する場合は、こうした中国の通販企業の特性をつかんだ上でビジネス展開していかなければならないといえよう。

(2010・12・22)

【第56回】定年後創業した会社を急成長させる社長の根幹は「人本主義」

株式会社高齢社

7年で7倍強の成長を実現

「今面接待ちが100人います」

そうニコニコしながら会長で創業者の上田研二は語り始めた。
「だって登録しておいて仕事がないとすれば、それは人材派遣会社といっても詐欺でしょう」

だからうちは実質主義で仕事分しか登録しないと暗にいっているのだろう。

ユニークな会社というのは世の中に山ほどあるが、時代にあったユニークな会社といえば、ここではないか。それが株式会社高齢社である。名は体を表す。文字通り高齢者の人材派遣をやっている会社で、派遣に登録出来るのは60歳以上、75歳未満の人。それまでに登録しておけば、80歳になっても働ける。社員も全員60歳以上だ。現在400人ほどが登録している。派遣社員は2人1組の交代制になっているので、急な用事や体調の不良などにも対応できるようになっている。これも高齢者専用らしい取り組みだ。

業績はすこぶる付きの好調さで、今年の4~7月の3ヵ月だけをとっても売上高は対前年比で39.5%の伸びを示している。

業は2000年。2002年度の売上げは4382万円だったが、2009年度は3億1900万円。この7年で7倍強の成長を示している。

遣業務の内容は当初は上田の出身元である東京ガスの業務が多く、内容もガスメーターの閉栓業務が多かった。そのため、登録者もOBが60%以上を占めていたが、現在は50種類もの業務に広がり、OBの比率も落ちている。


人の嫌がるときに普通の料金で引き受ける

なぜ、これほどに伸びているのか。一つは休日の対応である。実は派遣業務というのは土日のニーズが高い。これに積極的に応えることによって、業績を伸ばしてきたのだ。

例えば、ガスの閉栓業務やショールームの常駐などは土日が一番必要とされている。社員は土日に出たくないからだ。そこで高齢社では土日の業務を積極的に引き受け、しかも、他の会社では当たり前のように付加する休日割り増し料金を取らないようにしているのだ。人の嫌がるときに普通の料金で引き受けるのだから仕事が来ないわけがない。

こうした対応が気に入られ、今では他の分野にまで業務が広がった。ある大手電機メーカーでは修理マンに同行するのが仕事である。助手席に座り、一緒に現地に行き、修理マンが作業をしている間待っているのだ。また、ハウスメーカー系列の管理会社では賃貸物件の引っ越し後のリフォームを品質チェックして回るという仕事を引き受けている。どれも「なるほど、そんな仕事が合ったのか」と思わせるような仕事だが、ニーズはどこにでもあるものだとつくづく思わせられる。
「情報とは情けある報せと書くでしょ」そういって、にんまりと上田は微笑むのだ。なるほど情報は思わぬところにあるものだ。


子会社や協力会社を次々再建して「再建屋」の異名も

10年ほど前、これからの高齢化社会を見越して高齢者をどう社会のなかで活用していくかということが議論になったことがある。そのとき真っ先にいわれたのが高齢者の転職や人材派遣という業務だった。経験のあるベテランをまだ若い企業に送り込む。それによってノウハウを得ることができるし、当の高齢者も働きがいが出る。一挙両得だから絶対受けると。

しかし、そんなビジネスが現実に立ち上がり成功したという例は残念ながら聞いたことがなかった。いや、実際にはいくつも成功例はあるのかも知れない。しかし、高齢社のような例を目の当たりにしたのは初めてだった。

その違いは何だったのか。

実は、上田はガスターという東京ガスの子会社の専務取締役営業本部長として出向していたことがある。91年、上田が53歳のときの話だ。当時ガスターは経営不振に陥り、18億円もの赤字を計上していた。赤字になると増減資を行なっていた。本社から行った役員など冷ややかな目で見られるのが常である。
「転籍なら行ってもいい」と答えたが、それは適わなかった。そこでコミュニケーションを取って、プロパーの人たちの気持ちをつかもうと努力し、ひたすら拠点を回った。
「当時情報が上に上がってこない状況だったので、私のところにきたら、1週間以内で返事すると約束した(上田)」こともありコミュニケーションは大幅に改善されていった。

結局、赤字は翌92年期には4億6500万円に縮小し、93年には黒字化、94年には累損を一掃し、96年には13億円の利益を計上するまでになった。上田はこれにより「再建屋」の異名を得ることになる。

ところが、その再建屋にまたもそのお鉢が回ってきた。今度はガスターの協力会社である東京器工に、社長で、ガスターの役員兼務のまま行ってくれという話だった。当時、6億円の赤字で12億円の借入金があった。結局兼務は断り、社長として同社に行き、まず「リストラをしない」と宣言して、社員の心をつかんだ。社員一人ひとりとじっくりと話をして、利益の還元を約束し、公平でオープンな人事体制を敷いた。上田ならではの経営でこの会社も黒字に転換した。


時代に逆行しているようでも先を見て経営

上田の経営の根幹にあるのは、人本主義である。お客がいて株主がいて社員がいて協力企業がいると、社員と協力企業を大切にする。

こんなエピソードがある。

あるクライアントから9:30~5:30で仕事を頼まれた。ところが上田は派遣社員に9:00~5:30といってしまっていたのだ。それが判明したのは半年後。つまり30分よけいに働いてもらったのにクライアントからはその30分ぶんを貰えない。しかし、上田は即断即決、その30分ぶんを上乗せして派遣社員に払った。

とにかく社員を大事にする一つの例だろう。

ところで派遣のニーズが激減したのが08年のリーマンショック以降である。当時は社会問題にすらなった。そのとき同社は影響を受けなかったのか。
「業務が切られていき、毎月売上げが落ちて急激に苦しくなりました。年度の売上げこそ対前年で伸びていましたが、09年の7~9月は前年割れの実績となりました」と上田は当時を振り返るが、そのとき取った一手が面白い。
「営業マンを増やせ」と号令をかけたのだ。結局2人増やし、今年もう一人さらに増やす。なぜ、時代に逆行するようなことを行なったのか。
「競合が増えているし、そもそもまだ伸びる市場なんです。だから、手を打った(上田)」わけだ。そのために自分の給料は減らし、社員には経常利益の30%を渡すべく予算を組んだ。

上田は今年の2月に社長を退き会長になった。しかし相変わらず意気軒昂である。

(2010・11・25)

【第55回・後編】やり方よりも在り方を追求する進学塾の京都的生き方

成基コミュニティグループ

偏差値の低い子どもがキャンプで体験するピンチ

本当の教育とは何か――。佐々木が父親の突然の死によって、それまで務めていた大手情報出版会社を辞め、成基に戻ってきたときに考えたのは、そのことだった。

そこにはさまざまな葛藤があった。親にアンケートをとると、本心は別にあっても子どもを追い込むような言葉を発していたり、子どもはといえば親や先生にいわれるままに偏差値の高い学校を目指していたり、とてもそれがいい道だとは思えなかったのだ。

それは佐々木自身が社会に出て経験し、学んだことでもあった。

本当の教育とは何か。そんな模索のなかから生まれたのが、子どもたちをキャンプに連れて行くということだったわけだ。

最初は職員も親も大反対だったから、第一回目のキャンプは、ほとんど佐々木独りの企画であり、実行だった。

では、子どもたちは何を学んだのか。例えば家にいるときは暗くなれば電気をつける。しかし、そんな当たり前のことが自然のなかではそうではないと分かる。家にいれば何でもあったが、ここには何もない。ないことを知り、あることのありがたさを学ぶというわけだ。

とりわけ偏差値の低い子どもにはそれが顕著に現れる。

なんにもない場所で、子どもたちは今までで一番のピンチを迎える。しかし、何でも自分たちでやっていかなければならないことから、今までで一番といっていいほど人に認められる。親に手紙を書かせ、親からも手紙をもらう。そういう過程で、自分はこんなもんだと思い込んでいたトラウマから徐々に開放させられていく。そして少しずつ自信が芽生えてくる。

その自信が、前回に書いたように、帰ってきたときの親への元気な挨拶となって現れるし、それが結果として「偏差値25~35くらいの子どもの半数以上が関関同立クラスに進学する」という実績にもつながるのである。


脱落した子をどうやって救うのかを考えた末の結論

八九年に始めた個別指導(ゴールフリー)も同じような目的からだ。
「一斉指導の塾で難関校を目指す百人がいたとすると一年で半分以上は脱落します。そうすると、親は『やっぱりお前はダメだ』とか『そんなんだったら、止めなさい』などという。子どもたちの多くも〈自分はチャレンジしたけれど挫折した〉と思い、挫折することで〈自分はこんなもんだ〉と思う。そんな風に子どもがなるのならそれは子どもに申し訳ない」

だから、なんとかしたいという気持ちが、個別指導という新しい指導を生み出したのである。
「個別指導で預かった子のなかには、五段階の一や二の子がいる。そんな子は目的もない。将来の夢を聞くと『別に』と答える。何のために勉強するのか、その達成のためにどうすればいいか、いまとのギャップを埋めるためにこちらも必死で考える」(佐々木)

だから、「個別指導をやり始めて多くの塾が見学に訪れた(佐々木)」という結果になっているのだ。

国家や会社が守ってくれる時代ではなくなった。グローバルスタンダードのなかで生き抜いていくためには、個として自立していないと通用しない時代である。
「昔は指示命令系統がはっきりし、それに従うということがよしとされたが、いまはそうではない」(佐々木)

だからそうではない仕組みを作ったと佐々木はいいたいのだろう。
「それぞれの発達段階に合わせたプログラムを作っています。幼児なら楽しく遊びながら学ぶ(佐々木)」

教育に携わるものなら、だれでもこれくらいのことはいえると思われがちだが、進学塾でそれをきっちり実践しているところはそれほど多くない。その意味で成基の採る教育方針は間違っていないし、それゆえの発展なのだろう。


「在り方」を教えることにある京都的な企業らしさ

あるとき、佐々木はPTAの会長や校長ら500人ほどを相手に講演をしたことがあるそうだ。そのときの逸話がドキッとするほど面白い。

参加者にまず白紙の紙を配り、子どもに対して遺言を書いてくれといった。その後で、もう1枚紙を配り、今度はいつも自分の子どもにいっていることを書いてくれといったという。遺言にはみな一様に「優しい人になってほしい」「家族のために」などという言葉が集まり、もう一つは小言に満ちていたのだそうだ。
「遺言が子どもの追求すべき究極の幸せ(佐々木)」だが、現実にはそうはなっていない。こうした「気付き」を親にも子にも与えることができるのが佐々木の真骨頂なのだろう。やり方だけを学んでいっても幸せになれないという当たり前のことをきちっと教え実践しているからこその成基の成長なのである。

佐々木は、京都的な企業のあり方にも言及している。

そもそも京都で「尊敬される企業」とは何か。
「お茶や、お花、宗教など京都に縁の深いものはみんな在り方の世界。決してやり方の世界ではない」と佐々木は明言する。受験というやり方を教えることで、在り方を知るという自身の塾経営にもそれが表れているし、おそらくそうではない企業は京都では尊敬されないといいたいのだろう。

経営の観点で見ても、父親が創立し、一代で有名な進学塾にしたその成基を、佐々木が独自性の高い教育を付加することによって、より経営の幅を広げたともいえる。何より、前期の売上げが六八億円で経常利益が三億五〇〇〇万円という実績が、経営の成果を物語っている。

(2011・2・16)

【第55回・前編】京都発・超ユニーク学習塾の卒業生は現職大臣

成基コミュニティグループ

偏差値25~30の子どもが急成長

京都に超有名な塾がある。成基学園(成基コミュニティグループ、以下成基)の名で知られるこの塾の卒業生には、今をときめく大臣の名がある。京都2区選出の衆議院議員前原誠司国交相だ。他に京都選挙区選出の松井孝治参議院議員やその他議員の名も。

この成基は2年後の2012年には創立50周年を迎える老舗で、幼児教育から中学、高校、大学受験、親のコーチング教育まで幅広い活動を行なっている。社員数は310人だが、他にメンター290人、コーチ1200人と総計1800人の大所帯である。石川県能登半島には能登島キッズランドという実験や天文などの学習室、農園、広場、球技場まで擁した自然体験学習施設を持つ。総面積4万坪、常時200人が宿泊できる大規模な施設である。それも22年前の1988年から行なっているというから相当に先進的と言えよう。また、その翌年の89年には、当時では珍しかった個別指導を始めてもいる。
 
この塾の先進性を一言で語るのは難しいが、例えばこの能登のキッズランドに偏差値25~30の子どもを連れて行くという。1000人中900番以下の子どもたちだ。出かける際には駅で親に挨拶をするのだが、ほとんどの子が声もでない。ところが、4日後に帰ってきたときにはみんな元気で溌剌として、大きな声で挨拶をするようになって帰ってくるのだという。もちろんその姿を見た親の感激ぶりは大変なものである。何よりその半数以上が関関同立クラスに進学するのだというから大変なことだ。
 
なぜそうなるかは後に譲るとして、いわゆる普通の進学塾とは異なる、塾の概念を超えた塾といっても過言ではないだろう。


父親の塾を継ぎたくなかった息子の思い
 
この大きなグループを率いているのが代表の佐々木喜一である。佐々木は実は2代目だ。2代目というとどこかひ弱なイメージがつきまとうものだが、佐々木にはそのようなイメージなど微塵もないし、そもそもこの「塾の概念を超えた」さまざまな活動は、佐々木が社長に就任してからのことである。
 
成基は1962年、佐々木の父雅一によって創業された(創業当時はあすなろ学園)。その父は瞬く間に同社を有名塾へと押し上げた。そしてその働きぶりは凄まじいものだった。
「5つあった教室から、夜に日報が届くんです。それを毎夜11時から夜中の2時頃まで400冊のノートに赤ペンで指示を出していく。それを見ていると僕は継ぎたくないと思った」と佐々木は回顧する。
 
ひたすら努力して、率先垂範型ですべて自分が指示を出しヒエラルキーを形成する姿は、少年の佐々木には面白くなさそうに映ったのだ。
 
佐々木は大学を出ると大手銀行系のカード会社に就職をした。会社での成績はよかったが明らかに自分とは違う周りのパフォーマンスに飽き足らず、わずか1年半で辞表を出す。そして実家を継ぐことになるのだが、そこで大きな壁にぶち当たった。


初めて人を殴ったときの相手
 
次々と改革案を実行しようとし、父親と衝突することになったのだ。
「当時の社員の平均在職年数は2年で、誰もがイエスマンでした。社員250人中半分が女性、男性の9割は元校長先生で、仕事は『やったふり』でした。僕はアイディアを100個くらい持っていたから。でも父にしてみれば『何じゃこいつ、こんなことをしやがって』だったんでしょうね(佐々木)」
 
このとき初めて人を殴った。その相手は父だった。すぐさま辞表を出し、独り当てもなく生活を始めた。40社以上会社訪問した後、大手情報出版会社に就職し、2年が過ぎたところで父親が急逝した。
 
その時の佐々木の複雑な心境は推し量るべくもない。佐々木は自分のブログに当時のことを<あれほど受け入れられない父だったのに、動かない父を目の前にし、初めて私の中に嘘偽りのない感謝と謝罪の気持ちが込み上げてきた>と書いている。
 
そして佐々木が成基を継ぐ。
「最初にやったことは、まず経営方針と事業計画の策定です。そして子どもを連れてキャンプに行きました(佐々木)」


親が抱いていた感情の真実
 
このキャンプは父母の猛烈な反対にあった。それでも佐々木は実行した。
 
それはなぜか?
「大手銀行系のカード会社には有名大学卒の人間が片道切符で出向していました。地銀を訪問するとそこの支店長が居酒屋に連れて行ってくれ『自分は高卒だが、息子が大学を出るまで働かねば』と聞かされました。大手銀行に入り片道切符を貰うような人間を大量生産しているんじゃないか? という疑問を持ったんですね。受験していい大学に入ればエリートかというと明らかに違うわけです」と佐々木はその動機を語る。
 
当時親たちに交流分析のセミナーを受けさせた。すると、親が子供に言っていることはつきつめると「お前なんか死んでしまえ」というようなことだった。本心でそう思っていなくとも、結果としてそういうことを言っていたのだ。
 
一方子どもたちにアンケートをとると1000人中5人が「勉強が好き」と答えてきた。
「でも、本当に好きなのはそのうちの3人。多くはいい学校に入るのは将来のためと答え、学校の選択は親がいいと言ったとか偏差値が自分に合っているからという答えでした(佐々木)」
 
そこでキャンプを実行したわけで、それが冒頭の偏差値25~35くらいの子どもたちの半数以上が関関同立クラスに進学するという実績につながるのだ。(次回に続く)

(2010・9・1)

【番外編・4】日本商品に中国各テレビ局が群がった青島通販サミットって何だ?

過去2回と様相を異にした通販サミット
 
ほとんどの人の眼に触れなくとも、インパクトのある国際会議はあるものだ。2010年7月8日から10日まで中国の青島で「日中韓通販サミット」はその際たるものだろう。

と書いてもほとんどの人はピンと来ないに違いない。しかし、ひょっとすると10年後にはこのサミットが日本の特に中堅企業にもたらした役割について大きな話題になっているかもしれない。そんな気にさせられるほど内容の濃い3日間だった。
 
それでは通販サミットとは何だったのか? 主催は中国電子商会。中国政府の信息(情報)産業部傘下の非常に影響力を持つ組織で、その下には4000社からの会員企業が存在する。
 
そもそもこのサミットは第6回国際消費電子産業博覧会の期間に行なわれた20数件の国際会議の一つで、このサミットは3回目となっていた。サミット自体は3つの国の通販に関わる団体が集まり、スピーチを行なうもので、日本からは社団法人日本通販協会(JADMA)の専務理事がスピーチを行なった。
 
とまあ、これは表の顔的なもので、実際は中国のテレビ通販会社やEコマース会社がこのサミットには集結しており、参加した企業(日本メーカー)の商品を売り込むためのプレゼンテーションの場であった。ちなみに私の役割は、日本側事務局の事務局長であり、訪中団の団長だった。

過去2回と様相を異にした通販サミット


中国市場はこの5年で10倍の売上を目指す
 
今回のサミットは第3回目と書いたが、過去2回はいわゆるメーカーの参加がなかったという。つまり、日本サイドから売りたい物の提示は一切なかったのだ。
 
日本の通販会社が結集した団体というJADMAの性格上、メーカーを集められないのはもっともなことで、別の機能を持つ団体が必要だったのだが、過去の2回はそういう接点が持てず、叶わなかったということである。だが、さすがに3回目ともなるとそうもいっておれず、電子商会サイドも日本企業(メーカー)の参加を強く望んでいたのである。
 
というのも、現在の中国のテレビ通販の売上はざっと400億元(5132億円)であるのを、15年までには4000億元(5兆1320億円)と10倍に伸長したいという目標があり、その意味からも良質で安全性の高い日本製品は渇望されていたのだ。
 
日本の通販市場はJADMAの発表によると約4兆1400億円で日本の小売業全体(133兆円)のおよそ3%を占める。近年急激に売上を伸ばしてきたEコマース(5兆3000億円)と併せても7%にすぎないのだが、それでも日本が上回る数字であり、中国の購買力から考えると、4000億元でも極めて保守的な数字といえるだろう。
 
とあるきっかけから、この話を受けたわれわれは、早速参加メーカーの選択に当たった。いろいろな議論をしたが、結論からいえば、大手のように既に中国に製造拠点や販路を持ち、実績も上げている企業は除き、優れた技術や品質を持つ製品を作っているがそれほど大々的に展開はしていない企業に的を絞った。打診した企業の多くが前向きで、参加の意向を示してくれた。

中国市場はこの5年で10倍の売上を目指す


抜群の性能を持つ浄水器や除湿器、画期的化粧品などが目白押し
 
結局このサミットに参加した日本のメーカーは7社だった。どのような会社がメンバーだったのか、プレゼンテーションを行なった順でその7社を紹介していこう。
 
まず、三菱レーヨンクリンスイである。三菱レーヨンの子会社で、家庭用浄水器メーカーとしてはトップクラスの売上を誇る有名メーカーである。中国にも拠点を持ち、既に販売実績を持つ参加企業の中では、唯一の大企業的存在だった。
 
次は、ホソカワミクロン化粧品。ホソカワミクロンは世界的なナノテクノロジーを持つ大手粉体機械メーカーだが、同社創業者の故細川益男氏が機械という川上の商品ばかりでなく、ナノテクノロジーを川下の消費者向けに利用していこうとした肝いりの商品がこれで、画期的化粧品と育毛剤(同社は薬事法の関係で育毛剤といっていないが)をプレゼンテーションした。
 
3番目にプレゼンしたのはカンキョーという会社。90年代にその技術力で一世を風靡した会社だが、研究開発投資の重さから経営が悪化した。しかし、現在はよみがえり、除湿器と空気清浄機のプレゼンテーションを行なった。同社の除湿器は抜群の除湿効果を持ち、稼働させているだけで洗ったTシャツが10分で乾くという優れもの。中国の南部は湿度が非常に高く、こうした商品は渇望されているはずだ。空気清浄機を含め、注目される商品に違いない。
 
そして、本サイトでも2回にわたって紹介した山本化学工業。詳しい説明はサイトを見ていただきたいが、画期的な水着と画期的なバイオラバーという健康商品はやはり注目された。なかでも、中国テレビ通販界のドンともいうべき存在の聯采社長は興味を示していた。

抜群の性能を持つ浄水器や除湿器、画期的化粧品などが目白押し


次回のサミットには100社くらい参加してもらう
 
5番目にプレゼンしたのはアスク。出版社として日本語教材やさまざまなソフトウェアを作っている同社は、中国のニーズに対応できる商品を開発できるメリットを持つ。その意味で画期的な会社である。
 
次に紹介したのはカインドウェア。日本のフォーマルウェアの歴史が会社の歴史そのものという同社は宮内庁御用達で、英国の王室ご用達企業と提携しているフォーマルウェアでは国内最大メーカー。さらに近年は介護事業に積極的に取り組み、折りたたみ式のステッキなど、やはり注目される商品を多く紹介していた。
 
そして最後にプレゼンテーションを行なったのが濱野皮革工藝。これも皇室御用達のバッグとしてつとに有名なメーカーだが、近年はテレビ通販に力を入れており、実績も相当上げている。台湾では既にテレビ通販を展開していることも強みで、すぐに番組を立ち上げたいというようなテレビ局さえ現れた。実際、プレゼンテーションの翌日は賑やかな商談会となり、より具体的な話に進展した企業もみられた。
 
中国市場というと、その大きさに、参入を望む企業は間違いなく多い。しかし他方、どこにどのような話をすればいいのか見当がつかないために放置している企業が大多数でもある。今回のような中国の国家機関が関与するプレゼンや商談が進めば、間違いなく日本の優れた商品が中国人に愛用される日は近づこう。何より今回のサミットが大成功の裡に終わったことがその証左である。
 
次回の通販サミットは100社くらいの参加を望みたい。これが、われわれ事務局サイドの思いで、だから参加したい企業はぜひお知らせいただきたい。

(2010・7・21)

【番外編・3】ビジネスマンは話題のiPadを本当のところどこまで使いこなせるか

見せびらかすには面白い道具か?
 
iPadが人気である。いや、正直にいうと、日本でどこまで人気なのかはよく分かっていない。
「話題先行じゃないのか?」
「そりゃ、大人のおもちゃとしては面白いだろうがね」
「使ってみたいけれど、本当のところどうなんだ」などという人のために、レポートしたいと思い立ったわけだ。

というわけで、今回はちょっと趣向を変え、今話題のiPadがどれほど役に立つのかをレポートしたい。当然この原稿もそのiPadで書いている。パソコンのワープロソフトで書くように滑らかではないが、それでも十分に使える。
 
購入したのは、発売日の翌日だった。機種としては「Wi-Fi+3Gモデル」。つまりどこでも使えるという機種だ。3Gモデルでなくても、「どこでもWi-Fi」のようなサービスを使えば、ほぼどこでも使える。
 
見せびらかすには面白い道具か?私は購入以来、常に持ち歩き、いろいろな局面で表に出しては使っているのだが、まぁ、他人は驚いてみせるものの、心の中では単なる見せびらかしと思っているに違いない(笑)。
 
さて、このiPadを購入するに当たって一緒に購入したのは、iPad専用のゴム製の純正ケースとワイヤレスキーボードである。何らかのケースが必要だったのと、やはり画面で打つよりはキーボードの方が打ちやすいと思ったからだ。結果は、どちらも良好だった。特にこのワイヤレスキーボードは非常に軽く、使いやすいことこの上ない。新幹線のなかでもこれがあるとずいぶん便利である。


新幹線の車内で使うならノートPCよりもストレスなく快適
 
私は決してITオタクではない。ずぶの素人に近い。その私が使った(わずか1ヵ月弱の)経験からいうと、私のようにものを書くことが多い人間にとってはこのiPadはかなり有効である。
 
だから、日常的に書類をまとめることの多い人には向いている。最近では会議に出席してノートPCでメモを取っている人は多いが、ノートPCよりはかなり使いやすいと思う。メモを取る以外に、話題のテーマですぐネット検索できるし、録音も可能である。企画書を書くといった仕事が目の前にある人にもかなり有効だと思う。キーボードがなくても使えるが、キーボードがあれば仕事のスピードは数倍に上がる。
 
この原稿はiPhoneにもついている「メモ」というソフトに書いているのだが、本当はワープロソフトがあれば、なおいいのだろう。このiPadにはアップル社製の「Pages」というソフトが1200円で売っているのだが、評判が悪いので買っていない。
 
それがなくても、この原稿をそのままテキストベースで保存すれば、マイクロソフトのワードソフトにも変換できるし、どのようにも加工できる。
 
実際、このところ出張が多いため、毎週のように新幹線の車内で原稿を書いているが、400字5~6枚から10枚程度の原稿を書くには十分に使いこなせる。10時間程度は電池も保ってくれるので、電池切れを心配しつつ重いノートPCを持ち歩くよりは、ストレスがなく快適である。


iPhoneにはもう戻れない
 
では、他にどんな使い方ができるのか。それよりも、これがどんなことに使えるのかを考えてみたい。
 
その時に考慮すべきはこの大きさである。横15センチ弱 × 縱19センチという画面の大きさは、iPadの最大の利点である。iPhoneに慣れた人なら、まずこの画面の大きさを魅力の第一にあげるだろう。ウェブを見るならこれだし、メールのやりとりもiPadの方が大きい分スムーズだ。
 
毎日無料で配信される産経新聞を読むのに、こんな最適なデバイスはない。ちょっと恥ずかしいが、通勤の電車では産経新聞を読んでいる。ゲームフリークなら、さらに使い勝手の良さを感じるに違いない。実際、一度iPadを使ってみると、もうiPhoneには戻れない、というのが正直な感想だ。
 
そんな中で、唯一意見の分かれるのは電子書籍を読む場合だろう。画面が大きなiPadはもちろん読むのに便利である。しかし、書籍(新聞や雑誌ではなくあくまで書籍)でいえばちょっと違う。活字だけを目で追うという観点にたてば、私は、手のひらで読むことができるiPhone(あるいはiPod touch)が、圧倒的に便利だと思う。
 
実際、中里介山の「大菩薩峠(全41巻)」もヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」もiPod touchで完読したが、すこぶる快適だった。
 
もちろん 、iPadよりもiPhoneのほうが使い勝手がいいという場合は他にもある。例えばマップを利用する場合はその典型だ。知らない場所に住所を頼りに行く場合、マップに住所を打ち込んで近くの駅からそのマップを頼りに向かうことになるわけだから、大きなiPadよりは小さなiPhoneのほうがいいに決まっている。
 
当たり前のことだが、iPadはその特性を生かした使い方をして初めて有効なのである。ではその使い方とは?


『できるビジネスマンなら
間違いなく充実した気分に浸れる
iPadの魅力と実力』


ワールドカップをテレビで見ながら情報収集
 
私が気に入っている使い方は、iPadを横に置いてテレビを見るという方法である。もともとテレビで見るのはスポーツが圧倒的に多い私は、ゲームを見ていて周辺の情報を知りたくなる。
 
例えば、ワールドカップ。このチームの注目選手は? 予選はどう戦い、どんな勝敗だったのか? 今出てきた選手はどこのチームに所属している、どれくらいの選手なのか。あの監督はどういう経歴だったか、などなど。見ながらネットで検索して調べるのだ。本来デジタルテレビでは、dボタンがついていて、それを押すと画面が分割され、その手の情報を提供してくれるはずだが、コストも手間もかかるせいか、NHKも民放もそんな気持ちはさらさらないようで、唯一その手の情報提供がなされているのは、正月の箱根駅伝だけだが、これとて情報的には不満が多い。
 
だから、この方法が生きるのである。こうやってテレビを見ると、楽しさ
は倍増する。この方法ならテレビドラマだって使えるに違いない。
 
例えばNHKの大河ドラマ「龍馬伝」を観ながら、武市半平太はどうなったんだっけ? とか、龍馬が海援隊を作るのはこの何年後だったっけ? など、ふだん、ちょっと疑問に思っても、次から次へと押し寄せてくる映像という名の情報の波に呑まれて行く現実に、一石を投じてくれる役割を、このiPadが担ってくれるというわけだ。


話題の本をあっという間に手に入れる
 
さらにいえば、iPadが便利だと思ったこんな話もある。
 
やはり出張中の新幹線の車内。隣に座った同僚と四方山話をしていた時、その彼がこんなことを言い始めた。
「そういえば最近、金融のことを扱った演劇があったのを知ってますか」
知らないと答えると、
「なんでもイギリスの演劇で08年のリーマンショックを舞台にしたもので、登場人物がアメリカの財務長官や有名な投資家などリアルな人ばかり出てきて、リーマンショックの舞台裏を暴いているようなのです」と、その彼は言ったのだ。
 
その演劇は日本語に翻訳され、日本でも何カ所かで上演されたとか。
 
こんな時こそiPadの出番である。その演劇「The Power of Yes」をネットで検索した。後は誰でもやるようなプロセスを経て情報にたどり着いた。
「The Power of Yes」は、2009年春、イギリスのナショナル・シアターが劇作家デイヴィッド・ヘアーに依頼して書かれたたもので、
「世界金融危機はなぜ起こったか、いま何が起きているのか」がテーマである。ヘアーは、多くの関係者へインタビューを行ない、その証言をまとめてドラマを書き上げた。
「ヘッジファンドの帝王」ジョージ・ソロス、現代金融工学の始祖的存在でブラック-ショールズモデルでお馴染みのノーベル賞経済学者マイロン・ショールズ、ほかに、バンカーや投資家、金融ジャーナリストなどのリーマンショックを巡る人物たちが登場するドキュメンタリー・ドラマである。
 
日本で上演したのは「燐光群」という劇団で、東京は5月下北沢の「ザ・スズナリ」で上演され、その後、地方でも行なわれた。
 
演劇なら脚本があるだろう、というわけで、今度はアマゾンにアクセスし、Kindle for iPadで読むべくダウンロードした。14ドルの本が11ドルちょっとで買えたし、何より凄いのはすぐにその本を電車の中で読み始めることができたことである。


録音しながらメモをとる
 
さて、本当にビジネスにこれを役立てることはできるのか?
 
正直なところ、その結論は出せないままである。本来仕事に使うものではない、という意見もあるだろう。例えば、アップル社からはiPad用のスプレッドシートソフト(Excelと同じようなソフト) や、 プレゼンテーションソフト(パワーポイントと同じようなもの)が発売されている。これらは価格も1200円とその種のソフトにしては安価である。買って使っている人の評価もそれほど悪くはない。
 
だから買って使ってみようかとも思うが、そのためにはMac用の同じソフトを買って、パソコンに一度落としてからでないと不安であり、そうなると躊躇するのだ。早くマイクロソフトがiPad用のワードやエクセルのソフトを出してくれることを願うばかりだが、それはそれできっと高いんだろうなぁ。
 
さて、それ以外にビジネスに役立つ使い方はあるのか?

会議の議事録を取ったり、人の話を聞いて文章をまとめるなら、「sound paper」というソフトを使うとかなり楽に行なえる。これは録音機能とメモ機能が合体したもので、会議が始まると同時に録音を開始し、メモを取り始める。会議が終わってそのメモをベースに録音を再生しながら、メモを完璧な文章にしていけば良い。手書きでメモを取ることもでき、再生時にはメモと録音が同期しているという優れものだ。


出版社が電子書籍を本格的に出すのはいつか
 
まだある。私はまだiPadでは試してないが、iPhoneでやっていたように、書籍をスキャンしてpdfファイルかtextファイルにして、電子書籍として読むという方法がある。ハードカバーの書籍は重いので、これは(手間さえ厭わなければ)便利である。
 
もっともそれよりは早くそれぞれの版元が電子書籍を出してくれることのほうがいいわけだが、出版社にいた経験からいえば、まだしばらくかかるだろう。
 
実際には電子書籍にする場合の形式(e-pubなど)をどうするか、それに関わる費用の問題など、クリアしなければならない問題が多いのだ。
 
まぁ、電子書籍はさておき、この他にも使えそうなソフトは怒涛のごとく発売されている。吟味して使えば、どれも役立つに違いない。
 
ま、現在のところでは、これくらいのレビューしかできないが、それでもこのツールは私をワクワクさせてくれるツールであることに変わりはない。
もう少し使い込んだら、またレポートしよう。

(2010・7・7)

【第54回・後編】事業仕分けにも使われる会議室運営会社の売りは多様なソフト

株式会社ティーケーピー

決まったスケジュールで1年間を埋めていく
 
幸いにして、ティーケーピー社長の河野が六本木で託されたような、いわゆる訳ありビルは東京のいたるところにあった。訳ありビルだけではない。どれもが普通の相場の半額以下で借りることができた。それを時間貸しの会議室にしていったのだ。

ここまでの話なら普通の話である。比較的誰でもが容易に取り組むことができるだろう。実は河野が違うのはここからであり、それこそが同社が急成長した理由なのである。
 
まず、訳あり以外の建物で無駄なスペースはないかと考えた。例えば結婚式場なら、平日は比較的空いている。つまりおカネを生み出さないスペースになっているのだ。そこで運営受託方式で、そういうスペースも借りていった。無駄なスペースを埋めてあげれば、先方にもおカネが落ちるから喜ばれた。
 
次に考えたのが、顧客の確保である。同社の貸し会議室は都市部に多い。都市部にある一定規模以上の企業なら研修が行なわれている。これに目を付けた。実際、その規模の企業では新卒の研修から始まり、中間管理職の研修、幹部の研修とそのスケジュールは年間の予定になっている。これを片っ端から営業して歩いた。一般の貸し会場よりも安く、年間で押さえられる便利さは、好意を持って迎えられた。続々と年間でスペースが埋まっていき、それだけで損益分岐点を超えたのだ。
 
これでリスクがなくなった。後は、それ以外の空いているスペースを売って(貸して)いくだけ利益が出る仕組みとなる。貸し会議室のサイトを構築し、ネットで売っていけばそれほど販促費をかけずともビジネスになる。こうして売上げはさらに伸長していったのだ。


会議室ビジネスはハード(部屋)ではなくソフトが決め手
 
しかし、同社のビジネスはそれだけにとどまらない。例えば同社の会議室を借りる場合、飲食を持ち込むことはできない。ホテルなどが飲食付きでないと貸してもらえないことから見れば、それだけでも客のメリットは十分にあるのだが、同社は必要に応じてケータリングサービスを入れたり、いろいろな機器をレンタルで供与している。
「お客さんが必要とするものはこちらが用意する。その方がお客さんが後で片づけをしなくてもすむし、それだけ会議に集中できるでしょう。それが付加価値だと思うんです」
と、河野はいう。お客にとって面倒なことを省いてあげ、結果としてそれが利益にも結びつく、そんなビジネスを河野は志向している。
 
その最たるものが、研修のコンサルティングだろう。企業が研修に会議室を使う場合、多くは研修会社を使う。当然、同社は研修の実態を目の当たりにすることになる。そこで河野は気がついた。
「必ずしも研修の目的に対して、人材コンサルティングなどの研修会社がそのニーズを満たしているとは限らない(河野)」ことに。
 
そこで同社は研修会社別に、どのような研修の場合はどこを使うのがいいかといったメニューを用意した。そして、特に研修会社を決めていないような企業の場合にはその選定や、講師の派遣までやるようになったのだ。
 
こうして、貸し会議室のビジネスはソフトという付加価値をたくさんつけたビジネスへと膨らんでいったのである。


リーマンショック後の危機に迅速に対応
 
こうして書くと、同社が創業以来順風満帆に成長してきたように見えるかもしれない。だが、危険が迫っても素早く柔軟な対応を行なっているからこそ、その成長を持続させ得ているのだということを知る人は少ない。
 
例えば、怪しい会社と間違えられないように信用力を強化しようと、大手企業に株主になってくれと口説いて回ったのはその一つ。
 
また、こんな手も打った。
 
創業当初は会議室の仕入れも順調にいっていたが、徐々に不動産市況の上昇もあり2年ほど前には訳ありといっても比較的高値購入を余儀なくされていた。そこを襲ったのが08年9月のリーマンショックである。たちまち不動産市況は下落した。
その時の河野の対応が素早かった。自分たちが抱えている会議室の価格が相対的に高くなったと踏んだ河野は、スクラップ・アンド・ビルドを決断。すぐさま高値で借りているところを返し、新たなスペースを借りていったのだ。
 
不動産は最悪でも6カ月で解約できる。多少損が出ても、高コストのままの構造で放置していたらとんでもないことになるから「こういうときのために常に現金を用意していた(河野)」という周到さだった。この決断が遅かったらどうだったか。割高の物件を持ったまま、現在のような不況に突入していたら、河野が思い描いたような成長が期待できたかどうか。やはり経営者にとっては決断が命である。
現在同社の売上高は27億円、営業利益は2億円である(いずれも08年度実績)。初年度売上高2億円で始まった同社がわずか5年で急成長したことを数字ははっきりと示している。


ソフト分野の充実が新たな成長を生む
最近、河野は頻繁に渡米するという。行く先はニューヨーク。高級ホテルの宴会場を同じような形で使えないか模索しているのである。
「向こうは宴会場の利用料はめちゃくちゃ高い。夜には20代のビジネスマンはせっせと自己投資する。それなら、同じようなビジネスが可能ではないか」と河野はいうのだ。日本ではホテルの宴会場をティーケーピーの会議室に転用しているケースが増えている。前回書いた幕張のアパホテルはそのいい例だが、その輪を全国の主要都市に広げていきたいと考えているそうだ。
「ホテルにはハードとホスピタリティーはあるが、ソフトがない」という河野の言葉がその意欲を示している。
 
確かにソフトまでできるのは同社だけかもしれない。実際、前述した研修のコンサルティングや講師の派遣、機器のレンタル、ケータリングに加えて最近はテレビ会議システムを導入した。
 
さらには会議室スペースを借りているビル全体の管理業務を請け負えるように、保守管理会社を立ち上げたり、不動産の仲介自体にも乗り出している。
「当面の目標は100億円の売上げ」と河野はいうが、もっとずっと先を見ているのは間違いない。

(2010・5・11)

【第54回・前編】貸し会議室で急成長、伊藤忠元社員のベンチャー魂と目のつけどころ

株式会社ティーケーピー

貸し会議室って儲かるの?

貸し会議室というビジネスがある。そんなものビジネスになるのか? と思う人は多いだろう。何せ時間貸しだ。いつ埋まるとも分からないスペースを開けておくなら、賃貸で貸した方が効率がいいと思うし、別の使い方もあるのではないか、とも。そもそもそんなニーズは世の中にあるのか?

それがあるのだ。しかも頻繁に。

特に大手企業は人事部があらゆる階層の社員に対して研修プログラムを用意している。研修は社内で行なわれることもあるが、外部で行なわれることも多い。大きな会議室といっても、社内では無数の会議ニーズが存在するのでなかなか調整が難しい。したがってある程度まとまった人数の研修を行なうスペースが定期的に必要になる。その最たるものは新入社員研修だ。以前の大手企業なら、箱根や軽井沢の自社研修施設を使うなどということもあっただろうが、現在はもちろんその手の施設は売却してしまった。
 
ホテルなどの施設はそのニーズを満たすが、残念ながら値段が高い。また、食事をセットにしなければ貸してもらえないという場合も多い。どこかに割安で便利に使える研修施設はないのか? ということになるのである。
 
逆に供給サイドに立ってみると、貸し会議室を十分に用意しておけば、事前営業をきっちりやることで、あらかじめ年間スペースを埋める(売上を確定する)ことができる。
 
このニーズに応えたのが株式会社ティーケーピーである。


ホテルの会議室と比べ断然安い価格設定

ネットで「貸し会議室」を検索するとトップに出てくる同社のホームページを開くと、その会議室の多さにちょっとびっくりさせられる。大手町、日本橋、代々木、新宿、八重洲、丸の内、銀座、原宿、品川、三田と枚挙にいとまがない。東京都内だけではない、横浜も幕張も、大阪、名古屋、福岡と主要都市にはことごとく設置しているのだ。
 
しかも同社の運営する会議室は、ホテルなどの宴会場を借りるよりも相当に安い。例えば、幕張のTKP東京ベイ幕張のカンファレンスルームを30人の研修で利用するという場合、1時間1万5750円×3時間=4万7250円だが、同じ幕張でニューオータニ幕張の「ちょこっと会議プラン(3時間:軽食付き)」を利用すると、1人5000円×30人=15万円もかかる。軽食代を差し引いてもどちらが安いか一目瞭然だ。
 
いや、ホテルの雰囲気の方がいいという人もいるかもしれない。ところが、同社の会議室は元幕張プリンスホテルの宴会場を会議室に転用したもので、設備などはきちっとしているのだ。幕張プリンスをアパホテルが買い取り「アパホテル&リゾート<東京ベイ幕張>」となったのは知られているが、アパホテルでは客室だけで採算性を考えており、宴会場は特にニーズがなかった。そこにTKPが話を聞きつけ、宴会場部分を借り受けて、会議室として利用するようになったのである。
 
同社の価格の秘密は、実はこうしたスキームにあるといっていい。


非効率性が存在する分野にビジネスの旨味がある

ティーケーピー社長の河野貴輝が同社を創業したのは05年の8月。そのきっかけが面白いのだが、それはおいおい話そう。
 
河野はそもそも伊藤忠出身である。96年に入社し、証券部門でバリバリの営業マンとして活躍していた。ところが、世はインターネットが急速に普及を見せ、当時の丹羽社長の号令の下、情報と金融を融合させた新プロジェクトの立ち上げを行なうこと事になった。こうしてできたのがカブ・ドットコム証券である。
 
ここで河野は初めてベンチャーの洗礼を受ける。
「土日も家に帰らないで仕事をやっている人たちの姿を見て、『あぁ、これがベンチャーなんだ』と感慨を覚えました」と当時を河野は振り返る。その強烈な印象が、やがては独立へと河野を導いていく。当時の上司が証券の次は銀行だと、ネットバンクを立ち上げるべく動き、一緒に誘われた河野は、ここで伊藤忠を去り独立する事になる。2000年の事だ。
「この独立はホップ・ステップ・ジャンプのステップのつもりだった」と河野は考えていたが、インターネットビジネスはそれほど甘くなかった。
「インターネットオンリーだとゲームとか音楽しかない。しかし、そっちはいわば専門家の世界で自分には経験がない(河野)」
 
だから、いろいろなこと事を考えた。河野の念頭にあったのは非効率の存在するマーケットで「差(利益)」を取るビジネス。「価格が高く設定されていても実際は安い」とか、「価格が低くても実は価値がある」というような状況では非効率性が存在する。それがビジネスになるという考えで、つまりは証券ビジネスでの経験の延長。ところがどれも河野の考えにぴったりと収まる事業はなかなかなかった。


「会議室貸します」で近隣の客が殺到

こうして模索を続けているときに、ある建設会社から話が舞い込んだ。六本木のミッドタウンの近くでビルを借りてくれないかというものだった。そのビル、訳ありビルだった。そのビルを取り壊したかったのだが、2、3階2、3階は立ち退いてくれたものの、1階は店舗が入り営業していたのだ。そこで2、3階をいくらでもいいから借りてくれといわれたのである。結局2フロアを20万円で借り、3階部分をミッドタウンで工事をしている建設会社に事務所として25万円で貸した。これでとりあえず、利益を確保した。そこで考えたあげく、2階部分を貸し会議室にして近隣の企業に貸すことにしたのだ。とはいえ、チラシを作るほど手間もかけられず、ネット上で募集した。ところがそれに企業が殺到したのだ。
 
ここで、河野の賃料を決めるプロセスが面白い。喫茶店で会議をするとしたらどうなるか、と考えたのである。例えばスターバックスで打ち合わせをするとしたら1人当たり300円程度かかる。しかも、1時間くらいが限度だ。
 
それなら1人1時間100円で貸したら、使ってもらえるんじゃないかと考えた。結果としてこれが決め手となり、1日2?3回転して、月100時間の実績となった。1時間平均で5000円として、月額50万円の収入である。
「訳ありのスペースは都内に多い。これはいけるのではないか」
 
河野は本格的にこのビジネスの将来性を模索し始めたのである。

(この項続く)

(2010・4・28)

【番外編・2】「そんなに儲かるなら投資をする」というほどベンチャーは甘くない

指標は改善を見せても実情はまだまだの景気
 
2月の商業販売統計速報が先頃発表された。前年同月比で4.2%の増加で、2ヵ月連続の増加となっている。「ほぉ、物が売れ始めているのか」と思いたくもなるだろうが、昨年の最悪期よりは幾分ましになった程度で(昨年の2月は前年同月比21.5%の減少だった)相変わらず物が売れていない状況は続いている。

景気の実感とは裏腹に、指標を見ていると状況の改善を示す指標がちょこちょこと目立ってきている。だが、こと投資マインドで考えた場合、実態はまだまだである。
 
例えば、IT投資でいうと、各種シンクタンクの調査では相変わらず企業のIT投資意欲は減衰したままだ。このような状況を打開する一つの突破口は大きなブレークスルーを伴った新技術の開発である。
 
4月3日に発売される米アップル社の「iPad」などはそのいい例だろう。この製品は多くのメディアで既に取りざたされているので今さら書く必要もないが、昨年までブームになっていたネットブックというPCと大きさや機能は似ているようにも見えるが、大きく異なる。この「iPad」はPCの延長線上の技術ではなく、全世界の小型音楽プレーヤーの元になった「iPod」や携帯電話の「iPhone」の延長線上にある技術である。その違いに技術や発想のブレークスルーが見えるのだ。
 
それにしても、こうした状況から「技術大国日本」が大きく取り残されている。ソニーが「Walkman」で一世を風靡したのは1980年代初頭で、それから既に30年が過ぎている。


アメリカでは技術のブレークスルーは大学から生まれる
 
私はその原因の一つとして大学の弱体化があると考える。
「教授が自分の会社を持ってないと肩身が狭い」と言い切ったのは、元松下電器産業(現パナソニック)副社長でスタンフォード大学教授を務めた水野博之氏である。今から14年前の話だ。
いささか旧聞に属するこの話をなぜ引っ張ってきたかといえば、日本の現状はそのときと変わってないばかりか、現在の不況もあってさらに悪くなる恐れがあると思うからだ
私はその責任の一端は大学などの教育機関と産業とがきっちり手を取り合って融合していないところにあるからだと考えている。
14年前当時、アメリカはベンチャーが真っ盛りで、日本にも漸くその波が押し寄せようとしている時期だった。スタンフォード大学はその中心的存在で、まさに多くの人材を輩出していた。
例えば、ヤフー創業者のジェリー・ヤングとデイビッド・ファイロがヤフーを創業したのは工学部電機工学科の博士課程に在籍しているときで、その研究の合間に「Yahoo!」を作り上げてしまったというのは有名な話である。
最近ではグーグル創業者のセルゲイ・プリンとラリー・ペイジの二人がいて、やはり大学院生のときにグーグルを創設した。
面白いことにこれほど有名な大学となった同校だが、1940年代頃までは無名の存在だったらしい。当時は圧倒的に東部のハーバード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)などが強く、厳然たる知の基盤を持っていた。
これに対して大学は何をしたか。産学連携ともいうべきスタンフォード・リサーチ・パークを独自に作り、ここに研究開発型企業を集めたのだ。そこから同校の発展が始まった。


ガレージ起業をやる度量とチャレンジ精神があるか
また60年代には、当時のターマン学長が学生だったビル・ヒューレットとデーブ・パッカードの二人を呼び、事業を起こすことを勧めただけでなく、自らのガレージを仕事場にとあてがったそうだ。
これがヒューレット・パッカードのスタートであり、「ガレージ起業」の言葉の起こりともなっている。
考えてみるとこの10年、似たような動きが日本でもあった。
98年には、大学で生まれた技術が民間に移転されるべく、TLO(技術移転機関:Technology Licensing Organization)法が施行され、東京大学の先端科学技術イノベーションセンターや京都大学など関西の大学で作った関西TLOなど、17件ものTLOが設立された。実際に大学発ベンチャーとして会社がつくられもした。
しかし、それが機能したか。答えはNOである。
では何が違うのだろう、とは考えない方がいいのかもしれない。それ位あまりにすべてが違いすぎているからだ。
恐らくチャレンジ精神というものが日本とかの国では違うのだ。
冒頭で紹介した水野さんも、最近の『週刊東洋経済』でこんな意見を披瀝している。曰く。
「大切なことは既成の概念にチャレンジできるか、そして社会がそれを許容するかどうか」
 
その通りなのだろう。
しかし、それにしてもと思うこんな例もある。
グーグルが上場した際にスタンフォード大学が得た株式売買益は3億3600万ドルにも及んだ。
そんなに儲かるなら、俺だってやる――というわけにもいくまい。

(2010・4・1)

【第53回・後編】一泊109円をもらえる旅行代理店を急成長させた「お試し」のモデル

クーコム株式会社

信用してくれない人に綴った3ページにもわたるメッセージ
 
クーコム株式会社の会員が増え始めたのは、ネットでサービスを開始して1年ほど経ってからである。1泊1200円という信じられないような値段設定で逆に不審がられたものの、やはり価格の魅力の力は大きくそれが支えになっていたのだ。とはいえ会員数はまだ微々たるもの。それでも問題は絶えない。今度はサーバーに問題が起きた。

もともとこのサービスを行なうときに、プロバイダーから商売に使うなといわれていたのを、その会社の社長に説明に行き、社会的意義のあるものだからどんどんやれと励まされてスタートしていたのだが、1年ほど経つと「うちのサーバーから出て行ってくれ」といわれたのだ。
「そのサーバーは何100人で共用していたのですが、実は回線の98%をわれわれで使っていたことが分かったんです」と西村は述懐する。
 
会員数こそまだ増えていなかったが、問い合わせが急増したことでサーバーを独り占めする結果となってしまったのだ。
 
そのとき西村は考えた。見に来てくれる人がこんなにいるのに、なぜ会員数は少ないんだろう。素朴な疑問だった。だから、「信用できない」と文句を付けてきた人がいれば、用紙3ページにびっしりとこのビジネスの意義を書いて戻した。それで「感動した」といって会員になる人もいたほどだ。


詐欺の会社か、凄く強いネットワークを持っている会社
 
転機はやがて訪れた。興味はあるのに今ひとつ信用できないと考える人がいるなら、一度試してもらえばいいんじゃないか、と西村は考えたのだ。
 
このお試し会員制度がこのビジネスを爆発させることになる。
「使ったら一人840円をいただくということにしたんです。すると、それまで100~200人くらいしか会員がいなかったのが、一気に1万人になったのです(西村)」
 
一度お試しで会員になった人はそのとき1回しか使えない。しかし、その格安の体験を味わうと、このサービスを信頼するようになる。そういう人たちが、正会員になっていったというわけだ。
 
こうして事業開始から1年半ほど経つと、そこそこの利益が出始めた。それまでは一人でガムシャラにやっていたビジネスだが、営業のできる先輩や弟などを引き込み4人の体制を作り、自宅を出て事務所も借りた。
 
この頃、まだ自宅でやっているぎりぎりのときに一人の男が訪ねてきた。それが日本ベンチャーキャピタルの社長・奥原主一だった。日本ベンチャーキャピタルの役員構成を見ると、奥原の交友関係の一端が分かろうというものだが、取締役には名だたる財界人が20人近くも名を連ねている。
 
その奥原がこのクーコムに注目したのだ。
「うちの会社のことを、詐欺の会社か、もしくは凄く強いネットワークを持っているやつがやっている会社かそのどちらかだ、という感触を持って来られたようです」と西村は当時を振り返る。結果として西村は認められ、そして「そろそろ予約システムを作らないと回らなくなる」と指摘された。
 
そして増資をした。会員登録の自動化、予約の自動化などが行なわれた。


空いているところに客を送るといっても断る業界慣習
 
さて、会員数は増えていったが、肝心の旅館の方はどうだったか。現在3000軒の旅館やリゾートホテルが同社の会員を受け入れているが、最初はやはり大変だった。
「最初の頃、旅館にはパソコンがない、インターネットもつないでない、という環境でしたからね」と西村はいう。それに加えて、旧態依然とした業界の観衆や雰囲気があった。「空いているところにお客を送ってあげるといっても、『いやいらない』という状況のところが多かった(西村)」から当然プランも同社サイドで作って持っていった。
 
宿から1円も貰わない同社の仕組みにおいても、旅館を説得するのが難しいとしたら、業界はいったい何をやっているのかと思ってしまうが、それがまた現実なのだろう。こういう商慣習のなかで会員数や参加旅館を伸ばしていけたのは、ひとえに西村の思いによるところ大なのだ。
 
それは、会員にとって不透明なところをなくし、会員にも意見をいってもらいながら旅行業を変えていきたいという思いである。
 
前回紹介した同社ホームページに掲載されている社長のメッセージは、そんな熱い思いの集積だし、その良さを広めたいという熱心さの現れである。
 
考えてみると、泊るとただどころか109円貰えるという宿も、仮に同社が25000円で仕入れたとして、それによる集客効果が高いならば宣伝広告費として十分にペイする話である。


インバウンドをやるときはアウトバウンドも一緒にやる
 
旅行業界では、昨2009年がネット旅行事業元年といわれている。最大手のJTBが200店舗を閉鎖し、ネットに展開していくことを発表した。
 
そんななか、同社は旅館だけでなく新たな展開を次々と見せている。
 
その一つがレンタカーだ。あまり知られてないが、同社はレンタカーのアウトレットも行なっている。
 
そのサイトを見てみよう。会員になると各社のレンタカーが最大で50%オフ、54%オフ、最大77%オフなどの魅力的なコピーが並んでいる。面白いのはこれを利用する人の半分くらいがインバウンド(外国からの)客なのだそうだ。
「インバウンドはこれから大きくなる市場です」と西村は指摘するが、まだまだ課題も多いという。現地に根付かないと、向こうからの集客は難しいのだそうだ。それでも西村の目はその将来を見据えているように見える。
「インバウンドをやるときはアウトバウンド(外国への旅行)も一緒にやります」と抱負を語るのだ。
 
現在、同社の会員数は90万人である。その数の評価を西村に問うと、「まだまだ少ない」と答えた。楽天トラベルの売上は2800億円。せめてあと10倍にしたいというのが本音なのだろう。
 
最後に聞かずもがなのことを聞いた。
「そもそも日本には宿が多すぎるのではないか」と。
 それに対する西村の答えは明確なものだった。
「満足度が低いから客が減っているだけです」

(2010・3・10)

【第53回・前編】一泊すると109円をもらえる!? 特異な旅行代理店のユーザー本位経営

クーコム株式会社 

格安の旅館・ホテルがふんだんに掲載されたサイト
 
急成長している会社に勢いがあるのは当たり前だが、得てしてその勢いのよさが独りよがりだったりするものだ。しかし、本当に真っ当な勢いのある会社は見ていても話を聞いても清々しい。そんな会社の一つにあげてもいいだろう、それがクーコム株式会社である。

その象徴ともいうべきものが同社のホームページ上にある社長のメッセージだ。社長のメッセージに共感を覚えたのは、テンポスバスターズ前社長の森下篤史のメッセージ以来だが、同社社長の西村恵治のメッセージは鮮烈で澱みがない。
 
その前に、同社は何をやっている会社かを説明しておこう。一言でいえば、ネットの旅行代理店である。こう書くと「なぁーんだ」という反応があるかもしれないが、そんじょそこらのネットの旅行代理店とは違う。
 
同社はトクー!トラベルというサイトを運営しているが、キャッチフレーズは「旅館ホテルのアウトレット! 直前予約のトクー!」である。これもよくある話で、そもそも旅館やホテルに安く泊れる料金設定になっているし、その価格は直前になるほど安いというサイトはいっぱいある。でもちょっと違うのはそのサイトの右側を見ると、「マイナストクー!市」というコーナーがあり、一泊すると109円お金をもらえる旅館やホテルの案内が出ていることだ。
「鬼怒川仁王尊プラザ 朝食付き ―109円(つまり109円もらえる)」! そんな馬鹿なと思うが、本当である。ちなみに今週の―109円の旅館・ホテルは20軒掲載してある。どれも25000円クラスの宿が、ただどころか109円もらえる。毎週金曜日の15時に予約開始となっている。早い者勝ちだが、109円をもらえる宿以外にも、109円で泊れるホテルや最大45%オフで2食付き13,000円が7100円から、などがあり魅力は一杯だ。


ホームページ上に掲載された社長メッセージの熱っぽさ
 
さて、同社社長西村のメッセージの話に戻ろう。ホームページ上に400字詰め原稿用紙に換算して15枚にも及ぶ大作のメッセージである。読み進めるとどんどんと話が広がっていくが、その話に通底しているのは旅に対する西村の熱情である。例えば、なぜこのビジネスを始めたかというくだりはこんな風に書かれている。ちょっと引用してみよう。

*********

ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、私どもの出発点は、「空いている部屋を利用して安価な旅を提供したい」という想いをその名に表した「あき宿倶楽部」にあります。

「どうして一泊二食しかないの?」
「平日はガラガラなのに何故こんなに高い料金設定なの?」
「旅行代理店の手数料が高すぎるのでは?」
「何故パッケージ旅行は安く個人旅行は高いの?」
旅行をするたびに、いつもこのような思いを抱いていました。
ユーザーを無視し、業者間だけですべてを決めてしまうような、古く歪な業界の体質を、何故誰も変えようとしないのだろうか、と。

「サークル的なものでもいいから、自由に自分の好きな旅行を楽しめるサービスをやってみたい」。
まさに一ユーザーの視点でスタートしたのが「あき宿倶楽部」でした。

10万円の資金とパソコン1台に電話1台、自宅マンションの一室からはじめたビジネス とも趣味ともいえないサービスです。旅行業の経験もないままにスタートしたため、宿と何を交渉するべきかわからず、専門用語も全く理解できず、大変苦労したことが思い出されます。

*********

 
誰もが考え、誰もが疑問に思うようなところからのスタートであることがよく分かる文章だ。このような思いが全編にわたって綴られているのである。普通の企業ホームページにおける社長のメッセージなどは、はっきり言っておざなりのものが多い。そのなかで、このメッセージは異彩を放っている。
「本当はもっと長かったんですが、社員に切られてしまった」と西村は述懐する。
 
西村は、ありきたりの字面のいいことを並べても意味がないという。新しい仕組みを作って展開しているので、その思いを伝えなければ駄目だというのだ。理解してもらうためにははっきりものを言うし、言った以上はやらなければならないという信念があるのだ。外に向けてだけではない。メッセージの伝達は社員にも及ぶ。言葉だけでなく、社員の誕生日にはプレゼントをする。家族や子ども、両親にもメッセージカードを送る。


安すぎてまったく信用されなかった
 
西村がこのクーコムを創業したきっかけは、引用したメッセージに書かれているのでここでは触れない。当時大手広告代理店の関連会社にいた西村は、ガラガラの時なら安くても売りたいに違いないし、そういう会員組織があるに違いないと探してみたら、なかったのだ。
 
スタートは97年10月。「こんなのをやります。参加しませんか」と企画書を書いて1000軒以上の旅館に送った。42軒の宿から参加のする旨の同意を得られた。
 
ここで西村は、旅館からコミッションをいっさい取らないと決めた。旅行代理店は高額のコミッションを取る。旅館もお客を運んできてくれるから、そのコミッションを払う。値段は高くし、他方がそれぞれに利するから2食つけて高く設定する。それだけならみんなハッピーのようだが、それで割を食うのは本来一番大切にされなければいけないユーザーだ。だから西村は「泊食分離」を謳った。コミッションを取らない代わりにユーザーから会費を取った。明朗な料金体系が生まれたのである。
 
しかし、それからが大変だった。まず最初は会員を集めることである。「1泊1200円から」と広告すると、問い合わせは多い。ところが、まったく信用されなかった。会員制で、前金で5000円から1万円という年会費を払う人はいなかったのだ。
 
収入はないので友人の会社を手伝いながら生活費を稼ぎ、なんとか生計を立てたがそれでも電気や水道を止められた。
 
会員が増えると、会報を作り、郵送をしたがコストがかかり過ぎ2、3回で止めた。そこでネットに着目した。会員が全国にいてもオーケーだ。しかし、今のようなインターネット網が整備されていたわけではない。料金が安く、ネットもつなぎ放題だった夜の10時から朝6時までを利用した。
「おおよそカネのかからないことは全部やりました(西村)」という言葉がその苦労を物語っている。

(次回に続く)

(2010・3・4)

【番外編】民主党政権は起業にチャンス!

民主党政権が誕生して5ヵ月近くが経過した。100日といわれるハネムーン期間も終了し、通常国会では補正予算が通り、現在本予算の審議中である。それほどテレビには出てこないが。
 
ここのところ、新政権への反応を聞くために経営者に話を聞いている。また、民主党議員にも何人か会って話を聞いた。

まず、経営者の反応からいえば、政権交代についてはほとんどの経営者がよい方に評価している。また、昨年11月に行なわれた事業仕分けなどの例を挙げて、その効果を論じる人は多い。
 
ところがずっと懸念されている点がある。それは経済政策についてである。これについては、少し分けて考えなければならないだろう。一つは短期的な見方。もう一つは中長期的な観点である。
 
まず短期的な懸念でいえば、当面の景気対策ということになる。現政権の政策が現金をばらまく形での支援に偏っているため、支出の増大と歳入とが合わず、大幅な赤字国債を発行する形になっている。
 
先日、経済通で知られる五十嵐文彦衆議院議員に話を聞くと、短期的な景気の見通しについては、下ぶれリスクはあるものの、民主党の政策である子ども手当や高速道路無料化を実行することによって、年後半には景気は緩やかではあるが浮上するという見通しを示した。

 
そのインタビューのなかで私が注目したのは、五十嵐議員が中長期的な意味合いで、特区の問題に焦点を当てて話したことだ。
 
今回で第17次の募集になるこの特区について、補助金が出るわけではないがといいつつ、従来は膨大なアイディアが国民から寄せられたものの、物になった事業は少なかったと分析した。
 
ただし、なぜ物にならなかったかといえば、事業そのものに魅力があっても、むしろ役人の都合や縄張り争いの狭間にあってつぶされてきた感が強い。
 
だからその観点に立って特区事業を見直し、これは物になるという事業については、さまざまな既存の補助制度を使いながらやっていきたい、と語ったのである。その意味で有望な事業については、政権が各省庁に働きかけて、補助事業とのセットでもって、新しい産業が生まれるようにしていきたい、ということなのだ。
 
五十嵐氏は同時に日本のベンチャー企業、特に世界的な技術を持ちながら発展が遮られてしまっているようなベンチャーの技術にも目を向ける考えを示した。こうした中長期的な戦略は、もちろん国家戦略室が描く「成長戦略」にも共通している考えだ。

 
その成長戦略は大きく下記の4つの戦略から成っている。

・ グリーンイノベーションによる環境・エネルギー大国戦略
・ ライフイノベーションによる健康大国戦略
・ アジア経済戦略
・ 観光立国・地域活性化戦略

 
例えば、グリーンイノベーションであれば、エコ住宅、次世代自動車、電池などが具体的テーマとなってくるだろうし、ライフイノベーションであればバリアフリー、新しい医療や介護、元気な高齢者の活用などがあげられるだろう。このように考えていけば、国の戦略に乗った形で事業戦略を構築することができ、しかも従来型の既得権益と一線を画している現政権の下でならば、ベンチャー企業が入り込む余地も十分にあるといえよう。新たな視点でビジネスを起こす機会としてとらえるなら、今がチャンスといえるかもしれない。
五十嵐議員のインタビューを掲載、放映中。詳しくは、http://democrat.jp
まで。

(2010・2・9)

【第52回】医師免許取得社長が始めた「サイトに集客」ビジネス高利益の秘密

株式会社 DYM

実績以上に大きな成長力を秘めた会社
 
面白い会社が出現したものだ。サイトで売上アップを保証してくれるのだという。
「とにかくわれわれに任せてくれれば、絶対に売上を上げる。報酬は成果報酬で構いません」と社長は淡々と語る。成果報酬ということだから、売上が上がらなければ報酬はないに等しいわけだから、これは相当な自信と裏付けがないとできないビジネスだ。
「そんなことができるんですか」と尋ねると
「できます」と単刀直入な答えが返ってくる。

面白いと冒頭に書いたが、凄いと言い直した方がいいかもしれない。
 
その会社はDYMという。創業してまだ3年未満の会社だが、売上10億円、経常利益は2億円を計上している。この数字だけを見ても、成長性のありそうないい会社をイメージできる。しかし、実際はもっと大きな成長力を秘めた会社である。
 
業種は俗にいうSEO(Search Engine Optimization:サーチエンジンを最適化)。つまりウェブサイトでキーワードを検索したときに自社のウェブサイトが検索結果の上位にいくように表示するためのさまざまな手法を総称していう。だれもが自ウェブサイトに人を集めたい。そのためにはSEOを利用するというわけだ。また、風評被害に遭うサイトも多いが、同社のサービスはそうした被害からも守ってくれる。
 
創業者は水谷佑毅。1980年生まれだから今年で30歳になる。まだ大学を出てそれほど経っていないというこの社長の経歴がまたユニークだ。


医師になるついでのバイト感覚で高収入
 
水谷は杏林大学医学部の出身。医師免許も取得しているれっきとした医師である。しかし、水谷は学生時代から副業に精を出していた。
「医学部はカネがかかるし、そこまで親に面倒を見てもらえないから、自分で小遣い稼ぎをやろうと思ったんです(水谷)」という。つまりアルバイト感覚で始めたのが、待ち受け画像のサイト運営だった。同じ小遣い稼ぎをするならラクして儲けたいという動機からだったが、これがヒットした。
 
ちょうど2000年くらいの話である。まだ、世の中はパソコンやインターネットの普及が急速に進展している最中で、東京渋谷に「ビットバレー」なる構想が生まれ、この手の話に盛り上がっていた。これが儲かった。なぜか、誰もやってなかったからだ。これが数年間続いた。その販売が下火になった頃、次に考えたのは無料のホームページ構築サイトだった。これも手がけている企業がなく、大きな利益を生んだ。
 
どちらも、今でいうブルーオーシャン戦略である。競争が激しい故に血で赤く染まったレッドオーシャンではなく、まだ誰もが参入していない青い海を目指していたのだ。
 
他にも掲示板のレンタルサイトや、いろいろな商品やサービスの比較サイトを作っていったが「バイトの感覚の割には収入が多かったから(水谷)」次々に投資にまわしていけたのだという。2003年には有限会社として法人化も果たしている。


普通の企業はマネジメント力はあっても商材が弱い
 
水谷は医学部の5、6年になった時、今度は医者の世界の「遅れ」を目の当たりにすることになる。
「病院というのはIT化が遅れていて、データベースなど完備していなかった。だから患者を2~3時間待たせても平気だし、待ち時間表示などすぐできるのにそれすらしていなかった」と水谷が回想するように、医療業界はITの分野では非常に遅れていた。
 
そこで、水谷は考えた。この業界をなんとかしなければならないし、それが自分にはできると。そこで医者への道を止め、アルバイト感覚で続けていた事業を、2007年4月の卒業と同時に株式会社組織にし、資本金を1000万円に増資した。いわば第二創業期の始まりである。
 
さて、同社がなぜこのように順調に伸びているかといえば、ひとえに水谷自身の商品開発力による。ではその開発力とは何だろう。ブルーオーシャンはどんどんなくなってきている今においても
「普通の企業を見ていると、マネジメント力はあっても商材の開発力が弱い会社が多い」と、水谷はいう。
 
では、いい商材とは何か。水谷によれば「営業マンが売りやすい、どんな会社にも通用する商材」なのだそうだ。SEOだからいろいろな手法を駆使してお客をサイトに呼び込んでくるわけだが、そのメニューが極めて豊富なのが同社の特色なのだという。
 
それを牛丼店に例え、「他は吉野家、うちは松屋。吉野家が牛丼オンリーなのに対し、豚丼やらいろいろある」と解説してくれる。他社がメニュー5種類を用意しているとしたら、同社は70種類くらい用意しているというのである。だから営業マンもいろいろな提案ができるし、顧客もいろいろななかから選べるから、満足度が高いのだ。しかも、成果報酬型だから、顧客にはリスクを気にせずにすむ安心感がある。

SEOの分野でトップになることが当面の目標
 
こうした商材の充実によって、「成功」を導きだすのが同社の強みで、しかも成功報酬型で利益を得るビジネスモデルだとすれば、当然利益率は高くなる。成功報酬型の場合、当然マージンを高く設定できるからだ。同社の利益率は約8割。「成功」が条件という厳しいハードル故の高利益である。
 
冒頭に同社の実績は10億円で利益2億円と書いた。ということはつまり相当の金額を新商材の開発や人材の確保などの投資に使っているということにもなる。しかし、今は利益が2億円でも、売上がさらに伸びていけば利益は今後大幅に拡大するだろう。現在かけている経費は固定的費用であり、売上の伸長によって膨らむタイプの費用ではないからだ。
 
現在快進撃中の同社だが、水谷はどういう構想を持っているのか。
「一言でいえばITと医療の分野で世界のナンバーワン企業になりたい」という。そのためにはまずSEOの分野で1位になること。トップを走っている企業の売上が20億円だから「そんなに難しくはない(水谷)」とも。さらに 新たな商材の開発も進んでいるようだ。
その新商材とは医療の世界に戻っていく第一弾ともいえる「クリニックへの集客」の商材だ。利益が急減し経営が難しくなっている病院は多いから、この分野は有望だ。何よりも社長自身が医者である。


2年後には年商50~60億円、上場も視野に
 
そして、水谷は地方への営業を拡充していきたいともいった。
「地方の商店街の現状は大変です。切実さが違う。でもわれわれの仕組みを使えば2万円の投資でお客を呼ぶ手立てを考えられる」と水谷は淡々と語る。
 
確かに、経済の疲弊は地方都市にこそ及んでいる。そんな地域の企業や商店でも、安い値段でこのサービスを導入できるとしたら、重要なツールになるだろう。
しかし、1件の売上が2万円程度では非効率ではないかと聞くと、水谷からすぐに答えが返ってきた。
「2万円の売上でも1万6000円が利益になります」
 
確かにそれを集積していくことは重要には違いない。 
 
こうして水谷の話を聞いていくと、2年後には売上高50~60億円という目標も問題なくクリアーできそうに思えてくる。上場はどうかと最後に尋ねると、「2年半後には」とこれも淡々と答えてくれた。

(2010・1・26)

【第51回】愚直さと先見性とで周到なWeb戦略を構築するコンサルティング会社

デジタルワン株式会社 

コンサルした企業は確実に売上げ伸長
 
新聞やテレビ、雑誌など既存広告メディアが急速に力を失いつつあるなかで、勢いを増しているのがインターネットというメディアであることは今や小学生でも知っていることだが、実はその最大の効果は「広告」や「販売」ではなく「販売促進」にあるという現実は、認識されているようで案外無視されていることかもしれない。

「ネット広告」や「ネット通販」という言葉のなかには、実は「ネット販売促進」という要素が含まれていて、サイトというのは「イベントの場」であったり「店頭」であったりするのだ。店頭だったら販売員が声をかけるだろうし、お客の顔色を見る。商品にはPOPをつけて、魅力を柔らかな言葉で説明するだろう。だが、このサイトを紙の延長線にあるもののように考えている人が、まだまだ多いのが現実である。
 
そんななかで、この種の考え方をはっきりと定め、ビジネスとして実行している会社がある。それはデジタルワン(株)という会社だ。
 
デジタルワンはコンサルティング会社である。何をコンサルティングするかといえば、ネットでいかに売上を上げるかについてである。このことにこだわって、そのためにはありとあらゆることを考え実行し、そして成果を上げる。同社ではこれを「e販」と呼んでいる。
「ウチは単にサイトを作るということはやりません。Web戦略を立て、事業計画や予算の設計を行ない、その後Webの企画設計を行ない、その上で制作します。重要なのは新しく構築したサイトをリリースした後のフォローです」と語るのは同社の創業社長、中谷泰志である。リリースした後のフォローとは、つまるところ最初に立てた事業計画が予定通りにいっているかのチェックであり、うまくいっていなければ改善していくというもの。多くの同業者が作りっぱなしであることを考えれば、これは希有な例といっていいだろう。なにせ、収益に責任を持つということなのだから。
 
これが同社のいうコンサルティングなのである。


ユーザーに同行してまで行動調査を行なう
 
同社のコンサルティング成功例はさまざまだが、特に大手K書店の例はなかなか興味深いので紹介しよう。
 
K書店のウェブサイトによる販売事業は96年にスタートした。ところが2000年にアマゾンジャパンが設立され、後じんを拝するようになった。売上げは数億円しかない現状から、何とか売上げを上げるサイトのリニューアルを求めていたのである。
 
結論からいえば、このリニューアルによって売上げを従来の140%にまで伸長させた。
 
では、何を行なったのか。そこに同社の秘密がある。秘密といっても愚直なまでの理詰めの方法である。
 
まず同社が行なったのは、既存サイトの分析だった。売上げ規模、ユーザーのアクセス状況、ユーザーの層や質......。こうした分析から、ユーザーをヘビーから休眠まで分類し、男女比、平均年齢なども把握した。もちろん購買理由や休眠ユーザーがなぜ購入しなくなったのかといった理由も俎上に載せた。
 
面白いのは、こうして分析した結論から、ユーザー像を導きだしたところにある。例えば、平均年齢43歳。男子で既婚、子供2人といった具合だ。ここで重要な点は、これがアンケートなどによる平均値から導きだされたユーザー像ではないという点だ。あくまで、実在する一人の人物からユーザー像をあぶり出したのである。
 
そして今度は、そのユーザーの行動を徹底的に洗い出す。例えば、ヘビーユーザーが実際のお店ではどんな選び方や買い方をするのか、同行して徹底的に調査した。その客の生の声はもちろん、1日の生活パターンまで徹底して調べた。
 
また同時に書店の店員にもインタビューし、自店の強み、商品の訴求方法などを細かく聞き出した。もちろん同業の他店にも足を伸ばし、何が違うのかも調べた。こうすることで、自ずと他社との差別化のポイントも浮かび上がってきたというわけだ。
 
そして、最終的にWeb戦略を立案したのである。
 
面白いのは、例えばK書店では、店内での特徴の一つに、注目書籍には軒並み手書きのPOPを立てているということがあった。一方、ユーザーの同行調査からもこのPOPを見て買う頻度が高いことを知った。そこで、その機能を工夫してWeb上に展開したことである。


日本のECはまだまだ伸びる
 
同社は前述したようなユーザー像や自店の特徴などを徹底して調べ、把握することを「ジツザイ化」と呼んでいる。この作業は書いてしまうと、簡単な作業のようにしか見えないが、実際には手間と根気を要するのだ。
 
これと似た作業は、例えば新雑誌の創刊などでも行なわれる。読者像を前述したように「平均年齢43歳。男子で既婚、子供2人」と決めたら、その人の特徴を徹底して洗い出し、趣味や持ち物から1日の生活パターンまで把握した上で、雑誌の企画内容を導きだしていくのである。
 
もしそれが曖昧だと、決していい雑誌は生まれない。逆にいえば、この作業を徹底して行なうほど、ユーザー像が「ジツザイ化」してくるのである。
 
同社はこうした説得力のある実例を紹介するセミナーを定期的に行なっている。もちろん入場無料。集まった人たちの90%以上が納得し、顧客予備軍として帰っていく。
 
考えてみれば、エレクトリック・コマース(EC)が本格化してまだ10年足らずである。多くの企業がホームページや通販サイトを作っても、それが本当に機能しているのはごくわずか。成熟化していくのはむしろこれからである。
「日本のECは対前年比で 21.7%伸びて 5.3兆円になりましたが、日本の小売り全体では135兆円です。だから、まだまだ伸びる余地がある(中谷)」のだ。


コンサルから一歩進んでパッケージ販売
 
しかし、考えてみれば、ここまでWeb戦略を知りつくし、調べ尽している同社がコンサルティングだけを行なっているのはもったいないという気にもなる。なぜなら、これらのノウハウを使えば、自社でビジネスができる素地が十分にあるからだ。
 
このことを中谷に問うと、あくまで事業計画からフォローまでというオールインワンのコンサルティングに拘る姿勢は示しながらも、新たな展開を模索している点も披瀝してくれた。その一つが業界別のパッケージ化。
 
例えば歯科医向けには、あらかじめ調べたノウハウに基づいて『だれでも!歯科サイト制作』というパッケージを作り、2009年3月から販売をしているのだ。
 
なぜ歯科医かといえば、「全国に約6万8000軒の歯科医が存在し、HPの普及率が30%と低い業種だから(中谷)」だそうだ。あくまで周到な戦略に基づいて行なっているのだ。
 
同社の設立は2004年12月。社長の中谷は富士ゼロックスでトップ営業マンであり、同社の第一選抜で進んできた男である。しかし2001年に、後に日本最大の壁紙サイトとなる壁紙ドットコム(株)を設立し、その後東証一部のグローバルメディアオンライン(株)の営業担当取締役として活躍してきた。ネットビジネスを裏も表も知りつくした男といっていいだろう。だからこその同社の戦略なのである。
 
ネットビジネスが普及し、この分野でもSEOなどで顧客の注目度を高める戦略はずいぶん構築されてきた。しかし、今後ネット戦略がますます重要なファクターになるに連れて、同社のようなきめ細かく、しかも地に足の着いた戦略の構築が求められてくるに違いない。
 
そういう意味で、同社は間違いなく時代の先頭を走っている会社である。

(2010・1・13)

【第50回】常識を超えた水と油の融合技術で青森ひばを世界に広げる

株式会社ひば倶楽部 

スプレーしておけばゴキブリも蚊もやってこない
 
青森ひばという木をご存知だろうか。といっても多くの方はピンと来ないだろう。それでは質問を変えて、ヒノキチオールという言葉を聞いたことはあるだろうか? われわれの健康志向が進むなかで、ヒノキチオールは抗菌性に優れ、防カビ、防虫効果もあり、しかも匂いが清々しいということで注目されている。

このヒノキチオールを最も含むのが青森産の青森ひばである。青森ひばが製材された後のおが粉などの廃材を蒸留してできるのが「青森ひば油」である。この油は100キログラムのひば材から僅か1キログラムしか得られない貴重なもので、このひば油に約2%のヒノキチオールが含有されている。
 
余談だが、実はヒノキにはこのヒノキチオールがほとんど含まれていない。1936年に台湾帝国大学(現台湾大学)の野副鉄男教授が台湾ヒノキから発見したことにより命名されたので、ヒノキチオールという名前がついたというのが真相だ。
 
さて本題はこれからで、この青森ひばを活用して新しいビジネスを起こしているのが(株)ひば倶楽部の代表取締役沼田大策である。
 
同社の商品のなかで最も注目すべきは「ひば健香水」という商品だ。ひばの成分(ヒノキチオール)が入ったひば油を水に溶かした商品で、スプレータイプになっており、除菌、消臭、防虫、そして精神安定に効果を発揮する。いつでもスプレーで吹きかけることができ、肌にもべとつかない。もちろん副作用もないので大変便利な代物だ。香りがいいのはいうに及ばず、カビを防げるし、ゴキブリや蚊もスプレーしておくだけで寄せ付けない。しかも、同社では一切謳っていないが、ブログなどを見るとアトピーに効くといった報告もあり、その可能性は大いに広がる。


専門家が否定したことを実現した画期的技術
 
この商品について「ひば油を水に溶かした」と書いた。さも簡単そうであるが実は違う。その前にまず、知っておかなければならないのは社長の沼田はいわゆる学者ではなく、ひばの使い方を熱心に研究してはきたが、市井の研究者であるという点だ。
 
そして、もう一つ知っておかねばならないのは、そもそも専門家の間では、ひば油は水には溶けないといわれていたことである。
 
だから通常はアルコールで希釈するか、乳化剤を用いなければならなかったのだが、アルコールを使うとコスト面からも安全性からも問題があるため、乳化剤を使って水に希釈するのがいいのではないかといわれていた。たとえこの方法をとったとしても、ひば油を水で希釈することができるなら、用途は間違いなく広がるといわれていた。
 
ところが同社は、というより沼田は、そんなまどろこしいことをせず、つまり乳化剤を使わずに水と油を融合させたのだ。ちなみにこの技術は特許申請済みである。
 
水と油の融合ムム。それができればベストの選択ではあるのだが、しかし専門家にできないという技術をなぜ沼田は可能にしたのか。
 
なぜそんなことができたのか。それには沼田がこのビジネスに取り組んできた歴史を紐解かなくてはならない。
 
沼田は勤務先の会社が倒産後、建設会社にアルバイトのような形で勤務していた。その建設会社が家の土台や幅木、窓の桟などに使用していたのが青森ひばだった。その社長がひば好きだったのだ。ひばの廃材が山積みされていた。しかもビニールに包んで香りを保管していた。それを見て、沼田は「何かできるんじゃないか」と考えた。まず、乾燥した木の破片に湿気を与えると香りが甦ってきた。今度は木に穴をあけそこに水を垂らした。それも一つの穴は木を貫通させ、もう一つの穴は貫通させずに水がたまるようにした。そうすると香りが甦り、長持ちすることが分かった。
 
くるんでいたビニールの上からもひばは匂いを発散させることに気がついたのもその頃だった。ビニールは空気や水は通さないが香りは通過させる。空気を通さないということは酸化しにくい。そこでひばのおがくずをビニールに入れ、ひば油を含浸させた。それだけだとビニールがひば油を通すので、べとついてくる。そこで、不織布をビニールの上からかぶせた。


世界規模に広がる可能性を見せるひばの力
 
こうした試行錯誤を繰り返し、でき上がったのが「香り袋」である。当然アルバイト先は辞めたが、ひばを使った商品の研究開発にはのめり込んでいった。そして次に試みたのがひば油を水で希釈することだった。
「ひば油は分子が細かい。水に希釈するためには油が多いと駄目で、しかし、油が少ないと薄くなり、それだけ効果が低くなる。できる限り濃くしたいので、水と油の割合をぎりぎりのところでやっている」と沼田は説明するが、それ以上の細かい説明は聞けなかった。特許を(申請済みだが)公開していないという状況ではやむを得ないのかもしれない。
 
香り袋や健香水以外にも沼田の挑戦は続いている。
 
その代表格が「アロマテラピーの家」だろう。これは夢の話ではない。
「技術的にはそんなに難しい話ではありません。天井裏と床にこのひばの香袋(商品名は『ひば材』)を配置し、パイプを通して空気を回すのです。それによってひばの香り(と効用)が家全体に回るようになります(沼田)」。これにより、防菌、防カビ、防虫効果があり、しかも清々しい気分にさせてくれる、まさにアロマテラピーの家ができるというわけだ。
「最近、200年住宅ということがよくいわれていますが、この200年住宅というのは、すぐ修理ができるよう部分的にいろいろな箇所が取り外せるようになっているのです。ということは、そういう箇所に香り袋を置いておくこともできる(沼田)」らしい。現在参加工務店を募集中である。
 
また、もっと広がりのある話も俎上に上っている。それはインドネシアの話だ。
 
インドネシアではデング熱がまだ多く、その媒介をする蚊に悩まされている。インドネシアにいる日本人の「ひば健香水」愛用者が、蚊の予防にこれが効くのではないかと試しているのだという。しかも現地は高温で湿度が高く、カメラやビデオなどを1週間も放置しておくとレンズにカビが生えてしまうので、これも実験を始めたそうで、こうした情報が沼田のところには日々伝えられているのである。
 
現地で実用化されるかどうかはこれからの話だが、ポイントはこうした商品がいとも簡単にネットを通じて広がっていくということだ。同社の規模は決して大きくない。むしろ零細企業といっても差し支えないだろう。しかし、ネット社会における可能性という意味で考えると、この広がりはとてつもなく大きく見えてくる。

(2009・12・22)

【第49回】専門老舗出版社が見せる、機動力ある超堅実経営の実像

有限会社モデルアート 

映画上映前から即日完売の出版物
 
まだ映画が上映前だというのに、その映画に関連した1冊の本がベストセラーの兆しを見せている。1800円という比較的高い値段が付けられているにもかかわらず、セブン&アイ傘下のコンビニなどでは即日完売。早くも増刷の注文が舞い込んできている。

その本のタイトルは『宇宙戦艦と宇宙空母』。B4判の大きなサイズ、フルカラーで、表紙にはタイトル通り宇宙戦艦ヤマトと思える戦艦の精密で大胆なイラストレーションが配されている。よく見ると、その下には宇宙戦艦ヤマト復活篇制作委員会の文字が見える。
 
この本の出版元はモデルアート社という老舗の模型・プラモデル専門出版社である。
 
冒頭の映画とは12月12日に公開される「宇宙戦艦ヤマト復活篇」。主題歌をジ・アルフィーが歌い、テレビでは公開記念番組が組まれる。またイオングループやサークルKサンクスなどの小売店もこれを機にイベントなどを組むようだ。
 
映画の公開前でこれだけの反響だから、映画が公開されたらさらに売上げに勢いがつくのではないかと思うのが人情で、さぞや同社も沸き立っていると思いきや、同社を訪れると、実に普段と変わりなく淡々と仕事をしているのだ。
「こういうヒットはおまけ」と同社社長の井田彰郎が語るように、実は同社のこういう反応こそが、専門出版社の「らしさ」なのであり、真骨頂ともいえるのだ。


数週間で本にしてしまう機動力が強み
 
同社は1966年の創業。同社の主力雑誌である『モデルアート』誌は、日本で最初のプラモデル専門誌であり、創刊43年に及ぶ。発行部数5万部だが堅実に発行を続けている。プラモデルが日本で生まれてちょうど50年ということだから、同社の歴史はプラモデルの歴史とほぼ軌を一にしている。
 
そもそも同社の成り立ちが面白いのだが、その話はあとに譲ろう。同社ではこの『モデルアート』以外に、数多くの別冊を出している。
 
例えば、取材時に見せてもらった船のシリーズ『氷川丸』はA4判32ページの本で、定価は1470円。これを1000部から2000部作る。こうした書籍はそれぞれの編集者がこだわったアイテムを厳選して数週間で編集し、直販ならびに全国のそうしたこだわりを共有する模型店や興味を示してくれる書店にだけ卸している。もちろん売り切ったところで利益はすぐに計上されるので無駄がなく、資金回収も早い。その上、この本の巻末には同社自らが販売する「完成品模型の限定販売広告」を掲載しているのだ。それも1点2万~3万円の価格である。これもまた売り上げにつながる。
「専門誌はこういう別冊を機動的に出していけるところが強み(井田)」という通り、この種の本を次々に出版することにより、売り上げ自体は少額でも利益がしっかりと確実に積み重なっていくビジネスモデルとなっているのだ。
 
また、「キングタイガー」という戦車の別冊は英文和文併記である。本をめくってみると次々と戦車の部分の写真が並べられている。素人にはわからないが、マニアにとって、今まで見たこともない「部分」が載っているだけで、垂涎の的。しかもこの種の興味は万国共通だから、和英併記で海外にも売れることになるのだという。
 
実際「海外でもそうとう売れた(井田)」そうだ。
 
こうした本の作り方も専門出版社ならばこその取り組み方だ。この種の写真が現存するのは海外。だから、海外から調達する。
「例えばメッサーシュミットでいえば、ドイツミュージアムには山ほどそのような写真がある。それをドイツに依頼してひたすらピックアップして日本に送ってもらう。それをまとめる(井田)」のだという。聞いていると簡単そうだが、しかし長年培った関係者やマニアのネットワークがあってこそ可能な機動力ある出版といえるだろう。


89歳から有名人まで幅広い読者層
 
また、プラモデルや模型といったジャンルは年齢層が幅広いことでも知られている。
「最年長の読者が89歳。70代の読者もかなりいる(井田)」そうで、有名なのは俳優の石坂浩二さん。石坂さんは年配のモデラーの集まり「ろうがんず」を立ち上げ、普及活動を行なっている。2007年の団塊の世代の定年退職を機に、こうした年配モデラーたちがこの市場に帰ってき始めているがゆえに、石坂さんのような行動は市場を活性化するのに役立っているのだろう。

写真のメッサーシュミットは石坂浩二さん作

 
現在のプラモデルはどんどん専門的な分野に細分化されていっている。例えば日本を代表する戦闘機といえば零戦だが、マニアでもない限りそれが15種類もあったことなど知りはしない。プラモデルのメーカーはこの種類全部を発売しており、マニアは多少価格が高くても買っていく。
 
そこでまた同社の出番がくるのだそうだ。
「例えばプラモデルの世界は単に作り方だけで、本ができているわけではありません。例えば塗装の仕方だけでも本になる。ゲームの世界でいう一種の攻略本と同じです」と井田は説明してくれた。なるほど仮に15種類の零戦があるとしたら15種類の作り方があり、塗装の仕方があり、いろいろな装飾の仕方がありと、情報も無限に広がっていく。裾野の広いビジネスだということがよくわかる。


いくらガンダムが流行っても流されない
 
そもそも同社の歴史とはどういうものなのか。同社は井田の父親である井田博が戦後北九州市で模型店を営み始めたのが出発点である。その父が1966年単身上京し、雑誌の発行を手がけ始める。最初は少部数の発行で、書店ルートと模型店と売っていたが、赤字続きだった。しかし、内容を吟味し、今人気のあるプラモデルはどのようなものなのかを調べ、人気の商品の分野を雑誌に反映していき、少しずつ部数は上昇した。そのあたりのくだりは『日本プラモデル興亡史』(井田博著 文春文庫)に詳しいが、当時から、プラモデルに的を絞った出版を維持しているのだ。
 
模型・プラモデル専門誌はもちろん他にもある。以前は専門出版社のみだったが、近年は大手出版社も参入している。それでも同社が強みを発揮できているのは、他の雑誌が、ガンダムやフィギュアといった流行を追いかけて内容を大きく変更させていったのに対して、頑にその内容を守っているからだ。
 
現在、同社の雑誌は日本のみならず19ヵ国で販売されている。フランスやドイツに強く、最近では東欧、ロシア、中国などでも盛んになってきている。
 
こうして話を聞くと、こうした専門分野の出版ビジネスというのは、インターネットを利用するビジネスに向いていることが分かる。こうしたネットの利用を促進することで、さらに裾野は広がっていくのだろう。

(2009・12・8)

【第48回・後編】素人発想で奇跡的な製品開発をした老舗企業の未来

山本化学工業株式会社

【前号のあらすじ】
 
北京オリンピックの高速水着問題で、国内メーカーに高速水着の素材を提供するとした山本化学工業の申し出は結果として実らなかった。しかし2009年ローマで開かれた世界水泳選手権では、同社製素材の水着が80%も使われ、史上最高の43の世界新記録を生み出す原動力となった。その開発の背景には、江戸時代から続く同社のもの作りの開発精神がみなぎっていることが分かった。ところが、同社の成功に水をさす問題が勃発したのだ。

国際水連がラバーを禁止しても、もっと上をいく
 
2009年7月、ローマでの世界水泳選手権と並行して開かれた国際水連の理事会では、ある重要な決議が採択された。その決定とは、競泳選手の着用する水着は水を通す織物製のものに限るとし、2010年以降、ラバー製の水着を全面的に禁止したのである。これではせっかく開発した山本化学工業製の素材は使えなくなってしまう。

「実は、国際水連の決定の10数日後の8月10日に新しい水着を発表しました。これは織物製で、引っ張って広げると向こうが透けて見えます」
 
山本はそういって私にそのサンプルを見せてくれた。確かに繊維でできていて、向こう側が透けて見える。水は片方からは通るが反対側からは通らない。したがって水の抵抗を受けにくく、現在の水着と性能はほとんど変わらないそうだ。
「昨年の11月にはこの水着の開発を始めていました。国際水連の動きを考えるといずれラバー製は禁止の方向に行くだろうと考えてました(山本)」というのである。同社はこのサンプルを世界中のメーカーに発送したそうだ。
 
さらに競泳選手は水の抵抗をなくすためにキャップをかぶるが、これについてはラバー製の素材は禁止されていない。したがって、これらを組み合わせると、従来と同じような効果が期待できる素材をサポートすることは可能なのである。
 
こうした同社の製品はほかの面でも大変注目されつつあるが、それは後述しよう。


水着の秘密は「バイオラバー」という独自の技術にあり
 
そもそも同社のラバーとは何だろうか。ラバー=ゴムにもいろいろある。ゴムの木から採れる天然ゴム、石油を原料とする合成ゴムなどさまざまだが、同社の製品はそれらと異なった成分を持つ製品である。これは、新潟県黒姫山で産出される石灰石から採り出した極めて純度の高い(99.7%)炭酸カルシウムを主原料として、金、プラチナなどの鉱物や炭素を配合した合成ゴムで、商品名を「バイオラバー」という。このゴムを使用し、用途に応じていろいろな開発をしてきている。
 
例えば、水着の発端となったのは、海女さん用のラバー製のウェットスーツと前号で書いた。このときは体をできるだけ冷やさないためにチタン合金で熱反射させて温かくするという工夫を施している。また水着では、ラバーの表面に特殊な加工を施すことにより、表面抵抗値を著しく低くすることを可能にした。これが選手の記録につながったのだ。北京オリンピックで注目された英スピード社製の水着の摩擦抵抗係数が1.35に対し、「バイオラバー」のそれは0.021という。また競泳用の水着以上に、トライアスロンの分野では90%以上の競技者が同社製の素材を着用しているようだ。


いい電磁波のみを身体に放射する蜂の巣構造
 
さて、同社はスポーツ用の素材ばかりを提供しているのではない。これらの分野よりもさらに注目されているのが健康用途の製品である。それには、もう一つの秘密を解き明かさなければならない。
「バイオラバー」は特殊な合成ゴムと前述したが、実はもう一つ大きな特徴がある。それがハニカム構造と呼ばれるその構造だ。ハニカム構造とは分かりやすくいうと蜂の巣の構造のこと。蜂の巣は6角形の部屋が寄せ集められた構造になっているが、これが応用されているのだ。つまり「バイオラバー」はミクロン単位の細かな6角形の気泡(1ミリに約23個)が集まった構造になっている。これを作るのは並大抵ではない。それを可能にしたのが、技術はもちろんだが、高純度の炭酸カルシウムを含む石灰石なのである。
 
ではこのハニカム構造のよさはどこにあるのか、簡単に説明しよう。
 
人間は常に電磁波を放出している。また、人間は外部から多くの電磁波を受けている。電磁波にはいろいろな波長のものがあり、目に見える電磁波を可視光線という。虹はそのいい例だ。目に見えない電磁波のうち長いものを赤外線、短いものを紫外線という。紫外線のさらに短いものにX線やγ線などがある。大雑把にいって、短い電磁波の紫外線は身体に悪く、逆に赤外線は身体にいい効果を与える。
「バイオラバー」に電磁波があたると、このハニカム構造の細かな気泡にぶつかって乱反射と集約を繰り返し、その結果、身体にいい電磁波のみを放射することになるというのである。


腰痛がどこかに消えてしまった
 
こうしたことを書くと、どこか眉唾ものという印象を持たれると思うのでこれ以上詳しく書くのはよそう。社長の山本によると、このバイオラバーを開発した当初から、いろいろな患者が使い始め、その効能が口コミで広がったのだそうだ。そのうち、患者の効果を見て、これを医療で使いたいという人が出てきたのである。いろいろな学者がこの効果を研究しており、2007年にはアメリカ臨床腫瘍学会が主催するシンポジウムで、日本の学者によって、前立腺がんの抑制効果が発表された。これらが医学的に確固とした証明を受け、法律的に医療効果があると認可されたなら素晴らしいことだが、それはまだ途上である。効能を謳って販売することはできないが、それでもユーザーは増えているのだろう。
 
私は同社の販売を促進するために書いているのではない。しかし、こういうことを敢えて書くのは、
自分が使ってみた結果がよかったからだ。
 
取材に行ったとき、社長の山本から1辺が10センチ程度の小さな三角形のバイオラバーを手渡された。使用法に従って腰に装着したのはその夜のことだ。以来、風呂に入るとき以外、このバイオラバーを外したことがない。
 
文章を書くことが多い私にとって、座りっぱなしは腰痛につながる。実際、腰から背中にかけての筋肉は非常に凝っている。そもそも小さいときから腰痛持ちだった自分にとって、最近、書く作業が大変つらく、すぐに集中力が途切れてしまうのだが、これを装着してからは1度たりとも痛みを感じたことがないのである。
 
それは感覚だけの問題かとも疑い、スポーツマッサージの治療室に2週間半ぶりに行ってみた。普通、1週間に1度いかなければどうしようもないほど腰痛がひどい私にとって、痛みを感じなかったからとはいえ、2週間以上もマッサージ治療を空けるのは大変なことだった。ところが施術師の反応は私の想像通りのものだった。
「松室さん、十分な休暇を取られたようですね。腰の状態が今までにないほどいいですよ」
私は、その彼にことのいきさつを説明した。

同社は海外からも注目されている。アメリカのハーバード・ビジネス・スクールは、授業のケーススタディとして取り上げるために同社を訪れているほどだ。もちろん山本は、この技術をさらに広げていくために研究を重ねている。動きも既に出ているようだ。
「アイフルホームとはバイオラバーの部屋を開発して、来年1月から販売予定です(山本)」
 現在の同社売上は約78億円、営業利益は13億円(共に前年度)。
将来、どんな企業に発展していくか、楽しみは広がっている。

(2009・11・17)

【第48回・前編】素人発想で奇跡的な製品開発をした老舗企業の未来

山本化学工業株式会社

ウチの素材ならレーザーレーサーに負けない
 
2008年の北京オリンピックの前、ちょうど各種目で代表選手が決まっていた頃、水泳選手の間では水着問題が持ち上がっていたのを覚えている人は多いだろう。俗にいう「レーザーレーサー」問題である。英スピード社のレーザーレーサーという水着を着て泳いだ選手が、軒並み世界新記録を出し、世間を賑わしたことに端を発した問題だ。ところが日本選手は当時日本水連がスピード社とオフィシャルサプライヤー契約を結んでいず、契約を結ぶ国内メーカーにレーザーレーサーと同等以上の水着の開発を求めた。結論からいうと国内メーカーは開発を行なったが、結局水連はレーザーレーサーの着用を認め、多くの選手はそれを着て泳いだ。

この騒動のなかで、大阪にある山本化学工業という会社が自社の開発した素材なら絶対にレーザーレーサーに負けない結果が得られると主張し、国内メーカーに無料で提供するといって話題となった。これも多くの人の記憶に残っているところだろう。今回取り上げるのはその山本化学工業である。
 
まず結論からいっておこう。結局同社製の水着素材は北京五輪では国内メーカーには採用されなかった。その詳しい話は後に譲るが、実は今年になって様相ががらりと変わっていたのである。


江戸時代から続く老舗企業の大転進
 
今年ローマで行なわれた世界水泳2009では、山本化学工業社製の素材を使った水着を着用した競泳選手が、全体の80%近くにもおよんだのである。その結果かどうかはもちろん断言できないが、北京五輪で出た世界新記録の数が23であるのに対して、今年のローマでは通算43もの世界新記録が生まれ、その半数以上が同社製素材の水着を着ていた。ちなみにレーザーレーサーの着用はごく僅かだった。
 
ではなぜ多くの選手が同社製素材の水着を着用するに至ったのか。
「世界の多くのメーカーが、選手にレーザーレーサーとウチの素材のどちらがいいか着用して泳いでもらいました。その結果ウチの方がいいとなった」と同社社長の山本富造は語る。
 
ではそもそも、なぜ同社はこのような画期的な製品を開発できたのか。それを知るには同社の歴史を紐解かなくてはならない。
 同社の創業は1964年となっているが、その歴史はさらに古く、遠く江戸時代までさかのぼる。石川県小松出身の山本家は、当時北前船屋を生業としていた。北前船屋とは北陸の日本海沿岸から北海道に遡り、太平洋岸を南下し、各地に寄港しながら大阪を終着とした航路を運行した回船問屋である。
 
しかし、明治維新以降近代化が進み、北陸では商売が難しくなった山本家は大阪に出てくる。当時石川県人が多く集っていた東成村(現在の大阪市東成区)に拠点を構えた。海運業は第一次大戦の後の企業統合で飯野海運の傘下に入ることになったが、本家はその傘下入りを拒んで家業を続け、大正時代に山本の三代前(曾祖父)の社長が画期的な製品を開発した。
 
それは脱脂粉乳から作った合成ボタンだった。まだプラスチックがなかった時代である。当時の洋服はボタンが高く、鳩目ホックで留めるのが主流の時代。
「飛ぶように売れ、一世を風靡した(山本)」という。


海女さん用のウェットスーツが始まり
 
同社の歴史は新しい発明の歴史である。1948年には先々代(祖父)の時代には消しゴム付き鉛筆で特許を取り、これもまた世界中で売れた。こうして、ゴムの技術を高めていった同社は、現社長の父山本敬一の時代に水を吸わないゴムの技術を確立した。
 
昭和30年代半ばには、防衛庁から自衛隊員用のウェットスールを作るよう要請があり、これが現在のビジネスの契機となった。
 
ところが官庁の発注は3月と9月に決まっており、これだけでは商売が安定しないため、海女さん用のウェットスーツを開発した。
 
さて、現社長の山本が社長に就任したのは25歳のときだ。父である先代が60歳になっていきなり、定年なので社長を辞めると言い出し、息子である富造にお鉢が回ってきたのである。1984年のことで、当時山本は25歳だった。
 
当時は1ドル=240円の時代。日本企業の米国への輸出には、特に風当たりが強くなっていた。社長交代して2ヵ月後に、同社もアンチダンピング訴訟で米商務省から追訴された。本来の税にさらに3.09%上乗せされて決着したが、この課税は2000年の9月まで続くことになる。
 
さらに翌年9月には、プラザ合意が先進主要5ヵ国の間で開かれ、円ドルレートはいきなり1ドル120円となる。輸出比率が95%だった同社はいきなり屋台骨を揺るがされるような事態となる。しかし父親は、社長を譲ったのだからと何もアドバイスをしない。
「内部留保を食いつぶすような形で何とかしのぎましたが、この自転車操業的なやりくりは90年まで続きました」と山本は回顧する。
 
しかし、若くして社長になった強みか、あるいは開き直りか、自分の好きにさせてもらうと逆に宣言し、以後、高機能の製品作りに励むようになる。


素人発想ならではのユーザーに優しい開発
「父と違い文系だったのでユーザーサイドに立って考え、高機能のものに変えようとしました(山本)」
 
薄くて暖かいもの、軽くて柔らかいものと理想を求めて社内で開発した。ゴムにチタン合金を張って熱反射させ暖かくした。しかし、いい物を作っても中国などの製品に価格で負ける。それならと、ゴムの両面に張っている繊維が日本のは高いことに目をつけ、片面だけで済ますことはできないかと工夫した。さらにはゴム自体のすべりがよければ繊維を張る必要はないと、今度はすべるゴムを考えた。この開発は難しかったが何とかやり遂げた。ウェットスーツは、濡れたものをもう一度着ると気持ちが悪い。ところがすべるゴムなら何度着てもそれがない。
 
このウェットスーツが2000年ころから売れ始めた。そこで同社はトライアスロン用のスーツに目をつけた。トライアスロンはスピードを競う競技なので早く泳ぐ必要がある。すべるゴムを外側にもってくると早くなるのではないかと考え、試してみるとこれがうまくいった。そこから、さらに水の抵抗を少なくする技術を開発していったのだ。これが同社をして、スピード水着の開発に至らせた経緯である。
 
だが、水着の話はこれだけでは終わらない。

(2009・11・11)

2011年11月20日

【第47回】障害者専門の人材・転職情報サービスで急成長した経営者の「理念」

株式会社ゼネラルパートナーズ

障害者を雇うための情報がない時代があった

NPO(非営利団体)という言葉の普及が象徴するように、社会貢献という言葉が一つの運動体としてとらえられるようになってきた。日本はそれでもまだ普及が低く、米国では総就業者数の11%がこうした団体で働いている。

このような状況のなかで異彩を放っている会社がある。株式会社ゼネラルパートナーズという会社である。同社は障害者の就職や転職を主事業とする会社。2003年に設立され、今年で7年目に入った。
 
障害者の就職といっても、そのような人たちを雇用するマーケットがあるのかどうかも知らない人がほとんどだろう。現在日本では障害者雇用促進法によって、一定の割合で障害者を雇用しなければならないことになっている。この数字が1.8%。つまり全従業員の1.8%を企業は雇わなければならないというものだ。言いかえると56人に一人ということだから、中小・零細企業ではなく、必然的に中堅企業から大企業がその適用を受けることになる。
 
同社が設立された当初は、企業の対応も漠然としたものだった。なぜなら雇用の義務があるとはいうものの、実際にはどのようにして雇用すればいいのか、どこで人を探せばよいのか、といった初歩的な対応すら分からない企業が多かったからだ。
「実際には、何も整備されてなかったというのが当時の実情だったでしょう。唯一の情報源はハローワークでしたが最低限の情報だけで、どの障害なら受け入れられるのかといった情報すら開示できないという有り様でした」と語るのは、同社創業者で代表取締役社長の進藤均である。
 
健常者でも、情報が少なければその会社が考えている条件は分かりにくい。ましてや障害者の場合、障害の状況や程度によって、できる仕事とできない仕事が存在するし、その会社がどういう体制で受け入れようとしているのかも重要なポイントだ。
「このギャップを解消しないと、雇う側も雇われる側にも無駄が発生する。でも恐らくハローワークとしては、傷害の度合いによってあらかじめ制限をつけるようなことは載せたくない、などと考えたんだろうと思います(進藤)」
 
だからこそ、進藤はこの事業を始めたのだろうし、またここにビジネスとしてのチャンスもあると考えたのだろう。
結果としていえば、この事業は創業初日から盛況だった。登録者はいない、ホームページもない、あるのは電話だけ。その電話だけで営業に行こうとアポをとると、いきなり注文が舞い込んだ。
 
その細かな話は後に譲るとして、その後同社は順調に発展し、昨2008年度(2009年3月期)売上高は6億9000万円、経常利益8300万円にまでなっている。


もっと喜ばれる仕事でないと面白くない
 
進藤が、なぜこの事業を始めたかについてはさまざまな経緯がある。そもそも商売の家系だった進藤は、小さい頃から将来は自分で何か商売をやろうと漠然と考えていた。
 
大学を卒業した進藤が選んだ道は、大手住宅メーカーの営業職だった。
「住宅の営業は難しいんです。まだできていないものを、しかも高額なものを売るわけですからね」と進藤は当時を述解する。「当時は3年くらいで起業しようと思っていた。だから1年目から生意気なことを言っては先輩の顰蹙を買っていた(進藤)」とも。
 
しかし有言実行で、4年目にトップセールスになった。そこで起業しようと思い立ったがやはり何をやっていいのか分からなかった。
「家を売ることに専念しすぎて、社会のことがよく分かっていなかった(進藤)」のだ。
 
きっかけはほんの小さなことだった。当時実家は保育園を経営していた。共働きの家庭が増え、延長保育などで保育士が足りなかったときに、親から「2~3時間派遣してくれるようなところはないか」と問われたのだ。当時人材派遣業が急成長していたこともあり、これはと興味を持った。しかし計算してみたら、まったく商売として成り立たない。しかし、この事業は人に喜ばれる仕事かもしれないと考え、インテリジェンスに入社した。まだそれほど規模が大きくもなく、人材が面白そうな会社だったからだ。
 
人材派遣の営業は、いろいろな会社を見ることができ勉強になった。組織のあり方、人の使い方も学んだ。しかし、人材派遣の仕組みはいい仕組みではないと感じた。なぜなら、これは企業にとって便利な仕組みだからだ。大きな収益性があるわけでなく、しかも労働者のマネジメントも大変で、その労働者に幸せを作れていない。
「もっと喜ばれる仕事でないと面白くない」と考えた進藤の出した結論は、「社会貢献」だった。
 
そんなとき、NHKの番組を見た。ヨーロッパのとあるレストランで、聴覚障害のウェイトレスがすごく自然に働いていたのだ。日本もこうなったらいいのになぁ、と思った瞬間気がついた。身近にこんな問題があったのだ。これだ! と閃き、現在のビジネスにまい進する結果となった。


障害者のよき認知を広めるという命題
 
同社は、今年の8月後半からモバイルによる情報提供を開始した。この反響が凄いのだという。それまでの月間登録者数は平均500人程度だったのが、このモバイルへの参入により一気に1.5倍に増え、700~800人になりつつあるという。現在の総登録者数は15000人を超え、まさにこの分野の一人者的存在になっている。
 
そんな同社の理念は、「障害者のよき認知を広める」ことだという。簡単に言うと、障害者のことをもっと知ってほしい!ということなのだ。
「障害者のことを知らないために偏見があるなら、それをなくしたい。だから知ってもらうということをやりたい」と進藤は熱く語る。
 
それでも、環境も企業の対応もこの創業後の6年でずいぶんと変わったという。同社では求人情報や人材紹介サービス以外に、年間5回程度、イベントを行なっている。企業がブースを出し、障害者が仕事を求めてくるマッチングイベントだ。そのパンフレットを見ると、企業紹介が実に細かく書かれてある。なかでもアイコンによって、「新卒で募集」「中途社員で募集」「正社員採用」「透析の配慮あり」「電話対応の配慮あり」「車椅子就業可能」「自動車通勤可能」「就業時間の配慮あり」などと細かい。企業によってこのアイコンの数も掲載されている項目も異なるわけだが、これこそ、進藤が当初ハローワークで感じた「情報のギャップ」を埋めるものだった。
 
そして、今後の展開について進藤はこうも語る。
「現在は、障害者というピラミッドがあるとすれば、その上のほうの人たちだけに対応しているのがわれわれのビジネスです。しかし、障害者はもっとたくさん存在する。だとすれば、もっとピラミッドの下のほうの人たちのためにも仕事を斡旋できるようにしたい」
 
 
取材のために同社を訪問し、無人の受付で待っていると、そこを通る社員の人がみな一様に実に丁寧な挨拶をして通っていったものだ。
「もう誰かご用件を伺っていますか」と聞いてくれた人もいた。一体これはどうしたわけだと進藤に問うと、別に教えたわけでもなく、もちろん強制しているわけでもないと言っていた。こんな文化のある会社は、働き甲斐のある会社に違いない。

(2009・9・16)

【第46回】顧客がファンになっていく! 稀有な会社の大切にする「力」

株式会社ファクトリージャパン

上顧客がおカネを払ってパーティーに参加する
 
優良企業の条件のひとつに、顧客を大切にする企業が上げられるのは誰もが知っているとおりだが、それを越えて顧客が企業のファンになるという会社に出会った。
 
それが全国に約80店舗の整体サロン「カラダファクトリー」を展開する(株)ファクトリージャパンである。

こう書くと、そんな会社があるのかと疑う向きがあるかもしれないが、同社が毎年行なっている恒例の顧客への感謝のイベント「ロイヤルカスタマーパーティー」を見るとそれがよく分かる。
 
今年の同社のパーティーは5月29日にヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルで行なわれた。来客数はざっと400人。そのほとんどがおカネを払って参加している同社の大切なお客なのである。
 
パーティーはまず同社代表取締役の子安裕樹の挨拶から始まったが、見ものは同社社員によるダンスのパフォーマンスである。お客も一緒にリズムをとり、パフォーマンスにどっと沸く。社員と顧客が一体となってパフォーマンスは最高潮に達した。このお客との一体感は何か。そもそもなぜ、お客がファンになるのか。常識的に考えれば、大切なロイヤルカスタマーを集めたイベントを行なうということは「招待する」ということであって、おカネを払わすことはしない。その1点を見ても同社には大きな、魅力的な謎がある。
 
この謎を解き明かすことが同社の躍進の秘密を解き明かすことでもある。


お客が喜んで、また来てくれる店を作る
 
同社の設立は2001年8月。設立以来わずか8年しか経っていない。同社代表取締役社長の子安裕樹が同社の前身となる横浜南整体院を開業したのが1998年だから、それを併せても10年に満たないことが分かる。
 
横浜南整体院の名の通り、子安も整体師である。
「学生のときラグビーをやっていたので、こういう仕事には縁があったんです」と子安はいう。
「でも、あるとき重度の腹痛で病院に行ったとき病院の対応は実に素っ気なかった。問診票に記入させ順番待ちを強いる。こちらは熱もあって早く見てほしい。やっとのことで順番が回ってきたら、医者は事務的に『どうしました?』から始める。これじゃ駄目だと思った(子安)」
 
学生時代にラグビーと決別し、少ない資本で潰れたイタリアンレストランを買い取り、それを成功させたものの、売り払って、次のことを考えているときだった。医者がこれでは駄目だ。身体を見る人はもっと患者のことを考え、その人のために尽くすようでなければならない。そんな気持ちから、子安は整体師の道を目指した。
 
しかしここでも「有名な先生といわれる人が魅力的ではなかった(子安)」そうだ。
「例えば、首を治すときに髪を引っ張られると痛いじゃないですか、それじゃ駄目なんです。技術だけでは駄目で、思いやりがなければいけない」
 
98年に28歳で開業した子安は、お客が喜んでくれ、必ず繰り返し来てくれる治療院にしようと考え、実行した。技術はもちろんだが、中年男性、主婦、老人など人によってかける言葉を変えた。治療が終わると、患者をベッドに座らせ、身体の状態がどうなっているかを骨模型を使って説明した。元気づけて欲しそうな人にはそう言葉をかけた。どうすれば身体を維持できるかをお客に伝えた。
 
お客の反応も「こんなによくしてくれた人はいない」と上々で、この評判が口コミで広がっていった。3ヵ月後、広告もほとんどすることなしに、1日8人・毎日営業の整体院の予約台帳は一杯になった。


社員教育のポイントはプチ社長作り
 
こうして2件目をオープンするときにまた問題が起こった。最初に採用した社員に次の店を任せたが、中途で採用した人はみんなその社員より年上で、経験も豊富だから、いうことを聞かなかった。そこで初めて子安は気がついた。自分の分身を育てていかなければならないと。以来、同社では施術者に関しては新卒しか採用していない。
「プチ子安を作ろうと考えた」と子安のもとで第1号社員となった現常務取締役の小牧めぐみは語る。自ら年上の経験者に苦労をさせられた経験を生かし、子安が実際に行なっていることをマニュアル化していった。そして学校を立ち上げた。
一番時間をかけるのはラストコミュニケーション。終わってお客さんを座らせ、骨模型を持ってきて説明するなど、子安のやり方をいかに学ぶかがポイントとなる。
「お客さまはどこかで悩んでいる。眠れない、身体の不良、心の悩み。そういう人たちに思いやりをこめて笑顔で接し、その悩みを気づいてあげる。それができなきゃお客さまを幸せにできない」と子安はいう。
 
いいかえるなら、「社員の一人ひとりがミッキーマウスのようなシンボリックで人から愛されるキャラクターになってほしい(子安)」と考えているのだ。
 
だから研修も、次の日から先生になったつもりで行なう「なりきり研修」、いい先生の真似をする「ものまね研修」、メイクや服装を変える「ビジュアル改造研修」など、多彩である。


おカネを払ってまで踊りを見に来てくれるか?にチャレンジ
 
さて、冒頭に紹介した「ロイヤルカスタマーパーティー」はそんな社員との関係のなかで出てきたイベントである。そもそも同社では、社員は本社での会議ではスーツを着用しなければならない。ともすれば私服で来て帰るような生活になりがちだから、けじめをつける意味があるし、社会性も出てくる。後は、ミッキーマウスのように踊って歌える場があればいい、と子安のなかに漠然とした思いがあった。
 
あるとき、子安が施術の社員にどれだけお客がついているかと問うと、「コアなお客様がついていてくれる」と答えた。ではそのお客さまは、イベントをやればお金を出してまで来てくれるかと問い返すと、社員から自信たっぷりな返事が返ってきた。それならやってみよう、ということで2005年にスタートしたのである。
 
それにしても社員に踊りをさせるのは大変なことだろう。社員のなかでダンスが得意な女性を先生にして、夜中、明け方まで1ヵ月猛特訓を行なったという。
「最初は100人呼べたら立派だと思っていた」と子安は当時の胸のうちを明かす。それでも300人の席が満席になった。


予算もノルマも存在しない地域一番店
 
子安のお客とのコミュニケーションの原点は何か。それを知る面白いエピソードがある。それはまだ同社の設立前、イタリアンレストランを買い取った頃の話である。
 
ある日お客がウェイターにビールを注文した。ところが、その店にビールは置いておらず「イタリアンレストランですからワインしかありません」とウェイターが答えた。それを聞いていた子安はそこに飛んでいき、「買ってきます」といって近くのコンビニでビールを買ってきてお客に供したという。そんなお客の要望をかなえるように店を変えていき、赤字でつぶれた店はあっという間に黒字になった。もっとも最後に一番売れたのは「ざる蕎麦天丼セット」と「じゅうじゅう鉄板焼き定食」だったそうだが。
 
こんな同社には予算が存在しない。社員にはノルマもない。会議で聞かれるのはお客さんはどんな人で、嫌われてないか、ということだそうだ。それこそが地域一番店であるための指標なのだろう。
 
今後同社は年間30店舗のペースで出店をしていく。また理念と経営方針を共有できるならという前提で、フランチャイズも行なっていく予定である。もっとも、そのためには厳しい面接を何度もこなさなければならないらしい。
 
そして海外展開も。
「今年の9月に台北でカラダファクトリーをオープンする」という子安は、そのロイヤルカスタマーパーティーが終わり、社員や関係者と夜遅くまで過ごした後、ほとんど寝ずに台北へと飛び立っていった。

(2009・7・28)

【第45回】追随できない仕組みを作って急成長。顧客本位の素人発想の凄み

シナジーマーケティング株式会社

3年で売上高2.3倍、経常利益3.6倍の急成長
 
一時期、マスカスタマイゼーションという言葉が流行った。マス(大衆)とカスタマイズ(注文に応じて作る)をくっつけた造語で、全ての人それぞれにカスタムメイドの商品やサービスを提供するということ。そんなことは不可能だと思うが、それをコンピューターが可能にするのだといわれていた。実際にCRM(Customer Relationship Management:ITを利用して顧客との信頼関係を築く経営手法)という手法も使われ、いまやこの分野は急成長している。

その急成長業界のなかでも、CRMで業績をぐんぐん伸ばしている会社がシナジーマーケティング(株)だ。CRMの意味は、前述の通りだが、分かりやすくいえば、コンピューター上で顧客管理をして、お客との関係を強化できるよういろいろな手を打つことだ。同社は、このCRMのシステムを開発し、顧客に提供しているのだが、実は他社にない強みを持っているため、業績がぐんぐん伸びている。
 
例えば、3年前の05年12月期の売上高は6億9300万円、経常利益8860万円だったが、08年12月期は売上高15億9300万円、経常利益3億2100万円となった。実に3年で売上高は2.3倍、経常利益は3.62倍となった。この数字だけを見ても急成長ぶりがよく分かる。07年11月には大証ヘラクレス市場に上場したのも頷ける。


他社が追随できないサービスのきっかけは素人発想
 
CRMを開発している会社など、たくさんあるだろうになぜ同社がこんなに成長したのか。その問いに「導入時に優れているからだと思う」と社長の谷井等は答えた。これには少々説明が必要だろう。
 
会社には部門によっていろいろなデータが存在している。販売部門には顧客データ、経理部門には顧客別売上データ、お客様相談室には顧客の問い合わせやクレーム等のデータ。どの部門も別々に、その部門のフォーマットで管理している。
 
CRMを導入する場合には、これらを統合することになるわけだが、これが面倒なのだ。ところが、同社製のシステムを使えば、これらを何の変換もせずにそのまま利用できるのだ。これは導入側、特に現場にとっては便利な話である。
 
しかもそれをASP(事業者のサーバーにあるアプリケーションソフトをインターネットを通じて利用できるサービス)で利用できるという。つまり自分たちがソフトを持って使うのではなく、この場合はシナジーマーケティング社のサーバーにアクセスして利用することができる。それだけに自社のシステムには負荷がかからない。これも導入側には魅力なのだろう。
 
同社のこのサービスは、他社では真似ができない。だから優位性があり、その結果、同社がこの分野で抜きんでる結果となったのだ。それはCRMを利用するお客の立場に立ってシステムを開発した、ということに尽きる。
「私が技術に対して理解がなかったからできた」と谷井は述懐する。これには実は背景がある。


実家の洋服店の仕事で分かったCRMの本質
 
そもそも谷井がCRMに目覚めたのは、実家の洋服店で働いていたときだった。男性用の洋服店の商売はほとんど午後6時からが勝負である。それまでは暇だが、6時を過ぎると混みはじめ、今度は接客が追いつかない。すると帰ってしまう人も出る。これではまずいと、谷井は一計を案じた。スーツを買ってくれたお客には、仕上がりの頃を見計らって電子メールを送ったのだ。
「そろそろスーツが出来上がります。ところで紺色のスーツに合うブルーのシャツが入っているんですよ」と、こんな具合でシャツを進めた。これに面白いほど反応があった。しかも売上げに結びついた。お客が実際に店に来たときには用意してあるので、接客時間の節約にもなった。
 
顧客満足度を高める仕組みがあれば、対応が可能だと、ここからCRMの発想が生まれた。だから、谷井は利用者の立場に立って、技術的には無理な注文を開発者にしたのである。しかし、これがかえってよかった。
「社員も高いハードルを与えられて、乗り越えることに興味を抱いた(谷井)」のだ。このシステム開発には1年半を要したが、「今も開発しているようなもの、サグラダファミリアのようなものです」と谷井は屈託がない。


両親から教えられたことを面接で尋ねる理由
 
同社では、いわゆる営業はほとんどしていない。毎月150件前後の問い合わせがあるが、そのうち3分の1は評判を聞いての問い合わせで、あとはネット検索から自然に来る客だという。月額1万5000円から使える簡便さが、顧客を呼び寄せるのかもしれない。谷井もその辺りはきっちり分析している。
「従業員10人規模の会社は全国に40万社あります。そういう人たちでも使える金額である」ことが結果として売上げを伸ばしているのだろう。
 
しかし、この分野で今後の事業の広がりはあるのか。そう谷井に問うと、すぐに答えが帰ってきた。
「ある1社がCRMを使って一人の消費者を分析するのには限界がある。でも2社の顧客情報を重ね合わせると、より消費者像が鮮明になる。だとしたら、2社をドッキングさせたCRMを提案すればいいわけです」
同社では既にこれを提案し、実際にやってみて好結果を得たという。
 
そして、もうひとつ。
「現在のお客の業種はさまざまです。逆にいえば分野を特定してはいません。でも5年後には、ある特定の分野に特化したCRMをやっていたい」
 
なかなか構想力のある会社なのだ。
 
その谷井がことさらに力を入れているのが、採用である。ひとつの組織はその構成員のモラルが低いと目標が達成されないからだという。モラルとは何か。日本社会の道徳観だと谷井はいう。
 
だから採用面接ではこんな質問をする。
「ご両親から教えられたことは何か」「あなたは自分で何点ぐらい取れているか」
 
もちろん、社員にモラルを問うということは経営者自身のモラルが問われることになる。
「私のモラルは、謙虚さと感謝の気持ち、あとは実行力ですね」と谷井。
 実際に話をしていても、好青年という表現がぴったりの青年社長だった。

(2009・5・26)

【第44回】パソコンの全トラブルに訪問サービスで対応する企業の急成長の理由

日本PCサービス株式会社

あってほしいコンシェルジェサ―ビスを実現した
 
パソコンのトラブルほど厄介なものはない。ある程度パソコンに精通している人でも予期せぬトラブルにはなすすべもない。例えばいきなりフリーズしても、それがウィルスによるものなのか、単にメモリーを使いすぎているからなのか、原因が分からないものがほとんどだからだ。挙句、メーカーのサービスセンターに電話しても、音声ガイダンスによって案内されると、それだけで不安に陥ってしまう。
「もっと簡単に、すぐ対応してくれるサービスはないのか!」と声を大にして叫びたくなるのはもっともなことだ。

そういう日常的なニーズに応えてくれる会社が日本PCサービスだ。同社の最大の売りはコンシェルジェサービス。ホテルで客がコンシェルジュに泣きつけば、どんなことでも相談にのってくれるのと同じく、パソコンに関わるトラブルならどんなことでも電話1本で駆けつけてくれる。名付けて「パソコン生活応援隊」。とにかく家や事務所まで来てくれ、そのトラブルの解決に当たってくれる。しかも値段が安い。
「こんなサービスがあったら」という現代人のニーズをまさに満たしてくれるのだ。
 
現在、日本のパソコン世帯普及率は85.0%にも及ぶという(07年末現在、単身者世帯含む:総務省情報通信政策局調査)。パソコンが本格的に普及し始めたのは1995年のWindows 95発売以降だといわれている(当時の普及率は10数%)から、10年少しで急激にパソコンは普及したことになる。特にインターネットの普及にしたがって、ネットビジネスが生まれ、ネットウィルスが繁殖したことから、そのトラブルは幾何級数的に増えていることになる。つまり同社の市場は増えこそすれ、減りはしないとてつもなく大きな市場なのである。その拡大につれて同社の業績伸長も著しい。2008年8月期は売上高5億2200万円、経常利益800万円、に対して、09年8月期は売上高9億円(中間期で4億2800万円)、経常利益6000万円を予定している。


スタッフが疲弊するようなビジネスはだめ
 
社長の家喜信行が同社を設立したのは2001年(現在のパソコン事業は2003年より)である。家喜は大学卒業後、自動車業界専門のソフト販売を行なう翼システムに入社した。カーコンビニクラブを始めた会社で、2年の間トップセールスを続けた末に退職した。その折「家喜さんがやるなら付いていきたい、という部下は多かったのですが、力のある人は採らなかった」と家喜は述懐する。力のない人の方がマネジメントは楽だろうと考えたのだが、意に反して半年でほとんど辞めていった。
 
家喜が独立した際に考えたのは、カーコンビニクラブのパソコン版だった。
「パソコンに関しては何でもやる、ということでした。しかし、何でもやるといってもお客さまは来てくれません。それでパソコンのトラブル対応から入っていったのです(家喜)」
 
カーコンビニクラブがキズ、凹みの修理を訴えて自社のサービスをアピールしたように、売り物はなにかを考えたのだ。家喜はこの事業を始めるにあたって業界をくまなく調べていた。たとえば大手パソコンメーカーはサービス会社を有していたが、どれも大手企業向けのものだった。中小向けに先行していた会社はスタッフを登録制にして、初期の簡単の修理ばかりを行なっていた。ところが登録したスタッフは月に180件も訪問していることが分かった。一件当たりもらえる金額が安いので、それくらい回らないとやっていけなかったのだ。これではスタッフが疲弊してしまう。そんなビジネスはやるべきでない、と考えた家喜は一人月に50~60件でビジネスにできるよう構造を作った。お客からカネを取るサービスなら、技術が高くなければ成り立たない。当初は個人商店並みに自らも客先に出向いた。


急拡大時に必要なのは技術教育よりも接客教育
 
同社に転機が訪れたのはジャパンベストレスキューシステム(JBR:東証1部)と提携したときだ。「生活救急車」をうたい、生活救援総合サービスを行なうJBRは、パソコンのトラブル対応のために同社に目を付けたのだ。これで一気に注文が増えた。
 
ところがなにせ救急車である。すぐ来い、となる。
「来るときにパソコンを買ってこい、なんていうお客さんもいました(笑)。でもそれで鍛えられました(家喜)」
 
その後次々と家喜はビジネスを拡大していく。幸い、世の中にニーズは山ほどあった。ソフト会社のユーザーサポート、ネット証券会社の顧客サポート、家電量販店のパソコントラブルサポートと、自社では十分に対応していけない顧客サポートをアウトソーシングしたがっている企業は多かった。同社はこうした企業との提携の輪を広げていったのだ。
 
以前はJBRの業務が80%を占めていたが、現在は40%にまでシェアが減少している。それだけ同社が安定してきているということだ。
 
ところで、急拡大していくときに問題となるのは人材の確保である。サービスは全国規模となっているし、なにより技術の進展が早い業界のことだ。
「技術力は追いつきやすい。むしろ大変なのは接客サービスです」と家喜はいう。だから、朝礼ではクレームを受けた人間は必ず発表することにしているそうだ。それにより意識を持ってもらうためだ。


お客のためから生まれた買い替えの必要のないパソコン
 
同社は最近になって新たなビジネスを構築し始めている。
 
例えばホームサーバーの開発だ。なぜそんなものを開発するのか。
「同じパナソニックのビエラリンクでも、買った時期が違うとつながらないというようなことがあるんです。だからつながるホームサーバーのニーズがあるんです」。同社ではそのホームサーバーをレンタル形式で家庭に売り込もうと考えているという。
 
パソコンも自社で作り始めた。
「超省スペースパソコンです。600グラム弱しかなく、10万円以下です」と家喜はいう。月50台くらいのニーズがあるそうだ。なぜそんなものを始めたのか。
 
きっかけはある小さな開発会社がつぶれたことにあった。その副社長が売り込みにきたのでそのメンバーもろとも引き受け事業化したわけだが、そこにも家喜の周到な計算が働いている。
 
パソコンは、ある年月が経つと買い替えの必要が出てくる。最新のモノと比べてハードディスクの容量が小さくなり、CPUの性能が落ち、メモリーも少なくなるからだ。最新のOSやアプリケーションソフトは、常に最新の技術や容量に対応して開発されるから古いパソコンでは動かなくなる。
 
ところが、パソコンほど、中を分解して組み立て直すのが簡単なものはないのも事実。そこで、買い替えの必要のないパソコンを開発したのだ。いつでも中の部品やデバイスを取り替えることができるパソコンだ。これなら常に最新の技術に対応できるからユーザーはパソコンを買い替えなくてもすむ。
 
恐らく家喜の頭のなかには「お客さまのため」という思想が、澱のようにこびりついているのだろう。こんなにまとも過ぎることをしっかりと実現していく経営者は稀である。
 
世はいよいよ高齢化社会に突入し始めている。高齢者とパソコンの関係でいえば、市場はますます拡大していくに違いない。同社の成長も大いに期待される。
「お客のため」という当たり前の発想のなかにこそ、大きなビジネスチャンスが潜んでいる、その典型である。

(2009・4・14)

【第43回】歴史的不況でさらに輝きを増す堅実経営の鏡

テクノアルファ株式会社

今回の不況は分析すれば怖くない
 
世界的な不況が日本経済にも影を落とすなかで、不況分野の一つ、半導体の事業で堅実な成功を収めている企業がある。テクノアルファ株式会社だ。

同社は電子材料や装置の輸入商社だが、その堅実ぶりは業績に表れている。07年度の売上高は28億5000万円、経常利益が3億0200万円、08年度の売上高は33億1100万円で、経常利益は3億9300万円だ。今期(2009年11月期)は厳しい予測をせざるを得ない状況だが、それでも売上高32億2000万円、経常利益3億4600万円と、ほんの僅かの下げで踏みとどまると見ている。
「マーケットを見ていると、お客は3~4月頃までは様子を見ている状況です。本来は、発注があったときに設備をしていないと間に合わないのだが、今は中断している。しかし、ITの需要が減ったわけじゃないし、車でいえば省エネや環境に優しい車は伸びている」と社長の松村勝正は手堅い見方を崩さない。
 
同社の取扱商品で強いのは、パワー半導体といわれるもの。このパワー半導体とは、交流を直流に変換したり、電力を制御するといった省エネにつながる半導体。つまりニーズは高まりこそすれ減りはしない、という見方が背景にあっての発言なのだろう。


部門縮小の命に、それならと独立
 
同社の手堅さは、実は、その創業の経緯に表れているのかもしれない。同社の設立は1989年。社長で創業者の松村勝正が、当時在籍していたドッドウェルジャパンの部門縮小を受けて、それならと分離独立を願い出たのが始まりだった。
 
半導体という事業にはシリコンサイクルと呼ばれる波があった。ちょうどその波の底だった。当時の上司は外国人で、いきなり経費削減、部門縮小に踏み切ろうとした。そこで松村が申し出た、というわけだ。松村は当時、ハイテク部門以外に産業機械とビール機械の3部門を担当していた。特に、産業機械事業部はドッドウェルのなかで一番利益を出していた部門だった。それでも上司は了承してくれた。いい意味での外資の割り切りが働いたのだろう。条件は部品在庫1500万円分を引き取ることと、取引先を侵食しないこと。結局4人を引き連れて独立した。
 
恵まれていたのは、総務や経理などの面倒な業務はドッドウェルが引き受けてくれたことだ。
 
辞めた会社が事務を引き受けてくれたことで、営業に打ち込むことができ、業績を伸ばした。こんな運に恵まれたスタートも珍しい。しかし、あくまで手堅く、カネをかけることは一切せず、10坪の事務所からスタート。経費も使わなかった。その間、松村が注力したのは現金商売を行なうということだった。
「手形を発行しないということを誓いました。すべての取引先に納得してもらった(松村)」
 
熱心な説得が聴いたのだろう。L/C(信用状)も要求されなかった。できたばかりの会社は信用が低いから、こちらからの支払いは現金で要求されても、あちらからは手形が切られるというのが普通の話。ましてや貿易で、信用状無しで商売できるなんてあり得ない、というのが常識である。


地道に足で稼ぎ、有望なものは付加価値を高める
 
こうした話を聞いてみると、運のよさだけでここまで来た会社のように思ってしまうが決してそうではない。
 
松村には、ドッドウェル時代から培った営業のノウハウが山ほどあったのだ。なにせトップの営業マンである。松村が入社した当時は、輸入商品といっても英文カタログ1枚の時代だった。それを訳してコピーし、資料作りをする。コピーといっても青焼きの時代。体裁のいいものは作れない。だから、カタログの力に頼るのではなく、自分たちで商品の特性を調べ、足で稼ぐ営業が主流だった。
 
こうして鍛えられた松村は、輸入商品でヒットが出ると、当時としては画期的だったライセンス化に踏み切る。輸入するよりもそのほうが利益率が高い。つまり付加価値がつくのである。
 
例えば、生ビールの樽とサーバー。この商品は昔は同社が輸入していた。今でこそ飲食店ならどこにでもある代物だが、当時はこれが珍しく、ヒット商品になっていた。同社はそこで、その樽やサーバーのライセンスを取り国産化する。これが当たった。付加価値が高く利益は著しく上がった。このようなビジネスの手法を一から学び、そこで活躍してきた松村はこのやり方を今でも実行している。一つひとつのビジネスを堅実に遂行するというのは、こういうことの積み重ねなのである。
 
松村は、輸入だけでなく輸出にも力を入れた。
創業間もなくバブル経済がはじけ低成長時代へと突入するわけだが、粗利が高いバネを作る機械を日本から海外に輸出し、しのいだ。当時は人数も少なく「ほとんど影響はなかった(松村)」そうだ。


不況が長引いても十分に余力はある
 
同社が他社よりも抜きん出ている点を聞くと、松村は即座にこう答えた。
「まず第一に英語力があること。そして、海外ネットワークが張り巡らされていること。これによって、情報力にも長けていることになる」
 
さらにいえば、こうした情報とネットワークを駆使して、さまざまな提案を顧客にしていけることになる。
 
その同社が今後の成長に欠かせないと考えているのが、メーカー的機能の付加である。それもM&Aによってその機能を獲得しようと考えている。ターゲットははっきりしている。
「メカトロニクス用の機器を設計開発している企業です。それも大型の企業をM&Aするというわけではありません。10名以内の小さな企業でキーになる技術を持っている会社を傘下に収めたい」と松村はいう。3年前から探しているそうだ。
 
同社の持ち味である提案ができる商社、という機能にメーカー機能を付加することによって、商社としての力を強めたいということなのだろう。それにより、成長のスピードアップを計りたいということもあるだろう。
 
それにしても今回の不況は、長期化する傾向にある。
「余力はあります。当社は保険を利用した含み資産がある」と松村はいう。同社は事業保険を社員、役員を加入者として掛けている。これは全額損金計上されたもので、文字通り含み資産となっている。これを使うことができるというのだ。
 
堅実な会社は、あらゆる状況において準備が万端である。

(2009・3・31)

【第42回】儲からない代名詞の業種で大成功した男、少年時代の夢

株式会社トレジャーファクトリー

小さい頃から目標は起業だった
 
中学生時代から父を超えるのが目標だった男が着実にその目標を実行して、大学を卒業後すぐに起業した。12年かけてその会社は上場に至る......。そんな夢物語のような話はフィクションの世界では見向きもされない。しかし、男は現実のビジネスの世界でやってのけた。2007年、東証マザーズに上場したこの会社はトレジャーファクトリー。36歳社長が率いる「宝物の工場」だ。

同社社長の野坂英吾は、大学を卒業後の5月に会社を設立した。資本金は300万円。アルバイトをして貯めたカネだった。10月には1号店となるリサイクルショップをオープンしたのだが、実はこの時点で、野坂と同社の成功は半分約束されていたといっていい。
 
野坂の父親は商社マンである。その関係でシンガポールに8年住んでいた。家でホームパーティーを開くと父の仕事の関係者が訪れ、父の大きさが子供心に焼き付いた。いつかは父を超えてやる、と思ったのが起業のきっかけだというから大変なものだ。そうはいっても、将来起業するために小さい頃にできることは限られている。だから、仲間をまとめ、成果を出すことが練習だと考えて、野球部のキャプテンや学園祭の実行委員を務めた。
 
大学生のときに、ある経営者からアドバイスを受けた。
「身の回りに、こんなことがあればいいと思うことを50個書き出してみろ」
 
当時、量販店でアルバイトをやっていた野坂は、お客が新商品を買うと、まだ使える古い商品捨てていく現実を見て思っていた。もったいないなあ。そして、これだ、と閃いた。こうしてリサイクルショップを事業に定めた。
 
大学4年の夏には徹底してリサーチを行なった。近郊のリサイクルショップ48軒を回ったが失望が大きかった。店を見ると値札もついていない、商品の保証もない、接客サービスも皆無。店主からは止めておきなさいといわれ、心細くなった。だが、すべてを回りきって、吹っ切れた。


曇りガラスを透明にしたら売上げ100万円アップ
 
事業を始めるにあたって事業計画を作成したら、700万円が必要だと分かった。しかし資本金は300万円。必死になって店舗になる物件を探した。あまりの必死さに、ある経営者が超格安で倉庫を貸してくれた。
 
あるショップの70歳になる経営者は、店を閉めるからといって在庫を譲ってくれた。こうした幸運も重なって、1号店は資金30万円でスタートできた。それでも、当初は社長業の傍ら、高速道路のパーキングエリアでハンバーガーを売っていた。
「おカネをかけずにできる工夫はすべてやった」と野坂は当時を振り返る。電話番号はNTTと交渉し、下4桁2550を獲得した。プッシュホンの縦1列で押せる番号だったからだ。
1号店は倉庫だったので立地が悪く、店舗の裏が大通りに面していた。そこで裏側の曇りガラスを5000円かけて透明に変えた。すると「通りから商品がよく見えるようになり、1日100万円も売上げが伸びた(野坂)」。
 
1号店150坪がきっちりと回るようになり、3年目に2号店をオープンしたが、これこそが野坂の課題だった。
「多くのリサイクルショップは2号店までがせいぜい。だから3店目以上をやっていく方法を考えました」
 
そこでマニュアルを作り、店の運営を標準化していった。これで商品の査定にもばらつきがなくなった。
 
そして、POSシステムを導入した。
「この商売は在庫管理が肝だから」と野坂はその理由をいう。何が売れて何が売れていないかを把握する、それに尽きるのだそうだ。売れてないものは売り場を変える。1年以上経ったものは価格を下げる。そして回転率を上げていく。
「業界の平均が年間6回転ですが、うちは8回転」という野坂の言葉が、その効果なのだろう。こうして年に1店舗のペースで新店を出店していった。


中古品市場は年率10%で伸長
 
こうして、同社は売上げを伸ばしていったが、5年前の2004年に最大の危機が訪れた。上場準備を考え始めたときだった。
 当時8店舗だったのを、一気に年間で6店出店したら、途端に単月赤字が続いてしまったのだ。
「恐らく人材が足りず、薄まってしまったのでしょう」と野坂は振り返る。
 
しかし、ここからが野坂の真骨頂。行動が早い。すぐに店長たちに「危機だ」と話した。そこで行なったことは現場の「見える化」。当時、店には売上と粗利しか把握させていなかったが、経常利益ベースまで把握させた。本当に利益が出ているかどうかを店ごとに把握させたのだ。しかも、全店の状況を共有できるようにして、前日の状況を売上げ順に並べ、それをグラフ化して見せた。店舗が増えたのでエリアマネージャー制度を導入し、3人に地区ごとに把握させた。
 
この結果、売上げは半年で元に戻った。そして07年12月、東証マザーズ市場に上場を果たした。同社の08年2月期の業績は売上高33億7200万円、経常利益2億1700万円。規模は小さいが対前年の伸び率は売上高123%、経常利益136.5%と高水準だ。
 
同社は、ファッション専門のリサイクルショップを1年半前から始めた。すでに3店舗目がオープンしている。
「このノウハウを楽器、スポーツ、ホビーなどの専門分野に広げていく」と野坂の意気は軒昂である。
 
中古品市場は年率10%で伸張しているという。市場規模は5000億円だから、まだまだ小さいが、「エコ」「ロハス」「環境」「循環社会」と時代のキーワードを並べるほど、この市場が有望に見えてくる。この大不況も大いに後押しをするかもしれない。
 
それにしても、野坂が大学を卒業して起業するといったとき、野坂の親はそれを認めた上で「自分でやりなさい」といったそうだ。
 
野坂は3兄弟の長男。次男は兄の会社を手伝っている。3男は自分で会社を興したそうだ。まだ37歳。なんとも頼もしく、将来性のある経営者だ。

(2009・3・18)

【第41回】社員がひとりでに自立していく、すこぶる元気な会社の秘密

株式会社アイル

不自然さがない元気な会社
 
1991年、大塚商会でトップセールスだった男が、その部下たちと会社を興した。マンションの一室、社員6人でスタートした会社は、社長の一声で毎月詳細な月報を元に報告会を開催した。ある社員はそんなことをしなくても分かる、といったが社長は信念に基づいて、その報告会を続け、上場した今なお続けている。新人は1年間毎日日誌を書く。まるで教育機関のような会社、それが(株)アイル。いい会社なのだ。

会社を測る尺度はいろいろあるが、業績以外で会社の将来性を見るには、その会社を訪ねてみればすぐ分かる。アイルはその典型だ。
 
アイルの社内に入ると、誰からともなく元気な挨拶がなされる。よく、全員がすくっと立ち上がって挨拶をする会社があるが、そんな不自然さは微塵もない。社員が自らの判断でやっている、そんな雰囲気なのだ。
 
同社は1991年、主に中小企業向けにシステムソリューションをする会社として現社長の岩本哲夫が創業した。当時、システム化の波が企業に浸透し始めていた。といっても、1人1台のパソコンすら実現していない頃の話だ。
「特に中小企業の立場に立ったシステム構築の相談にのるような会社はなく、ここにビジネスチャンスがあると思った」と岩本は当時を振り返る。
 
しかし、ここで一つ難点があった。岩本は営業として活躍していたが、技術的なことに知識はない。そこで勉強をした。それも技術のみならず、生態系、複雑系といった相当知的な分野まで、貪るように知識を吸収した。


午後は社員に任せ、昼からは自宅に帰って犬の散歩
 
会社は順調に成長したが、94年から3年間、停滞期に陥った。売上5億円、社員30人程度で成長がストップした格好だったが、「外的な理由しか考えていなかった(岩本)」
冒頭にも書いたように、毎月の詳細なレポートによる報告を続けていたが、「結局、自分が把握していないと気がすまないことに気が付いた(岩本)」
 
そこで社長自らが変わった。
「任そうと思った」と岩本は端的に当時の気持ちを表現する。そして実際に行動に移した。昼から岩本は帰ってしまったのだ。
「朝8時には出社してましたし、お客さんには午前中に来てもらった」ので不都合はなかったという。本人は、自宅に帰り犬の散歩などをしながら、いろいろな問題点を整理し、分析していた。一人になる環境を作ったことでその大切さを学んだ。
 
会社も、機を一にして再び成長カーブを描き始めた。
「トップの考えが変わるということは、自分が思っているよりずっと大きい」と岩本は振り返る。
 ここから同社は、社員が力を発揮し始める。まず、95年から始めた新卒採用の人材が育ち、戦力になり始めた。96年には、パソコンのスクール(現アイルキャリアカレッジ)を開校した。当時、社員がパソコンに習熟していなかったため、スクールに通ったことが発端で、僅か4カ月で立ち上げた。
 
2000年には求人求職サイト「@ばる」を立ち上げ、翌年には東京に進出した。
 
05年にはWeb活用戦略支援サービス「Webドクター」を開始し、現在の同社の基幹事業である「システムソリューション事業」、「人材ソリューション事業」、「Webソリューション事業」の三本柱が確立した。こうして事業が拡大し、社員も増えていった。
 
実はこの事業の多角化が、同社の強さを生み出す原動力になっている。
 
例えば、97年頃から成長軌道に乗り始めたと書いたが、当時は金融危機が起こり、銀行の貸し渋りで中小企業は苦しめられていた。本来なら、環境の悪化で思うように売上げが上がらないはずなのに、なぜ業績が伸びたのか。
「一つの事業が悪くてもそれを別の事業がカバーしてくれた」と岩本はいう。システムだけで事業をしてなかったことが生きたのだ。


社員と社長の関係はフィフティフィフティ
 
岩本はこの事業の多角化を「クロスオーバーマネジメント」と呼んでいる。モノを作れば売れた時代、安いモノが売れた時代、良いモノが売れた時代を経て、現代は組み合わせが売れる時代だという。会社創業時に勉強した複雑系・生態系理論に基づいたビジネス展開で、単なる多角化ではないのだ。
 
実際、その効果は大きい。あるフランチャイズチェーンの顧客には、人事募集のホームページ作成からはじまって、基幹システムまですべてを同社がこなしている。
「一切合切全部できるのはうちだけ(岩本)」というのが最大の強みになっているのだ。
 
考えてみれば、クロスオーバーマネジメントとは、事業が相互補完的であると同時に、相互好循環的でもある。一つの事業がよければ、それが他の事業も伸ばしていくのである。
 
冒頭に同社は活気があると書いた。それは、社員に自立と責任を問うているからだろう。
「社員と社長の関係はフィフティフフティ」という岩本の言葉がそれを象徴していて、創業時から続けている月報会議でも、入社2年目にして、社長のような発言が出る。
 
こんな雰囲気はなぜ生まれたのか。それは社長がやるべきことをきちっとやっているからだろう。月報には何ページにもわたって社長のレポートが載るが、自ら丸二日かけて執筆する。新人の毎日の日誌には必ず目を通す。社長との会食を定期的に持ち、優秀な成績を収めた社員は海外研修に行かせる。
 
こういう社長なら、社員は自立もするし、ついていこうとも思うはずだ。
 
面白い話がある。同社には社内だけで頻繁に使われる「アイル語」なる言葉が存在する。「思い切りバットを振る」、「どの道を選ぶかより、選んだ道でどう生きるか」、「細部にこそ神は宿る」、「不安のお化け」等々。
 
これらの言葉は、実は月報に社長が書いた文章のなかから社員がピックアップしたものなのだそうで、それを社員が共有しているのだ。
 
社長が書いて残した言葉は、言いっ放しとは全然違う重さがある。社長だって書いたからには実行しなければならない。
 
この会社は有言実行の会社なのだ。

(2009・3・3)

【第40回】地方の花屋を東京に進出させた経営者の異色キャリア

株式会社ビューティ花壇

自衛隊のキャリアから一転、起業家を目指す
 
九州、熊本にあるまったく無名の花屋さんが東京に出てきて、大成功を収めた、といったら人はどう反応するだろうか。曰く、運がよかった。頑張った。真似のできない技術を持っていた。他社と発想が違った――。

恐らくその全部を実行して、この一介の花屋さんは会社組織となり、上場するに至る。会社名はビューティ花壇。葬儀用生花祭壇のトップ企業だ。
 
どんな創業者にもドラマがある。創業時の苦労は並大抵ではないからだ。だが、(株)ビューティ花壇の場合、その役割を中途入社の専務が担った、という点で他社とは違う趣を持っている。
 
同社社長の小田敬史は、防衛大学校出身の元自衛隊キャリアである。ところが、ビジネスを始めたい一心で、30歳のときに自衛隊を辞めた。
 
しかし、何か当てがあるわけではなかった。おまけにカネがない。
 
郷里の熊本に帰ると、先輩の紹介でビューティ花壇という大きな花屋を経営している三島美佐夫(現会長)と会う。葬儀専門の店だった。誘われたが、勤める気はないので断った。
 
2ヵ月ほど経つと、また三島から電話があった。「もう一つ会社を興すから一緒にやらないか」という誘いだった。それなら、と小田はその話に乗った。
 
そして5年が経った。ある日、また三島から相談があった。20数人いる社員のナンバー2からナンバー5までの4人が辞めたので、こちらの面倒を見てほしいという話だった。自衛隊出身だから組織作りは上手いだろうと思われていたのだ。5年間、新会社自体がビューティ花壇に世話になってもいたので、決断した。1996年のことだ。


会社がガタガタの状態から組織を作った
 
ここからが、小田のドラマの始まりである。そもそも葬儀用の生花祭壇作りには技術が必要だ。ところが「来てみたら、会社はガタガタになっていた。人はいても技術者がいない。どこから手を付けていいのか分からない状態でした」と、小田は当時を振り返る。
 
法人化していない個人商店だったので、発展させようにもカネがないし、個人商店には何千万円も銀行は貸さない。決算書を3期分持っていかないと融資の対象にもならないが、個人商店では望むべくもなかった。
 
仕方がないので技術者養成から始めようと考え、技能給制度を導入した。
「給与が上がる人は4、5万円。そうでない人は1000円と思い切って差をつけました(小田)」社員から不満も出たが、とにかくやり通した。
 
しかし、やはり3年も融資を待てない現実があった。辞めた人間たちが福岡で同じビジネスを始めていたし、熊本より大きな市場であることは間違いない。だが、進出にはカネがかかる。
「後輩の銀行の支店長代理に相談したら、年度計画を作り、きちんと月次報告をしろといわれました(笑)」
 
それを1年続けたら、なんと3000万円を融資してくれたのだ。
ところが、福岡進出は失敗に終わった。損益分岐点辺りまでは行くものの、後発でそれ以上の成果が出るほど甘いビジネスではなかったのだ。


東京に進出するも成果が上がらず地獄の日々
 
ここで、同社は東京に進出する。
何とかしたいと考えていた小田は、東京に行く用事を利用して調査をした。
 
ところが東京の葬儀は、白木の祭壇が主流。生花祭壇などないに等しい。
それでも進出すべきかどうか、小田は必死になって考えた。生花祭壇が普及できない理由がない。芸能人の葬儀や社葬は生花を使っている。消費者に聞くと、花がいいという。途中の葬儀社の段階に阻害要因があることが分かった。白木の祭壇は使い回しができる。しかし生花は1回ごとにカネがかかる。ならば葬儀社を説得すればいいと考え、進出を決めた。2001年のことだった。
 
東京に進出して、大田区に拠点を設けたがそれからが地獄のような日々だった。エリアの60数件に電話すると、ほとんどが来なくていいという。成果はほぼゼロだった。あまりに結果が出ない現実が、事務所のスタッフにも伝わった。
「そろそろ撤退ですか」とスタッフからいわれもした。小田は、みんなの士気を萎えさせてはいけないと、電話アプローチを事務所からではなく公衆電話からに変えたという。
 
考えてみれば、公衆電話にはエリアごとの電話帳がある。葬儀社に電話するのに便利で、以後この方法に徹したという。転んでもただでは起きないという格言があるが、まさにそれを地で行くようなしぶとさが小田にはある。
 
そんなもがき苦しんでいたある夜中、当たった葬儀社のリストを見ていたら、ふと気がついた。
 
小さな葬儀社には、差別化するものがない。大きなところではなく小さなところを当たってみようと考え、そこにターゲットを絞った。


小さな葬儀社から口コミで評判が広がった

「差別化できていますか? 騙されたと思ってやってみませんか」と小田は訴えた。ここから注文が取れだした。
一回50人程度の葬儀だったが、こんな葬儀は見たことがないといってくれた。徐々に評判となり、一度付き合ってくれた葬儀社が次も使ってくれた。半年後には売上げも出始め、落ち着いてきた。
 
そこで、次の段階での普及を考えた。ある出版社から、ビデオを作らないかと持ちかけられた。技術者は自分たちの技術が盗まれると、猛烈に反対したが、「任せてくれ」と最後は説得し、至る所に社名を出すことを前提に制作させた。そのビデオが売れ、次に講習会を開いた。こうして同社は全国区で認知されていった。
 
2003年にストックオプション制度を導入しようと熊本法務局に行ったら、誰もその制度を知らなかった。このままでは上場の手続きに失敗する可能性があると懸念し、本社を東京に移した。
 
マザーズへの上場は06年。07年には大阪に拠点を作った。今後は100万人都市に拠点を築いていく予定である。
 
それ以下の都市は、東京進出時に始めた卸売り事業を利用し、地域の花屋に卸すことを前提にネットワークを作っていく。今後の需要については増えることは間違いない。同社のこれからが注目される所以である。

(2009・2・24)

【第39回】平均年齢68歳、高齢ケータリング会社社長もう一つの肩書

マダム石島株式会社

料理は70年やらないと身につかない
 
高齢化社会に突入した日本の、モデルになるような会社がある。12人からいる社員の平均年齢は68歳。いずれも10年以上働いているベテランぞろい。全員女性。社長はなんと74歳。
 
こう聞くと、だれもがいったいどんな会社かと目を向けるに違いない。いたって普通の会社である。職種はケータリング。つまり、パーティーや会合などに料理やお弁当を届けるサービスをしている会社だ。

普通と書いたが、実は普通ではない。このような時期に注文が増えているというのだ。実際よく同社のケータリングを利用する企業に、なぜここを使うのかと聞くと、こんな答えが返ってきた。
「いろいろと細かい対応をしてくれる。パーティーの客層、年齢なども聞いた上でメニューを決めてくれる。しかも味がいい」
 
社長の石島まり子にその話をふると、「あそこはそれでも注文が大雑把な方。もっと細かく対応しているところもある」。
 
なるほど、世のほとんどのパーティー会社が料理の内容など細かく吟味させずにパッケージで売るのに対して、同社はきめの細かさを売り物にしているのだ。それもいわゆるレシピを基に 調理法を定めているわけではない。塩加減がどれくらいか、火はいつ止めるか勘で分かる。分量もタイミングも体が覚えているというのだ。
「料理は70年やらないと身につかない(石島)」
 
石島の料理の歴史は50年余。つまりこれからが、出番だというわけである。


偶然から生まれた中食ビジネス
 
石島がこの事業を始めたのは50歳少し手前の頃だった。しかし、そこにいたる石島の経歴を聞くとなるほどと思わず納得させられる歴史がある。
 
学校を卒業してからNHKの事業部に入ったが、間もなくして社内結婚をする。結婚すると家庭に入る時代だった。しかし、テレビ放送が始まり、長寿番組『今日の料理』がスタートする。そのとき番組への出演依頼が舞い込み、それから14年間『今日の料理』のインタビュアーを務めることになる。
 
その後新たな道を模索し、主婦の友社に入社、料理担当の記者を務めることになった。テレビで料理の先生を相手にしていたネットワークを、今度は出版の世界で活かしたわけだ。
 
ところがある事件をきっかけに、今度は出版社を辞めた。
「腹に据えかねることがあり、抗議して辞めた(石島)」そうだ。それが50歳直前の頃だった。しかし、そんな年齢で当時は職などない。ただ偶然にも香川県にある冷凍食品会社の社長と知り合い、入社し、その商品を東京で売ることになった。給料は半分になったが、生きがいを見つけた思いだった。
 
商品はシュウマイと餃子。ところが、まったく売れない。今までは顔見知りだった料理の世界。ホテルにレストランは全部だめ。料理の先生にも冷たくされて「人間の裏側を見た(石島)」思いがした。
 
その頃あるスーパーに、一度持ってくるようにといわれ、シューマイや餃子に手作りのサラダなども持って行き、その場で作って担当者に試食させた。
 
それが受けた。今度うちでパーティーがあるから作ってくれと頼まれ、それが現在のケータリングビジネス第一号となった。それが噂となり、口コミで評判が広がった。
 
すると社長に呼ばれた。これはクビに間違いないと覚悟したら、
「これはニュービジネスだ。女だけの会社を作って、この仕事をやれ」と社長いわれた。
 
惣菜や弁当――いわゆる中食ビジネスの会社である。資本金もその社長が250万円、石島が250万円出してつくった。1986年8月のことである。
 

大手企業も注目し、事業提携も
 
しかし、石島にはそれほど自信があったわけではない。
「当時、人が作った料理にカネを出すことはなかった。だから主婦たちに喜ばれるとは思ってはいなかった」と石島は述懐する。しかし時代が石島についてきた。その頃から主婦が勤めに出始めたのである。これに注目した大手企業から、続々と提携の申し込みや注文が出始めた。デパートからも注文がきた。世はバブル景気に沸き、続々と注文がきた。
 
こうして石島のビジネスは瞬く間に成長した。だが、失敗がなかったわけではない。苦い思い出もずいぶんした。
 
本社のすぐ近くの店が空いたので、惣菜店を開こうと思い、大手都銀に借りに行った。高々300万円の話だったが、銀行の支店長に「女一人に何ができる」といわれた。すぐさま口座を解約した。
 
大手外食企業から持ちかけられた事業は、スタートこそ好調だったものの、先方の社長が辞任。石島一人でがんばったが、結局借金が残った。
「以前は惣菜店も何店か出していたが、今はこのケータリングと弁当に絞って事業を行なっている」と石島はいう。


陸連科学委員の肩書きの意味
 
ところで、石島にはもう一つ別の肩書きがある。それは日本陸上競技連盟科学委員というものだ。失礼ながら、一介のケータリングビジネスの社長が、なぜかくもいかめしい肩書きをお持ちなのか。
 
石島がその種明かしをしてくれた。ソウルオリンピックの頃からというから、委員歴は20年以上にも及ぶが、当時、陸連の合宿などの食事の状況は悲惨の一途を極めていたという。アメリカでは全員食中毒にかかった。なぜなら、気温38度のところでマカロニサラダを出したから。日本のマカロニサラダは腐らないと栄養士がいったとか。また、ひじきの煮たものをどんぶり一杯出し、30分以内に食べると鉄分が増えると宣った栄養士もいた。
 
そんなミスマッチが陸連合宿の現場であり、当時の桜井陸連会長が石島に依頼したのだとか。
 
石島は違った。あるとき鮭のムニエルを食事に出そうとしたが、練習でへとへとの体はバターなど受けつけない。とっさに石島は照焼きに変えた。付け合せの粉吹き芋は肉じゃがに変えた。こうして陸上競技の合宿地として名高いアメリカのボルダーにも中国の昆明にも石島はついていくのだという。
 
考えれば、人生にはいろいろな転機がある。その転機を、うまく活かすかどうか、それはひとえにその個人の意志の強さと関係する問題だ。
 
その意味で、石島は転機をプラスに変えた実践者といえようか。

(2009・2・10)

【第38回】新鮮で美味しくしかも安いスパゲティー店の価格戦略

株式会社ポポラマーマ

この不況下で出店攻勢をかける

「物は相場の七掛けで売れるようになる」とは、ペガサスクラブ創始者の渥美俊一がいった言葉だそうだ。この理論を実践しているのが、東京都江戸川区に本社を置く(株)ポポラマーマである。
 
同社は茹であげ生スパゲティ専門チェーン『ポポラマーマ』を運営する外食産業の成長株だ。創業者で社長の安家美津志は、創業前、まだ別の会社の幹部として新規事業立ち上げに奔走していた時に、この渥美俊一の講演テープをことあるごとに聞いていた。

その後独立し、生スパゲティの店を出す段になって値段をいくらにするか迷っていたときに、ふと、冒頭の言葉が甦ってきたのだ。
 
相場の七掛け――。この言葉を思い出して、それまで解決できなかった価格に関する迷いを払拭した。
「ファミリーレストランでのスパゲティの平均的な価格帯は680円から700円でしたね。だから、うちはそれを七掛けして490円にした」安家はそう回顧する。
『ポポラマーマ』はこの安さと、新鮮さが売り物の生パスタという商品力に支えられて、95年の創業以来、成長を続けてきた。現在年間の出店数は14~15店。総店舗数は109店(09年1月現在、フランチャイズ加盟店32店を含む)である。昨年11月から今年の1月にかけても5店舗を出店するなど勢いは衰えていず、この不況下での実績であることを考えると、なかなかのものだといえよう。


廻り回って生スパゲティにたどり着いた
 
そもそも社長の安家は学生の頃、牧場経営をやりたいと考えていた。ところが、いざその夢を実現しようとすると自分は何にも牛のことが分かっていないのに気づいた。牛を牧場で飼うといってもそれは乳牛なのかそれとも食用牛なのか、あいまいなことが多過ぎた。
 
そこでダイエーミートに入社する。当時、肉を扱わせると日本一だった会社である。ところが、7年近くいたがダイエーミート解体の憂き目にあう。当時、同社で新規事業を手がけていた安家とその仲間は、すかいらーくの傘下、グリーンテーブルという焼肉レストランを始めることになった。ところが、3年間で5店舗を運営したが思うようにはいかず、この事業からも撤退し、安家はシチエ(現ウェアハウス)というアミューズメント運営会社に移る。ここでも新規事業に携わり、小さな規模で開店できる外食のフランチャイズ事業を担当した。
 
ここで出会ったのが、スパゲティである。ドリア、グラタン、ピザ、パスタなどをメニューにしていたが、ドリアやグラタンはメインにはならず、ピザはデリバリーが圧倒的に強かった。そこでパスタを強くしようと考え、いろいろな店のパスタを食べ歩いた。そこで生パスタの美味しさに気づく。
 
これだと思い、3分で生パスタを茹で上げる装置を開発し、何とか立ち上げた。ところが今度は利益が出ない。売り上げが上昇した分、経費もかかってしまったのだ。
いろいろ考えたが、結局、店の坪数が大き過ぎるという結論にいたった。そこで、経営者に20坪くらいの小規模な店での展開を具申したが、当時はどの業種も大規模店が 主流になりつつあった。提案はあえなく否定され、経営者からはそれほどその規模にこだわるなら自分でやればいいと、勧められる。
「これも何かの運命かなと思って、独立することにしました」と安家は当時を振り返るが、自信をもって行なった提案が否定されたことへの反発もあったのだろう。そして冒頭の価格設定に話が戻るのだ。


安いスパゲティをさらに100円引き
 
490円という安さと、生スパゲティの美味しさとで店は活況を呈することになった。
 
しかし疑問は残る。それは、なぜその価格でやっていけたのかという単純な疑問である。普通、仕入れ価格や人件費などからコストを算出し、売値を決める。だが安家は最初に価格を決めてしまったのだ。
 
売値を決めてしまうと、とにかく安い素材を仕入れようとする。すると安かろう悪かろうになってしまう心配はないのか、その問いに安家は「安い商品を必要とする情熱がその問題を解決してくれた」と答えた。情熱をもって探せば、必ずそういう商品に出会うということらしい。
 
94年12月、西葛西に1号店を出し、翌95年4月には2号店を出店した。退職金や親の遺産、区の融資制度などをフル活用して出店費用に充てた。どちらも十数坪の小さな店舗だった。こう書くと、順風満帆にやってきたようだが、実は当初、安家に不安がないわけではなかった。そもそも、パスタだけで客が呼べるのかという根本的な不安だった。
 
そこで、調べてみるとパスタとケーキだけで3000万円を売り上げている店があることを知り、社員をケーキ屋に研修に出し、同じメニュー構成にしたのである。95年12月には3号店を東京江東区木場のイトーヨーカ堂内にオープンした。
 
現在、同社ではさらに100円安くした390円のメニューを開発した。攻めの姿勢を崩さないというわけだ。実際「ニンニクと唐辛子のスパゲティ」は390円。これは相当に安い。しかも同社は年3回半額セールを行なっている。店舗数も増え、現在は細かなコストを見直すなど、業務改革プロジェクトを推進中だという。
 
消費が急激に細り、多くの小売・外食が低迷するなか、「安さ」が一つのキーワードになってきている。その意味で同社の戦略は今「旬」である。しかし、安家はあくまでこれにさらに磨きをかけるために手を打っている。生き残りをかけた熾烈な外食戦争のなかで、生き残る会社はこんな会社かもしれないと実感させられた。

(2009・1・27)

【第37回】知られざる精密技術を持つ企業のルーツは山内一豊

株式会社ミロク

鉄砲鍛冶の息子が始めた地場産業
 
多くの人が普段全く接しない分野の事業の一つといっていいだろう。猟銃の製造をやっている企業が高知県にある。米国のブローニング製として出荷されるその猟銃は評判がすこぶるいい。聞けばその技術のルーツは山内一豊の時代に遡る。これを製造する(株)ミロクは、その技術を派生させ、工作機械や自動車の高級木製ハンドルの製造などにまで広げている。

日本の地場産業の中には特別な技術を持った会社が少なくないが、ミロクもその典型の一つ。しかし、そもそも高知になぜ鉄砲作りの技術が伝わったのか。同社社長の弥勒美彦はこう説明する。
「慶長6年(1601)、山内一豊が掛川から移封の際に、鉄砲鍛冶が同行し、この地に鉄砲を作る技術を伝えたといわれています」
 
同社の創業者、弥勒武吉はこのルーツを引いた鉄砲鍛冶の息子である。創業は1893年。猟銃の製造を始めた。また1934年から捕鯨砲の製造を開始した。戦後はGHQが猟銃の製造を禁止したため、捕鯨砲一本に絞った。折りしも安価な蛋白源としての鯨が注目され、捕鯨大国日本の一翼を担った。
 
当時、大洋漁業(現マルハ)の名砲手として知られた泉井守一が「ミロクの捕鯨砲はいい」とお墨付きをくれ、同社の技術力は大いに評価されたという。
 
ところが捕鯨はやがて衰退していく。幸い1951年、GHQが猟銃の製造を解禁したため、猟銃の製造を再開した。捕鯨砲で得た利益を工作機械の購入に充て、量産化が可能となった。そして事業は順調に推移し、1963年には大証2部に上場する。


高度な技術を結集させて作る猟銃の精密さ
 
同社の飛躍のきっかけとなったのが1966年の米ブローニング社との提携だった。この提携により、ライフル銃の受注が増加し、安定的な量産体制を確立していったのである。現在ではミロク製猟銃のほとんどがブローニング社へのOEM(相手先ブランドでの生産)供給である。
 
ところで銃の製造には、相当緻密な技術が要求される。例えば銃身は円柱形の金属の棒をガンドリルマシンという機械でくりぬいていく。棒が少しでも曲がると厚みが異なるし、バランスが崩れ使いものにならない。ただただ真っ直ぐにくりぬいていくというのは単純なようで大変な技術なのだ。
 
また手で持つ銃床の部分は、木を削り出して作る。これまた微妙な加工技術が必要とされる。
 
そして銃身と銃床をつなぐ本体部分(レシーバー)。これもインゴット(金属の固まり)から削り出して作る。溶接は基本的に行なわない。しかも、この部分には表面に飾り模様を入れる。この模様とて1ミリの間隔に20本の線を入れるという、まるでお札の模様を描くような精巧な技術なのだ。
 
そしてこの3つのパーツを一体にする。その時にピッタリと接合できなければモノがモノだけに大変な事故に繋がりかねない。しかも命中率の精度が要求される。緻密な技術を結集させて作るのが猟銃なのだ。


中小企業庁「元気なモノ作り企業300社」に選定
 
こうした同社の技術は、現在さまざまな事業として確立されている。
 
銃身をくりぬくためのガンドリルマシンは、例えば自動車のシャフト製造にも使われる。同社はこうしたニーズに応えてミロク機械を設立し、マシンの製造販売を行なっている。この市場は年間50~60億円の規模だが、シェア60%以上を占めている。高性能が評価されているのだ。
 
また、銃床の木を削りだす加工技術からは自動車のハンドルが生まれた。トヨタの高級車アヴァンテの木製ハンドルは同社製である。
「他社製は木を薄くベニヤ状にスライスして、それを張り合わせて作るが、ウチのは銃座と同じく、一つの木から削り出して作る。強度が全く違うのです(弥勒)」
 
同社の業績は2008年10月期で売上高152億2300万円、経常利益9億6700万円。前期より利益額は落ちたが、基本的に業績は安定している。
 
売上のシェアでみても猟銃事業が40%強、工作機械が27%、自動車関連が31%(残りはその他事業)と3つがバランスを保っているように見える。
しかし、世界的な傾向として銃社会に批判の目が向いているなか、同社にリスクはないのか。
「もちろん常にリスクはある」と弥勒は語る。「だからこそ第4の事業を開発したい」とも。しかし、「当社は90年ぐらいからいろいろな事業に手を出し、授業料もそれなりに払った(弥勒)」
 
第4の事業といってもあくまで慎重に自社の得意分野で勝負しようということである。地味であってもきらりと光るこういう地域の産業が増えてほしいものだ。
 
ミロクは2006年、中小企業庁が選定した「元気なモノ作り中小企業300社」に高知県から唯一選ばれた会社である。猟銃の製造技術が評価されてのことだ。
実際、同社の工場を見ると、モノ作りにかける意気込みが痛いほど感じられる。
 
ところで、取材の部屋に入ると、壁際に同社の製品が置かれていた。そこに、ゴルフのパターが一つ。聞くと、このパターもインゴットからの削り出しで作ったものだった。溶接は一切していない。記念の限定生産だそうだ。なるほど、技術を尊重する思想はこんなところにも生きている。

(2009・1・14)

【第35回】運命に翻弄された男が興した会社の倍々ゲーム成長

株式会社エヌ・ピー・シー

世界のアントレプレナーの日本代表
 
会社というものは、ほとんどの場合一人の力でどうにかなるようなものではないが、時に一人の人間の存在が会社の存在を左右するようなことが起こる。(株)エヌ・ピー・シー社長の隣良郎が会社を立ち上げた背景には、そんな運命のいたずらに翻弄されたかのような人生模様が見えてくる。だが、その話の前にエヌ・ピー・シーという会社について触れておこう。

エヌ・ピー・シーは太陽電池製造装置の会社である。同社の創業は92年だが、当初、同社は真空包装機を製造するメーカーだった。しかし、94年から太陽電池製造装置の事業を始め、現在に至っている。この数年、太陽電池の普及が急速に高まってきたこともあり、業績を順調に伸ばしている。
 
一昨年度(07年8月期)の売上高は66億円(前年比158%)、経常利益は7億9000万円(同132%)、08年8月期、つまり昨年度は売上高93億7300万円(前年比142%)、経常利益14億3100万円(同181%)である。この数年に限っていえば倍々ゲームのように業績を伸ばしてきた。そして、昨年は東証マザーズ市場に上場を果たした。
 
こうした業績と成長度を評価されてか、世界のアントレプレナーが集まって世界のトップを決める「アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー」2007年度の日本代表に選出されている。
 
こうした順風満帆といえる同社だが、その発足は冒頭に書いたように、運命のいたずらに弄ばれた結果の創業だった。
 
大阪大学工学部を卒業した隣は伊藤萬(その後イトマン、現住金物産)に入社した。ところが、入社9年目に会社がおかしくなった。世間を騒がせたイトマン事件の勃発である。ここでは詳しく述べないが、会社が莫大な損害を蒙り、ついには合併されるに至る。
 
隣は逡巡を重ねた上、仲間数人と一緒に日本ポリセロ工業という会社に入る。33歳だった。妻が妊娠していたこともあり、冒険はできなかった。
 
ところが、入社した日本ポリセロ工業も財務上、破綻寸前の会社だったのである。ここから、隣の人生は大きく変化していく。


負債1億2000万円を抱えて新会社設立
 
日本ポリセロ工業は真空包装機を製造する会社だった。技術の信頼性はあったが、倒産は必至だった
 
隣はいろいろ考えた末に、この会社の営業権と負債とを引き継いでエヌ・ピー・シーを設立する。入社僅か半年後のことだ。
「イトマンのときは港区の会社にいて接待は料亭に銀座のクラブ。しかし荒川区に来たら、居酒屋にスナックになった。でも。別に何も変わりはしないことに気付いた。その上職人さんたちと飲んで気持ちも楽になった。あの頃俺は何をあんなに一生懸命やっていたのだろうとね(隣)」
 
財務が破綻していることが分かった時に、隣は倒産したら職人さんたちが困ると考えたという。幾ばくかの勝算もあり、結局会社を興したわけだ。
「1億2000万円の負債がありました。これをいつ返せるかなんて考えると怖いので細かく計算しなかった(隣)」が、製品には定評があり、急に売れなくなるものではないことが分かっていたので、とにかく販売は現状をキープすることに全力を注いだ。全員で得意先を回った。競合他社に噂を立てられていたが「顔を出せば分かってくれる。一度で駄目なら何度でも顔を出したし、クレームの処理に行ってできなければまた次の日に出向く、とにかく顔を出すことに終始した(隣)」
 
そして、物を作る仕組みを変えていった。外注部分が多かった製造工程をすべて内製化し、これでコストが一気に削減した。
 
こうして、業績は見る間に回復し、借金もなくなった。


エコノミストよりも正確な市場予測を行なう
 
94年、ブリヂストンから奇妙な依頼が届いた。それは真空包装機を改造したものを作ってくれというものだった。いわれるがままに作ると、通常200万円で販売するものが500万円で売れた。
 
そのうちに各メーカーから立て続けに注文が来るにいたって、この装置が太陽光発電のパネルであり、この分野が有望であることに気付かされたのだ。
 
同社では改良を重ね、品質を高めていった。当時一番大きな市場だったアメリカにも売り込みに行く。ここでも評判がよかった。
これには理由がある。
「仕様にうるさい日本のメーカーにもまれていたこともあるでしょうし、それ以上に食品業界と付き合っていたことがよかったのでしょう(隣)」
 
真空パックは食品の最後の工程になる。デリケートな食品のパッケージの、最後の工程でトラブルは起こせない。そのため頑丈な製品を作っていたのである。さらにいえば、日本からの駐在員が日本と同じく、毎日のように顧客を回った。トラブルがあれば、すぐに飛んで行った。その対応がよかったのだ。対応のよさに日米の違いはない。
 
同社は当初パネル部分のラミネ―ターだけを製造していたが、この先この分野で伸びるためには、その前後の工程の装置も作らなければならないと考え、ついに主要4装置を作るメーカーへと成長したのである。
 
さて、同社が強い会社であることを知る一つの例が、自社での市場予測である。隣は、太陽電池の市場予測を必ず自社で行なっている。
「どんなアナリストのいうことも信じていない。だって太陽電池のメーカー150社のうち130社はうちの顧客。1社ごとに生産状況を把握しているので、それを積算すると、自ずと予測数値は出る(隣)」というのだ。
 
その予測では、市場規模は3年後に現在の約2倍となる。隣はその時点で同社のシェアを現在の42%から、60%に引き上げる目標だという。
 
ところで「会社を潰すリスクの8割は社長にある」というのが隣の持論である。
「環境が悪くて会社が潰れることはない。儲かりだすと、急に異業種交流会にでたり、焼き鳥を食べていたのがしゃぶしゃぶになる」
 
権力を履き違えるというのだ。だから、同社では2年前にほとんどの権限を部長クラスに委譲した。
 
そこで社長が取り組んだのは内部統制の強化。
「先頭にたってやっている。しかも決まりを作って仕事をしだしたら、さらに利益が上がってきた(隣)」
 
こんなリーダーがいる会社は強いに決まっている。

(2008・12・10)

【第34回】着メロを大ヒットさせた音楽科出身社長「成功」の法則

株式会社フェイス

超オタクが年商500億円の会社に成長
 
世の中には有名な事業の裏に、一般的には知られていない企業の存在がある。例えばおもちゃの世界でいえば、大ヒット商品「たまごっち」はバンダイの商品とだれもが思っているが、これを企画、製造したのは株式会社ウィズという会社である。

携帯電話のサービスにも似たような話がある。携帯電話の着メロサービスはNTTドコモが99年にスタートさせ、爆発的なヒットとなった。これは周知の事実だが、当時、このビジネスモデルを作り、裏でそれをプロデュースした会社があったことをわれわれは知らない。
 
その会社が京都に本社を持つフェイスである。東証1部上場の同社の2008年3月期の売上高は500億円、経常利益は17億円。経常利益が低く感じるが、同社はこの数年、海外など広範にビジネス展開をしているからで、それ以前は40~50億円台の経常利益を確保している。
 
同社は創業以来ずっと音楽の配信をビジネスとして行なってきた会社である。今でこそ、音楽のみならず動画、ゲームなどさまざまなコンテンツを配信しているが、同社の根源はあくまで音楽だ。
 
同社の歴史を紐解くと面白い。インターネットのずっと以前、まだパソコン通信といっていた時代の92年に現社長の平澤創がこの会社を創業した。そして、だれよりも早く音楽のダウンロード販売を始めた。94年にパソコン通信のニフティと音楽配信をスタートさせたのである。当時はパソコンを使う人自体が「オタク」と見られていた。その時に、パソコン通信を使って音楽を配信するなど「超オタク」の世界である。当時、だれが年商500億円の会社へと成長すると考えただろうか。
 
同社はその後、他社と組んで日本初のインターネット上でのカラオケサービスを提供したり、音源技術、音楽配信技術の実用化をして、99年に着メロをスタートさせるに至る。


普通なら1、2年かかるビジネスを数ヶ月で立ち上げた
「最初のパソコン通信時代は無謀なことをやっていた。自殺行為。今ならやらない」と創業社長の平澤創は語る。
 
ワンルームで社員3名、みんな20代で無茶ができたこともあったが、何より、これは将来、大きな波として来るだろうなと感じたのである。
 
ビジネスでの失敗もしたし、97年には、ある銀行の支店長が無担保で3000万円の融資をしてくれたことで、危うく倒産を免れたという経験もした。しかし、同社はこうした試練の中で重要な経験とノウハウを積んでいった。
同社の業績が急上昇に転じたのは2000年度から。これは99年に「着メロ」事業をスタートさせたからだが、この時、同社は他社のやらないことをやった。それは「着メロ」のビジネスモデルを作り、NTTドコモに提案をしたことだ。
「儲かりますから一緒にやりませんかと提案した(平澤)」と当時を振り返るが、ここに同社の戦略の根元があるのだ。
 
実は平澤は、この時一つのことに目を付けていた。それは、着メロの歌本が月間80万部も売れていたことだ。コードを携帯に入力すると着メロが聞けるようになる、コード集ブックである。これなら、ダウンロードした方が便利だ、と考えたのだ。
しかし、平澤が他と違ったのは、早くビジネスを立ち上げることに全身全霊を傾けたことだ。
「いち早く市場を創造するには、アライアンスしかない」と平澤は考え、半導体メーカー、携帯メーカー、業務用カラオケ通信会社など、プロを集めてビジネスモデルを構築したのだ。幸い誰も手をつけていない頃から、音楽配信事業を、手掛けていたという実績があり、このビジネスを立ち上げるためのすべてのノウハウを持っていた。フォーマットをどうするか、半導体に入れるための音のアルゴリズムはどうか、著作権料をどうするか。要はプロデューサーに徹したのである。
「数ヶ月でこのビジネスをスタートさせるのに必要なすべてのことをした。普通なら、1、2年はかかったはず」と平澤がいうとおり、苦しい時の経験とノウハウがすべて役に立った。このプロデューサーに徹するという姿勢が、成功を生み出したといっても過言ではない。


プロデューサーに徹して成功を収める
 
そもそも社長の平澤は大阪芸大の音楽科出身で、作曲やアレンジを学んでいた。学生時代は、まだメジャーでない頃の音楽事務所「ビーイング」でアルバイトをしていたが、卒業して任天堂に入り、ゲームの音楽作りなどを担当した。
 
しかし、どちらも自分とは合わず、だが音楽の道にはこだわって、結局フェイスを設立することになる。面白いのは作曲やアレンジと、今の仕事には大きな共通点があるということだ。どちらの仕事も一言でいえば、プロデュース業。
 
平澤には、そういう天賦の才があったのだろう。
同社の事業はこうしたアライアンス戦略で伸びてきたが、その中で唯一異色なのは、傘下のウェブマネーである。
 
同社がウェブマネー社を買収したのは、2003年。赤字だったウェブマネーを2年後に黒字化し、2007年にジャスダックネオ市場に上場させた。
 
ウェブマネーとは、ネット上で決済するための手段で、一定の金額分をコンビニなどで口座に入れておけば、ネット上でモノが買え、サービスが受けられる。他の決済手段と違い、個人情報が開示されないので顧客にとっても安心感があるわけだ。
 
同社がネット上でさまざまなコンテンツのサービスを展開していく上で、「課金」は重要な位置づけを持っていたはずだ。もともとゲーム分野に強い会社だったので、「顧客先が同じで、システムも共通化できた(平澤)」ことがますますメリットを拡大していくだろう。
 
また、フェイスは海外展開を数年前から積極的に行なっている。
 
2002年、東証1部へ上場したのと同時期に、サンフランシスコに現地法人を設立。その後、フランス、中国、シンガポール、韓国などで、さまざまなビジネスを展開している。
 
すべてが上手くいったわけではないが、その都度、事業再編なども織り交ぜながら、海外での活動に勢力を傾けているのは確かだ。
「アジアでいえば、ベトナムとインドに注目している。特にベトナムはいろいろな産業が伸びてきており、面白い拠点になる可能性がある」と平澤がいうように、さらに海外での事業展開を進めていくのだろう。
 
このビジネスはもとより国境のないビジネスなのだから。

(2008・11・25)

【第33回】独自の「14(エクシブ)」方式で業績を拡大させるリゾート会社の戦略

リゾートトラスト株式会社

業績は常に増収増益
 
アメリカ発の金融ショックが全世界を駆け巡るなか、不安要素も多いが、日本では近年会員制のリゾートホテルが業績を伸ばしてきた。団塊の世代が2007年から定年を迎え、リゾート市場がさらに拡大していくなか、会員制リゾートホテルの開発・販売でトップを行くリゾートトラスト(株)の業績は近年急拡大した。今後のことはともかく、同社はどのような戦略で業績を伸張させてきたのか。

そのヒントをリゾートトラスト社長の伊藤勝康は06年11月に開業した高級リゾート「エクシブ京都八瀬離宮」のデータを見ながら答えてくれた。社長自ら驚いていたのが、その販売の傾向だ。なんと一番高い部屋の販売率が90%にも達していたのだ。
「やっぱりね。高い所から売れるんです(伊藤)」
 
一部屋を14人で所有するのがこの会員制の仕組みだから、実際の会員数は部屋数×14という数字になる。それでなお高い物件が90%も売れているというのだ。ちなみに高い所の価格帯とは3000万円前後(年26泊の権利)もするのだ。しかも、この「エクシブ京都八瀬離宮」は敷地約4万�という広大なもの。同業他社のみならず、京都に進出したい外資系ホテルなどからも羨ましがられる立地とスペースである。
 
業績も年々増収増益を重ね、07年度は売上高1047億0800万円(前年比107%)、経常利益142億4000万円(同103%)と好調そのものである。
 
同社の創業は1973年に遡る。田中角栄首相(当時)の日本列島改造論がもてはやされた頃だ。
「当時はホテルやリゾートといってもいいものがなかった。地方は特にそうだった(伊藤)」
売上は好調だったが、2年後にオイルショックが襲った。
「キャンセルが相つぎ、潰れる寸前までいった(伊藤)」が、大手商社やゼネコンなどに助けられ、漸く凌いだ。
 
ところで、40代以上がリゾートと聞いて思い出すのがバブル景気である。日本中で数多くのリゾート開発が行なわれ、そして多くが不良債権と化した。その時、リゾートトラストはどうだったのか。痛みはしなかったのか。その問いに、伊藤は「オイルショックを経験していましてね、予感のようなものがあったのです」と静かに答えた。大量の仕込みもせず、急激な拡大路線とは無縁だった。それでも当時開発した山中湖や白浜(和歌山県)はコストが異常にかかったという。


大都市から2時間程度の場所にリゾートを造る
 
同社の開発に勢いが出たのは2000年以降だという。その契機となったのが、熱海市の沖合いの島「エクシブ初島クラブ」だ。バブル時に日本海洋計画(株)が開発し、この倒産により長銀の破綻にも大きな影響を与えたといわれる案件だったが、リゾートトラストが買い取り、見事に再生させた。この種の物件が全国にあり、同社は開発を加速させることができたのである。
 
ところで、同社のリゾートは多くが大都市から2時間程度の場所である。
「30年前は5~6時間かけていくのがリゾートという感覚がありましたが、今は近い方がいいようです」と伊藤はいう。
確かに昔と今とではお客のライフスタイルも感覚もまったく違ってきているわけだから、その変化に対応するのは当たり前の話だが、実は同社ほどそれを忠実に行なっている会社はない。それは、常にお客のニーズを聞き、そこから商品開発を行なっているという点だ。
 
リゾートトラストは創業して10年で業界トップになった。営業力が強かった。当時、大京観光の辣腕部長を引き抜き、電話営業で契約を進めていった。見学を勧め、見に来てくれたお客は契約をしてくれた。
 
ところが当時の会員制のシステムは早い者勝ちの予約制。当然、お客が集中する季節は、予約が取れないお客から不満が噴出した。クレームの嵐。営業はただただ逃げ回った。
 
予約の方法にも営業方法にも問題があると分かった伊藤は、その両方を変えた。
 
特にお客の要望をきちんと聞くようになった。次はどこに行きたいか。部屋のサイズはどれくらいがいいか-----。これを次の開発につなげた。
 
予約方法についても、何故この方法がダメかを全従業員から聞いた。その結果生まれたのが、一部屋を14人で共有するタイムシェア方式だ。ちなみにエクシブとは14という意味である。日本の休日を考え、2泊3日で春夏秋冬、連休などもみんなが共有できるのは、14人で26泊だと考えたのだ。


周囲が考える以上に堅実な会社
 
同社は「5年後に利益を250億~350億円くらいに持っていきたい(伊藤)」と考えている。もちろん様々な戦略が既に始動している。
 
東京ミッドタウンにオープンした「東京ミッドタウンメディカルセンター」は米ジョンズホプキンス大学との提携事業で、高級診療施設である。
 
会員の高齢化、新たな団塊の世代の参入などを考えれば当然の事業だ。
「シニアアパートメントを医療施設などと一緒にやっていくし、ホテルがあればいざというときの介護サービスが必要になってきます」と伊藤はいう。
 
それだけではない。港区台場で始めたような都市型のアーバンリゾートも戦略の一つだし、「通常のホテル業務も今後はやっていきたい(伊藤)」という。「例えばバリでは200室のホテルを50億円で買うことができる。同じサイズを日本で造ろうとすると220億~230億円くらいかかる。部屋の料金は変わらない(伊藤)」とすれば、充分にビジネスになると踏んでいる。伊藤の頭の中には次なる開発の構想が山のように入っている。
 
心配は、冒頭にも書いた経済状況の不安定さである。ただし、リゾートトラストは拡大型路線の会社ではない。周囲が考える以上に着実、堅実な会社なのだ。
「リゾート開発は資金計画が一番大切(伊藤)」という言葉にそれが象徴されている。
 
堅実なのは名古屋人だからか、と振ると、はにかみながら「そうかもしれません」と伊藤は答えた。その伊藤が中期5カ年計画で「利益を急速に伸ばす(伊藤)」拡大路線に転じる。都市部のシニアアパートメント、地方での展開、エクシブシリーズの大型化、アーバンリゾートの開発、そしてメディカル事業など戦略的事業の案件も目白押しである。
 
これを完遂させるのに重要なポイントは、一にも二にも人材の育成だろう。そう聞くと伊藤も力強く肯いた。

(2008・10・15)

【第32回】辛抱を重ねて人気サイトを立ち上げた広告代理店の先見

株式会社ぐるなび

手間暇かかるし、カネもかかる

「ぐるなび」と聞けば、インターネットを利用している人にとっては近しいサイトのひとつである。「レストランや居酒屋のガイド」をしてくれる。会合場所の案内代わりに、メールで「ぐるなび」の(その店の)アドレスが送られてくるから便利だ。
しかし、こんなにわかりやすいサイトだからこそ、時間もカネもかかる。これを成功させるということは、実は大変なことなのである。

そもそもメディアの立ち上げには、カネも時間もかかる。雑誌の創刊なら何億円も宣伝費をかけて、ようやくそこそこ売れる程度。テレビだってWOWWOWやスカパーは苦労の末、ようやく軌道に乗った。ネットも然り。無数のサイトの中から注目されるのは大変だ。どのメディアも売上げの低空飛行が続き、何年か後に、ようやく日の目を見る。さもなくば消える。これがメディアの世界だ。
 
さて一方、飲食店の紹介サイトなんて、誰でも考えることができる。簡単そうに見える。ところがこういうサイトを作ろうと思うと、大変に手間がかかるのだ。お店に営業に行き、一店一店増やしていく、いわゆるどぶ板営業をしなければならないからである。僅かの料金しか取らないのに、である。
 
また、認知度を上げるのも大変だ。紹介されているお店の数がまとまっている必要がある。しかも万遍なくどのジャンルの料理も網羅していないと使い勝手が悪い。大変なカネと時間をかけて、このサイトは成長したのだ。なんといっても実績がその成長を物語る。有料で紹介している店の件数は約43,400店(2008年9月末)であり、2005年4月には大証ヘラクレス市場に上場を果たしている。


交通広告を端末に置き換えてスタート
 
このような手間ひまをなぜかけることができたのか。社長の久保征一郎の答えは簡単だが興味深いものだった。そもそもこの事業がスタートしたのは、20年前に遡る。交通広告の代理店である(親会社の)NKBの一事業部だった。
「社長の滝(⑭ぐるなび会長)が20年ほど前に、立て看板などの交通広告からの脱却を目指して、コンピュータと通信を融合した情報発信を始めたのです(久保)」
 
当時は駅に端末を置き、不動産広告や地域のお店紹介を乗降客に提供していた。まだ、パソコンが会社にもそれほど普及していない頃の話だ。システムを自前で作り、カネがかかる分、必死になってコストダウンに努めた。幸いにも端末は使われていた。飲食店の紹介も500社に及んだ。もちろん順風満帆だったわけではない。「役員会でもやめる話も出たようだった。会社が一定の利益を出していたし、何よりオーナーの強い意志があった(久保)」から続いたのだろう。
 
インターネットを通じて、このお店紹介事業をスタートしたのは96年6月。
「会社のモノだったパソコンが、インターネットに繋がることによって生活情報を発信する、つまり家庭のモノになったのです(久保)」
 
インターネットで配信することによって、コストがそれまでより飛躍的に下がったのもよかった。がんばれる素地ができた。
「最初は付き合いのあった500店を載せてスタートしました。当時の利用料は月3000円。利益が薄いためNKB本体の営業は動かせないので、まったく別の成功報酬型給与の別部隊を作り、営業しました」と久保は述解する。
 
できるだけ高級店から営業した。料飲組合などと積極的に提携もした。こうした組合やお店のホームページの受託もした。僅か500店の紹介でも、それだけ載せているサイトはなかった。先行者としてのメリットを享受したのだ。


外食は24兆円市場、伸びる余地は十分
 
2001年に潮目が変わった。
 
ぐるなびの店が1万店を越えたのだ。ここから同社の成長が本格化した
 
営業も、単純な加盟店という形から会員制に変えた。投資をして、サイトの中身も大幅に変えた。新たに加盟店管理画面という方式に変更した。これによって、お店は自分で紹介の内容を変更できることになった。お店にとっては紹介する上での自由度が高まり、同社にとっては手間(とコスト)が省けた。
 
ぐるなびは前年の2000年にNKBから分社し、独立していた。駅につながりがあったことから電鉄各社にも資本を引き受けてもらい、資本金は充実した。これで、前述のような投資ができるようになったのだ。同社の2008年3月期の売上高は156億200万円、経常利益は27億4200万円と堅調である。当面の目標は加盟店10万店である。
「800~1000店で始めましたが、まだまだ満足度を上げられるような数ではない(久保)」
 
結局どれだけ加盟店を増やしていけるかで、この事業は決まるのだろう。久保が10万店を目指すのは至極当然といえようか。しかし、この種のサイトは加盟店の継続率が重要だ。かりに1割落ちると3200店以上集めないと、成長にはならない計算だ。
「通常の外食産業の規模は24兆円といわれています。1%でも2400億円でしょ」
 
現在の156億円は僅かだと、いいたいのだろう。

(2008・9・30)

【第31回】家業を発展させる新事業で上場した3代目社長の起業家精神

株式会社ビットアイル

パソコンオタクの目に留まったビジネスチャンス
 
家業の倉庫業を継いだ男が、その倉庫を使って新たなビジネスを展開した。その新事業はインターネットのデータセンターである。このために新会社を作り、やがてその会社を上場へと導いた。
 
そもそもデータセンターとは何か。インターネット通信を行なう場合、すべての情報は「サーバー」を経由して届けられる。では、このサーバーはどこにあるのか。それはデータセンターという第三者の場所に置かれているケースが圧倒的に多い。

今から遡ること9年ほど前の話である。三菱商事を辞め、家業である寺田倉庫に入社していた寺田航平(現ビットアイル社長)の許に、外資系の通信会社9社がある提案を持って訪れた。
倉庫会社に何の提案かという思いの寺田倉庫に、彼らは倉庫を利用したデータセンター事業をプレゼンしたのである。
 
これに敏感に反応したのが、寺田だった。小学生の頃から筋金入りの「ウルトラ・パソコンオタク」だった寺田の目には、これはビジネスチャンスに映ったのだろう。システムは一度始めたら止めることが出来ない。しかも情報量が増えれば増えるほど、サーバーにかかる負担は大きくなる一方である。それにしても、この運用コストが高すぎる。これはおかしい、と寺田は考えた。そして、より安価に運用できる仕組みを作ればこれはビジネスモデルとしてうまくいくと。
 
そして、2000年6月にビットアイルを設立した。素早い取り組みだった。


コストの安さが決め手となった
 
データセンター事業というのはカネのかかる事業である。膨大なスペースと、それに応じて費用がかかる。仮にスペースがあっても、顧客がいなければスペースは埋まらず、いたずらに費用の垂れ流しとなる。だからというわけではないが、当時こうした事業は大手通信事業者の二次的な事業だったのである。大手ならその無駄をカバーできる資本力があったからだ。
「そもそもデータセンターは固定費が高いビジネスですが、大手は安全性を重視する余り、過剰なリスク回避を行なっていた。われわれは、カネがないから(笑)、20項目にわたって、細かくコストカットを行なった」
 
それが、価格の差になった。
 
さらに言えば、寺田には地の利があった。それは株主の寺田倉庫自体が倉庫業を営んでいたことである。親会社と交渉し、たまたま移転が決まっていた倉庫の跡スペースを顧客数の増大に応じて1床ずつ借りていった。これでコストを抑えることができた。だが、営業自体は相当苦しんだ。
「営業に行くと相手が聞いて来る。『やはりNTTのほうが安心じゃないか』と(寺田)」。そのため当初2年間は、社長プラス3人の営業4人で、ベンチャー企業、中小企業をこまめに歩き実績を積み重ねていった。そしてコストの安さが決め手となって徐々に信頼されるようになってきた。
 
同社の業績は06年の大証ヘラクレス上場以降も順調で、07年7月期の売上高は52億600万円(前年比47.5%増)、経常利益7億6300万円(同49.6%増)。08年7月期の見込みは売上高72億9800万円、経常利益11億円とさらに40%以上もの成長を示している。
 
それにしても、なぜこれだけの成長が可能だったのか。
「安売りをしているわけではない。サーバーを預かるだけでなく、回線の接続、サーバーのレンタルなど、付加価値を付けていく(寺田)」
 
こうした、提案力の差が大きいと言うのである。さらに寺田は続ける。
「データセンターを利用するベンチャーは企業として、初期の段階は終わっているところです。そういう客は、さらにスペースを増やしていく」
 
データセンターを利用する客は、いわゆるB to Cの客である。彼らのビジネスが拡大すれば、データ量は増える。すなわち、データセンターの利用も拡大するというわけだ。実際、同社の売上げの50%を占めるのは、こうした既存客の増床による。新規客の獲得プラス、既存客の増床。年率40%もの成長も頷けよう。


業界予測のさらに3倍は伸びる
 
このデータセンター事業は現在7000億円市場である。予測ではさらに14%成長が見込まれている。しかし寺田はそんなものではないと考えている。現実に中期計画でも40%もの成長をうたっている。
「着メロが着うたに変わるとデータ量は12倍に増える。ゲーム機は対戦型になってますますデータのやりとりが増える(寺田)」
 
こうしたデータ量は、これからますます増大していくと言うのである。さらに、同社はサービスの幅を広げていくことで、新たな売上げと利益の拡大を見込んでいる。電子商取引を一括で行なえるようなサービス、また、セキュリティを徹底して行なうサービスなどである。当然、設備投資が重要なファクターとなる。同社は現在3つのデータセンターを有しているが、09年中を目標に第4センターの建設を発表している。投資額は70億円。自己資金21億円で借り入れは49億円。
「大体2年に1センターを作るペースです。この次の第5センターになると自己資金でまかなえるようになるのではないか(寺田)」
 
自信と気迫とを同時に覗かせる寺田の顔が、ほころんだ。ところで、寺田が寺田倉庫に入社した時の心境を聞くと正直に答えたものだ。
「どちらかといえば、継がなきゃいけないのかという気持ちが強かった」と。寺田は37歳と若いが、2代目にありがちな格好を付けるところがない。むしろ泥臭ささえ見せる。これが寺田の強みなのだろう。
 
何故起業したのかと聞くといみじくもこう答えた。
「祖父は倉庫業を興した。父はトランクルームやデータ倉庫としてそれを伸ばしていった。自分にもそういうDNAがあるのではないか」と。私にはそれが決意に見えた。

(2008・9・2)

【第30回】伝説の大ヒットを生み出した理論派創業社長の感性と遊び心

株式会社ウィズ

2005年には上場を果たした
 
世界で最も権威があるといわれるオックスフォード英語辞典を紐解くと「tamagotchi」の文字を見つけることができる。
そう、「たまごっち」である。「たまごっち」が世に出たのは1996年。当時20万台も売れれば大ヒットだったおもちゃの世界でなんと国内2000万台、海外2000万台の計4000万台を売り上げ、社会現象を引き起こしたのだから、権威ある英語辞典に掲載されて当然かもしれない。それほど世界に対してインパクトがあったのだ。

私もよく覚えている。ヒット当時、ダイエーの創業者である故・中内 功(実際は作りは力でなく刀)と立ち話をしていたら、ふと中内さんが漏らした。
「孫にたまごっちを頼まれちゃってねぇ」
 
どこも売り切れで品物すら入ってこない状態だったのだ。
ところで、「たまごっち」はバンダイが販売を担当していたこともあり、作ったのが株式会社ウィズであることを知る人は少ない。
おもちゃの世界には伝説的な大ヒットがある。「だっこちゃん」、「ルービックキューブ」、「オセロ」・・・。こうした大ヒットに憧れてバンダイに入社した男が、ウィズの創業者で社長の横井昭裕である。横井はバンダイに10年いた後に独立し、同社を設立した。それからさらに10年後、横井は伝説的な大ヒットを生み出した。それが「たまごっち」というわけである。
 
同社のヒットは「たまごっち」だけではない。96年にはたまごっちの男の子版の意味合いで作った「デジタルモンスター」が人気を博し、99年にはテレビのアニメとなって大ブレイクした。また2000年にはおしゃべりするぬいぐるみの「プリモプエル」がヒット。独身OLがターゲットだったが、60代~70代の高齢者にまで受け入れられた。そしてJASDAQに上場した2005年以降のヒットが「ふたりはプリキュア」シリーズだ。


ウィズを支えるヒットの法則
 
横井は大学を出て、おもちゃの企画開発をやりたくて、1976年に(株)バンダイに入社した。バンダイではさまざまな壁にぶつかったが、それが結果的に横井を独立の道へと導くことになる。
「バンダイはキャラクターが開発の中心です。だから企画者はガンダムならガンダムというキャラクターの枠内で商品を作っていかねばならない。つまり、それから外れたものを作ろうと思ったらバンダイでは無理なのです。でも僕は遊びというのは子供だけのものじゃないと思っていますから、もっと広く提案したかった(横井)」
 
だが、独立して企画会社を設立して、また壁にぶつかった。
「日本にはロイヤリティーを払うという習慣がないんです。企画が採用になっても一本いくらで買われてお終い。つくづく製造までやらなければダメだと思った」と横井は語る。
 
この横井の言葉にはさらに大きな意味がある。
「製造工程であるとか、素材とかを分かっていることがどれほど重要か。だから製造まで落とし込む力がないと企画というのは単なるアイディアでしかないんです(横井)」
 
だからリスクをとって企画開発と製造を自社でやっていった。
 
この思いがなければ「たまごっち」のヒットも自社に利益をもたらさなかっただろう。横井にいわせると、「ヒット商品には7割くらいまでは方程式が当てはまる」のだ。
 
一つが「マイナーメジャーの法則」。ヒット作にはマイナーな要素が30%とメジャーの要素が70%必要だというのだ。横井によると、「たまごっち」もゼロから生まれたのではない。
「当時ゲームウォッチという小さな液晶ゲームが流行っていた。そしてパソコン向けのゲームで『アクアゾーン』という魚を育てるゲームがマイナーなブームになっていた。これを組み合わせたのです(横井)」
 
もう一つは「螺旋の法則」。流行は螺旋形でやってくるというものだ。例えばヒットした商品はまた何年か後に再ヒットするがその形が変わっているというのだ。螺旋形だと一周するとそこに差ができる。その差こそが重要なファクターで、つまり昔ヒットしたものは形を変えてヒットするということなのだ。


毎日150本の企画を3ヵ月出させた
 
ところで、この種の会社は大ヒットが出れば出るほど、不安定な要素を内包することになる。その大ヒットに安心してあぐらをかいたり、凄い会社になったと勘違いしてしまったり・・・。
 
これについて横井は「『たまごっち』のヒットは年末ジャンボ宝くじがまとめて40本当たったくらいにしか考えなかった」という。つまりラッキーだったが次のチャンスを貰った、と考えたのだ。実際にその後のヒットが横井の考えを証明した。
 
ところで(株)ウィズの業績を見ると不安定さが目立つのは否めない。例えば売上げは2003年5月期が40億1900万円だったのに対して、翌年は30億4300万円と下がり、06年には76億9300万円と盛り返すが、07年3月期は45億900万円となっている。
 
一言でいえば波があるのだ。この種の会社に付き物の要素といってしまえばそれまでだが、上場企業としてはそうもいっていられない。
「安定的に経営するためには、まず大ヒットした商品を定番商品に育てることです。ディズニーやキティ、ガンダムのように二世代にわたって支持されるものを育てていく(横井)」
 
そういう方法でそれを実行するのか。例えば、映画に拡げる。2007年12月「たまごっち」が映画化され話題になったが、これは横井のいう世代の広げ方なのだろう。また2007年には、5月から3カ月にわたって、企画の人間には1日3本の企画提出を命じた。約50人だから毎日150本である。
 
さらに、昨年は超プロデューサー級の人材を入社させた。業務提携や資本提携も活発に行なった。体制を万全にして今後への基盤が確立し、あとは次のヒットを出すだけだ。
ところで、社長の横井は今でも自ら企画を出している。今さら企画を出すのは嫌じゃないですかと問うと、「まだまだプロとしては自分が上」と自負を垣間見せた。
 
しかし、時代はどんどん変わっているから若い人の感覚は大事にしているとも。社員が絶対にやりたいといってきたものはやらせてやりたいのだそうだ。
そんな横井の社長室は大変にユニークだ。フクロウが2匹いる。ジム顔負けのトレーニングマシンが揃っている。この部屋で体を鍛えているのだそうだ。
WiiやNintendoDSのヒットを見て「ああいうのをやりたかった。デジタルとアナログの融合です」と、無邪気に笑う横井。その考えを社員が受け継いでいけば同社の今後はさらに明るい。

(2008・8・19)

【第29回】愚直に自らの理論を展開して、金鉱山会社を経営する男の魅力

株式会社ジパング

1400億円相当の金山を持つ金鉱山会社があった!
 
金価格が世界的に高騰していることは、一般的に知られた事実である。データで見れば一目瞭然で、2001年に1トロイオンス=271.05ドル(1g=1105円)したものが、04年には同409.35ドル(同1472円)となり、07年には同695.91ドル(同2659円)と2.5倍以上の高騰ぶりだ。現在はさらに上昇し、3000円を突破している。

ところが、こうした金を実際に採掘し生産をしている日本のベンチャー企業があるのはほとんど知られていない。株式会社ジパングが、その社名である。ジパングはアメリカの金生産の8割を占めるネバダ州に、フロリダキャニオンとスタンダードという2つの金鉱山を持ち、金の生産をしている。
 
ちなみに、日本の金鉱山会社といえば住友金属鉱山や中外鉱業などが有名だが、ジパングは戦後日本で設立された唯一の金鉱山会社である。
 
さて、金鉱山の価値を評価するには2つの数値がある。埋蔵鉱量(リソース)と可採粗鉱量(リザーブ)の2つだ。埋蔵鉱量というのは、鉱床の存在が予想される範囲での鉱石の質量とその中に含まれるだろう金の質量のこと。つまり、鉱山にどれくらいの量の金が眠っているか、その可能性を数値化したものと考えればいい。これに対して、可採粗鉱量というのは埋蔵鉱量のうち、経済性をもって回収可能な鉱石の質量とその中に含まれると評価される金の質量のこと。つまり、より具体的な価値というわけで、いずれも第三者機関が算定する。
 
同社の2つの金鉱山の可採粗鉱量は、2007年12月現在で155万オンスとされる。1オンス=900ドルで計算すると、約1400億円に相当する。同社がこの鉱山を買収した2005年11月当時の算定額は約450億円相当だったから、まさに金価格上昇とともに鉱山の価値も上がったことになる。


2009年度から2つ目の金鉱山が本格稼動

「1オンス420ドルの時にこの鉱山を16億円で買収しました。当時、私の理論では660ドルになると予測していた。でも結局は運がよかった」と同社社長の松藤民輔は言う。現在の金価格は900ドルを越えているから、運がいいは謙遜にも聞こえるが、いずれにしても予測以上の結果が出ているわけだ。
 
同社が持つ金鉱山2つのうち、現在稼動しているのはフロリダキャニオンのみである。スタンダードは認可の手続きが遅れ、「早ければこの秋に採掘許可が下りる(松藤)」と言う。現在同社の売上は2008年3月期で、38億6400万円、経常損失が9億2300万円となっている。もっとも特別利益があるため、2008年3月期は5億8100万円の純利益が計上されている。
「昨年度は当局より、フロリダキャニオンで掘った鉱区を通常よりも短いサイクルで埋め戻せという指導があった。そのため生産量が対前年で3分の2に落ち込んだし、その分の経費もかかった」と松藤は説明する。今期はそれがない分生産量は上がるし、もしスタンダード鉱山が本格的に操業され始めたら、売上高も利益も相当な伸びが予想されるわけだ。金鉱山のオペレーションに関しても、アメリカ人に任せていたのを日本人によるオペレーションに変え、より効率的な運営を目指しているという。
 
ちなみに、2009年3月期は売上高48億3900万円、特別利益等が計上される関係で、純利益は64億6400万円と予測している。


M&A戦略で年間50万オンスの金生産を目指す

「2009年度以降、年間50万オンス生産を目指す」と松藤は言う。とてつもない目標額のように見える。もしその言葉が実現されるとなると、仮に1オンス900ドル、1ドル107円の計算で、年間481億5000万円もの売上を計上することになる。どのようにして、それだけの生産を行なっていくのか。
 
実は、同社は金鉱山を自社で運営する以前には、金鉱山会社への投資を主事業として行なっていた。つまり、世界各地の金鉱山の情報を持っているわけだ。どの金山にはどれだけの埋蔵鉱量があり、どれだけの可採粗鉱量があるか、どの山がフェアバリューよりも低く評価されているか。そういった情報が集まっているのだ。
 
松藤によると、世界各地には割安に放置された金山や鉱山会社がまだまだあると
言う。その金山や鉱山会社をM&Aしていくというのが同社の戦略だ。M&Aの資金を調達する一つの方法として株式の流動化が必要となってくるが、同社は今年の秋に合併を控えており、その暁にはグリーンシート銘柄として登録されるという。こうした戦略により、年間50万オンス戦略は進んでいくという。
 
実は、同社社長の松藤は知る人ぞ知る有名人である。日興證券を皮切りに、外資の証券会社を渡り歩いた年収2億円プレイヤーだった。それを辞めて自分の会社を作った。以前には、歴史ある英『エコノミスト』誌に紹介された事もある。
著書も多い。最近も講談社から出された本がベストセラーになっている。講演会を開くと、たくさんの人が押しかける。松藤の話に魅力があるからだろう。
 
確かに、この時代に金山を買って金を掘ろうなんて人は、いない。それだけでも何やらロマンを感じるが、当の松藤は自らの理論に忠実なだけなのだろう。株の時代は終わった。これからは金の時代だと言って、ジパングという名前の会社を作ったその時から、10数年が経つが話の中身にブレはない。
 
魅力的な社長が作ったおもろい会社である

(2008・7・30)

【第28回】再建途上のホテルを任された総支配人の宿泊客への心憎いもてなし

仙台国際ホテル株式会社

出張で仙台に行った。宿泊は仙台国際ホテルだった。仙台にはいくつかのホテルがあるが、たいてい便利さを重視して駅に直結するメトロポリタンに泊まることが多い。今度の場合は駅から徒歩5分というふれこみだったが、歩くと10分弱かかった。きちんとした都市ホテルだったが正直にいってあまり期待してはいなかった。

ところが大変面白いサプライズに出会えたのだ。
 
それはこのホテルの総支配人が自らの手で書いた「総支配人が御案内する 杜の都の食べ歩き」と題するA4判の冊子である。ひっそりと目立たないように引き出しの中に入っていたのですぐには気づかなかったが、旅先でも原稿を書く必要からモバイルのセットなどで何度も引き出しを開けたり閉めたりしているうちにそれが目に留まった。パソコンのワープロソフトで打ち出した用紙を簡易ファイルで綴じた何の変哲もない地味な代物だったので、よくあるお勧めの店情報だろうととりたてて期待はしなかった。ところがパラパラとめくってみると思いがけない面白さに気がついた。総支配人がその小冊子の全部の内容について、自分の言葉で書き記していた。冒頭の「ごあいさつ」はこうだ。引用させてもらう。

(前略...)最近、お客様から「どこか地元の美味しいお店ないですか?」といった問い合わせを受けることが多くなりました。(...中略...)思い悩んだ末、私が普段ローテーションで通いこんでいるお店。今後のことを含め、店主とのコミュニケーションが取れるお店の中から、御紹介させていただくことといたしました。(...後略)。

 
読み進めていくと、章立てがあり「私がこよなく愛するお店」、「予算が気になるときに便利なお店」、「番外編」と3つに分かれてた。
一章の「私がこよなく愛するお店」では10店舗が紹介されている。どれも自分の経験と店主との会話から得た情報とが満載で、ジャンルも和食、鮨、創作料理、ワインバー、フレンチから女性のいるサロンまで、思わず行ってみたくなる店ばかりだ。
そのなかでトップに紹介されている『萬味高橋』の内容を引用させてもらおう。

――親方は京都『萬亀楼』を皮切りに、サントリーに入社、ロンドン、シンガポール、オーストラリア、サンパウロ等の店を回り、仙台にたどり着いた。手間をかけ、旬の素材そのものの旨みを生かした料理の数々、無駄な飾りつけはしない。いたってシンプルな引き算の料理は芸術的でもある。筍の木の芽味噌焼き、甘鯛の昆布締め、鮑のやわらか煮(...中略...)締めの鯛茶漬けは出色のでき、初めての方はぜひリクエストしてほしい。等々。文末にはご予算の目安としてお酒込みの値段が書かれている。──

 
こんな調子で全編レポートされている。書くだけでも大変な労力であるのに加え、行間から書き手の経験がにじみ出ている。これだけの中身のものを書くには、相当通い詰めていなければできないところが凄い。
 
全部で紹介件数は24店。うれしかったのは、私が唯一毎回のように行く牛タンの店が、これに紹介されていたことである。
 
出張に行くと、困るのがどこで食べるかだ。特に一人の場合、知っていればよいが、ほとんどが行き当たりばったり。だから、こういう懇切丁寧な店の紹介はほっとするし、ひいてはこのホテルのファンになろうというものだ。
 
そういう点を全部この総支配人はわきまえているのだろう。ただ、それにしてもこんな情報を客に提供できる人なんて、なかなかいない。この冊子を引き出しの中に目立たず入れてあるところなど心憎いばかりの演出である。人の度量とはこういうところから判断するものだ。
 
 
ホテルという商売はつくづく大変な商売だと思う。客はわがままだし、その客を宿泊部門と料飲部門、そしてブライダルなどのイベントでもてなすのが仕事である。客はサービスされて当たり前。ちょっとでも不都合、不快の事態があれば、すぐさまフロントやスタッフに文句を言う。ホテル激戦区ともなれば、その争いは客にいろいろなベネフィットを供与することでさらにエスカレートしていく。
 
ところで、仙台国際ホテルは現在、東武鉄道グループの傘下にある。同社は1989年、地元の交通会社が中心となって、当時としては東北有数規模の都市型ホテルとして開業したが、不動産、建築費等が高騰している時期に立てられており、しかもその後のバブル崩壊があって、コストを吸収できなかったのだろう。それでも売上高はピーク時に46億円あったものが、06年3月期には26億6000万円に落ち込んだ。大幅な債務超過状態で、貸付金などの債権の大半を保有していた東武鉄道が債権放棄をしたうえで、旧会社を2007年1月に解散し、100%出資の新会社として再出発した。
 
このホテルの総支配人は野口育男氏という。新聞記事によると(河北新報08年4月7日付夕刊)、そもそも学生時代に食通を気取る友人から馬鹿にされたことで一念発起し、フレンチレストランを食べ歩いたそうだ。東武鉄道に入社し、ホテル部門に配属された後もそれを続け、本場パリにまで足を延ばしたという。
 
この人が債権請負人の大役を任されて、07年2月に総支配人になったわけだ。そんな背景を持つ人ならではのホテル経営は、また一味も二味も違うのではないか。何より、ここで紹介した「総支配人が御案内する 杜の都の食べ歩き」が、それを示している。
 
実は、2010年ウェスティンホテルが、このホテルの目の前にオープンする。でもこんな総支配人のいるホテルなら、きっと大手外資に伍してやっていくに違いない。

(2008・7・16)

【第27回】20万円超のオーダースーツを7万5000円で作るというビジネスの謎

株式会社モンテビアンコ

面白いビジネスを見つけた。と言っても目新しい商売ではないかもしれない。スーツの仕立て屋さんである。イタリアの超高級ブランド、エルメネジルド・ゼニアの生地でスーツを作る。値段は超安い。僅か7万5000円である。もちろん、既製服で間に合わせている人にとっては、この値段は高いと感じられる方も多いだろう。これはあくまで仕立てであり、超高級ブランドの生地を使うというところにみそがある。

これで仕立てないか、と勧められたのである。ゼニアのスーツを同じ方法で仕立てると30万円以上はする。それが7万5000円というのは確かに安い。聞くと有名人もその店で仕立てているそうな。ほんまかいな、と思わなくもなかったが、友人のKさんが紹介してくれたことだし、まあ、心配する必要もなかろうと考えた。
 
私の性分からして、すぐにネットでこの手の商売をしている人たちを検索してみた。結構こういう商売が繁盛しているようなのだ。7万5000円はさすがになかったが、10万円程度で、同じようにゼニアをはじめ、有名ブランドのスーツを作るところは多いらしい。

 
神田のモンテビアンコに早速出かけてみると、その会社は神田駅近くの、ビルの一室にあった。中に入ると、別にブティックを気取った内装を施しているわけではない。見本や仕上がり済みのスーツがたくさん掛かっている点が、唯一この店の特徴を醸し出している。奥にソファがあり、そこで生地見本を見せてもらう。反物を見るわけではないので、どれがいいかというのはなかなか分からないのが欠点と言えば欠点だが、まあ、そこは想像力をフル活動させるしかない。結果として、2種類選びそれぞれの生地の値段を聞いた。7万5000円というのはあくまでも目安で、もっと高級な生地で仕立てるとそれなりの価格になる。私の場合は8万5000円となった。しかし、かなりいい生地であることは間違いない。これなら、いけるかもしれない。
 
この日は採寸までで終了。2週間ほどで出来てくるが、出来上がる前に一度試着した上で微調整を行ない、仕上げに入る。実際に必要な日数は3週間というところか。
同社がなぜ他社よりも安いか、それにはいろいろな理由がある。まず同社は、反物で多く買い取ることによって仕入れ単価を下げている。もちろんこれには売り先が安定していなければならないのだが、同社は高級セレクトショップで一世を風靡した元西武ピサの社員がいて、顧客ネットワークがそのまま維持できている。売り先があるのだ。前述した有名人の顧客というのも、その流れの顧客である。
 
しかもパターンの豊富さと日本人の体型を熟知した強みを持っている。
 
例えば、バスケットボール元日本代表で、230センチと日本人最長身選手だった岡山恭崇氏のスーツも同社で作っている。そして顧客のオフィスに出張して採寸などをすることにより、無店舗ビジネスが可能になっていることも大きい。また、縫製は地方に出すことで、コストダウンを図っているといった具合だ。

「ス・ミズーラ(SU MISURA)」 というイタリア語がある。「あなたのサイズに合わせて」という意味で、つまりオーダーメイドである。ただ、普通のオーダーメイドが仮縫いしてサイズを合わせた後に本縫いするという工程を取るのに対し、この仕立て方は、あらかじめ用意されたスーツの部分ごとのパターンが用意されており、そのパターンを組み合わせて仕立てるという方式を採っている。それをパターンメイドと言うのだ。モンテビアンコのこの方式もパターンメイドである。
 
実は10年ほど前に、エルメネジルド・ゼニアの社長にインタビューした時に話に出てきたのが、この「ス・ミズーラ」という言葉だった。ゼニアでは日本の店で採寸したデータを本国に送り、そちらで縫製し、日本に送り返してくるというシステムがとられている。何十種類ものパターンがあり、それを組み合わせるこの方式はさしずめ、部品をアッセンブルして自動車を作るのに似ている。つまり、スーツという商品の部品が幾つものパターンに分けられていて、その中から着る人の体型に最適のパターンを選び出し、それを組み合わせてスーツを作るというわけだ。
 
面白かったのは、ゼニアがこの方式を導入した時に日本のコンサルタントに指導を受け、「トヨタ生産方式」を導入したことである。生地の部品をかんばん方式で管理し、効率化を図る。そんなマネジメントをよもや一流のファッションメーカーがやっているとは夢にも思わなかっただけに、新鮮な驚きだったのを覚えている。
「市場」というものの概念はネット社会になって凄まじく変化したが、それはネット上で物を売ったり買ったりすることだけではない。実は、もっと広がりのある影響力であったということが漸く分かってきた。ネット上のビジネスは、今まで考えてこなかったような決済方法や、調達手段、そしてプロモーション方法などさまざまな手段をわれわれに提示してくれた。それに啓発されてネット以外のビジネスも動いている。
 
こうした一連のビジネスもそのいい例だ。あとは、モンテビアンコのようにどうやってコストダウンを行ない、そして価格競争に勝っていくかである。おもろいビジネスは次々に生まれている。

(2008・7・2)

【第26回】セレブブームを創出した超優良企業の世界を見据えたブランド展開

株式会社サマンサタバサジャパンリミテッド

アメリカ企業? 実は日本企業
 
若い女性を中心にしてファッションブランドの人気は相変わらず根強いが、なかでも日本のセレブブームの演出役となった企業がある。それがサマンサタバサというブランドだ。ヒルトン姉妹やペネロペ・クルス、テニスのマリア・シャラポワ、蛯原友里などをモデルやデザイナーに起用するなどして、若い女性の間で超人気のブランドとなった。全国に150店強を展開し、2005年には東証マザーズ市場に上場した。企業名は(株)サマンサタバサジャパンリミテッド。いったいどんな会社なのか。

サマンサタバサという社名を聞くと、テレビの往年の人気番組「奥様は魔女」を想像する人が多い。しかし、その関連性は同社によると無いのだとか。アメリカの企業のようだが、れっきとした日本企業である。
 
だが、そんなことはどうでもいい。いまや20代を中心とした女性に超人気のブランドの一つであることは揺るぎも無い事実なのだ。主力商品はバッグ、そしてジュエリー。主力ブランドの「サマンサタバサ」以外にも、ジュエリー、小物、男性用など10種類のブランドを展開している。
 
ここ数年の業績もその人気に正比例して増大している。
 
上場前の2005年2月期の決算では売上高98億4500万円、経常利益が12億7200万円だったのが、翌2006年2月期では売上高135億5200万円、経常利益20億5000万円となり、前2007年2月期では売上高172億9200万円、経常利益24億7600万円と伸長している。


セレブを起用したから売れるわけではない
 
いったいなぜこのように成長を遂げたのか。業界のプロの話を聞くと、セレブな女性をイメージキャラクターやデザイナーに起用した戦略が成功した原因であるという意見が多い。しかしこれを同社社長の寺田和正は「セレブな人を起用しても売れていないブランドは山ほどある」と否定する。そんなことを言っているから駄目なのだ、と言いたげである。
 
その寺田は現在の業績について「まだ、成功していない」と断言する。
「ブランドビジネスというのは大変なのです。価値を作ったとすると、次段階へと成長するためにはもっと違う価値を作らないと生き残っていけない(寺田)」と言うのだ。どういうことか。
「例えて言うと、偏差値50の人たちが1000人いる中で成功すると、次に待っているのは偏差値70の人が1万人いるステージ(寺田)」なのだと言うのだ。成長するほど、どんどんハードルが高くなる。だとすると、なるほどこれは大変な世界である。
 
確かに成功体験に胡坐をかいていては企業の成長も斬新な商品の開発も望めない。その意味で寺田の言うことは正しい。
 
言葉を変えて言えば付加価値をどう作り、その付加価値をどう上げていくかということだろう。実際、同社の付加価値は創業時から間違いなく上がってきている。分かりやすい指標が平均客単価だ。寺田はこう述懐する。
「創業当初は平均単価が1万2000円程度でした。その数年後、2万~3万円の商品を出したが一つも売れない。それが当時の状況でした」
 
しかし徐々にその単価は上がり、今では2万円台は安いと言われ、この春夏の主力商品の単価は4万円台になっている。15万円の商品も売れる。もちろん単価だけで比較はできないが、これが付加価値の高まりの象徴と言ってもいいだろう。


代理店を使わず社員にやらせる
 
では、同社はどうやってその付加価値を上げていったのか。
 
その答えとして寺田は4つのキーワードを挙げた。「良い場所、良い人、良い商品、良い宣伝」というのがそれだ。これがバランスよく機能すれば事業は成功するというのだ。良い場所とよい商品というのは商売の基本だ。良い宣伝というのは世界のトップセレブリティを起用してコマーシャルや来日イベントをしていることからも分かる。
 
それでは良い人とは何か。その象徴が人材起用である。同社では根幹である宣伝やイベント運営に代理店を使っていない。全部自前で行なっているのだ。
「代理店を使うということは、彼らに任せることになる。その中にはうちの商品が好きな人も嫌いな人もいる。イベントが上手くいかなければ言い訳が出てくる。そうではないということなんです。上手くいかなければ悔しい。カネの問題ではなく単純にそう思う。それはうちの商品に愛情があるから感じることで、それなら社員にやらせようということなんです(寺田)」


どこもベンチマークしていない
 
同社は2005年12月に東証マザーズ市場に上場した。それについて寺田は「上場は手段。ようやく次のステージに行くためのスタートラインに立てた」と言う。今までがファーストステージだとすると、ではセカンドステージでは何をやっていくのか。
 
そこにはさまざまな芽が見えている。例えば、一昨年アメリカニューヨークのマディソン・アヴェニューに出した店舗。あるいは2年前に始めたインターネットモール事業などがそれだ。また、昨年の3月にはアパレルの(株)メッセージを買収して、いよいよアパレル事業にも乗り出す構えだ。
 
寺田は、セカンドステージではブランドビジネスを作り上げていくと言う。それは「いろいろな企業がサマンサタバサと相談したいとやって来るような会社になること」だと言う。
 
そのブランドビジネスをより強固なもの(あるいはより付加価値の高いもの)に作り上げていく手段がニューヨークの店舗だったり、ECのモールであったり、アパレルへの進出であったりするのだろう。
 
ただし寺田は、こうした動きは思いつきでやったのではないと強調する。どれもが何年も前から頭の中で生まれては消え、消えては生まれ、その中で熟成されてきたアイディアだと言うのだ。
 
大胆なようで繊細。理論にのっとったように慎重な寺田だからこそ、サマンサタバサは大きく飛躍できたのだろう。
 
欧米のブランドビジネスは一人のデザイナーや職人が創業した。日本のデザイナーも海外で成功を収め、日本のデザイナーズブランドとして君臨した。
 
それらと比較して、サマンサタバサはいわゆるデザイナーズブランドではない形で出発し、しかし、最初から世界を見据えてブランド展開をしている。これは従来にない発想で、ここに寺田の真骨頂がある。業界の人間に「どこの商品をベンチマークしているのか」と聞かれ、寺田は「どこもベンチマークしていない」と答えたそうだ。まさにそれこそが同社の戦略なのだろう。
 
その寺田にどのように人を育てているのか聞くと、「今は出来ていない。点数にして35点」と答えを返した。結構自分に厳しい人だ。。

(2008・6・24)

【第25回】老舗経営の真髄を見せながらチャレンジを忘れない超優良フォーマル企業

株式会社カインドウェア

宮内庁御用達の企業が持つ歴史
 
会計上の意味ではなく、日本では「ゴーイングコンサーン」の経営が大昔から尊ばれている。京都などに見られる老舗の経営はそのいい例だ。どの老舗もオーナー家が会社の発展的存続を考え、同時にそれが家を守ることにもなっている。

「家=会社」--考えれば、こうした「形」を守っていくからこそ堅実な経営が生まれたのだろう。実はこの種の経営スタイルは欧米にも多く見られる。本来、会社というものは事業を永続的に行なっていくものだとすれば、この老舗の経営こそが企業経営のお手本となるのではないか。
 
私は30年ほど前に『週刊ダイヤモンド』で「老舗の家訓」という小特集を書いたことがあるが、当時取材した家訓の中にも、現代の経営に必要な要素をいくつも発見した記憶がある。
 
少々理屈っぽくなったが、(株)カインドウェアは、この老舗の経営を堅実に行なっている点で大変優れた会社である。
 
同社はフォーマルウェアの日本のトップメーカーであり、1968年には宮内庁御用達の栄誉を受けた。フォーマルウェアは戦後にスタートした事業だが、同社の設立は明治27年に遡り、したがって114年の歴史を有する企業である。創業当時は渡喜商店という古着洋服商であった。洋装が明治以降伝わったことを考えれば、同社の歴史は日本の洋装の歴史とダブらせて考えることができるだろう。


紋付き袴ではない、礼装をビジネスとして立ち上げた価値
 
現社長の渡邊喜雄は、創業から数えて4代目の当主である。しかし、戦後初めてフォーマルウェアを手掛けたのが先代(父・渡邊国雄)であることを考えれば、カインドウェアとしては2代目と言ってもいいかもしれない。
 
これにはもう一つ意味がある。渡邊の家系は代々学者の家系である。祖父は國學院大学学長、父は戦前内閣企画庁に勤務をしていたが、妻の兄が戦病死したため、夫婦で養子に入っていたこともあり、戦後、妻の家である渡喜商店を継ぐことになるのだ。
 
しかし、父国雄が傑出しているのは、そこでフォーマルウェアを考え出し、事業化していったことである。戦争が終わり、国民の生活水準は徐々に回復してくるだろうと。衣食が足りれば礼節も知るようになる。それならば正式な場所での装いは、紋付き袴ではなく、必ず時代に相応しい礼服が必要になると考えてのことだった。礼服は景気の好不況の波に左右されないという点にも着目した。また、社名を(株)渡喜に改めたのもこの頃である。
 
同社が有名になったのは、昭和40年代に入って、このフォーマルウェアを「ソシアル」というブランドで売り出し、俳優の田中邦衛を使って、大々的にテレビなどのコマーシャルを打った時からである。折しも団塊の世代が卒業していく頃で、結婚式などもこの頃から急激に増えていくことになる。同社が戦略的なのは、当時は別個に扱われていた礼装用のアクセサリーを、同時に扱い同じ売場で総合的に売ったことである。これも業界では初の試みだった。


老舗で生まれた新しいチャレンジ
 
一方、現社長の渡邊喜雄は大学を卒業すると同時に同社に入社した。一般的に言えば、子が親の会社に入る場合、直接ではなく、いったん他の職場を体験することが多い。しかし、渡邊の場合は父の意志もあり、父親の下で帝王学を身につけることになる。そして、現場を経験した後、5年後の75年には技術提携先の米国企業へ出向し、2年間、アメリカでビジネスを学んだ。
 
渡邊が社長に就任したのは、創業90周年の節目に当たる1985年のことだ。
「それから2、3年はよくぶつかった」と渡邊は述懐する。「世代の違いが原因だったのだろう。印鑑を手渡され本当に認めてくれたのは、そういうことを経た後」とも。
 
しかし、その後渡邊は次々に手を打っていく。
 
当時、拡大戦略を取っていた同社は、フォーマルからカジュアルブランドにまで商品展開を拡げていた。売上げは数年で30億円にも拡大していたが、それを止め、フォーマルへの原点回帰路線を敷く。
 
一方、廉価な商品をロードサイド店で売っていたが、「高級品でいくべきだと考え(渡邊)」これも止めた。「安いものの現場は、それなりの市場。売れるのはいいが、あのままやっていたら、下請け企業に成り下がっていたのではないか」と言う。「いい時は何も言わないが、店側だって売れなくなれば納入率を下げろと言われるのが関の山」と考えたのだ。
 
また、バブルの時期には、こんなうまい話が続くわけがないと考え、国内6カ所に展開していた工場を次々と整理し、中国への発注に切り替えていった。
 
今では工場は那須の一カ所だが、面白いのは「そこにはスキルを残した(渡邊)」という点だ。つまり労働集約的であっても、技術の高い部分を集約しておけば、その工場は独自に運営していけると考えたのだ。実際その通りとなり、自社製品は40%に留まり、有名ファッション企業から技術の高さを見込まれ注文が相次いでいる。
 
撤退だけではない。フォーマルの延長線上にあるブライダルに目を付け、マーサ・スチュアートのブライダルブックを出版したり、本人を日本に招聘したのも同社である。
「しかし、ブライダル事業には手を出さなかった(渡邊)」渡邊の家は神道の家系であるがゆえにそれは神への冒涜と映った。筋はいつも通すところに老舗の老舗たる所以がある。


よりよいサービスを求めて
 
大胆な撤退から売り上げが低下した時期とバブル崩壊が重なり苦労した面もあったが、それを乗り切るや、渡邊は95周年に際して次の100年を生き残る体質を作るために新たな事業の模索を開始した。
 
渡邊が選んだ新事業のキーワードは「3つのS」。「セーフティ」、「シックネス」、「セキュリティ」だった。
 
世界に疫病が蔓延しても、それに対抗できないか。凶悪な犯罪が多発するようになっても、それを守る術はないか。あるいは放射能が漏れても汚染されない服はないか。アメリカまで行き、防弾チョッキのスーツを作ることを試みたりもした。あらゆることを試み、そして行き着いたのが介護である。
 
同社は介護を事業化し、その事業が現在15周年を迎えている。デザイン面で優れたステッキ、座っていても着られる便利な服をはじめ、最近では普段着るファッションまで多種多様な商品を世に問うている。しかも首都圏、関西圏を中心に、多くの百貨店で売場展開をして好評を博している。この事業の業績も急成長を見せている。
 
さらに渡邊は「次の発展の時期に来た」と言い切る。まず主事業もフォーマルだけにこだわってはいない。より高級志向のお客のニーズに対応できるよう、パターンメイドと言って、個人の体型に合わせた洋服作り事業を本格化する予定だ。また、海外への進出もすでに上海で大きく進んでいる。
 
老舗が堅実さだけで続いているわけではないことの生きた証明がこの会社にはある。

(2008・6・10)

2011年11月19日

【第24回】メディアと密接な関係を保つ、老舗PR会社の「メール、ファックス禁止」

共同PR株式会社

PRの歴史を作った会社のユニークなアイデア
 
PR(=広報)という言葉は分かったようで分かりにくい。
そもそも、PRとは1930年代、アメリカの大恐慌の時にできた言葉で、大衆が社会不安を引き起こさないように、国の政策を広く知らしめるための活動から生まれたという。日本でも昭和30年代から、しきりに企業活動に取り入れられた。

日本のPRの歴史なら、共同PR社長の大橋栄に聞け。こういうと、少々大げさなようだが、大橋と共同PR(株)の歴史は日本のPRの歴史そのものと言っても過言ではない。
 
大橋は大学卒業後、広告代理店に就職したが、とある業界の大物から「これからはPRの時代だ」と引っ張られるようにして国際PRに入社した。
 
それから2年後の昭和39年、神戸製鋼所が尼崎製鉄と合併するのを機に独立してそのPRを手掛けた。3人で立ち上げたが、なかなかアイデア豊富なPR会社だった。
「神戸製鋼が高速道路のガードレールに使うワイヤーケーブルをやっていた。そこで、ガードレールの写真を撮ろうと東名高速道路を走った。工事関係者以外で東名を走ったのはわれわれが最初」 「帝人がテトロンのカラーシャツを初めて売り出した。そこで、これをPRしようと、銀行員に初めて着せた」 「カラーシャツ結婚式なんていうのを企画してね。カラーのウェディングドレスと一緒に丸の内を歩かせた」
 
大橋の口からは当時の思い出がほとばしり出てくる。今なら差詰め先行者利得と言えるのだろう。PR業界の草創期で経済成長の真っ只中。競合が少ない時期に立ち上げた事業だから売上と利益が付いてきた。
 
ところが、落とし穴があった。「バンビーノ」というおもちゃのPRと宣伝広告を手掛けたところ、なんと、3億8000万円もの不渡りを受けてしまったのだ。昭和50年のこと、売上規模が1億円に満たない頃の話である。
 
PRと広告宣伝ではかかる費用の額が違う。そのおもちゃ会社から頼まれて広告まで引き受けたのが大きな間違いだった。広告宣伝費は月間1億円。もちろん自社ではできないので東急エージェンシーに依頼した。同社経由で東急グループのPRを一手に引き受けていた関係からだ。
 
8月にスタートしたその広告は3ヶ月続いた。9月に集金した3ヶ月手形が12月に不渡りとなる。ボーナスが出せなくなった。大橋の自宅も人手に渡った。それでも借金が残った。針のむしろのような債権者会議に大橋が出ると、メインバンクの第一勧業銀行八重洲口支店の近藤支店長(当時:後の頭取)が出てきてくれた。
「一生懸命、『大丈夫だ』と言ってくれた。本当に有り難かった(大橋)」。借金は2年半かけて返した。


とにかく会え。メールもファックスも禁止
 
同社の売上は2007年12月期で45億1000万円(連結)、同経常利益は1億9800万円。着実に業績を上げている。特に2005年のジャスダック上場後は、毎年10社程度だったレギュラー顧客の増加が一気に30社ペースに跳ね上がった。大橋は「上場はPR会社の存在感を世間に訴えかけたかったから」と言うが、どうして上場効果は大いにある。
 
ただし、手放しでは喜べないような課題があることも事実だ。例えば労働集約的な企業組織でどう効率を上げていくか。市場が成熟している中でどうシェアを取っていくか。IRが全盛の昨今、その違いをどう訴えていくのか、等々。
 
これについて大橋は事も無げに解説する。
「うちの特徴はMR(メディアリレーション)にある。どんなにIRが良くても、それが取り上げられなければ効果はないでしょ。うちの強みはメディアと太いつながりがあることです」
 
だから、とにかく(メディアの)人と会えと言う。毎週の朝礼でもそういう話をする。メディアとはメールとFAXは禁止だそうだ。
「とにかく人間関係が大切。そのためには日頃嘘をついちゃいけない。間違ったことをやらない。そうしていると信頼関係は構築できる(大橋)」
 
自ら実践してきた言葉だから重みがある。


中国から広げてアジア戦略を強化する
 
この数年で同社の事業には幅が出てきた。例えば、98年には中国の新華社、広告代理店の旭通ディーケーとの合弁事業として、中国に進出した日本企業向けの現地PR会社を設立した。危機管理事業部では、社長の緊急記者会見特訓コースのメニューまで用意されている。こうした動きは、逆に見れば顧客企業の要望が細分化してきているということだ。
「以前は漠然としたニーズだったものが、最近では『社長をPRしてほしい、この商品をPRしてほしい』というように細分化されてきた。だから、こちらの対応もウェブ担当、TV担当、商品PR担当といった専門店型に変化している(大橋)」そうで、今後はこうしたきめ細かい対応を行ない、中国からさらに拡げてアジア戦略を強化するという。
 
そして「2~3年後に売上100億円を目指す(大橋)」。
ところで、共同PRでは3年前に始めた「広報の学校」という事業がある。だが、こんな名前が付くずっと以前から、メディアの人間を講師として、企業の広報担当者を集めた勉強会をやっているのだ。大橋がいうところの「メディアリレーション」が日常的な活動の上に成り立っているのがよくわかる。
 
ところで、緊急記者会見の練習コースとはどんなことをするのか。そのことを大橋に聞くと、なるほどと思わせる説明が返ってきた。
 
現役の記者を呼ぶ。それも、経済部ではなく社会部の記者。問題が起こった場合の多くは社会部担当だから、経済部記者との会見とはわけが違う。だから、頭の下げ方はこうだ、というところから教えるのだそうだ。リスクマネージメントも大変だ。

(2008・5・28)

【第23回】世界最高の音声認識技術で夢の市場を開拓する企業の目標

株式会社 アドバンスト・メディア

世界で著名な専門技術ニュースが「ベスト」と評価
 
ASR News(Automatic Speech Recognition=自動会話認識)という、著名なアメリカの音声認識技術専門ニュースが4月の第19号でとり上げた記事が専門家たちの注目を集めた。それは、富士通とアドバンスト・メディア、NTTドコモの3社がアプローチする技術が世界で最高のものだと賞賛する記事だった。一体何の技術がそのような賞賛を受けたのか? それはNTTドコモのらくらくホンプレミアム(富士通製)に搭載された音声によるメール入力システムに対してだった。

らくらくホンプレミアムには、この記事の通り音声認識技術が搭載されており、しゃべるだけでそれが文字化され、メールとして発信されるサービス(有料)があるのだ。これが世界初の技術だという。
 
この技術を開発したのが(株)アドバンスト・メディア。音声認識技術では世界をリードするエキスパートである。同社社長の鈴木清幸は「この技術は日本よりむしろ世界で注目されている」と言う。なぜなら、日本では若い人を中心にメールを打つ習慣が定着したが、これは日本人だからできる技で指の太い欧米人には馴染まないのだそうだ。だから、もっぱら海外ではボイスメールサービスが使われている。だが、ボイスメールは面倒が多い。だから、この技術を使えるのなら、あっという間に世界を席巻する可能性が出てくるというのだ。海外で注目され、専門誌でベストの評価を受けたのもそこに理由があるわけだ。
 
コンピュータに向かってしゃべれば、自動的にテキストデータに変換したり、さまざまな処理をしてくれる音声認識は、言わば夢の技術。その実用化でトップを走るのが同社である。この技術を体験した人は一様に驚きの声をあげる。
 
例えば同社のプレゼンテーションルーム。社長の鈴木が、立て続けにマイクにしゃべる。「部屋を暗く」。すると部屋が暗くなる。「テレビスイッチオン」。テレビが点く。「NHK」、「6チャンネル」。画面はそれぞれに変わっていく。そして「これが音声認識です」と結ぶ。
 
音声認識の技術は、その魅力的な響きとは裏腹に使えない技術として有名だった。98年に日本IBMが発売した「Via Voice」も普及はしなかった。使う手間がかかるだけでなく、認識率もそれほど高くなかったからだ。
 
だが、1997年に設立された同社は、その間、音声認識一筋に研究開発を進めていた。社員約80名のほとんどが技術系社員。この技術が結実して、冒頭のような実にスムーズな(音声による)入力などのコンピュータ操作が可能になるのだ。
 
こうした技術の実用化で業績を伸長させて、同社は2005年6月東証マザーズに上場を果たしている。


誰がしゃべっても同じように認識してくれる夢の技術
 
実は同社の技術は、他社の技術と大きな違いがある。少し専門的な話になるが、多くの企業の音声認識技術は、特定の人間がしゃべった声を認識する。つまり特定話者対応というわけだ。そのため事前に自分の声を登録し、練習する必要がある。しかもこの技術を一般的な用途に使うため、認識しなければいけない語彙が多岐にわたり、これも認識率が低くなる要因となっている。
 
それに対してアドバンスト・メディアの技術は、だれがしゃべっても同じように認識する、不特定話者に対応しているのだ。ここに技術の凄さがある。
 
さらに言えば、その技術を実用上で生かすために、特定分野に絞って使うよう営業戦略を採ってきた。例えば音声入力による医者のカルテ作成ソフト「Ami Voice Ex」や、営業日報作成用のシステム「AmiVoice Reporter」、また議会用の議事録作成支援システム「AmiVoice」などがそれだ。こうした戦略により、さらに「使える技術」になったのだ。こうした戦略も海外で花開く可能性が高まっている。
一つ例を示そう。アメリカでは医者のカルテ作成は、医者がしゃべるのを口述筆記者がタイプしていく方法をとっている。タイプしたカルテが義務付けられているからだ。しかし現在は、この口述筆記の部分が音声認識に取って代わってきた。口述筆記者はその間違いを訂正する役割で、これによってコストが大きく下がる。そこに何百億円というマーケットができている。
 
だが、この技術で優れているのはアドバンスト・メディアの技術。ここでも同社の技術は注目されているし、本格的に進出することにより、大きな成長を見込めるのである。


携帯でも音声が劣化しない凄さ
 
だが、同社の最終目標は、もちろん一般市場で広くこの技術が使われるようにすること。冒頭で紹介したように、その端緒は現れつつあるが、それを支えているもう一つ優れた技術がある。それがDSRという技術だ。
 
DSRとはどんな技術か。例えば携帯で音声が送信される場合、音声データが圧縮されて送られるために劣化が起こる。ところが、あらかじめ携帯にDSRが搭載されていると、音声が送信される前に音声認識の前処理が行なわれるので、データ送信のために圧縮されても劣化しない。この技術があるからこそ、高精度の音声認識が携帯電話で実現できるのだ。
 
前述したらくらくホンの音声によるメール入力もこの技術あってのことだし、このサービスはらくらくホンだけでなく、これからの携帯になくてはならないサービスになるだろう。
 
実は、同社は一昨年の「アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー」の日本代表に選出された。昨2007年には、モナコの世界大会に日本代表としてプレゼンテーションを行なった。
 
その時のプレゼンテーションが光っていた。鈴木が携帯で日本語でしゃべるとその電波は日本に飛び、サーバーで翻訳され、その翻訳した文章を英語で送り返してきたのだ。そこに集まった人が、驚きの声を上げたのは言うまでもない。
 
鈴木は、京都大学工学部出身のエンジニアだけあって説明がシャープである。熱情をもって流れるように自社の説明をする。社長自身がこの音声認識技術に対して揺るぎない確信を持っており、その確信とそこから生まれる自信こそが、同社の原動力なのだとつくづく感じる。驚異的な成長を期待したい会社であることは間違いない。

(2008・5・20)

【第22回】慎重かつ大胆にビジネス展開する新型出版社の挑戦

株式会社 文芸社

父親の出版社を継がず、独自に出版を始めた
 
この数ヶ月で70万部という驚異的なヒットを見せている一冊の本がある。それが『B型自分の説明書』だ。この本を発行しているのは(株)文芸社。自費出版(同社では協力出版と呼ぶ)を主にしている会社で、このヒット作も実は自費出版である。同社の創業者で社長の瓜谷綱延はこのヒットについてこう説明する。

「2007年の8月に1000部発行しました。昨年までは増刷もありませんでしたが、ある書店チェーンの方がこの本の面白さに目をつけ、自店のチェーンで多少大きめに並べてみたのです。すると売れ行きがよかった。この話を三省堂書店にしたところ、全店で大展開が決まり、今年の2月頃から一気に火がついたということです」
 
これだけを聞くと、出版が水物であることの証左のような話だが、実は同社の事業のあり方には、現在の出版業界が置かれている困難な状況を変えるヒントが隠されていることが分かる。
 
瓜谷が同社を設立したのは1996年。瓜谷の父は、たま出版という精神世界系の書籍で著名な出版社を経営していた。その父が死に、瓜谷は自分がたま出版をどのようにして継ぐかということを考えた。精神世界という分野は好きでないと難しい。一方、事業として出版を考えると、在庫を抱えながら、長期的な運転資金を確保しなければ資金繰りが苦しくなるこのビジネスは、銀行から長期の融資でも受けられるのなら別だが、今のシステムには合わなくなっている。こう考えて出した結論は、たま出版の株は創業からの人物に譲り、自分は別の事業を行なうということだった。


自費出版物を置いてもらうために続けたドブ板営業
 
瓜谷が目指したのは不動産業である。不動産業も大きな資金が必要だが、瓜谷が父から相続したカネはゼロに等しく、したがってタネ銭がなかった。当時の銀行は貸し渋りの真っ只中にあり、銀行を当てにした事業は駄目。そこで、前受け金を取れる自費出版を始めたのである。
 
最初の1年は細々と試行錯誤しながらだった。当時は、銀行や証券の破綻が相次ぎ、先行する同業他社が様子見をしていた時期であり、ようやく東販、日販という取次ぎで扱ってくれることが決まったので、勝負に出ることを決意する。カネはなかったので、ある広告代理店に、毎月2000万円の6ヶ月手形を切ることを了承してもらい、大々的に新聞広告を掲載した。これで一気に300もの原稿が集まった。
 
しかし、これで事がうまく運んだわけではない。出版した書籍は、書店に並べてもらわなければならない。ところが一般に書店は、自費出版の書籍を置きたがらない。置いてもらえなければ自費出版の広告自体が嘘になるから、絶対にこれだけは実現しなければならない。この営業が同社にとっての生命線であったのだ。瓜谷は地道にこの営業を続けた。断られても毎日訪問する。顔を出していればそのうち、相手も認めてくれるだろうという、まさにドブ板営業そのものだった。
 
一方、瓜谷は紀伊國屋書店、三省堂書店などの大手書店も訪問し、自費出版の意義を説いた。もちろん最初はどこも消極的。だが、アマチュアの出版文化を発展させるため、という瓜谷の粘り強い説得に、紀伊國屋書店と三省堂書店の2店が乗ってくれた。こうして、同社は3年がかりで、大手書店に加えて地方の一番店の売り場を確保していった。今では紀伊國屋書店も三省堂書店も共同で出版相談会を開催してくれるほどの仲になった。
 
そして2000年には、ベストセラーがこの自費出版から生まれた。『リアル鬼ごっこ』(山田悠介著)、と『心霊探偵八雲』(神永学著)である。既存の出版社ではこうした著者は発掘できなかったはずだ。なぜなら、無名の新人は新人賞に応募して賞をとるでもしなければ、出版にはこぎつけないからだ。


従来の既成概念を超えた大胆な仕組みで挑戦
 
今年の初め、同業他社の新風舎が自己破産したニュースは、自費出版業界が、ともすれば危ういビジネスのように受けとめられる可能性がある。しかし、瓜谷は同社が他とは違う点を強調する。
「まず、2006年から前受金はりそな銀行と信託契約をしており、別勘定で保全しています。もちろんそれまでも前受け金については別勘定にしていましたが、これを明確化したわけです」
 
自費出版業界は競争激化により、値引きをして受注する会社が増えた。破綻した新風舎はその典型だ。採算割れのような安値で引き受ければ、受注も多くなるが、編集にかかる人員も増え、コストも増大する。そうなると、前受け金が資金繰りに回る可能性も出てくる。
それをしないために、同社は安値で受けず、前受け金を信託した。こうして発注者であるところの著者の信頼性を勝ちとっていったのだ。しかも、創業当初のドブ板営業による販路の開拓が著者に安心感を与えた。
「売れている本があるのも事実ですが、それは絶対に著者には言わない。いくら正確に物を言っていても、著者が誤解をしては駄目ですからね」
 
慎重に慎重を重ねてこそ、このビジネスは成功すると瓜谷は言うのだ。しかし、同社のビジネスは慎重なだけではない。それが「売上げ還元タイプ」という新しい形態の出版制度である。自費出版では、用紙代や印刷費を著者が負担し、流通は出版社が経費負担をする。売れれば著者には印税が入る。しかし、同社の新システムは、分かりやすく言えば、著者個人が出版社になる仕組みである。売れた場合の著者の収入は売上の60%(同社の印税は2%から)と莫大なものになる。著者のコスト負担は増えるが、リターンも大きい。自信がある人にとっては魅力的な仕組みで、もし仮に売れている有名な著者がこのシステムで出版すれば、著者は莫大な利益を得ることができる。そういう意味では既成の業界への大胆かつ挑戦的なシステムとも言えるだろう。


出版も不動産もバランスよく経営
 
2008年3月初め、自己破産した新風舎の破産管財人と東京地裁民事20部が連名で、同社に対して新風舎の顧客救済を要請した。同社はこれを受けた。これによって新風舎の顧客1万5000人が救われることになる。これも同社に対する信頼感の表れだろう。
 
さて、瓜谷は現在、不動産業界でもビジネスを展開中である。最初の思いを結実したことになる。現在の業績は連結で111億9100万円、経常利益で10億8800万円となっている。瓜谷は朝から午後2時まで不動産業にいそしみ、そこから夜まで出版社の社長を務めている。
あまりにも違う業種であるがゆえに、そこに矛盾は生じないかと問うと、瓜谷はあっさりと答えた。
「2つの異なった事業をやっていることは事業のポートフォリオ的に見てもよかった」
矛盾ではなく、むしろバランスがとれているということなのだろう。不動産では、出版業の良さをとり入れ、利益がすべてではないと説く。一方、出版業では利益をきちんと出してこそビジネスと。使い分けということではなく、自然にそういうマネージメントができるのだそうだ。
 
現在、不動産業界は地価の下落と不動産ファンドへの締め付けで、業績が悪化している会社が多い。そのことを聞くと、「2008年の春にはすべての在庫は処分している」と答えたものだ。ビジネス感覚の優れた経営者であることに間違いはない。

(2008・5・13)

【第21回】投資家が心底欲しがる情報を提供し続ける金融情報会社の「情熱」

株式会社 文芸社

欧米と日本では投資家の質に大きな開きがある
 
よく言われることだが、欧米の投資家に比べて日本の投資家はまだ未熟で、質的に開きがある。その開きの主な原因は情報の差だと言われている。日本人投資家の場合、持っている情報が質的にも量的にも少ないのが原因で、それが投資家の質の差となって表れるというわけだ。

一般的に情報を提供するのは証券会社だが、近年には金融情報サービス会社の出現によって少しずつ変化してきた。こうした状況下で顧客本位の情報を提供することに注力して成長した金融情報会社がある。それが(株)T&Cホールディングスだ。
 
同社の設立は1999年12月。設立当時は(株)トレーダーズ・アンド・カンパニーという名称で、日本株に関する情報提供を主事業とした。この会社が目指したのは顧客本位の情報提供である。創業者で現社長の田中茂樹は、当時を振り返って創業の経緯をこう説明する。
「証券会社にいる時は、商品部で運用を行なっていました。ところがそこで認識したのです。我々が持っている情報と、顧客が持っている情報には圧倒的な差があると」
 
つまり、その違いを埋めることができればビジネスになると感じてもいたのだろう。実際、欧米と日本の投資家はそこで差がつくわけだから。しかし、これは一朝一夕に解決できるものではない。なぜなら、これは証券会社の構造に関係しているからだ。例えばアメリカの場合、証券の営業は歩合制の外務員が行なっている。彼らはお客をいかに多く抱えるかに力点を置くから当然顧客への情報サービスは充実する。
「彼らはファイナンシャルアドバイザーと呼ばれ、弁護士と同じくらい尊敬されている。スイスではそれがプライベートバンカーなのです(田中)」


常に中立的という当たり前の姿勢が信頼を得た
 
日本では、その構造を変えないと無理だとすれば自分でやるしかない。幸いネット取引が日本でも始まったことにより、個人投資家は増え始めた。こうした顧客は質のいい情報を望んでいる。だとしたら、やるしかない。
 
田中は情報の質と、その使いやすさに徹底してこだわった。
「単にいいというだけじゃない。他社と比べて、圧倒的な違いまでもっていく(田中)」のが同社の方針だった。その方針は現在もきちんと貫かれており、同社が運営する「トレーダーズウェブ」は無料であるにも拘らず、その情報の量、質ともに大変充実している。
 
また、当初は日本株の情報提供を行なっていたが、同社は将来的には国際分散投資の観点で情報提供を行なうことを見据えていた。なぜなら、それこそが投資先進国で行なわれていた投資のスタンダードだったからだ。こうして同社は、日本人投資家の、欧米との質の差を埋めるべく、次々に情報提供を行なった。
 
しかし、理想と現実とは違った。同社設立当初の1999年末から2000年初頭にかけて、株式市場はIT株バブルに沸いていたが、2000年春過ぎから急激な落ち込みを見せた。長く続く株式市場低迷の始まりだった。田中は当時をこう回想する。
「2003年までは市場が下がっていく状況でしたから、いつ潰れてもおかしくない状況でした。とにかく大変だった」
 
潮目が変わったのは2003年、市場が底を打ってからだ。それまでは現在の有力顧客である証券会社も自社のリサーチ部門の存在を理由に、他社から情報を買うなどということはなかったが、トレーダーズウェブの使いやすさには勝てず、徐々に導入されていった。情報の中身で勝負した結果がここで表れたことになる。
 
使いやすさもさることながら、同社の情報が信頼される最大の理由は、常に中立性を保ち、厳しいこともきちんと書く、ということに尽きる。だから田中は「日本株に対しては2008年も厳しいと言っている」
当たり前のようなことだけれど、それができない会社が多い中で、T&Cの姿勢は一段と光っているように見える。
 
そしてもう一つ同社の急成長を後押ししたのが、インターネット証券の勃興だった。
「ネット証券がビジネスを拡大していくことで、証券界も風通しがよくなった(田中)」のだ。


世界標準は国際分散投資、だからそれを目指す
 
同社の業績も上がっていった。2005年11月期が売上高2億5600万円、経常利益が1500万円であるのに対し、上場直前の翌期には売上高4億670万円、経常利益1億589万円と伸張し、2006年12月には大証ヘラクレスに上場を果たした。
 
2007年11月期は売上高14億4900万円、経常利益2億2900万円と急成長を見せている。この原動力となっているのがサービスの充実による売り上げ増だ。
 
同社は設立当初から国際分散投資を目指していたと前述した。そのため積極的なM&Aを展開してサービスの幅を広げてきたのである。例えば、いまや同社のもう一つの柱である中国株情報では02年にトランスリンクを買収し、中国経済と株式の情報提供を強化させた。そして04年には為替と国際金融情報の充実のために、マネーアンドドットコムを買収している。まさに当初の考えをサービスに反映していることになる。だが田中に言わせると、これでも足りないのだそうだ。
「日本国内に限って言うと当初の目標の70%ぐらいまで来ている。でも、日本以外では限りなくゼロに近い(田中)」
 
だから、同社はさらにグローバルな展開を目指すというのだ。そして田中は、日本の市場についても厳しい見方を披露する。
「金融業界に限って言えば、新しいものへの変化が全くできていない。例えばETF(上場投資信託)のマーケットで、上場している日本株は僅か8銘柄だが、アメリカでは800銘柄ある。日本も確かに変わってきているが、それでも海外との差は広がっているのが実情」と言うのだ。
 
金融情報分野でグローバルな展開を見せる同社だが、もう一つの金融アドバイザリー事業でもグローバル化に向けてビジネスを展開し始めた。例えばハリウッド映画への投資。あるいはインドの不動産開発投資。そして特許権への投資。さらにはスイスに金融アドバイザリー業務を行なう現地法人も設立した。
 
現在同社では180人の従業員がいるが、そのうち110人は海外の社員というのが何よりもそのグローバル化を物語っている。
「来期は海外の売上の方が多くなる(田中)」というのも頷けよう。昨年同社は「中国株二季報」を出版した。四季報の中国版とも言えるもので、その情報の中身は濃い。こういうところがさらに情報の信頼性を生むのだろう。
 
社長の田中に何故成功できたかと問うと、即座に「情熱」という言葉が返ってきた。確かに情熱がなければ他社のやっていないことをやり続けることはできなかったかもしれない。言い換えれば、その二文字さえ心に持ち続ければ今後の展開も大いに期待できるということだ。

(2008・4・30)

【第20回】超優良経営の秘密はコスト重視、大学の信頼篤い新京都企業の成長性

株式会社 学生情報センター

同業他社とは地主への対応が違う
 
一般的には無名であっても、ある分野ではすこぶる有名で、傑出した実績を挙げている隠れた優良企業がある。京都に本社を置く(株)学生情報センターはその典型だ。同社が有名なのは教育界、なかでも大学においてであり、恐らく今、日本でいちばん大学とのパイプが太い企業と言えるのではないだろうか。

それでは同社の主事業は何か。それは、学生専用マンションの企画、入居、管理である。学生専用マンションとは、分かりやすく言えば、学生専用に特化したワンルームマンション。子供を地方から都市部の大学に進学させる場合、昔は学生寮や下宿の世話になったのが今は学生専用マンション。同社はこの分野の最大手企業なのである。
 
ワンルームマンションのビジネスモデルは決して複雑ではない。地主がおられて、そこにマンションを企画し、地主に建てていただく。そのマンションに賃借人を入れて管理する。企画者側は管理費や手数料収入を得、地主は家賃収入を得る。
 
この種の企業は世の中に多い。だが、同社のスタンスは他と大きく異なる。ここに、同社が大学とのパイプが太い(=信頼性を築いた)秘密があるのだ。
 
多くの同業他社が行なっているのが、一括借り上げと言われる方式。地主に入居率80%程度で家賃保証をし、管理運営側がそれをサブリースする形で入居者に貸す。地主にとっては入室ゼロでも家賃がある程度保証されるという安心感がある。一見いいようだが、もし満室になるのなら、それだけの収入が減るということになる。
 
しかも最近は、家賃保証の固定期間が契約の30年に対して10年しかなく、後は改定されるため思わぬリスクを背負う可能性や、保証を行なう会社の信用リスクも出てくる。実際に地主とトラブルになっているケースもあるのだ。


24時間学生の相談を受け付ける
 
結論から言うと、学生情報センターはその方式をとらない。家賃保証という名のサブリーズをしない代わりに、徹底して愚直なまでに入居率を高めるのだ。同社の創業者で、学生情報センターグループ代表の北澤俊和はこう説明する。
「お客さまにとって、サブリースは一見安定しているように見えますが、実はサブリースを受ける会社が儲かるようにできている。それより何より、最初にお客様に80%分を払ってしまえば、入居率80%以上をクリアすれば、営業も安心してしまい、100%にしよう(本当の客のためになることをしよう)とは思わなくなってしまう。だから、とにかく愚直にお客様のために営業する」
 
こう書くと、単に一生懸命営業をしている会社のように捉えがちだが、実は全く違う。例えば入居した学生のために、24時間対応のメディカルサービスやトラブル処理を行なっている。ストーカー、セクハラ相談までもがこの24時間サービスのメニューに入っている。この種のサービスに加えて、地震などが起こった場合、いち早く保護者への連絡を行なうことも怠りない。実際2000年9月、東海地方が集中豪雨に見舞われ、死者・行方不明者8人を出す大惨事の際には、災害地区にあるマンションの入室者全員と連絡を取り、浸水し孤立したマンションには社員が水に浸かりながら弁当を人数分届けたという美談まであるのだ。この種のことを、どんな場合にも行なっているからこそ、大学や親との信頼関係が築けたのだろう。


大学移転が飛躍のきっかけとなった
 
同社の創業者であるグループ代表の北澤は、学生ベンチャーの先駆けである。70年代前半、学生時代に名古屋で『求人アルバイトニュース』を立ち上げた。事業は順調に推移し、多い時には北澤の手元に月額70万円ものカネが残った。当時の大卒初任給が4万円程度だから、この額がいかに凄いかが分かる。
 
ところが面白いことに、北澤は大学卒業と同時にこの事業を止め、郷里の京都に戻りサラリーマン生活を始める。「長男だから京都に戻らなければならないという意識があった(北澤)」というのが理由。しかし、ここからがまた凄い。煙草の自販機や店舗設備の大手企業に入社した北澤は、新人ながらダントツの成績を上げた。得意先のスーパーなどに売り込むには昼間は相手にしてもらえない。早朝がいちばんと考え、毎朝四時ごろ市場に出かけた。そこで顔なじみになり、次々と仕事を獲得していったのだ。
 
だが、出る杭は打たれる。心よく思わない上司がいて、結局会社を辞めることになる。それを知った得意先は、北澤に引き続き仕事を依頼してきた。店舗設備どころか建築まで。それで作った会社が北和建設(現在はグループ会社の一つ)だった。
 
同社の飛躍のきっかけとなったのが、同志社大学の京都府京田辺市へのキャンパス移転だった。住宅地ではあっても、学生を受け入れるマンションやアパートはない。ここに学生専用のマンションを作ればいい。それを地主に提案し北和建設が受注すれば、新しいタイプのビジネスになる。そう考えた北澤は、その周辺の地域の地主に学生マンションの魅力を説いて回った。これが契機となり、企画開発から入居募集、その後の管理運営まで一気通貫で行なうビジネスモデルを確立し、名古屋に進出。新会社「名古屋学生情報センター(後に学生情報センター)」を設立し、学生マンションビジネスを拡大させていった。


コストをかけて社会貢献することを厭わない
 
現在同社の業績は2007年度で売上高280億円、経常利益21億円(連結)である。
「マネーゲームをするなら。売上も利益ももっと出る」と北澤は言う。サブリースをすると手数料収入ではなく家賃収入になるため、売上は飛躍的に上がるし、サブリース方式を取るなら、利益はもっとかさ上げされる。しかし、「そんなことをしても意味がない」と北澤は言い切るのだ。
 
実際、同社はコストのかかることを積極的に行なっているかのように見える。
 
毎年春には全国8ヵ所で、新しく入室した学生を招き、オーナーや学校関係者と共に一流ホテルで盛大なパーティーを開催する。このパーティーに膨大なコストをかけている。別にやらなくてもすむことかもしれないが、学生たちはそれぞれが仲良くなり、オーナーとも挨拶ができる。大学側も安心する。
 
まだある。京都、東京をはじめ支社にはナジックプラザを併設、学生や大学関係者が勉強会や会合に、無料で使うことができるスペースを提供している。また、同社が主体となって立ち上げた財団法人学生サポートセンターは、学生のモラル、マナーの向上、学生ボランティアやベンチャーへの助成、ベトナムの学生との交流事業などを積極的に行なっている。
 
そして極めつけは、大学からアルバイト紹介業務のアウトソーシングを受け、各大学の公認サイトとして、学生アルバイト情報ネットワーク(アイネス)というサービスをネット上に展開していることだ。
「大学も人手が足りない。こちらでサポートできることは喜んでお手伝いする」と北澤は言う。もちろんこれは同社の事業展開にも寄与するわけだ。
 
オーナーのためによかれと考えた営業を行ない、学生のために十分なサービスを提供する。それだけでは物足りず、そこから派生するサービスをさらに考えて実行する。社会貢献という言葉を使うなら、同社の事業はまるで社会貢献の見本のようだ。
 
こうした、企業行動がどれほどの価値を生み出しているか。京都では、老舗企業が暖簾を守ることが一つの教えとなってきた。その意味では新しいタイプの京都企業の姿と言ってもよいのではないか。今、日本において大学に最も信頼されている会社と言われているのも、頷けることだ。

(2008・4・22)

【第19回】調剤薬局の乱立競争を尻目に高成長する新型薬局の強み

クオール株式会社

いい病院の前にいい調剤薬局を作る
 
医薬分業が進む中、調剤薬局は注目を集めている。調剤薬局とは、普通の薬局と違い、病院で処方箋をもらい、その薬を処方してもらう(買う)ところというのが一般的な認識だろうか。だから、大病院の前には、まさに門前市を為すがごとく、調剤薬局が乱立する。それはそうだ。病院の玄関に、より近い薬局がお客を征するのだろうから。

こうした動きに一線を画しているのが、クオール(株)である。同社は全国各地で調剤薬局をチェーン展開しているが、大病院の前には作らない。乱立競争には乗らない。
「今の状況はバブルです。乱立競争によって地価も上がる。そんなことに金を使うなら、患者さんへの空間作りにお金を使うべきだ」というのが、クオール社長の中村勝の弁だ。
 
きれい事のように聞こえるが、その説明を聞くと理に適っている。
 
実際、クオールの店舗はきれいで広く、しかも工夫がある。
 
例えば、東北の店舗では床暖房が採用されている。子供の多い地域の店では遊びのスペースがある。老人の多い地域では杖を置くための工夫...、等々。
 
なぜ、(大病院という)大きな市場を狙わずに、こうした店作りをするのか。
「もちろん病院の前に作るのはわれわれも同じです。ただ、一日の外来が150人以上あれば店はできる。それより病院をどう選ぶかなのです(中村)」
 
病院を選ぶとは、どういうことか。
「保険診療では、以前は患者本人は無料だった。それが1割、3割負担へとなっていった。その過程で、どうせ負担するならいい病院をという、患者の病院選別が始まったのです」と中村は言う。だから、大病院の前に作るのではなく、(患者が選ぶ)いい病院(患者が選ぶ)の前に作ることが重要と言うのだ。それはマーケティング的に正しい。
 
だから、ターゲット先の「病院の先生と交流をし、2年間くらいは勉強会をやる(中村)」ことに注力しており、この数年、病院に対して、門前に作る調剤薬局のプレゼンテーションを6回行なったが、数社との競合の中、全部クオールが獲得した。


いい情報を入手できるからこそのM&Aで成長
 
同社は設立が1992年。2007年3月期の業績は売上高248億2700万円(前年比114.4%)、経常利益8億7500万円(同114.7%)を挙げている。店舗数は186店舗に及ぶ。この数年増収総益を続けており、紛れもない急成長企業である。同社のような丁寧な店舗展開をしながら、こうした成長を持続できるのはなぜか。
 
そこにはM&Aというキーワードが浮かび上がってくる。
「われわれのような店作りでは、年間10店舗がせいぜいです。だからM&Aを年間3~4案件はやっていきたい」と中村が言うように、同社はこれまでにもいくつかのM&Aを行ないながら成長してきた。東北や中部などへの店舗展開はこのM&Aがベースとなっている。しかし、ここで疑問がある。独立した調剤薬局をそんなに簡単に買収できるものなのか。またいい病院(と、その門前)の情報が大切なのだとしても、そんな、クオールの基準に合うM&Aの案件情報をどうやって得るのか。一朝一夕に得られるものではない筈だ。
 
実は、そこで社長である中村の前歴が大いなる効果を発揮する。中村は92年に創業するまでは医薬品卸の企業にいた。創業してからも、医薬品卸の業界に自社の経営状況を積極的に情報公開し、逆に新規の案件情報も得ていった。
「全国で病院を回っている医薬品卸ほど新規案件をいちばん知っているところはない。でも情報を得るためには、こちらも情報を公開し、信頼を得ないことには始まらない」
 
この情報力の強さが、同社のM&Aを支えているということなのだ。


調剤薬局から一般薬局も視野に
 
なぜ治験の会社? と思うが、「これによって医療機関とのパイプが太くなる」と、中村は事も無げだ。では、これも情報力強化の一貫かと言えば、それだけではない。
 
日本では元来治験には患者サイドが協力的でないなどの難しさがあった。しかし、治験の広告なども解禁となり、国内で広がりつつある。同社では既に治験コーディネーターを20数名育てており、利益率の高さから、「有望な2本目の柱」になる可能性が出てきた。
 
一方、一般薬局の方はどうか。
「今年の3月に薬事法が改正され、薬は薬剤師が必要な第1分類とそうでない第2、第3分類とに分けられた。だから本格的に調剤薬局で第1分類の薬を売っていきます。一般薬局を持っているのはそのための布石」と中村は答えた。
 
従来、調剤薬局は一般の薬を販売しなかった。「面倒だし、在庫リスクもある(中村)」からだ。しかしこれからは違う。クオールのきれいで広い店舗はすでに第1分類の一般薬販売も念頭に置いてのことなのだ。
 
同社ではさらに、オリジナルブランドの商品を手がけており、ネットなどでも販売をしている。青汁、黒酢粒、ブルーベリーなどがそれだ。
 
ところで、クオールの英文社名はQOLと書く。Quality of Life(クオリティー・オブ・ライフ)の略語をそのまま読んだのが社名である。同社では、薬局で患者が手に取れる月刊の新聞を出している。題して『クオール薬局新聞』。4ページの簡単なものだが、なかなか切り口がよく、デザインも優れている。聞けば社内のスタッフで作っているという。そのために有名な広告制作会社の幹部を引き抜き、責任者にしたそうだ。会社説明用のDVDもリクルート用の小冊子も社員による制作。いずれも質が高い。社長の方針といえばそれまでだが、こういう余裕を持つ会社には目に見えない強みが感じられるのも事実である。
 
こんな会社が増えるといいのにと、思わせる会社である。

(2008・4・15)

【第18回】使いにくい?半導体容器で60%のシェアを誇るメーカーの秘密

株式会社 ミライアル

経常利益率35%、5年後に売上倍増
 
ちょっと想像して欲しい。近年、PCはおろか、家電、AV製品などどこにでも使われる半導体。その半導体のベースになるのはシリコンウェハーだ。一枚のウェハーから何個もの半導体ができてくる。さて、本題はこれからだ。ウェハーを運ぶための容器が必要になる。その容器を作るのが大変な技術なのだ。それを作っているのが(株)ミライアルという会社である。

同社は、大変に利益率の高い会社である。数字の羅列になって恐縮だが、ここ数年の売上高と経常利益の推移を見てみよう。
 
まず、2005年1月期。売上高73億5800万円に対して、経常利益23億5700万円(経常利益率32.0%)。2006年1月期、売上高88億2000万円、経常利益29億700万円(同33%)。2007年、売上高123億7600万円で、経常利益43億9700万円。なんと利益率35.5%である。そして2008年1月期は、売上、利益ともに更新し、売上高146億5500万円、経常利益50億4500万円となっている。経常利益率こそ前年度を若干下回ったものの、それでも34.4%という高率である。
 
シリコンウェハーは現在300ミリという大きなウェハーが主流になりつつあるが、その出荷容器として、ミライアル社製容器は実に60%のシェアを持っているというのだ。
 
この業績が今後どうなるのか。社長の兵部行遠はこう分析した。
「一つの容器にウェハーが22、23枚入る。現在300ミリのものが年間260万~270万枚出荷されているから、単純に22で割って、1万3000円台後半といわれる容器の単価をかけると規模は自ずと知ることができる。業界では5年後に600万枚と言われているので単純計算でも5年後には倍になります。でもね」そう言って、兵部は表情を引き締めた。「決して安穏とはしていられない」と言うのだ。
「半導体は利益が取れる時期がある。最初は高くても、そのうちバケツ一杯いくらという値段になるわけだから、容器もだんだんに価格を下げていかなければならない。それに設備投資して工場を作っても、監査にパスしなければ、その工場は稼動できない」ほど厳しいから、そう単純に喜んでもいられないのだそうだ。


リサイクルできるから採用された
 
しかしそれにしても、なぜ同社の容器はこのようなシェアを確保できたのか。これには少々説明が必要だ。
 
そもそも同社の競合は、信越ポリマーである。
「信越のよさは使いやすさにある。われわれのは使いにくい」とこともなげに兵部は言う。
 
ここに、ポイントがある。信越製の容器は使いやすくするために部品点数を減らし、容器の素材である樹脂と部品を一体成型しているというのだ。それに比して、同社製はすべてバラバラに分解できるようになっている。
 
ウェハー容器というのは納入するとウェハーメーカーの側でもう一度徹底して洗浄を行なう。少しでも汚れなどがあるとウェハーが駄目になるから慎重なのだ。この洗浄の際、一体成型してあると扱いやすく洗いやすい。ミライアル製は分解して洗うので、手間がかかるのだ。
 
それでも、なぜ、使われるのか。それはリサイクルの際に効いてくるからだ。この容器は、ウェハーの品質を保持するために、一回しか使用しない。あとはリサイクルするのだが、一体成型のものはリサイクルしにくい。ミライアル製は部品をばらせるので簡単にリサイクルできるのだ。なにせ、この容器だけで年間5000トンもの原材料を使用しているため、その費用とてバカにならず、したがって同社製の容器は人気が高い。
 
それに加えて、もう一つ見逃せない品質のポイントがある。半導体業界では世界的なスタンダードを作るために、1994年頃からスタンダード会議を各分野ごとに行なっているが、容器の分野でその基準を達成しているのは、日本の2社だけなのである。そもそもが世界的な競争力を持っているのだ。
「そのためには、さまざまなテストを繰り返しました。飛行機で運ぶ際の気圧の変化に耐えられるか。トラックでアメリカの砂漠を通る際の温度変化に耐えられるか。あるいは落とした際の衝撃には?(兵部)」
 
これらをすべて実験して出来上がった製品だから付加価値が高いのだ。


他社が真似できないローテク
 
そもそも、同社はなぜこのような特殊な分野に参入できたのか。同社の設立は1968年。当時同社が製造していたのは絶縁材料だった。それも電気特性が良く耐熱性の高いフッ素樹脂を使っていた。顧客は電機メーカー。その顧客が半導体を作り始めたと同時に、同社にも依頼が入った。工場内で使う半導体容器を作って欲しいと。シリコンウェハーというのは製造過程で硝酸、燐酸、硫酸など多くの強烈な薬品を使う。これに耐えうるという意味でフッ素樹脂が着目され、同社に依頼が入ったのだ。
 
このように書くと、たまたま波に乗っただけの企業のようにも見えるが、決してそれだけではない。
「一番のポイントになったのはスタンダード会議。ここで積極的に世界の大メーカーと議論を交わしたことが良かった。もともと日本が強い分野だったが、インテルともテキサスインスツルメンツとも議論ができた(兵部)」ことが幸いしたというが、そのために、同社は米国にサテライトオフィスを作って情報収集を重ねるなど、積極的な活動を続けていたのだ。
「うちはローテク。他の企業も真似しようがないし、そんなリスクは取れないでしょう」というのが同社の最大の強みかもしれない。 
 
シリコンサイクルという言葉は昔のものになりつつある。多様な分野に半導体が使われているので、分野ごとに波はあっても、平均するとフラットになりつつあるのだそうだ。こうなると、同社のように容器専業メーカーは強い。いつもニーズが存在しているのだから。
 
ただし、ニーズが高まるというのは、設備投資が必要だし、工場を動かすと昼夜作り続けなければならない。また、不具合が起きると、信頼性が必要な分野だけに、工場閉鎖にも繋がりかねないリスクがある。それさえ、万全なら同社の今後は安泰だ。

(2008・4・9)

【第17回】勢いで始めた会社を業界大手企業に成長させた「アイディア」と「緻密な戦略」

株式会社 テー・オー・ダブリュー

会社名はトップ・オブ・ザ・ワールド !?
 
大手家電量販店の店頭─。冬だというのに浴衣を着た女の子たちが道行く人に「クイズに参加して」と呼びかけている。この奇抜さに惹かれて通行人は中に入っていく。そこには大手パソコンメーカーの新商品を説明する人間がいる...。

この種のミニイベントは、今では街頭のあちこちで見られる風景だ。勢い、アイディア勝負となる。逆に言えば、請け負う側に立つと、知恵をどれだけ出せるかで仕事を取れるかどうかが決まる。これがイベント業界である。
このイベント業界の草分け的存在が(株)テー・オー・ダブリューである。
 
もちろん同社はミニイベントばかりやっている会社ではない。長野冬季オリンピックや2002FIFAワールドカップなども手掛けた業界大手企業である。2000年にはジャスダック市場に上場を果たした。
 
この会社の成り立ちが面白い。同社の設立の基になったのは1974年。当時慶応大学の学生だった現社長の川村治は「ミス・キャンパスコンテスト」を開催した。当時、公の場で女子大生が水着姿になったということで、社会的な注目を集めたのである。これが大成功した。そして、2年後の1976年、川村らは会社を設立する。それが有限会社テー・オー・ダブリューである。
 
それにしても変な社名だが、これにもいわく因縁がある。イベント会社設立のために喫茶店で準備していたとき、社名をどうするかで悩んだ。その時、背後で流れていた当時のヒット曲、カーペンターズの「トップ・オブ・ザ・ワールド」にふと耳を留めた川村がこう言った。
「頭文字をとって、TOW(Top of the World)にしよう」
 
しかし、登記しようとすると英文名の登記は認められておらず、仕方なくテー・オー・ダブリューにした。


弁当1食のコストにまで敏感になる
 
さて、素朴な疑問だが、イベント業はそんなに儲かるのか。これについて、川村は「利益は出る。しかもこれから伸びていく業種」と言い切る。
 
どういうことか。例えば、予算1000万円のパーティーがあったとする。その時クライアントはどういう効果が欲しいのか。それによって飲食に800万円、演出に200万円でもできるし、効果さえ出れば、飲食500万円、演出100万円でも可能だ。アイディア勝負の所以である。同社の企画部門は11人で「年間2000本の企画を作っている(川村)」と言う。
 
川村は説明する際によく数字を用いる。だからというわけではないが、同社のコスト意識は半端ではない。また、コストを構成する会場の情報なども大変緻密に考えている。
 
例えば、立食パーティーでも会場の規模と客の人数で出すものが変わる。1000�の会場でお客が1000人なら1人1�。立錐の余地がない政治家のパーティーのようなケースだ。この場合、食事より飲み物が中心となり、手でとる簡単な料理が付く。
ところが実際のパーティーとなると手にとるタイプの軽食はあまりはけない。従って出す量をセーブできる。逆に1人で3~4�スペースがある場合は、食事を出さないとダメ、といった具合だ。
「入社6、7年目の人間ともなれば、東京、大阪の主だったホテルの宴会場についてはスペースから使える電力量までほとんど頭に入っている(川村)」し、それを元に企画を立てる。
2002年ワールドカップの時には、幼稚園児、小学生併せて6000人が参加した。
「その時の弁当は親の数も考慮して12000食。コストが100円違えば、120万円ぶれる(川村)」から、どういう中身にするか、どういう質にするか、十分に吟味した。
 
質を落としてクライアントが期待している効果を落とすのは論外だが、綿密な計算があれば充分に利益を出していけるのだ。


イベント広告に風が向いてきた
 
この業界が伸びている要因として、川村はクライアントの変化をあげた。
「企業が作る商品が、例えばデジタル化の進展によって説明を要するものが多くなってきた。テレビや新聞のイメージに訴えだけの広告ではわかりにくい。そこで情報型の広告やミニ展示会などで、実際に触れ合うことで理解してもらうケースが増えた」と川村は語る。冒頭の「冬に浴衣」はそのいい例だ。
 
その上、効果を追求する傾向が高まり、従来は「総予算10億円」といった総額で予算を提示していたが、今では、広告はA社とB社。プロモーションはC社とD社という具合にあらかじめ発注先を選別して、その分野に強い会社に発注が来るようになってきた。これも得意なアイディア勝負にもちこめる理由だ。年間2000本の企画が生きてくる構図なのだ。
 
そう考えると冒頭のエピソードにも、背景には様々な広告業界の動きがあることがわかる。メーカーは実は当初、TVにスポット広告を出していたが、売れないとなるや今度は店頭でのイベントに切り替えた。つまり店頭でのミニイベントであったというわけだ。企業も四半期ごとに決算を開示するようになり、動きが素早くなってきたことが分かる。


創業時はリヤカーに雑誌を乗せて書店を回った
 
同社は、当初から上記のようにコストに緻密であったり、分析をした上でイベント事業に取り組んでいたわけではない。社名の由来でも書いたように「アルバイトの延長のようにして始めた(川村)」会社である。そんなに簡単に上手くいくわけがない。
 
だから「30歳頃までは転職雑誌を見ながら仕事をしていた」と川村は述懐する。当時、神田のとあるビルの一室で、電気代も払えず苦悶していた彼らは、やはり隣の部屋のベンチャー企業「ぴあ」の矢内社長に「それじゃあ、ぴあを売ってこいよ」と言われ、リアカーに雑誌を乗せ、書店を回ったこともあったという。
 
その彼らから学生気分が抜けたのが20年ほど前。企業として本気になったのが12年前。その時上場を決意した。
「2000年に上場しよう。売上高60億円、経常利益5億円、社員数は70人」と。社員数は売上と利益の規模から逆算して決めた。それまで博報堂と一社取引だったのを、電通など他の代理店にも企画を出し、いろいろな作業をシステム化していった。その結果、予定通り2000年に上場を果たす。売上高59億円、経常利益5億8000万円、社員数もほぼ70人と予定を上回る実績だった。
 
ところで同社は、少し前から中期事業計画の策定をやめた。
「目標数字は大切だが、一方でコストを下げることに注力しすぎると、雑になる(川村)」のを懸念したからだ。IRではアナリストから批判もあるが、実をとっていくのが川村の考え方だ。
 
効果に敏感でもある。こんな事を川村は言った。
「今の時代に、5大紙に同じ全面広告を打つなんてあり得ない。日経と朝日と読売とでは明らかに読者層が違う」。
 
あり得ないことをしている会社が存在している分、同社のチャンスはさらに膨らむことになる。2001年に同社が開講した「イベントプランナーズスクール」も実質的だ。企画マンを養成し、その人を人材として採用していくのだから。
 
その同社が、上場から7年後の現在売上高130億7000万円、経常利益10億5100万円をあげ(19年6月期)、「6年後に300億円」を目指すと言う。随分控えめな目標のような気がする。

(2008・4・1)

【第16回】紆余曲折を乗り越えたインターネット老舗企業の実力

株式会社インターネットイニシアティブ

インターネットは儲からないと言われ続けた
 
紆余曲折の見本、と同時に大変魅力的な会社であるのが(株)インターネットイニシアティブ(略称:IIJ)だ。2005年12月には東証マザーズに上場し、翌2006年12月には東証1部に上場を果たす。専用回線によるインターネット接続事業を柱にする同社はインターネット業界では老舗として有名な存在。日本での黎明期に会社を立ち上げ、優れたエンジニアを集め、常に業界のリード役を担ってきた。技術の先進性という点では、日本の代表格といえるほど定評がある。その会社がなぜ、紆余曲折を経たか。そこに日本特有のいろいろな課題が見え隠れするようで非常に興味深いのだ。

社長の鈴木幸一は「会社をやってきて、半分以上いい思いはなかった」と、率直すぎるほど率直に語る。
 
会社設立は92年12月。バブル経済が崩壊した直後であり、当時の郵政省(現総務省)はインターネットに、はなはだ懐疑的だった。郵政省に国際特別二種という枠で通信事業者の認可を得ようとしたが、その認可が下りないから事業がスタートできない。しかも、大手企業に行くとインターネットなんて使い物にならないと言われた。
「アメリカではこんなに進んでいるのだから、絶対に日本でも普及すると信じた(鈴木)」が、1年半もその状態が続くと、社員も「もうダメなんじゃないか」と思い始めた。鈴木は「打倒NTT!」と、大きくぶち上げるが、現実はあまりに厳しかった。
 
しかし、何とか食いつないだ。同社主催のセミナーを開催し、「カネが入ると、それをみんなで分配して給料の代わりにした(鈴木)」こともあった。
 
面白いのは、それでも人が辞めていかなかったことだ。なぜ、との問いに鈴木は「うーん、独身者が多かったしね。大体自宅から通勤できるというと採用するとかね」とはぐらかすように答えた。この話は後に譲ろう。


米ナスダック上場から一転、子会社が破綻
 
そんな中、郵政省も条件付で認可する方向に向いた。3年間無収入でも事業が継続できる資本があれば認可すると。鈴木は必死でカネを集めた。94年2月のことだった。
 
売上は徐々に伸びていき、その94年度は10億円、95年度は40億円、翌96年度は80億円とまさに倍々ゲームで成長していった。
 
鈴木は、インターネットがさらに拡大していくためには「NTTが参入すべき」と持論を展開し、業界の顰蹙を買ったが、実際にNTTが96年に参入し、業界はさらに成長の速度を早めた。
 
こうした波に乗り、IIJは、99年に米ナスダック市場に上場を果たした。
「NTTとの競争もあるし、やはりインターネットの本場アメリカに上場したいと考えたんですね」と鈴木は述懐する。当時の売上が130億円くらいで、「欧米から70億~80億円は調達できましたから、それなりに評価されていた」といえる。
 
これで順風満帆のはずだった。ところが、である。ナスダック上場の前年に作った子会社クロスウェイブが今度は足を引っ張った。
 
クロスウェイブとは日本発のデータ通信専用の通信会社だった。インフラ会社などはNTTに任せておけばいいのにと素人は考える。しかし、鈴木の考えは違った。
「自分たちでインフラを作る。しかもNTTより技術の高いところがやらないと競争にならないから(鈴木)」
 
クロスウェイブ設立は自分たちの技術を信じた、その自負から生まれたものだった。トヨタとソニーから出資を仰いで万全の体制のはずだったが、結果は失敗に終わる。
「結果としては早すぎたかもしれないと言われた(鈴木)」が慰めにもならなかった。悪いことは重なるもので、これに、ITバブルの崩壊が重なったのだ。環境は最悪、そしてIIJは赤字に陥った。
 
クロスウェイブは2003年8月に会社更生法を申請し、本社の経営を資金面で圧迫した。やむなくIIJは第三者割当増資を行ない、9月にはNTTグループが筆頭株主となった。クロスウェイブの事業はNTTコミュニケーションズに営業譲渡した。


売上高1000億円が視野に入った
 
しかしこれを契機に同社は体質改善がはかられ、骨太さを増していったのも事実だ。例えば、技術者優先の文化でマーケティングが弱い社風が一変した。
「エンジニアも営業の中で働くようになり、2003年度下期からは黒字に転換した」と鈴木が言うように、その後、現在まで増収増益を続けている。2007年3月期は売上高570億5500万円(前期498億1300万円)、営業利益35億円(同24億1100万円)を挙げた。前期が過去最高益だったので、今期はさらにそれを更新したことになる。
 
では同社の体制に死角はないのか。例えば、この業界は常に価格の下落と対峙している。それだけに利益水準がいずれ落ちることはないのか。あるいはインターネットそのものの普及がかなり浸透しており、市場に成熟感はないのか。
「日本は今でさえ、メインフレームへの投資が50%以上の国です。そもそもインターネットのカルチャーがない国だから、チャンスは大きい」と鈴木は主張する。例えば、同社の柱になってきたシステムインテグレーション事業にしても「インターネットベースのシステムインテグレーションというのは、まだ少ないから(市場は)非常に大きい(鈴木)」
 
こうした鈴木の自信の背景となっているのは、同社の技術力の高さなのだろう。
「うちは売れる商品の開発もやっています。そういう商品が世に出つつある」と鈴木は顔をほころばせる。苦労したものが報われてきたというのだ。
 
同社はこの4~5年の成長率を毎年10~15%と置いている。もし15%でそれを実現するとなると売上でほぼ1000億円の企業になる。
ところで、鈴木はよく「技術」という言葉を口にする。
「日本でインターネットが始まった頃の初期のエンジニアが残っている唯一の会社(鈴木)」だということが同社の誇りであることは間違いない。そして、スペシャリストたちをして「仕事が面白い」という環境を作り続け、そして若い人を教育し鍛えていったのが、文系出身で日本能率協会からこの会社の設立に転じた鈴木の役割だった。会社発足当初の絶望的な時期になぜスペシャリストたちが辞めなかったのも、そういう場を提供した鈴木あってこそだったのだろう。
「しょっちゅう喧嘩をしたし、よく飲んだ(鈴木)」という鈴木の泰然自若とした大らかな性格がこの会社を現在に導いたといったら言い過ぎだろうか。

(2008・3・25)

【第15回】僅か4年で1500億円に成長させた物流会社の愚直なM&A戦略

SBSホールディングス株式会社

有名会社を次々に買収
 
会社が大きくなるために、近年、M&Aほど多用されている手法はない。だが、そのイメージはともすればマイナスに働く。曰く「乗っ取り」、曰く「マネーゲーム」。実際にそう言われても仕方のないM&Aもある。

ところが実直なM&Aで業容を拡大している会社がある。それがSBSホールディングス(株)だ。物流業界で注目度の高い会社である。 近年、「物流」はあらゆる企業で注目せざるを得ない分野となった。なぜならIT化社会が進み、情報が瞬時に流通するようになればなるほど、実際の物の動きとその効率性の重要度が一層高まってきたからだ。この世界は競争が激しいことでも有名だが、その中で同社は4年少し前の2003年12月にジャスダックに上場した。当時の業績は売上高193億5900万円、経常利益3億6700万円だったのが、昨期は売上高1470億9800万円、経常利益79億200万円となっている。相当の急成長と言っていいだろう。
 
だが、エスビーエスという社名を聞いてもほとんどの人はピンとこない。でも、こう言えばどうだろう。この2年間で雪印乳業の物流子会社雪印物流(現フーズレック)を買収した。東急グループの物流子会社東急ロジスティック(現ティーエルロジコム)、引越センターのダック(07年10月にアートコーポレーションに売却)などを買収し傘下に収めた、と。
 
業績拡大の原動力になっているのは、冒頭の買収であることは間違いない。こう書くとやはり「カネの論理ではないか」と考える人はいるだろう。そうでなくとも、こうした労働集約的産業で規模を大きくして合理化できるような戦略は組めるのだろうかと、素朴に考えてしまう。
 
一連のM&Aについて、同社社長の鎌田正彦はこう語る。 「この業界は資本の大きいところが強い。そうでないとどうしても下請け、孫請けなどの存在になってしまう。規模が小さいと大きな仕事ができず、また赤字にも耐えられないのです」  全国に6万社ともいわれる物流業界は大手が支配的に小さな会社を使っていく構造がある。小さな会社が大きくなろうとしても、大きな仕事がなかなか取れない。そうなると下請けに甘んじざるを得ない、というのが鎌田のいう構造論だ。それから脱却するためには買収して大きくなるしかない...。
「うちは小さな力を結集して、大きなところと競っていく存在になりたい(鎌田)」
 
そのための買収なのだ。


何でもできる物流会社を目指す
 
だからというわけではないが、買収自体は派手に見えても、その過程では常に相手が納得できるように交渉するのだという。雪印の場合は、「大事な子会社なのだから雇用を守ってくれるか、すぐに売却したりしないか」という相手の問いに、「われわれは本業が物流。業務を改善して、最終的には雪印の物流コストを下げる」と愚直に答えた。
 
入札では投資ファンドとの争いになるケースが多いが、あくまで、自社の立場を崩さず理解を促すやり方に、売る側も納得させられる。
 
実際に、傘下に収めた会社の経営の融合は、気を遣いすぎるほど慎重に進めている。雇用を守り、人を送り込まず、そのままの体制で経営させる。融合のために自ら出かけて行き、役員や幹部と会議を行なう。決して高圧的に押しつけない。時には酒を酌み交わす。
 
もちろんそれだけではない。買収の効果を出すための計画も着々と立てている。まず6000台にもなったトラックをGPSでつなぐ。配送の空きをなくすための手法である。これでトラックの稼働率を2割上げる。物流倉庫も1つの大きな倉庫に集約する。こうして、大手物流会社と対抗していくというのだ。
 
エスビーエスの買収戦略は、実は物流を起点とした総合的なアウトソーシング業の構築のためである。
「何でもできる物流会社を標榜している(鎌田)」という言葉通り、メーカーがお客なら、作ることだけに特化してもらい、他はすべて引き受ける。物流のみならず、人材供給も、マーケティングも行なう。買収がその戦略を可能にさせる。
 
例えば、会社の引っ越しがあれば、当然社員の引っ越しも付いてくる。断らない会社だから、引っ越しも大きく事業として取り込む。
 
だから、メール便の会社もあれば、マーケティングサービスの会社もシステム構築の会社も物流コンサルティングの会社も持つ。参加の物流会社にも食品輸送から、一般輸送まで専門子会社群が列をなしている。


小さな会社の集合体で大手の牙城を崩す
 
鎌田が事業を始めたのは、大手運送会社にいたときの経験が元になっている。「その会社は、A地点からB地点までを届ける会社だった。だから、いろいろな仕事を断っていた(鎌田)」というのだ。だから、「断らない会社をやろう(鎌田)」とした。
 
物流を起点とした総合的なアウトソーシング業というのはそこに端を発しているのだ。
 
もちろん、こうした戦略が本当に機能するのか、という疑問は常にある。しかし、鎌田は専門分野の事業それぞれを、その分野のトップクラスに持っていくことで、それぞれが独立した強みを発揮し、その集合体として総合的に強みを破棄できるようにしようとしているのだ。
 
だから、鎌田にはそれがうまく機能するイメージしかない。いや、うまく機能させるために傘下の会社を飛び回って「融合」を図っているのだろう。
 
エスビーエスの目標は4~5年後に売上3000億円、利益で3~5%(90~150億円)の規模になることだ。そうすると業界で6~7位の規模になる。それが実現すると、鎌田の構想通り、小さな会社の集合体で大手の牙城を崩すことになる。
 
同社が順風満帆であることは分かる。しかし、「12、3年前まではいつ潰れてもおかしくないような会社だった(鎌田)」。実際、潰れそうになったことが3回ある。それを持ち前の粘り腰で回避してきた。その12年前、ある経営者向けの塾に入り、周りの経営者たちが上場を目指しているのを知って驚いた。講師はベンチャー経営者の先達ばかり。その時に「俺もできるんじゃないか」と初めて上場を意識したという。余談だが、その塾の講師にはワンマンで知られた経営者もいた。しかしその会社はその後おかしくなっていく。鎌田が買収した企業との融和を高圧的ではなく、一生懸命粘り強く行なうのは、そんな経験がベースにあるからかもしれない。粘り腰だけではない。頭の良い経営者でもある。

(2008・3・18)

【第14回】後発のアパレル会社を一部上場にした社長の「理論」と社員の「感性」

株式会社 パル

「理論」と「システム」で高成長
 
世の中に理論好きの経営者はたくさん存在するが、ファッションの分野で異彩を放つ理論家と言えば、株式会社パルの社長である井上英隆をおいて他にない。流行にはそれ自体サイクルがあり、流行の権化のようなアパレルの分野ではそれを活用していくことこそ成功の道と説く。しかも、その理論に基づいてヒットを生み出すシステムを作っていけばいい。その両輪があれば、事業は成功すると説く。

そんなに簡単にいくものだろうかとつい考えてしまうが、この人の理論には説得力がある。なぜなら実績を上げているからだ。それでなければ生き馬の目を抜くような業界で後発も後発からスタートし、一部上場にまで上り詰めはしないだろう。その理論とシステムはどんなものかという前に、同社の中身について触れておこう。
 
同社の商品ターゲットは、若い層である。ところがこの世代ほど多種多様な好みをもち、しかも移り気な層はない。高いファッションセンスを持ったファッションリーダー、それを追うトレンドフォロワー。奇抜なストリート型ファッションを好む人もいれば、流行に左右されるのを好まない人もブランド大好きな人も。同社はこうした若い層をターゲットに30ものブランドを展開しているのである。
 
2000年にJASDAQ上場、2006年8月には東証1部に昇格した。
 
売上高は05年2月期の305億1400万円から翌07年2月期は554億4500万円に上昇、経常利益も20億2800万円から52億2100万円(いずれも連結ベース)へと急成長がはっきりと窺える。
 
ヤングの購買意欲はデフレ不況下でもさほど減退しなかったとはいえ、この会社のどこに成長の源泉があったのか。それこそが、井上が標榜する「理論」と「システム」なのである。


ファッションは12年サイクルで動く
 
井上はおよそ20年ほど前に、ファッションには一つのサイクルがあると考えた。そのサイクルは12年で一巡する。この理論を元に井上が作ったのが「パルマップ」というものだ。
この12年サイクルとはどんなものか、どうやって作ったのか。
「コンサバが流行ると次にはエレガントへと流れ、ユニセックスへと移行しドレスダウンへと向かう。それが大体12年のサイクルで一巡してくる」と井上は説明する。つまり、時代の流れによってファッションも変遷するわけだから、必ずAという傾向のファッションの次にはBという傾向のものが生まれ、それはさらにCやDへと移っていく。金利が上昇すると貯蓄が増え、設備投資は控えめになるが、金利が下がるとその逆になる。といった景気の循環と同じ考え方である。
 
これを知るために、井上は戦後の220~230ものブランドを一つの表に時系列に置いていき、そのライフサイクルがどのように推移していったかを一つひとつ検証したのだという。
「ただ重要なのはそれがスパイラルで進んでいることです。一時代前のコンサバと次のコンサバでは微妙に違う、そこが重要(井上)」だからこそ、そこに感性が必要になってくる。


おもろい奴かどうかが採用の基準
 
そこで重要なのが、その理論を具現化するシステムということになる。
「ヤングのファッションは流れが速い。この流れを敏感に感じ取って商品化していくシステムがあればいい」と考えた井上は、面白い提案制度を編み出した。
「お客さんと同世代で、感性の優れた人間に次はこれだ!という提案をさせるんです。ウチには『拝啓社長殿』という提案制度があって、社員はもちろんアルバイトやパートでも提案できる。今から流行るモノを今提案しても遅い。次はこれだ!というモノを提案の中からピックアップし、その提案者にマーチャンダイザーをつけて商品開発をしていくんです(井上)」
 
実際、アルバイトが提案したあるブランドは、一時期、同社の売上の半分を占めたほどである。こうしたシステムの下、毎年50~60の提案があり、その中から、3~4つを選ぶ。社長が見てゼネラルマーチャンダイザー(GM)が見て、事業部長に担当させていく。
「元々後発だったので、トレンディでないと伸びていかない(井上)」から、採った方策なのだそうだ。
 
しかしここでもう一つ重要な点に気付く。ではそんな感性の優れた人をどうやって採用するのか、である。
 
同社の採用は極めてユニークだ。毎年、ネットで6500人もの応募がある。来るのは4500人程度。出身校も成績も関係なし。書類審査もなし。来た人はすべて面接する。採用基準はただ一つ。「おもろい奴」かどうか。だからリクルートスーツで来た人間などもちろんダメ。一次面接が大変だ。東京で2回、大阪で3回。一人当り5分程度。ここではむしろ面接官の感性が試される。社長も参加して人物をじっくり見ていくのは三次、四次の面接からだ。


地方都市にも販路を広げて売上高1000億円達成
 
このシステムを語るには、もう一つ重要なポイントがある。それは、こうしたシステムの下では自社で商品の企画開発から製造、販売までを一貫して行なっていく場合にのみ、最大の強みが発揮できるということだ。
 
ファッション業界では、この企画・製造・販売を一貫して行なうことをSPAと呼んでいる。同社がこのSPAに取り組んだのは17年前。本格的に始めたのは97年からである。
 
JASDAQ上場時はSPA化率35%程度だったのが、現在は70%以上。
「すべて仕入れて売るだけの小売りの時は荒利42、43%で経費が38、39%だった(井上)」というから経常利益率は4、5%。だが、今は10%近くある。
 
現在、実行中の3カ年中期計画では、「売上高700億円。その後、第二次3カ年計画を達成すると売上1000億円で経常利益130億円(井上)」になる予定である。
 
そのための課題は一つ。販路の多様化である。同社は直営で店舗展開を行なっているが、現在は大都市圏中心。
「これを30万~50万都市にも拡げたい。百貨店にも入れるし、その時には量販系のファッションも作っていかなければ」との思いが井上にはある。これを実現させれば、名実共に業界の一翼を担う存在となる。
 
ところで、パルの経営理念は「みんなの幸せのために」というものだ。漠然としているようにも思えるが、この理念には命がかかっている。実は、社長の井上は16年前に頸椎軟骨症という大病を患っている。大手術をしなければならず、それまでの2週間は悪い方へ悪い方へと物事を考えていったという。
 
医者に手術の失敗の確率を尋ねると「飛行機が落ちるくらいの確率」と答える。それでは安心できず「でも最近、飛行機はよく落ちるでしょう」と医者に返すと、医者も「そうやな」と言った。
 
漫才のようだが、そこで井上は俺の人生は何だったのかと自らに問い直した。考えついたのが「みんなの幸せのために」という経営理念だった。
「それから会社が変わりました」と言う井上の笑顔は、爽やかそのものである。

(2008・3・11)

【第13回】青臭いほどに社会正義を貫き通して高成長、転職サイト会社の底知れぬ真っ当さ

エン・ジャパン株式会社

「転職は慎重に」と訴えて7年で30倍以上の高成長

「事業というのはそれ自体が社会貢献です。しかしウチはそれだけじゃだめだと言っている。その事業に社会正義性がないといけない。だからその条件を満たす事業しかしない」 こう語るのは、転職サイト大手、エン・ジャパン社長の越智通勝である。エン・ジャパンという会社はテレビCMなどでご存知の方も多いだろう。爆笑問題が出演し、コントの後、「転職は慎重に」とメッセージが流れる。

数多ある求人情報の広告の中でも異彩を放っている広告である。転職を勧めるのが転職会社の広告だろうに、「慎重に」はないだろう、と凡人はつい思ってしまいがちだ。しかし、社長の越智の考えは違う。
「この業界はひどい企業が多い。だから大きくなってはいけない。大きくなると企業を困らせる」と言う。例えば、35歳までの人材を求めている企業に、それでは人が集まらないからと40歳まで範囲を広げるように言う。その結果、人は集まり、人事部長は面目が立つかもしれないが、集まった人材の質は求めているものとは明らかに違う。
「だからわれわれは求職者の立場に立たなければならない(越智)」
 
詳しくは後述するが、その一つのメッセージが「転職は慎重に」なのだ。
実際、転職市場は大変な勢いで伸びてきた。景気の上昇もあったが、それ以上に七五三と言って、入社3年で中卒者の7割、高卒者の5割、そして大卒者の3割(3.5割とも言われる)が退社するという、昔では考えられないような状況が現出している。
 
転職市場が活気付くのも当然だ。しかもこの市場では、以前は『ビーイング』などの分厚い紙の情報誌が主流だったが、近年はインターネットを利用した転職情報に急展開してきた。
「リクルートですら紙とネットの比率を大幅に変えた(越智)」
インターネット専業の同社は、ここ数年急成長を遂げている。
 
同社が設立された2000年の売上高は6億2000万円で経常利益が2億4900万円。以来増収増益を続けており、翌2001年にはナスダックジャパン(現ヘラクレス)市場に上場。2007年度の業績は売上高226億8600万円、経常利益75億7300万円だから7年で売上高は36.6倍、経常利益は30.4倍の急成長を示したことになる。


広告主のいい面も悪い面も正直に掲載する
 
エン・ジャパンはそもそも日本ブレーンセンター(株)という会社の一部門として出発した。日本ブレーンセンターは1983年に越智が創業した会社だが、実はリクルートの代理店だった。それがなぜ、リクルートと競合関係になるまでに至ったのか。越智はこう答えた。
「リクルートは代理店と同時に直接営業もやっている。当然バッティングも出る。優良な顧客でぶつかると彼らは何と値下げをしてきた。代理店に依存しながら、一方で代理店つぶしのようなことをやる、そんな体質に我慢ができなくなった」
 
そこからリクルート離れを考えた越智は、伸びつつあるネット市場に注目する。
「今からならこの分野でトップになれるかもしれない(越智)」と考えた。
 
日本ブレーンセンターに転職情報サイト「縁」エンプロイメントネットを開始したのが95年。そこから分離独立してエン・ジャパンを設立したのが2000年というわけだ。
 
しかし、それにしても疑問はある。なぜ数多ある求人・転職サイトの中で毎年常に高成長を遂げていけたのか。ネットがコスト安で済むといっても、なぜこんな利益率を維持していけるのか。経常利益率は毎年30~40%を示しているのである。
 
その答えの一つが同社のうたい文句にもなった「転職は慎重に」という言葉である。本当に慎重な転職を勧め、そのためさまざまな手を打ったのである。

 
エン・ジャパンのサイトをよく見ると、まず求人企業の紹介が通り一遍ではない。いわゆる募集要項以外に会社の雰囲気を伝える様々な工夫がなされている。取材者の印象などという第三者的視点の記事もある。写真はおろか、動画まで付いている。
「ウチは一言でいうと取材をするということです。その企業のいい面だけでなく、全てを正直に取り上げる(越智)」
 
まるで、硬派ジャーナリズムのようだが、越智はどこまでも本気である。しかし転職がミスマッチに終わらないように、正直にその企業の情報を提供するというのは、理屈ではわかるが、企業の反発もあるのではないか。
「結果として応募が増え、定着率が高まるのなら企業はまたウチを使うようになってくれる」と越智はその疑問に答えた。最近では求職者の満足度を調査するし、企業に転職した人間がどれだけ活躍しているかをもフォローするという徹底ぶりである。
 
それにしても動画も含めて、それだけ細かく情報を提供するとなると、制作コストも並大抵ではないはずだ。一方、利益率は相当高い。なぜか。
「他が4人体制(営業、ディレクター、コピーライター、カメラマン)で作るところをうちは2人で作る。営業とコピーライターで写真も動画も撮る。その結果、コストは他社の半分以下です。創業当初からそうしているから個々のレベルも否応なく上がる(越智)」
 
そういう風土ができているのだと、越智は強調する。


ヤフー、リクルート連合の戦争にも勝利
 
このように話を展開すると、エン・ジャパンは